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Cinema Discussion-23/ソウル発カンヌ行きホン・サンス便

「それから」© 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
半年空いてしまい、2018年2回目の作品になる第23回は、初の韓国映画です。
6月より連続公開されているホン・サンス監督の4本『クレアのカメラ』『それから』『正しい日 間違えた日』『夜の浜辺でひとり』です。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。
今回は川口敦子以外はホン・サンス初体験とあって、初心者の座談会になりましたが、それぞれホン・サンス作品には強く魅力を感じたようで、熱い座談会となりました。

「正しい日 間違えた日」© 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

★6月初めから『それから』『夜の浜辺でひとり』『正しい日 間違えた日』と上映されてきたホン・サンス監督の近作、その最後を飾るのが『クレアのカメラ』ですが、4本を見比べてみてどんな感想をもちましたか?

名古屋靖(以下N):興味深い才能の持ち主が出てきたなと。アート系ですが楽しんで最後まで観られる難しくなさが、ちょうどいい作風。ほぼワンカットで延々と続く男女の会話も、難しいフランス映画よりも魅力的な要素でした。

川野正雄(以下M):今まで見逃してきたホン・サンス作品を集中して見れたので、根底のテーマや特徴がよく理解出来ました。また再発見というか、元々の認識でもありますが、日本よりも韓国の方が、グローバルな作品を生みやすいという事を、改めて感じました。ちょっとクールな眼差しは、とても気に入りました。

川口哲生(以下T):一本一本すごく面白く見ましたが、今回4本を続けてみて、繰り返される男と女のテーマやすべてに登場するミューズ、キム・ミニ等々、何回も描いては消し、また描き続ける画家の習作のような感じでクラクラしました。笑

川口敦子(以下A): ホン・サンス監督に出会ったのは2004年の『女は男の未来だ』の時で、その時点で遡りデビュー作から追って見たのですが、最初の『豚が井戸に落ちた日』にあるドラマドラマした要素が、払拭されていくのが面白かったですね。で、04年作の時点では反復とずれという形式的な面のこれみよがしではないけれど見逃せない実験性のようなものと酔っ払いのお喋りと男と女のお、あるあるな風景という原型ができてくる。ただこの頃は唐突なセックス場面も省かず描き出し、妙に人間臭い生々しさも映画の一部となっていましたね。
それと比べると今回の最近作4本はさらなる洗練を感じさせる。時系列でいうと15年の『正しい日 間違えた日』の折り返し点で二度同様の設定を反復し、ずれの面白さが浮かぶってあたりは以前からの撮り方がまだ濃厚ですね。その代わらなさの部分がこの一作に至るちょっと前のあたりで少しマンネリかなあと、一瞬、心が離れそうになったりもした。そこに救世主的に表れたのがキム・ミニともいえるのかな。
彼女を得たことで洗練がいっそう加速されているのと同時にシンプルで正直な自分との向き合い方をホン監督が確信をもって差し出すようになっているように感じました。以前にあった日記とか映画内映画とか脚本の習作といった物語の枠組みをとっぱらった率直さ。確かに『夜の浜辺でひとり』とか、黒い男をめぐる夢なのか、ヒロインの心象なのかといった仕掛けもあるし、ハンブルグからカンヌンへって折り返し構造の名残もありますが、『3人のアンヌ』につづいての女性の側の視点で進行される大きな物語のつかみとり方は新鮮でした。
カンヌでささっと撮れたから撮ったという中編『クレアのカメラ』のさらさらとした感触とそれでも浮上する感情の機微、そしてモノクロの端正な映像に掬い取られたかっこの悪い人の心の悲しさをすっきりと見せ切る『それから』の無駄のない語り口。どんどんよくなっているなあとうれしくなりますね。

★強いて順番をつけるとしたら4本のうち、いちばんのお気に入りはどの映画でしょう? その理由は?

M:どの作品もいいのですが、『正しい日 間違えた日』かな。キム・ミニとの初タッグ作品という事もあるのでしょうが、4本の中では一番濃い目の味付けに思いました。エンターティメントとしての完成度は、一番高いと感じました。
二つの寓話の迷走ももちろん面白いですが、上映後の閑散としたティーチイン。多分監督も似たような経験があったのだと思いますが、自分の中での冷や冷やしたティーチインの記憶ともオーバーラップして、実にリアルでした。
『それから』のちょっとオフビートで、ジャームッシュ的なモノクロ画面にも魅かれましたし、60年代前半のフランス映画の心象風景のような『夜の浜でひとり』のザラッとした感じも好きです。

N:『それから』です。ハーフトーンが綺麗なモノクロの映像で場面や人物も簡素化されて、全てが記号のようにシンプルでした。カットアップ的な観せ方も合わせてモダンな印象もありました。

T:とても難しいですね。4本のいろいろなシーンが混ざり合わさって大きな一本の映画を形作っているような気がします。『それから』の映画としての完成度、『クレア〜』のミステリアスな余韻、『夜の浜辺の〜』の果てしない寂寥感、そして一本の中に人生の不確かさを実験性もって描いた『正しい日〜』。強いて言えば『正しい〜』かな?

A:今もいったようにどんどん良くなっている感じでいずれも好きなんですが、波打ち際に横たわったヒロインの孤独の大きなつかみとり方がぐっと迫ってくる『夜の浜辺でひとり』が好きという意味ではいちばん好きかもしれない。

「正しい日 間違えた日」© 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

★いずれもホン監督と私生活でもパートナーとして韓国のメディアを騒がせたという女優キム・ミニなしでは成立しない映画となっていますが、彼女の魅力については?
また、彼女の演じた女性の魅力については?

T:女性としての普遍的な強さや、したたかさが儒教的長幼の枠をこえて表出される時の感じが魅力的でした。映画自体フランス映画みたいな魅力があるのだけど、そこにこの監督の独自性がありますね。

M:非常に魅力的で素晴らしいと思います。美人だけど、割とその辺にもいそうな女性。でもとてもスタイルがいい。昔のananに出てきそうな美人。
時に感情的になるシーンの演技が特に素晴らしいです。
『正しい日|間違えた日』は、ホン・サンス監督作品初とあって、飲み屋での長回しや友人宅での飲み会、必殺の演技で監督の演出に応えていたと思います。
細かい表情による感情表現が特に素晴らしいと思いました。

A:彼女の代表作の一本、『オールド・ボーイ』や『乾き』のパク・チャヌク監督が撮った『お嬢さん』を見てみたのですが、パク監督ならではのおどろおどろしい世界の中で懸命に、というか演出されるままに裸も辞さない熱演を見せている、いるにはいるけど熱の度合いがまわりと、敢えて決めつければ韓国映画的な熱さとなんとも食い違っている。その浮遊感がホン・サンスの世界にはぴたりとはまるんですね。
昔の今井美樹とか小林麻美とか、キム自身意識しているかもしれない若き日のジェーン・バーキンとかモデル出身女優独特の細長くて、風になびいているみたいな肢体のよさももちろん大きな魅力ですが、頬づえのつき方とか、カップの抱え方とかおぼつかなさ、さりげなさをしっくりと身につけていて、これは演技なのかと思わせる。”自然さ”をものすごいエネルギーで形にすることを要求される現場と『自由が丘で』で取材した時、加瀬亮さんは述懐されていましたが、そういうプロセスがあたかもないようにスクリーン上にいられる、その浮遊感が素敵だなと、素直に巻き込まれます。
そういう人が川野さんも仰っているようにくいっと感情の高まりを放り出すその潔さも面白いですね。決して単なるニュアンス演技の人でない所がいいと思います。

それは彼女が演じる女性像にも通じていて、ふわふわと自分探しをしているような昨今のありがちな若い女性像と近そうで近くない、明解で明確な覚悟をもって毎日を生き、探すことを放棄していない。4作それぞれでさらりと哲学的な台詞を口にしますが、それが監督自身の信念でもあり、彼がキム・ミニの生き方に見ているものでもあるのでしょうね。

なんだか女性誌的な言い方になっていやですが女優である以前にひとりの女性、人間としていい在り方をしていそう。それが映画をクリアに活気づけている気がします。

N:現在のホン監督作品で彼女は必要不可欠な要素ですね。 監督の作品に好感が持てない観客は多くはないと思いますが、同じような主題やストーリーに混乱したり退屈することも無きにしも非ず。「でも、彼女が出ているなら観てみようかな?」と思わせる魅力を持った女優だと思います。

★いっぽうホン監督が描く(ダメ)男の面白さは? 対する女たちについては?

N:(ダメ)男たちの表現もそうですが、その他の女性も含めて登場人物はみんなシンプル。簡素化されていてとても分かりやすい。逃避、下心、虚勢など、男独特?の「くだらなさ」もよく表現されています。まるでホン監督自身のことのように。

A:正直ですね。
女の人たちは『正しい日 間違えた日』のお母さん、演じる常連ユン・ヨジョン共々、大阪のおばちゃんみたいなリアルさがおかしい。先輩たちや『クレアのカメラ』の女社長もいかにも感がほんわりと出ていて、そういう所が映画の錘として効いているんだと思う。

M:男性には監督が自分を投影しているのか、何ともいえない哀しさがありますね。ちょっとお気楽なのが、いいスパイスになっています。
長回しの中、飲み屋で徐々に酔っていくのをワンテイクで撮っているのも、リアルで面白かったです。
常に男性はそれなりの名声を得たクリエイティブな人ですが、実に何とも人間的で、いきなり酒に飲まれてしまうのが、おかしいです。
女性は『それから』の愛人キム・セビョク、『クレアのカメラ』の社長チャン・ミヒもいい味出していたと思います。

「夜の浜辺でひとり」© 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

★『クレアのカメラ』では『3人のアンヌ』に続いてイザベル・ユペールがホン監督と組み、映画に対する不思議なアウトサイダー的役割を快演していますが、このキャラクター、彼女のカメラ(とる写真)をどう見ましたか?

N:カメラのくだりなどこの映画にファンタジックで不思議な魅力を纏わせながら、彼女のちょっとしたその仕草は、まるでフランス映画の1シーンを観るような雰囲気ももたらしてくれています。

T:このキャラクターはとてもミステリアス。写真を撮った人は前と違う人間になる?!
『正しい〜』ほど明確でないけれど、一瞬一瞬の選択で人は今という時点にたどりついている。写真を撮るということは、日常無意識に生きている一瞬を恣意的に意識すること。

A:トリックスター的な存在。恋人に死なれたばかりとか詩の朗読とか、実力派女優ユペールが色付けをしているので実在する人感もあるけれど、いっぽうでトレンチコートに帽子でピンクパンサーのピーター・セラーズ/クルーゾー警部みたいにも見える。その非現実的、映画的なキャラクターは『夜の浜辺でひとり』の黒い男ともどもホン監督が探り始めた新たな部分なのかなと興味深いです。あまりそっちの方向に行き過ぎないでほしいけど笑
写真に関しては哲生さんのいう通りだと思います。
あとゆっくり見ないと見えてこないという所は影響関係はないと思いますが『スモーク』のハーヴェイ・カイテルの毎日定点観測的にとっている写真のこともちょっと思い出しました。変わりなく見える毎日を生き続ける勇気というのは坦々と連なっているような一瞬をカメラで切り取る、その瞬間を意識することはもうそれまでと同じでないということと通じて、それはまた変わりなく見えるホン・サンス映画のこととも響きあうのでしょうね。

M:最初は、余計なお世話というか、急に干渉してくる映画的なキャラクターに思えました。何かを求めてカンヌ映画祭の最中町には色々な人が集まります。その中の一人という設定で、彼女の干渉癖はある時は迷惑でしょうが、実はとても重要な影響力を持つ役割でした。フワーっとしてるからわかり難いのですが、そこも魅力の一つですね。

★ユペールの他にも『へウォンの恋愛日記』のジェーン・バーキン、『自由が丘で』の加瀬亮と、ホン監督作に出演したいと願う俳優がいて、また国際映画祭でももてもてのホン作品ですが、韓国の外でのこの評価の高さはどこから来ると思いますか?

N:先にも述べましたが、アート系ですが楽しんで最後まで観られる難しくなさが、ちょうどいいからじゃないかなと。興行的にも成功する可能性はあるかもしれません。

M:最初にも少し言いましたが、かねてよりグローバルな領域での韓国の監督の強さを実感していました。ホン・サンスは自然に海外の空気を使うのがうまいですね。作品全体を見て感じましたが、そもそも作品制作時に、韓国内だけを対象にして予算設計するのではなく世界レベルの視点で目論んでバジェットを組んでいるかと思います。
評価の高さは、政界中の誰でもわかりやすい、やや普遍的な作品を常に供給するからでしょうね。
それから当たり前ですが、演出力の素晴らしさです。
脚本が無いという話ですが、多分プロットはしっかり組んでいるのではないかと思います。
毎回お馴染みの飲み屋の長回しですが、あの台詞は全て本があるのか。或いは主旨を伝えて、俳優が考えて、台詞を発しているのか。とても気になりました。

A:ハリウッドが韓国映画に注目してリメイクもされる流れがありましたが、きちんとそのあたりフォローしていないので心苦しいのですが、どぎついくらいにドラマチックだったりジャンル映画だったりする、そういう流れと違う所にありますよね。アメリカでもニューヨーク映画祭でまず支持されるような。結局、監督が何を見て来たかってこととやはり無縁ではないでしょうね。
以前、特集上映が組まれた時、ブレッソン『田舎司祭の日記』、ドライヤー『奇跡』、シュトロハイム『グリード』にヴィゴ『アタラント号』、そしてロメールの『緑の光線』と、バリバリ、シネフィルなお気に入り映画のリストがチラシに載っていましたが、そんな監督のロメールをめぐる言葉――「彼は、ただその時、自分の隣にいる俳優たちの表情や仕草、自分が暮らしている空間、自分の周りの空気や天気、それから、人々が取り交わす小さな感情などを映画に盛り込んだ人です。ロメールの映画を見ていると、僕もその空間で一緒に呼吸しているような感じがします」がそのままホン・サンス映画も射抜いてしまっていませんか?

ホン・サンス監督

★カンヌ国際映画祭ディレクターのティエリー・フレモーは「韓国のウディ・アレン」と評したそうですが、この意見に賛成?

A: 人生のハッピーエンドと悲劇が選択ひとつで転がっていくと示す『メリンダとメリンダ』みたいな映画がアレンにもあるのでちょっと比べたくなるのは判ります笑 あと、すごいペースで新作を放つところとか、タイトルバックがいつも変わらないとか――でもそれだけのことですよね。つい比べてしまうのが映画評論家の悪い癖で反省しないと『正しい日 間違った日』の上映会の司会者みたいに監督におもいっきり毒づかれてしまいそうですね・・・。

T:無類の女性好きを、インテリジェンスと自虐性の鎧で包んだウディ・アレン。
ホン・サンスは映画監督や文芸評論家と言ったインテリジェンスと言った武器と老いと言った弱みをセットで語りつつ、もっと自分の弱みに真っ向から向き合っている感じがするけれど。

M:僕はウッディ・アレンとは、ちょっとイメージ違いますね。初期ゴダールには、女心を描くオフビートな感覚の作品もあるので、少し似ている部分があるとは思います。ウッディ・アレン的ではなく、ホン・サンス的でよいのではないでしょうか。
唯一無二の存在感があると思います。

「それから」© 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

★ホン・サンスは同じひとつの映画を撮り続けている――との評価もあり、監督自身も登場人物にしろその職業にしろ筋にしても新しさを求めるのは自分の性格に合わない、既に自分のよく知ってるものをとりあげ、そこにふと新しさを見出すことが自分の気質に合っていると述懐しています。繰り返しのように見える映画、そのスタイルに関してどうですか?

M:これはもう監督の特質の領域で、4本見て、すっかりその術中にはまっているので、良いのではないかと思います。。これはこれでスタイルとして成立していますし、作品的にも成功しているので(配収は知りませんが)、この範囲の中で進化していってくれればよいのではないでしょうか。実際今回の4本の中でも進化していると思います。

A: 男(ほとんどがあんまり売れていない映画監督だったりする)がいて女たちがいて、おいしい食事と酒とおしゃべり――と、相変わらずな展開、大事件も大仰なメッセージもないままに淡々と活写される人の営みのリアリティ、そんな実感の隙間に奇妙な反復とズレを置いて、突き放して見た現実を支配する素敵におかしな様式性を思い起こさせるような同じひとつの映画を撮り続けている、それは確かかもしれない。そこで実験の心を、研ぎ澄ませて、でも過剰な深刻さや生真面目さ、鈍重さへの道をすっぱりと退けて、軽やかさ、あるいはたらたらな脱力感とみまがうばかりの飄々、要は洗練と成熟を手繰り寄せている。
その独自のスタイルを今回の4本では生きることをめぐる清潔な覚悟がいっそう堅固に裏打ちしていて映画を強くしていると思います。

もうしばらく前になりますが監督の初期作品を集めた仏製DVD所収のインタビューでホン自身がセザンヌの風景画、その具象性と様式性の並立を自作のめざす所と述懐しているのを見て成程と思いましたが、自然を写し取っている風景画が離れてみると形式こそを浮上させる、自然の模写と不自然な様式の拮抗が生む力を、同じひとつの映画を撮る中で美しく研ぎ澄ませてきていますよね。

T:川野君や名古屋君の幅の広さとは違って、私が選曲するときにホン監督のような抜けられないテーマやコンセプトや「黄金の選曲(MIX)」が存在します。繰り返し繰り返し習作を続けているような感じですね。すごく自分の中での完成度が高まっているのだけれど、途中の一曲を違う選択をすることで、また違う展開に発展する発見もあります。ホン監督の4本を続けて見た時に重ね合わせたのは、自分のそんな体験です。
服や着こなしも私の場合、ホン監督的ですかね。笑

「夜の浜辺でひとり」© 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

★シンプルだけれど率直で含蓄のある台詞、その向こうに浮かぶ人について、その生き方についてホン映画が語ること、あるいはそこに浮かぶホン自身に関してどのようなことを感じますか?

M:監督の韓国でのスキャンダルやその影響について、全く知識がないので、ノーコメントです。また監督の言葉も、資料から深くは理解できていないです。

T:どんなにダメダメでも、どんなに女々しくても、昨日の連続である今日を生きるということ。したたか飲んだ翌日に頭痛とともに感じる感覚に近いです。

A:「欠点だらけのダメな男女のグダグダ話」とも映るホン監督作だけれど「そういうところが本質ではない気がする」と『自由が丘で』プレス所収のインタビューで看破している加瀬さんの言葉をもう一度、引かせてもらいますね。
「主人公たちの多くは、メインストリームの世間的な価値観にうまくなじめず、どこかいつも孤独や違和感(不安)を感じている人のように」感じられる。「たくさんの嘘に傷ついたり戸惑ったり疲弊したりしてきた人たち」かもしれない。「ある時期に、ホン監督は世の中に嫌気がさし、またそんな中で塞いだり苛立ったりしている自分自身にもほんとうに嫌気がさし、本気で、考え、めざしはじめた」のかもしれない。「快く生きるということを」。あるいは信ずるに足る「等身大」のことを「映画を通し客観的に探究」し始めた。「自分の弱さ、愚かさ、世界からどこか置いていかれたような寂しさ、欲、嫌な部分」をも「受けとめ、正直に描き始めた」「自分をまるごと知ることから始めた気がするのです」――4作にある台詞はそのことを深く思わせますよね。

★おかしさと寂しさ、悲しさのバランスについては?

A: ものすごくおかしい。でも寂しく悲しい。月並みですがどれが欠けても世界が成立しない感じですね。ただ悲しさや寂しさがどんどん明度をあげてきているようにも感じます。
洗練というのはそのあたりのことかもしれないですね。

T:私は寂しさを寒さと一緒に一番感じたかな。

M:ここが絶妙にうまいのではないでしょうか。長回しの効果か、男性がどんどん惨めになっていったり、怒りが沸いてきたりしています。脚本が無い中、男女バランス含めて、どのような構成にするのか、監督の中では常に全てイメージされているのだと思います。

N:過激や下品の一歩手前で寸止めしてる感が絶妙です。

★グラマラスなスターやパパラッチのいない海辺のひなびた町としてのカンヌ――といったホン監督の場所の切り取り方については?

N:チャンスがあるならとりあえず撮っちゃう? その時々のインスピレーション? インタビューによれば、監督が映画を作り始めるのに必要なのは「脚本なしで、撮る場所と数人の俳優だけ。」とのこと。別にそれがベネチアでもベルリンでもよかったのかな?とも思ってしまいます。

A:カンヌは駅に近い、坂の上のムールのお店とかがあるあたりの小路の感じが映画祭の裏側としてありますね。あと、人に譲らない車とか寝そべっている灰色の大きな犬とか。そういうディテールの選び取り方も侮れない。場所ではありませんが雪もしばしば映画の感情の要として忘れ難いです。

M:自分はカンヌやベルリン映画祭に、セラー/バイヤーとして行った経験があるので、カンヌの部分は、とてつもなくリアリティがありました。打ち合わせをするカフェ、ラストのパッキングなど、一度経験した人には、にんまりとする場面が満載でした。

『クレアのカメラ</a>』『それから』『正しい日 間違えた日』『夜の浜辺でひとり』の4本は、ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー中。
この機会に、是非ホン・サンス監督作品を集中的にご覧になってみては、如何でしょうか。

Cinema Discussion-21/黒沢清監督からの挑戦状『散歩する侵略者』

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第21回は、黒沢清監督の『散歩する侵略者』です。
第21回にして、初めての日本映画です。日本映画を扱う事は、前からやりたかったのですが、なかなかタイミング合う公開作品がなく、ようやく実現となりました。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★意識的に除外したわけではなかったけれど、これまでLCR CDで日本映画を取り上げる機会がありませんでした。現代の日本映画とはどんな関係をもっていますか?
それぞれの関係の中でこの『散歩する侵略者』に対してはどんな感想を持ちましたか?

川野正雄(以下M)個人的には、日本映画とは近い距離感があるので、なかなかフラットに語れる映画が無かったというのが、実際の所です。後はタイミングが合わなかったりとか。
黒沢清監督に関しては、昔サンダンスのジューンラボ(米ユタ州サンダンスで開催される脚本デベロップ合宿のようなシステム)に、『カリスマ』で参加された際にお会いしています。
その頃は2作目の『ドレミファ娘の血が騒ぐ』の印象しかなかったのですが、当時と比べると、ものすごくメジャーな存在になられたというのが実感です。

川口哲生(以下T):私は全く現代の日本映画についていってないし、コメントできる人間ではありませんね。
テーマとしてのある種の説教臭さを、エンターテイメントとして描くことに成功していたと思います。面白かったです。

名古屋靖(以下N):黒沢清監督の事は、今まではあまり一般向けでない映画を多く撮られているけど、日本映画界が期待するすごい才能をお持ちの方と聞いていたので、観る前から少しかまえてしまいましたが、観終わった感想は「普通に面白かった」です。

★その反応はどういう部分から引き出されましたか?

N:「思ってたより普通」だったので。
勝手にもっと変態、難解のイメージを持っていたので拍子抜けだったのもあります。
最初にWOWOWのロゴを目撃したせいでイメージがついてしまったのもあるのですが、『MOZU』シリーズなどと同じWOWOW独特のカラーが今回の映画にも感じられて、スタイリッシュなのですが、その迫力はTVと映画のちょうど中間くらいの緊張感でした。

M:『キュア』が当たり、すごく評価もされていましたが、まだまだインディペンデントな存在でしたが、その後どんどんスケールアップされ、『クリーピー 偽りの隣人』や、『散歩する侵略者』は、10億円以上を狙うメジャー作品になっていますから。
メジャー作品の中でも、しっかりと黒沢監督のカラーというものは反映されていたと思います。

T:暗喩としての「宇宙人の侵略」の扱い方。宇宙人とガイドの二組の関係性。大きなテーマを表現しつつ、これらがエンタテイメントとして映画を成立させていたと思います。

川口敦子以下(A):なんだかやな感じのコメントに響きそうで心配ですが、そういうつもりでいうのではなく、率直な感想として、「エンタテインメントとして成功」「メジャー」「普通に面白かった」というみなさんの反応がこの映画の目指す所をふまえて嚙みしめてみると、まずとても面白いと思いました。

★黒沢清監督は現代日本映画を牽引する作り手のひとりだと思いますが、これまで彼の映画に親しんできましたか? この一作に関して監督にどんな印象を持ちましたか?

M:元々の印象は、立教で蓮見重彦門下の論客的な映像作家というものでした。
最初に見た『ドレミファ娘の血が騒ぐ』は、あまり好きな作品ではありませんが、当時の師匠格であった伊丹十三さんが出演されたり、今や週刊文春の映画コラムをやっている洞口依子主演だったりと、見所はありました。
Vシネマ的な作品ですが『地獄の警備員』あたりから、今に通じる毒素みたいなエッセンスが強く出てきて、異彩を放っていたと思います。
そんな時期にサンダンスに派遣され、多分すごく良い経験になったのではないかと思います。
映画としてはサンダンスの後に監督したのが『キュア』で、そこで大ブレイクされましたから。
自分としてはサンダンスでデベロップした『カリスマ』や、『ドッペルベンガー』といった役所広司さんと組んだ作品の持つ毒素みたいな部分に、魅力を感じていました。
この作品は、そういった映画とは全く違う大作ですし、豪華キャストです。しかしながら当初から持っている毒素や、シニカルな視線といったものは、メジャーに飲みこまれることなく健在で、ちょっと嬉しくなりました。
黒沢流のメジャー作品への挑戦状のような作品と思いました。
ある種観客に媚びる部分が日本のメジャー作品には内包されることがありますが、そういう部分は極力排除したいのではないでしょうか。

A:前作『ダゲレオタイプの女』の時にフランスでフランスのスタッフ・キャストと撮った映画にヒッチコック的なもの、往年のハリウッドのジャンル映画と通じる”アメリカ映画”がまぎれこんでいるように見えるという点がスリリングで、その部分を監督に訊いたのですが、取材の最後に「本当によくできたアメリカ映画に代表されるある種のジャンル映画って愛とか死とかってそういうものがヒッチコックを持ち出すまでもなく、大げさなテーマというより人間のドラマを普通に考えていると当然、そこになるもの、大きなストーリーの中心として横たわっている。自分もそういう方にも辿りつきたいと思ってます」と述懐された。取材の時点で監督は『散歩する侵略者』を撮り終わってらしたんですが、振り返るとこの映画についてのコメントのようにも響いてくるんですね。

★宇宙人が地球にやってくる”侵略SF”ジャンルとして、ハリウッドの同ジャンルの映画(といってもいろいろな時代があるとは思いますが、その比較も含めて)と比べていかがですか?

A:英語版のプレス資料にある監督インタビューでは、この種のジャンルの無数にある先例の中から特定の作品を引用するのはよそうと決めたと語ってらっしゃいますね。ただ取り終えた後でジャーナリスト桜井と”侵略者”天野の場面に漂うものにはどこかジョン・カーペンター的なものがあると感じた、なぜかは定かでないのだがとも仰っています。カーペンターといえばハワード・ホークスをリスペクトする彼がホークス製作の”侵略SF”『遊星よりの物体X』(51)を『遊星からの物体X』(82)としてリメイクしてますね。でもそれを引用したというより男と男の友情とか、活劇の無駄口たたかぬ切れ味とか、そういう部分で結び目を感じますよね。
また黒沢監督は同じインタビューで、このジャンルが基本的には常にその時代の世界的な危機感と結ばれていたことをふまえつつ、何か心得違いのメッセージのようなものを発することは避けたいと意識していた。自分の映画で政治的なメッセージを込めたことはこれまでにもない、ただ意図しないところで映画作家の作品にはその政治的なスタンスが露呈するものだとは思っている――とも述懐されてます。その意味で、『トウキョウソナタ』とも通じる戦争、今そこにある危機感、それに対する監督のスタンスは強く感じられると思いました。

T:ステレオタイプの宇宙人の侵略でなく、宇宙人も自分たちと瓜二つであり、それらが集める人類の概念そのものが地球に対しての侵略者だというアイロニー。そしてまた侵略から地球を救うのもまた人類の持つ概念という、最終的な人間に対する肯定感、希望も感じました。

N:舞台で面白い本をどう映画にするか難しいですよね。画期的アイデアは、画期的な分初めて見る側に素早く理解させるのが難しい。映画の中での「概念」という言葉の使い方が僕には完全には理解納得できておらず、大事な所がモヤモヤしたまま終わってしまいました。 ただ監督のインタビューによれば、原作の舞台を見て「いつかこれを映画にしたい。」と思っていたとの事なので、映画としては違和感を感じる言葉でもそのままなのは、監督の原作に対するリスペクトなのでしょう。

M:最近だと『メッセージ』がありますね。そちらも好きな映画なんですが、比較するのは難しいですね。
そういったハリウッド映画との比較とか、そういう目線で語って欲しくない映画を、黒沢監督は目指したように思います。すごくオリジナリティがあると思います。
黒沢流メジャー映画というか、すごく挑戦している印象です。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★“宇宙人”の描き方に関しては?
M:松田龍平君につきますね。彼の演技力が、全てを包括していると思います。
それと長澤まさみさんの会社の場面が顕著ですが、身近な人が突然変異する恐怖感みたいなものは、すごく伝わってきました。

N:この宇宙人の設定も、舞台劇のセリフで出てくればとても魅力的ですが、映画にすると欲求不満は否めません。 SF映画としてのカタルシスを一つ分損しています。

A:質問とちょっと外れるかもしれませんが真治、天野、あきらという侵略者のそれぞれのあり方が複線の物語を紡いでいくという、これは原作の方法でもあるわけですが、その点と点の操り方が興味を持続させ、さらに映画になった時にそのスケールを全うさせていく、そういう描き方として面白かったです。あとたとえば『リアル~完全なる首長竜の日』の時、感じたことですが、CGの首長竜があっけなく出現する時、自然に「ウソ~」という言葉が口を突く、そうやって「ウソ」とスクリーンに向かって呟く瞬間、実のところ観客は映画が差し出すまざまざとした感触にもうまんまと巻き込まれているんですよね。あり得ない、でも――と、ただただまざまざとしぶとい現実感に支配されていく醍醐味を今回も冒頭から味わいました。

★人間の概念を奪うという部分、現代人を縛るそれらからの解放とみることもできそうですが、だとしたらちなみに何を奪われたいでしょう?

A:映画とその歴史に対する記憶――なんてね 笑

M:自分としては想像がつかないのですが、“欲”を奪われたら、楽になるのでしょうか。

T:時間ですかね。笑
ただ「いま」にいることができていませんね。

★気づいてみると日常を浸蝕している異常の描き方に関してはいかがですか?

N:監督が伝えたかった事がこの「気づいてみると日常を侵蝕している〇〇」なのでは。例えばトランプと北朝鮮。世界各地で続発するテロ行為。日本政府による憲法改正やテロ等準備罪成立や、その他いろいろな動きも含めて監督なりの平和ボケした我々への警告発信なんじゃないかと。

T:気づかないでのほほんと送っている日常が蝕まれ、ある日から戒厳令的な町やパニックと化した人々に移っていく。それでも危機感の欠如した人々にとっては冗談にしか思えない危機。日常と非日常の紙一重さ。宇宙人はそんな暗喩的ですね。名古屋君が言うようになにかきな臭い現状と重なりますね。

M:この映画はネタバレにならないように語らないといけないと思いますが、日常がいきなり奪われる恐怖をうまく描いていると思います。
光石研さんの役は、仕事から解放されて、楽になったようにも見えました。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★監督はカンヌでの会見の動画の中では「戦争に愛で対抗するという強くシンプルなメッセージが原作にあり、映画でもこれが伝われば」と語っていますが、伝わりましたか? 往年のハリウッドのジャンル映画をふまえた大きなテーマの黒沢的な消化法に関してどう見ますか?

M:混乱や乱世の中のプリミティヴな部分を、黒沢監督は描きたかったのではないでしょうか?
先ほども伝えましたが、従来のハリウッド的なSFやジャンルムービーとは、全く違うアプローチで侵略者を描きたかったのではないかとみています。

N:個人的には「〜に愛で対抗する」というメッセージに関しては、いかにも昔のハリウッド映画的で普遍的ではありますが、新鮮味にかけて今更かなと。ただ侵略者と牧師のシーンはちょっとだけ毒があって一番笑えました。

T:ジャンルムービー云々ではなくて、侵略する側とされる側の二組のストーリー、それぞれの気持ちの相手へのシンパシーへ変化していく様子が私は面白かった。異なる者間のシンパシーとして。愛についても、宗教ではなく一個人のレベルの愛であるところも監督の伝えたい所ではないでしょうか?

★俳優たちに関してはいかがでしたか?

M:松田龍平君も、長澤まさみさんも、役柄へのアプローチを相当練りこんだ感が強いです。
長谷川博巳君は、今や得意の役柄で、これはもっと違うアプローチを見たかった気がします。
彼の駅前で聴衆に語りかける場面は、とてもいい芝居でした。

T:松田龍平はとぼけた味出してましたね。

N:松田龍平は相変わらずよかったです。本人も得意なパターンだったんじゃないですかね。
長谷川博己の演技に関しては川野さんに同意です。

A:私は長谷川博巳、今までもひとつぴんとこなかった俳優なんですが、今回かつてなく好きだなと思いました。あと『モテキ』とか『海街diary』とかこのところぐんぐん魅力的になってきた長澤まさみもまた新たな領域を開拓していていいですね。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★どこでもないどこかという舞台の設定については?

N:原作が人気の舞台劇という事でそれを覆すのは難しかったとは思いますが、 「とある町」の設定は、「概念」という言葉の選び方もそうなのですが抽象的で、セリフが主役になる芝居的な発想で、ビジュアルが主役とも言える映画っぽくないなあと思ってしまいました。
その辺の抽象表現は一貫していますが、現実感のないお話に感情移入しづらく、そこが映画的迫力に欠けている点かなあと。庵野監督が『シンゴジラ』でリアリティを追求して観客を圧倒させたのとは全く反対方向の、ある種ファンタジー的な演劇映画の印象です。ラブ・ストーリーですしね。

M:この作品、見ている間はオリジナルストーリーだと思っていました。後から資料見て、舞台が原作と知りました。
どこでもない町に起こる怪奇現象という設定は、とても舞台的だなと思います。

A:さっきいった3つの点の距離感が遠くて意外に近い奇妙な世界の中で結ばれていく、だからこその今そこにある危機感の熟成、そしてそこで展開されていく活劇の部分にこの場所の曖昧さが効いていると感じました。茫漠としているのに案外、小さい町の奇妙なサイズ感の面白さといったらいいのかな。田園風景と住宅地が並び立っていて、しかもショッピングゾーンのような人が集う界隈もある、ドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の小さな町とも通じるような――。

★原作とは違うエピローグをもってきています。このエンディングに関しては?

M:原作を見ていませんし、エピローグもネタバレになるので、あまり言えませんが、ラストで作品の印象も変わると思います。
最近特に原作が売れている作品が多いのですが、原作と違うエンディングになっている作品をよく見かけます。
大概は後日談的になっており、原作ファンへのサプライズ的な一面もあるのではないかと思います。
この作品に関しては原作も舞台も見ていないので、何とも言えません。
一般論ですが、原作は作者によって完成されているものですので、エピローグの追加によって、原作の持つカタルシスが失われてしまった作品が幾つかあり、残念に思いますね。
このエンディングに関しては、監督がどのような思いで、脚本を書かれたのか、きいてみたいと思います。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

「散歩する侵略者」
2017年9月9日(土)より 全国ロードショー中
配給:松竹 日活
©2017『散歩する侵略者』製作委員会