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Cinema Discussion-29/ ボサノヴァの見果てぬ夢〜『ジョアン・ジルベルトを探して』

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクルルージュのシネマ・ディスカッション。
第29回は、先頃突然の訃報で世界中を悲しみに包んだボサノバ界の巨匠ジョアン・ジルベルトを追ったドキュメンタリー『ジョアン・ジルベルトを探して』です。
マーク・フィッシャーというドイツ人作家が、ジルベルトを追いかけた著書の発売1週間前に自殺をしてしまった。
監督のジョルジュ・ガシュは、マーク・フィッシャーの足跡を自らが追うことで、逃げ水のようなジョアン・ジルベルトの姿に迫っていきます。
ディスカッションメンバーは、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。
メンバー間には、ボサノヴァに関する熱量の違いなどもありますが、そこを含めてご一読ください。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★まずはみなさんのジョアン・ジルベルト体験をお話し下さい。

川口哲生(以下T):ジョアンのことになると正に「想いあふれて(シェガ・ヂ・サウダーヂ)」という感じになってしまいますので話が長くなったら失礼。笑
ボサノヴァ誕生年の1958年生まれのわたしのブラジリアンミュージック体験と置き直して考えると、一番初めの明確な体験は1968年のセルジオ・メンデス&ブラジル66です。きっと大阪万博に来日した時のライブだったと思うのですが、TVで見た記憶があり、小学生の自分にとってそれまで聞いたことのない地球の反対側の音楽として「マシュケナダ」とか転調とか、リズムとか、ポルトガル語の響きとか強烈なインパクトがあり耳に残ったのを覚えています。
その後のロック少年時期は距離を置きますが、それでも1970年代半ばのミカバンドの「マダマダ産婆」とか細野さんのトロピカル三部作みたいな、後のキッド・クレオールにもつながる南国エキゾチック嗜好みたいなものは自分の中に常にありました。
高校生後半に、吉祥寺のジャズバーに出入りしそこでかけられるリターン・トゥ・フォレバーでフローラ・プリムやアイアート・モレイラに出会い、そして勿論ゲッツ・ジルベルトにも出会いました。
後追いでなく自分のジャストのタイミングで聞いたジョアンは1977年の「AMAROSO」です。当時の東京のトミー・リプーマのプロデュース、アル・シュミットのミキシングのものは間違いないという気分の中、マイケル・フランクスの「スリーピング・ジプシー」や「AMAROSO」を聞いていました。このアルバムはジョビンのアレンジもやっているクラウス・オーガーマンがアレンジャーで参加していて、そのころそれぞれの曲のエンディングの分厚いストリングスに、逆光の黄金色の海岸、寄せては引く波、引き潮のあとの濡れた砂粒一つ一つが金色にきらきら輝くビジュアルイメージを本当にはっきり感じていたのを今でも思い出します。
これらのアルバムはこれらとして私も当時大のお気に入りだったわけですが、スタン・ゲッツとのレコーディング競演時に「このグリンゴ、ぶりぶり吹きやがって」みたいな感じだったと聞いたことがあるし、この「AMAROSO」もオーガーマンについても「大足の牛野郎が僕のアルバムを潰した」といっているようにどちらもアメリカや世界市場に向けた音作りで彼を一躍有名にしたけれど、ジョアン自身は自分が生み出したボサノヴァの本質とは違うものとして「わかってねーなー」と満足していなかったのだろうと思います。この映画のボサノヴァを生むまでのジョアンの足取りを見ると、そうしたジョアンの心情も理解できるように思います。

1st アルバム アナログ盤

この時期高橋幸宏のサラヴァもあり、当然『男と女』のピエール・バルゥーやそこから深堀した、クローディーヌ・ロジェやゲーリー・マクファーランドといった後のサバービアみたいなものやシビル・シェパードとかのボサものまでも聞いていたかな。

1978年夏に敦子さんともどもニューヨークに始めていったけれど、そのときヴィレッジ・ヴァンガードでスタン・ゲッツ見てますが、ジョアンがいたような気がするんだけど夢を見ているようで不確か。。。この映画の雰囲気に通じますね。現実なのか、幻の痕跡なのか?笑

1988年にパリに住んだときは、ビデオ作家の中野裕之君の影響も受けて、FNACでボッサのCD買いまくりました。古い音源のものもこのころ多く聞いたと思います。デイヴィド・バーンの「ベレーザ・トロピカル」もこのあたりに出ていますね。

1990年のJAZZの時代になると、HIPHOPでもクインシーのSOUL BOSSAがサンプリングされたり、JAZZ FUNKの流れの中でもブラジル要素のものに光が当たったり、
ラテンやレゲエに続くものとして、またJAZZの語彙の一つとしてブラジリアンミュージックが注目されます。
この時期、踊れるJAZZ BOSSA的なもののCDコンピレーションがシリーズ化されたり、
あのELENCOのアナログリイシューがあったり、すごく面白い時期でした。
私も買えていなかったELENCOのアナログを買い増しました。笑

このELENCOのカバーのアーティストも映画に登場していましたが、「所有する価値のあるレコード」をコンセプトにしたこのレーベルは、白黒赤を使ったアルバムジャケットがすごくかっこいい。いわばブルーノートとかトーキングラウドとか統一感を持ったレーベルのグラフィックが世界観作っています。
そして2003年9月15日、パッシフィコ横浜でジョアンの日本公演を確かに(笑)観ています。
出てきた瞬間から、観客全員が神を見るような感じで、拍手と静寂の中での演奏が、繰り返しながら進みました。途中で寝入ってしまったかのようにステージ上で動くなったジョアンを誰もとがめるでもなく、ただやさしく待つそんなコンサートでした。
中原仁さんが当時のコンサートのパンフレットに書いているように「ボサノヴァの曲、ボサノヴァという音楽は存在しない。(中略)ジョアン・ジルベルトがその声とギターを通じてたった一人で生み出した表現が、創造に向かうジョアンの姿勢が、ひいてはジョアンその人がボサノヴァであるということだ。」ということを心から感じました。

初来日公演パンフレット

川口敦子(以下A):あくまで受動的、主には哲生さん経由で、隣から聞こえてきて、いいなあとそういうレベルの体験です。部屋に確か”Amoroso “のジャケットが飾ってありましたよね。テープを作ってもらったと思うのですがそれを車でどこかに行く時よく聞いていた。80年代の始めの頃のことでしょうか。今回のために、参考で送ってもらったリンクにある曲を聞くとああ、あれあれねと聞けばすごく懐かしく思い出し、どれもいいなあと思います。ニューヨークでスタン・ゲッツと出てきたというのは夢のまた夢のような朦朧の記憶です。チキンのディナーと共に? マンハッタンのどのあたりでしたか。ヴィレッジ・ヴァンガードだったのね。あの78年の夏は私としては画期的に濃いコンサート続々で、いい夏でしたね。

川野正雄(以下M):
ゲッツ/ジルベルトのアルバムは持っています。後ライブ盤CDを持っていたのですが、タイトルがわからない状況です。「イパネマの娘」とか、「黒いオルフェ」とか、一般的な曲はもちろんわかりますが、深追いしたことはありません。
どちらかというと、元妻のアストラッド・ジルベルトの方がよく聞いていました。
音だけあればいいアートストと、周辺を掘っていくアーチストがいますが、自分の中でジルベルトは前者の存在でした。
ジョアン・ジルベルトは、アストラッドに比べると、とっつきにくいのと、やや単調なので、あまり入り込めなかったのだと思います。

名古屋靖(以下N):まだ10代の頃なので、初めてレコードを聴いた時の記憶は定かではありません。
当時ボサノヴァというジャンルに強い興味があったわけでもなく、70年代に多くのJAZZミュージシャンがブラジルに向かっていたクロスオーバーな時代に、その辺の理解を深めるために聴いたのが最初だったかもしれません。その後本人にまつわるエピソードを聞いたり、たまたま目にしたジョアン・ジルベルトのギター教則本で、レコードを聴いただけでは解らない難解な奏法に痺れたりして、何度も聴き直すうちに徐々に深みにはまって行きました。
実体験できたのは2006年11月の国際フォーラムです。川口さんと同じ初来日2003年に弟が先に行っていて絶賛していたものの翌2004年の再来日も見逃してしまい、かなり気合を入れて観に行ったことを覚えています。
数々の噂と逸話の持ち主ですし年齢の事も加味すると、本当に来るのか?演るのか?本人がステージに登場するまで勝手にドキドキしていました。
うるさいので会場の空調を止める。明るいので非常口の灯りは消灯する等、もはや名物とも言える本人のリクエストは聞いていた通り普通に実施されていたし、来日公演ではいつも通り開演時間過ぎてからの「まだ会場に到着しておりません。」から「先ほど宿泊のホテルを出発しました」のアナウンスも観客の温かい拍手に包まれて、全てが特別扱いの別格感でいっぱいでした。
ヨレヨレなスーツで現れた神様は予想以上に可愛いおじいちゃんでしたが、放つオーラは半端なくついに本当のボサノヴァを体験できることに静かに興奮していたのを思い出します。しかし正直言うと、始まって小一時間過ぎた頃には定期的に襲ってくる睡魔との戦いが、まるで禅寺で修行しているかのような状態だったのも事実です。。。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★その体験から抱いていたジルベルト像、あるいは彼の音楽の魅力はこの映画を見た後で変化しましたか?

N:いい意味で変わりませんでした。映画を観る前から変わり者で難しい人なのは認知していました。そんな本人のミステリアスで謎多き点が、その他ミュージシャンが奏でるただお洒落なボサノヴァとの差で、聴き手の勝手な妄想なのかもしれませんが、容易には手の届かない理解不能で、深い沼のような音楽だと今でも思っています。

A:音楽としてはBGM以上に掘りさげた態度で臨んだことがなかったので、映画で彼と彼の音楽を命をかけて探究したマーク・フィッシャーはじめ、魔力のように惹きつけられた人々を知って、正直いうとかなり驚きました。無責任にいってしまうと心地よさとか軽やかさとか、耳に吹き抜ける風みたいな音楽としていいなと思っていたので、映画を見て、その先にある世界に初めて目を向ける準備ができた、そんな感じです。

M:ジルベルト本人に興味を抱いた事がなかったので、知らないことばかりでした。亡くなった事との因果関係含めて、初めて彼の人生を知りました。
ここまで謎が多くて、変人だという事も知りませんでした。
音楽に関しては、多少聞いていましたが、非常に新鮮な気持ちで、作品を見ることが出来ました。

T:二番目の奥さんのミウシャがジョアンについて、インタビューで「ジョアンは本当に特別な人でどうやって定義しようとも言葉足らずになってします。相手によっては相反する印象を与える人なので、本当に難しいわね。」と言っているけれどこの映画でもみんな彼を一つに焦点を結んだ像として捉え切れていないようにも感じられました。
彼のミステリアスさや数々の変人伝説は聞いていてけれど、そのどれもが彼であり
それを反映する彼の音楽は、大量消費されている「耳優しいおしゃれな音楽」に貶められない魅力に満ちていることを再確認しました。

★08年8月26日リオ・デ・ジャネイロで催されたボサノヴァ誕生50年記念コンサートを最後に公の場に現われなかったというジルベルトの謎については前から興味をもっていましたか?

T:そのことについてはあまり意識していませんでしたし、興味を持っていたとはいえません。もはや「パジャマの神様」状態が続いていましたから。

M:全くその事実を知りませんでした。生きているかどうかも、正直死去のニュースを見て、知った次第です。

A:J・D・サリンジャーとかテレンス・マリックとか謎に満ちた存在についてのミーハー的興味はある方だと自認してますが、ジルベルトの謎は初めて知りました笑

N:なぜ公の場に現れなかったのか?その理由について興味はありました。ただ、予定されていた2008年の来日も中止になりましたし、体力や歌、演奏に自信がなくなっていたとしたら、完璧主義者としてはそんな妥協した姿を晒したくはなかったんじゃないかと思います。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★印象に残るコメント、証言者は?

A: 前妻ミウシャのコメントというより、彼女自身は隠遁中のジルベルトとコンタクトをとれる、電話口にも呼び出している、なのにこちらにひっぱり出しはしないというスタンスが面白いなあと感じましたね。あと、マークが訪ねたというレコードショップの主人、これは私の愛聴盤とかいって確か貸出拒否するんでしたか(すみません、見たのがちょっと前なので要確認ですが)、そのマイペースさにしても、ミウシャのスタンスにしても、裏返すとそれを許す、強要しない“探偵役”ガショの人柄の反映なのかなあと思ったりもしました。

N:ジョアン・ドナートとマルコス・ヴァーリが登場したのは嬉しい驚きでした。
二人ともまだ現役で、特にマルコス・ヴァーリは先月新譜をリリースしたばかりで近々来日もします。ジョアン・ドナートはバンドメンバーとして、マルコス・ヴァーリは憧れの人としてジョアン・ジルベルトを語っていましたが、二人ともボサノヴァ・ブームが去った後はレアグルーヴやAOR的な要素を盛り込んだMPBで名を挙げた人です。
マルコス・ヴァーリのHIT曲を電話口で称賛した話は、ジョアン・ジルベルトも人を褒めるのか!と意外でした。
後は、本人が長らく暮らしたホテルの料理人とのエピソードは、まさにジョアン!といった感じで最高でした。

M:元奥さんのミュウシャは個性的ですね。
マルコス・ヴァーリは格好良かったです。
ジョアン・ドナートの話はリアリティがありました。
料理人のガリンシャの話も面白かったですし、ジルベルトのメニューも美味しそうでした。

T:私もマルコス・ヴァーリの電話で彼の歌を歌ったという話。2003年の来日パッンフレットの国安真奈さんの「ジョアンという名の奇跡」にはジョアンが40年代から50年代にかけてのブラジルコンポーザーの曲の莫大な記憶の宝庫で、ボサノヴァ専門書の著者ルイ・カルロスがLPにもCDにもなっていない何十年も聞くことのできなかったブラジルヴォーカルグループの78回転盤を発見したと電話でジョアンに話したら、タイトルを挙げただけで彼はその曲を電話先で歌い、アレンジの細かいところまで再現したようです。電話先で歌うんですね。やっぱり笑

★映画はジルベルトの謎を追うふたり、ドイツ人ジャーナリストでジルベルトを求めての顛末を記した「Ho-ba-la-lá: À Procura de João Gilberto」を上梓し自殺したマーク・フィッシャーと、この映画を監督したジョルジュ・ガショ(フランス生まれ、スイスと二重国籍をもつ)による二重の探偵物語といえるような構造をもっていますが、その点についてはいかがですか?

T:その二重構造が見えないゴールを目指すこの映画をとてもスリリングに面白いものにしていたと思います。探す痕跡はジョアンのものなのか本の作者マークのものなのか?はたまた探しているのはマークなのかジョルジュなのか?マークの言葉なのか、ジョルジュのものなのか?
離れそして交わりしながら進む感じがとてもおもしろかった。

M:ミステリーのようで、面白いですね。ジルベルトに魅了される理由とか、そういう部分含めて、より深い理解が出来ました。
マークはドイツ人で、何故ここまでジルベルトに惹かれたのか。そこが特に気になりました。
マークに関しては、マーク自身の事も、もっと知りたくなりました。彼がどんな想いで帰国し、なぜその後死んでしまったのか。

N:ボサノヴァのように気持ち良く漂うような映像なので、スペクタクルな点では大きな抑揚はありませんが、ジョアン・ジルベルトを執拗に追いかけた2人の心情の浮き沈みや重なり具合がさながらサスペンス映画を見ているようで最後まで飽きさせませんでした。

A:この構造が私には映画の一番の面白さとして迫ってきました。フィルムノワールの王道というか、探すべき相手をみつけられずに自分をみつける、あるいは退路を断たれ迷宮、迷路に閉じ込められてしまう、その解決のなさが魅力というのかな。謎の答えそのものよりも探究自体が物語となっていくんですよね。ドイツ語でマーク役のナレーションが入る、それがなんとなくヴェンダースの映画みたいな気分にさせる所もありました。
ジルベルト以上にマーク・フィッシャーという人についての映画ともなっていますが、彼が書いた「Ho-ba-la-lá: À Procura de João Gilberto」、英語版がないかと探したんですがまだ出ていないようで、読んでみたいですね。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★もともと42のシーンと会話のあるフィクションとして脚本を書いたと監督はプレスのインタビューで述懐しています。きっちり区分けするのは難しいと思いますがドキュメンタリーとフィクション、どちら寄りの一作としてご覧になりましたか?

N:ドキュメンタリーは、ある程度冷静な視線と両方向の資料分析が出来て納得の内容になる分、感情移入しづらいところもあります。
この映画は自分が3番目の主人公になったようで、どんな結末を迎えられるのか不安と期待で相当気持ちが入りました。その点ではフィクションに近いのかもしれません。

A:前の答えと重なりますが私は答えのない探偵映画としてかなり愉しみました。ただインタビューで監督が「予期していなかった様々なドキュメンタリーの状況によって豊かなものになりました」とフィクションとして準備したとのコメントの後に続けているのはなるほどと思えるんですね。

M:42のシーンというのは、マークの軌跡を42の場面に切り分けて構成したのだと思いますが、そこを実証していくという正に探偵的な手法だと思います。
結果的には事実の積み重ねですから、ドキュメンタリーというカテゴリーにはなりますが、演出されたドキュメンタリーと言って良いと思います。
意図を持って撮影していく手法は、フィンクションではなく、ドキュメンタリーとして必要だと思います。

T:私にはジョアン、そしてマークの足跡を追うドキュメンタリーよりの映画に感じられました。彼に関わる、ブラジル音楽のレジェンドたちのインタビューの積み上げがその間を強くさせていたと思います。

★これまでシネマ・ディスカッションでとりあげてきた人物をめぐるドキュメンタリーと比較してどのあたりに面白さを感じましたか?

M:取り上げた訳ではありませんが、アフリカでブレークした幻のシンガーを探す『シュガーマン 奇跡に愛された男』や、ファンが消息不明のスライ・ストーンを探す『スライ・ストーン』が似た作品と思いました。
特にスライ・ストーンの作品は、演出的な物足りなさは残りましたが、監督がスライを探すという構造は似ていますね。
これまでシネマ・ディスカションで扱った作品は、バイオグラフィーの要素が強かったりしますが、この作品はバイオの要素は低く、マークとジベルトの2重の軌跡を辿るロードームービー的な面白さを感じました。

T:いわゆるバイオピクチャー然としていないところ。先に行った二重構造かな。

A:今年紹介したサラ・ドライバーのバスキアの映画がニューヨーク ダウンタウンの一つの時代を切り取っていたように、ここにもブラジルの街路、そのルックとボサノヴァの響きの共鳴があるような気もしました。音楽的にきちんとわかってないのでおざなりな感想になってしまいますが。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★ポルトガル語でいう「サウダージ」、ドイツ語でいえば「憧れde Schunsucht」がマークの本と監督の映画に通底する探究の原動力と監督はプレスで記しています。そんな原動力についてはどんなふうに思われますか?

N:おそらく絶対に手に入らないと最初から分かっている何かを手に入れたいと願い恋い焦がれるのが「サウダージ」。
手に入るか入らないかは別として、その道のりにある苦難や小さな喜びの方が終着点より深く記憶に刻まれている事はよくありますね。
マーク・フィッシャーの結末はハッピーではないと思いますが、監督はこの映画を撮る事でそんなボサノヴァの深みを伝えてくれていると思います。

T:SAUDADEはブラジル音楽には根底に流れるテーマです。爆発的な感情の発露の瞬間でなく、持続される時間、継続される時間の流れの中の感情です。
ブラジル音楽のマイナー、メジャーへの転調の中に私は感情の揺らぎやSAUDADE的な時間軸を感じています。
叶わない想い、恋焦がれる想いが時間軸とともに増して行く、そんな感覚が映画の中にも流れているように感じました。

M:実は全く「サウダージ」という言葉に馴染みがなく、コメントがしにくいのですが…。
日本人の影響のエピソードが映画にも出てきますが、監督のガショやマークなど欧米人からしたら、何故極東の日本まで何回もジルベルトが訪れ、日本人に愛されていたのか、よくわからなかったのではないかと思いました。
逆にライブをやらないジルベルトが、2回も日本に来てくれたのは、嬉しい事です。
川口君や名古屋君がいつになく熱く語るのを見ると、ジルべルトの日本でのサウダージというものが、確実に深くあるんだなと思いました。

A:決して叶わぬものを求め続ける気持というと、いっぽうに「白鯨」の船長とか「老人と海」とかアメリカ文学の中にある狂気をはらんだ執着というのもあると思うのですが、そういう求心性、あるいは急進性と異なるたゆたい、微睡の中で断ち切れない思いの心地よさと悲しさみたいな感触の、その力みたいなものを思い浮かべ、この映画のあてどなさというか、歩調の緩慢さのようなものを重ねて見ました。

★映画を通して、それぞれが何を見つけたのでしょうか?

N:永遠に手の届かない憧れだと再確認はできたけれど、何も見つけられないまま。
先日の逝去のニュースは88歳という高齢なので「ついにその時が、、」という気持ちもありましたが、ちょうどこの映画を見終わったタイミングでもあり、喪失感は大きいなものでした。結局いろいろな事は分からないまま、多くの謎を残してこの世からすっと消えてしまった感じです。
これからもジョアン・ジルベルトの事を考えながら彼の歌を聴き、底なしの沼にズブズブとのめり込んでいく事でしょう。

M:ともかく音でしか知らないアーチストでしたので、そのミステリアスな生き方を知っただけでも価値は大きいです。
また亡くなった事で、よりこの映画の中での探求の意味合いが大きくなったと思います。
個人的にはジョアン・ジルベルトという巨人の姿を垣間見れたのが、大きかったですし、今まであまり関心のなかった人としての興味も湧いてきました。
ストイックな姿勢を貫くアーチストは、音楽界にも映画界にも少なからずいますが、ここまで徹底した生き方をしている人は、自分の知っている限り、他にはいません。

T:恋焦がれて手に入れたいものが手に入るとは限らないが、それが「ジョアンを通じてマークの中に自分自身を見出した」そういう体験であったり、QUEST ITSELF IS REWARDと言う感じかな。

A:QUEST ITSELF IS REWARD――ナイスですね!

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

『ジョアン・ジルベルトを探して』
©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018
配給:ミモザフィルムズ
8月24日(土)より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開中。

Cinema Discussion-28/ワークショップ発ギョーム・ブラックの挑戦~『7月の物語』

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクルルージュのシネマ・ディスカッション。
第28回は、デビュー作『遭難者』+『女っ気なし』が、このシネマ・ディスカッション第1回だったセルクルルージュ一押しのフランス若手作家ギョーム・ブラックの新作『7月の物語』です。
前作『やさしい人』は長編第1作として、常連俳優ヴァンサン・マケーニュを主軸にした見事な作品でしたが、今回は2本の短篇に分かれており、2016年7月のパリとその郊外を描いたものとして、ひとつの作品を構成しています。
ギョーム・ブラックといえば、俳優との入念な準備をする印象がありますが、今回はフランス国立高等演劇学校の学生たちとのワークショップから作り上げた作品で、役者も全員学生です。
俳優と場所を熟知したうえで撮影に臨むギヨーム・ブラックですが、今回の俳優たちのことは何も知らない為、はじめに俳優たちの家に行き、彼らの夢、政治とのかかわり方、恋愛事情などについて話を聞いて、親密な関係を築きあげていったといいます。
撮影場所は、幼少のころから馴染みのあるセルジー=ポントワーズ(「日曜日の友だち」)と、自宅近くの国際大学都市(「ハンネと革命記念日」)。
撮影期間はそれぞれ5日間、そして3人の技術スタッフと少ない機材で行ったギョーム・ブラックのチャレンジです。

ディスカッションメンバーは、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。

「女っ気なし」

★『遭難者』『女っ気なし』そして長編デビュー作『やさしい人』とシネマ・ディスカッションで追いかけてきた監督ギヨーム・ブラックの新作『7月の物語』ですが、これまで主役を務めてきたヴァンサン・マケーニュなしで、演劇学校の学生たちと素早く撮った今回の映画はいかがでしたか?

川口哲生(以下T):
そうですね、明確な主役ヴァンサン・マケーニュがいた映画では、どうしても彼を中心に映画を観、彼の心情に寄り添い、彼の視点で風景を見る、といった流れになりますが、今回の短編2編では、演劇学生たちの役割のイーヴンさ故に、それぞれの登場人物の心情を行きつ戻りつしながら観たように感じます。「思ったようにはいかない人」が次から次に入れ替わるような。笑
アドリブを多用したとのことですが、人間関係の自然さも感じました。

名古屋靖(以下N):
今まで観た作品より若々しさというかフレッシュな印象はありました。 短編なのもありフランス映画だけど忍耐力は必要としない、いかにもありそうな題材を、演劇学校の学生ながらそれぞれキャストの心の揺らぎや喜怒哀楽を細かく引き出しているところはこの監督らしかったです。

川野正雄(以下M):
やはりヴァンサン・マケーニュの存在感は大きかったですね。彼の視点というか、基軸で映画の中に入って行く感がありました。
彼がいない分、また中編的な尺であるという事含めて、全2作よりは薄味な風味に感じました。
自分はあまりエリック・ロメールの作品の造詣は深くはないが、リゾートで起こる1日的な風合いは、フランス映画ぽいなと思いました。
同時にホン・サンスの即興性との共通項も感じたのですが、インタビュー見るとホン・サンスについての話も出ていたので、自分だけではなく良かったです。
男女のちょっとした感情の動きの描き方とか、そういう繊細さみたいな部分と、即興性のような演出が、共通点として感じました。

川口敦子(以下A):
みなさんも仰るように、ヴァンサン・マケーニュがこれまでのブラック映画に占めてきた大きさを、今回その不在によって改めて実感しましたね。ただ、逆によりポジティブな効果になっている面もあるなあとも感じました。あのダメダメ男の悲哀というのかおかしさというのか、それが強烈に前面に出てこない分、より繊細にそれぞれの人物の心情の推移が漂ってくるようで、前篇の水辺の景色、夕暮れに向かう空気や風や温度の推移ともよりしっくりとなじんでいる。
いっぽうで俳優としての強烈な個性はないけれどキャラクターの個性という面ではブラックの映画を構成するだめだめ男、ちょっと控えめな女の子、もう少しぐいぐい自己主張する気のいい女の子と、例えばリュシーとミレナは『女っ気なし』の娘と母の個性とも重なるようだし、学生たちとの即興のワークショップから生まれたとはいっても、やっぱりまとめるブラックならではの映画となっているのは監督としての逞しさみたいなものの証明にもなっているんじゃないかしら。

★第1部2016年7月10日「日曜日の友だち」と第2部2016年7月14日「ハンネと革命記念日」という2つの短編で構成されていますが、この構成に関しては?

M: ワークショップを3チームに分けて、3本撮ったんですよね?3本あった方が、見応えはあったと思いますし、3本並んだら、長編として成立しますね。
実際に学生達と制作するとなると、あまり長いものよりも、中短編の方が濃縮されて、良いのではないでしょうか。
お芝居含めて、1本づつは程よい長さと構成ですね。
ワークショップという性質上、撮影期間も5日間とか短く、役者とのコミュニケーションや台本にも、色々工夫がなされたとインタビューで読みましたが、まとめ方の旨さは、さすがだなと思いました。

T: いかにもフランスのごく日常にありそうな話ですが、パリからRERで40分ぐらいのセルジー=ポントワーズのレジャーセンターとか14区の国際大学都市とか、いわゆる中心としてのパリではない、ブラックのほかの作品にも共通する「周縁的な日常感」を感じさせるロケーションの組み合わせが面白かったです。

N: 学生を使って若者たちの数日間を映画にするには、一つの重くて長い物語より全く違う二つのエピソードを重ねて軽快に見せたほうが、彼らのあやふやというか未熟な魅力は感じられたかと思います。役者に多くを頼らず、粘らず素早く撮れたのも短編だからかと。

A: 『女っ気なし』で取材した時だったと思うのですが、僕の映画は中間に切断面のようなものがあって、楽しく始まった何かがそこを通過すると一転してしまう、楽しいままでは終われなくなる――といったことをブラックが話してくれて確かにどの映画にもそういう明暗の転換点のようなものがあるなと思うのですが、今回もそれぞれの短編にそれがあり、同時に2編を通じて何かより大きな切断面を、前後を通じて見ることで感じさせるようにも思えて興味深かったですね。それが単なる夏のガールハント物語のようにみえた軽やかさの向こうに広がる深みようなものを招き寄せているようにも思いました。で、最後には淡い希望、とまではいかなくてもそれでも続く毎日といった、諦めの明るさみたいなものがやってくるって所もいいですね。
哲生くんがいうようにパリならパリの中心部ではなく周縁的な場所を選ぶというのも面白いですよね。『遭難者』『女っ気なし』のオルト、『やさしい人』のトネールとどこか忘れられたような人と土地が好きみたいな監督の好みというんでしょうか、リュシーとか、後半の消防士とか生き難そうにしている人への共感みたいなものを二つの短編を合わせることでよりくっきり浮かび上がらせてもいる気がしました。

★特定の日付を指定している裏にはこの年、この時期にかけて労働法改正案撤回のデモやパリ、リパブリック広場を起点とした夜通しの演説集会Nuit Debout(立ち上がる夜)の全国的な広がりとフランス国内が騒然としたという背景があり、また15年のパリ同時多発テロの記憶も冷めやらぬ時、16年革命記念日にニースで新たなテロが勃発ということがあるわけですが、一見、シンプルでパーソナルな女の子同士の友情とか男女の恋のさや当て物語ともみえる映画にそうした政治的、あるいは時事的要素を取り込むブラックの姿勢、あるいはその方法についてはどう感じましたか?

T: さっきも触れたけれど、ざわついている中心でない周縁で、そうした政治的熱気やざわつきと時を同じくするごくパーソナルな話が語られるのが面白い。
より『ハンネと革命記念日』の方にそれを感じたけれど。
大好きな映画の『特別な一日』の大きなアパート群の全ての住人がファシスト集会に借り出された後のぽっかり空いた空間と時間の中での特別な情事みたいな。。。
革命記念日のシャンゼリゼのパレードや花火に人が集まる中で、大学のドミトリーの真空地帯みたいな感じがいい。
その日の特別さはそれそれにとってごくパーソナルな悲劇なんだけれど、挿入されるテロのニュースによりその悲劇はとるにたらないことの様に観ている人には思えてくる。
「その日の特別さ」の多層性がフィクションとリアリティが入り混じって意味を持っているように感じました。

M: その部分に関しては、ちょっと強引にも感じました。しかし強引でもテーマの中に、そういう現実の大きな問題を絡ませる事で、作品を撮る意義とか、単なる恋愛すれ違い映画ではなくなる瞬間とか、そのような価値も合わせて生まれてくるのかなと思います。
今回はニースのテロが偶然重なり、そこへの感情的な憤りも含めて、挿入されるエピソードになったのだと思います。
ただ映画の流れ的には唐突感というか、そこまでに出てきた問題~人種とか男女間とか、そういうものとの乖離を、少し感じてしまいました。
ただゴダールのパリ革命ではないですが、監督がそういうテーマに正面から対峙するのも、あえて言うと、ヌーベルヴァーグ的かなと思います。

N: 物語の登場人物たちは今のフランスの深刻な問題に直面している当事者ではないし、出演者は若者ばかりでどこか他人事な雰囲気もあります。2話目など留学生寮のお話ですし別にフランスでなくとも成立するかも。そこに現実の時事的要素を取り入れた演出、例えばニースのテロを持ってくることでこの作品が、若者の戯言なだけでない自分にも身近なフランスの今を感じることは出来ました。でも時事的要素を盛り込むことで問題定義したり何かしらのメッセージが発せられているとは感じらませんでした。監督がそれを求めていたのなら川野さんがおっしゃるように少し強引な印象です。

A: 生半可な知識しかないのでおそるおそるいいますが、やはり今、人種とか移民の問題というのは欧州映画の多くに見られる避けて通れないテーマなのだろうなと。
もちろん後半は留学生寮の話なのでそれがより鮮明に出ているけれど、学生たちとアルメニア系の消防士との関係、かなり正直にそこにある上下関係のようなものを映画はみつめてますよね。その意味では前半のリュシーとミレナはどういう仕事の同僚なのかはっきりと描かれてはいないけれど、理不尽な怒りを抱えてもいそうですよね。出だしのリュシーの激しい不満のぶつけ方とか。で、彼女たちにしても、レジャーセンターで出会う警備員とそのガールフレンドにしても、フランスで生まれてはいるんだろうけれど、多分、ルーツは北アフリカとかのあたりにありそうで。純粋な白人種は森で出会う剣士だけなのかな。
そういう配役からもブラックがプレスのインタビューでいっている「政治的発言に纏わる映画を」との気持がスタート時点でまずあったんだなと感じ取れますよね。そうさせるような切迫感が当時、あったんだなとも感じましたね。最後のテロのニュースをかぶせる部分もだから、下手をすればあざとくなるのだろうけれど、そうはなっていなくてよかったなと。

「やさしい人」

★『女っ気なし』では海辺のさびれたヴァカンスの町オルトの実在の人々が出演していましたね。また『やさしい人』ではフィルムノワール的な話の展開の緻密さのいっぽうで雪や雨という撮影現場で遭遇した現実が映画にマジックをもたらしたと監督は語っていたのですが、今回もドキュメンタリー的なものとフィクションとを並び立たせようとしている、そのあたりに関してはどうご覧になりましたか?

A: ホン・サンスの『自由が丘で』に出演した加瀬亮さんが取材で語ってくれたことなんですが、少し長くなりますがまず引用しますね。
「画面の中で説得力、“自然”(この言葉も本当はきちんと定義しなくちゃいけないんですけど)が成立すればホントになる。でもそれは監督それぞれが作る画の世界の中での”自然”なので。例えばロメールでもホン・サンス監督でもいいんですが、仮にいまここで撮影しているのを見たとしたら、ものすごい熱量で役者が芝居をしていることがわかると思います。”自然”に見えるための”不自然”をしている。ロメールの映画で役者が”自然”に見える、それは何もしないでそのまんまの感じでいるというのとは全然、違いますよね」
で、ドキュメンタリーのように見える自然を作り込む演技、それを最終的に活かしていく監督の演出の力の大きさを加瀬さんは仰っていたのですが、今回のブラックの映画をみると、実際、彼の演出の力を改めて噛みしめたくなりました。

T: 一つには演劇学校の生徒たち、特に実生活での繋がりがある人たちを起用して、アドリブを多用し撮っていますが、川野くんが言っているようにホン・サンスに通じる「撮影現場で遭遇した」感が感じられました。
もう一つはプログラムを読んではじめてわかりましたが、『ハンナと革命記念日』は現実のニーステロが起こった次の日に撮られてており、その現実が演じる人の内面に作用して「悲しい酒」のリアリティを高めており、また元々はなかったテロのニュースの音を編集段階でハンネが泣いている映像にインサートしているんですね。
フィクションとリアリティが複雑に関係しあって、作品に特別な一日が刻印されるような作り方は大変興味深かったです。

M: 確か『女っ気なし』の併映の、検問に引っかかる短編『遭難者』にも、そのようなテイストを感じました。あまり芝居芝居しない演出は、ブラックの特質かと思います。
演出としては、とても洗練されていると思います。
会話の中に芝居っぽさがないんですよね。
多分そこは事前の俳優たちとのコミュニケーションや、年密な準備から入っているのではないかと思います。今回はワークショップという事で時間がなく、監督が役者の家に行くなどして相互理解を深めたといいますが、監督の要求が、役者に対して、どういうものなのか、気になりますね。

★出演者――演劇学生の中で、もし製作者だったらスカウトしたいのはどの人?

A: ちょッと外した所をいいたかったけど、やっぱりリュシーとハンネかな(笑)

T: リシューでしょうか。。。

N:  アルメニア出身の消防士が良かったです。東ヨーロッパの果てに位置するアルメニア出身のティグラン・ハマシアンという孤高のJAZZピアニストがいて個人的にファンなのですが、この消防士の容姿とコンテンポラリーダンスを踊る姿はそのティグランの純粋無垢で神秘的な姿と重なりました。

M: やはりリシューかな。名古屋君のアルメニア人の消防士も良かったです。以前上司が、カナダ生まれのアルメニア人だったのですが、移民というか色々ヒストリーがあるようでした。少ない登場人物の中に、人種の多様性が織り込まれるのは、たまたま学生達が多様な人種だったのかもしれませんが、ギョーム・ブラック的ですね。

「戦士たちの休息」

★併映されるドキュメンタリー『勇者たちの休息』は、どのような印象でしょうか?

M :あんまり適切な表現ではないかもしれませんが、NHK-BSの世界のドキュメンタリーを思い起こしてしまいました。
よく見るのですが、それまで興味や知識の全く無かった色々な知らない世界観を垣間見れて、面白いんですよね。
リタイアした人たちのチャレンジとして、こんなレースがあるんだなと。そして運送業の人が、チャレンジしているのも、面白かったです。
移動が仕事の人は、引退しても移動に魅力を感じるんだなあと思いました。

N: 『7月の物語』との対比が面白かったです。 情緒不安定だけど、やっぱり友情が大切な部分を占める若者達と、子供の頃から変わらぬ一途さで、究極友達は自転車だけでいい老人達。そんな2本のカップリングは見事だと思いました。度々登場する被写体の後方で関係ない行動をしている、おじいちゃんたちの自転車乗り独特の日焼け跡がなんともかわいい。

A: 遅々として進まない自転車を漕ぐ人の姿とアルプスの山道とを背後から辛抱強く、ぐらりとめまいがするような浮遊感に満ちた映像で切り取っていく冒頭から惹き込まれました。そこにもうあまりに豊かに物語が溢れ出ていて、ドキュメンタリーを”演出する”監督の力をもう一度、実感しました。

★ギヨーム・ブラックという監督、そしてその映画のいちばんの面白さはどのあたりにあると思われますか?
A:今回のロメール、前作のトリュフォー、その前のジャック・ロジェと、どうしたってヌーヴェルヴァーグの監督たちと比べたくなる、今回はいっそもう比べなさいと誘惑するように撮ってますよね。一日一本見ないと不安になった、そんな時代もあったとも語ってくれたので、シネフィルに違いないんでしょう。だけど、その“おフランスな映画狂的”価値観を一度覆す、距離といったらいいのか、それを自覚的に保って、ジャド・アパトーとかアメリカ映画の面白い所にも目をやって、で、その上で自分の世界を確かに、かなり頑固に究めようとしているところがいいなあと思うんですね。先ほどもいったと思いますがその自分の世界の軸になるのが生き難さを抱えた人の姿というのでしょうか。周囲も含めて人に対する観察の目。撮り方の部分も含めた押しつけがましさのなさ。それらを守りながら物語する繊細さが好きです。

T: 描かれ「いとおしい不器用さ」ですかね。私は『優しい人』とか『日曜日の友人』のエンディングの、それでも明日に続くといった感じがとても好きです。

M: テレ東の『山田孝之のカンヌ映画祭』に出てきたギョーム・ブラックを見て、思ったよりも若くて、ハンサムで、知的で、全てを満たしたような人だなと思いました。
合わせてその番組にキャスティングされているという事で、やはり注目されている存在なんだなあと、改めて認識しました。
面白さは一言では表現しにくいですが、絶滅貴種になりつつあるヌーヴェルヴァーグ的な監督なんだけど、その風合いは独特なところでしょうか。
面白さは、何気ないシーンに込められた笑いとか、皮肉とか、そういうエッジの効き方ですね。
今回の作品でも、彼のそういった面白さは、随所に感じました。
ただ資料見ると『やさしい人』を撮ったのが、2013年。そこから5年以上長編を彼のような才能ある監督が新作長編を撮れないフランスの状況が、気になります。
今回も依頼があって、好きにワークショップをやっていいというオーダーから生まれた話で、彼の本来の流れから撮った作品ではないですね。
レオス・カラックスですら、なかなか難しい状況だと聞きますが、ギョーム・ブラックは1年に1本くらいコンスタントに作品を作って欲しいと思います。

N: 物語は映画ごとに違いますが、登場人物はみないい人たち。だからと言ってフワフワした作風な訳ではなく、ツッコミどころはたくさんあるけど憎めないというか、気分を害する悪人は出てこないですし。曖昧な言い方ですが、この監督の作品は後味がいいです。 あと監督の色使いが好きです。「日曜日の友だち」の帰りの車窓や「ハンネと革命記念日」の寮から見える少しだけ滲んだ夜景、『勇者たちの休息』でアルプスをヒルクライムする映像など、ため息が出るほど美しい。

『7月の物語』
Contes de juillet 2017年(71分)
2017年 / フランス / フランス語 / カラー / 71分 / 1.33:1 / 5.1ch / DCP / 原題:Contes de juillet / 日本語字幕:高部義之 / 配給:エタンチェ / © bathysphere – CNSAD 2018

『勇者たちの休息』
Le Repos des braves 2016年(38分)
(『7月の物語』と併映)
2016年 / フランス / フランス語 / カラー / 38分 / 1.85:1 / 5.1ch / DCP / 原題:Le Repos des braves / 日本語字幕:高部義之 / 配給:エタンチェ / © bathysphere productions 2016
contes-juillet.com

6月8日より渋谷ユーロスペース他、順次全国公開予定。