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モロッコ紀行−2/シェルタリング・スカイを生んだ街〜タンジェ編#2

CAFE DE PARIS

モロッコ紀行の第2回。初回はローリング・ストーンズに絡めて、港町タンジェを紹介したが、今回はもう少し幅を拡げて、タンジェを紹介致します。

フェズ駅

今回私はフェズからタンジェまで、モロッコの国営鉄道ONCFを使って移動した。所要時間6時間あまりと、かなりの長旅である。列車は1等を買えば、8名がけのコンパートメントで、快適であり、全く問題ない。
但し帰りの汽車では、指定席を買ったのに、自分の席は座られており、他のコンパートメントに同じ状況になっていたモロッコ人に誘導され、移動をする羽目になった。

モロッコの鉄道ONCF

モロッコの鉄道の時間は、よく止まるから読めないと言われていた。また運行も気まぐれなイメージがあった。今回も乗り換えがあると思っていたら、タンジェまでダイレクトであった。長旅だったが、車内で買ったサンドイッチは約120円と安価で、味も悪くない。
しかしある駅で、列車は止まってしまい、乗客はどんどん外に出て、線路に出たりしている。サンドイッチのゴミを捨てたく、売り子に聞いたら、線路に捨てろという。線路をみると、ゴミだらけで、やむ終えず、指示通りに捨てた。

皆線路に出たりする

ようやくタンジェ駅に着くと、工事中なのか、線路を歩いて外に出る。改札はもちろんない。一旦出ると、タクシーの客引きの大群が押寄せてくる。
そこを抜け出し、通りでタクシーを拾おうとしたが、全く拾えない。ガイドブックには大型のグランタクシーは相乗り、小型のプチタクシーは単独乗車と書いてあったが、どうやらそれはタンジェでは当てはまらない模様であった。
日本では見なくなったFIAT TIPOや、プジョー205、輸入されていないダチアなどのプチタクシーも、相乗りをしている。さらに最初に乗る人間は助手席に乗らなくていけないようだ。
30分くらい苦戦した後、ようやくダチア・ロガンというルノーグループのプチタクシーに乗り、宿のエル・ミンザ・ホテルに向かった。
運転手からはスペイン人かと聞かれたので、日本人だと答えたら、日本人を乗せるのは初めてだと驚いていた。
翌日乗ったタクシーでは、日本人は北朝鮮の脅威をどのように感じているのかと、いきなり政治的な質問をされた。北朝鮮問題は、遠く離れたモロッコでも話題になる程の深刻な国際問題なのである事を、改めて認識した。

タンジェ駅の待合カフェ

前回タンジェは欧米の公使館が集まるコスモポリタンな港町と紹介したが、エル・ミンザ・ホテルの近くにはフランス公使館がある。その向かいにあるカフェが、CAFE DE PARISだ。ここはエル・ミンザ・ホテルと同じく、戦時中はスパイの諜報活動の舞台となっていたタンジェの臍のような存在のカフェである。最近はタンジェをカルト的な存在にしたポール・ボウルズの小説『シェルリング・スカイ』を、ベルトナル・ベルトリッチが映画化した作品や、マット・デイモンの『ボーン・アルティメイタム』にも登場する。店内は非常に落ち着いた雰囲気で、ゆっくりと話をするのに適している。驚くべきは価格で、カフェオレ1杯が未だ120円程度である。
余談だがモロッコの街中でカフェはよくあるが、現地の人は男性しか殆ど見かけない。イスラムでは女性は家庭に入り、カフェでミントティーを楽しむような事は、生活習慣的にないようである。

CAFE DE PARIS 店内。

タンジェの中には、2件くらい映画館がある。ここCINEMATEQUE DES TANGERは、市内中心部グラン・ソッコにある名画座。カフェと小さな物販コーナーが併設されているが、アニエスbがデザインしたこの劇場のTシャツも販売されていた。ロビーには『ぼくの伯父さん』のポスターがディスプレイされるなど、フランス映画の香りが漂う。劇場スタッフからは、「今夜はエリア・カザンの『革命児サパタ』を上映するから見に来れば」と誘われたが、残念ながら映画を見る時間はなかった。ちらっと見せてもらった劇場内の雰囲気は、クラシックな海外の映画館そのもの。ユタで開催されるサンダンス映画祭のメイン会場の一つにエジプシャンなる劇場があるのだが、何となく似たような雰囲気がある。映画館発行の今月のプログラムをもらったが、何とジャン・ピエール・メルヴィル特集が組まれてるではないか。このサイト名の由来でもある『LE CERCLE ROUGE』(邦題『仁義』)も、上映される。やはりフランス文化が根付いているのだ。

CINEMATHEQUE DE TANGER
CINEMATHEQUEロビー
CINEMATHEQUEのスケジュール紙

タンジェを撮影に使った映画は多い。最近ではクリストファー・ノーランの『インセプション』や、『007スペクター』などが、メジャーな作品である。街のどこを切り取っても、いい絵になる、タンジェはそんな場所なのだ(モロッコ全般にも言えるが)。
グラン・ソッコから海寄りに歩いていくと現れるレストランDar Lidamは、『007 スペクター』の撮影で使われた洒落たレストランである。最上階のベランダからは海を一望しながら、食事を楽しむことが出来る。伝統的なモロッコ料理の店だが、都会的な雰囲気を持った店である。
モロッコはどの土地に言っても、良いモロッコ料理の店はある。マラケシュにいけば、モロッコ料理をフュージョンしたヨーロッパ的な雰囲気のレストランもある。短期間の滞在ではあるが、タンジェにあるレストランは、トラディショナルな料理を洗練された雰囲気で提供する魅力を持っていると感じた。

レストランDar Lidam。「007 スペクター」に登場
ハリラスープ

タンジェ/モロッコ出身の偉人というか、歴史的な人物として有名なのは、イブン・バトゥータである。イブン・バトゥータは、14世紀に、世界を周遊した偉大な旅行家で、アフリカ~ヨーロッパー~中東~アジア(中国まで)をその時代に回り、三大陸周遊記は、日本でも出版されている。タンジェ出身の彼の名前は、タンジェ空港の名前にも使われ、イブン・バトゥータ国際空港と名付けられている。そのバトゥータの墓と廟所が、タンジェの細い路地の一角に存在する。
今の時代でも彼と同じ軌跡を旅するのは相当に大変だと考えられる。日本では南北朝時代で、足利尊氏や後醍醐天皇が活躍した時代に、イブン・バトゥータは、モロッコから中国の広州や抗州まで旅をしていたのだ。
墓と言われるプレートの近くの狭い部屋に、廟所もあった。通常では発見も出来ない場所だが、特別に中に入れてもらった。狭い廟所はモザイクタイルで覆われ、全盲の墓守のような男性が管理をしていた。
残念ながらバトゥータについての知識が浅い為、深い理解をする事は出来なかったが、世界史にも名を刻むモロッコという国を代表する人物の廟所があまりにもひっそりとしていたのは、小さな驚きだった。
大げさな史跡にしていない事が、モロッコらしいといえば、らしい。

イヴン・バトゥータの墓
イヴン・バトゥータの廟所。

ローリング・ストーンズや、ポール・ボウルズと並び、タンジェに滞在したアーチストとして著名なのは、ウイリアム・バロウズだ。バロウズがタンジェに移住したのは、1953年で、当然当時住んでいたボウルズとも交流があったし、アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックも一緒にタンジェで過ごした時期もあったようだ。彼らがいた50年代のタンジェの様子を想像するだけでも楽しくなるが、当時バロウズが滞在していたホテルが、コンチネンタルホテルである。ここはエル・ミンザホテルよりも海沿いにあるホテルで、カンヌの海岸にあるホテルのような佇まいである。しかしここはバロウズが滞在していた時期はトップクラスのホテルであったが、今は老朽化が進行しており、比較的リーズナブルに泊まる事が出来る。
一般的なリアドに泊まるようなプライスで、ビートニクスな気分に浸れるコンチネンタルホテルはお勧めである。

コンチネンタルホテル。
コンチネンタルホテル全景。海の前。

タンジェの街中にある店は、他のモロッコの街に比べると少しだけ雰囲気が洗練されている。モロッコのスークに行くと、スカーフを売っている店が数多くある。中にはその場で生産をしている家内制手工業のショップもある。

スカーフの工房

タンジェでも1件ハンドメイドでスカーフを生産販売しているショップに案内された。価格も安く、デザインも洗練されており、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。
生地はコットンかパシュミナになり、使い心地も良い。
60年代末期にキース・リチャードが大量に購入したような雰囲気のスカーフも見つけることが出来る。
セルクルルージュでは、今後このようなモロッコのスカーフをダイレクトに輸入して、オンラインで販売をする予定である。モロッコの生の感触を味わえるので、是非楽しみにして頂きたい。

ハンドメイドのスカーフ工房

ジム・ジャームッシュの『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ』でとても魅力的に撮影しているが、どこを歩いてもタンジェの街はフィトジェニックである。
港町の空気感、コスモポリタンな人種に合わせて、文化的な香りを持つタンジェの魅力は、奥が深い。カフェで出会った人に教えてもらったのだが、スティングも自分のクルーザーで来て、かなり長期間滞在していたらしい。もっと長く滞在することが出来れば、さらに深くタンジェの魅力を理解出来ただろう。

タンジェにはこのような門と坂道が多い。
夜のタンジェ。かすかにスペインの灯が見える。

次回はマラケシュに昨年10月オープンしたサンローランミュージアムを紹介する予定なので、是非ご期待ください。

モロッコ紀行−1/ストーンズの残り香が漂うエル・ミンザ・ホテル〜タンジェ編#1

EL MINZAH HOTEL

明けましておめでとうございます。
昨年12月にモロッコを回ってきたので、セルクルルージュ的な視点でのモロッコを、何回かに分けて紹介させて頂きます。
初回はスペインから海路でのモロッコの入り口になる港町タンジェで感じた、ローリング・ストーンズの軌跡についてのレポートです。
タンジェはジブラルタル海峡を挟んで、スペインから僅か40キロの港町。フェリーで約20分で到着する程、スペインからは近い。
私は迷宮都市フェズから電車で移動したが、これは6時間くらいかかる。
タンジェはモロッコ内では初めてアメリカの公使館が出来た町で、フランス、スペイン、アメリカ、イタリアの公使館が現在もあるコスモポリタンな地域だ。
戦時中は北アフリカ戦線もあり、各国のスパイが暗躍していた映画の中のような世界。戦後はモロッコ独立もありイスラム色が強まる中、トルーマン・カポーティ、ウイリアム・バロウズ、イヴ・サンローラン、アレン・ギンズバーグ、ジャン・ジュネ、ポール・ボウルズなど異端派の文化人に愛されたモロッコの中でも異色な町である。

タンジェの街並

1967年3月4日、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズと、ブライアン・ジョーンズは、当時ブライアンのパートナーだったアニタ・パレンバーグを連れ、スペインからベントレーをフェリーの乗せて、タンジェに上陸した。ミック・ジャガーは噂になっていたマリアンヌ・フェイスフルと共に、空路でタンジェのエル・ミンザ・ホテルで合流した。
エル・ミンザ・ホテルは、モロッコには珍しい英国調のホテルであり、戦時中には各国のスパイが滞在していたという。

エル・ミンザ・ホテルのロビー

2階にあるラウンジ。

コンシエルジュ・デスク

館内はモロッコ調のモザイクなどイスラム的造形と、英国的なクラシックな佇まいが同居し、他の国のホテルでは味わえない異次元の素晴らしい空間で構成されている。この空気感は、他の場所では味わえない感覚であり、多くの文化人に愛された香りが、足を踏み入れただけで体内にしみ込んでくる。
ストーンズ御一行様だけではなく、チャーチル、トルーマン・カポーティ、バロウズ、サンローランから、セルジオ・メンデスや高田賢三まで、ここに泊まった著名人は数え切れない。地下の素晴らしいパティオに行くと、噴水と共にここを訪れた著名人の写真に迎えられる。

パティオ。
オマーシャリフ。「アラビアのロレンス」撮影時だろうか。
イヴ・サンローラン。タンジェに家を持っていたという。サンローランは晩年の写真もあった。

英国内でドラッグによる警察事件を抱えていたストーンズ御一行は、当時のモロッコでは容易に手に入ったキフと呼ばれるドラッグと、ヨーロッパにはない呪術的な魔力を持つこの町の魅力に取り憑かれ、モロッコで過ごした2週間が、バンドの方向性を大きく変えていくきっかけとなった。
エル・ミンザ・ホテルでは10階を貸し切り、ストーンズならではのパーティが催された。その後モロッコ国内では、タンジェだけではなく、赤い町マラケシュまで足を伸ばしている(マラケシュについては、後日レポートします)。
ブライアン・ジョーンズはこの滞在中に、ブライアン・ガイシンに連れられて近郊のジャジューカ村を訪れ、翌年レコーディングするモロッコの土着的な音楽に、この時初めて出会った。
そのブライアンがジャジューカに行っている間に、ブライアンのパートナーだったアニタ・パレンバーグと、キース・リチャーズは、エルミンザホテルで決定的な関係に陥ってしまう。

エル・ミンザ・ホテルの客室
客室のバルコニー。港全域が見渡せる。
ベランダからの夜景。遠くにスペインの灯りも確認出来る。

その後もストーンズのメンバーは、繰り返しモロッコを取り憑かれたように訪れる事になる。
ブライアン・ジョーンズは、1968年7月エル・ミンザ・ホテルを基点にして、彼の死後にリリースされる「The Pipes Of Pan At Joujouka」を、ジャジューカ村でレコーディングした。
正確な回数は把握出来ていないが、ブライアンは何回もモロッコを訪れながら、心身を崩していき、ストーンズを離脱することになる。
モロッコに足を向けると、いつの間にかジンやジュヌーンといった魔物を体内に宿し持ち帰ってしまう事があるらしい(四方田犬彦氏「モロッコ流謫」)のだが、彼の残したジャジューカを改めて聴くと、ブライアンは明らかに魔物を英国に持ち帰ってしまったように思える。

キースもモロッコに取り憑かれた。同じ年の12月、キースはアニタと共に、大量のレコードに、レコードプレイヤー、多くの衣類にブーツを持って、エル・ミンザ・ホテルに長期滞在し、次なる方向性を産む為に、一人合宿をする。同年に出した「Their Satanic Majesties Request」がそこそこに売れて経済的には効果があったが、ビートルズの二番煎じのように評され、挽回を期していたのだろう。
そこにはマディ・ウォーターズのLIVE盤や、ロバート・ジョンソン全集など、大量のブルースが持ち込まれていた。改めてエル・ミンザ・ホテルで初心に帰り、ブルースを聞き込んだキースは、「Let it Bleed」で、ロバート・ジョンソンの「Love in Vain」を演奏するアイデアを思いつき、サイケデリックな世界から、ブルースへの回帰にシフトチェンジを行ったのだ。

長期滞在中のタンジェで、キースはスーク(モロッコの市場)で、様々なものを買い求めたらしい。それはラグであったり、アクセサリーであったりしたようだが、キースは値切らなかったと言う。モロッコのスークは値段を吹っかけられ、値切るのが当たり前になっているが、半面地元の人たちにとっては、貴重な生活源である。自分もケチな根性からついつい値切ってしまったが、経済的に余裕があったとしても、相手の言い値で買うキースの姿勢には、彼本来の男気のようなものを感じた。

Cafe Baba

ジム・ジャームッシュの映画『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ』に、看板を変えて登場するCafe Babaというカフェがある。ここはお洒落なカフェというタイプの店ではなく、ハードルが高いので、日本人観光客が行くのには相応しくない店だが、ここでキースが撮った有名な写真がある。
店内は撮影禁止になっているが、特別に壁に飾ってあった写真の撮影許可をもらうことが出来た。多分キフを吸っているのだが、モロッコ的なアクセサリーを身につけているのが、わかる筈だ。

店内バルコニーで撮ったキースの写真。1967年12月滞在時と思われる。つけているアクセサリーもモロッコで入手した感じだ。
キースが撮影したバルコニーの外観

この店内での飲み物は、砂糖を入れたミントティーがメインだ。ミントティーの作り方を厨房で見せてもらったが、強力な強火で、ミントティーそのものを煮立てている。お湯を沸かしてミントティーを入れる日本とは作り方からして違うのだ。

もう1件キースや、ブライアン、バロウズが好んでいったという岸壁のカフェ、Cafe Hafaがある。
ここの飲み物は基本ミントティーのみ。夜はハリラスープを出したり、サンドイッチなどの軽食はあるが、当然アルコールはない。しかも海沿いアウトドアという環境で朝から午前2時くらいまで営業しているらしい。
寒かったが、海を眺めながらゆったりと飲むミントティーは格別の味わいだった。この場所でブライアンは何を考えて、海を見ていたのだろうか。
近年はストーンズも度々来日し、夢のような存在ではないが、ブライアン・ジョーンズだけは日本人では全くアクセス出来ないまま消えてしまい、理解もしにくい存在である。その彼が愛した幾つかの場所(多分少し孤独な気分で)を訪問出来たのは、非常に貴重な経験であった。

Cafe Hafa
Cafe Hafaから見る海。
猫はどこにでもいる。

最後にエル・ミンザ・ホテルについて。
写真でおわかりのように、とても素敵なホテルである。部屋も幸いなことに、海側にアップグレードしてくれたので、景色を楽しむことが出来た。
場所もスークに近く、大抵の場所は徒歩圏内である。何よりホテル内が快適だし、宿泊料金も驚く程リーズナブルで、都内のビジネスホテルに泊まるようなプライスで宿泊出来る。
宿泊した日、年老いたドアマンに、チェックアウト時間を訪ねたところ、「今夜はここがあなたの家です。だから明日はお好きなお時間までいてもいいんですよ」
という回答であった。多分ブライアンやキースが滞在した時にもいたのではないかという年齢のドアマンであったが、彼らがリピーターになり、長期滞在した理由が、ここにあるように思えた。

次回はもう少し詳しくタンジェの町全体を紹介する予定である。
是非ご期待下さい。

エレベーターとポスター