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Cinema Discussion-14/光の魔術師アピチャッポンの奇妙な寓話『光りの墓』

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督 © Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督
© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
第14回は初めてのアジア映画として、タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の新作『光りの墓』を取り上げます。
アピチャッポンは、2010年には『ブンミおじさんの森』で、カンヌのパルムドールを獲得している世界的にも注目されている映像作家です。
今年は2006年に監督した『世紀の光』も日本公開され、福岡天神での映像制作ワークショップ「T.A.P(天神アピチャッポンプロジェクト)」や、東京都写真美術館での個展も予定されており、日本での大きなブレイクも予感されるので、今回は初めて彼の新作にフォーカスをする事にしました。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。
今回川口敦子以外のメンバーは、アピチャッポン初見参という事で、全員2006年作品『世紀の光』を予習して臨んだ座談会となりました。

© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)
© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)

川口敦子(以下A)
『光りの墓』を要約するとしたらどのように? 何を見たと思いますか? あるいは何を見るように薦めますか?

川野正雄(以下M)
やはりアピチャッポン監督の作家性でしょうか。
タイというこれまではアート作品との出会いが無かった国から出てきたアートハウス系の映像作家。
彼の描く空気と時間と光の流れ。
根底に流れるタイの政情に対するアンチテーゼなテーマ。
光というテーマは一貫していますね。作家性のアイコンみたいな存在なのでしょうか。

川口哲生(以下T)
映画を見ている自分自身が、兵士たちと同じように、現実なのか夢なのか分からない、居心地の悪い状況を彷徨っている様な感じ。眠りに誘うような女性の語り口が、アジアのビーチで昼寝している時に周りから聞こえてく女性同士の会話のような感じで、そうした感を増幅させました。そんな中で事故した足を兵士に成り代わって癒す霊媒の女のシーンの様に、自分の深層にある何か、深い恐れや悲しみと共鳴するとても美しく涙が出るようなシーンがあったのが発見でした。

A:見ている、聞いている、感じている、触ってもいる、でも「何を」と説明しようとすると手の中をすりぬけていく砂のように言葉が抜け落ちていってしまう。そういう名づけられないものを感覚することがアピチャッポン・ウィーラセタクンの映画を体験するということになるように思えます。「何か」についてではない物語り。

名古屋靖(以下N)
心の治癒までの軌跡。 今時とは思えないほど、私的な作家性に突出した新鮮で新しい映画。 A.タルコフスキー以来、心揺さぶられるほどの何かを見た感はあるのですが、それが何なのか今だに分かりません。 映像美で言えば、イットが眠るベッドのシーンは色も光りも平面構成も完璧といえるほどの美しい一枚の絵画です。

T:事前にみた『世紀の光』はより実験的で感情がむき出しに伝わってきた様に思うけれど、この映画はより暗喩的であり、ナラティヴな物語性の中での表現になっていた。自分としてはとても面白かったです。

N:幸運にも『世紀の光』からそんなに時間を空けずに『光りの墓』を観ることができたのは、作品を越えて病的と思えるほどの執着心や、それらモチーフを偏愛する結果、監督自身の映画そのものへの探究心が深まっていってるのがわかって面白かったです。アピチャッポン・ウィーラセタクン監督に身を任せるか否か?で好き嫌いは分かれますが、自分はどっぷりと2時間、監督の夢の世界を気持ちよく漂う事ができました。

M:独特の長回し。光の使い方。
インスタレーションとも言えるような演出。
病室内で繰り広げられる現実的な描写と、魂との対話のような寓話的なエッセンスとの、アンバランスとも取れるような共存。
随所の会話にはユーモアも込められ、『世紀の光』からの進化というかプロフェッショナルな成長を感じました。
それら全てを包括したアピッチャッポン監督の私小説。
彼のこれまでの人生や、周囲の様々なエッセンスが、象徴的に随所にばら撒かれているのではないか。
映画としての奥行きの深さ。
病室内での光が変化していく映像が素晴らしかった。
行間を読み取る感覚がないと、単に厳しい映画になってしまう。
そのリスクとの背中合わせのような緊張感のある映画。

© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)
© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)

A:醒めてみる夢、というか夢の中で見た映画というか。
眠りを拒もうとすると果てしない闘いに巻き込まれてしまう。名古屋さんがタルコフスキーの名をあげてらっしゃいましたが、私の場合、『ノスタルジア』を見た時のあの温泉地で歩みを進めていく、その場面での登場人物のたどりつけなさと、観る側の睡魔との闘いとが相まって襲ってくる何ともいえないせめぎあいの感覚、辛いけれど、ふと気持ちもいい、能を見ている時にも通じる感覚をしばしば味わうのがアピチャッポンの映画でもありますね。感想というのとはちょっと違いますか――。

A:「映画監督」とイージーにくくってしまうのがためらわれるようなアピチャッポンについては、どんなことを思いました?

T:とても興味深いですね。タイの政情など本当に理解しきれないところがありますが、何が彼に映画を作らせるのか、そうした興味が純粋に湧きました。
現代美術や実験的な映画というスタート地点もユニークですが、彼が表現として映画を作るということが興味深いですね。

N:変態ですね、きっと。勉強不足で今までまったく知らなかったのですが、久しぶりに興味深いアート系の映画監督と巡り合った感じです。前向きになれば実力は申し分ないと思いますが、今後も普通の商業映画の監督にはなりたくはないのでは?
監督の生まれ故郷で映画の舞台でもあるイサーン地方について、僕はタイ料理の一地方料理として認識している程度でした。自宅近所にイサーン料理の美味しいレストランがあるのですが、オーナー・シェフはラオス出身です。今回アピッチャッポン監督の映画を観るにあたり少しだけ学習したおかげで、国境・国籍、民族・種族、デモで話題になった「タイの南北戦争」など、タイでありながら純粋なタイではない複雑な問題を抱えた地方であることを知りました。

M:タイ映画というと『マッハ』シリーズのようなアクションのイメージがあったので、全く違いますね。そういった当たり障りの無いアクション映画へのアンチテーゼのような意識があったのかなとも思います。
アクション全盛期の香港映画界にウォン・カーウァイが現れたのと同じような印象でしょうか。
作家的にはアッパロ・キアロスタミやエドワード・ヤンが好きだったみたいですが、そういった作家と比べてもよりアヴァンギャルドな表現で独特の世界観を構築していると思います。
アンディ・ウォホールとかヨゼフ・ボイスは、アートを軸に映像作品も作りましたが、アピチャッポンは、映画を軸にアート作品も作っていく人だと思います。

A:ハリウッドの昔ながらの映画では、これを見なさいというのを観客に感じさせずに、でもみごとに誘導していく、その技を磨いてストーリーテリングの粋ともいうべき映画の方法を蓄積してきた、そういう意味での物語りの仕方とは別の方法を最初の長編『真昼の不思議な物体』から提示していますね。ここではシュルレアリストの手法”優美な死体“をヒントにお話を撮影クルーの訪れる所々の人びとが受け継いでいく。リレー形式で編まれる物語の意外性もさることながら、受け継がれる物語を受け継ぐ人、その人のいる場所、時間、光をすくい取る黒白の映像自体が物語となっていくような――。そんな映画にすでにこの作り手ならでは興味のありかが示されていたように思います。
フィクションとドキュメンタリーの背中合わせの在り方という部分を究めてもいて、それは21世紀へと向かう映画の作り手たちが様々に試みたひとつの傾向とも合致していた。その意味ではホン・サンスの反復とずれ、真ん中で折り返すような構成法とかとも比べてみると案外、面白いのかなあなどとも思えます。

© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)
© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)

A:アピチャッポン・ウィーラセタクンに『ブンミおじさんの森』で大賞を与えた2010年カンヌ映画祭コンペ部門の審査員長はティム・バートンでしたが、彼やデヴィッド・リンチ、ガス・ヴァン・サントのようなアート・フィルムと物語性をもつ”普通の映画”の狭間で撮る人たち、あるいはデレク・ジャーマンやウォーホルのような実験映画、現代美術の領域も含んだ映画の撮り手たち、アピチャッポンは彼らと比べてもいっそうユニークな存在ですね。自身の世界を究め、長編映画と共に、短編、アートインスタレーションもコンスタントに発表している。そのあたりの創作のスタンス、その”越境的”な要素についてはいかがでしょう?

M:個人的にはガス・ヴァン・サントのような狭間で撮る監督の方が好きです。
アピチャッポンはやはり監督でもありますが、アーチストというか、映像作家という表現の方が相応しい人に思えます。
監督としては、『世紀の光』から『光りの墓』では、その間の監督としての大きな成長を感じました。
ただ本質は変わっておらず、それが彼のスタイルなのだなと改めて思っています。
作品的には小栗康平監督の『眠る男』との近似性を感じました。
魂との対話といったテーマ性や、睡魔とのギリギリの境界線に立脚した長回しの演出や、土着的な地域性をベースにした私小説的要素とか、そういう部分の共通項です。
多分こういった私小説的な世界から彼が脱却した時、真の監督としての力量が見えてくると思います。
アジアで評価されている他の監督のように、自国から出て、外国で撮影した時、どうなるのか、気になります。もっともっとグローバルに活動して欲しいですね。
余談ですが、タイの映画祭に一度行った際に、タイはポストプロダクションの技術やCGの技術が素晴らしいという事で、いくつもの会社を訪問しました。
その中でもカンタナという会社は、今では日テレや日活と日本にも合弁会社を持ったりしているのですが、非常に素晴らしい技術があるようでした。
僕が会ったマネージング・ディレクターは香港人で、同じ香港人のウォン・カーウァイからはかなり昔からポスプロを依頼されているという話を聞きました。
そういうタイの映像に於けるテクニカルな進化というものと、この作品の映像のクオリティの高さは無関係ではないと思います。

N:チャート表を作成すれば、彼は上記の誰よりもアート・フィルム寄りの人ですよね。普通の映画のジャンルには当てはまらないであろう『世紀の光』に対して『光りの墓』は、よりナラティヴな内容とオーガニックな映像美で、その狭間のほんの近くまで歩み寄った監督の意欲作だと思います。個人的にはこれ以上は普通になって欲しくないのですが、今後どこに向かうのか?とても興味があります。

T:実験性の高い映画やアートインスタレーションがナラティヴを排している故に、見る側の『何をみるか』の幅が格段に広い様に、彼の映画は、同じ映画に何を観るか、個人ごとのレイヤーがある。解釈「making sense」でなく何を感じ、何を観るか。

光りの墓_サブ5

A:80年代東京ではもっと当り前に見られた上記のような監督の映画が今、支持されると思いますか? 他のジャンルでも見やすい、聞きやすい、着やすいといったリアルなものが蔓延しているように思いますが、そういう傾向は変わっていくと思いますか?

N:この映画が変わるきっかけになってくれると嬉しいです。

M:デレク・ジャーマンなんかは、当時は人気がありましたね。
正直かなり苦手な監督です(笑)。
まだまだ日本人が他の世界の人からの影響を大きく受けていた時代でした。
今の東京でアートフィルムが大きく支持されるのは、段々難しくなってきたと思います。
ただ大きく支持はされなくても、常にそういった作品をきちんと評価したり、探し求めていく人は、存在し続けています。
ニューヨークやロスと比較しても、東京の方がより多くの世界中のアート系映画を劇場で見れる機会は、あるのではないでしょうか。

A:短編やインスタレーションを含めたひとつのアートワークの中に長編映画も組み込まれるというあり方。例えば『ブンミおじさんの森』にしても”プリミティブ”という複合的なプロジェクトに含まれているんですね。政治や歴史も深く呑み込んだ現代アートの一環としての映画作りを基本とする。というと観客を突き放すような印象も与えますが、そうではない。”私”の表現ではあっても、排他的ではないというか。うまく言葉にならないんですが、その辺りにもアピチャッポンの面白さがあると思う。

T:音楽や映画やファッションもですが、判りやすいもの、容易に楽しめるものになっています。先にも述べたこの人は何を考えているのだろう、といった次元の興味は今は難しくなっています。“stop making sense”という忍耐(?)がいるものには飛びつかなくなっています。

© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)
© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)

A:記憶、夢、眠りという核になっているモチーフについては? 『世紀の光』と見比べていかがですか?

T:『世紀の光』も同じインタビューのシチュエーションの場所を換えての繰り返しみたいな同じ人の中での記憶なのか、あるいは覚めない夢なのかといった感じを持ちました。
今回は、厳しい表現に対する規制といった政権政情野中での作者の心情、さらには監督自らの出身地にまつわる自らの場所や人や自然に対する記憶等々がより重層的に『記憶』『夢』『眠り』といったモチーフとして描かれているように思いました。

N:それらのモチーフは、『世紀の光』がごく私的なアート・フィルムだったのに対し、『光りの墓』を普通の映画らしく作用させた重要な要素の一つだと思います。しかしその発想の原点は、当時のタイから現実逃避するために眠ることに魅了された監督が熱中した、自分の夢を書きとめていくという極めて内向きな芸術活動からで、そこにも彼の少しだけ病的な執着心を感じます。

A:『トロピカル・マラディ』で中島敦「山月記」の引用をしたこともありますが、自然と科学(医療)、霊魂、変容、輪廻転生といったモチーフが非現実的な幻想であるよりは、まざまざとした、あっけない現実として描かれる。この点に関しては?

N:精霊や憑依など、あっけらかんと描かれていてもまったく違和感ないのは、タイという土地や人々らの南国的お気楽気質がそうさせるのかもしれません。湖畔のお堂の姉妹霊のエピソードなどがスムースに入ってきたのも、イサーン地方という土着信仰も根強いスピリチャルな土地にプラスして、タイの南国気質が関係しているのでしょう。笑いまでは行かないけれど微笑ましい緩やかなユーモアが許されるのも、微笑みの国タイらしさを感じさせます。同じ内容で別の映像作家がヨーロッパで撮影していたらこうはならないでしょう。また勝手な解釈ですが、ラストシーンのサッカー少年たちは、病院の地下に眠る昔の王様たちじゃないかと個人的には思っています。

M:非常に寓話的なエピソードの使い方が面白いです。
それぞれの作品で、息抜き的に挿入されるエッセンスは、監督のセンスを感じます。
アート性だけではない作家だと思いますので、実験的だけど映画的な手法をうまく使っているように思えます。
例えば何故か象徴的にダンスやエアロビみたいな集団シーンが差し込まれる意図がよくわかりません。
幻想と現実の対比として描いているのかなとも思います。

T:汎アジア的なアニミズム的な物事は日本人としては受け入れやすいように思いますが、そのカジュアルさはpopであっけらかんとしていますね。

A:街頭の集団エアロビクスもそうですが”森”も繰り返し各作に登場してくる。動物と植物と人の境い目をみつめている気もしますが?

N:『世紀の光』オープニングの風に揺れる木々や田園、『光りの墓』の病室から見える森など、オーガニックでボタニカルな映像が印象に残る映像作家です。それらとは逆に時折差し込まれる工事現場やその雑音がとても人工的で、『世紀の光』の後半で使っていた不穏な音楽と同様にいい対比になっています。自分にはそれらが目に見えぬ神や王様たちの魂の声に聞こえていました。
森について、動物と植物と人の境い目について、監督がインタビューで語っている「だから私は木になりたいのです。」という彼自身の夢はまさに境い目を超えた「変容」です。『2001年宇宙の旅』でボーマン船長がスターチャイルドに生まれ変わるように、『光りの墓』は主人公のジェンが「癒し」もしくは「赦し」に到達したことによって、ケンのように夢を覗く力を身につける「変容」の物語とも言えるかもしれません。

T:輪廻転生を語るようなところがありましたが、動物や植物と人間は紙一重でつながっている感がありますね。そして『世紀の光』でのたびたび挿入される工事現場やトラクターみたいな建機が象徴する埃っぽい現実感、『光りの墓』ではケミカルな光の医療機器等のSFっぽい未来感,そういったものが森や植物とともに共存するところが面白いところですね。

光りの墓_サブ2

A:今回の映画は『世紀の光』のような真ん中でまた始まるといった不思議な構成が目につくわけではありませんが、物語り方はやはりちょっと独特ですね。その面白さについて具体的にどうでしょう? 自然とケミカルなものの共存、長回し、ほぼ素人の演技者たちといった部分で抵抗を感じましたか?

N:ほぼ引きのアングルのみで、独特のスピードで観るものを混乱と昏睡に誘う『世紀の光』と比較すると『光りの墓』は台詞にも一貫性が感じられ、至極まっとうな映画に見えてきます。先ほども触れましたが、窓の外の木々に露出を合わせたイットが眠るシーンと、夜の病室のケミカルな光の治療シーンは、忘れられない美しさです。

A:長回しの印象がありますが、『トロピカル・マラディ』の頃には案外、普通にカットを割っている所もあり、手持ちキャメラをつかったりもして、今、見直すとあっと意外な気もします。ただ、風や森の緑や、光、水といった自然への眼、時間への感覚は一貫しているので、目立った筋よりそうした時の中にこそ物語を見る方へとより積極的に向かってきたのかなあとは思います。反面、それだけではいられない政情、現実の切迫感もまたあるのでしょうが。

T:先にも言ったけれど、自然と共存するケミカルな色使い、とか不思議な集団ワークアウトとかはやはり監督のpopさや独特のユーモアを感じました。

A:独特の時の流れの感触については?

M:『世紀の光』からそのまま進化した形でしょうか。
常に病院が舞台になっている事については、監督の育った環境だということがわかりました。
『世紀の光』では、違う病院で同じドラマが進行するという極めて実験映画的なユニークな手法が印象的でした。
『光りの墓』に関しては、随所に差し込まれる静止画的な映像が、睡魔を呼び込みながらも、作品全体の余白として効果的に思えました。
ただ長回しに関しては、多用しすぎると感じました。
前述のトラン・アン・ユンも『ノルウェイの森』の雪のシーンで超長回しをやっていますが、時として長回しは、役者の緊張感を削ぎ、観客には単調さを与える結果になります。
長回しをすれば芸術的な作品になるみたいな風潮が、何処かに流れている気がして、そこに対して個人的には、常に反対側のスタンスでいたいと思っています。

T:同じアジアである日本人としてすごく『アジア的』と感じる要素はここになると思いますが。

N:油断すると寝落ちしそうになるくらいゆっくりとした時の流れと間ですが、タイ語のやさしい響きと相まって、慣れてくると心地よささえ感じられます。この柔らかい感触もアピチャッポン監督の特徴かと思います。
台詞も多い方ではないので自然に映像も凝視してしまいますが、極端なパースペクティヴなど、そこにも彼らしい病的な繰り返しが確認できます。

A:タイの現状も重要な背景になっていますが、その点に関してはどう見ましたか?

M:政情に関してですが、これはなかなか映画では訴えにくいテーマなのかもしれません。
間接話法的に今回は語っていると思います。
実際タイに行くと、街中で軍服を着た人間の多さに驚きます。
たまたま見た時期に近いタイミングで、NHK-BSで『ジョニーは戦場に行った』を見て、テーマの近似性を感じました。

N:タクシン派として赤いシャツを着てイサーン地方の人々も大勢参加していたバンコックでの大規模デモのニュースが今も印象に残っています。タイ中央に反抗する伝統も持つイサーンの人々が、如何に自分達のアイデンティティを失わないようにするか葛藤している監督の姿が、あからさまではないですが所々で見え隠れしています。

A:中国・台湾・香港、イラン等々、欧米以外の映画が注目を集める時、ある種の上から目線的エキゾチシズムをどこか払拭しきれない場合がありますよね。アピチャッポンの欧米での評価の高さにもそうした要素が関わっていると思いますか?

T:先の時間の流れの話ではないけれど、アジア人でありながらアジア的ということに関するエキゾチシズムを感じてしまうのも確か。でも監督にはそうしたアジア性を超えた興味を感じました。

A:トラン・アン・ユンの映画はベトナムで生まれたけれどパリで育ったフランス人の感覚ももった彼が、懐かしむベトナムに外からの目を感じさせずにはいない。そのエキゾチシズムはアピチャッポンの映画にはないと思える。

M:なるほどトラン・アン・ユンのベトナムを見る視点を、上から目線とすると、そうではないですね。もっと土着的な感じがします。
エキゾチシズムというものは、映画全体に覆われているようには思えますが、それは欧米人が意識するエキゾチシズムとは違う種類のものであるように思います。
トラン・アン・ユンのエキゾチシズムは、欧米人にわかりやすいエキゾチシズムで、アピチャッポンは、より内省的でプリミティブなのではないでしょうか。
観客にエキゾチシズムを感じさせるのではなく、内から湧いてくるエキゾチシズムという類かと思います。

A:ゲイであることを公表している監督ですが映画にそのことが関係していると思いましたか?

T:むしろ『世紀の光』のいくつかのシーンのほうにそういったことを感じました。

M:男性器を唐突に象徴的に描いているので、何故かと思いましたが、ゲイと聞き、納得しました。

© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)
© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)

A:次はSFをと語っていますが、どんなものになると思いますか? 彼の世界はSF的なのでしょうか?

M:彼の作品は非常に寓話的なので、面白いと思います。
彼のこれまでの私小説的な世界観から脱却した作品を見たいですね。

N:僕は今のままで行って欲しいです。アピチャッポン監督の作品は新しい種類の映画体験だと思います。そんな彼が挑むSFは予測不可能です。今から楽しみにしています。

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の新作『光りの墓』は、3月26日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショーとなります。
■公式サイト

Cinema Discussion-13/『サンローラン』 天才デザイナーのying&yangに迫るサンローラン外伝

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
© 2014 MANDARIN CINEMA – EUROPACORP – ORANGE STUDIO – ARTE FRANCE CINEMA – SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
今年最後となる13回目の今回は、デザイン界の巨匠イヴ・サンローランを鋭角的に描いたフランス映画の意欲作『サンローラン』です。
前回取り上げた『エデン/EDEN』は、セルクルルージュの当初からのコンセプトでもある音楽と映画をクロスオーバーさせた作品でしたが、今回はもうひとつのコンセプトでもあるファッションと映画をクロスオーバーさせた作品です。
イヴ・サンローランに関しては、これまでもサンローラン財団公認の正統派のバイオ映画『イヴ・サンローラン』や、パートナーであるピエール・ベルジェの視点で描いたドキュメンタリー『イヴ・サンローラン』など、次々に映画が制作されていますので、ご覧になった方も多いかと思います。
今回ご紹介する『サンローラン』は、他の伝記映画とは一線を画するイヴ・サンローランの持つ陰と陽~YING&YANGにフォーカスしたサンローラン外伝ともいうべき作品です。
ディスカッションメンバーはいつものように川野正雄、名古屋靖、川口哲生、映画評論家川口敦子の4名で、今回もナビゲーターは川口敦子です。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
© 2014 MANDARIN CINEMA – EUROPACORP – ORANGE STUDIO – ARTE FRANCE CINEMA – SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL

川口敦子(以下A)
この映画を見るまでのサンローラン像と見てからの像、どう変わりましたか、あるいは 変わらなかったでしょうか?

名古屋靖(以下N)
サンローランとの最初の出会いは幼少の頃のトイレマットやタオルのロゴマークでした。その後ファッションを意識するようになってからは、歴史的巨匠の一人として再認識していましたし、薬物依存やうつ病など抱えていたのは聞いていたのでナイーヴで静かな天才の印象は変わりません。この映画では彼の不安定性やダークサイドをさらに抽出してよりアーティスト的な側面を描いていますね。

川野正雄(以下M)
サンローラン像という意味では、より天才的でエキセントリックな印象です。戦争体験の話もありましたが、天才にありがちなバランスの悪さというか、そういう部分を強く感じました。
個人的には、映画の終盤に出てくる回顧展に絡んでサンローランの仕事をしたことがあります。回顧展は確かブランド30周年のアニバーサリーで、日本ではセゾン美術館で開催をしました。
同時開催で、日本武道館初のファッションショーを、サンローラン本人を招いて行いました。
私は中継ぎのピッチャーみたいな役割で、ファッションショーの途中過程に、ディレクターとして参加をしました。
そこで接したサンローランの主要メンバーとの仕事で、メゾンの大変さや権威主義を、身を持って体験することが出来ました。
ブランドのトップという初老のフランス人と会議をしましたが、すぐ顔を真っ赤にして怒っていました。
今思うとサンローランの公私共にパートナーだったピエール・ベルジェだったのではないかと思います。
インターネットも無い時代ですから、ステージの模型を持って、スタッフが1泊4日でパリに行き、ダメだしを喰って帰ってくる~そんな仕事でした。
残念ながらショー当日は、私は別の仕事に入っており、生で見る事は出来ませんでしたが、その時の印象と、今回の映画の印象は、オーバーラップするものがあります。

川口哲生(以下T)
私のサンローラン像はどちらかというと神経症的な、より繊細な印象が勝っていたが、映画ではデフォルメされた部分も含め派手で退廃的でスキャンダラスなイメージが強かったな。ウォーホールのサンローランのポートレイトはもちろん知っていたが、二人のやりとりや大西洋をはさんで『富と有名であることを手に入れたアーティスト』としての相似性は(作者の意図なのだろうけれど)、今まではそんなに強く意識したことが無かったように思います。

A
小学5年生の頃、伊勢丹の女子服売り場に、ノースリーブのワンピースで幾何学的にテープで分割した、すとんとしたスタイルのものがあってほしいなあと思い、母に白いグログランテープで分割を取り入れたものを縫ってもらった記憶があります。今、思うとモンドリアン・ルックでサンローランが注目を浴びた、それを日本の作り手も子供服にまで採用するくらい意識したってことなのかもしれません。そのワンピースを祖母がモダンだねと評した。モダンってこういうものか、と60年代の子供にとってサンローランは案外、そんなふうに知らずに意識されていたのだなあと思い起こすと感慨深いものがあります。
そこで植えつけられたモダンなというイメージがいつの間にかYSLのタオルやスカーフのはずかしいものになっていた。その過程はあまり覚えていないけれど80年代にはもうそういう受けとめ方をしていた。『暗くなるまでこの恋を』はじめ映画雑誌ではドヌーヴとの関連で紹介され、いしだあゆみがパリまで買いに行ったなんて記事を見た気もします。
というように子供の頃から肉体を伴った存在というよりイメージとして認識していたサンローランが今回の映画を見ることで肉体化(内面も含め)され生々しく迫ってきたように感じます。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
© 2014 MANDARIN CINEMA – EUROPACORP – ORANGE STUDIO – ARTE FRANCE CINEMA – SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL

A
前の質問とも関連しますが、本作は既にあるオフィシャル版の伝記映画に対する”外伝”的な位置にあります。監督ベルトラン・ボネロのこれまでの映画に通じるダークで挑発的な時代や人への眼が良くも悪くも出ていると思いますが、様々な点にある映画の挑発性については? またそれはサンローランという存在を描く上でふさわしいと感じましたか?

T
これでもかというゲイ的な描写や、象徴としての途切れないタバコ、酒やドラッグヘのアディクションは確かにダークサイドに振れて挑発的ですね。それはサンローランというファッションアイコンを描くというより、サンローランを通じてこの時代や、監督がインタヴューで言っている『格調高く閉じ込められた自己が破綻していくというアイデア』を描くためということに力点が置かれた表現なのではと感じました。

M
オフィシャル認定作品では多分描けないような、アヴァンギャルドなアプローチをしていますね。正に外伝かと思います。このアヴァンギャルドさや、スリリングなアプローチというのは、サンローランが持っていた先進性にも通じるタッチなのでしょうか。
サンローランをリスペクトした作品を作るというより、サンローランというファッションの天才を題材に、自分の作りたい映画を作った~そんな感じです。
ゲイのシーンと、ドラッグのシーンは、ちょっとtoo muchでした。

A
オフィシャル版『イヴ・サンローラン』(ジャリル・レスペール監督、ピエール・ニネ主演)やそれに先立って登場した、レスペール版の原作的にも見えるピエール・ベルジェを軸にしたドキュメンタリーに比べ、本作はサンローラン自身より彼を介して監督ボネロの世界が興味深く迫ってくる怪作ですね。うんざりするような描写もあるものの、そこが面白さともいえると思います。19世紀末から20世紀の初めのパリの高級娼館を舞台にした『メゾン ある娼館の記憶』でも”笑う女”と呼ばれる、客に口を切り裂かれた美女の逸話をこれでもかというくらいに繰り返して描き、また梅毒で命を落とすひとりの病に冒された死に顔も凝視する、そういう露悪的、あるいはグロテスクともいいたいような容赦のない挑発性を人を描く上でのひとつの基準としているような面がボネロの世界なのではと。いっぽうで移ろう時代、印象派の絵の世界にあるような古き佳きパリの気風の綻びをそんな人の暴力性に対置してノスタルジックに『メゾン』は提示してみせますが、今回も世界の変わり目を残酷に、しかし感傷も添わせて描いていますね。

N
ちょっとデビッド・リンチを連想するような不穏なライティングや音楽。わざと被写体深度を浅くしてボケを多用する幻想的なカメラワークなど、彼の謎めいた暗部をスキャンダラスに描いていたと思います。ただサンローランの映画が、もしもこれだけだったとしたら、彼がちょっとかわいそう。

A
挑発性という点で映画が的を絞った60年代末から70年代という時代こそが映画の面白さで、サンローランはむしろそれを描くためのフックのようにも見えますが、そのあたりに関してはいかがですか?

N
60年代末から70年代はファッションに限らず、音楽や映画などあらゆるクリエイティヴがビジネスになっていった革命的変化が起こった刺激的な時代です。劇中1967年、アンディ・ウォーホルからの手紙で「今の時代、映画、音楽、宣伝だけが創造的だ。だから僕はバンドをプロデュースした。」という一文がありました。それから約半世紀経った2015年その3つのどれもが、ともすると衰退しつつある厳しい状態で、真の創造性はすでにそこには存在していないのかもしれません。現在のファッションや服のトレンドでも、旅や音楽などの異なるカルチャーが影響を与える事例は昔より少なくなりました。

M
時代を60~70年代の10年間にほぼ絞っていますよね。2回のコレクションが中心で。
『JIMI 栄光への軌跡』も、時代を3年間くらいに絞っていましたが、伝記映画を撮るのに、ある時代にフォーカスするというのは、焦点が絞れて面白いと思います。特に60年代後半~70年代は、デザインの飛躍や、製造技術の進化があった時代で、アヴァンギャルドが市場に受け入れられ、デザインの価値そのものが社会性を持ってきた時代だと思います。その中でのサンローランの存在感を描くことで、相乗効果の化学反応を、監督は狙っていたのではないでしょうか。
冒頭いきなりトリュフォー/ドヌーヴの『暗くなるまでこの恋を』の話が出てくるのが面白かったです。ベルモンドとドヌーヴというキャストと、サンローランの衣装以外は、あまり見るべきものがない映画でしたが。

A
インタビューで監督ボネロは、68年生まれの自分にとって映画で描いた時代は父母とその友人たちの時代、垣間見たその時代への追憶もあったと語っています。『メゾン』でも舞台の娼館が19世紀末から20世紀へという時代こそを描くための装置となっていますが、今回もやはり時代こそが主役ともいえるかもしれない。今さらな言い方ですがやはり価値の大きな転換があった10年だったとは自分の中でも思えます。
最初にホテルにお忍びでチェックインするサンローランがプルーストの『失われた時を求めて』に目配せしてスワン氏と偽名を使いますが、ヴィスコンティとも繋がる失われた時代への哀悼をボネロの映画も世界観のひとつの軸として底に湛えている気がします。

T
私も見ながら同じようなことを感じました。限られた60年代末から70年代という時代を区切って描くという感じは、表現こそ違うけれどこれまでセルクルルージュで取り上げてきたジミヘンのBIO-PICに共通するし、私たちセルクルルージュのもともとのコンセプトにある音楽・アート・ファッションの濃密な関係というテーマを含んでいますね。(逆に言えばそれだからシネマ・ディスカッションで取り上げてると言えるのかも。)

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
© 2014 MANDARIN CINEMA – EUROPACORP – ORANGE STUDIO – ARTE FRANCE CINEMA – SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL

A
68年パリを描く分割画面はサンローランのモンドリアン・コレクションへの目配せで、同時に往時の映画でもよく使われた手法でしたが、時代とファッションの関連に関してはどのように見ましたか。

T
サンローランは私の世代ではハイファッションでリアルなブランドではなかったけれど、
パリ‘68やベトナム、公民権運動等のフィルムと分割で紹介されるコレクションを見ると、サファリルックだったり、シースルーだったり、オリエンタルだったりストリートとの呼応がちゃんとありますよね。そしてまたハイファッションからストリートへフィードバックされるような循環を感じる。
メインのコレクションの一つとして描かれる71年の『40年代へのオマージュコレクション』も蚤の市の古着でストリートでは再現される。そこがおもしろい。

M
ラストのコレクションシーンの、モンドリアルの使い方が見事でした。
映画の中でのモンドリアルの使い方としては、『華麗なる賭け』のオープニングタイトルに匹敵する格好良さだと思います。確か1968年の映画ですね。
確か日本では、キャンティの川添氏が最初にサンローランを輸入していたのだと思いますが、その当時の存在感は、超スノッブだったのではないかと思います。
キャンティの1階にベビードールがあり、ザ・タイガースやテンプターズの衣装を作っていましたが、当時のキャンティ周辺の文化的欲求のテンションと、この作品で描かれている世界感は、共通しているものがあると思います。
当時ベビードールで服を作っていた方のお話を聞いたことがあります。当時はまだ日本の知識も技術も未熟で、ヨーロッパでセルッティなどの服を買ってきて解体し、裁断方法を学んだそうです。

A
分割画面の技法はもちろんこの時代に発明されたものだったりはしませんが、でも流行りましたね。ウォーホルというかポール・モリッシーも『チェルシー・ガール』(66)とかで使ってますね。あと前後した時代だとリチャード・フライシャーの『絞殺魔』(68)これは川野さんがあげられた『華麗なる賭け』と同じ年の作品ですね。そして『悪魔のシスター』(73)とかとかのデパルマもいますね。サンローランのコレクションと関係あるかは疑問ですし、ボネロは『メゾン』でも使っているからこれもサンローラン以前からお気に入りの手法なのでしょう。が、今回彼の映画ではより積極的にサンローランと結び付けて使っているように思いました。

N
スプリットスクリーンですね。70年代当時流行りましたよね。子供の頃、エルビス・プレスリーのハワイ公演のTV放映や映画『ウッドストック』でこのスプリットスクリーンを見た記憶がなぜか鮮明です。この映画ではコレクションのその時々の時代性との対比や、ランウェイの裏と表を同時に見せるための効果的な演出になっていますね。

A
特に時代との関連では性の境い目の超越という点が興味深く描かれていると思いますが、現在のスリマン版サンローランも継承しているマスキュラン/フェミナンへの眼についてご意見は? 様々に考えたいテーマがみつかるように思いますが?

N
60年代末~70年代クリエイターがゲイかバイセクシャルというのは、1981年頃にAIDSが登場するまでは最先端の流行でしたね。性の境目を超越するのがクリエイティブな何かを生み出す事と直結するとは思いませんが、ファッションを生業ととする者として顧客の気持ちになれる事や、仲間が多い事が業界で優位に働いたのは事実でしょう。ミューズの一人、ベティ・カトルーは以前インタビューで「彼とは肉体関係はないかった。じゃなければこんなに長くは友情関係は続かない。」と、本当かどうかは分かりませんが言っています。ただ彼が今で言う性同一性障害かというとそうとは言い切れない所もあり、劇中で妊娠させてしまったお針子を密かに排除するところなどは、彼が両刀だった事を表しています。個人的には事実と反する演出のような気もしますが。
エディ・スリマンの普遍テーマは「ロックと少年性」です。批判を受けても激やせモデルを使いたがり、世の中がカラフルになってもモノトーン。シルエットはあくまで細長くスキニーでタイト。その決してぶれない頑なさはまた別のアンドロギュヌス性も感じます。

T
確かにサンローランが映画の中で身にまとうものは、シャツにハイウエストのルーミーなバギーパンツ(足が長い人が履くとかっこいいなと思ったし、今クラシックなクロージングでもスーパースリムへの飽きから腰回りにゆとりのあるプリーツのあるパンツへの向かう傾向の中では何か新鮮!)とか白衣の下の花柄ぽいシャツ、襟が丸く広いウインドウペーンのツイードのスーツとかどこかフェミニンさを強く感じますね。サンローランを象徴するようなストライプのダブルブレステッドスーツも演じるウリエルのせいもあり、何か男装の麗人みたいな感があります。
他方パンツスーツやウーマンリブ的な意味も感じてしまうシースルー、ワークっぽいサファリスーツ、映画のワンシーンでも顧客の女性がためらうような男性的な肩の大きなパンツスーツ等々にはジェンダーレスを意識します。
最近人として面白いなと思うグッチの新しいクリエイティブ・ディレクターのアレッサンドロ・ミケーレもジェンダーレスと評されていますね。Vogueで読んだけれど『30年も40年も前からジェンダーレスという価値観はあったんだ。本当は古くからあるものなのに、なぜか今、新しい流れとして捉えられている。僕は取り立ててジェンダーレスを意識している訳でなくて、ただ自由でありたいだけ。ファッションにはルールは必要ないんだ。』といっている。70年代と今という時代感の相似性も面白く感じるけれど。
(セクシーからセンシュアリティへという感じですか。)

A
母役でドミニク・サンダが出ていますね。で、サンダが『暗殺の森』で教授の家を訪ねた主人公を迎えに出る所、玄関ホールの奥から太いパンタロンとくわえ煙草で腰のポケットに手を入れて男っぽく歩いてくるシーン、あの感じはディートリッヒのイメージもかぶっているジェンダーの超越、あるいは超越することによって逆に強調される性といったテーマを思い出させます。あるいはそのサンダがスモーキングをさらっと纏って、やはり煙草だったか葉巻だったかをくゆらせているパルコのコマーシャル(78)、あれも強烈に印象に残っている。と、今回、彼女が出てきた所でサンローランのスモーキングと勝手に結ばれおおっと思いました。あまり関係ないかもしれませんが、時代的にはなんか列なっていますね。
性の超越という部分ではボネロの“Tiresia”(03)という一作もすごく面白い。ブラジルから来たトランスセクシャルの娼婦をめぐって禁断の愛と奇蹟の物語がひもとかれる。もとはギリシャ神話で女性に変えられてしまうテイレシアースの物語だそうです。アーシア・アルジェントがドールっぽいモデルとそれを撮る男の子っぽい写真家を一人2役で演じる“Cindy,the doll is mine”というのもある。ちょっと今までチェックしていなかったのですが、気になる監督になりました。

A
前回の『EDEN/エデン』の前段階的なクラブ・カルチャーへの言及も見逃せませんね?
またウォーホルとの関係を通じたニューヨークとパリ、さらにはロンドン、ボヘミアンとのつながりのロシア、 またモロッコ、北アフリカが視界に入っていて――でだからこの映画はディオールではなくココ・シャネルとサンローランをつなげてるのかなとも思いましたが――。 時代とともに都市、地域性というのもファッションのアイデア源としてありますが?

T
先にも触れたけれど、セルクルルージュのシネマディスカッションで取り上げてきたさまざまな映画の共通する要素、たとえばジャームッシュの北アフリカだったり『EDEN/エデン』のパリーニューヨークだったり、ドラッグ体験だったり、ジミヘンのブレイク前の70年代だったり。時代の中でぐるぐる回ってるコアな部分がクリエーションの源泉、インスピレーションソースとして共有されていて、それが時代時代の新しい感性とぶつかって進化しつつ登場する感じがします。

M
選曲はこだわったみたいですね。パティ・オースチンとか、そういうのが良かったのかと思いました。
パラスやヴァン・ドゥーシュといった自分が初めて行ったパリで体験したクラブの名前が出てきて、個人的には嬉しかったです。
サンローラン自身も晩年はモロッコのマラケシュで過ごしたと言いますし、本人もアルジェリア系で、デザインにも一部反映されているかもしれませんが、エキゾチズムをすごく感じました。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
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A
クラブ文化に欠かせない”寵児”たち、ミューズやダンディズムの申し子たちの面白さはいかがですか? キャスティングとも通じますがどうでしょう?

T
パラス、バンドゥーシュ前のキャステルとかの感じかな。
ミューズのルルとかボーイフレンドのジャックとか結構ステレオタイプな感じがしてしまったけれど。
晩年のサンローランを演じたヘルムート・バーガーには私生活も重ねていろんな思いがありました。

N
ルイ・ガレル演じるジャック・ド・バシャールはいやらしかったですね(笑)。カール・ラガーフェルドも同時期にジャックと恋愛関係だったそうなので彼の登場を期待しましたが残念ながら出てきませんでしたね。
あと、晩年のサンローラン役をヘルムート・バーガーが演じていたのは驚きでした。重厚な雰囲気もありゲイつながりで洒落たキャスティングだと思いました。

M
レア・セドゥとルイ・ガレルは良かったです。ルイ・ガレルは『ジェラシー』と全く違うキャラクターですが、ダリみたいな風貌で面白かったです。
レア・セドゥは、同じお正月映画の『007 スペクター』にもボンドガールとして出演していますが、今最も旬な女優という印象があります。
後はやはりヘルムート・バーガーと、ドミニク・サンダですね。
『地獄に堕ちた勇者ども』の映像も出てきましたし、この二人の起用が、映画全体にデカダンな色彩を加えたと思います。

A
ところで映画そのものの衣裳については?

M
スモーキンジャケットを改めて認識しました。
ヌードとコートのコラボレーションになるヘルムート・ニュートンの撮影シーンも美しかったです。
レア・セドゥのヒッピー的な古着コーディネートからインスピレーションも面白かったです。

T
とても質感があって、こだわって作った感じが伝わりました。

N
65年のモンドリアン・ルックはオフィシャル版の独占使用だったのか、この映画で服は出てきませんでしたね。でも映画後半で、自宅で手中にしたモンドリアンの絵画を前に立つシーンはとても印象的でした。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
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A
オフィシャルやドキュメンタリーでも白衣のサンローランとお針子たちの手仕事の位置の大きさが強調されていましたが、いっぽうではストリートとも繋がりたい創造上のジレンマといった部分、継承と破壊ということ、またアメリカ(そして日本)のロゴ商売、資本の統合といった現在のファッションへの繋がりといった部分に関してはいかがですか? 今、作り手の面白さで惹かれる、着るってことはありますか?

T
これもVogueで読んだミケーレの話で恐縮ですが(笑)、‘16FWコレクションでイタリア人哲学者ジョルジュ・アガンベンの『真にコンテンポラリーな人物、自身の生きる時代に属する人物は、時代に完全に同化することも、時代の要請に順応することもできない。この意味では、コンテンポラリーな人物は非現実的であると言える』という言葉を引用したそうです。No Longer, Not Yetの感覚のズレがコンテンポラリーの最たるものであるアーティストとビッグビジネスとのせめぎ合いになることもあると思います。

M
サンローランブランドのライセンスビジネスが、理想的な形だったのかどうかは、よくわかりませんが、ブランドビジネスとして、一つの定型を作ったのではないかと思います。
ただ名古屋君の話にもありましたが、日本においては、ピエール・カルダンと並んで、大量生産型のライセンス商品が溢れ、この映画に出てくるようなサンローランのスタイルを貫いたとは思えません。
映画を見て、70~80年代のサンローランの本当のブランド力が、日本には伝わっていなかったように感じました。
またオートクチュールに代表されるメゾンの仕事ぶりは、この種の映画には欠かせないエッセンスですが、特にそこに注力をして描いているとは、この映画では感じませんでした。
もっとサンローランの内面に入り込み描写をする事に注力し、メゾンの仕事の素晴らしさとか、そういうテーマではなかったですね。
ドキュメンタリーですが『ディオールと私』では、お針子の仕事ぶりが、見事に描かれていた記憶があります。
サンローランの仕事で実際に体験した権威主義とか、植民地外交みたいな部分は、彼らのブランド主義を象徴してるのかもしれません。
自分の経験でいうと、ラルフ・ローレンの姿勢とは、全く違うものでした。アメリカとフランスの違いが顕著なのかもしれませんが。
同じライセンサーとしての傲慢さでも、質が全く違います。

A
セルクルルージュで紹介してきた仕立て服への興味は、作り手に面白さが失われたことと関連しているのでしょうか?

M
STILE LATINOみたいなビスポークとも、相通じる部分はありますよね。
サンローランの場合には、当時は顧客の想像を遥かに超える次元にあったと想像しますが。いわゆるモードとファッションの違いというか、今の時代、ファッションはたくさんあるけど、モードは少ないみたいな気がします。
感覚的な話ですが、既製服でも、モードと言える服が少なくなってきたんじゃないかなと思います。
そういう意味で、メンズのビスポークの流行は、既製服では満足出来ない人たちが、自らがデザインする感覚になっているのではないでしょうか。
学生時代によく着ていたMILK BOYの服は、当時サンローランのパターンを使っていたとスタッフに聞きました。実際フランスから来たデザイナーみたいな人に会ったこともありますが、テーラード的な服のエッジの利き加減は、今思うと実に70年代のサンローラン的で、素敵でした。そういう服から受ける緊張感や、興奮というものが、自分の年齢や感覚もあるかもしれませんが、薄まっていると感じます。この映画の中に登場する服には、緊張感や興奮が溢れていますね。

N
この映画の60年代後半から70年代中期くらいまでのアーティスト至上主義でなく、マーケティング重視の売り上げ主義にシフトしてから人々のブランドに対する興味が徐々に薄れているのではと思っています。経営側がクリエイターの感性を信頼出来ず、また残念ながらクリエイター自身の多くもそのプレッシャーに打ち勝つ心臓と才能を持ち合わせていないので、ハッとするような挑発的な提案が少なくなっているのも要因かと思います。最近ではディオールのラフ・シモンズなどハイ・ブランドのクリエイター交代劇が早すぎるという批判も耳にします。
サンローランも本人の現役引退とともに2002年オートクチュール部門を閉鎖、一人の顧客のために一から仕立て上げるドレスは今はもう存在しません。ハイ・ブランドが選んだ、より広く需要に応える方向に抵抗するように、女性に比べるとシェイプのバリエーションが少なくて済む男性のおしゃれ上級者が、丁寧な手仕事で「自分だけの理想の仕立て服」に行き着くのは当然の結果なのかもしれません。

T
作り手への興味は人間として何を考えているかということで、自分の着るものとは私の場合つながらなくなっています。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
© 2014 MANDARIN CINEMA – EUROPACORP – ORANGE STUDIO – ARTE FRANCE CINEMA – SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL

A
映画にしてみたいクリエイターは?

M
日本人ですが、佐伯祐三。
巴里に生き、巴里に死すみたいな人生で。この作品もですが、やはりパリを舞台にするのは華があります。

A
ガス・ヴァン・サント版サンローラン および彼によるジャック・ド・バシャール

T
ホルストンでNYというのはどうでしょう?

N
少々王道過ぎますがカール・ラガーフェルドはプライベートも謎だし面白そう。前述のジャック・ド・バシャールとの蜜月や、ディオール・オム時代のエディ・スリマンのスーツが着たくて13ヶ月で42Kgダイエットした話は有名です。あとヴィヴィアン&マルコム夫婦とかも『シド&ナンシー』みたいに撮ったら笑えそう。

『サンローラン』
TOHO シネマズシャンテほか 全国ロードショー公開中です。
『スターウォーズ/フォースの覚醒』『007スペクター』と大作シリーズ作品が並ぶ今年のお正月映画の中で、知的刺激を受けたい方には、絶好の作品です。