Cinema Review第4回は、モロッコのアトラス山脈に住アマズィーグ人の姉妹を描いたドキュメンタリー『ハウス・イン・ザ・フィールズ』です。
写真家でもあるタラ・ハディド監督が、モロッコ現地で7年間密着して撮影した作品で、アトラス山脈の自然と、私たちが知らなかった数百年続いてきたアマズィーグ人の生活を描いた美しい作品です。
今回のレビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄の2名で行いました。
★川野正雄
2017年モロッコを訪問し、車でフェズからマラケシュまで移動をし、アトラス山脈を通過した。その道中では、多くの山の麓で生活する人々の姿を見かけた。
3日もかかる移動で、車中から眺めるだけで、直接接する機会はほとんど無かったが、羊たちの群れの移動や、タジン鍋を焼いている家族など、日本とは別世界の場面に遭遇し、もっと深く知りたいと思っていた。
『ハウス・イン・ザ・フィールド』は、そんな私の願望を少し満たしてくれる映画であった。
数百年間変わらない生活をしているアマズィーグ人(ベルベル人とガイドブックなどには記載されているが、これはあまりよくない呼称のようだ)の家族を描いたドキュメンタリーである。
監督はタラ・ハディド。新国立競技場のデザインを当初担当した建築家ザハ・ハディドの姪であり、写真家でもある。
血筋が関係しているのかどうかは不明だが、この作品の映像は非常に美しい。宣材として提供されたスティール写真も、どれも絵葉書のような美しさを持っている。
7年間アマズィーグ人の生活に密着し、アトラス山脚の四季を描きながら撮影された記録映画である。主人公は結婚を控えた姉と、裁判官を夢見る妹の姉妹である。
彼女たちの父親は過去にフランスに出稼ぎに行き、過酷な経験をして、モロッコに戻っている。そのエピソードだけでも、彼らの置かれている立場が想像できる。
動物や自然と共生しながら、自給自足で生活を営む家族。私がモロッコに行った際も、街中でも働くロバを見かけ、人間と動物の距離感が日本とは全く違うと感じた。
反面サハラ砂漠に入ってもWi-Fiが使えるなど、デジタルの国家的な整備もされている。
モロッコという国は、マラケシュ、タンジェなどの都市部と、サハラ砂漠やアトラス山脈では、同じ国とは思えない位に大きな違いがある。
この姉妹は正に民俗的な生活様式と、DXに向かう国家の狭間で生きている。特に姉はカサブランカに住む見知らぬ男性との結婚に期待と不安を抱いている。姉ファテマが抱く大都市カサブランカでの生活の不安。短期間ではあったが、都市部と山間部を通過し、そのギャップはリアリティを持って感じる事ができた。
ファテマは思い切り盛大な結婚式で送り出される。しかしそこには新郎の姿はない。
タンジェで偶然結婚式のパレードに出会った。その景色は、ファテマの為に開催されるセレモニーと同じように盛大で、日本では考えられない大人数が市中をパレードしていた。
モロッコの街中には、幾つもカフェがある。しかしそこにいるのは男性ばかりである。女性は外でお茶を飲む習慣がない、家事に専念していて、外出出来ないのだと聞いた。
会った事のない男性に未だ嫁ぐ習慣含めて、モロッコでは未だに男女格差が存在しているようだ。そういった習慣へのアンチテーゼとしても、『ハウス・イン・ザ・フィールズ』の存在価値はある。
この映画には手のアップが度々登場する。描かれる手は揺れ動く感情を表現している時もあれば、働く為の肉体的なギアとしての手の表情も描かれる。
この手の表情と、随所に流れるアーシーなモロッコの楽器の音色、そして動物や自然と共生するアマズィーグ人の生活に是非目を向けて欲しい。
モロッコにはファテマの手と呼ばれるお守りがある。よく家の前に取り付けられている。
私もお守りとして、キーホルダーを買ってきた。
姉のファテマと彼女の手のアップ。ここには幸運を呼びたいというタラ・ハディドの祈りが込められているのかもしれない。
そして今の日本人が忘れてしまっている人間本来の姿、生きる為にはどうすべきか、自然とどう付き合っていくのか、今の時代だからこそ考えるべきテーマが内包されているのだ。
★川口敦子
「こんなにも異なる世界とその仕組み、にもかかわらずあまりに遠く思えたものが自分といかにも近しく、じつは同じなんだと感じてほしい」
ベルリン国際映画祭フォーラム部門で上映された『ハウス・イン・ザ・フィールズ』をめぐるインタビューで、観客のどんな反応を望むかとの問いに監督タラ・ハディドはそんなふうに答えている。確かに――と、数年遅れで映画に触れた観客のひとりとして大きくうなずきたくなった。
実際、モロッコはアトラス山脈の奥地で豊かな自然とやっかいだけれど捨て難い伝統、慣習、暮らしの重みに包まれながら、軽やかに夢見ることも忘れていないハディーシャ、うっすらと薔薇色の頬にいつも陽炎みたいな憂いを浮かべている瓜実顔のアマズィーグの少女の”物語″を、ハディッドの映画はその遠さを捻じ曲げることなくしかし、いかにも他人事でない思春期の不安や憧れや退屈、いらいら、微笑ましさと共にそっと手渡してくれる。めぐる四季、移ろう自然の中で営まれる家族の、コミュニティの日々。外界と隔絶されたかに見える毎日には世界の今も確かに息づいている。伝統の衣装を身につけた女たちの傍らにナイキやプーマやアディダスのジャージを纏った男たちがいる。
春になると色を取り戻す自然の中、友達とふたり無心に木の実を口に運ぶ少女はのびやかに大地に寝そべって、進学し弁護士になるのだと夢を語る。ほっそりとして幼く見える彼女のイスラムのベールの下に豊かに波打つ黒髪が隠されていて、そのなまめきがドキリを目を打ち胸に刺さる。姉は学校をやめて夏の終わりに会ったこともない相手との婚礼をあげることになっている。定められた未来に抗えないひとりと自由に夢見るもうひとり。寝床をならべた姉妹の語らいはもう一度、世界の遠さと近さのことを思わせずにはいない。
いかめしそうな眼差しをキャメラに向ける老人。「キャメラを見るな」と呟きならみごとにキャメラ目線になっている面々。その照れ隠しめいたやわらかな笑顔がいかめしさを駆逐する。唐突に出稼ぎの日々を語る初老の男。茶をすする老夫婦。ポートレートのように人をきりとり、その語りを掬いとる映画は5年とも、7年とも伝えられる時間をかけて監督がそこに赴き、そこで暮らし、そこで遭遇した”物語″を記録する。ドキュメンタリーは強かに現実の人々の物語りに支えられている。現実(ノンフィクション)を物語(フィクション)にする山の人々とその暮らし、その世界と映画の共闘が静かなスリルを紡ぎだす。
ロンドンに生まれアメリカで映画を学んだモロッコとイラクの血を引く監督ハディド(幻の新国立競技場案でも話題を呼んだ建築家、故ザハ・ハディドの姪にあたるという)。彼女の虚実の境界への働きかけはいってしまえばもはやニュースでもなんでもない映画界の当り前の営為に他ならない。が、この映画を見た直後にやっとアメリカから届いたクロエ・ジャオの長編監督デビュー作『The Songs My Brother Taught Me』のDVDを目にしてみると、虚実の境界に挑むふたりの監督の奇妙な近さが見逃し難く迫ってくる。
ハディドがアマズィーグの村でしたように、ジャオはサウスダコタ州パインリッジの米先住民居留地に赴き、そこに暮らす人々と時間をかけて交わって、タテマエだけでない話を聞きだし、そうして彼らの物語りを彼らが演じる/生きる映画が差し出された。9人の妻と25人の子をなした居留地のロデオ・ライダーを父にもつ少年が恋人と共にLAに向かうことを夢見ながら、結局は妹と母との暮らしに踵を返すーー。そんな展開は、居留地という遠い世界の現実を射抜きつつ、飛び立つことを願う少年の夢と、それに勝る何かのために諦めを超えて生きる思春期の”物語″、その他人事でない近しさをも思わせて、ハディドの映画の”遠くて近い″感触と興味深く響きあっていく。かたやフィクション、かたやドキュメンタリーと分類されてはいるものの、どちらもその境い目のつけ難さの上で創る覚悟を感じさせる。
そういえばジャオのNY大学院映画科時代の短編のひとつは奇しくも『The Atlas Mountains』と銘打たれ、幸うすい主婦がクリスマスの夜にPC修理にやってきた移民と孤独を分かち合うーーと粗筋が紹介されている。となると移民というのはアトラスの山の村から来ているのでは、ひょっとしてハディダの映画で出稼ぎ時代の挿話を披露していた老人がモデルだったりはしないだろうかと、勝手に妄想を膨らませてみたくなる。まあまあそんな偶然の一致はまさに物語の上でしかあり得ないのだろう。が、面白いのは素晴らしく刺激的な映画をものしたふたりの監督が、ともにサンダンスのラボで企画を耕し、ジャオはフォレスト・ウィテカー、ハディドはダニー・グローバーの支援をとりつけていることで、そこには実際的な映画界のサバイバル術、そのトレンドが垣間見えたりもしそうで、蛇足と言えば蛇足だがちょっと気にしてみてもいいかもしれない。
(モロッコ、カタール/2017 年/86 分/HD/1:1.85/アマズィーグ語/原題:TIGMI N IGREN)
監督・撮影:タラ・ハディド
出演:ハディージャ・エルグナド、ファーティマ・エルグナドほか
配給・宣伝:アップリンク
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