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『偶然と想像』濱口竜介の短編小説集/Cinema Discussion-41

『偶然と想像』
©︎ 2021 NEOPA / Fictive

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。第41回目となります。今年はCinema Reviewというレビュー形式の評論も始めて、合計21本の作品を紹介させて頂きました。
紹介するつもりが、時間的制約や、言語化が難しく断念した作品もあります。
そして2021年最後は、濱口竜介監督のオムニバス作品『偶然と想像』です。
今回は映画評論家川口敦子と、川野 正雄の二人の会話でお届けします。

『偶然と想像』
©︎ 2021 NEOPA / Fictive

★まずは映画の感想を。どんなふうに楽しみましたか?
 
*川口敦子(以下A):ベルリン国際映画祭での銀熊賞(審査員大賞)受賞をはじめ映画祭サーキットでも注目を集めてきた一作ですが、とりわけ見逃せないのは東京フィルメックス等々で観客賞に輝いているってこと、乱暴にいってしまえば人気投票みたいな賞でもきちんと結果を出している、というのがすんなり納得できる愛すべき快作ですね。
もちろん、濱口竜介監督の国際的な評価の高さは『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』、そして『ドライブ・マイ・カー』と一作ごとに確かなものとなってきて、作品そのものの世界の大きさ、深さもまたがつんと重量級の噛み応えを感じさせてきたわけですが、そういう歩みの中で短篇3本から成るこの『偶然と想像』はふっと風の通り抜けていくような軽やかさで、観客の胸に飛び込んでくる。そこがまた新鮮だなあと素直にうれしくなりました。
音楽にシューマンの「子供の情景」の「異国から」を使っているでしょ。あのピアノ曲のシンプルさゆえの奥行といったらいいのか、無邪気さ、明るさの底にぽっと透んだ寂しさがまぎれこんでいるような、そこも映画の感触とうまく合っていますよね。で、私事をいってしまうと、この曲、昔、習ってたピアノの先生のことを思い出させてくれて、エスプリがないね――とよくけなされたんですが(笑) エスプリって、近頃あまり聞かない言葉ですが、この映画を見ながらああっと、エスプリがあるって誉め言葉をいきなり懐かしく反芻したりもしてしまいました。

*川野正雄(以下M):先に『ドライブ・マイ・カー』を見て、村上春樹の原作を原案程度にしてしまう濱口ワールドに圧倒されていました。
その為『偶然と想像』にも大きな期待を持って臨みました。
元々何かの凱旋上映会で見た『ハッピーアワー』に衝撃を受けていました。
『ドライブ・マイ・カー』は、『ハッピーアワー』から考えると、ものすごく進化した感じがしたのですが、『偶然と想像』には、『ハッピーアワー』のエッセンスを、まず感じました。
それから同じ年にカンヌ映画祭と、ベルリン映画祭で、それぞれ違う作品で賞を獲得するという事が、日本人として物凄い快挙なのではないかと思います。

★3つの短篇からなる映画の構成についてはどのように感じましたか?
独特の軽みがあるのはこの構成のせいと思いますか?

M: 『ドライブ・マイ・カー』の撮影がコロナで中断した合間に、少しづつ撮影したと聞きましたが、いい意味で軽く撮っているインディーズ映画らしさがありますね。
短編小説のような作品にしたいという濱口監督のコンセプトが、すごく今の気分や時代にもフィットしているのではないでしょうか。
3つの物語は全くリンクはしていないのですが、女性が偶然の産物で巻き込まれていく様は、三編とも共通で、映画的な面白さがすごくありますね。

A: そうですね。濱口監督自身が脚本を書いて、どれも一週間ぐらいで書き上げたと発言されているのを読んだ気がしますが、そのささっとの気分が微妙に異なるテイストをもつ3つの小さなお話を結んで飽きさせない。短篇集というアイディアは『パリのランデヴー』とか、ロメールにインスパイアされたということもいくつものインタビューで仰っていますが、そんな軽みの中でも台詞の応酬できっちりと「聞く人の顔に映る物語」を照らし合うツーショットの時空を紡ぐ第一話のタクシーの車内の場、惹き込まれます。3話を通じてひとりとひとりのふたりの会話のパターンがいくつも差し出されていくスリルも見逃せませんね。そういう構成の積み上げ方ひとつにしてもニュアンスだけで勝負みたいな昨今の言葉が軽すぎる日本の映画の演技、台詞、話術、撮り方へのこれみよがしではないけれども静かな異議申し立てが感じられて頼もしく思いました。

★タイトルにある「偶然」と「想像」に関して、映画を見ながらどんなことを思いましたか?

M:偶然の面白さというのは、映画のテーマとして扱われる事は多いと思います。例えば韓国のホン・サンス監督作品にも、見られますよね。
この3本のストーリーは、基本的に女性の中で起きる偶然であり、そこから生じるイマジネーションが、作品の骨格となっていると思います。
そのイマジネーションの描写が、さりげなく、しかし濃いという、濱口ワールドになっていると思います。
これはいわば真逆の現象なんですが、それが実に絶妙にブレンドされていて、観客にもヒントを与えながら、裏側を想像しつつ映画を見るという楽しみを与えていると感じました。

A:シネマクエストのインタビュー(伊藤さとりのシネマの世界vol.80)で東京芸大大学院映像研究科時代の師でもある黒沢清監督が映画をご覧になって「『偶然と想像』というタイトルだけど、映画ってみんなそうじゃない?」と仰った、「言われてみればその通りだと思った」とコメントされているのが面白かったですね。「映画って最初に発端(偶然)があって、それが人々の想像を掻き立てながら進んでいくものだと思う」と。2回目の偶然を出すと都合よすぎじゃない? となる、でもタイトルに謳っておけば、わかったじゃあどうなると理解して見てもらえるのでは――ということでつけた題名だそうです(笑) でもそのありえへんやろ――みたいな偶然を心憎く重ねて、見る者のイマジネーションを刺激し興味をつないでいく、そこにある話術、それを成立させる底力というのは実際、往年の聖林のロマンチックコメディにしても、ジャンル映画にしても、監督たちの腕の見せ所だったりもしたわけで、冗談めかして仰っているけれど実はチャレンジの真意が隠されていたりもしそうですね。そこに濱口監督という存在の映画の今におけるスリルも実はありそうで、つまり古典的な監督術への意志と覚悟を偶然と想像とを扱う手さばきにきちんと嚙みしめてみたいですね。

『偶然と想像』
©︎ 2021 NEOPA / Fictive

★俳優たちに関しては? その演技に関しては? 

A:先ほどもいいましたが、ニュアンスにばかり頼った、言い出しかねての・・・な語尾とか、劇画的ストップモーションの顔=感情表現と妄信しているような昨今の演技に降り積もる不満をいっきに解消してくれる素晴らしい俳優たち、そのせりふ回し、そこにある言葉のアクションと身体性の両立を堪能しました。それとこれは既に多くの評で指摘されていることの繰り返しになりますが、声への意識も大きいですね。第一話の中島歩、第二話の森郁月の声いいですよね。
演技の良しあしと俳優本人の備えた資質と、どちらが勝っているのかという点は映画を見ながらいつももやもや考えてしまう点なんですが、最初にふれたエスプリ、機知を感じさせる存在の仕方をどの挿話の人々も射抜いていて、それは今やあまりに有名な棒読みのリハーサルを重ねるという「濱口メソッド」の成果なのかもしれませんが、同時に的を射た、しかし意外性と無縁でもない配役のセンスもものをいっていますよね。たとえば渋川清彦のハラスメントに周到な配慮をみせるちょっと小心者の芥川賞作家兼教授なんて、いつも見ている暴力的だったり今どき過ぎだったり前のめりだったりするキャラクターをみごとに抑え込んでいて面白い。『いとみち』でも不思議な魅力をみせた中島、『パッション』も懐かしい河井青葉のどこかおっとりぬけている感じも得難い魅力で、それはもちろん話の中でぴたりとはまっているということですが、そこにはまる質をみつけ活かす作り手側の目の大切さも指し示してくれてはいないでしょうか。同じ顔が同じような役どころを演じているような映画の怠惰さが蔓延っている現状にちょっとうんざりなところもあるだけに、当たり前のことをきちんとやっているこの映画の制作の姿勢が光って見えるんですね。
ちなみにこの脚本の素晴らしさを思うと全く同じ3話を例えばパリ編、ニューヨーク編、台北編と変奏してみるっていうのも素敵じゃないでしょうか。売れまくってるアダム・ドライヴァーが中島歩の役をやったらどうなるのか、その場合、ふたりのヒロインは誰が演じるのか、もちろん演出は濱口監督ご自身でお願いしたいですね。

M:アダム・ドライヴァー+濱口監督いいですね!
この作品に関しては、オーディションでかなり役者さんを選ぶのに悩まれたようですが、すごく役作りには深いものを感じました。
撮影は多分かなり短い期間でやったと思いますが、独特の濱口式の本読みなど、事前のトレーニングというか、演技の仕込みについては、かなり時間をかけたのではないかと想像します。
朝ドラ『エール』の娘役で気になっていた古川琴音と、FMラジオのDJで馴染みのあった玄理。誰も考えつかないコンビネーションと思います。
更に争う男性が、『いとみち』のメイドカフェの店長でいい味出していた中島歩。
この3人の出口が見えにくい三角関係で、まず圧倒されました。
第2話は、個人的に初見の森郁月と、DJもやる個性派渋川晴彦の師弟関係のひずみと、漂う不穏な空気に唸らせられました。
第3話は、圧倒的な存在感の河合青葉と、占部房子のやり取りで、少し緊張感が和らぎました。
本当に芝居を基軸にした作品で、役者の演技というものに、正面から対峙している。そんな作品です。最近の映画は芝居だけではなく、周辺の演出がテクノロジーの進化によって、よりウエイトが高くなっていますが、シンプルに芝居だけで見せる演出が、逆に新鮮に感じました。

★カサベテス、ホン・サンス、ロメールとの比較が内外の評で目につきますがそのあたりに関しては?

A:見ながらついつい思い浮かべたくなりますよね。特に第一話で仲良しの女友達と付き合い始めた元カレ、ふたりを前にヒロインが夢想する頭の中の景色がいきなり現出し、ふっとまた現実に戻る、その地続きな感じの虚実の描き方にはちょっと昔のホン・サンス、なかでも『女は男の未来だ』の中華料理店での一景を思わず懐かしみたくもなった(笑) まあついつい比べてうれしくなるのは映画ファンのしょうがない習性なんでしょうが、だからどうしたというようなことでもあるのかな。ただカサヴェテスの『ハズバンズ』が大きなインパクトを与えたいうのは濱口監督自身が様々なインタビューで一度ならず発言されている、特に文学界22年1月号での西森路代氏との対談にあるコメントは演技する存在としての人という監督の映画にいつも見出せるテーマのことを思ってみてもスリリングで、そこからいろいろ考えてみたいことが浮かんできました。

M:僕の苦手な『ハズバンズ』ですが、濱口監督が好むのもよくわかります。台詞の応酬による演出の極限化という手法は、同じ日本人だからか、濱口監督の方がダイレクトに波長が合いますね。

★濱口竜介監督作の中でどのように位置づけますか? 

A:あと4本の短篇の構想もあるようですが、長編の合間にちょっと息抜きのような短篇集を差し挟んでいくというアイディアはファンにもうれしい贈り物みたいで大歓迎です。
確かギヨーム・ブラック監督も短篇『遭難者』があって中編『女っ気なし』があってと自由にフォーマットを往還していて、習作以上の成果を生んでいますよね。ヌーヴェルヴァーグの面々もそうやっていたわけですし。今後も積極的に短篇集作りも続けてほしいと思います。そういえば『不気味なものの肌に触れる』を予告編とするような『Flood
』という企画があったように記憶しているんですが、実現する日を待ってます!

M:濱口作品は前述の3作品だけで、そんなに見ているわけではないので、位置づけは難しいです。
敦子さんが比較に出されたギョーム・ブラックやブラックやホン・サンスといった監督達〜言葉と描写で綴っていく手法の演出という意味ではすごく親和性を感じます。
そして日本人監督として、かつてない位に洗練された監督力を感じます。
前述したようにカンヌ、ベルリンでの2作品受賞という状況見ると、グローバルな意味での日本映画シーンは、これから先当分の間は濱口監督を中心にして、今後回っていくのではないでしょうか?
そしてあまり多くの作品を今年は見ていませんが、日本映画としては個人的な今年のベストチョイスだと思っています。

★映画の見所、チャームポイントはどこにあると思いますか?

A:対話する人と人、そこで交わされる言葉、偶然が生んだシチュエーションの想像を超える展開という要素をしっくりと笑わせながら紡ぎあげる話術、映画術の魅力。で、どうしても演技や台詞の部分にまず惹きつけられてしまうんですが、タクシーのリアウィンドウが切り取る東京の夜とか、青山トンネルを走るヒロインとか、仙台駅のエスカレーターの上りと下り、その交差が切り取る運動とか、大学の教授の部屋のドアの開け閉めとか、そういう所にある映画的情動をさらりと何食わぬ顔で盛り込む監督の真の力も素敵に輝いているように思いました。

M:村上春樹作品のような良質な短編小説を3本読んだ。そんな気分になれるところでしょう.

『偶然と想像』
©︎ 2021 NEOPA / Fictive

『偶然と想像』
©︎ 2021 NEOPA / Fictive
2021年12月、Bunkamuraル・シネマ他全国ロードショー

監督・脚本:濱口竜介
出演:(第一話)古川琴音 中島歩 玄理/(第二話)渋川清彦 森郁月 甲斐翔真/
(第三話)占部房子 河井青葉
撮影:飯岡幸子 プロデューサー:高田聡 製作:NEOPA fictive  121分 
配給:Incline LLP 配給協力:コピアポア・フィルム

『いとみち』世代を超えた津軽三味線バトル/ Cinema Review-7

 

(c)2021『いとみち』製作委員会

Cinema Review第7回は、レビューとしては初めての日本映画『いとみち』です。
監督は『ウルトラミラクルラブストーリー』、『俳優亀岡拓司』の横浜聡子。
地元青森を舞台に、会話が苦手な女子高生の成長を、見事な演出で描いています。
レビューは映画評論家川口敦子と、川野正雄の2名です。

★川野 正雄
津軽三味線を描いた映画というと斉藤耕一監督の『津軽じょんがら節』と、新藤兼人監督の『竹山ひとり旅』を思い起こす。
どちらも1970年代の独立映画特有の重さ、暗さ、人間の業などが描かれ、荒涼とした津軽の風景と合い重なり、自分の中の津軽三味線のイメージは、そのまま今日まで2本の映画の延長線上にあるものだった。
『津軽じょんがら節』は、同じ斉藤耕一監督の岸惠子、ショーケンの逃避行を描いた『約束』の延長線上にある荒涼とした恋愛映画。その年のベスト1に選ばれるほど評価が高い作品である。

三味線第一人者高橋竹山を描いた『竹山ひとり旅』は、渋谷のライブハウスジァンジァンも制作に参加し、竹山本人も出演するドラマ+ドキュメンタリーを先駆的に作った傑作だった。詳細な記憶は薄れたが、高橋竹山の三味線はブルーズ・ロックのようで、当時ジァンジァンでの動員が大きかった事が納得できる強烈なものだった。
主演は林隆三。ピアノの名人林隆三の三味線演奏シーンも素晴らしく、生涯の最高傑作とも言える代表作になった。貧困の中生き抜く竹山の旅芸人としての半生が描かれていたが、新藤兼人監督らしく、差別的なテーマにも真正面から向き合うものであった。

『いとみち』は、現代の高校生の視線で三味線が描かれ、そういった過去の映画にある暗さや重さとは無縁である。
しかしおばあちゃん役の西川洋子は、高橋竹山の一番弟子であり、間違いなく壮絶な時代を、竹山と共に生き抜いた人である。
この西川洋子の出演が、作品全体をまず担保している。
駒井蓮演じるいとは高校生。祖母から三味線を学んでいたが、一旦三味線から距離を置いていた。映画の基軸は、いとがどう三味線と向き合っていくのかだ。その中にいとの人間としての成長も描かれていく。
監督の横浜聡子は、現代の課題として、ジェンダー、職業、訛りなどの差別に、映画の中で向き合っている。
家族、同級生、職場など、周囲からのちょっとした事への視線が、小さな事でも人の心を刺してしまう。
人間の心のデリケートな部分を、横浜聡子監督は、観客が自然に共感性を持てるように、描いている。

(c)2021『いとみち』製作委員会

これまでの横浜聡子作品は、狙い過ぎ、ひねり過ぎの演出がややあり、その分メッセージも曖昧になってしまうケースがあったと思う。
しかし『いとみち』は、苦境を乗り越えるポジティブなメッセージが、ダイレクトに伝わってきて、心地よい。
出演者の中では、同級生役のジョナゴールド(りんご娘)の存在感が素晴らしい。
彼女によって、この映画はネガティブな局面が、ポジティブな局面に一変する。

地域の伝統芸能が、どう継承されていくのか、都会にいる自分達は、ほとんど考えた事のないテーマである。
ご当地映画、伝統芸能映画では、関係者の思いが強過ぎると、バランスを欠くケースがある。
しかしこの映画は、少し私たちと距離感のあるテーマを、意外なほどすんなりと、身近に感じさせてくれる。

(c)2021『いとみち』製作委員会

いとと祖母の共演、ラストのライブなど、三味線の魅力もふんだんに味わえる。
先人たちの深い想いをベースにしながら、今の時代の三味線を描く『いとみち』。
青森という土地の魅力もあり、見た後の爽快感が素晴らしい。
セルクルルージュのHPを始めた頃、青森大学の新体操部を描いた映画『FLYING BODIES』の上映で、青森を訪れた。その時に体感したポジティブな青森の人たちとの触れ合いを思い出した。
『いとみち』は、先人達へのリスペクトと、周りにいる人たちへの愛に溢れた映画である。

(c)2021『いとみち』製作委員会

★川口 敦子
“女性監督″とわざわざくくって特別視する世の中のよくある姿勢になんだかなあと合点がいかない思いを嚙みしめる。嚙みしめつつ、そんな余計なくくりをあっけらかんと踏み超える快作を放つ女性監督がぞくぞくと登場してくる今にはやはりにんまりとうれしい気持ちを抱えてほくそえみたくなってしまう。それって同性としてくくりに縛られていることじゃないかと、面倒な理屈が頭をもたげもするが、でもとうっちゃり涼しい顔で映画が素敵、それが肝心と念を押してみたくなる。

(c)2021『いとみち』製作委員会

 
つい最近もそんなにんまりのうれしさを味わった。コロナのせいでイレギュラーな形とはなったものの昨年カンヌの正式エントリー作に選ばれたスザンヌ・ランドン監督・脚本・主演作『スザンヌ、16歳』(8月21日ユーロスペース他で公開予定)を前にした時だ。15歳でものした脚本を20歳前に映画化したランドンの快作は、年の離れた俳優への淡い初恋の想いに染まる16歳の少女の気持ち、そのふんわりとやわらかなおぼつかなさを細やかに掬いあげる。判ってくれない大人に抗うとか、いじめに悩むとか、暴力的な衝動を抱えて暗闇に逼塞する――とかとか、青春映画につきものの悩みや息/生き苦しさ、鬱陶しさをさらりとかわして退屈という、いってしまえばそれもまた思春期のクリシェに他ならぬ感触をしかし新しく透明な空気の中を漂うようにすりぬけていくスザンヌの蕾の春の奇妙なくもりのなさに惹き込まれずにいられなくなる。そうしてこの奇妙に透明な仄明るさの磁力はりんごの津軽で蕾の春を、初めはそろそろうつ向きがちに、それからゆっくり顔をあげ、やがて全力疾走で駆け抜けていく16歳、相馬いと、『いとみち』のヒロインが銀幕上で全開にするそれと鮮やかに共振し、ここにも有無を言わせず存在している注目すべき女性監督横浜聡子の素敵を改めて吟味せずにはいられなくする。

 既に短・長編合わせて確かなキャリアを積んできた横浜の映画はいつも自由ということの真意をきっぱりと指し示し勇気づけ励ましてくれる。『ウルトラミラクルラブストーリー』『りんごのうかの少女』に続いて故郷、青森を舞台に聞き取りの困難さもなんのその手加減なしの津軽弁で押し通すその新作もまた、ストーリーテラーとしての成熟を確かに感じさせながらも、生と死の境界も夢と現,正と異のそれもあっけらかんと無化して恐れず混沌の強さを探り当てる。物心つく前に逝った母の面影をいとは髪をすいてくれた櫛の歯の感触の懐かしさとして想起する。現実の物語りと頭の中、記憶の景色がことわりもなく並びたっている。記憶の感触が現実のそれとして蘇る時、泣くことを忘れていたいとの頬に涙が伝わる。目をあげるときっとそこにある岩木山、聖書を引いて助けは何処よりと呟いた太宰を遠いこだまのように思わせて要所要所になだらかな山の姿が挿入され、いととその世界の涙ぐましさを仄明るさが包み込む。じわじわと生の活力がせり上がる。メイドカフェ再建、そこで働く面々、同級生早苗、それぞれがそれぞれに抱えた問題に安易な答えを探り当てるわけではなく、けれども映画はしぶとくやわらかに生き抜く術を思い、その力を裏打ちするように祖母から亡き母へ、さらにいとへと継承される津軽三味線、撓う幹の強みを思わせる重低音を響かせる。
「しゃべればしゃべるほどひとりになる」「ふたしか、いきるってそういうことだべ」――滋味深い台詞の余韻を胸に、エンディング父と上った岩木山、その山頂から見下ろす下界をめぐるいとの感懐もまるごと共に抱きしめたい。

(c)2021『いとみち』製作委員会

『いとみち』6月25日より全国順次公開中。