Cinema Discussion-21/黒沢清監督からの挑戦状『散歩する侵略者』

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第21回は、黒沢清監督の『散歩する侵略者』です。
第21回にして、初めての日本映画です。日本映画を扱う事は、前からやりたかったのですが、なかなかタイミング合う公開作品がなく、ようやく実現となりました。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★意識的に除外したわけではなかったけれど、これまでLCR CDで日本映画を取り上げる機会がありませんでした。現代の日本映画とはどんな関係をもっていますか?
それぞれの関係の中でこの『散歩する侵略者』に対してはどんな感想を持ちましたか?

川野正雄(以下M)個人的には、日本映画とは近い距離感があるので、なかなかフラットに語れる映画が無かったというのが、実際の所です。後はタイミングが合わなかったりとか。
黒沢清監督に関しては、昔サンダンスのジューンラボ(米ユタ州サンダンスで開催される脚本デベロップ合宿のようなシステム)に、『カリスマ』で参加された際にお会いしています。
その頃は2作目の『ドレミファ娘の血が騒ぐ』の印象しかなかったのですが、当時と比べると、ものすごくメジャーな存在になられたというのが実感です。

川口哲生(以下T):私は全く現代の日本映画についていってないし、コメントできる人間ではありませんね。
テーマとしてのある種の説教臭さを、エンターテイメントとして描くことに成功していたと思います。面白かったです。

名古屋靖(以下N):黒沢清監督の事は、今まではあまり一般向けでない映画を多く撮られているけど、日本映画界が期待するすごい才能をお持ちの方と聞いていたので、観る前から少しかまえてしまいましたが、観終わった感想は「普通に面白かった」です。

★その反応はどういう部分から引き出されましたか?

N:「思ってたより普通」だったので。
勝手にもっと変態、難解のイメージを持っていたので拍子抜けだったのもあります。
最初にWOWOWのロゴを目撃したせいでイメージがついてしまったのもあるのですが、『MOZU』シリーズなどと同じWOWOW独特のカラーが今回の映画にも感じられて、スタイリッシュなのですが、その迫力はTVと映画のちょうど中間くらいの緊張感でした。

M:『キュア』が当たり、すごく評価もされていましたが、まだまだインディペンデントな存在でしたが、その後どんどんスケールアップされ、『クリーピー 偽りの隣人』や、『散歩する侵略者』は、10億円以上を狙うメジャー作品になっていますから。
メジャー作品の中でも、しっかりと黒沢監督のカラーというものは反映されていたと思います。

T:暗喩としての「宇宙人の侵略」の扱い方。宇宙人とガイドの二組の関係性。大きなテーマを表現しつつ、これらがエンタテイメントとして映画を成立させていたと思います。

川口敦子以下(A):なんだかやな感じのコメントに響きそうで心配ですが、そういうつもりでいうのではなく、率直な感想として、「エンタテインメントとして成功」「メジャー」「普通に面白かった」というみなさんの反応がこの映画の目指す所をふまえて嚙みしめてみると、まずとても面白いと思いました。

★黒沢清監督は現代日本映画を牽引する作り手のひとりだと思いますが、これまで彼の映画に親しんできましたか? この一作に関して監督にどんな印象を持ちましたか?

M:元々の印象は、立教で蓮見重彦門下の論客的な映像作家というものでした。
最初に見た『ドレミファ娘の血が騒ぐ』は、あまり好きな作品ではありませんが、当時の師匠格であった伊丹十三さんが出演されたり、今や週刊文春の映画コラムをやっている洞口依子主演だったりと、見所はありました。
Vシネマ的な作品ですが『地獄の警備員』あたりから、今に通じる毒素みたいなエッセンスが強く出てきて、異彩を放っていたと思います。
そんな時期にサンダンスに派遣され、多分すごく良い経験になったのではないかと思います。
映画としてはサンダンスの後に監督したのが『キュア』で、そこで大ブレイクされましたから。
自分としてはサンダンスでデベロップした『カリスマ』や、『ドッペルベンガー』といった役所広司さんと組んだ作品の持つ毒素みたいな部分に、魅力を感じていました。
この作品は、そういった映画とは全く違う大作ですし、豪華キャストです。しかしながら当初から持っている毒素や、シニカルな視線といったものは、メジャーに飲みこまれることなく健在で、ちょっと嬉しくなりました。
黒沢流のメジャー作品への挑戦状のような作品と思いました。
ある種観客に媚びる部分が日本のメジャー作品には内包されることがありますが、そういう部分は極力排除したいのではないでしょうか。

A:前作『ダゲレオタイプの女』の時にフランスでフランスのスタッフ・キャストと撮った映画にヒッチコック的なもの、往年のハリウッドのジャンル映画と通じる”アメリカ映画”がまぎれこんでいるように見えるという点がスリリングで、その部分を監督に訊いたのですが、取材の最後に「本当によくできたアメリカ映画に代表されるある種のジャンル映画って愛とか死とかってそういうものがヒッチコックを持ち出すまでもなく、大げさなテーマというより人間のドラマを普通に考えていると当然、そこになるもの、大きなストーリーの中心として横たわっている。自分もそういう方にも辿りつきたいと思ってます」と述懐された。取材の時点で監督は『散歩する侵略者』を撮り終わってらしたんですが、振り返るとこの映画についてのコメントのようにも響いてくるんですね。

★宇宙人が地球にやってくる”侵略SF”ジャンルとして、ハリウッドの同ジャンルの映画(といってもいろいろな時代があるとは思いますが、その比較も含めて)と比べていかがですか?

A:英語版のプレス資料にある監督インタビューでは、この種のジャンルの無数にある先例の中から特定の作品を引用するのはよそうと決めたと語ってらっしゃいますね。ただ取り終えた後でジャーナリスト桜井と”侵略者”天野の場面に漂うものにはどこかジョン・カーペンター的なものがあると感じた、なぜかは定かでないのだがとも仰っています。カーペンターといえばハワード・ホークスをリスペクトする彼がホークス製作の”侵略SF”『遊星よりの物体X』(51)を『遊星からの物体X』(82)としてリメイクしてますね。でもそれを引用したというより男と男の友情とか、活劇の無駄口たたかぬ切れ味とか、そういう部分で結び目を感じますよね。
また黒沢監督は同じインタビューで、このジャンルが基本的には常にその時代の世界的な危機感と結ばれていたことをふまえつつ、何か心得違いのメッセージのようなものを発することは避けたいと意識していた。自分の映画で政治的なメッセージを込めたことはこれまでにもない、ただ意図しないところで映画作家の作品にはその政治的なスタンスが露呈するものだとは思っている――とも述懐されてます。その意味で、『トウキョウソナタ』とも通じる戦争、今そこにある危機感、それに対する監督のスタンスは強く感じられると思いました。

T:ステレオタイプの宇宙人の侵略でなく、宇宙人も自分たちと瓜二つであり、それらが集める人類の概念そのものが地球に対しての侵略者だというアイロニー。そしてまた侵略から地球を救うのもまた人類の持つ概念という、最終的な人間に対する肯定感、希望も感じました。

N:舞台で面白い本をどう映画にするか難しいですよね。画期的アイデアは、画期的な分初めて見る側に素早く理解させるのが難しい。映画の中での「概念」という言葉の使い方が僕には完全には理解納得できておらず、大事な所がモヤモヤしたまま終わってしまいました。 ただ監督のインタビューによれば、原作の舞台を見て「いつかこれを映画にしたい。」と思っていたとの事なので、映画としては違和感を感じる言葉でもそのままなのは、監督の原作に対するリスペクトなのでしょう。

M:最近だと『メッセージ』がありますね。そちらも好きな映画なんですが、比較するのは難しいですね。
そういったハリウッド映画との比較とか、そういう目線で語って欲しくない映画を、黒沢監督は目指したように思います。すごくオリジナリティがあると思います。
黒沢流メジャー映画というか、すごく挑戦している印象です。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★“宇宙人”の描き方に関しては?
M:松田龍平君につきますね。彼の演技力が、全てを包括していると思います。
それと長澤まさみさんの会社の場面が顕著ですが、身近な人が突然変異する恐怖感みたいなものは、すごく伝わってきました。

N:この宇宙人の設定も、舞台劇のセリフで出てくればとても魅力的ですが、映画にすると欲求不満は否めません。 SF映画としてのカタルシスを一つ分損しています。

A:質問とちょっと外れるかもしれませんが真治、天野、あきらという侵略者のそれぞれのあり方が複線の物語を紡いでいくという、これは原作の方法でもあるわけですが、その点と点の操り方が興味を持続させ、さらに映画になった時にそのスケールを全うさせていく、そういう描き方として面白かったです。あとたとえば『リアル~完全なる首長竜の日』の時、感じたことですが、CGの首長竜があっけなく出現する時、自然に「ウソ~」という言葉が口を突く、そうやって「ウソ」とスクリーンに向かって呟く瞬間、実のところ観客は映画が差し出すまざまざとした感触にもうまんまと巻き込まれているんですよね。あり得ない、でも――と、ただただまざまざとしぶとい現実感に支配されていく醍醐味を今回も冒頭から味わいました。

★人間の概念を奪うという部分、現代人を縛るそれらからの解放とみることもできそうですが、だとしたらちなみに何を奪われたいでしょう?

A:映画とその歴史に対する記憶――なんてね 笑

M:自分としては想像がつかないのですが、“欲”を奪われたら、楽になるのでしょうか。

T:時間ですかね。笑
ただ「いま」にいることができていませんね。

★気づいてみると日常を浸蝕している異常の描き方に関してはいかがですか?

N:監督が伝えたかった事がこの「気づいてみると日常を侵蝕している〇〇」なのでは。例えばトランプと北朝鮮。世界各地で続発するテロ行為。日本政府による憲法改正やテロ等準備罪成立や、その他いろいろな動きも含めて監督なりの平和ボケした我々への警告発信なんじゃないかと。

T:気づかないでのほほんと送っている日常が蝕まれ、ある日から戒厳令的な町やパニックと化した人々に移っていく。それでも危機感の欠如した人々にとっては冗談にしか思えない危機。日常と非日常の紙一重さ。宇宙人はそんな暗喩的ですね。名古屋君が言うようになにかきな臭い現状と重なりますね。

M:この映画はネタバレにならないように語らないといけないと思いますが、日常がいきなり奪われる恐怖をうまく描いていると思います。
光石研さんの役は、仕事から解放されて、楽になったようにも見えました。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★監督はカンヌでの会見の動画の中では「戦争に愛で対抗するという強くシンプルなメッセージが原作にあり、映画でもこれが伝われば」と語っていますが、伝わりましたか? 往年のハリウッドのジャンル映画をふまえた大きなテーマの黒沢的な消化法に関してどう見ますか?

M:混乱や乱世の中のプリミティヴな部分を、黒沢監督は描きたかったのではないでしょうか?
先ほども伝えましたが、従来のハリウッド的なSFやジャンルムービーとは、全く違うアプローチで侵略者を描きたかったのではないかとみています。

N:個人的には「〜に愛で対抗する」というメッセージに関しては、いかにも昔のハリウッド映画的で普遍的ではありますが、新鮮味にかけて今更かなと。ただ侵略者と牧師のシーンはちょっとだけ毒があって一番笑えました。

T:ジャンルムービー云々ではなくて、侵略する側とされる側の二組のストーリー、それぞれの気持ちの相手へのシンパシーへ変化していく様子が私は面白かった。異なる者間のシンパシーとして。愛についても、宗教ではなく一個人のレベルの愛であるところも監督の伝えたい所ではないでしょうか?

★俳優たちに関してはいかがでしたか?

M:松田龍平君も、長澤まさみさんも、役柄へのアプローチを相当練りこんだ感が強いです。
長谷川博巳君は、今や得意の役柄で、これはもっと違うアプローチを見たかった気がします。
彼の駅前で聴衆に語りかける場面は、とてもいい芝居でした。

T:松田龍平はとぼけた味出してましたね。

N:松田龍平は相変わらずよかったです。本人も得意なパターンだったんじゃないですかね。
長谷川博己の演技に関しては川野さんに同意です。

A:私は長谷川博巳、今までもひとつぴんとこなかった俳優なんですが、今回かつてなく好きだなと思いました。あと『モテキ』とか『海街diary』とかこのところぐんぐん魅力的になってきた長澤まさみもまた新たな領域を開拓していていいですね。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★どこでもないどこかという舞台の設定については?

N:原作が人気の舞台劇という事でそれを覆すのは難しかったとは思いますが、 「とある町」の設定は、「概念」という言葉の選び方もそうなのですが抽象的で、セリフが主役になる芝居的な発想で、ビジュアルが主役とも言える映画っぽくないなあと思ってしまいました。
その辺の抽象表現は一貫していますが、現実感のないお話に感情移入しづらく、そこが映画的迫力に欠けている点かなあと。庵野監督が『シンゴジラ』でリアリティを追求して観客を圧倒させたのとは全く反対方向の、ある種ファンタジー的な演劇映画の印象です。ラブ・ストーリーですしね。

M:この作品、見ている間はオリジナルストーリーだと思っていました。後から資料見て、舞台が原作と知りました。
どこでもない町に起こる怪奇現象という設定は、とても舞台的だなと思います。

A:さっきいった3つの点の距離感が遠くて意外に近い奇妙な世界の中で結ばれていく、だからこその今そこにある危機感の熟成、そしてそこで展開されていく活劇の部分にこの場所の曖昧さが効いていると感じました。茫漠としているのに案外、小さい町の奇妙なサイズ感の面白さといったらいいのかな。田園風景と住宅地が並び立っていて、しかもショッピングゾーンのような人が集う界隈もある、ドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の小さな町とも通じるような――。

★原作とは違うエピローグをもってきています。このエンディングに関しては?

M:原作を見ていませんし、エピローグもネタバレになるので、あまり言えませんが、ラストで作品の印象も変わると思います。
最近特に原作が売れている作品が多いのですが、原作と違うエンディングになっている作品をよく見かけます。
大概は後日談的になっており、原作ファンへのサプライズ的な一面もあるのではないかと思います。
この作品に関しては原作も舞台も見ていないので、何とも言えません。
一般論ですが、原作は作者によって完成されているものですので、エピローグの追加によって、原作の持つカタルシスが失われてしまった作品が幾つかあり、残念に思いますね。
このエンディングに関しては、監督がどのような思いで、脚本を書かれたのか、きいてみたいと思います。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

「散歩する侵略者」
2017年9月9日(土)より 全国ロードショー中
配給:松竹 日活
©2017『散歩する侵略者』製作委員会

Cinema Discussion-20/ROCK AND POEM by JARMUSCH

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第20回は、ジム・ジャームッシュ監督の新作2本です。
ジム・ジャームッシュ監督の前作『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を、シネマ・ディスカッション第3回で取り上げていますので、2回目の紹介になります。
今回ご紹介する2作品『パターソン』と、イギー・ポップのドキュメンタリー『ギミー・デンジャー』は、ジャームッシュの文学的な一面と、ロックな一面という対照的な表情の作品となっていますので、是非両作品を見比べていただきたいと思っています。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★『パターソン』は『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』から4年目のジム・ジャームッシュの新作ですが、前作と比較しつつまずはどんな感想を?

名古屋靖(以下N):見終わった後の余韻が何とも魅力で好きな映画です。 前回と比較すると、今回のあまり起伏のない反復の映像は初期のジャームッシュらしい作品になっていて個人的には「ありがとう。」という感じです。

川野正雄(以下M):非常に淡々としている描写で、ヴァンパイヤを扱った前作とは全く違う印象でした。
ジャームッシュの作品としては、かつてない位に静かで、大きな事件は起きない作品ですね。日常を切り取るという意味では『コーヒー&シガレッツ』がありますが、あのようなオフビート感覚もない。
ジャームッシュとしてはかなりの静の映画で、少し新たな領域に入ってきた感があります。

川口哲生(以下T):『パターソン』は前作のティルダ・スウィントンや初期のジョン・ルーリーやトム・ウェイツみたいに主演に、こちらサイド(自分の範疇)を匂わせる人もいず、それだけで観てみたいと思わせる映画ではないですね。また前作のヴァンパイア、モロッコというドラマチックなセッティングもない、アメリカの一都市での淡々とした生活を描いています。
それでも、オープニングの主人公の朝のルーティン、朝食のシーンから、カップやスタンドの傘に描かれたサークルとか、いかにもジャームッシュ的な「わかるかな?」がちりばめられていてニヤリとしました。

川口敦子(以下A):前作がヴァンパイアものだからまあ当然といえば当然だけど、夜の映画として記憶に残っているのに対し、『パターソン』は昼の、彼が運転する循環バスの車窓を通過していく景色と音、それが昼にみた夢みたいに全篇に響いていくような部分がとりわけ印象に残っています。もちろん一週間の毎日を列ねていく、そのルーティンと変奏の面白さもあり、さらにはパターソンという町にまつわる記事を集めた”名声の壁”のあるバーに集う面々との夜ごとの密やかな“ドラマ(になら成りきれないそれ)”も面白いけれど、前作との比較でいうと昼の映画というのかな、そこにある夢の感触にとても惹かれました。

★巡回バスの運転手として日々働きながら詩を書く主人公パターソンは、アマチュア(愛のために何かをする人)、ディレッタント(楽しみのために何かをする人)という、普通はネガティブに使われる言葉をいらない価値に惑わされない創作の要とするジャームッシュならではのキャラクターですが、この主人公についてはどう見ましたか?

T:セルクルルージュ的ですね。笑
大きな資本の原理(利潤や効率)とは違うヴァンパイア的生き残り方ですね。笑

M:バス運転手をしながら詩人という彼の生き方は、ある意味ロックミュージシャンぽいなと感じました。パターソンという人間の深い内面性までは描いていないようにも思えるのですが、アダム・ドライバーのキャラと相まって、なかなか魅力的なキャラクターに造形されたと思います。
バスのトラブル時の彼の処理、バーのトラブル時の対応など、ちょっと骨っぽい部分があるというのも、うまく見せていたと思います。単なるへなちょこなポエム野郎ではないぞという感じです。

A:骨っぽさといえば、海兵隊時代の写真がちらりと背景に切り取られたりして、バーでの”事件”におおっと機敏に対応する、というか身体が動いてしまうという部分がさらりと描かれていて興味深かったですね。ジャームッシュは演じるアダム・ドライバー自身が9.11の後、海兵隊に入り、負傷して退役しジュリアードで演劇を学び、軍人向けに公演する劇団を運営したという経歴をもっている点、いわば文武両道な過去にすごく興味をもったようで、それをふまえた静かな人パターソンの内面、もしかしたら戦場体験を経たこととか――を、あの小さいけれど大いに気になる場面に託したりしているんじゃないかなあ。戦争によるトラウマなんて所まではあざとく描いたりはしていませんが、何かあったのかなと感じようと思えば感じられる挿話になっていて、それが日々を淡々と送り、詩を書く静かな暮らしの裡に蠢く何かだったりするのかなあと。
もちろん、ジャームッシュ自身のアマチュア、ディレッタントへの共感がパターソンを魅力的にしている。ジャームッシュ自身が詩人をめざしていたこともあって、とりわけ愛着のある人物として描かれていますね。私はこの映画をみて彼の長編デビュー作『パーマネント・ヴァケーション』をすごく懐かしく想起し、見直したくなりました。あの映画の主人公のニューヨークのストリートを漂流している詩青年。仕事もなく日々を漂うようにやり過ごすかっこつけた若者のパーマネントなバケーションとしての生き方、あの船出のラストの後に来たものをパターソンはちょっと思わせたりもして。さっきもいったバスを運転しながらの夢想空間というのかな、あの時空、つまりは詩の時空を確保、そこで漂流者でいるために、彼は規則正しく日常の日々を繰り返し、定職を勤め上げる。大人になったジャームッシュ映画なんていってしまうと興ざめですが、そういう逆転、アウトサイダーであるためのインサイダーとしての毎日、ストレンジャーで居続けるための定住・定職みたいなことを考えさせられました。

N:アメリカ人のごく一般層のちょっとだけ下の方で、何かが少しだけ足りてないけど、寡黙に与えられた仕事を楽しみ、アマチュアだけど詩人であることに喜びを感じ、大好きな妻だからたまに我慢もするけれどそれは苦痛じゃない。そんな毎日を幸せに生きている。日常生活では口下手でも、美しいフレーズにときめきながら密かに詩を綴る主人公は純粋でとても魅力的に見えます。

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★彼の住む町パターソンについては?
N:ニュージャージー州北部に実在するパターソンは、映画にも登場する滝「グレートフォールズ」の水力発電の恩恵で19世紀から産業が栄えたものの、のちに現代アメリカの問題地帯「ラストベルト」の一端となっている町ですね。 ジャームッシュは前作のデトロイトもそうですが、「終わってる町」を愛情込めて魅力的に撮ってくれます。普通のアメリカ人の普通の日常を身近に感じるにはこんな舞台がリアルで理想的です。 まあでも、実際のパターソンはそんなに治安も良くないと思うので、特別な用事がなければ行きたくはない町ですけど。。。

M:前作がモロッコのマラケシュなどが出て、華やかでしたので、強いインパクトはありませんし、まずパターソンについての予備知識が自分は皆無です。ジャームッシュ作品では、『ブロークン・フラワーズ』で切り取られたような、アメリカのすごく個性的ではないある町という印象です。
この町の持つ時間の流れの緩さが、詩ともつながってくるようなのでパターソンも住んでいるのかと思いました。

T:ニュージャージーのパターソンは、あたりまえにHIP HOP以降のアフロアメリカンの影響化の要素を含みつつ、ダウンタウンの町並みや滝とか、どこかアメリカっぽくないところを感じました。バスの運転手として聞く、乗客の会話に、例えばワーキングクラスの人種を超えた話やら、イタリア系の学生のこの街唯一のコミュニスト気取りみたいな話はステレオタイプだけれど、そんないろいろな混ざり具合を感じさせていますね。

A:ちなみにあのバスでイタリア国王ウンベルト1世を暗殺したパターソン出身のアナーキスト ガエタノ・ブルーシの話をしている少年少女はウェス・アンダーソン監督作『ムーンライズ・キングダム』の主演のふたりなんですね。ジャームッシュはインタビューの中でどんどん無邪気に子供っぽくなっていくアンダーソンの映画が好きと語っています。そういう小さな好きを集めた所もこの映画の妙味だと思いますね。ジャームッシュがアンダーソンを好きというのもうれしいし。
パターソンという町は人種が多様な移民の町で、ローラもそうだけど、中東系移民も多く、そのことでトランプが9.11の後にこの町を名指しで問題発言したのだとか。
もちろん映画の中でも触れられている医者で詩人のウィリアム・カーロス・ウィリアムズの長詩「パターソン」が背後にはあるわけで、にわか勉強したところ、ウィリアムズは自叙伝(思潮社)の中でこんなふうにいってます。
「単に鳥や花を謳うのではなく、もっと大きい詩を書いていきたいなら、僕のまわりの身近な人たちのことを書かなければと思っていた。細部にわたり精細に知りたかった――人々の目の白いところ、まさに体臭にいたるまで。
それこそが詩人の仕事である。漠然としたカテゴリーで語るのでなく、個物を書いていくこと、ちょうど医者が患者に、眼前の対象に働きかけて、個物の中に普遍を発見していくように。(中略) ぼくはこの都市を僕の追究すべき「症例」として、まさに丹念にそれを仕上げていくために取り上げた」「都市であり人であるパターソンが発見される」
「事物をよそに観念は存在しない」No ideas but in thingsということもすごく強調されていて、ジャームッシュの映画はそんなウィリアムズの詩への思いを誠実に尊重して映画化しているとも思いました。

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★毎晩通うバーにたむろする面々、愛犬マーヴィン、バス会社の愚痴の覆い同僚等々、周囲のキャラクターで印象に残ったものは? ラッパーに少女に日本から来たウィリアム・カーロス・ウィリアムズのファンと詩人もたくさん登場しますが?

M:愛犬のマーヴィンは素晴らしいですが、授賞式前に亡くなったのは残念です。一般的に理解度が低いと言われる短頭系のブルドッグで、あれだけ表情のある演技が出来るのが素晴らしいです。
出番は少なくても、バーに現れるカップルや、バス会社の同僚などは、ジャームッシュらしいスパイスの効いたキャラクターですね。息抜きというか、映画のオフビートな部分を象徴していると感じました。
永瀬正敏君については、唐突感もありますが、重要な役どころで、この作品で彼を起用したジャームッシュの想いみたいな部分を感じました。当て書きであったというジャームッシュのインタビューを読み、納得するものがありましたし、素敵なシーンだったと思います。
A:「コーヒー&シガレッツ」によく出てると思いますが人と人とのやりとりのスケッチ的なおかしさ、おもむき、間・・・といったものを活かすのがジャームッシュはうまいし、好きなんでしょうね。
バスの乗客たち、バーの常連たち、そこに一緒にいてくすっと笑っているような気になりますね。あとちょっと違いますが双子たちも妙で面白かった。

N:ジム・ジャームッシュ新喜劇って感じ。(笑) さっきも言いましたが、お金とか、温もりとか、賢さとか、何かが少しだけ足りてないけど魅力的なキャラクターたちが満載ですよね。またそれが主人公のシンプルさを際立たせています。
愛犬のマーヴィンもそうですが、登場人物は全て「いい人」か「憎めない人」ばかり。そのおかげで主人公は日常のあらゆるモノからインスピレーションを受けていて、それが「詩」の源泉になっている。彼らのおかげで毎日幸せそうです。
印象に残ったのは、フラれて傷心のエヴェレット。いちいち言うセリフはかっこいいんだけど、やること全てカッコ悪い。(笑)
あとやはり永瀬正敏は良かったです。大阪から来た日本人の日本語英語と最初は最低限しか喋らない主人公の会話が少しずつリズムを持ち出す。「Uh-huh」の意味は結局僕にはわかりませんでしたが、この出会いは主人公に大きな変化をもたらしました。
最後の「詩」で思った僕の勝手な解釈ですが、マーヴィンのエピソードを経たのち、とある詩人と出会えたことで、主人公は「詩」との向き合い方にさらに深みを求めるようになり、だから最後の「詩」はそれまでの彼のものとはまた別のレベルに辿り着いたのだと思いました。
最後の「詩」を綴る場面で、昼間にいつものBARが閉まっている前を主人公が歩くシーンは象徴的で、過去の作品との静かなる決別宣言にも見えました。もっと穿った言い方をすれば、主人公の将来は、地元で有名なウイリアム・C・ウイリアムズを超える偉大な詩人になるかもしれないですよ。とそっと耳打ちされた感じです。

T:淡々とし主人公のパターソンと対極的なバーのマスターのドクや眼鏡の未練がましい男エヴァレットとかの絡みは単調さのなかでアクセントになっていました。イギィーの話も織り交ぜてね。
永瀬演じる詩人とのシーンは「新たな可能性」「再生」への大事なシーンですね。日本人としてはちょっと永瀬にたいしてのイメージが邪魔になっていると感じている自分もいましたが。

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★日常の坦々とした反復の中に浮かぶ詩をすくう姿勢が主人公にも、彼をみつめる映画にも見て取れますが、このスタイルに関しては?

M:文学者のエッセイ風な日常にも見えました。
日記というか、日常を描く散文的なエッセイです。

T:私はこの映画を見ながら「habit(習慣)」という言葉が頭の中をぐるぐるしていました。何か昔読んだ言葉だったなあと、気になった言葉を書き抜いているノート(poem bookではないよ笑)を繰っていたら哲学者ジャック・マリタンの『芸術の習慣(ハビット)』というのが出てきました。
「科学者でも農夫でも職人でも、あるいは小説家でも、意識的にであれ、無意識にであれ、その職業の積み重ねによって、生き方の習慣を与えられる。それが彼のその人らしさを作り、また越えがたい困難を、彼に乗り越えさせる力ともなる。キリスト教信者ならば恩寵と呼ぶのではないかと思える仕方で。」
反復のなかにすくい上げる詩人や映画のスタイルにそんなことを想い重ねました。

A:ポール・オースターを原作にしたウェイン・ワン監督の『スモーク』でタバコ屋の店主が毎日、同じ時間に同じ街角で撮る写真。同じに見える写真の一葉一葉に異なる物語がある、ゆっくり見ないとそれが見えてこないといったこととも通じるような。毎日、出かける時にはまっすぐなのに、帰宅する時には傾いている郵便受けの柱、それを毎日、まっすぐに直すパターソン、そこに抱えられた物語とか――。起承転結に追いまくられたドラマと異なる些事/things/具体への目がこの映画の強さだと思います。

★ジャームッシュの映画の系譜の中にある淡々とした日常と人の描写は好き嫌いが分かれるところだとも思いますが、いかがですか? 下手をすると『かもめ食堂』みたいなほっこり感とすれすれの部分もありますが? そうならない違いはどのあたりにあると?

T:結局土台としているもの、生きてきたなかでの好きなこと、音楽等々のベースに流れるダウンビート感でしょうか?

A:私は妻ローラの突飛さの連発ぶりに、ちょっとだけ結果としての表現型は違うけれど、根底にあるものとしてはほっこり系に通じるものを感じて、やや引いてしまいそうになったのですが、それは自分の居場所にあまりに迷いなくほんわかとしていたり、エキセントリックでいたりできる部分への、その迷いなさへの抵抗感かなあと思います。パターソンの淡々、ジャームッシュの映画のそれとの違いはそのあたりにあるのかも。うまく言葉にできないし、ローラもジャームッシュ映画のひとりではあるのですが。

N:同じ一週間の物語でも、コーエン兄弟の『インサイド・ルーイン・デービス』より必然性を感じます。規則的な繰り返しに加え、乗用車より遅い市営バスの速度に合わせたような、ちょっとゆったりめなテンポも心地よかったです。また、そっけないエンディングは秀逸で感動的ですらありました。
物語の中心に「詩」があるのは当然ですが、何かが少しだけ足りてない人々のちょっと変な描写やその場の間や空気感が、彼の映画を観る楽しみの一つでもあり特徴でもあると勝手に思っています。
僕はレイモンド・カーヴァーの短編が好きなんですが、カーヴァーの描くアメリカとジャームッシュの描くそれには共通点があるような気がしてなりません。ごく日常の中に潜む「幽かな歪み」や「ちょっとだけ異様」な人物や事柄を、ギリギリの表現ですが愛情を持って魅力的に観せてくれるところはアーティストとして同じ方向性を感じます。

M:ほっこり感はないですよね。ジャームッシュの映画は、淡々としても低温ではないので、単調にはならないと思います。随所に彼なり仕掛けを施しているように感じています。
そこにリズム感もあるのが、彼らしいと感じています。
荻上直子監督の映画は、やはり女性らしいほっこり感だと思います。新作の『彼らが本気で編むときは、』はちょっと違い、マイノリティやセクシャリティへの視線などは、逆にジャームッシュ的だと思いました。
ほっこり感というのは、自分的には退屈と紙一重と思っています。

★手書きの詩がスクリーン上に書きつけられたり、詩を読む声が重ねられたり、映画で詩を表現する上でのジャームッシュの方法はいかがですか?
N:英語の聞き取りが苦手は自分にはとても助かりました。(笑)
「詩」はその姿も大事ですので、スクリーン上の書きつけは効果的でした。

T:私にはすごくパターソンの心情の表現として有効でした。主張しない、内向的な彼と表現する時の彼の、声のトーンの違いや味のある文字はパターソンの「表現者として生きている時間」を感じさせました。

M:これは大河ドラマ的だなと(笑)。『清盛』とかですと、西行や鳥羽上皇の詠む詩が、書き文字で画面に表れてきました。漢字を見るとより理解しやすいので、いい演出と思ってました。
ジャームッシュが『清盛』見ているとは思いませんが、詩の表現手段として、とても伝わりやすいですね。英語でも改めて文字で見る事で、伝わってくる部分がありました。

A:ベルトルッチの『魅せられて』の時にスクリーン上の手書きの文字の表現力が詩的にせまってきた。それに通じる清新さを感じます。声があって詩があるってところはビートへと通じていく部分でもありそうですね。

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★今回自らも参加してアンビエントな音楽をつかっていますがそれについては?

M:特に強い印象はありませんが、今回はこっちの方向なんだなと理解しました。
サウンドの深みみたいな部分は、映像の中からでも強く感じました。

T:パターソンの心象の表現とはマッチしていたと思うけれど、他の選曲された曲の方が印象が強かった様にも思います。奥さんのローラの不思議なキャラと絡まったちょっとアラブっぽい曲調やお得意のバーとかでの選曲です。

A:違うとは思うのですがここでもジョン・ルーリーと共に自ら音楽を手がけた『パーマネント・バケーション』の時の、スティール・ドラムを使った音楽、というかその使い方を思い出しました。

N:監督本来の趣味とは少し違うとは思いますが、最近アメリカで支持を得ている音楽に、新しいスタイルのフォーク・ミュージックがあります。代表的なバンドとしては、「FLEET FOXES」や「BON IVER」など。ただしフォークと言ってもアコギ一本で歌い上げるのではなく、そのサウンドプロダクションについては多重録音はもちろん、時にはシンセなども使いながらアンビエント的になったりします。この辺を聴き慣れると、このごく日常の映像にアンビエント風な音は違和感ありません。日中のシーンで使われる曲など一聴すると典型的なアンビエントですが、よく聞くと生楽器を多用したインストで「BON IVER」のLIVEを連想させます。ジャームッシュは音楽についてもかなり詳しい人なので、この辺の雰囲気も敏感に察知しているのかもしれません。

★前作につづくカップルのラブストーリーの部分もあると思いますが、このヒロインに関してはいかがですか?

N:彼のように優しくないので僕は無理。(笑)
主人公にとって最も大切な存在なのは彼の表情からすごく伝わってきます。

M:彼女のキャラクターは、少しとらえどころが無かったです。いい意味でパターソンのよきパートナーであるなとは思いました。パターソンが彼女と付き合う理由というのは、垣間見れました。正反対なキャラクターのカップルというのが、長続きする秘訣みたいな。お弁当のエピソードとかは、いいですね。

T:パターソンの淡々さとローラのエキセントリックさ(オレンジやパンケーキ?)は際立っていますね。どこに接点があるんだろうと心配になるくらい。笑
ジャームッシュ自体こういう女性像に引かれるのでは。描かれる女性もいつも強くない?

A:先ほどもいったように、ローラ、可愛いけどこのマイペースぶりにはややついていけないものがあります。スーパー・クールなティルダの超越ぶりの方が好きだなあ・・・。カップルの映画といえば9月末に公開される『ポルト』という映画の製作総指揮をジャームッシュは買って出ているんですね。これがすごくいいです。さっきいった『パーマネント・バケーション』とジャームッシュもお気に入りといってる『ママと娼婦』を合わせたようなって、わかりにくいたとえになりますが、70年代後半のNYインディの映画とポスト・ヌーヴェルヴァーグの映画、どっちにもいたわがままでめんどくさくて切なくクールなヒロインが素敵なの。強引ですがちょっと紹介しておきたかった 笑

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

★カップルの配役については? パターソン役のアダム・ドライバーはメジャーからインディまで網羅して活躍中の俳優ですが、彼については? ジャームッシュ映画の俳優たちの流れを振返ってみてどうでしょう?

M:アダム・ドライバーを初めて見たのは『フランシス・ハ』で、『インサイド・ルーウィン・ディヴィス』にも出ていたので、セルクルルージュではおなじみの俳優ですね。スコセッシの『沈黙』や、ノア・アームバックの『ヤング・アダルト・ニューヨーク』など、最近の売れっ子ぶりはすごいですよね。
『沈黙』では、それまで演じて来た比較的彼のキャラクターを生かすような役どころではなく、完全に役を作り込んで演じなくてはならなかったのですが、しっかりとした演技力を兼ね備えている一面を、強く見せてくれたと思います。
ゴルジフテ・ファラハニは『エデン』にも出ていましたが、アダム・ドライバーのパートナーとしては、『フランシス・ハ』の主人公の奔放さと似たようなイメージを持ちました。
アダム・ドライバーの持つ少し低いテンションは、ジョン・ルーリーとも相通じる部分があるように思います。

T:ローラ役のゴルシフテ・ファラニは『エデン』にもでていたんだって?

A:そうなんだ、確認してみます! アダム・ドライバーの受けの芝居のよさが、この役を活かしていますね。芽キャベツのパイへのリアクションとか、絶妙です。滝の前での大阪から来た日本の詩人との場面も然り。沈黙にものいわせますね。演技そのものはそれほど変えていないように見えるのに『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のちゃっかり新人監督の憎み切れない小憎らしさとかも、いかにもで、売れっ子なのもわかる才能ですね。声もいい。

★80年代半ばから、一貫した所にいるジャームッシュとその映画について改めてどんなふうに?

T:ディレタントですね!
個人的には大資本のmassive  bloodyで暴力に満ちていたり、過剰なsexだったり、スペクタクルが満ち満ちている中で、「身の回りになる物事や、日常におけるディテールから出発し、それらに美しさと奥深さを見つける」姿勢は好ましいです。

A:頑固に同じひとつの道をいっていて、それでも新作ごとに見たいと思わせるのはやはりすごいと思います。水の上に書く――って台詞が出てきますがそういう気持ちの潔さが相変わらず映画に響いていて好きです。

M:ジャームッシュのスタイルは、例えば同じ時期に人気の出たスパイク・リーなどに比べると、首尾一貫したぶれないものだと思います。
彼のセンスと、根底に流れる少しダークというか暗い部分、そこにある種のアヴァンギャルドさがうまくリンクした時に、いい作品が生まれていると思います。
インディペンデントな存在ですが、観客を楽しませるという基本的な精神も、兼ね備えています。一時期は低調に思えましたが、ここにきて、また彼本来のスタイルがうまく表現されており、復活感があります。この『パターソン』は、彼のキャリアの中でも上位にくる作品になったと思います。
ジャームッシュって、自分では数少ない全ての作品を見ている監督です。すごく彼のファンというわけではないのですが、彼の作る物は、常に気になるんですね。多分少なからず感性の面で刺激を受けることがあるのだと思いますが、個人的には必見の監督です。

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

『パターソン』
ヒューマントラストシネマ有楽町/ヒューマントラストシネマ渋谷/新宿武蔵野館 ほか全国順次公開中

配給:ロングライド
監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
出演:アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ、永瀬正敏、他

LOS ANGELES – MAY 23: Iggy the Stooges (L-R Dave Alexander, Iggy Pop in front, Scott Asheton in back and Ron Asheton) pose for a portrait at Elektra Sound Recorders while making their second album ‘Fun House’ on May 23, 1970 in Los Angeles, California. (Photo by Ed Caraeff/Getty Images)
(c)2016 Low Mind Films Inc

『ギミー・デンジャー』
★これはドキュメンタリーというより、エッセー、バンドに宛てたラヴレターとジャームッシュは語っていますが、ご覧になっていかがですか?

N:僕はストゥージズも、イギー・ポップも、正直そんなに好きではありません。 この映画は呑み屋でジム・ジャームッシュに「ストゥージズはこんなにかっこいいんだぜ!」と熱弁振るわれている感じ。(笑)
その熱意が伝わってくるので「そうかー、ストゥージズは偉大だったんだなー」とつい思ってしまいますが、さて改めてライブラリーからアナログを引っ張り出して聴いたものの最後まで聴けたもんじゃない。(笑)そのくらいストゥージーズを魅力的に見せてくれる映画です。まさにラヴレターですね。好きでたまらないのが画面から伝わってきます。

T:私はイギーは日本公演を見に行くぐらい好きだったけれど、自分の中ではやはり“IDIOT”や”LUST FOR LIFE”のボウイとの蜜月時代のもので、ストゥージズはpunk時代にネタ元として聞いてた感じかな。
その意味で、本当のストゥージズの細かいことは知らなかったし、この映画で確認したという感じですね。

A:私もイギ―・ポップ単独の活動や、ジャームッシュ映画の”珍優”としての彼に興味があったけれど、ジム・オスターバーグ、そしてストゥージズの部分に光をあてる覚悟が一貫しているんですね。

M:ジャームッシュの音楽ドキュメンタリーというと、ニール・ヤングのツアーに密着した『イヤー・オブ・ザ・ホース』ですが、その時とはまた違うアーチストへの思い入れを感じました。
個人的にはイギ―の初来日を、川口君や敦子さんと一緒に日本青年館で見ているし、常に動向が気になるアーチストでした。
しかし持っているアルバムは、ストゥージスのベスト盤に『IDIOT』と、初来日した時のソロなど数枚で、そんなに詳しく知っている訳ではなかった。川口君の言うように、ボウイとの交遊とか、パンクの元ネタみたいな聞き方をしていたので、改めてイギ―・ポップという人を見つめる良い機会になりました。

Gimme Danger (c) Danny FieldsGillian McCain

★Music is Life, Life is not buisinessとイギ―・ポップが発するコメントがジャームッシュ、はたまた『パターソン』との結び目とも思えますが、そのあたりがこの一作に反映されていると感じましたか?

T:よく言えばディレタント?悪く言えばstooge(バカ)?
M:『パターソン』のバーのシーンでもイギ―の話が出てきますが、ジャームッシュはイギ―のロックミュージシャンとしての生き方そのものを、すごくリスペクトしているのではないかと思いました。
割とイギ―が不遇だった時期に『デッドマン』に使ったりして、彼の再評価につなげていったり、ジャームッシュのイギ―に対する視線は常に暖かいと思います。

A:まさにそこなんだと思いますが、ジャームッシュのアメリカ国内での居場所と比べるとイギ―・ポップはもう少しビジネスな感じもしなくはない?
ユル・ブリンナーの『十戒』のファラオが好きで上半身裸のパフォーマンスになったとかって笑えますが。

★ジャームッシュもオハイオ州アクロン出身でそこからNYCに出て行った、米中西部的なものをルーツにしていますが、モータウン、デトロイトのそばだが学生の町だったりと微妙な違いがあるらしいミシガン州アナーバーが、イギ―・ポップとストゥージズの芯とする視点に関してはどう感じましたか?

A:中西部的なもの、アクロンのおじさんたちはボーリング場にたむろして、ゴルフパンツに白いベルトなんかしめてて――とかって取材した時、回想モードの愛をこめつつジャームッシュは毒づいていましたがDEVOとかクリッシー・ハインドとか同じく荒廃したインダストリアル・タウンが生んだ面々にもふれつつ、ニューヨークに出て行った自分がストレンジャーとして得た自由を語る彼の感じは、勝手な思い込みでいえば都下に生まれた私のコンプレックスともちょっと通じるなあと思ったりもしました。
そのあたりの同郷感もこの映画の核心としてあるのでしょうが、いっぽうでアナーバーという町の、ミシガン大学のお膝下で、不遇時代のアルトマンに学生ワークショップで映画を教えつつ撮らせたりしているリベラルな部分、『ギミー・デンジャー』でも学生運動の時代のこととかでてきますが、そのあたりがイギ―・ポップに中西部的なものに加えてどう作用したのか興味深いです。

N:アメリカ中西部出身は、栄えている西海岸や東海岸に対して、確かなコンプレックスを持っています。それが創造のエネルギーとなり、同じ境遇を共有する者同士で仲間意識が生まれやすいのかもしれません。

T:中西部のいかにもアメリカ的価値観に支配された所から、ここまでその価値観からかけ離れた人間がでてくる所に、驚きと肝の据わり方へのリスペクトと、そして純粋に生抜くことの大変さいうことを感じます。高校ぐらいまでの髪分けていたバンド時代からの飛び抜け方。ジャックホワイトとかもいじめられてたらしいよね。

M:その点に関しては、ミシガンやオハイオのイメージが湧かないこともあり、コメントは難しいです。
アクロンというと、DEVOもいたりしますが、東部の田舎のちょっとインテリでアーチスティックな人たちという印象はあります。ブラックミュージック程、値域に対して土着的なルーツ感もないですし、音楽そのものよりも表現方法に入り込んで行くのかなという認識は持ちました。

Gimme Danger (c) Low Mind Films

★60年代を封殺したとかいっているイギ―・ポップについて、これまで、そしてこの映画をみて感じ方は変わりましたか?

N:個人的にイギー・ポップのことは、頭の回転は速いけど「口だけ番長」的な、疑いの目で見てしまっているので、映画を観ても正直全て本心とは思えてないです。でも映画を観続けていると、そんなところも含めて彼の人間臭さが魅力的に見えてきて以前より好感が持てました。
この映画を観終わって思ったのは、イギー・ポップと画家のダリは似ているなあと。一言で言えばフェイクっぽさなんですが、そのフェイクぶりに一本芯が通っているので二人とも本物になれたのかなとも。

M:彼自身の言葉で語られているので、いい面悪い面あると思いますが、ともかく初めて知る事が多かったです。
それと常に正当に評価されない、際モノ扱いみたいな部分は、やはり昔からあったのだなと感じました。逆にサウンド的には非常に進んでいたことも再認識しました。
ストゥージスの曲をこの映画で久々に聞きましたが、パンクの連中のカバー曲より、ソリッドかつへヴィで、すごくいいなと思いました。
MC5との評価の差みたいなエピソードも映画の中にもありましたが、常にイギ―は異端児であったり、B級扱いされる事と、常に戦っていたのではないでしょうか。
初来日の時に、同じ時期に来日していたP.I.Lよりもホテルのグレードが低かった事に嘆いていたというエピソードも昔聞きましたが、彼を再評価する事に、最も役立つのが、この作品のようにも思います。
彼にとっては、過小評価されている意識がずっと付きまとっていたのではないでしょうか。
偉大なるB級みたいな存在で、それが名古屋君のいうフェイク感でもあると思います。
『ベルベット・ゴールドマイン』や『トレインスポッティング』という映画で評価されたことは、彼にとってはすごく嬉しかったのではないでしょうか。
彼のパフォーマンスを初来日ではすごく間近で見ましたが、キレているようで、実はすごく冷静で、計算してパフォーマンスをしている事がわかりました。
クリーンな日本でのステージだからかも知れませんが、彼のクレバーな部分を、リアルに感じた瞬間でした。
今回のインタビュー見ていると、その辺のクレバーな部分を強く感じましたし、まだまだ語り足りないような空気も感じました。過小評価を覆すぞみたいな空気も合わせてですが。

A:作られたラヴ&ピースの60年代に対する70年代と図式化できなかったらしいボウイのマネージャーとの確執、本当はどうだったのか気になります。その意味で、次の質問の答えにもなりますが、ボウイが亡くなる前にコメント提供を申し出たのにテーマの絞り込みのためにことわったというのは美しい挿話ですが、志をちょっと曲げて参加してもらいたかったなあ・・・。

★ソロ活動の部分は捨ててストゥージズの部分にしぼっている点に関しては? コメントもメンバー以外の証言的なものは殆んど除外していますが?

T:ボウイと一緒にヨーロッパに、といったところは描かれているけれど、マネージメントとのトラブル話に終止していますね。ボウイが死んだ時に“David’s friendship was the light of my life. I never met such a brilliant person.He was the best there is”と言っているイギーなのに。逆に言えばジャームッシュのイギーはストゥージズなんだろうね。

M:そこがジャームッシュの拘りなんではないでしょうか。メンバー間にコメント絞ったのも、余計な情報を入れずに、当事者のみの証言でまとめたかったのでないかと思います。
ドキュメンタリー映画として見ると、すごくテンポが良くて、『パターソン』とは違った意味で職人芸でしたね。

N:ジャームッシュはストゥージズのポンコツでパンクなところが、本気でカッコイイ!と思っているのでしょうね。また音楽史的功績という点でも、やはりイギー・ポップよりストゥージズでしょう。
メンバー以外のコメントといえば、ジョーイ・ラモーンくらい。取り上げたエピソードが「クラスでストゥージーズのファンは俺だけだった。」「ライヴ行ったのに俺の好きな1stの曲を一曲もやらなかった、ファック!」最高です。

『ギミー・デンジャー』
新宿シネマカリテほか全国順次公開中
コピーライト: © 2016 Low Mind Films Inc
配給: ロングライド
監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
出演:イギー・ポップ、ロン・アシュトン、スコット・アシュトン、ジェームズ・ウィリアムスンほか

Gimme Danger (c) Joel Brodsky

人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)

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