西荻窪の壱年茶虎


JR中央線で快速電車が止まらない西荻窪。不便な分だけマイペースで個性的だけど美味しい飲食店が少なくないこの街に、ちょっと魅力的な中国料理の店があります。駅北口から歩いて5分ほどの場所にあったバルの店舗を、今年一年限定で間借営業しているのが、今回ご紹介する中国武蔵野地方料理店「壱年茶虎」です。


ここを知ったのは数年前「一日一組限定完全予約制で、今まで食べたことのない中華料理を出す店が三鷹にあるらしい。」という、去年まで店主が自宅で営んでいた中華料理店「虎茶屋」の噂からでした。何度か予約を取ろうと挑戦したもののその度にお断りされたこともあり、名前を少し変えての今年の営業を知った時は本当に嬉しい限りでした。

オーナー料理人は音楽家の倉林哲也さん。チェロで弾き語りする他、バンド形態で自作曲を奏でたり、最近では井の頭公園を題材にした映画『PARKS パークス』で彼のオリジナル曲がオープニングに使用されました。ペンギンカフェ・オーケストラが好きな彼らしい、美しくゆったりとした気分にさせてくれる音楽は、ご本人のちょっととぼけたキャラクターと相まってさらに愛らしく聴こえてきます。

そんな倉林さんに「なぜ中華料理を始めたのか?」質問したのですが、モゴモゴとしてはっきりした答えは貰えず。音楽の方が先で、中華料理はただ作っていくうちにどんどんはまって行ったとのこと。しかし実際に料理を食べてみると、彼の中華料理人としての造詣の深さと確かな才能に驚かされます。よく他でありがちなオイスターソース味やピリ辛味などの中華定番の味は出てきません。多量の油や濃い味付けに頼ることもなく、当日仕入れた新鮮な食材と、実際に中国に行って手に入れた味わったことのない調味料等を使いながら作る「中国武蔵野地方料理」と謳うオリジナル料理は、一皿ごとに違う味のバリエーションを満喫することができます。

ワインは厳選された美味しいヴァン・ナチュールが揃っており、とても魅力的な価格で提供してくれています。今年最初に伺った頃と比較してもワイン在庫の充実度は確実に増しています。ワインが好きで自身がセレクトを楽しんでいるのが分かるラインナップです。その他、独自に選んた地ビールと日本酒もお薦めです。またアルコールが苦手な方には、現地で入手した各種中国茶を様々な方法で飲ませてくれたりもします。

しかし残念なことに「壱年茶虎」は2017年12月25日までの営業となりました。毎回行くたびに次の予定を聞くのですが、本当に決まっていなのか?意地悪されているのか?いつも「まだ決まってません。。。」ととぼけられてしまいます。小さな店で席数も多くないので、当日の予約は取りづらいかもしれませんが、是非とも、彼と彼の料理に逢いに行ってみてください、ほっこりできます。


まず1本目はイタリアはリグーリア州の、皮ごと醗酵させた少し色の濃い白。見た目よりさっぱりとした、一本目に飲むには最適なワイン。


前菜三品
一人一皿に小分けしてもらっています。よく見ると三品でなく四品ありますね。右上から時計回りに、ナスのイワシ酒盗和え、チャーシューのツルムラサキのソース添え、かぼちゃ卯の花、やまえのきとニンニクの花和え物。全部食べたことのない味と取り合わせの妙。イワシの酒盗と、卯の花のミントが驚きのアクセントに。


秋鮭と舞茸腐乳蒸し
皮や骨を取り除いた厚みのある旬な鮭切り身に、腐乳のペーストを乗せて蒸したもの。クセのある腐乳ですが臭みは一切なく、発酵系だからかコクのある塩麹のようで美味。蒸して出た汁も楽しめるように、こちらも一人づつ小皿で蒸してサーヴしてくれました。


さんまの入った家常豆腐
自家製の厚揚げと季節の野菜を炒めて、旬のさんまを肝も含めてミンチ状にし合えた料理。見た目にその存在感は無いに等しいのですが、食べてみると口いっぱいに香ばしいさんまの旨味が広がります。


早くもワイン二本目に突入。最初から二本目で注文すると決めていた、MICHEL GAHIERのシャルドネ・レ・フォラス 2015。私たちがヴァン・ナチュールにはまったきっかけになった生産者のワイン。ボリューム感もあって熟した果実も感じさせながらキレも良く、後味はJURAっぽいバタースコッチかハチミツのような風味が鼻をくすぐります。


いかとセロリの炒め
いかの柔らかさとセロリのシャキシャキの食感の取り合わせが絶妙。はらわたを使ったソースが味に深みを与えています。


カツオと甘唐辛子の炒めもの
刺身で食べられるカツオをリクエスト(レア~ウエルダン)に合わせて蒸し器で熱を入れ、大ぶりの甘唐辛子とグレイビーっぽいソースで合わせた料理。通常中華では炒める前に素材を油通ししますが、この店では蒸し器を使って素材を蒸すことで自在に火を通します。おかげでどの料理も必要以上に油を摂取することなくさっぱりいただくことができます。


鳥レバーと韮炒め
ふわふわに柔らかい鳥のレバーと韮を、基本は醤油だと思うのですがその他謎の香辛料を使った見た目より深い味の炒め物。


酸湯砂鍋
野菜と鶏肉の入ったシンプルな鍋。酸辣湯とトムヤムクンを足して2で割ったような、食べたことがあるようで無い新鮮な味。レモングラスのような爽やかな香りと同時にキリッとした刺激が美味しかったので、この味は何なのか?質問すると、先月中国に行った際に手に入れた「貴州省の山胡椒」の味とのこと。そのまま食べても胡椒と言うよりは、レモンの香りのする花山椒のようなスパイスでした。


話も弾み、二本目のワインも空になってしまったので、ぬる燗で日本酒を。広島は竹鶴酒造の純米酒。簡単には手に入りづらい銘柄ですが、純米らしい米を感じる深い味わいは食事との相性も最高です。


日本酒を頼むついでに、わがままを言って酒のアテをお願いしました。
サツマイモの米麹和え、わさびの茎を6ヶ月間たまりに漬けたもの、キュウリを醤油と酢と少しだけの砂糖で味付けした漬物。ぱっと見に適当に見えてもそれぞれ実は凝っている。突然無理なお願いをしても、ささっと面白いものを出してくれるのが嬉しいです。


普段はマイペースで朴訥とした倉林さんですが、調理中はテキパキしています。笑

壱年茶虎
0422-77-6769

Cinema Discussion-21/黒沢清監督からの挑戦状『散歩する侵略者』

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第21回は、黒沢清監督の『散歩する侵略者』です。
第21回にして、初めての日本映画です。日本映画を扱う事は、前からやりたかったのですが、なかなかタイミング合う公開作品がなく、ようやく実現となりました。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★意識的に除外したわけではなかったけれど、これまでLCR CDで日本映画を取り上げる機会がありませんでした。現代の日本映画とはどんな関係をもっていますか?
それぞれの関係の中でこの『散歩する侵略者』に対してはどんな感想を持ちましたか?

川野正雄(以下M)個人的には、日本映画とは近い距離感があるので、なかなかフラットに語れる映画が無かったというのが、実際の所です。後はタイミングが合わなかったりとか。
黒沢清監督に関しては、昔サンダンスのジューンラボ(米ユタ州サンダンスで開催される脚本デベロップ合宿のようなシステム)に、『カリスマ』で参加された際にお会いしています。
その頃は2作目の『ドレミファ娘の血が騒ぐ』の印象しかなかったのですが、当時と比べると、ものすごくメジャーな存在になられたというのが実感です。

川口哲生(以下T):私は全く現代の日本映画についていってないし、コメントできる人間ではありませんね。
テーマとしてのある種の説教臭さを、エンターテイメントとして描くことに成功していたと思います。面白かったです。

名古屋靖(以下N):黒沢清監督の事は、今まではあまり一般向けでない映画を多く撮られているけど、日本映画界が期待するすごい才能をお持ちの方と聞いていたので、観る前から少しかまえてしまいましたが、観終わった感想は「普通に面白かった」です。

★その反応はどういう部分から引き出されましたか?

N:「思ってたより普通」だったので。
勝手にもっと変態、難解のイメージを持っていたので拍子抜けだったのもあります。
最初にWOWOWのロゴを目撃したせいでイメージがついてしまったのもあるのですが、『MOZU』シリーズなどと同じWOWOW独特のカラーが今回の映画にも感じられて、スタイリッシュなのですが、その迫力はTVと映画のちょうど中間くらいの緊張感でした。

M:『キュア』が当たり、すごく評価もされていましたが、まだまだインディペンデントな存在でしたが、その後どんどんスケールアップされ、『クリーピー 偽りの隣人』や、『散歩する侵略者』は、10億円以上を狙うメジャー作品になっていますから。
メジャー作品の中でも、しっかりと黒沢監督のカラーというものは反映されていたと思います。

T:暗喩としての「宇宙人の侵略」の扱い方。宇宙人とガイドの二組の関係性。大きなテーマを表現しつつ、これらがエンタテイメントとして映画を成立させていたと思います。

川口敦子以下(A):なんだかやな感じのコメントに響きそうで心配ですが、そういうつもりでいうのではなく、率直な感想として、「エンタテインメントとして成功」「メジャー」「普通に面白かった」というみなさんの反応がこの映画の目指す所をふまえて嚙みしめてみると、まずとても面白いと思いました。

★黒沢清監督は現代日本映画を牽引する作り手のひとりだと思いますが、これまで彼の映画に親しんできましたか? この一作に関して監督にどんな印象を持ちましたか?

M:元々の印象は、立教で蓮見重彦門下の論客的な映像作家というものでした。
最初に見た『ドレミファ娘の血が騒ぐ』は、あまり好きな作品ではありませんが、当時の師匠格であった伊丹十三さんが出演されたり、今や週刊文春の映画コラムをやっている洞口依子主演だったりと、見所はありました。
Vシネマ的な作品ですが『地獄の警備員』あたりから、今に通じる毒素みたいなエッセンスが強く出てきて、異彩を放っていたと思います。
そんな時期にサンダンスに派遣され、多分すごく良い経験になったのではないかと思います。
映画としてはサンダンスの後に監督したのが『キュア』で、そこで大ブレイクされましたから。
自分としてはサンダンスでデベロップした『カリスマ』や、『ドッペルベンガー』といった役所広司さんと組んだ作品の持つ毒素みたいな部分に、魅力を感じていました。
この作品は、そういった映画とは全く違う大作ですし、豪華キャストです。しかしながら当初から持っている毒素や、シニカルな視線といったものは、メジャーに飲みこまれることなく健在で、ちょっと嬉しくなりました。
黒沢流のメジャー作品への挑戦状のような作品と思いました。
ある種観客に媚びる部分が日本のメジャー作品には内包されることがありますが、そういう部分は極力排除したいのではないでしょうか。

A:前作『ダゲレオタイプの女』の時にフランスでフランスのスタッフ・キャストと撮った映画にヒッチコック的なもの、往年のハリウッドのジャンル映画と通じる”アメリカ映画”がまぎれこんでいるように見えるという点がスリリングで、その部分を監督に訊いたのですが、取材の最後に「本当によくできたアメリカ映画に代表されるある種のジャンル映画って愛とか死とかってそういうものがヒッチコックを持ち出すまでもなく、大げさなテーマというより人間のドラマを普通に考えていると当然、そこになるもの、大きなストーリーの中心として横たわっている。自分もそういう方にも辿りつきたいと思ってます」と述懐された。取材の時点で監督は『散歩する侵略者』を撮り終わってらしたんですが、振り返るとこの映画についてのコメントのようにも響いてくるんですね。

★宇宙人が地球にやってくる”侵略SF”ジャンルとして、ハリウッドの同ジャンルの映画(といってもいろいろな時代があるとは思いますが、その比較も含めて)と比べていかがですか?

A:英語版のプレス資料にある監督インタビューでは、この種のジャンルの無数にある先例の中から特定の作品を引用するのはよそうと決めたと語ってらっしゃいますね。ただ取り終えた後でジャーナリスト桜井と”侵略者”天野の場面に漂うものにはどこかジョン・カーペンター的なものがあると感じた、なぜかは定かでないのだがとも仰っています。カーペンターといえばハワード・ホークスをリスペクトする彼がホークス製作の”侵略SF”『遊星よりの物体X』(51)を『遊星からの物体X』(82)としてリメイクしてますね。でもそれを引用したというより男と男の友情とか、活劇の無駄口たたかぬ切れ味とか、そういう部分で結び目を感じますよね。
また黒沢監督は同じインタビューで、このジャンルが基本的には常にその時代の世界的な危機感と結ばれていたことをふまえつつ、何か心得違いのメッセージのようなものを発することは避けたいと意識していた。自分の映画で政治的なメッセージを込めたことはこれまでにもない、ただ意図しないところで映画作家の作品にはその政治的なスタンスが露呈するものだとは思っている――とも述懐されてます。その意味で、『トウキョウソナタ』とも通じる戦争、今そこにある危機感、それに対する監督のスタンスは強く感じられると思いました。

T:ステレオタイプの宇宙人の侵略でなく、宇宙人も自分たちと瓜二つであり、それらが集める人類の概念そのものが地球に対しての侵略者だというアイロニー。そしてまた侵略から地球を救うのもまた人類の持つ概念という、最終的な人間に対する肯定感、希望も感じました。

N:舞台で面白い本をどう映画にするか難しいですよね。画期的アイデアは、画期的な分初めて見る側に素早く理解させるのが難しい。映画の中での「概念」という言葉の使い方が僕には完全には理解納得できておらず、大事な所がモヤモヤしたまま終わってしまいました。 ただ監督のインタビューによれば、原作の舞台を見て「いつかこれを映画にしたい。」と思っていたとの事なので、映画としては違和感を感じる言葉でもそのままなのは、監督の原作に対するリスペクトなのでしょう。

M:最近だと『メッセージ』がありますね。そちらも好きな映画なんですが、比較するのは難しいですね。
そういったハリウッド映画との比較とか、そういう目線で語って欲しくない映画を、黒沢監督は目指したように思います。すごくオリジナリティがあると思います。
黒沢流メジャー映画というか、すごく挑戦している印象です。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★“宇宙人”の描き方に関しては?
M:松田龍平君につきますね。彼の演技力が、全てを包括していると思います。
それと長澤まさみさんの会社の場面が顕著ですが、身近な人が突然変異する恐怖感みたいなものは、すごく伝わってきました。

N:この宇宙人の設定も、舞台劇のセリフで出てくればとても魅力的ですが、映画にすると欲求不満は否めません。 SF映画としてのカタルシスを一つ分損しています。

A:質問とちょっと外れるかもしれませんが真治、天野、あきらという侵略者のそれぞれのあり方が複線の物語を紡いでいくという、これは原作の方法でもあるわけですが、その点と点の操り方が興味を持続させ、さらに映画になった時にそのスケールを全うさせていく、そういう描き方として面白かったです。あとたとえば『リアル~完全なる首長竜の日』の時、感じたことですが、CGの首長竜があっけなく出現する時、自然に「ウソ~」という言葉が口を突く、そうやって「ウソ」とスクリーンに向かって呟く瞬間、実のところ観客は映画が差し出すまざまざとした感触にもうまんまと巻き込まれているんですよね。あり得ない、でも――と、ただただまざまざとしぶとい現実感に支配されていく醍醐味を今回も冒頭から味わいました。

★人間の概念を奪うという部分、現代人を縛るそれらからの解放とみることもできそうですが、だとしたらちなみに何を奪われたいでしょう?

A:映画とその歴史に対する記憶――なんてね 笑

M:自分としては想像がつかないのですが、“欲”を奪われたら、楽になるのでしょうか。

T:時間ですかね。笑
ただ「いま」にいることができていませんね。

★気づいてみると日常を浸蝕している異常の描き方に関してはいかがですか?

N:監督が伝えたかった事がこの「気づいてみると日常を侵蝕している〇〇」なのでは。例えばトランプと北朝鮮。世界各地で続発するテロ行為。日本政府による憲法改正やテロ等準備罪成立や、その他いろいろな動きも含めて監督なりの平和ボケした我々への警告発信なんじゃないかと。

T:気づかないでのほほんと送っている日常が蝕まれ、ある日から戒厳令的な町やパニックと化した人々に移っていく。それでも危機感の欠如した人々にとっては冗談にしか思えない危機。日常と非日常の紙一重さ。宇宙人はそんな暗喩的ですね。名古屋君が言うようになにかきな臭い現状と重なりますね。

M:この映画はネタバレにならないように語らないといけないと思いますが、日常がいきなり奪われる恐怖をうまく描いていると思います。
光石研さんの役は、仕事から解放されて、楽になったようにも見えました。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★監督はカンヌでの会見の動画の中では「戦争に愛で対抗するという強くシンプルなメッセージが原作にあり、映画でもこれが伝われば」と語っていますが、伝わりましたか? 往年のハリウッドのジャンル映画をふまえた大きなテーマの黒沢的な消化法に関してどう見ますか?

M:混乱や乱世の中のプリミティヴな部分を、黒沢監督は描きたかったのではないでしょうか?
先ほども伝えましたが、従来のハリウッド的なSFやジャンルムービーとは、全く違うアプローチで侵略者を描きたかったのではないかとみています。

N:個人的には「〜に愛で対抗する」というメッセージに関しては、いかにも昔のハリウッド映画的で普遍的ではありますが、新鮮味にかけて今更かなと。ただ侵略者と牧師のシーンはちょっとだけ毒があって一番笑えました。

T:ジャンルムービー云々ではなくて、侵略する側とされる側の二組のストーリー、それぞれの気持ちの相手へのシンパシーへ変化していく様子が私は面白かった。異なる者間のシンパシーとして。愛についても、宗教ではなく一個人のレベルの愛であるところも監督の伝えたい所ではないでしょうか?

★俳優たちに関してはいかがでしたか?

M:松田龍平君も、長澤まさみさんも、役柄へのアプローチを相当練りこんだ感が強いです。
長谷川博巳君は、今や得意の役柄で、これはもっと違うアプローチを見たかった気がします。
彼の駅前で聴衆に語りかける場面は、とてもいい芝居でした。

T:松田龍平はとぼけた味出してましたね。

N:松田龍平は相変わらずよかったです。本人も得意なパターンだったんじゃないですかね。
長谷川博己の演技に関しては川野さんに同意です。

A:私は長谷川博巳、今までもひとつぴんとこなかった俳優なんですが、今回かつてなく好きだなと思いました。あと『モテキ』とか『海街diary』とかこのところぐんぐん魅力的になってきた長澤まさみもまた新たな領域を開拓していていいですね。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★どこでもないどこかという舞台の設定については?

N:原作が人気の舞台劇という事でそれを覆すのは難しかったとは思いますが、 「とある町」の設定は、「概念」という言葉の選び方もそうなのですが抽象的で、セリフが主役になる芝居的な発想で、ビジュアルが主役とも言える映画っぽくないなあと思ってしまいました。
その辺の抽象表現は一貫していますが、現実感のないお話に感情移入しづらく、そこが映画的迫力に欠けている点かなあと。庵野監督が『シンゴジラ』でリアリティを追求して観客を圧倒させたのとは全く反対方向の、ある種ファンタジー的な演劇映画の印象です。ラブ・ストーリーですしね。

M:この作品、見ている間はオリジナルストーリーだと思っていました。後から資料見て、舞台が原作と知りました。
どこでもない町に起こる怪奇現象という設定は、とても舞台的だなと思います。

A:さっきいった3つの点の距離感が遠くて意外に近い奇妙な世界の中で結ばれていく、だからこその今そこにある危機感の熟成、そしてそこで展開されていく活劇の部分にこの場所の曖昧さが効いていると感じました。茫漠としているのに案外、小さい町の奇妙なサイズ感の面白さといったらいいのかな。田園風景と住宅地が並び立っていて、しかもショッピングゾーンのような人が集う界隈もある、ドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の小さな町とも通じるような――。

★原作とは違うエピローグをもってきています。このエンディングに関しては?

M:原作を見ていませんし、エピローグもネタバレになるので、あまり言えませんが、ラストで作品の印象も変わると思います。
最近特に原作が売れている作品が多いのですが、原作と違うエンディングになっている作品をよく見かけます。
大概は後日談的になっており、原作ファンへのサプライズ的な一面もあるのではないかと思います。
この作品に関しては原作も舞台も見ていないので、何とも言えません。
一般論ですが、原作は作者によって完成されているものですので、エピローグの追加によって、原作の持つカタルシスが失われてしまった作品が幾つかあり、残念に思いますね。
このエンディングに関しては、監督がどのような思いで、脚本を書かれたのか、きいてみたいと思います。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

「散歩する侵略者」
2017年9月9日(土)より 全国ロードショー中
配給:松竹 日活
©2017『散歩する侵略者』製作委員会

人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)