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4Kで再発見するウォン・カーウァイと、香港の現在地/Cinema Discussion-46

「天使の涙」© 1995 JET TONE PRODUCTIONS LTD. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
第46回は、旧作と新作をコンビネーションして、香港を見つめます。
90年代以降香港を代表する映画作家となったウォン・カーウァイ作品の4Kデジタル修復版特集上映と、現在の香港の状況を見つめるドキュメンタリー作品『時代革命』、『Blue Island 憂鬱乃島』を取り上げます。
ウォン・カーウァイ作品は『WKW4K』というタイトルで、出世作『恋する惑星』から、『天使の涙』、『ブエノスアイレス』、『花様年華』、『2046』までの5本です。
今回も映画評論家川口敦子と、川野正雄の対談形式でご紹介します。

「ブエノスアイレス」
© 1997 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

★ウォン・カーウァイ(以下WKW)自らスクリーン・サイズや音声にこだわりつつ修復作業にあたったという5作品の特集上映ですが、まずはミニシアター・ブームを支えた90年代から00年代の彼の映画をどんなふうに見ていましたか? 

川口敦子(以下A): WKW以前の香港映画というと、個人的にはこの仕事を始めて間もなくの頃、映画ファン雑誌で大人気だったジャッキー・チェンのクンフー・アクションがあって、香港に最初に行ったのもその関連のファンの集いを取材するものだったりしたんですね。ベルモンドとも通じる捨て身のアクションとブルース・リーとは一味違うお茶目なキャラクターで独自の境地を啓き、また監督としても侮れないものがあったチェンでしたが、ファンになるというのとはちょっと違ったところから距離をもって眺めていた、そんな気がします。もちろん同時期には台湾、中国映画の新たな作家たちへの注目もあって、その流れの中でアン・ホイの『望郷』とか香港ニューウェーブの動きにも注目する感じでしたね。ちょうどその中心的な存在だった面々が今、改めて集って香港の変遷をたどりつつ撮ったオムニバス『七人樂隊』もこの秋公開されます。WKWと縁の深いパトリック・タム、タランティーノ絶賛の『友よ風の彼方に』のリンゴ・ラムの遺作とかもあってぜひこちらもご覧くださいなんですが、話を戻すと、WKWの前におおっと惹き込まれたのがジョン・ウーの『男たちの挽歌』で、試写を見て勇んで帰って当時、一緒だったタイレルコーポレーションの面々にこれはみんな見た方がいい!! って、いつもはあまりそういうこといわない方なんですが(笑) お薦めしたのを覚えてます。いわゆる香港ノワールの出現でしたね。ここで香港映画にぐっと気持ちが近づいた、それこそメルヴィルにも通じるクールを、きめきめすぎの熱さで迷いなく消化する世界には往年の日活アクションを見る時とも似たちょっとやらしく斜に構えた愉しみ方、どこかでキッチュを愉しむっていうのかな、そういう部分もありましたね。で、『欲望の翼』でいよいよWKWが登場したわけですが、香港ノワールをめぐる今いったちょっと斜に構えた称賛に近いようで、もう少し真正面からいいなあと、それはあの頃、文化屋雑貨店がみつけてくるものをちょっといいなと思うようなレトロとキッチュとエスニック、それに英国の香りもさらに混交したような香港60年代の風景というのか、空気感というのか、そこにくらりとなったんだったと思います。で、90年代になると渋谷のミニシアターでロングランする『恋する惑星』とか『天使の涙』とか”おしゃれ″なWKWってもてはやされたりしましたけど、そこは正直いうと冷めた目で見ていた部分もあったかもです。映画としての面白さという点では、そして個人的な好きの気持ちとしても『欲望の翼』『花様年華』『2046』の60年代香港、これに『グランド・マスター』も加えた所が私の好きなWKWなんだなあと改めて正直な気持ちで振り返るとそんなことを感じてます。

川野正雄(以下M):今回上映の作品で言うと、『2046』以外は、全て見ていました。『花様年華』以外は、公開時劇場で見ています。『恋する惑星』『天使の涙』は、3回目の鑑賞になりました。
今回まとめて見る事で、作品の前後のつながりが初めて認識でき、WKWのテーマ性を改めて理解できました。
私が最初に見たのは『恋する惑星』で、渋谷のシネマライズで見た時の衝撃は、今でもよく覚えています。WKW、トニー・レオン、金城武、フェイ・ウォン、クリストファー・ドイルとの初めて出会った映画でもありました。香港という舞台に、俳優、音楽、映像がセンスの良いコンビネーションで融合し、なおかつエモーショナルな気分にさせてくれる映画との出会いは衝撃的でした。今でも自分の中ではオールタイムベスト10に入ってくる程好きな映画です。
その後のWKW作品は、段々とダークな面が強くなり、とっつきにくさもあったのですが、常に見たい監督です。
『ブエノスアイレス』は当時はゲイの愛欲シーンがハードで、ちょと苦手な映画だったのですが、改めて見ると『真夜中のカーボーイ』的なロードムービー性も含めて、この作品の魅力を理解する事が出来ました。
『2046』は、多分タイミングを逸しただけだったのですが、色々言われたキムタク出演シーン含めて、とても良かったです。やはり『花様年華』との一気見をお勧めしたいです。
敦子さんお薦めの『欲望の翼』は、『恋する惑星』公開後の再上映で見たと思うのですが、残念ながら記憶がほとんどありません。

花様年華」© 1994 JET TONE PRODUCTIONS LTD. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

★今回のレストア・バージョンを見て。当時の印象はどのように変わりましたか?
あるいは変わりませんでしたか?

M: 先ほども言いましたが、『ブエノスアイレス』は、大きく印象が変わりました。
ゲイ映画では『ブロークバック・マウンテン』も好きな作品ですが、これも台湾のアン・リー監督作品なので、『ブエノスアイレス』の影響もあったのかなと、勝手に妄想してしまいます。冒頭のシーンからうまく作品に入れなかったのですが、今回はすんなり入っていけました。これは自分の感性が、ようやくWKWを受け入れられるようになったのかなと思います。
『天使の涙』も、当時は金城武のシーンなどが、ゴチャゴチャした印象だったのですが、今回見て、『恋する惑星』からの流れ含めて再認識でき、良かったです。
海底トンネルをバイクで疾走するシーンや、レゲエ的な曲含めて、この映画の魅力も再認識できました。
『恋する惑星』は、デニス・ブラウンのレゲエをジュークボックスでかけていた事は、全く忘れていました。それだけママス&パパスとフェイ・ウォンの歌のインパクトが強かったのだと思います。
香港は全くレゲエ文化のない地域なので、90年代WKWがレゲエを使っていた事は、すごくチャレンジだったと思います。
すごく音楽に詳しい香港人でも、ボブ・マーリィくらいしかわからない人が多かったです。
『2046』『花様年華』を通して感じるのは、恋愛を軸にエゴイズムや哀しみを描いていると思うのですが、描き方が乾いているんですよね。愁嘆場的な描き方ではないので、ダイレクトに共感を呼ぶという感じではないのですが、ジワっとくる感情の揺れが、WKW独特のリズムで描かれています。これは『恋する惑星』の時とは大きく違う手法で、『天使の涙』から徐々に使われているように感じます。

A: 好きという部分でいえば上記の作品がやっぱり変わらず好き。それに『ブエノスアイレス』も初公開時は映画の仕事を少しお休みしていた時で、映画を見ることそのものを少し遠ざけていたほんの少しの間ですが、そういう時期だったので、それでも見たんですけど上の空なところがあったんだなと、今回、レストア版を見て、こんなにいいんだと思った次第です。ですが、最初に見た時にもチャン・チェンの位置が面白いなと、最後の方の台湾の高架線の駅に入っていく電車内からの視界の乾いた涼やかさが胸に迫る感じは今回も変わらずあって、で、その感じはベルリンの高架線に乗ってる時の視界とも通じる気がして、WKWってヴェンダースをどう思ってるのかなあ――と、以前、『天使の涙』がベルリン映画祭に出た時、共同取材した時にもちょっと訊いたんですがもひとつはぐらかされちゃって、だけど『2046』のホテルの屋上の看板と人の位置、バランスとか『ミリオンダラー・ホテル』を彷彿とさせませんか? 
 なーんてそれはともかくレストア版でスクリーンサイズにもこだわっているので、やはりきちんと映画館の大画面で見なくちゃなあと、思っています。

「2046」© 2004 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

★新旧バージョンを目にした今、改めてWKW映画の魅力はどんな所にあると感じましたか?
 
A: いろいろあるんですが、今回見直して、改めてスターの見せ方がうまいなあと感じ入りました。そこにわくわくさせられますよね。もちろん香港、中国、台湾のスターたちの底力ということでもあるんでしょうが、トニー・レオンのポマードで固めた髪型の時のなんともいえない色気、昭和の映画界のスターたちが漂わせていたような、銀幕にこそ似合う軽すぎない佇まいとか、やっぱりいいなあと惹き込まれました。女優達も同様に映画スタアの素敵を輝かせる、チャン・ツィーもコン・リーも他の監督作でのよさとは一味違う艶やかさ、艶めきで視線をくぎ付けにしてくれますよね。脇を固めるスー・ビンラン、レベッカ・パンと演技もですが顔そのものの選び方もうまいなあと思います。
 あと、やはり『欲望の翼』『花様年華』『2046』の同じ名前を持つ登場人物の重なりを追って小説の大きな世界を完成させていくような所も魅力的です。音楽、そして撮影、衣装、美術といった視覚面の充実もさることながら脚本家から始めたWKWの物語する力というのもまとめて見直すと今更ですが見逃せない監督としての強みだと感じました。

M: 今回強く感じたのは4点ですね。
まず俳優がとても美しく撮れている事。これは敦子さんの意見に同じくです。
『花様年華』のトニー・レオンとマギー・チャンは特にすごいなと思いました。
次に土砂降りが大きなシークエンスになる事。これもまとめて見た故に感じた事です。
やはり音楽の素晴らしさです。アジアの監督では、最高に音楽の使い方がうまいのではないでしょうか。
そしてクリストファー・ドイルの映像の素晴らしさです。ある種作り物〜未来社会的な構図の中での閉塞感のあるドラマ。これがWKWの世界だなと、強く感じます。どっぷり音楽と映像でWKWの世界に引き込まれました。

「恋する惑星」© 1994 JET TONE PRODUCTIONS LTD. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

★1997年香港の中国への変換を前にした時代の『恋する惑星』『天使の涙』『ブエノスアイレス』には”トランジットの感覚″、乗り換え地点にあるような香港という感覚が底に響いているように思いますがいかがでしょう? またその節目を通過した後の『花様年華』『2046』には、失われた時空としての香港を追憶する感触があるようにも思いますが、WKW映画の香港に対する思いに関してはどんなふうに見てきましたか? また今改めて見ると、その部分どんなふうに感じられますか?

A:まさにですね。返還を控えた90年代の映画には独特の切迫感があったと思うし、60年代を舞台にした3部作には失われた時を求めてといった、色褪せた絵葉書を見るような懐かしさ、切なさがあって、そういうことをおもってよくよく見直してみるとWKW映画ってけっしてかつてそう見られていたような”おしゃれ″映画というのではなく、その底には深い歴史感覚が響いている、その噛み応えもきちんと評価したいですよね。

M:『花様年華』『2046』からは、60年台の香港の魅力を感じました。ジャン=ポール・ベルモンドの『カトマンズの男』も当時の香港で撮影されていますが、今の香港にはないエキゾチックな魅力を、この2作品からは感じましたし、敦子さんの言うトランジット感もありますね。そして確かに映像を切り取ると、絵葉書になりそうです。
私自身は1980年代以降何回も香港を訪れ、2010年には住んでいた時代もあったので、香港への思い入れは人一倍強い人間です。
ある程度香港の土地勘がある中で見ていると、WKW独特の香港の切り取り方が見えてきます。それは場所であったり、雑踏であったり、市民であったりします。一番今回見た中で香港らしいなと思ったのは、『恋する惑星』でいつもトニー・レオンが麺を食べている店です。すごく香港の空気を感じるシーンでした。
『恋する惑星』を見て、香港のチョンキーマンションや、ランカイフォンのエスカレーターに行った事も思い出しました。チョンキーマンションは、インド料理屋が美味しく、在住時はよく行きましたが、香港人には敬遠される場所でもありました。
こういう香港の日常の少しダークな側面の切り取り方が、WKWはすごくうまいと思います。そしてそこには香港への様々な思いが詰まっているのではないでしょうか。
私がカンヌ映画祭に行った際、オープニング上映が、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』でした。上映を見た後、バスで山中の打ち上げパーティ会場に連れて行かれたのですが、今思い起こすと幻想のような体験でした。
この映画は英語でアメリカで撮影されていたのですが、ジム・ジャームッシュ作品に置き換えられるような印象で、自分自身は香港で広東語で撮るWKW作品の方が率直に好きだなと思いました。
そういえばこの時のカンヌ映画祭で、フジテレビのパーティに行ったら、WKWと木村拓哉さんが対面していました。当然予めセッティングされていたと思いますが、WKWが結構そっけない対応で、そんなものなのかな〜と思いながら眺めていました。

「時代革命」(C) Haven Productions Ltd.
「Blue Island 憂鬱乃島」© 2022 Blue Island project

★前のQと関連して香港の今を睨み、そのアイデンティティを考える2本のドキュメンタリー『Blue Island憂鬱之島』『時代革命』が同時期に、公開されていますが、この2本については? 

A:2本のドキュメンタリー(『乱世備忘 僕らの雨傘運動』のチャン・ジーウン監督の意欲作『Blue Island憂鬱之島』は単にドキュメンタリーと呼んでしまうとちょっと違う、フィクションと記録の混交に注目したい一作でもあるわけですが)を見ると、WKW映画で見た都市の顔、あ、あそこだと懐かしい所があるだけに、今の香港の人々が直面している危機が他人事でなく迫ってくる。ってあまりにもナイーブな言い方になってしまいますが、他人事ですませず、発信された訴えを受け止め少なくとも考えてみること、世界がどんどん危ない方に進んでいるような今だからこそ、見て、感じて、考えたいドキュメンタリーだと思います。

M:私は『時代革命』しか見れていないのですが、衝撃的です。自分の馴染みのある場所、例えば油麻地駅構内の地下鉄での暴行、信じられません。私は香港の人たちは、せっかちですが、穏やかで、比較的のんびり暮らす人が多い印象を持っています。
冒頭朝から香港人がデモに集結していて驚くシーンがありますが、本当に香港人がこんなに怒り、行動する事が考えられません。それ以上に暴力的な警察の対応も、現代で私たちが好きだった香港で起きている事が許せない気持ちになりました。
日本のテレビで報道されている事が、ごく一部の状況であった事もよく理解できます。
行動する若者に、古くから香港に住んでいる白人がキレるシーンがありました。これはこれでまた立場が違った見方として、理解できるものでした。
しかし今や多くの欧米企業は、アジアの本拠地をシンガポールに移し、経済的にも香港の意義は弱まっていると思います。
改めてコロナが落ち着いたら、再度香港に行き、自分の目で変化を確かめたいと思いました。

「天使の涙」© 1995 JET TONE PRODUCTIONS LTD. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

★WKWの今後、そして香港映画の今後をどのように占いますか? あるいはどんなふうに期待していますか?

A:WKWには連続ドラマの新作の企画もないわけではないようですが、なかなか確かな情報が判らなくて、期待が余計に募ります。ハヤカワから今年の1月に原作の翻訳が出た「繁花」は「戦後、文革、高度成長――歴史に翻弄され激変していく上海を生き抜く三人の少年たちの過去と今をユーモアと哀愁たっぷりに描く大河小説! 全篇上海語の会話を関西弁で翻訳する野心的な試みが結実! ウォン・カーウァイ監督ドラマ化決定の現代中国文学の精華。」ってアマゾンでは紹介されているので、待ってみましょう(笑)
『花様年華』もそうですが5歳の時に上海から香港にきたWKWにとって上海人コミュニティというのが大きな関心事でもあるんですね。それだけに期待大です。

M:90年代に比べるとWKWの制作ペースが落ち、2010年代は『グランド・マスター』だけですよね。『グランド・マスター』も、私が香港に住んでいる時から話題でしたが、かなり時間がかかりました。ドラマもいいですが、映画でWKWは見たいですね。
映画制作が決まらないのは、何らかの事情もあると推察しますが、まだまだ精力的に作品を撮って欲しいですね。香港映画に関しては、最近の作品を追っていないので、コメントは難しいですが、メインランドの監視が強くなり、その影響があるのかないのか、気になります。

「2046」© 2004 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

映画『時代革命』
ユーロスペースほか全国順次公開中
監督:キウィ・チョウ
配給:太秦  2021|香港|カラー|DCP|5.1ch|158分
(C) Haven Productions Ltd.

『Blue Island 憂鬱乃島』
全国順次公開中。

WKW 4K 特集上映
8月19日(金)よりシネマート新宿ほか全国順次公開中。
© 2019 Jet Tone Contents Inc. All Rights Reserved.

『恋する惑星』アメリカ版オリジナルポスター

セルクルルージュ・ヴィンテージストアでは、貴重な『恋する惑星』アメリカ版オリジナルポスターを販売しております(1枚のみ)。

ホン・サンスワールドを堪能する2作品同時公開『イントロダクション』『あなたの顔の前に』/Cinema Review-14

© 2020. Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

映画を複数視点で解題するセルクルルージュのCinema Review第14回は韓国の鬼才ホン・サンス監督の2作品です。
ホン・サンスはセルクルルージュでもこれまで2回取り上げていますが、世界中で評価の高い韓国の名匠です。
”動”のポン・ジュノに対して、”静”のホン・サンスという立ち位置で、特にヨーロッパで圧倒的な支持を得ています。
第71回ベルリン国際映画祭銀熊賞(脚本賞)受賞『逃げた女』に続くホン・サンス監督の長編25作目『イントロダクション』。長編といっても66分の作品です。
『イントロダクション』と同じく2021年に発表し、カンヌ国際映画祭オフィシャルセレクションに出品された長編26作目『あなたの顔の前に』。こちらは85分と、程よい尺の作品です。
この2本の同時公開に合わせて、映画評論家川口敦子と、川野正雄のレビューでご紹介致します。

© 2020. Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved© 2020. Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

★川口敦子

 小春日和のある日、ガールフレンドと坂道の途中で別れると父の韓方医院へと導く階段を上った。久々の訪問に看護師は懐かしいと満面の笑みで迎えてくれた、話があると疎遠の僕を呼び出した父は施療に忙しく、ほったらかされた僕は簡素な待合室のソファで退屈をもうしばらく持て余している。お茶のおかわりはと扉から顔をのぞかせた看護師のいうことには、撮影帰りに寄ってみたと父の下にふらり現れた客人は、演劇界の重鎮俳優とのことで、予約なしの彼に父は鍼を打ってやっているらしい。
 待ちくたびれて煙草を吸おうと表に出たら雪だった。さっきまでの晴天が嘘みたいだ。舞う雪を眺めていると看護師が寒そうにカーディガンの前を合わせながら脇に並んだ。
「ずっと前、私になんていったか覚えてる?」「”愛してる″って、そういったわ」
いきなり昔のことをいわれてどぎまぎし、でもその頃の思いがふっとこみあげてきて気づいたら僕の肩先くらいまでしかない小さな彼女を抱きしめていた。若かった頃の、ちょっと憧れていた年上の彼女を思ったら「やつれたね」「ずいぶんやせたね」なんて心無い言葉が口を突いて出た。居心地悪さと懐かしさとが溶け合ってなんだか時が止まったように感じられもしたけれど、相変わらず雪は舞い、寒気が気持ちよく頬にささる。そんな午後、世界を新しくする雪の前で彼女と僕はしばらくじっと言葉もなく白さに見惚れ、立ち尽くしていた――。

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――なんて、ホン・サンス25本目の長編『イントロダクション』の、美しくそぎ落とされたモノクロームの時空を思い返しつつ、3つのパートから成る映画の最初の挿話を書き起こしてみると、銀幕上でいっそそっけなく素描のように展開されていた、ことの次第が意外なほどの奥行を伴って私なりの物語りを語り始めていることに驚き、ほうっとため息つきたくなるような感慨にとらわれた。
実際、久々に人と人とが再会し、ぽつぽつと他愛のない言葉を交わし、お茶をのみ、煙草をすい、降る雪を見る。そんな束の間に起きたこと、なされたこと、語られたことを坦々と並べただけとも映るホンの映画、確かにそこで人と人とはいきなりハグしたりもするけれど、だからといって劇的なドラマが繰り広げられるわけでもなく、ああ、そんな日もありき、寒い寒い日なりき――みたいな懐かしさをさらりと置いて次の挿話に進んでいく、ただそれだけと見える彼の映画がしかしただそれだけでは済まない豊かで芳醇な感情のドラマを、見る人それぞれに沈殿させているようなこと。その凄みに改めて撃たれずにはいられなくなる。
3つめの挿話まで見終えてみると、開巻部でセカンドチャンスをと祈る父、その彼の下を突然、訪れた俳優、その俳優に息子の将来に関する助言をと酒を酌み交わしつつ求める母、そんな酒席のいたたまれなさに席を立つ息子、波打ち際で死のうと思ったと彼にほほ笑む元恋人(の夢)――と、反芻するほどに壊れた家族や壊れた恋、将来への空しい夢といった広がりが坦々の向こうに浮上してくる。そんな物語の深度、その興味深さとそんなスリルをどこまでもシンプルに語り切る監督の話術の妙に気づいてもう一度。しみじみため息つきたくなってくる。さりげなく深い世界にさらに惹き込まれる。

© 2020. Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

反復とずれの話術を鍛え構築されてきたホン的世界の美しい単純さと豊かさとをそうやって『イントロダクション』で嚙みしめた直後、差し出された『あなたの顔の前に』、そこで切り拓かれた新たな位相、静かな跳躍は、ホンの世界のさらなる到達点を鮮やかに示唆してみせる。アメリカ帰りのヒロインの一日、”心の旅″、祈りの時空としての現在――。一見、平和な日常がくわえ込んだドラマを知らん顔を通すことでスリリングに開示していく映画は、未然形のロマンスの背中をみつめる雨の裏通りの一景では一瞬、ウォン・カーウァイしていると海外紙の評者をくらりとさせたりもしてみせる。全編に立ち込めていく明澄な懐かしさは生/死と対峙して心地よく生きることをめざしてきた監督が踏み入った、目の前の世界をありのままに受け容れる清新な境地、その澄んだ強度を響かせて生き生きと輝き、そうして次の一作を(実は既に完成ずみなのだが)待ち遠しくさせるのだ。

© 2021. Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

★川野正雄

ホン・サンスの作品の魅力を言語化する事は難しい。
セルクルルージュでもこれまで2回ほどホン・サンスを紹介しているが、毎回どのように作品を伝えるべきか、悩んでしまう。
他の韓国の監督作品のように、次々に事件が起きるわけでもなく、感情が激しくぶつかり合うシーンが連発するわけでもない。
ほぼ淡々と進みながら、小さな仕掛けがあり、観客は徐々に事態を理解していくが、与えられる情報量は少なく、余白の多い作品になっている。しかし決して退屈なわけではなく、むしろ見終わるとすっかりホン・サンスワールドにハマってしまうのが常だ。
今回の2本も、正にホン・サンスワールドだが、趣は微妙に異なっている。
モノクロームで3つのエピソードから成る『イントロダクション』は、これまでのホン・サンス作品路線である。
相変わらず説明や情報は少ない。観客は頭の中で時系列を整理する必要がある。
冒頭若者が父親の病院を訪問した際、看護師が素敵な笑顔で応対する。後程その笑顔の理由は明らかにされるが、周辺の事情は最後まで明らかにされず、観客はその隙間を自らの想像力で埋めていくしかない。
若者が俳優を生業にしている事が、徐々に明らかになる。
第2話はベルリンでの情景。常連のキム・ミニがサラッと登場するが、存在感が薄い扱いである。
第3話ではホン・サンス名物の、長回し食事シーンが登場する。恩人との会食だが、珍しく感情的な場面が生まれる。
細かな人の出入りも含めて、観客はこの会食に同席しているような気分になる。この会食のシーンが作品のクライマックスである。

© 2021. Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

『あなたの顔の前に』は、これまでのホン・サンス作品とは少し違う。淡々と進むのは変わらないが、徐々にドラマティックな展開になってくる。
時々素晴らしい表情を見せる妹とのやり取りから始まるが、ここが本筋ではなかった。
主役は『イントロダクション』同様俳優であるが、女優である。
クライマックスはこちらも食事のシーンである。相手は映画監督である。お店の予約の変更から始まる小さなズレが、会食の冒頭から感じられる。
主役のイ・ヘヨンは徐々に顔も赤くなり、明らかに酔った風情になっているが、会話はどんどんスリリングになってきて、ドキドキする。
言語化すると陳腐になってしまうのだが、この会話だけで緊張感を上げていく手法は、ホン・サンスならではの素晴らしい演出である。
そして『イントロダクション』では埋めなかった物語の余白が、この作品では埋められていく。ここがこれまでとは違う変化であり、次にどこに向かっていくのか、非常に気になる。
終盤にはこれまでのホン・サンス作品ではあまり語られなかった人間の根源的なテーマにも踏み込んでいる。
今年のベルリンで銀熊賞を獲った新作も早く見てみたい。
多作でありながら、微妙にさじ加減を変えて進化していくホン・サンスを知るには、最適の2本である。

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『イントロダクション』
監督・脚本・撮影・編集・音楽:ホン・サンス 
出演:シン・ソクホ、パク・ミソ、キム・ヨンホ、イェ・ジウォン、ソ・ヨンファ、キム・ミニ、チョ・ユニ、ハ・ソングク
2020年/韓国/韓国語/66分/モノクロ/1.78:1/モノラル
原題:인트로덕션 英題:Introduction 字幕:根本理恵 配給:ミモザフィルムズ
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『あなたの顔の前に』
出演:イ・ヘヨン、チョ・ユニ、クォン・ヘヒョ、シン・ソクホ、キム・セビョク、ハ・ソングク、ソ・ヨンファ、イ・ユンミ、カン・イソ、キム・シハ
2021年/韓国/韓国語/85分/カラー/1.78:1/モノラル
原題:당신 얼굴 앞에서 英題:In Front of Your Face 字幕:根本理恵
配給:ミモザフィルムズ  © 2021 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved
【公式サイト】http://mimosafilms.com/hongsangsoo/

ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開中