ホン・サンスワールドを堪能する2作品同時公開『イントロダクション』『あなたの顔の前に』/Cinema Review-14

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映画を複数視点で解題するセルクルルージュのCinema Review第14回は韓国の鬼才ホン・サンス監督の2作品です。
ホン・サンスはセルクルルージュでもこれまで2回取り上げていますが、世界中で評価の高い韓国の名匠です。
”動”のポン・ジュノに対して、”静”のホン・サンスという立ち位置で、特にヨーロッパで圧倒的な支持を得ています。
第71回ベルリン国際映画祭銀熊賞(脚本賞)受賞『逃げた女』に続くホン・サンス監督の長編25作目『イントロダクション』。長編といっても66分の作品です。
『イントロダクション』と同じく2021年に発表し、カンヌ国際映画祭オフィシャルセレクションに出品された長編26作目『あなたの顔の前に』。こちらは85分と、程よい尺の作品です。
この2本の同時公開に合わせて、映画評論家川口敦子と、川野正雄のレビューでご紹介致します。

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★川口敦子

 小春日和のある日、ガールフレンドと坂道の途中で別れると父の韓方医院へと導く階段を上った。久々の訪問に看護師は懐かしいと満面の笑みで迎えてくれた、話があると疎遠の僕を呼び出した父は施療に忙しく、ほったらかされた僕は簡素な待合室のソファで退屈をもうしばらく持て余している。お茶のおかわりはと扉から顔をのぞかせた看護師のいうことには、撮影帰りに寄ってみたと父の下にふらり現れた客人は、演劇界の重鎮俳優とのことで、予約なしの彼に父は鍼を打ってやっているらしい。
 待ちくたびれて煙草を吸おうと表に出たら雪だった。さっきまでの晴天が嘘みたいだ。舞う雪を眺めていると看護師が寒そうにカーディガンの前を合わせながら脇に並んだ。
「ずっと前、私になんていったか覚えてる?」「”愛してる″って、そういったわ」
いきなり昔のことをいわれてどぎまぎし、でもその頃の思いがふっとこみあげてきて気づいたら僕の肩先くらいまでしかない小さな彼女を抱きしめていた。若かった頃の、ちょっと憧れていた年上の彼女を思ったら「やつれたね」「ずいぶんやせたね」なんて心無い言葉が口を突いて出た。居心地悪さと懐かしさとが溶け合ってなんだか時が止まったように感じられもしたけれど、相変わらず雪は舞い、寒気が気持ちよく頬にささる。そんな午後、世界を新しくする雪の前で彼女と僕はしばらくじっと言葉もなく白さに見惚れ、立ち尽くしていた――。

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――なんて、ホン・サンス25本目の長編『イントロダクション』の、美しくそぎ落とされたモノクロームの時空を思い返しつつ、3つのパートから成る映画の最初の挿話を書き起こしてみると、銀幕上でいっそそっけなく素描のように展開されていた、ことの次第が意外なほどの奥行を伴って私なりの物語りを語り始めていることに驚き、ほうっとため息つきたくなるような感慨にとらわれた。
実際、久々に人と人とが再会し、ぽつぽつと他愛のない言葉を交わし、お茶をのみ、煙草をすい、降る雪を見る。そんな束の間に起きたこと、なされたこと、語られたことを坦々と並べただけとも映るホンの映画、確かにそこで人と人とはいきなりハグしたりもするけれど、だからといって劇的なドラマが繰り広げられるわけでもなく、ああ、そんな日もありき、寒い寒い日なりき――みたいな懐かしさをさらりと置いて次の挿話に進んでいく、ただそれだけと見える彼の映画がしかしただそれだけでは済まない豊かで芳醇な感情のドラマを、見る人それぞれに沈殿させているようなこと。その凄みに改めて撃たれずにはいられなくなる。
3つめの挿話まで見終えてみると、開巻部でセカンドチャンスをと祈る父、その彼の下を突然、訪れた俳優、その俳優に息子の将来に関する助言をと酒を酌み交わしつつ求める母、そんな酒席のいたたまれなさに席を立つ息子、波打ち際で死のうと思ったと彼にほほ笑む元恋人(の夢)――と、反芻するほどに壊れた家族や壊れた恋、将来への空しい夢といった広がりが坦々の向こうに浮上してくる。そんな物語の深度、その興味深さとそんなスリルをどこまでもシンプルに語り切る監督の話術の妙に気づいてもう一度。しみじみため息つきたくなってくる。さりげなく深い世界にさらに惹き込まれる。

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反復とずれの話術を鍛え構築されてきたホン的世界の美しい単純さと豊かさとをそうやって『イントロダクション』で嚙みしめた直後、差し出された『あなたの顔の前に』、そこで切り拓かれた新たな位相、静かな跳躍は、ホンの世界のさらなる到達点を鮮やかに示唆してみせる。アメリカ帰りのヒロインの一日、”心の旅″、祈りの時空としての現在――。一見、平和な日常がくわえ込んだドラマを知らん顔を通すことでスリリングに開示していく映画は、未然形のロマンスの背中をみつめる雨の裏通りの一景では一瞬、ウォン・カーウァイしていると海外紙の評者をくらりとさせたりもしてみせる。全編に立ち込めていく明澄な懐かしさは生/死と対峙して心地よく生きることをめざしてきた監督が踏み入った、目の前の世界をありのままに受け容れる清新な境地、その澄んだ強度を響かせて生き生きと輝き、そうして次の一作を(実は既に完成ずみなのだが)待ち遠しくさせるのだ。

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★川野正雄

ホン・サンスの作品の魅力を言語化する事は難しい。
セルクルルージュでもこれまで2回ほどホン・サンスを紹介しているが、毎回どのように作品を伝えるべきか、悩んでしまう。
他の韓国の監督作品のように、次々に事件が起きるわけでもなく、感情が激しくぶつかり合うシーンが連発するわけでもない。
ほぼ淡々と進みながら、小さな仕掛けがあり、観客は徐々に事態を理解していくが、与えられる情報量は少なく、余白の多い作品になっている。しかし決して退屈なわけではなく、むしろ見終わるとすっかりホン・サンスワールドにハマってしまうのが常だ。
今回の2本も、正にホン・サンスワールドだが、趣は微妙に異なっている。
モノクロームで3つのエピソードから成る『イントロダクション』は、これまでのホン・サンス作品路線である。
相変わらず説明や情報は少ない。観客は頭の中で時系列を整理する必要がある。
冒頭若者が父親の病院を訪問した際、看護師が素敵な笑顔で応対する。後程その笑顔の理由は明らかにされるが、周辺の事情は最後まで明らかにされず、観客はその隙間を自らの想像力で埋めていくしかない。
若者が俳優を生業にしている事が、徐々に明らかになる。
第2話はベルリンでの情景。常連のキム・ミニがサラッと登場するが、存在感が薄い扱いである。
第3話ではホン・サンス名物の、長回し食事シーンが登場する。恩人との会食だが、珍しく感情的な場面が生まれる。
細かな人の出入りも含めて、観客はこの会食に同席しているような気分になる。この会食のシーンが作品のクライマックスである。

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『あなたの顔の前に』は、これまでのホン・サンス作品とは少し違う。淡々と進むのは変わらないが、徐々にドラマティックな展開になってくる。
時々素晴らしい表情を見せる妹とのやり取りから始まるが、ここが本筋ではなかった。
主役は『イントロダクション』同様俳優であるが、女優である。
クライマックスはこちらも食事のシーンである。相手は映画監督である。お店の予約の変更から始まる小さなズレが、会食の冒頭から感じられる。
主役のイ・ヘヨンは徐々に顔も赤くなり、明らかに酔った風情になっているが、会話はどんどんスリリングになってきて、ドキドキする。
言語化すると陳腐になってしまうのだが、この会話だけで緊張感を上げていく手法は、ホン・サンスならではの素晴らしい演出である。
そして『イントロダクション』では埋めなかった物語の余白が、この作品では埋められていく。ここがこれまでとは違う変化であり、次にどこに向かっていくのか、非常に気になる。
終盤にはこれまでのホン・サンス作品ではあまり語られなかった人間の根源的なテーマにも踏み込んでいる。
今年のベルリンで銀熊賞を獲った新作も早く見てみたい。
多作でありながら、微妙にさじ加減を変えて進化していくホン・サンスを知るには、最適の2本である。

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『イントロダクション』
監督・脚本・撮影・編集・音楽:ホン・サンス 
出演:シン・ソクホ、パク・ミソ、キム・ヨンホ、イェ・ジウォン、ソ・ヨンファ、キム・ミニ、チョ・ユニ、ハ・ソングク
2020年/韓国/韓国語/66分/モノクロ/1.78:1/モノラル
原題:인트로덕션 英題:Introduction 字幕:根本理恵 配給:ミモザフィルムズ
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『あなたの顔の前に』
出演:イ・ヘヨン、チョ・ユニ、クォン・ヘヒョ、シン・ソクホ、キム・セビョク、ハ・ソングク、ソ・ヨンファ、イ・ユンミ、カン・イソ、キム・シハ
2021年/韓国/韓国語/85分/カラー/1.78:1/モノラル
原題:당신 얼굴 앞에서 英題:In Front of Your Face 字幕:根本理恵
配給:ミモザフィルムズ  © 2021 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved
【公式サイト】http://mimosafilms.com/hongsangsoo/

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