CINEMA DISCUSSION-7/「ジェラシー」と「フランシス・ハ」。モノクロームで綴るパリとニューヨーク

『ジェラシー』 © 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions
『ジェラシー』
© 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions

複数の視点から映画を分析するセルクルルージュのシネマ・ディスカッション第7弾は、この秋公開される2本の作品〜フィリップ・ガレル監督のパリを舞台にした仏映画「ジェラシー」と、ノア・バームバック監督のニューヨークを舞台にした米映画「フランシス・ハ」を紹介します。
この2本は、モノクロ作品である点、大都市で役者やバレエという芸術を志しながら生活している人々を描いている点、90分以内という短い尺という点で共通していますが、作品自体は対極的な位置にあるものです。

メンバーはいつものように、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

『フランシス・ハ』 ©Pine District, LLC.
『フランシス・ハ』
©Pine District, LLC.

川口敦子(以下A)
『フランシス・ハ』は『ライフ・アクアティク』『ファンタスティック・Mr.Fox』とウェス・アンダーソン作品で共同脚本を担当してきたノア・バームバックの監督作。アカデミー脚本賞候補となったバームバックの長編監督第2作『イカとクジラ』にもアンダーソンは製作で名を連ね、またピーター・ボグダノヴィッチを映画界の父と仰ぐふたりは共に、先達の待望の新作実現に助力するなど、LCR Cinema Discussion前回の『グランド・ブダペスト・ホテル』からのつながりも感じます。
いっぽう、『ジェラシー』のガレルはフランス映画ならではの極私性が光る監督です。その核心には68年パリ、その前と後という政治と革命の季節とその挫折の経験、そしてミューズ、ニコとの出会いと別れ、芸術と生活の侵入といった飽くことなく反芻される主題がしぶとく備わっていて、やわな感傷と一線を画した思想と思考、感情と情動の鋼の強さが私映画を貫いている。その点で、私的体験を素材にし、仏ヌーヴェルヴァーグにも傾倒する米インディ、バームバックと見比べてみたい(結果的には違いの方が浮かんでくるのかもしれませんが)ようにも思えます。
まずは『ジェラシー』について、皆さんどんな印象だったでしょうか?

名古屋靖(以下N)
『ジェラシー』というタイトルを聞くと、どうしてもニコラス・ローグ監督、アート・ガーファンクル主演の『ジェラシー』を思い浮かべてしまいます。あのスリリングで美しくショッキングな映画は今でも強烈に記憶に残っています。でも改めて調べてみたら『ジェラシー』は邦題で、原題は「Bad Timing」だったんですね。

今回の『ジェラシー』はまったくジャンルの違う、パリを舞台にした美しいモノクロ映画で、まるで嫉妬を題材にした純文学を読んでいるようでした。
テーマがテーマだけにその生々しさがヒリヒリと伝わるこの映画は、最近のリアリズム演出と相反する典型的なヌーベルバーグな映画だと思いました。主人公を中心に様々な人間模様を描く事で、様々な嫉妬のカタチを見せてくれる「嫉妬カタログ」のよう。登場人物のほとんどが何かしらの嫉妬を抱えて、その人間関係はジェラシーと共に壊れたり、再構築されたり、感染したり、、フランス映画でなければ成立しないような繊細でナイーヴな映画でした。
主人公と彼女と娘の3人デートでのキャンディのエピソードは、嫉妬だらけの緊張感あるストーリーの中でもParisっぽいかわいい息抜きエピソードで好きです。

川口哲生(以下T)
まずはモノクロームで撮られたことで性格はまるで違う映画だけど、それぞれのトラディション、ルーツみたいなものをより感じられたように思います。『ジェラシー』ではヌーヴェル・ヴァーグにつながるパリの存在感だったりします。
そしてまた、描いている世界が不思議に今でもあり、80年代でもあり、60年代でもありえるような錯覚をモノクロームがもたらしているように感じました。

川野正雄(以下M)
オープニングの鍵穴からのぞくショットで、まずフランス映画らしいなと感じました。
全編を通してですが、カメラワークは計算されていて、とても洗練されています。
ガレル作品は初めてですが、先日見たローベル・ブレッソンの70年代の作品〜『たぶん悪魔が』や『白夜』にも通じるリアリズムというか、ドキュメンタリーのようなタッチの演出は、最近は失われつつあるので、逆に新鮮でした。
何となく時代性が80年代くらいかなと思っていたんだけど、新しいプジョーなんかが走っているので、現代の話しなんだなと理解しました。
小さなエピソードで語り継ぐ手法も、フランス映画らしいきめ細かい監督の演出力の高さを、感じさせてくれました。
それと主演のアナ・ムグラシスがとても魅力的でしたね。
子供とのやり取りも、細かい気配りが効いていて、サラッとした暖かみがありますね。

『ジェラシー』 © 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions
『ジェラシー』
© 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions

A:
話としては、今回は父モーリス・ガレルの若き日の恋と、その結果、捨てられる妻子、しかもそうしてまで結ばれた愛人にまた捨てられて・・・・と、相変わらず絶望的な、負のスパイラルのような展開、なのですが、父、母、愛人をめぐる葛藤を自身も”ジェラシー”の輪の中に身を置きつつ、みつめていた子供ガレル(劇中では女の子になっていますが。ちなみにこの子役は去年、フランス映画祭で上映されたジャック・ドワイヨン監督作『アナタの子供』でもおしゃまにいい味をみせたオルガ・ミシュタン、10年後が楽しみですね)の中で、反芻され、咀嚼され、痛みを超えて息づく記憶、時を経て、距離を持ってそれを慈しむ心が不思議に涼やかな9月の初めのよく晴れた日のような肌触りで迫ってくる。その感触にじわじわと浸っていたくなる、そんな傑作ですね。
『フランシス・ハ』が親友に置いてきぼりにされたヒロインがいくつもの孤独な夜を駆け抜けていくみたいな、“走る映画”なら、ガレルの『ジェラシー』は”歩行”の映画と呼んでみたい。ゆったりと、急がない、時に遅々としてもどかしく、でももっさりとはならずに澄んだ軽やかさを保っていく。それは繰り返せば記憶ということとも関係しているのかもしれませんね。冒頭の母の泣き顔がそうですが、ぽ、ぽ、と唐突に浮かんでくるイメージ、バス停で包まれた父のコートの感触といった、出来事の断片が苦さを包む甘やかな音楽の断章に伴われて、夢の中にも似た、独特の歩きのリズムを支えています。同じひとつの物語を相変わらず語っているともいえるのですが、それだけにみなさんが指摘した映像の構築性とか撮り方の緻密さとか、語り撮る技術があってこその私の物語を美しく成立させられるのだと思います。

N:
『フランシス・ハ』は、NYを舞台にしたお洒落なモノクロ映画でした。芸術的でヌーベルバーグの系統ながら作り込まれた感のある『ジェラシー』と違い、こちらは今現在のリアルなNYを軽快に描いていますね。小規模ながら良質なエンターテイメントな印象。2つの映画を比較すると芥川賞と直木賞くらいの差があり、同じモノクロームでもまったくジャンルの違う印象です。
日頃から日本の電車内で多くの人達が携帯を手に、ゲームをやったり、何か見たりしているのを見て、このサイバーな光景を外国人が見たら不気味がるだろうなあ。。と思っていた自分が去年末10年ぶりにNYCに行った際に驚いたのは、アメリカ人達が街でも電車でもみんな携帯をいじっていた事です。そんな携帯中毒ぶりや、ラーメン、マリファナ、ブルックリン、貧富格差など、今のアメリカを表す単語や場面が様々なタイミングで出て来るのが「リアルで今っぽいなあ」と思いました。
そんなリアルで今なNYを舞台にした、27歳の「ぜんぜんしっかりしてない」独身女性の空回りだらけの奮闘記。掃除が苦手な主人公フランシスは大学を卒業後、親友にも恵まれながら、失敗を繰り返しつつも自分を信じてやりたい事に猛進。しかし20代後半に差掛かり、人生の次の章について正面から向き合う事をせず、周りにも取り残され、ウソを重ねて繕うたびにどんどん落ちて行く様は滑稽だけれど共感できるところもあり切なくなります。
頑張っているけど上手く行かないフランシスが実家に一時帰宅するシーンでは、彼女が生粋のニューヨーカーでは無く、そこでは保守的な地元によく馴染んで見えました。
結局親友との和解をきっかけに改めて自分と向き合う決心をし、その次の道を切り開いて行き、ウキウキで新しい部屋の郵便受けに自分の名前を掲げる「なるほど」なエンディングが決まっていて、このシーンだけでこの映画全てがお洒落になりましたね。

M:
僕はこの作品は好きですね。
見始めてすぐに、スパイク・リーの『SHE’S GOTTA HAVE IT』を思い出しました。女性、モノクロ、ニューヨークというエレメンツも、NYの片隅でくすぶりながら、ポジティブさを忘れないという生き方も、共通なスピリッツを感じました。
今ひとつうまくいかないバレリーナの気持ちや、女性としての衝動がうまく伝わってきました。見た後の爽快感もあるし、小さい作品だけど、アメリカでの評判も良かったみたいですし、観客の共感を得られる作品だと思います。
”世の中そんなに甘くないし、都合通りうまくいかないんだよ。だけどポジティブに生きようね”というメッセージを、等身大で伝えてくれる映画ですね。

T:
『フランシス・ハ』ではやはりウディ・アレンの『アニー・ホール』などにつながるニューヨーク(世代や音楽や躍動感は違うけれど)的な部分を強く感じたな。フランシスの弾丸パリ旅行は、『アニー・ホール』のアレンのLA行きのドタバタエピソードに重なったり、価値観のすれ違いが笑えるホームパーティーのシーンなどにもそれを感じました。

A:
『フランシス・ハ』は、『ベン・スティラー人生は最悪だ』(原題Greenberg)に起用して意気投合、その後、熱演派女優ジェニファー・ジェーソン・リーとの離婚を経て公私ともにのパートナーとなったグレタ・ガーウィグを得たことで俄然、輝いたバームバック監督作、という意味でダイアン・キートンなくしてあり得なかったウディ・アレンの『アニー・ホール』との比較が出てくるのもうなずける快作だと思います。
アニーを体現したキートンの「ラ・ディ・ダ」といった独特の言葉づかいやその抑揚、着こなし、とりわけ手の動かし方、体の傾け方・・・といったサイレント時代の俳優にも通じる演技の身体性、その時代を超えた強味、“私”の(自信のなさや不安や脆さやふわふわと地に足つかない在り方こそを核にした)世界のとことんの押し出し方(というとごりごり自己主張しているように響きますが、不安や覚束なさ、じたばたのまぶし方でその印象をカモフラージュするまさにアレンの鏡像)――そんなキートンの魅力を想起させるガーウィグの演技の活力に釘付けになった監督バームバックの眼が、何をやってもうまくいかない女の子の物語にもかかわらず映画にある種の多幸感を招き寄せ、観客もその感触に染まっていく。
だめだめ人生の話なのにふんわり幸せになってくる。決してバラ色の人生を描いているわけではないのに、『ジェラシー』でも感じたふっと涙ぐましく涼やかに秋の初めの風を感じたようなうれしさが沈殿してくる映画ですね。

『ジェラシー』 © 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions
『ジェラシー』
© 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions

A:
こういうパーソナルで、小さな映画の魅力については、どう感じていますか?

T:
バームバックの場合、フランソワを演じた共作のグレタというミューズを得たUPな感じであり、ガレルは父の死という対極だけど、何か映画を作るモティベーションに、ごくごくパーソナルなことがあるのかなと感じました。

M:小さい作品の魅力は、日常の中の共感性にあると思います。この2本はアート系の仕事をそれぞれ主人公が志し、またその難しさも描きながら、ポジティブさも描いている。
この手の映画は、主人公や登場人物、或は演出やアートワークなどに共感出来るかどうかが、かなり重要かと思います。主人公として、フランシスは共感できますが、ルイとは、少し距離感がありました。
東京ではミニシアター系劇場の閉館が続いており、このようなアートハウス系の作品を見るのは、なかなか難しくなってきていますね。
特にフランス映画は、製作費自体が高いこともあり、買付け金額も低くはないので、日本での配給は限られてきています。フランスでは多くの映画が作られていますが、日本で見られるのは、ほんの一部ですね。
アメリカのインディペンディント作品も数多く作られていますが、玉石混合で、やはり日本でビジネスになる作品は限られてしまいます。
フランスでも、カラックスやゴダールがなかなか撮れないように、巨匠でも資金集めの難しさがあります。
コマーシャルなヒューマンドラマかコスチューム物が全盛のフランス映画界の環境の中、しっかりと私小説的な映画を撮り続けているガレルという監督は、類い稀な才能なのかもしれません。

N:
小さな映画館の閉館が進んでいる現状で、上映期間も長くはできない中で、これら「パーソナルで小さな映画」は積極的に観にいかないとつい見逃してしまいがちです。でも不思議と何年経っても忘れられない「自分にとって宝物の映画」は「パーソナルで小さな映画」のほうが多い気がします。特に現在は、出資者が理解・共感した上で作者に投資される映画と、見返りに大きな配当を目当てに投資される映画では、全く違うジャンルの映像作品になるのでしょう。「パーソナルで小さな映画」は文学的だったりアートを連想させます。一種の芸術表現と考えれば、もっとも完成させるのが難しい、贅沢な表現方法なんだろうと思います。

『ジェラシー』 © 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions
『ジェラシー』
© 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions

A:ニューヨークーパリ 仏ヌーヴェルヴァーグと欧州を向く米監督→敷衍してないものねだりの文化論として、大西洋をはさんでの両国の作り手の対岸志向が今回も面白く感知できると思いますが。 音楽やファッションにも同様の傾向がありませんか?

T:
パームバックはドルリューの『軽蔑』からの楽曲や、ジャン・コンスタタンの『大人は判ってくれない』からの楽曲、同じくトリフォーのサントラからアントワーヌ・デュメルの楽曲を使っているけれど、モノクロームとともにこうした選曲から声高でなくヌーヴェルヴァーグへのリスペクトみたいなものを織り込んでいるようにも思いました。

M:
ニューヨークとパリを対比的に見るには、この2本はいいと思います。『ジェラシー』には、パリのアンニュイさみたいな伝統的な空気、ヌーベルヴァーグの時代にスクリーンから感じたパリの空気が、この映画の中には確実に存在しています。
一方『フランシス・ハ』では、ニューヨークの活気とか、ちょっとオフビートな感じがよく出ています。
スパイク・リーやジム・ジャームッシュが次々に作品を作っていた時代のNYの空気が、こちらには存在しています。
撮影場所とは逆になりますが、ガレルのニコ経由のニューヨーク志向、パームバックのフランス志向というのは、音楽の使い方からは、少し感じますね。
ニコは、アラン・ドロンの子供を産んだり、ガレルとパートナーになったりと、フランスの映画人が好きですね。
多分ガレルの作品には、ニコの影響が大きかったのでしょう。
この映像は1972年フランスのTVに出演したニコのインタビューです。
ドイツ生まれと言われるニコですが、フランス語も堪能です。
ガレルとはアンディ・ウォホールのファクトリーで知り合ったと言いますが、この頃はもう交流があったと思われます。

A:
バームバックの初めての長編監督作『彼女と僕のいた場所』を見ると、うっとうしい私性が大学の同級生たちの自意識過剰な台詞に張り付いていてちょっとうんざりするんですが、10年後に撮った『イカとクジラ』となると、高校時代に経験した両親の離婚騒動にもとづく実体験の重みががぜん効いてきて、そんな二作の違いは、単に自分の経験を語ることと自分がもっと真摯に乗りこえた時間を消化することの違いを指し示している気がします。

バームバックの作風の変化には、99年のニューヨークでのロメールの特集上映に感化され、息子にもロメールの名をつけてしまったという挿話にもある仏ヌーヴェルヴァーグへの傾倒、同様に大西洋の向こうを睨むウェス・アンダーソンとの交友、共作といった経験もまた関係しているようで、そういう意味でもパーソナルな映画作りという側面がうかがえて面白い。『フランシス・ハ』のカラックス『汚れた血』そのままの走行移動シーン、あるいはウディ・アレンを思わせなくもないアルノー・デプレシャン監督作『キングス&クイーン』の後半、特に科学博物館で交わす父子の会話といったあたりは、バームバックの『イカとクジラ』への影響を思ってみたくなります。まあ製作時期がほぼ同じという点からすると見て撮ったという影響関係を指摘するのはちょっと無理があるようなのですが。米仏中堅世代の作り手の大西洋をはさんだ対岸の作り手への眼は、やはり気になります。

『フランシス・ハ』©Pine District, LLC.
『フランシス・ハ』©Pine District, LLC.

A:
両作品の特徴であるモノクロームという事については、どうでしょうか?

N:
『ジェラシー』については、モノクロは深い漆黒や微妙なグレートーンを表現するのに適した技法だと勝手に思っていましたが、この映画では黒でもグレーでもなく「白」を美しく魅せる事を強く意識しているように感じます。
子供部屋の壁を飾る光と影の使い方、彼女の安アパートの壁にくっきりと浮かび上がる天窓の光など、美しい白を効果的に魅せるために黒やグレーが存在しています。さりげなく計算された平面構成は、役者はもちろんの事白い壁から小物まで、カメラに写る全ての要素に眼を配りカット毎にアートやデザイン性を感じさせます。詩的な台詞と相俟って、テーマもフランス的でどちらかと言うと重厚な作品でありながら、観る側の印象が重くなりすぎないのは白を意識した映像のおかげかもしれません。
『フランシス・ハ』は、モノクロームでなければいけない理由は、残念ながら自分は感じませんでした。モノクロームは無条件に映画全体のおしゃれ度を増して見せます。また観客に対して、それがいつの事なのか無関心にさせる力を持っています。だからリアルな今のNYの要素は必要不可欠だったかもしれません。夜のNYを美しく魅せるのと、実家に一時帰宅した際の日常を前世紀っぽくイメージさせるのにはとても効果的だったと思います。でも個人的にはとても面白い映画なので、出来ればカラー撮影に挑戦して欲しかったです。

M:
ガレルのモノクロは、その他の演出含めてですが、とても計算ずくに思えました。
バームバックは、ジャームッシュやスパイク・リーの影響が、どことなく感じました。同じモノクロですが、両者のアプローチは違うようにも見えます。
ガレルはあくまでも美しさの表現としての追求。バームバックは、どうだろう、美しさというより、モノクロで制作するという行為に拘っていたと思います。

『ジェラシー』© 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions 『ジェラシー』
© 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions[/caption][/caption]

A:
音楽の使い方は、どうでしょうか?二人ともかなり拘って音楽を使っているように見えます。
ガレルの本作で音楽の断片的な使い方は、しみだす記憶を思わせる。
バームバックのヌーヴェルヴァーグ音楽の巨匠ジョルジュ・ドルリューの楽曲を”記憶”として使う生かし方も面白いです。

M:
ガレルは、ベルベット・アンダーグラウンドのニコの元パートナーというバックボーンの印象もありますが、音楽をフィジカルにわかっていますね。
音楽担当ジャン・ルイ・オベールのいたバンド、テレフォンについては、あまり好印象はないのですが、エンドロールの曲は良かった。
そういえば、吉田大八監督の新作『紙の月』のエンドロールでは、ニコが唄うベルベット・アンダーグラウンドの「ファム・ファタール」を使っていますが、何か取ってつけた感じで、違和感がありました。
違和感の原因には、古い楽曲なので音圧の違いもあると思うのですが、それまで展開されてきた本編(作品としては面白いです)とニコでは、あまりにも空気観に開きがあるので、唐突に感じてしまいました。
頭の中の企画では成立しても、実際の映像と音楽のマッチングは、うまくいかない事もあります。
フィジカルに音楽を理解しているのかどうか、映画は冷酷に語ってしまうと思います。
ちょっと脱線しますが、このニコのライブは、ガレルと離婚した後です。この数年後、ニコの初来日公演があり、見に行きましたが、狭い会場が超満員で、姿はよく見えず、あっという間に終わってしまいました。ニコは更に数年後、イビサ島で亡くなってしまいます。

『フランシス・ハ』で使っているデビット・ボウイの「MODERN LOVE」は爽快感があって、良かった。あの1曲で随分この作品の価値はあがったと思いました。モノクロ画面に、いかにもカラーな楽曲「MODERN LOVE」。監督はこのアンバランスなコンビネーションを最初からやりたかったのではないかと思いました。

N:
ボウイの「MODERN LOVE」は、自分にはあまりフィットしませんでした。NYのモノクロ映像と、ボウイ自身が当時「売れたい」と言って作った80年代のちょいダサなPOPSとの違和感が、逆に際立って良かったのかもしれませんが、もっと他にもいい曲があったのでは?とも思ってしまいます。ATMを探して走るシーンで流れたのはレオス・カラックス監督の『汚れた血』を意識したのか、または監督の個人的趣味でしょうか?
それよりもフランシスがパリに行くシーンで、LCR Disco-8でも取り上げているHot Chocolateの「Every 1s’ winner」が、その時の彼女の心情とは真逆な歌として使われていたのにニヤリとさせられました。

A:
映画の血というか、二世俳優、作家たち、いろんな分野で進んでいるような世襲化のことが、この2作品からも感じられます。

M:
フィリップ・ガレルは、自分の父のエピソードを、自分の息子ルイに演じさせるという、正に私小説的な映画ですね。
でもルイはニコとの間の子供ではなく、ニコと離婚後に生まれた子供なんですね。
で、ニコにはアラン・ドロンとの間に生まれた子供アリがいるという複雑さ。
『フランシス・ハ』には、スティングの娘さんが出ていて、驚きました。
ヌーベルヴァーグ、サイケデリック、パンクといった時代や文化の節目を作って来た世代の二世が活躍する時代になって来たという事でしょうか。
見ていないのですが、ガレルが息子ルイを初めて主役にした作品『恋人たちの失われた革命』は、自らが関わったパリ五月革命が題材で、とても興味深いです。
A:
やはりモノクロで撮られた『恋人たちの失われた革命』ではルイの祖父役で実の祖父、つまり『ジェラシー』でルイが演じているガレルの父モーリスが出演し、フォークを使った手品を披露、映画、演技ということに関して興味深い見方を示唆する場面が印象的でした。ここにはルイの母役で実の母ブリジット・シイも出演していましたね。ドロンとニコの”秘密の子供”の話はまさにそのままのタイトルがついた『秘密の子供』や『ギターはもう聞こえない』でも描かれて、というかガレルのすべての映画が私の欠片で成立しているという方がいいのでしょうね。全作を通してみることでいっそう染みてくる。ちょっと脱線すればさっきいったデプレシャンの『キングス&クィーン』でモーリスはヒロインの父を演じ、亡霊としてざらりと舌に残る後味を残していく、みごとな存在感をみせました。ガレルの映画は銀幕の中でも外でも家族の歴史の映画ともいえると思いますが、その家族が出ているほかの監督の映画が親類の映画みたいに見えたりもする(笑)

N:
進みつつある世襲化。映画が特殊な層にのみ与えられた贅沢な表現手法になってしまったのかも?コンピューターやネットの進化でだれでも映像作品を低コストで制作・発表出来る環境になった今、それらを含めた様々な映像が世の中に溢れている中で、逆に「ちゃんと映画館で映画を観てもらう」機会は減って来ている気がします。そんな恵まれたチャンスを与えられるのは一握りの人間で、環境の整った2世達はその可能性が高いと言う事なんでしょうか?

フィリップ・ガレル監督  © 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions
フィリップ・ガレル監督  © 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions

A:
二世の話しと関連するのかもしれませんが、2作品とも、子供(或は子供的な)の視点が、重要な要素になっているように思います。
ガレルが描く”子供の眼“ バームバック(と同じ世代の米作家、映画)の描く”子供”の時代の脱け出し難さについては、どう感じましたか?

T:
ガレルがインタヴューで言っているように『ジェラシー』には「無意識の二つの層」が用意されています。
監督の息子のルイが監督の父を演じ、監督がルイにその子どもの視点で物語を語る。つまり監督の視点はルイの子どもの女の子の視点です。
女の子が「パパの一番好きなのは誰」と聞き「パパのパパでしょう」というとき、見ている自分、そして演じている監督の息子のルイは、そこにきっと何らかの監督のパーソナルな思いを重ねてしまう。そこの無意識の行ったり来たりのうちに、この映画の収まりどころの悪い、不安定な感じに共鳴してしまい、単なるカップルの危機にとどまらないものを感じてします。「ジェラシー」はルイの不可解なガールフレンドの行動に対してのものというより、女の子(監督)の父親に対してのそれがメインなのかなと思う。
一方、フランシスは27歳の大人になれない女の子。経済原理的には負け組。しかしその落ち着きの無い多動性がほほえましい。うまくいかないことだらけだけれど、走り続けるフランシスを観ると、大人の価値観で生きる周囲と比べ、いったいどっちが幸せなんだ、と笑いながら考えさせられる。

『ジェラシー』 © 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions
『ジェラシー』
© 2013 Guy Ferrandis / SBS Productions

『ジェラシー』
■9月27日より、渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開
■公式サイト■
配給:boid、ビターズエンド

*合わせてガレルに関する書籍も出版されています。
『フィリップ・ガレル読本』
boid 編
四六判変型 / 152ページ / 定価1,500円(税抜)/ 発行:boid
【内容】
『 ジェラシー』をめぐるフィリップ・ガレル最新インタヴュー、青山真治(映画監督)による特別寄稿エッセイ、ガレル映画音楽論、生い立ちと映画作法を解明するキーワード集、関連人物紹介、作品解説 ほか

『フランシス・ハ』
■9月13日よりユーロスペースほか全国絶賛公開中!
■公式サイト■
配給:エスパース・サロウ

『フランシス・ハ』©Pine District, LLC.
『フランシス・ハ』©Pine District, LLC.

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