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Cinema Discussion-20/ROCK AND POEM by JARMUSCH

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第20回は、ジム・ジャームッシュ監督の新作2本です。
ジム・ジャームッシュ監督の前作『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を、シネマ・ディスカッション第3回で取り上げていますので、2回目の紹介になります。
今回ご紹介する2作品『パターソン』と、イギー・ポップのドキュメンタリー『ギミー・デンジャー』は、ジャームッシュの文学的な一面と、ロックな一面という対照的な表情の作品となっていますので、是非両作品を見比べていただきたいと思っています。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★『パターソン』は『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』から4年目のジム・ジャームッシュの新作ですが、前作と比較しつつまずはどんな感想を?

名古屋靖(以下N):見終わった後の余韻が何とも魅力で好きな映画です。 前回と比較すると、今回のあまり起伏のない反復の映像は初期のジャームッシュらしい作品になっていて個人的には「ありがとう。」という感じです。

川野正雄(以下M):非常に淡々としている描写で、ヴァンパイヤを扱った前作とは全く違う印象でした。
ジャームッシュの作品としては、かつてない位に静かで、大きな事件は起きない作品ですね。日常を切り取るという意味では『コーヒー&シガレッツ』がありますが、あのようなオフビート感覚もない。
ジャームッシュとしてはかなりの静の映画で、少し新たな領域に入ってきた感があります。

川口哲生(以下T):『パターソン』は前作のティルダ・スウィントンや初期のジョン・ルーリーやトム・ウェイツみたいに主演に、こちらサイド(自分の範疇)を匂わせる人もいず、それだけで観てみたいと思わせる映画ではないですね。また前作のヴァンパイア、モロッコというドラマチックなセッティングもない、アメリカの一都市での淡々とした生活を描いています。
それでも、オープニングの主人公の朝のルーティン、朝食のシーンから、カップやスタンドの傘に描かれたサークルとか、いかにもジャームッシュ的な「わかるかな?」がちりばめられていてニヤリとしました。

川口敦子(以下A):前作がヴァンパイアものだからまあ当然といえば当然だけど、夜の映画として記憶に残っているのに対し、『パターソン』は昼の、彼が運転する循環バスの車窓を通過していく景色と音、それが昼にみた夢みたいに全篇に響いていくような部分がとりわけ印象に残っています。もちろん一週間の毎日を列ねていく、そのルーティンと変奏の面白さもあり、さらにはパターソンという町にまつわる記事を集めた”名声の壁”のあるバーに集う面々との夜ごとの密やかな“ドラマ(になら成りきれないそれ)”も面白いけれど、前作との比較でいうと昼の映画というのかな、そこにある夢の感触にとても惹かれました。

★巡回バスの運転手として日々働きながら詩を書く主人公パターソンは、アマチュア(愛のために何かをする人)、ディレッタント(楽しみのために何かをする人)という、普通はネガティブに使われる言葉をいらない価値に惑わされない創作の要とするジャームッシュならではのキャラクターですが、この主人公についてはどう見ましたか?

T:セルクルルージュ的ですね。笑
大きな資本の原理(利潤や効率)とは違うヴァンパイア的生き残り方ですね。笑

M:バス運転手をしながら詩人という彼の生き方は、ある意味ロックミュージシャンぽいなと感じました。パターソンという人間の深い内面性までは描いていないようにも思えるのですが、アダム・ドライバーのキャラと相まって、なかなか魅力的なキャラクターに造形されたと思います。
バスのトラブル時の彼の処理、バーのトラブル時の対応など、ちょっと骨っぽい部分があるというのも、うまく見せていたと思います。単なるへなちょこなポエム野郎ではないぞという感じです。

A:骨っぽさといえば、海兵隊時代の写真がちらりと背景に切り取られたりして、バーでの”事件”におおっと機敏に対応する、というか身体が動いてしまうという部分がさらりと描かれていて興味深かったですね。ジャームッシュは演じるアダム・ドライバー自身が9.11の後、海兵隊に入り、負傷して退役しジュリアードで演劇を学び、軍人向けに公演する劇団を運営したという経歴をもっている点、いわば文武両道な過去にすごく興味をもったようで、それをふまえた静かな人パターソンの内面、もしかしたら戦場体験を経たこととか――を、あの小さいけれど大いに気になる場面に託したりしているんじゃないかなあ。戦争によるトラウマなんて所まではあざとく描いたりはしていませんが、何かあったのかなと感じようと思えば感じられる挿話になっていて、それが日々を淡々と送り、詩を書く静かな暮らしの裡に蠢く何かだったりするのかなあと。
もちろん、ジャームッシュ自身のアマチュア、ディレッタントへの共感がパターソンを魅力的にしている。ジャームッシュ自身が詩人をめざしていたこともあって、とりわけ愛着のある人物として描かれていますね。私はこの映画をみて彼の長編デビュー作『パーマネント・ヴァケーション』をすごく懐かしく想起し、見直したくなりました。あの映画の主人公のニューヨークのストリートを漂流している詩青年。仕事もなく日々を漂うようにやり過ごすかっこつけた若者のパーマネントなバケーションとしての生き方、あの船出のラストの後に来たものをパターソンはちょっと思わせたりもして。さっきもいったバスを運転しながらの夢想空間というのかな、あの時空、つまりは詩の時空を確保、そこで漂流者でいるために、彼は規則正しく日常の日々を繰り返し、定職を勤め上げる。大人になったジャームッシュ映画なんていってしまうと興ざめですが、そういう逆転、アウトサイダーであるためのインサイダーとしての毎日、ストレンジャーで居続けるための定住・定職みたいなことを考えさせられました。

N:アメリカ人のごく一般層のちょっとだけ下の方で、何かが少しだけ足りてないけど、寡黙に与えられた仕事を楽しみ、アマチュアだけど詩人であることに喜びを感じ、大好きな妻だからたまに我慢もするけれどそれは苦痛じゃない。そんな毎日を幸せに生きている。日常生活では口下手でも、美しいフレーズにときめきながら密かに詩を綴る主人公は純粋でとても魅力的に見えます。

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★彼の住む町パターソンについては?
N:ニュージャージー州北部に実在するパターソンは、映画にも登場する滝「グレートフォールズ」の水力発電の恩恵で19世紀から産業が栄えたものの、のちに現代アメリカの問題地帯「ラストベルト」の一端となっている町ですね。 ジャームッシュは前作のデトロイトもそうですが、「終わってる町」を愛情込めて魅力的に撮ってくれます。普通のアメリカ人の普通の日常を身近に感じるにはこんな舞台がリアルで理想的です。 まあでも、実際のパターソンはそんなに治安も良くないと思うので、特別な用事がなければ行きたくはない町ですけど。。。

M:前作がモロッコのマラケシュなどが出て、華やかでしたので、強いインパクトはありませんし、まずパターソンについての予備知識が自分は皆無です。ジャームッシュ作品では、『ブロークン・フラワーズ』で切り取られたような、アメリカのすごく個性的ではないある町という印象です。
この町の持つ時間の流れの緩さが、詩ともつながってくるようなのでパターソンも住んでいるのかと思いました。

T:ニュージャージーのパターソンは、あたりまえにHIP HOP以降のアフロアメリカンの影響化の要素を含みつつ、ダウンタウンの町並みや滝とか、どこかアメリカっぽくないところを感じました。バスの運転手として聞く、乗客の会話に、例えばワーキングクラスの人種を超えた話やら、イタリア系の学生のこの街唯一のコミュニスト気取りみたいな話はステレオタイプだけれど、そんないろいろな混ざり具合を感じさせていますね。

A:ちなみにあのバスでイタリア国王ウンベルト1世を暗殺したパターソン出身のアナーキスト ガエタノ・ブルーシの話をしている少年少女はウェス・アンダーソン監督作『ムーンライズ・キングダム』の主演のふたりなんですね。ジャームッシュはインタビューの中でどんどん無邪気に子供っぽくなっていくアンダーソンの映画が好きと語っています。そういう小さな好きを集めた所もこの映画の妙味だと思いますね。ジャームッシュがアンダーソンを好きというのもうれしいし。
パターソンという町は人種が多様な移民の町で、ローラもそうだけど、中東系移民も多く、そのことでトランプが9.11の後にこの町を名指しで問題発言したのだとか。
もちろん映画の中でも触れられている医者で詩人のウィリアム・カーロス・ウィリアムズの長詩「パターソン」が背後にはあるわけで、にわか勉強したところ、ウィリアムズは自叙伝(思潮社)の中でこんなふうにいってます。
「単に鳥や花を謳うのではなく、もっと大きい詩を書いていきたいなら、僕のまわりの身近な人たちのことを書かなければと思っていた。細部にわたり精細に知りたかった――人々の目の白いところ、まさに体臭にいたるまで。
それこそが詩人の仕事である。漠然としたカテゴリーで語るのでなく、個物を書いていくこと、ちょうど医者が患者に、眼前の対象に働きかけて、個物の中に普遍を発見していくように。(中略) ぼくはこの都市を僕の追究すべき「症例」として、まさに丹念にそれを仕上げていくために取り上げた」「都市であり人であるパターソンが発見される」
「事物をよそに観念は存在しない」No ideas but in thingsということもすごく強調されていて、ジャームッシュの映画はそんなウィリアムズの詩への思いを誠実に尊重して映画化しているとも思いました。

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★毎晩通うバーにたむろする面々、愛犬マーヴィン、バス会社の愚痴の覆い同僚等々、周囲のキャラクターで印象に残ったものは? ラッパーに少女に日本から来たウィリアム・カーロス・ウィリアムズのファンと詩人もたくさん登場しますが?

M:愛犬のマーヴィンは素晴らしいですが、授賞式前に亡くなったのは残念です。一般的に理解度が低いと言われる短頭系のブルドッグで、あれだけ表情のある演技が出来るのが素晴らしいです。
出番は少なくても、バーに現れるカップルや、バス会社の同僚などは、ジャームッシュらしいスパイスの効いたキャラクターですね。息抜きというか、映画のオフビートな部分を象徴していると感じました。
永瀬正敏君については、唐突感もありますが、重要な役どころで、この作品で彼を起用したジャームッシュの想いみたいな部分を感じました。当て書きであったというジャームッシュのインタビューを読み、納得するものがありましたし、素敵なシーンだったと思います。
A:「コーヒー&シガレッツ」によく出てると思いますが人と人とのやりとりのスケッチ的なおかしさ、おもむき、間・・・といったものを活かすのがジャームッシュはうまいし、好きなんでしょうね。
バスの乗客たち、バーの常連たち、そこに一緒にいてくすっと笑っているような気になりますね。あとちょっと違いますが双子たちも妙で面白かった。

N:ジム・ジャームッシュ新喜劇って感じ。(笑) さっきも言いましたが、お金とか、温もりとか、賢さとか、何かが少しだけ足りてないけど魅力的なキャラクターたちが満載ですよね。またそれが主人公のシンプルさを際立たせています。
愛犬のマーヴィンもそうですが、登場人物は全て「いい人」か「憎めない人」ばかり。そのおかげで主人公は日常のあらゆるモノからインスピレーションを受けていて、それが「詩」の源泉になっている。彼らのおかげで毎日幸せそうです。
印象に残ったのは、フラれて傷心のエヴェレット。いちいち言うセリフはかっこいいんだけど、やること全てカッコ悪い。(笑)
あとやはり永瀬正敏は良かったです。大阪から来た日本人の日本語英語と最初は最低限しか喋らない主人公の会話が少しずつリズムを持ち出す。「Uh-huh」の意味は結局僕にはわかりませんでしたが、この出会いは主人公に大きな変化をもたらしました。
最後の「詩」で思った僕の勝手な解釈ですが、マーヴィンのエピソードを経たのち、とある詩人と出会えたことで、主人公は「詩」との向き合い方にさらに深みを求めるようになり、だから最後の「詩」はそれまでの彼のものとはまた別のレベルに辿り着いたのだと思いました。
最後の「詩」を綴る場面で、昼間にいつものBARが閉まっている前を主人公が歩くシーンは象徴的で、過去の作品との静かなる決別宣言にも見えました。もっと穿った言い方をすれば、主人公の将来は、地元で有名なウイリアム・C・ウイリアムズを超える偉大な詩人になるかもしれないですよ。とそっと耳打ちされた感じです。

T:淡々とし主人公のパターソンと対極的なバーのマスターのドクや眼鏡の未練がましい男エヴァレットとかの絡みは単調さのなかでアクセントになっていました。イギィーの話も織り交ぜてね。
永瀬演じる詩人とのシーンは「新たな可能性」「再生」への大事なシーンですね。日本人としてはちょっと永瀬にたいしてのイメージが邪魔になっていると感じている自分もいましたが。

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★日常の坦々とした反復の中に浮かぶ詩をすくう姿勢が主人公にも、彼をみつめる映画にも見て取れますが、このスタイルに関しては?

M:文学者のエッセイ風な日常にも見えました。
日記というか、日常を描く散文的なエッセイです。

T:私はこの映画を見ながら「habit(習慣)」という言葉が頭の中をぐるぐるしていました。何か昔読んだ言葉だったなあと、気になった言葉を書き抜いているノート(poem bookではないよ笑)を繰っていたら哲学者ジャック・マリタンの『芸術の習慣(ハビット)』というのが出てきました。
「科学者でも農夫でも職人でも、あるいは小説家でも、意識的にであれ、無意識にであれ、その職業の積み重ねによって、生き方の習慣を与えられる。それが彼のその人らしさを作り、また越えがたい困難を、彼に乗り越えさせる力ともなる。キリスト教信者ならば恩寵と呼ぶのではないかと思える仕方で。」
反復のなかにすくい上げる詩人や映画のスタイルにそんなことを想い重ねました。

A:ポール・オースターを原作にしたウェイン・ワン監督の『スモーク』でタバコ屋の店主が毎日、同じ時間に同じ街角で撮る写真。同じに見える写真の一葉一葉に異なる物語がある、ゆっくり見ないとそれが見えてこないといったこととも通じるような。毎日、出かける時にはまっすぐなのに、帰宅する時には傾いている郵便受けの柱、それを毎日、まっすぐに直すパターソン、そこに抱えられた物語とか――。起承転結に追いまくられたドラマと異なる些事/things/具体への目がこの映画の強さだと思います。

★ジャームッシュの映画の系譜の中にある淡々とした日常と人の描写は好き嫌いが分かれるところだとも思いますが、いかがですか? 下手をすると『かもめ食堂』みたいなほっこり感とすれすれの部分もありますが? そうならない違いはどのあたりにあると?

T:結局土台としているもの、生きてきたなかでの好きなこと、音楽等々のベースに流れるダウンビート感でしょうか?

A:私は妻ローラの突飛さの連発ぶりに、ちょっとだけ結果としての表現型は違うけれど、根底にあるものとしてはほっこり系に通じるものを感じて、やや引いてしまいそうになったのですが、それは自分の居場所にあまりに迷いなくほんわかとしていたり、エキセントリックでいたりできる部分への、その迷いなさへの抵抗感かなあと思います。パターソンの淡々、ジャームッシュの映画のそれとの違いはそのあたりにあるのかも。うまく言葉にできないし、ローラもジャームッシュ映画のひとりではあるのですが。

N:同じ一週間の物語でも、コーエン兄弟の『インサイド・ルーイン・デービス』より必然性を感じます。規則的な繰り返しに加え、乗用車より遅い市営バスの速度に合わせたような、ちょっとゆったりめなテンポも心地よかったです。また、そっけないエンディングは秀逸で感動的ですらありました。
物語の中心に「詩」があるのは当然ですが、何かが少しだけ足りてない人々のちょっと変な描写やその場の間や空気感が、彼の映画を観る楽しみの一つでもあり特徴でもあると勝手に思っています。
僕はレイモンド・カーヴァーの短編が好きなんですが、カーヴァーの描くアメリカとジャームッシュの描くそれには共通点があるような気がしてなりません。ごく日常の中に潜む「幽かな歪み」や「ちょっとだけ異様」な人物や事柄を、ギリギリの表現ですが愛情を持って魅力的に観せてくれるところはアーティストとして同じ方向性を感じます。

M:ほっこり感はないですよね。ジャームッシュの映画は、淡々としても低温ではないので、単調にはならないと思います。随所に彼なり仕掛けを施しているように感じています。
そこにリズム感もあるのが、彼らしいと感じています。
荻上直子監督の映画は、やはり女性らしいほっこり感だと思います。新作の『彼らが本気で編むときは、』はちょっと違い、マイノリティやセクシャリティへの視線などは、逆にジャームッシュ的だと思いました。
ほっこり感というのは、自分的には退屈と紙一重と思っています。

★手書きの詩がスクリーン上に書きつけられたり、詩を読む声が重ねられたり、映画で詩を表現する上でのジャームッシュの方法はいかがですか?
N:英語の聞き取りが苦手は自分にはとても助かりました。(笑)
「詩」はその姿も大事ですので、スクリーン上の書きつけは効果的でした。

T:私にはすごくパターソンの心情の表現として有効でした。主張しない、内向的な彼と表現する時の彼の、声のトーンの違いや味のある文字はパターソンの「表現者として生きている時間」を感じさせました。

M:これは大河ドラマ的だなと(笑)。『清盛』とかですと、西行や鳥羽上皇の詠む詩が、書き文字で画面に表れてきました。漢字を見るとより理解しやすいので、いい演出と思ってました。
ジャームッシュが『清盛』見ているとは思いませんが、詩の表現手段として、とても伝わりやすいですね。英語でも改めて文字で見る事で、伝わってくる部分がありました。

A:ベルトルッチの『魅せられて』の時にスクリーン上の手書きの文字の表現力が詩的にせまってきた。それに通じる清新さを感じます。声があって詩があるってところはビートへと通じていく部分でもありそうですね。

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★今回自らも参加してアンビエントな音楽をつかっていますがそれについては?

M:特に強い印象はありませんが、今回はこっちの方向なんだなと理解しました。
サウンドの深みみたいな部分は、映像の中からでも強く感じました。

T:パターソンの心象の表現とはマッチしていたと思うけれど、他の選曲された曲の方が印象が強かった様にも思います。奥さんのローラの不思議なキャラと絡まったちょっとアラブっぽい曲調やお得意のバーとかでの選曲です。

A:違うとは思うのですがここでもジョン・ルーリーと共に自ら音楽を手がけた『パーマネント・バケーション』の時の、スティール・ドラムを使った音楽、というかその使い方を思い出しました。

N:監督本来の趣味とは少し違うとは思いますが、最近アメリカで支持を得ている音楽に、新しいスタイルのフォーク・ミュージックがあります。代表的なバンドとしては、「FLEET FOXES」や「BON IVER」など。ただしフォークと言ってもアコギ一本で歌い上げるのではなく、そのサウンドプロダクションについては多重録音はもちろん、時にはシンセなども使いながらアンビエント的になったりします。この辺を聴き慣れると、このごく日常の映像にアンビエント風な音は違和感ありません。日中のシーンで使われる曲など一聴すると典型的なアンビエントですが、よく聞くと生楽器を多用したインストで「BON IVER」のLIVEを連想させます。ジャームッシュは音楽についてもかなり詳しい人なので、この辺の雰囲気も敏感に察知しているのかもしれません。

★前作につづくカップルのラブストーリーの部分もあると思いますが、このヒロインに関してはいかがですか?

N:彼のように優しくないので僕は無理。(笑)
主人公にとって最も大切な存在なのは彼の表情からすごく伝わってきます。

M:彼女のキャラクターは、少しとらえどころが無かったです。いい意味でパターソンのよきパートナーであるなとは思いました。パターソンが彼女と付き合う理由というのは、垣間見れました。正反対なキャラクターのカップルというのが、長続きする秘訣みたいな。お弁当のエピソードとかは、いいですね。

T:パターソンの淡々さとローラのエキセントリックさ(オレンジやパンケーキ?)は際立っていますね。どこに接点があるんだろうと心配になるくらい。笑
ジャームッシュ自体こういう女性像に引かれるのでは。描かれる女性もいつも強くない?

A:先ほどもいったように、ローラ、可愛いけどこのマイペースぶりにはややついていけないものがあります。スーパー・クールなティルダの超越ぶりの方が好きだなあ・・・。カップルの映画といえば9月末に公開される『ポルト』という映画の製作総指揮をジャームッシュは買って出ているんですね。これがすごくいいです。さっきいった『パーマネント・バケーション』とジャームッシュもお気に入りといってる『ママと娼婦』を合わせたようなって、わかりにくいたとえになりますが、70年代後半のNYインディの映画とポスト・ヌーヴェルヴァーグの映画、どっちにもいたわがままでめんどくさくて切なくクールなヒロインが素敵なの。強引ですがちょっと紹介しておきたかった 笑

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★カップルの配役については? パターソン役のアダム・ドライバーはメジャーからインディまで網羅して活躍中の俳優ですが、彼については? ジャームッシュ映画の俳優たちの流れを振返ってみてどうでしょう?

M:アダム・ドライバーを初めて見たのは『フランシス・ハ』で、『インサイド・ルーウィン・ディヴィス』にも出ていたので、セルクルルージュではおなじみの俳優ですね。スコセッシの『沈黙』や、ノア・アームバックの『ヤング・アダルト・ニューヨーク』など、最近の売れっ子ぶりはすごいですよね。
『沈黙』では、それまで演じて来た比較的彼のキャラクターを生かすような役どころではなく、完全に役を作り込んで演じなくてはならなかったのですが、しっかりとした演技力を兼ね備えている一面を、強く見せてくれたと思います。
ゴルジフテ・ファラハニは『エデン』にも出ていましたが、アダム・ドライバーのパートナーとしては、『フランシス・ハ』の主人公の奔放さと似たようなイメージを持ちました。
アダム・ドライバーの持つ少し低いテンションは、ジョン・ルーリーとも相通じる部分があるように思います。

T:ローラ役のゴルシフテ・ファラニは『エデン』にもでていたんだって?

A:そうなんだ、確認してみます! アダム・ドライバーの受けの芝居のよさが、この役を活かしていますね。芽キャベツのパイへのリアクションとか、絶妙です。滝の前での大阪から来た日本の詩人との場面も然り。沈黙にものいわせますね。演技そのものはそれほど変えていないように見えるのに『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のちゃっかり新人監督の憎み切れない小憎らしさとかも、いかにもで、売れっ子なのもわかる才能ですね。声もいい。

★80年代半ばから、一貫した所にいるジャームッシュとその映画について改めてどんなふうに?

T:ディレタントですね!
個人的には大資本のmassive  bloodyで暴力に満ちていたり、過剰なsexだったり、スペクタクルが満ち満ちている中で、「身の回りになる物事や、日常におけるディテールから出発し、それらに美しさと奥深さを見つける」姿勢は好ましいです。

A:頑固に同じひとつの道をいっていて、それでも新作ごとに見たいと思わせるのはやはりすごいと思います。水の上に書く――って台詞が出てきますがそういう気持ちの潔さが相変わらず映画に響いていて好きです。

M:ジャームッシュのスタイルは、例えば同じ時期に人気の出たスパイク・リーなどに比べると、首尾一貫したぶれないものだと思います。
彼のセンスと、根底に流れる少しダークというか暗い部分、そこにある種のアヴァンギャルドさがうまくリンクした時に、いい作品が生まれていると思います。
インディペンデントな存在ですが、観客を楽しませるという基本的な精神も、兼ね備えています。一時期は低調に思えましたが、ここにきて、また彼本来のスタイルがうまく表現されており、復活感があります。この『パターソン』は、彼のキャリアの中でも上位にくる作品になったと思います。
ジャームッシュって、自分では数少ない全ての作品を見ている監督です。すごく彼のファンというわけではないのですが、彼の作る物は、常に気になるんですね。多分少なからず感性の面で刺激を受けることがあるのだと思いますが、個人的には必見の監督です。

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『パターソン』
ヒューマントラストシネマ有楽町/ヒューマントラストシネマ渋谷/新宿武蔵野館 ほか全国順次公開中

配給:ロングライド
監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
出演:アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ、永瀬正敏、他

LOS ANGELES – MAY 23: Iggy the Stooges (L-R Dave Alexander, Iggy Pop in front, Scott Asheton in back and Ron Asheton) pose for a portrait at Elektra Sound Recorders while making their second album ‘Fun House’ on May 23, 1970 in Los Angeles, California. (Photo by Ed Caraeff/Getty Images)
(c)2016 Low Mind Films Inc

『ギミー・デンジャー』
★これはドキュメンタリーというより、エッセー、バンドに宛てたラヴレターとジャームッシュは語っていますが、ご覧になっていかがですか?

N:僕はストゥージズも、イギー・ポップも、正直そんなに好きではありません。 この映画は呑み屋でジム・ジャームッシュに「ストゥージズはこんなにかっこいいんだぜ!」と熱弁振るわれている感じ。(笑)
その熱意が伝わってくるので「そうかー、ストゥージズは偉大だったんだなー」とつい思ってしまいますが、さて改めてライブラリーからアナログを引っ張り出して聴いたものの最後まで聴けたもんじゃない。(笑)そのくらいストゥージーズを魅力的に見せてくれる映画です。まさにラヴレターですね。好きでたまらないのが画面から伝わってきます。

T:私はイギーは日本公演を見に行くぐらい好きだったけれど、自分の中ではやはり“IDIOT”や”LUST FOR LIFE”のボウイとの蜜月時代のもので、ストゥージズはpunk時代にネタ元として聞いてた感じかな。
その意味で、本当のストゥージズの細かいことは知らなかったし、この映画で確認したという感じですね。

A:私もイギ―・ポップ単独の活動や、ジャームッシュ映画の”珍優”としての彼に興味があったけれど、ジム・オスターバーグ、そしてストゥージズの部分に光をあてる覚悟が一貫しているんですね。

M:ジャームッシュの音楽ドキュメンタリーというと、ニール・ヤングのツアーに密着した『イヤー・オブ・ザ・ホース』ですが、その時とはまた違うアーチストへの思い入れを感じました。
個人的にはイギ―の初来日を、川口君や敦子さんと一緒に日本青年館で見ているし、常に動向が気になるアーチストでした。
しかし持っているアルバムは、ストゥージスのベスト盤に『IDIOT』と、初来日した時のソロなど数枚で、そんなに詳しく知っている訳ではなかった。川口君の言うように、ボウイとの交遊とか、パンクの元ネタみたいな聞き方をしていたので、改めてイギ―・ポップという人を見つめる良い機会になりました。

Gimme Danger (c) Danny FieldsGillian McCain

★Music is Life, Life is not buisinessとイギ―・ポップが発するコメントがジャームッシュ、はたまた『パターソン』との結び目とも思えますが、そのあたりがこの一作に反映されていると感じましたか?

T:よく言えばディレタント?悪く言えばstooge(バカ)?
M:『パターソン』のバーのシーンでもイギ―の話が出てきますが、ジャームッシュはイギ―のロックミュージシャンとしての生き方そのものを、すごくリスペクトしているのではないかと思いました。
割とイギ―が不遇だった時期に『デッドマン』に使ったりして、彼の再評価につなげていったり、ジャームッシュのイギ―に対する視線は常に暖かいと思います。

A:まさにそこなんだと思いますが、ジャームッシュのアメリカ国内での居場所と比べるとイギ―・ポップはもう少しビジネスな感じもしなくはない?
ユル・ブリンナーの『十戒』のファラオが好きで上半身裸のパフォーマンスになったとかって笑えますが。

★ジャームッシュもオハイオ州アクロン出身でそこからNYCに出て行った、米中西部的なものをルーツにしていますが、モータウン、デトロイトのそばだが学生の町だったりと微妙な違いがあるらしいミシガン州アナーバーが、イギ―・ポップとストゥージズの芯とする視点に関してはどう感じましたか?

A:中西部的なもの、アクロンのおじさんたちはボーリング場にたむろして、ゴルフパンツに白いベルトなんかしめてて――とかって取材した時、回想モードの愛をこめつつジャームッシュは毒づいていましたがDEVOとかクリッシー・ハインドとか同じく荒廃したインダストリアル・タウンが生んだ面々にもふれつつ、ニューヨークに出て行った自分がストレンジャーとして得た自由を語る彼の感じは、勝手な思い込みでいえば都下に生まれた私のコンプレックスともちょっと通じるなあと思ったりもしました。
そのあたりの同郷感もこの映画の核心としてあるのでしょうが、いっぽうでアナーバーという町の、ミシガン大学のお膝下で、不遇時代のアルトマンに学生ワークショップで映画を教えつつ撮らせたりしているリベラルな部分、『ギミー・デンジャー』でも学生運動の時代のこととかでてきますが、そのあたりがイギ―・ポップに中西部的なものに加えてどう作用したのか興味深いです。

N:アメリカ中西部出身は、栄えている西海岸や東海岸に対して、確かなコンプレックスを持っています。それが創造のエネルギーとなり、同じ境遇を共有する者同士で仲間意識が生まれやすいのかもしれません。

T:中西部のいかにもアメリカ的価値観に支配された所から、ここまでその価値観からかけ離れた人間がでてくる所に、驚きと肝の据わり方へのリスペクトと、そして純粋に生抜くことの大変さいうことを感じます。高校ぐらいまでの髪分けていたバンド時代からの飛び抜け方。ジャックホワイトとかもいじめられてたらしいよね。

M:その点に関しては、ミシガンやオハイオのイメージが湧かないこともあり、コメントは難しいです。
アクロンというと、DEVOもいたりしますが、東部の田舎のちょっとインテリでアーチスティックな人たちという印象はあります。ブラックミュージック程、値域に対して土着的なルーツ感もないですし、音楽そのものよりも表現方法に入り込んで行くのかなという認識は持ちました。

Gimme Danger (c) Low Mind Films

★60年代を封殺したとかいっているイギ―・ポップについて、これまで、そしてこの映画をみて感じ方は変わりましたか?

N:個人的にイギー・ポップのことは、頭の回転は速いけど「口だけ番長」的な、疑いの目で見てしまっているので、映画を観ても正直全て本心とは思えてないです。でも映画を観続けていると、そんなところも含めて彼の人間臭さが魅力的に見えてきて以前より好感が持てました。
この映画を観終わって思ったのは、イギー・ポップと画家のダリは似ているなあと。一言で言えばフェイクっぽさなんですが、そのフェイクぶりに一本芯が通っているので二人とも本物になれたのかなとも。

M:彼自身の言葉で語られているので、いい面悪い面あると思いますが、ともかく初めて知る事が多かったです。
それと常に正当に評価されない、際モノ扱いみたいな部分は、やはり昔からあったのだなと感じました。逆にサウンド的には非常に進んでいたことも再認識しました。
ストゥージスの曲をこの映画で久々に聞きましたが、パンクの連中のカバー曲より、ソリッドかつへヴィで、すごくいいなと思いました。
MC5との評価の差みたいなエピソードも映画の中にもありましたが、常にイギ―は異端児であったり、B級扱いされる事と、常に戦っていたのではないでしょうか。
初来日の時に、同じ時期に来日していたP.I.Lよりもホテルのグレードが低かった事に嘆いていたというエピソードも昔聞きましたが、彼を再評価する事に、最も役立つのが、この作品のようにも思います。
彼にとっては、過小評価されている意識がずっと付きまとっていたのではないでしょうか。
偉大なるB級みたいな存在で、それが名古屋君のいうフェイク感でもあると思います。
『ベルベット・ゴールドマイン』や『トレインスポッティング』という映画で評価されたことは、彼にとってはすごく嬉しかったのではないでしょうか。
彼のパフォーマンスを初来日ではすごく間近で見ましたが、キレているようで、実はすごく冷静で、計算してパフォーマンスをしている事がわかりました。
クリーンな日本でのステージだからかも知れませんが、彼のクレバーな部分を、リアルに感じた瞬間でした。
今回のインタビュー見ていると、その辺のクレバーな部分を強く感じましたし、まだまだ語り足りないような空気も感じました。過小評価を覆すぞみたいな空気も合わせてですが。

A:作られたラヴ&ピースの60年代に対する70年代と図式化できなかったらしいボウイのマネージャーとの確執、本当はどうだったのか気になります。その意味で、次の質問の答えにもなりますが、ボウイが亡くなる前にコメント提供を申し出たのにテーマの絞り込みのためにことわったというのは美しい挿話ですが、志をちょっと曲げて参加してもらいたかったなあ・・・。

★ソロ活動の部分は捨ててストゥージズの部分にしぼっている点に関しては? コメントもメンバー以外の証言的なものは殆んど除外していますが?

T:ボウイと一緒にヨーロッパに、といったところは描かれているけれど、マネージメントとのトラブル話に終止していますね。ボウイが死んだ時に“David’s friendship was the light of my life. I never met such a brilliant person.He was the best there is”と言っているイギーなのに。逆に言えばジャームッシュのイギーはストゥージズなんだろうね。

M:そこがジャームッシュの拘りなんではないでしょうか。メンバー間にコメント絞ったのも、余計な情報を入れずに、当事者のみの証言でまとめたかったのでないかと思います。
ドキュメンタリー映画として見ると、すごくテンポが良くて、『パターソン』とは違った意味で職人芸でしたね。

N:ジャームッシュはストゥージズのポンコツでパンクなところが、本気でカッコイイ!と思っているのでしょうね。また音楽史的功績という点でも、やはりイギー・ポップよりストゥージズでしょう。
メンバー以外のコメントといえば、ジョーイ・ラモーンくらい。取り上げたエピソードが「クラスでストゥージーズのファンは俺だけだった。」「ライヴ行ったのに俺の好きな1stの曲を一曲もやらなかった、ファック!」最高です。

『ギミー・デンジャー』
新宿シネマカリテほか全国順次公開中
コピーライト: © 2016 Low Mind Films Inc
配給: ロングライド
監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
出演:イギー・ポップ、ロン・アシュトン、スコット・アシュトン、ジェームズ・ウィリアムスンほか

Gimme Danger (c) Joel Brodsky

Cinema Discussion-19/4Kで蘇る『牯嶺街少年殺人事件』

(C)1991 Kailidoscope

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第19回は、1991年に制作された台湾映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』の4Kデジタルリマスター版を取り上げます。
『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』は、2007年惜しくも59歳で逝去した台湾の誇る鬼才エドワード・ヤン監督の最高傑作とも言われている作品です。
3時間56分という長尺が今回4Kの解像度でのデジタルリマスター版で復元され、3月11日の公開以降、映画ファンに新たな衝撃を与えています。
今回のシネマディスカッションは、は映画評論家川口敦子と、川野正雄の対談形式でお届けします。

(C)1991 Kailidoscope

★『牯嶺街少年殺人事件』は権利関係の問題で長らくdvd化もされず伝説の傑作となってきました。今回25年ぶりに日本公開されるのは、マーティン・スコセッシの肝いりで制作された4K/デジタルリマスター版、監督エドワード・ヤン生誕70周年、没後10年の今年、蘇った映画をご覧になった感想は?

川口敦子(以下A):
長いこと自宅にあるもう劣化したVHSでの再見をくりかえしてきたので、今回の復活上映にはものすごく期待して、怠け者でいつも試写は日程の終りの方になるのに、いの一番でかけつけました。すべりだし、夏の光にあふれた並木道をフィックスでキャメラがとらえ、緑の息吹みたいなものがスクリーンにたちこめるなか、向こうの方に小さく見えた人影が、やがて自転車の父と息子の姿として像を結び、ゆっくりと迫ってくる。それだけでおおっと幸せな気持ちになりましたね。
フィルムではないかもしれないけれど、やはり大きなスクリーンで見たい、そういう深く大きな映画だと思います。
去年、ヴィスコンティの『山猫』の4Kデジタル・リマスター版のお披露目上映の際、撮影監督のジュゼッペ・ロトゥンノからくれぐれも全てをぴかぴかつるつるにしないでほしいとの要請があったというエピソードが紹介されたんですが、そういった不安をみごとにけちらすこの修復版、黒がちゃんと黒というのも素晴らしいです。
それにしても没後もう10年になるのか、と感慨深いものがありますが、その意味では先ほどあげた並木道の場面でエドワード・ヤン監督の遺作になってしまった『ヤンヤン夏の思い出』のそれが結ばれてきて、さらにううっと惹き込まれました。ソフト化が滞っていたせいでエドワード・ヤンを見られずにきた若い、いえ、さまざまな世代の観客に、これを機に、彼の映画にふれてほしいなあと思います。

川野正雄(以下M):
自分も古い作品の4K修復をやった事があるのですが、オリジナリティの再現には、相当に神経を使うものです。新作みたいにピカピカにしてもいけませんし。
そして、同じ復元の素材でも、フィルムとDCPだと、スクリーンで上映すると、全く質感が違うのですね。
これは、見た感じで言うと。綿100%と、麻100%の服くらいに、違いがあるものなのです。
デジタル修復は一コマずつ最新の注意をはらって行いますから、3時間56分という長尺を考えると、本当に気の遠くなるような修復作業だったと思います。
自分が修復をした作品でも、結果的にはご一緒していませんが、スコセッシも興味を持ってくれていました。
彼の映画文化にかける情熱は、素晴らしいものがありますね。
なので、まずはという感想は、修復作業に拍手です。

(C)1991 Kailidoscope

★89年侯孝賢の『悲情城市』がヴェネチアで金獅子賞を受け、かたや彼と並び称されたヤン監督は86年『恐怖分子』でロカルノ金豹賞を受賞。『牯嶺街少年殺人事件』は『悲情城市』とともに95年,釜山映画祭で投票された”アジア映画ベスト100”に選ばれ80年代から注目された台湾ニューウェーブの力を世界に印象づけました。世界的に高い評価を受けたのはなぜだと思いますか?

A:
80年代にかけて日本でミニシアター・ブームというのがありましたが、世界的にもアートハウス系の映画が注目され、一定の観客が確保されていましたよね。それが”今やさんざん”という状態になって久しいわけですが、往時、そうした観客層がワールドシネマというジャンルへの関心の高まりも支えていたように思います。中国、香港、台湾、アジア、中東といったこれまで一般的には顧みられることのなかった地域の作家たちに関心が集まり、優れた才能が紹介されるようになった。キアロスタミをはじめとするイランの素晴らしい映画が当り前にみられるようになった。そういう時代でしたよね。台湾ニューウェーブに対する関心もそういう中で深められ、特集上映があって監督の来日があったりもしましたよね。
なぜ、高い評価を集めたかというのは我ながら愚問でそれはそこに面白い映画と作家がいるからということにつきるのでしょうけど、ただ乱暴にくくっていいますが、長回し、クロースアップを回避した引きの画の活用、といった侯孝賢やヤンの映画のスタイルの清新さは当時、やはり見逃せなかった。それはハリウッドに対してまた”別の”という音楽や他のジャンルにもあったオルタナティブの時代の価値観とも無縁ではないかもしれませんね。

当時、台湾映画を代表して並び称された侯孝賢とヤンですが、そして台湾ニューウェーブとして最初は共に活動もし、侯孝賢が主演したヤン監督の『台北ストーリー』なんて快作(5月に公開予定)もある、そんなふたりなのでつい一緒にしてしまいがちなんですが、実は一緒じゃない部分も多いですよね。乱暴にくくれば――と先ほどことわったのもそういうことなんです。『台北ストーリー』『恐怖分子』それから90年代の『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』とヤン監督は都市的な現代のドラマを手掛けていますよね。そこが彼の核になるというのかな。60年代を背景にしているものの、彼の映画に通底する都市性を『牯嶺街少年殺人事件』も濃密に感じさせると思います。88年に来日した監督にインタビューした折、こんなことをいってました。ちょっと長くなりますが引用してみますね。

「一歳半で台湾に移住して以来、台北は愛着の持てる唯一の場所でした。いつも惹きつけられてきた。初めてアメリカに行った時にはもう一生というつもりでいたけれど、台北に戻って自分のルーツがある所はここだと思った。たとえ自分が中国大陸から来た人間だとしてもやはり台湾に愛着を感じるんだし、基本的に台湾人だと感じている。台北は、都市は、いつも僕の映画の主題だった。都市のルック、視覚的なものというよりそこにある物語に惹かれている。都市化された環境の中にある興味深いストーリーに。自分の親密な経験がここにあるから」

(C)1991 Kailidoscope

M:
当時この手のアジア映画は、気になる存在ではありましたが、あまり夢中にはなれなかったです。自分の年代もあると思いますが『恐怖分子』を見て、そんなに大きな衝撃はありませんでした。
今回改めて見直すと、引きのロングショットと長回しの多用は、テンポや集中力を削ぐケースがあるので、あまり好きな手法ではないのですが、非常にうまく長尺の中で使っていますね。
本来ならあれだけ長回しを多用して4時間だと、客席には怠惰な空気が生まれがちなのですが、見事にエドワード・ヤンは、観客の集中力を引っ張っていると思います。このテンションの維持のさせ方は、本当に凄いなと思います。
中華圏の映画にありがちな大河ドラマでもありませんしね。
この時代の台湾映画を見ながら、初めてワクワクしました。

A:
80年代にヤン監督を紹介する記事にはよくアントニオーニの名前がひっぱりだされたりもしてましたが、都市的な乾きというか、人に対する観察の距離、感情的になりすぎない語り口が彼にはあると思います。この所、台湾の若い監督たちがヤンに触発されたとかいいながらキラキラ系の青春映画を撮って感傷でいっぱいみたいなことになっていますが、『牯嶺街少年殺人事件』の人と人、家族や、青春の悲しさをみつめながら決してクールさを手放していない所をもっとよく見てほしいですね(笑)

★青春映画であり、家族映画であり、不良少年ものでもあってさらに、やくざ映画的要素もあったりして、だから歴史映画でもあるような多旋律の”大きな物語“については?

M:
自分は『牯嶺街少年殺人事件』を見るのは初めてでした。後年の『カップルズ』は見ていますが。
例によって、ストーリーの予備知識0で臨んだので、物語の多様性に序盤はなかなかついていけなかったのですが、90分位から、どんどん引き込まれて行きました。
こういった多旋律な物語展開は、例えが的確ではないかもしれませんが、村上春樹作品のような多様性と、洞察力の鋭さを感じました。
単なる60年代の学校ものとか青春映画という枠組みでは語れない、いや語ってはいけないような作品ですね。

A:
もちろん14歳の少年を主人公にしたみずみずしい青春映画として素晴らしいのですが、同時に家族の映画、父と子の映画であり、また台湾の現代史、中国本土との関係、戦前の日本、戦後のアメリカ文化の子といった歴史への目も深く物語に食い込んだ重層的な一作ですね。
で、さきほどいった都市性という点で前にも書きましたがヤン監督のとりわけこの映画『牯嶺街少年殺人事件』を視ているとドストエフスキーのことを書いたバフチンの多声の物語に関する記述を思い出したくなるんですね。集団の物語なんですが、単なる群像劇とは呼びきれない気がする、それは世界を支配する神にも似た語り手が操る複数の物語であるよりは個々の声がそれぞれに響いていくような構造を映画が突きつけてくるからじゃないかと思うんです。
「ドストエフスキーの詩学」でバフチンは「ドストエフスキーは自分の時代の対話を聞き取る天才的な能力を持っていた。あるいはもっと正確に言えば、自分の時代を巨大な対話として聞き、時代の一つ一つの声を捉えるばかりでなく、まさに声たちの間の対話的な関係、その対話的相互作用そのものを捉える能力に秀でていた」と書いていますが、ドストをヤンに置き換えてみると彼の映画が炙り出されてくるような、そんな気がします。

(C)1991 Kailidoscope

★ハニー、シャオマー、リトル・プレスリーことワン・マオ等々、主人公小四の周りの少年たちのキャラクターも面白いですね。また父の世代のおじさんたちもさりげなく、でも濃密に色分けして描かれています。人物描写で印象的だったのは?

A:
ハニーって不良グループの伝説のリーダーがなんというか日活ムードアクションのヘンさに通じるものがあって、笑うとこじゃないんでしょうが笑えたりしつつ楽しみました。水兵ルックが、隠れ蓑という設定ですが、妙に大仰で・・・。小公園って彼らの根城みたいなカフェというかパーラーというのかな、そこでエンジェルボイスを披露するワン・マオも最後にぐっとくる後日譚を請け負ってもいていい。歌詞の聞き取りとか、時代はやや違っても身に覚えがあって懐かしかったりもしますね。そういう憧れのアメリカ、西部劇やプレスリー、『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンの影が見え隠れしていたりコンバースや白Tシャツ、リーゼントを模倣している彼らの姿はかつての日本を思わせなくもなくて興味深いですね。
いっぽうで大陸の影、上海コミュニティを背負い、いつか帰る所としてそこをにらみ、だから根無し草的に今ここにあることへの不安を抱きつつある父の世代の人たち、その姿を見ながら語られる「未来」や「世界の変化」、対する「世界と同じで変わらない」と吐き捨てる子の世代、そこに属していた筈の監督――と、青春や家族のドラマを歴史の重みが裏打ちしている点も面白い。

M:
ハニーは名前ばかり出てきていて、登場シーン以降存在感は強烈でしたね。
ラッパズボンも似合ってましたし(笑)。
リトル・プレスリーと合わせて、僕はアメリカ映画的なキャラクター造形だと思いました。
日本家屋に住んでいたり、子供が押し入れに籠るシーンなどは、戦時中の日本占領時代以降の影響も見え隠れしていましたね。
大陸からの移民、日本の影響下で生活していた人たち、アメリカへの留学を考える人たち、当時の台湾人の生活や生き方というか、我々日本人が表面的にはわからない部分であるし、エドワード・ヤンも歴史的な解釈とか、歴史の傷跡みたいな部分に対する想いを込めているようにも感じました。

(C)1991 Kailidoscope

★家族の関係については? 父と子、母と娘たち、兄弟姉妹の関係、世代の描き方に関しては?

A:
上海っ子の母と地方から上海にでてきた父との微妙な優越/劣等意識が微笑ましくもリアルで、旧世界の集まりに女性たちがみなチャイナドレスで盛装している姿とか、腕時計の由来とか、“亡命者”のコミュニティの様子が子供時代の監督が見た世界として描かれていて面白い。リアルさと美化されたものというのか、そのバランスが映画全体に響いているようにも感じます。言葉がわからないのではっきりはいえないけど、子供に内緒の話の時には上海語、そうでないときは台湾の公用語の北京語が語られているそうで、侯孝賢の映画でも大事な要素になっている台湾社会を構成する人々のルーツの多様さも、解ってみるとさらに興味深いものがあるんでしょうね。
兄弟で押し入れの上下を二段ベッドがわりにしていたりして、戦前をひきずる日本の影も家屋や食事の場に流れている橋幸夫のカバーとか見逃し難いものがありますね。監督自身、手塚治虫はじめ日本の漫画で育った部分もあったようです。

(C)1991 Kailidoscope

M:
家族関係については、正直序盤はついていけない部分もあったのですが、中華思想とか台湾独自の家族に対する考え方。
そういうものが、非常に濃く根底に流れているように思いました。

★清純無垢を思わせる外見と男の子たちを翻弄するファム・ファタール的資質を内包したヒロインに関しては? 他の女性たちの描き方はどうですか?

M:
小明の透明感は凄まじいですね。
劇中ですが、映画監督が夢中になってしまうのもわかります。
それだけに、後半の展開で彼女が人間らしくなっていく流れは、すごく緊張感があると思います。
ファム・ファタールに見えないのが、どんどんファム・ファタールになっていく。その辺の流れも、台湾映画というよりもアメリカ映画の影響を感じました。
A:
ヒロインの少明、そして小公園派の不良娘、小翠、ふたりの少女に世界と同じで私は変わらない――と奔放な恋愛関係の言い訳のような絶望を語らせているのが印象的でした、少年たちに対してより深い闇を抱えた存在であるような、そう描く監督の女性観にも興味がつのります。

(C)1991 Kailidoscope

★学校の隣に撮影所があって、スタジオで撮影中の劇中劇が出てきたりするあたりをどう見ますか?

A:
紋切型のメロドラマを撮影している映画内映画のスタッフ・キャストが紋切型のバックステージのどたばたを演じてみせるのが全体からみるとちょっと異色で、乱調と見えなくもないのですが、なんとも捨て難い。映画=フィクションを改めておもわせる存在が主人公の少年の世界、現実の核となる学校に隣接している。少年自身も現実とフィクションの狭間を生きているというのかな。

中学生たちの間にいきなり仁義なき闘いみたいな抗争劇が食い込んでいる部分もあって奇妙な魅力となっていますが、映画映画した要素を旺盛に取り込みつつ、いっぽうでは中国本土と台湾の関係緊張をふまえた父の検挙、取り調べなどリアルな背景も並び立っている、へたをするといびつになりそうな構造を成立させる監督の力業にも注目です。

映画は少年時代の監督が衝撃を受けた61年台湾で実際に起きた中学生による同級生の少女殺人事件をヒントにしていますが、そのことを反映した『牯嶺街少年殺人事件』という原題に対し、プレスリーの曲の歌詞を引用した英語タイトル『A Brighter Summer Day』もあって、映画の背景となった時代や闇が支配する映画が希求する光、台詞に何度か登場してくる世界や未来を変えることを思わせたりもして興味深いですね。虚実の対照をのみこんでいる映画の成り立ちをふたつのタイトルが指し示しているようにも思えます。

M:
劇中劇的な構造は、ちょっとありがちだなと思いましたが、一つのスパイスとしては、すごく効いているんですね。
一度台湾に行き、何人も現地の映画関係者とも会ったのですが、結構未だに興行の世界は、昔の日本の興行という世界観なんですね。
でも若い映画人は、アメリカへ留学して、アメリカ文化の影響を多大に受けています。
台湾では、日本よりも早くシネコン方式など、劇場では米メジャー方式が導入されていました。
そういった台湾の映画業界におけるアメリカ映画の影響というものが、この作品にも、結構色濃く反映されているように感じました。

(C)1991 Kailidoscope

★懐中電灯、妹のスカートのボタン、懐剣、野球バットレコードプレイヤーやラジオ等々、繰り返される小物をめぐるエピソードの使い方に関しては?

A:
ふっと生活の一景として描かれていた小さなエピソードが辛抱強く反復される時、鮮やかな効果を生んでいく。映画的な繊細さが大きいけれど大味ではない映画には必須ですよね。
M:
日本人なので(笑)、やはり押し入れとか日本刀とか、今や日本の生活にも無くなっているような日本文化の細かいエピソードが面白かったです。
それとラジオですよね。音楽の影響とか。この映画の時代は、自分が生まれた時代ですが、多分少し前の日本と同じような環境なのかなとか、色々勝手に想像をしていました。

★主演のチャン・チェン 今や大スターですが、少年時代の彼はどうですか?

A:
もちろん美形だし、カウボーイの真似をする所はじめ、飄々といわれるままに形にしているような熱演ではないよさがありますね。でも、正直言うと今回は彼の実の父でもある父役チャン・クオチューがこんなに素敵だったかなあと見直しました(笑)
M:
成人後の彼の存在に、これまで注目していなかったので、あまりコメント出来ないのですが、この作品の存在感というか、小明に振り回され揺れ動き、ぶれまくる少年の気持ちを、見事に演じていると思います。

★ここが面白いという見所を
M:
想定外だったのは、音楽の使い方の巧みさです。
天使のようなリトルプレスリーの歌声に、アメリカンポップスへの憧憬。
60年代台湾の青春映画と考えると、音楽のスパイスが見事に効いていると思います。
エドワード・ヤンによるアメリカ映画への回答とも言える作品ではないでしょうか。

『牯嶺街少年殺人事件』は、現在角川シネマ有楽町、新宿武蔵野館など全国順次ロードショー公開中です。
*上映は4Kデジタルリマスターから変換した2Kでの上映です。