Cinema Discussion-2 / 「The Bling Ring/ブリングリング」ー”狂ってるけどピュアなアメリカの今”

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えるセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第2弾は、12月14日に公開するソフィア・コッポラ監督の「ブリングリング」です。
今回の参加者は、前回と同様に映画評論家川口敦子さんをナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。

川口敦子(以下A)この映画を観て感じたのは、SNSも加わって進むリアリティのなさのリアリティ、過剰化する自己顕示欲が、セレブリティファッションという一つの象徴で描かれているので、今日はその辺をテーマに語り合ってみたいと思います。

川口哲生(以下T)アンディー・ウォーホルの「誰でも十五分間有名になれる」といった世界観がSNSと相まって現実化し、過剰な自己顕示欲のはけ口をもとめているといった感じがします。

A ウォーホルのコメントについては、コッポラもNYタイムズでのインタビューでもふれていて、今、彼がいたらどう言うかというコメントがあって面白かった。本当にウォーホルが何ていうか聞いてみたい。

名古屋靖(以下Y) 逮捕後に犯人達がセレブ気取りで雑誌やテレビに登場しますね。ソフィアコッポラが朝日新聞のインタビューで、「かつては偉業を成し遂げた人が有名になった。今は誰もが有名になれる。気が付けばフェイスブックに何千人という読者が付いている。そうなると、誰もが自分も有名になるべきだと思ってしまう。それは非常に怖いことだと思います。」と語っていました。今のSNS文化(や情報過多)の危険性を訴えるのが、一つのテーマなのかな。実はみんなVIP好きだし選ばれた人になりたい。セレブリティのように、キラキラした生活、パーティ、ファッションなど、表部分の見える所だけ憧れるセレブリティをなぞる行為がリアルに描かれている。

A 彼女のこれまでの作品に共通するのは、セレブリティがテーマとして常にある点と、地に足つかない感触のリアリティがある点。
ただこれまでの映画では、パークハイアットに取り残されたスター、宮殿のマリー・アントワネット、シャトー・マーモントで娘と親しむスター――と、地上から少し浮遊した所にある現実、そこに生きる感覚をある種、自伝的に内側から、やわらかく描いていた。それに対して同じセレブリティを扱っていても、今回の作品で描かれてるセレブ文化に対しては距離感がある。客観視しつつ、決して意地悪に描いているわけではないのが、いいと思いました。

(C)2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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川野正雄(以下M)僕は同じタイミングで見たので、「ウォールフラワー」との対比がとても面白かった。エマ・ワトソンという主演女優も一緒だし、内気な男の子のハイスクール初登校の不安な気持ちがオープニングというも、友人たちに巻き込まれて、その男の子もブレイクスルーしていくという流れも同じでした。
ただ80年代が舞台の「ウォールフラワー」とは、見た後の感触が全く違う。「ウォールフラワー」の方が、誰もが暗く鬱屈しているけど生身の人間ぽく、「ブリングリング」は、フェイクっぽい。使っている音楽も時代性の象徴もあると思うけど、スミスやデビット・ボウイに対して、今時のヒップホップが満載。

A ティーンエージャーのギャングものやハリウッドの内幕ものは定番として昔から沢山あるけど、映画と現実の境界の喪失といえばのハリウッドで、富や名声を得るための裏切りとか犯罪を描いたバックステージものとは別の次元の、現実感の消失がここで描かれた女の子たちの今と彼女たちの日常生活の場としてのハリウッドにはありますね。

M そこにファッションやセレブという要素が加わって、すごく新しく見えるのだと思う。

(C)2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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A セレブリティ、ファッション・アイコンの描かれ方。いわゆる日本の女性誌がなびくようなファッションと、それに対するほんとに素敵なファッションのこともちょっと考えてみましょうか。

M 彼女たちはルブタンの靴が好きなのか、パリス・ヒルトンなどのセレブが履いているから好きなのか?

Y セレブが使っているから価値が上がるという方が正解だと思います。きっかけはセレブリティでしょう。部数が伸びるから女性誌も取り上げる。現在の多くの女性が興味ある対象で、嫌いでも気になる。バカにしてるけど、ファッションは好きだし真似したい。チャンスがあれば手が届きそうな近い距離感の錯覚が、さらにセレブリティを手軽なお手本として取り上げる理由のような気がします。

この映画の主人公達はクラスの中心やメインではない、ファッション好きのギークたちで体育会系でもないクラスのヒエラルキー上位ではない子。オタクの一種。追っかけの新種かも。そんなちょっと冴えない彼らにとって、この事件は自分がスターになれるチャンスだったんだと思う。子供同士が、好きな芸能人の話やその人が着ている服、今年の流行について話して盛り上がるのは日本でも普通の事。日本でもちょっと前、キムタクがドラマで着ていた服がバカ売れするとか同じ次元でしょう。ネットで調べれば自宅住所も簡単に分るし、たまたま近所にセレブリティがいっぱい住んでいたので、そこから一歩踏み出してみただけ。

M それは昔のハリウッドスターと、今のスターとの違いであるかも。昔だったら、スターは手の届かない存在で、スティーブ・マックイーンの家に盗みに入るなんて、考えられない。軽い気持ちで侵入し、拝借できちゃうのが、今のハリウッドセレブなのかも。

T テレビの芸能人の着ているもののブランドや金額をおおっぴらに競うような価値観の当たり前化も後押ししてる様に思うな。セレブリティ側からブランドをname dropして流行を生んでいるんだみたいな。煽っているて言う感じ。英国的な真新しいものやこれこれ見よがし的なものを嫌悪する「はにかみの美学」の対極かな。僕らはもっとファッションアイコンでもわかりにくさをおもしろがって来たし、着こなし方とかわかりにくいところを解きほぐしていくことが自分にとっってのスターとの距離感を縮めることだったけれど。

A 本物の素敵とは違いますよね。ファッションでも昔の日本の女性誌は、センスが価値観の基準だったのが、今は幾らとか、誰が着ているブランドだとか、そういう価値観が基準になっているようにみえる。ソフィア・コッポラは、もちろんその辺の違いはわかっているし、本来の彼女のセンスも違う場所にある。

(C)2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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M 日本でもスターが遠い存在だった時代から、AKB48のように身近にスター(アイドル)と、話したり握手したり、接触出来る時代になっている。誰もが有名人になれるチャンスがあったり、うまくいけばスターと友人になれるかもしれない。

Y アイドル=セレブリティ。セレブが彼らのお手本。好きなセレブリティには前科があるけど気にしないし逆にちょっとCool。だから私は捕まっても気にしない、リンジーと同じだから。だから、みんな謝らない。本当は悪いと思っていない。そんな自己中心的な彼らも、不思議と腹黒さを感じないピュア(純粋)な印象があります。反省や懺悔すればその後はあと引かないで前を向いて行こう。そんなアメリカっぽい理屈です。

T ピュアなのは、感じます。

A この狂っているけど悪気のないピュアさというのが、コッポラが描きたかった現代のアメリカなのではないでしょうか。それを肯定はしないけれど、斜めからシニカルに描くのでもない位置の取り方が興味深い。

Y 受け手側も、ふつうに考えたら、おかしい事も何となく言いくるめられている不条理。いろんなタイプとレベルの人がいるからそれぞれ色々とだまされている事も少なくないと思う。個人的にはそんな不思議なアメリカが面白くて好き。

(C)2013 Somewhere Else, LLC. All Rights Reserved
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M 話は変わりますが、最近120分以上の映画が多い中、これは90分で簡潔ですね。この作品は90分位で一気に見せたいと考えたのかな。

Y 原作読んだのですが、こちらは彼女たちの各家庭の格差などバックストーリーも描かれていて、もっとボリュームがあり複雑な内容でした。敢えて触れていないであろうエピソードもありましたし。

A 脚本も本人だから、かなり削いだのでしょうね。

T でもその辺の潔さが、いいですね。

M ソフィア・コッポラは、こういうキャッチーな題材を、敢えて深堀りせずに、コンパクトにサラッと見せるセンスがある。

A サラッとの趣味のよさが彼女の映画をアメリカの同世代の中でも特別のものにしていると思う。ウェス・アンダーソンや元夫スパイク・ジョーンズ、マイク・ミルズ、ノア・バームバックとかヨーロッパを向きつつ核はアメリカな彼女と同系の男子監督たちのエレガンスがおたくな味をやっぱり芯にしてしまうのに対して彼女の場合はもうひとつシックの筋が通ってるような。
そんな監督の名前で見るわけではないかもしれない日本の若い子達が「ブリングリング」の登場人物をどう受けとめるのか、聞いてみたいですね。

『ブリングリング』
12月14日(土)、渋谷シネクイント他にて全国順次ロードショー

立川シネマシティでは、ソフィア・コッポラ特集上映を開催中です。
尚シネマ・ディスカッションの第3弾は、ジム・ジャームッシュ監督の新作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ」を予定していますので、こちらも是非ご期待下さい。

Message from Hiroyuki Nakano (中野裕之監督”Flying Bodies”)

中野裕之監督と、青森山田高校男子新体操部荒川栄監督
中野裕之監督と、青森山田高校男子新体操部荒川栄監督

中野裕之監督のノンフィクションフィルム「Flying Bodies」は、お陰さまで大変好評で、テアトル新宿での上映は、本日より2週間の上映延長となりました。
立川シネマシティ2で12月12日(木)19時半より開催しますスペシャルイベント・スクリーニングも、出演者が決定し、チケットも残り少なくなってきております。
尚12日当日は、中野監督がある大物ミュージシャンとのコラボレーションで、モンゴルで撮影した新作ショートフィルムが、本邦初公開として同時上映される事になりました。

代々木国立競技場での本番撮影時のオープニングは、涙が溢れてしまい、カメラをうまく動かせなかったという中野監督のこの作品にかける熱い想いを、メッセージとして頂きました。
作品を既にご覧になった方、これからご覧になる方、そして今はご覧になる予定のない方も、是非このメッセージを読んで頂ければと思います。
中野監督は、青森大学新体操部の部員達と正面から向き合い、狙って撮るドキュメンタリー作品ではなく、純粋な記録映像として、商業ベースでは考えれない程の時間をこの作品に注ぎ込み、素晴らしいノンフィクションフィルムを作り上げました。

以下中野裕之監督からのメッセージです。

僕は音楽が好きでミュージシャンになろうと
思って青春時代を過ごしました。
そして、自分の才能のなさは自分が一番良く知っている
ということで、映像の世界に方向を変えました。
そこで、僕の生き方を導いてくれた上司に出会いました。
残業はするな、仕事は早く終わらせて、面白いことに時間を
かけろ。おかげで、早く仕事を終わらせて遊びまくったおかげで
いろんな世界の人とも知り合ったり、出会ったりして
今の自分ができたと思っています。

今回、青森に行って、僕がギターに没頭していた青春時代の代わりに
体育館の中で青春を過ごす男子新体操部の学生さんたちに
出会いました。
純粋で、指導の先生や監督の言うことを素直に聞く統制のとれた
体育会系の若者。
そこに、外人ですよ。しかもスパイダーマンを合成じゃなくて
劇場でビュンビュン空中を飛ばす舞台の演出をやったような
外人がきて、無茶なことを言うんです。
それをやったらぶつかるでしょ、ああ、ほらぶつかった。
そして、いつのまにか、それが形になっていくんです。
3ヶ月くらい観察していて、
気づいたことは、ただ、ひたすら、集中してそのことだけを
やることが許される時には、それをまっしぐらに追求して
いくと、大変だし、つらいけど、やっぱり、なにか精神を
成長させるような山を超えることができるということです。

これは、ものを作ったり、なにかの仕事をやれば
体験できることでもありますけど。
青森大学男子新体操部はとにかく特別なんです。

選ばれた能力をさらに磨いてのみ到達することができると
言う意味では、歌を歌える人やギターがうまい人は1億人くらいいた
としても、必ず、人を感動させることができる人は少ないという
事実や、1000人デビューしてCDを出しても
10年後には2人くらいしか残っていないということで、
夢があっても挫折があるという意味では、芸能の世界もスポーツも
はかなくてきびしい世界なんですが、
映画、「ラストサムライ」で、最後にいい台詞があって、
「どうやって死んだじゃなくて、どう生きたか教えてくれ」
ってあって、
まさしく、生きているその瞬間が輝く時のために
苦労があって、怪我して挫折したとしても、
一度でもそのすばらしい輝きに到達した瞬間を体内に
覚えさせたとしたら、その人はその後に運動できなくても
違う人生を歩む時に、乗り越えていく力を持っているし
その子孫にDNAに記録されて伝わっていくんだと思います。

そんな輝く瞬間を撮れたことに感謝しています。

中野裕之 Hiroyuki Nakano

人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)