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Cinema Discussion-23/ソウル発カンヌ行きホン・サンス便

「それから」© 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
半年空いてしまい、2018年2回目の作品になる第23回は、初の韓国映画です。
6月より連続公開されているホン・サンス監督の4本『クレアのカメラ』『それから』『正しい日 間違えた日』『夜の浜辺でひとり』です。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。
今回は川口敦子以外はホン・サンス初体験とあって、初心者の座談会になりましたが、それぞれホン・サンス作品には強く魅力を感じたようで、熱い座談会となりました。

「正しい日 間違えた日」© 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

★6月初めから『それから』『夜の浜辺でひとり』『正しい日 間違えた日』と上映されてきたホン・サンス監督の近作、その最後を飾るのが『クレアのカメラ』ですが、4本を見比べてみてどんな感想をもちましたか?

名古屋靖(以下N):興味深い才能の持ち主が出てきたなと。アート系ですが楽しんで最後まで観られる難しくなさが、ちょうどいい作風。ほぼワンカットで延々と続く男女の会話も、難しいフランス映画よりも魅力的な要素でした。

川野正雄(以下M):今まで見逃してきたホン・サンス作品を集中して見れたので、根底のテーマや特徴がよく理解出来ました。また再発見というか、元々の認識でもありますが、日本よりも韓国の方が、グローバルな作品を生みやすいという事を、改めて感じました。ちょっとクールな眼差しは、とても気に入りました。

川口哲生(以下T):一本一本すごく面白く見ましたが、今回4本を続けてみて、繰り返される男と女のテーマやすべてに登場するミューズ、キム・ミニ等々、何回も描いては消し、また描き続ける画家の習作のような感じでクラクラしました。笑

川口敦子(以下A): ホン・サンス監督に出会ったのは2004年の『女は男の未来だ』の時で、その時点で遡りデビュー作から追って見たのですが、最初の『豚が井戸に落ちた日』にあるドラマドラマした要素が、払拭されていくのが面白かったですね。で、04年作の時点では反復とずれという形式的な面のこれみよがしではないけれど見逃せない実験性のようなものと酔っ払いのお喋りと男と女のお、あるあるな風景という原型ができてくる。ただこの頃は唐突なセックス場面も省かず描き出し、妙に人間臭い生々しさも映画の一部となっていましたね。
それと比べると今回の最近作4本はさらなる洗練を感じさせる。時系列でいうと15年の『正しい日 間違えた日』の折り返し点で二度同様の設定を反復し、ずれの面白さが浮かぶってあたりは以前からの撮り方がまだ濃厚ですね。その代わらなさの部分がこの一作に至るちょっと前のあたりで少しマンネリかなあと、一瞬、心が離れそうになったりもした。そこに救世主的に表れたのがキム・ミニともいえるのかな。
彼女を得たことで洗練がいっそう加速されているのと同時にシンプルで正直な自分との向き合い方をホン監督が確信をもって差し出すようになっているように感じました。以前にあった日記とか映画内映画とか脚本の習作といった物語の枠組みをとっぱらった率直さ。確かに『夜の浜辺でひとり』とか、黒い男をめぐる夢なのか、ヒロインの心象なのかといった仕掛けもあるし、ハンブルグからカンヌンへって折り返し構造の名残もありますが、『3人のアンヌ』につづいての女性の側の視点で進行される大きな物語のつかみとり方は新鮮でした。
カンヌでささっと撮れたから撮ったという中編『クレアのカメラ』のさらさらとした感触とそれでも浮上する感情の機微、そしてモノクロの端正な映像に掬い取られたかっこの悪い人の心の悲しさをすっきりと見せ切る『それから』の無駄のない語り口。どんどんよくなっているなあとうれしくなりますね。

★強いて順番をつけるとしたら4本のうち、いちばんのお気に入りはどの映画でしょう? その理由は?

M:どの作品もいいのですが、『正しい日 間違えた日』かな。キム・ミニとの初タッグ作品という事もあるのでしょうが、4本の中では一番濃い目の味付けに思いました。エンターティメントとしての完成度は、一番高いと感じました。
二つの寓話の迷走ももちろん面白いですが、上映後の閑散としたティーチイン。多分監督も似たような経験があったのだと思いますが、自分の中での冷や冷やしたティーチインの記憶ともオーバーラップして、実にリアルでした。
『それから』のちょっとオフビートで、ジャームッシュ的なモノクロ画面にも魅かれましたし、60年代前半のフランス映画の心象風景のような『夜の浜でひとり』のザラッとした感じも好きです。

N:『それから』です。ハーフトーンが綺麗なモノクロの映像で場面や人物も簡素化されて、全てが記号のようにシンプルでした。カットアップ的な観せ方も合わせてモダンな印象もありました。

T:とても難しいですね。4本のいろいろなシーンが混ざり合わさって大きな一本の映画を形作っているような気がします。『それから』の映画としての完成度、『クレア〜』のミステリアスな余韻、『夜の浜辺の〜』の果てしない寂寥感、そして一本の中に人生の不確かさを実験性もって描いた『正しい日〜』。強いて言えば『正しい〜』かな?

A:今もいったようにどんどん良くなっている感じでいずれも好きなんですが、波打ち際に横たわったヒロインの孤独の大きなつかみとり方がぐっと迫ってくる『夜の浜辺でひとり』が好きという意味ではいちばん好きかもしれない。

「正しい日 間違えた日」© 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

★いずれもホン監督と私生活でもパートナーとして韓国のメディアを騒がせたという女優キム・ミニなしでは成立しない映画となっていますが、彼女の魅力については?
また、彼女の演じた女性の魅力については?

T:女性としての普遍的な強さや、したたかさが儒教的長幼の枠をこえて表出される時の感じが魅力的でした。映画自体フランス映画みたいな魅力があるのだけど、そこにこの監督の独自性がありますね。

M:非常に魅力的で素晴らしいと思います。美人だけど、割とその辺にもいそうな女性。でもとてもスタイルがいい。昔のananに出てきそうな美人。
時に感情的になるシーンの演技が特に素晴らしいです。
『正しい日|間違えた日』は、ホン・サンス監督作品初とあって、飲み屋での長回しや友人宅での飲み会、必殺の演技で監督の演出に応えていたと思います。
細かい表情による感情表現が特に素晴らしいと思いました。

A:彼女の代表作の一本、『オールド・ボーイ』や『乾き』のパク・チャヌク監督が撮った『お嬢さん』を見てみたのですが、パク監督ならではのおどろおどろしい世界の中で懸命に、というか演出されるままに裸も辞さない熱演を見せている、いるにはいるけど熱の度合いがまわりと、敢えて決めつければ韓国映画的な熱さとなんとも食い違っている。その浮遊感がホン・サンスの世界にはぴたりとはまるんですね。
昔の今井美樹とか小林麻美とか、キム自身意識しているかもしれない若き日のジェーン・バーキンとかモデル出身女優独特の細長くて、風になびいているみたいな肢体のよさももちろん大きな魅力ですが、頬づえのつき方とか、カップの抱え方とかおぼつかなさ、さりげなさをしっくりと身につけていて、これは演技なのかと思わせる。”自然さ”をものすごいエネルギーで形にすることを要求される現場と『自由が丘で』で取材した時、加瀬亮さんは述懐されていましたが、そういうプロセスがあたかもないようにスクリーン上にいられる、その浮遊感が素敵だなと、素直に巻き込まれます。
そういう人が川野さんも仰っているようにくいっと感情の高まりを放り出すその潔さも面白いですね。決して単なるニュアンス演技の人でない所がいいと思います。

それは彼女が演じる女性像にも通じていて、ふわふわと自分探しをしているような昨今のありがちな若い女性像と近そうで近くない、明解で明確な覚悟をもって毎日を生き、探すことを放棄していない。4作それぞれでさらりと哲学的な台詞を口にしますが、それが監督自身の信念でもあり、彼がキム・ミニの生き方に見ているものでもあるのでしょうね。

なんだか女性誌的な言い方になっていやですが女優である以前にひとりの女性、人間としていい在り方をしていそう。それが映画をクリアに活気づけている気がします。

N:現在のホン監督作品で彼女は必要不可欠な要素ですね。 監督の作品に好感が持てない観客は多くはないと思いますが、同じような主題やストーリーに混乱したり退屈することも無きにしも非ず。「でも、彼女が出ているなら観てみようかな?」と思わせる魅力を持った女優だと思います。

★いっぽうホン監督が描く(ダメ)男の面白さは? 対する女たちについては?

N:(ダメ)男たちの表現もそうですが、その他の女性も含めて登場人物はみんなシンプル。簡素化されていてとても分かりやすい。逃避、下心、虚勢など、男独特?の「くだらなさ」もよく表現されています。まるでホン監督自身のことのように。

A:正直ですね。
女の人たちは『正しい日 間違えた日』のお母さん、演じる常連ユン・ヨジョン共々、大阪のおばちゃんみたいなリアルさがおかしい。先輩たちや『クレアのカメラ』の女社長もいかにも感がほんわりと出ていて、そういう所が映画の錘として効いているんだと思う。

M:男性には監督が自分を投影しているのか、何ともいえない哀しさがありますね。ちょっとお気楽なのが、いいスパイスになっています。
長回しの中、飲み屋で徐々に酔っていくのをワンテイクで撮っているのも、リアルで面白かったです。
常に男性はそれなりの名声を得たクリエイティブな人ですが、実に何とも人間的で、いきなり酒に飲まれてしまうのが、おかしいです。
女性は『それから』の愛人キム・セビョク、『クレアのカメラ』の社長チャン・ミヒもいい味出していたと思います。

「夜の浜辺でひとり」© 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

★『クレアのカメラ』では『3人のアンヌ』に続いてイザベル・ユペールがホン監督と組み、映画に対する不思議なアウトサイダー的役割を快演していますが、このキャラクター、彼女のカメラ(とる写真)をどう見ましたか?

N:カメラのくだりなどこの映画にファンタジックで不思議な魅力を纏わせながら、彼女のちょっとしたその仕草は、まるでフランス映画の1シーンを観るような雰囲気ももたらしてくれています。

T:このキャラクターはとてもミステリアス。写真を撮った人は前と違う人間になる?!
『正しい〜』ほど明確でないけれど、一瞬一瞬の選択で人は今という時点にたどりついている。写真を撮るということは、日常無意識に生きている一瞬を恣意的に意識すること。

A:トリックスター的な存在。恋人に死なれたばかりとか詩の朗読とか、実力派女優ユペールが色付けをしているので実在する人感もあるけれど、いっぽうでトレンチコートに帽子でピンクパンサーのピーター・セラーズ/クルーゾー警部みたいにも見える。その非現実的、映画的なキャラクターは『夜の浜辺でひとり』の黒い男ともどもホン監督が探り始めた新たな部分なのかなと興味深いです。あまりそっちの方向に行き過ぎないでほしいけど笑
写真に関しては哲生さんのいう通りだと思います。
あとゆっくり見ないと見えてこないという所は影響関係はないと思いますが『スモーク』のハーヴェイ・カイテルの毎日定点観測的にとっている写真のこともちょっと思い出しました。変わりなく見える毎日を生き続ける勇気というのは坦々と連なっているような一瞬をカメラで切り取る、その瞬間を意識することはもうそれまでと同じでないということと通じて、それはまた変わりなく見えるホン・サンス映画のこととも響きあうのでしょうね。

M:最初は、余計なお世話というか、急に干渉してくる映画的なキャラクターに思えました。何かを求めてカンヌ映画祭の最中町には色々な人が集まります。その中の一人という設定で、彼女の干渉癖はある時は迷惑でしょうが、実はとても重要な影響力を持つ役割でした。フワーっとしてるからわかり難いのですが、そこも魅力の一つですね。

★ユペールの他にも『へウォンの恋愛日記』のジェーン・バーキン、『自由が丘で』の加瀬亮と、ホン監督作に出演したいと願う俳優がいて、また国際映画祭でももてもてのホン作品ですが、韓国の外でのこの評価の高さはどこから来ると思いますか?

N:先にも述べましたが、アート系ですが楽しんで最後まで観られる難しくなさが、ちょうどいいからじゃないかなと。興行的にも成功する可能性はあるかもしれません。

M:最初にも少し言いましたが、かねてよりグローバルな領域での韓国の監督の強さを実感していました。ホン・サンスは自然に海外の空気を使うのがうまいですね。作品全体を見て感じましたが、そもそも作品制作時に、韓国内だけを対象にして予算設計するのではなく世界レベルの視点で目論んでバジェットを組んでいるかと思います。
評価の高さは、政界中の誰でもわかりやすい、やや普遍的な作品を常に供給するからでしょうね。
それから当たり前ですが、演出力の素晴らしさです。
脚本が無いという話ですが、多分プロットはしっかり組んでいるのではないかと思います。
毎回お馴染みの飲み屋の長回しですが、あの台詞は全て本があるのか。或いは主旨を伝えて、俳優が考えて、台詞を発しているのか。とても気になりました。

A:ハリウッドが韓国映画に注目してリメイクもされる流れがありましたが、きちんとそのあたりフォローしていないので心苦しいのですが、どぎついくらいにドラマチックだったりジャンル映画だったりする、そういう流れと違う所にありますよね。アメリカでもニューヨーク映画祭でまず支持されるような。結局、監督が何を見て来たかってこととやはり無縁ではないでしょうね。
以前、特集上映が組まれた時、ブレッソン『田舎司祭の日記』、ドライヤー『奇跡』、シュトロハイム『グリード』にヴィゴ『アタラント号』、そしてロメールの『緑の光線』と、バリバリ、シネフィルなお気に入り映画のリストがチラシに載っていましたが、そんな監督のロメールをめぐる言葉――「彼は、ただその時、自分の隣にいる俳優たちの表情や仕草、自分が暮らしている空間、自分の周りの空気や天気、それから、人々が取り交わす小さな感情などを映画に盛り込んだ人です。ロメールの映画を見ていると、僕もその空間で一緒に呼吸しているような感じがします」がそのままホン・サンス映画も射抜いてしまっていませんか?

ホン・サンス監督

★カンヌ国際映画祭ディレクターのティエリー・フレモーは「韓国のウディ・アレン」と評したそうですが、この意見に賛成?

A: 人生のハッピーエンドと悲劇が選択ひとつで転がっていくと示す『メリンダとメリンダ』みたいな映画がアレンにもあるのでちょっと比べたくなるのは判ります笑 あと、すごいペースで新作を放つところとか、タイトルバックがいつも変わらないとか――でもそれだけのことですよね。つい比べてしまうのが映画評論家の悪い癖で反省しないと『正しい日 間違った日』の上映会の司会者みたいに監督におもいっきり毒づかれてしまいそうですね・・・。

T:無類の女性好きを、インテリジェンスと自虐性の鎧で包んだウディ・アレン。
ホン・サンスは映画監督や文芸評論家と言ったインテリジェンスと言った武器と老いと言った弱みをセットで語りつつ、もっと自分の弱みに真っ向から向き合っている感じがするけれど。

M:僕はウッディ・アレンとは、ちょっとイメージ違いますね。初期ゴダールには、女心を描くオフビートな感覚の作品もあるので、少し似ている部分があるとは思います。ウッディ・アレン的ではなく、ホン・サンス的でよいのではないでしょうか。
唯一無二の存在感があると思います。

「それから」© 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

★ホン・サンスは同じひとつの映画を撮り続けている――との評価もあり、監督自身も登場人物にしろその職業にしろ筋にしても新しさを求めるのは自分の性格に合わない、既に自分のよく知ってるものをとりあげ、そこにふと新しさを見出すことが自分の気質に合っていると述懐しています。繰り返しのように見える映画、そのスタイルに関してどうですか?

M:これはもう監督の特質の領域で、4本見て、すっかりその術中にはまっているので、良いのではないかと思います。。これはこれでスタイルとして成立していますし、作品的にも成功しているので(配収は知りませんが)、この範囲の中で進化していってくれればよいのではないでしょうか。実際今回の4本の中でも進化していると思います。

A: 男(ほとんどがあんまり売れていない映画監督だったりする)がいて女たちがいて、おいしい食事と酒とおしゃべり――と、相変わらずな展開、大事件も大仰なメッセージもないままに淡々と活写される人の営みのリアリティ、そんな実感の隙間に奇妙な反復とズレを置いて、突き放して見た現実を支配する素敵におかしな様式性を思い起こさせるような同じひとつの映画を撮り続けている、それは確かかもしれない。そこで実験の心を、研ぎ澄ませて、でも過剰な深刻さや生真面目さ、鈍重さへの道をすっぱりと退けて、軽やかさ、あるいはたらたらな脱力感とみまがうばかりの飄々、要は洗練と成熟を手繰り寄せている。
その独自のスタイルを今回の4本では生きることをめぐる清潔な覚悟がいっそう堅固に裏打ちしていて映画を強くしていると思います。

もうしばらく前になりますが監督の初期作品を集めた仏製DVD所収のインタビューでホン自身がセザンヌの風景画、その具象性と様式性の並立を自作のめざす所と述懐しているのを見て成程と思いましたが、自然を写し取っている風景画が離れてみると形式こそを浮上させる、自然の模写と不自然な様式の拮抗が生む力を、同じひとつの映画を撮る中で美しく研ぎ澄ませてきていますよね。

T:川野君や名古屋君の幅の広さとは違って、私が選曲するときにホン監督のような抜けられないテーマやコンセプトや「黄金の選曲(MIX)」が存在します。繰り返し繰り返し習作を続けているような感じですね。すごく自分の中での完成度が高まっているのだけれど、途中の一曲を違う選択をすることで、また違う展開に発展する発見もあります。ホン監督の4本を続けて見た時に重ね合わせたのは、自分のそんな体験です。
服や着こなしも私の場合、ホン監督的ですかね。笑

「夜の浜辺でひとり」© 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

★シンプルだけれど率直で含蓄のある台詞、その向こうに浮かぶ人について、その生き方についてホン映画が語ること、あるいはそこに浮かぶホン自身に関してどのようなことを感じますか?

M:監督の韓国でのスキャンダルやその影響について、全く知識がないので、ノーコメントです。また監督の言葉も、資料から深くは理解できていないです。

T:どんなにダメダメでも、どんなに女々しくても、昨日の連続である今日を生きるということ。したたか飲んだ翌日に頭痛とともに感じる感覚に近いです。

A:「欠点だらけのダメな男女のグダグダ話」とも映るホン監督作だけれど「そういうところが本質ではない気がする」と『自由が丘で』プレス所収のインタビューで看破している加瀬さんの言葉をもう一度、引かせてもらいますね。
「主人公たちの多くは、メインストリームの世間的な価値観にうまくなじめず、どこかいつも孤独や違和感(不安)を感じている人のように」感じられる。「たくさんの嘘に傷ついたり戸惑ったり疲弊したりしてきた人たち」かもしれない。「ある時期に、ホン監督は世の中に嫌気がさし、またそんな中で塞いだり苛立ったりしている自分自身にもほんとうに嫌気がさし、本気で、考え、めざしはじめた」のかもしれない。「快く生きるということを」。あるいは信ずるに足る「等身大」のことを「映画を通し客観的に探究」し始めた。「自分の弱さ、愚かさ、世界からどこか置いていかれたような寂しさ、欲、嫌な部分」をも「受けとめ、正直に描き始めた」「自分をまるごと知ることから始めた気がするのです」――4作にある台詞はそのことを深く思わせますよね。

★おかしさと寂しさ、悲しさのバランスについては?

A: ものすごくおかしい。でも寂しく悲しい。月並みですがどれが欠けても世界が成立しない感じですね。ただ悲しさや寂しさがどんどん明度をあげてきているようにも感じます。
洗練というのはそのあたりのことかもしれないですね。

T:私は寂しさを寒さと一緒に一番感じたかな。

M:ここが絶妙にうまいのではないでしょうか。長回しの効果か、男性がどんどん惨めになっていったり、怒りが沸いてきたりしています。脚本が無い中、男女バランス含めて、どのような構成にするのか、監督の中では常に全てイメージされているのだと思います。

N:過激や下品の一歩手前で寸止めしてる感が絶妙です。

★グラマラスなスターやパパラッチのいない海辺のひなびた町としてのカンヌ――といったホン監督の場所の切り取り方については?

N:チャンスがあるならとりあえず撮っちゃう? その時々のインスピレーション? インタビューによれば、監督が映画を作り始めるのに必要なのは「脚本なしで、撮る場所と数人の俳優だけ。」とのこと。別にそれがベネチアでもベルリンでもよかったのかな?とも思ってしまいます。

A:カンヌは駅に近い、坂の上のムールのお店とかがあるあたりの小路の感じが映画祭の裏側としてありますね。あと、人に譲らない車とか寝そべっている灰色の大きな犬とか。そういうディテールの選び取り方も侮れない。場所ではありませんが雪もしばしば映画の感情の要として忘れ難いです。

M:自分はカンヌやベルリン映画祭に、セラー/バイヤーとして行った経験があるので、カンヌの部分は、とてつもなくリアリティがありました。打ち合わせをするカフェ、ラストのパッキングなど、一度経験した人には、にんまりとする場面が満載でした。

『クレアのカメラ</a>』『それから』『正しい日 間違えた日』『夜の浜辺でひとり』の4本は、ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー中。
この機会に、是非ホン・サンス監督作品を集中的にご覧になってみては、如何でしょうか。

CINEMA DISCUSSION-22/デヴィッド・リンチが語るセルフポートレート

David-Lynch-Portrait-Sitting©Duck Diver Films & Kong Gulerod Film 2016

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
2018年最初の作品になる第22回は、デヴィッド・リンチ監督を描いた待望のドキュメンタリー『デヴィッド・リンチ:アートライフ』です。
リンチに関しては、デュラン&デュランのドキュメンタリーを、セルクルルージュでは過去に紹介しています。
『デヴィッド・リンチ:アートライフ』は、これまでヴェールに包まれていたリンチの創作のバックボーンを、リンチ自身が明らかにしていくセルフポートレートのようなドキュメンタリーです。監督はジョン・グエン、オリヴィア・ネールガード=ホルム、
リック・バーンズの3名がクレジットされています。
公開を記念して、渋谷ヒカリエのアートギャラリーでは、デヴィッド・リンチ版画展を、2月12日(月祝)まで開催。
公開前日1月26日(金)までとなりますが、立川シネマシティでは、リンチ旧作の極音上映で、旧作を特集上映するなど、リンチのアーカイブに触れる機会も、次々に生まれています。

メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★ これまで自作、そして自分についてあまり多くを語ってこなかった印象のあるリンチが『デヴィッド・リンチ:アートライフ』で自身の人生について語ること、人生を振り返るきっかけになったのが2012年(リンチ66歳の時)の末娘ルーラの誕生だったとプロダクション・ノートにありますが、意外なようでいかにもでもあるような、この動機についてまずはどのように?
リンチならではの愛情表現なんでしょうか。

川野正雄(以下M):かなり前ですが、映画にも出てくる長女のジェニファー・リンチが初監督作品『ボクシング・ヘレナ』を撮った際、サンダンスでその上映を見ましたが、リンチが全面的にバックアップしていたと思います。その時はその場にリンチがいたわけではないのですが、そのような印象が残っています。作品が今ひとつだっただけに、尚更リンチも人の親とその時に感じました。70歳を過ぎたリンチは、小さな娘の為にも、自分のバックグラウンドの作品化をしたくなったのではないかと思います。

名古屋靖(以下N):昔に比べるとさまざまな寛容性が希薄になり、観る者を選ぶアーティスティックな映画の時代は終焉に。興行的に自分の作風が難しくなった現在、66歳になり監督引退も頭を過ぎりだした頃かと。それまで自身について多くは語らずミステリアスに装うことを好んでいるように見えましたが、孫ほどの歳の差の末娘が産まれたのを機会に、自分の家族やファン達に向けて、間違っていない記録を残しておきたくなったのかもしれませんね。

川口哲生(以下T):自分の父親に、ある種の精神的な問題、偏執さを恐れられ『子供を持つべきでない』と言われたリンチが、初めの子供を授かりアメリカン・フィルム・インスティテュートの助成金を受け映画に向かう時期を迎えたり、66歳にして末娘ローラの誕生というタイミングで、自作を語り、自分の生い立ちを記録するかのようなこの映画を受けたということは面白いと思います。映画の中に語られる自分の人生の分断された構成要素の中での家族との人生にリンチが重みをおいているのがちょっと意外な気がしました。

川口敦子(以下A):川野さんも仰っている『ボクシング・ヘレナ』を撮った最初の娘ジェニファー・リンチには私も取材しましたが、自分が生まれたということ、デイヴィッド(と彼女は”父”がとはいわずに名前で呼んでましたが)にとって父になることの恐怖が『イレイザーヘッド』を生んだんだといっていたのがなるほどと面白かったですね。まさにそういう映画だったと思いますが、同時に赤ん坊側にはこの人たちは親になれないんだ、自分の面倒は自分でみないとサバイヴできないんだといった感覚があったともいっていた。そういういかにも”リンチ界”的と思える証言のいっぽうで、『アートライフ』に登場するホームムーヴィー、あの母と娘のお風呂の時間を撮ったのは多分、新米パパのデイヴィッドなんですよね。意外に普通に家族の時間を愉しんでいるのがあの映像からは伝わってくる。というような“いかにもノーマル”も、“いかにもリンチ(=ストレンジ)´´もある中で、新たな娘をきっかけに自分を語るというスタンスも素直にうけとるべきか、リンチという世界を完璧にしようとしている演出のひとつとうけとるべきなのか、どっちもありなのかと、観客としていつもながらの迷走が始まる、そんな感じです。

David_Daughter_PaintingTogether ©Duck Diver Films & Kong Gulerod Film 2016

★ 『インランド・エンパイア』の撮影を追ったドキュメンタリー『リンチ1』を撮った監督ジョン・グエンと被写体リンチの関係をどうみましたか? 撮りたいものを撮らせているようで、自身を語り、自身を表現する上で撮るべき所を撮るようにグエンを”操作”してもいるような、リンチのコントロール術のようなものを感じませんか? 隠しマイクで拾われたという呟きのようなコメント、その素の感触と奇妙なマイクに向かって語る部分にある演出のようなもの、そこに感じられるある種の齟齬をどう見ましたか?

T:タバコを吸いながら髪をかきあげカメラに正対する映像の中に、一瞬演じているリンチをかいま見たような所もありましたし。撮られるものや構図にリンチ的なものを感じるところもありました。
引用されるリンチの昔の映像の中での、カメラを完全に意識した『とられている自分』とは別の映像作家としての自画像的なというのかな。

N:リンチが前向きなのは映画を見ていると分かりますね、カッコよく撮れてますし。 リンチが好きなシュールレアリズムの作家は作品とともに本人のキャラクターも大切な作品要素ですから。この映画でもそれは貫かれていて、リンチから暗黙の操作は行われていると思われます。 奇妙なマイクに向かって語るシーンは最初と最後だけですよね。(他にありましたっけ?) 最初のタバコに火をつけながら独白するセリフは、まさに自身の「アート・ライフ」とこの映画について端的に表現しています。 それに対して、最後のシーンは本人がマイクに向かってしっかりと声に出して語っています。その内容は、最近の映画制作現場に対する静かなる反発にも聞こえます。

A:最初の答えの続きにもなりますが、ものすごく自己プロデュース能力に長けた存在としてのリンチというのがいると思う。最初の「ツイン・ピークス」旋風の時、関係者に取材するうちにうっすらと感じたのも、これ結局すべてリンチが書いた台本通りのコメントでは――ってことでしたね。今、振り返るといっそうその感が強いんですが笑 “MidnightMovies”( Dacapo press)のあとがき代わりの対談で、著者で共に映画評論家のジョナサン・ローゼンバウムとJ.ホーバーマンは、すべてを引用符の中に囲い込むようなポストモダンの80年代を通過して90年代のとば口で差し出された「ツイン・ピークス」は、リンチが自らをリンチ的なものという引用符に取り込む試みだったと看破している。その延長上に今回のドキュメンタリーもまたあるといったらいいのかな。オープニングのタイトルバックというか、稚拙な幼児文字的なアルファベットが、確か「私がほんとに考えてることを知りたい?」みたいなメッセージになっていたと思いますが、そしてあのマイクに向かう姿がくるんですよね。最初と最後でマイクに向かう”俳優”リンチ、彼が語る姿にはさまれたこの映画全体が”物語”としてリンチのコントロール下に差し出されてるのかなあと思ったりもしたくなる。そうであっても、あるいはそうだからこそとても興味深かったといえそうな気がします。ちなみにハリー・ディーン・スタントンの遺作となった「Lucky」にリンチは主人公の親友役で登場し、相変わらず俳優としても実にいい味出しています。春に公開されるのでぜひ、こちらもチェックしていただきたいですね。

M:感覚としてですが、リンチ自身がセルフプロデュースして、ドキュメンタリー映画を作っているように思いました。そういう意味ではリンチ自身の意図が強くにじみ出てるのかなとも思います。
逆にいうと、純然たる第三者が、批判的な視点も含めて、対象者を解剖するようなドキュメンタリー映画ではありませんね。
ジャームッシュが撮ったイギー・ポップのドキュメンタリーと同じように、監督から対象者へのアンセムのような主旨も込められているのではないでしょうか。

★ 家族や友人、関係者あるいは評論家らのコメントをいっさい交えずリンチの語りと創作する彼の姿、創られるものだけに絞った構成についてはいかがでしょう?

M:前の回答に近くなるのですが、その辺の構成に関しては、リンチ本人の意向が強く反映されているのではないでしょうか。
ドキュメンタリー映画ですと、対象者の内面やプライベートの深い部分、仕事でもプラスマイナスを掘り下げて行く物が多いのですが、
これは作家リンチの誕生前夜というか、映像作家としての誕生までを、本人含めてきちんと形にして残していこうという意図と思っています。

T:話にでてくる登場人物で知っているのが、Jガイルスバンドのピーターウルフぐらいだから(笑)ごくパーソナルな人生を、自分の見方で振り返った、『リンチサイドから見た世界』だと思う。
それにしても親密な関係性が少なくない?むしろ要所要所で家族との話がでてくるのにびっくり。

A:両親、兄弟、そして自分の娘と、ここで描かれている家族との密な関係は実際、興味深いですね。その部分も、はたまた他者の視点や声を含めないこの映画の構成もセルフ・ポートレートとしては当然なのかもしれません。今回の一作で自画像を描くという意図や意志を改めてそういう構成が示してもいるような。

N:家族や関係者が語る大監督の功績を讃える映画ではなく、ロバート・ヘンライ著『アート・スピリット』に書かれたことを淡々と実践しながら人生を送っている一人の芸術家の独話です。ドキュメンタリー・スタイルではありますが、一方的にリンチが語るエピソードの中にはグロテスクで幻影的なお話もあります。実話なのか疑いたくもなりますが、それだけでリンチの映画を見ている気分になれたりもします。

TWO FRIENDS ©Duck Diver Films & Kong Gulerod Film 2016

★ 印象的なエピソード満載ですがとりわけどのあたりが面白かったですか?

A:泥んこ遊びの泥のぐちゃぐちゃと湿った感じの中でものすごく気持ちよかった――って子供の頃の原初的な記憶が映画の中で創作にあたるリンチ、粘土のようなものをこねる今のリンチの制作の図と照応して、ぐちゃぐちゃの気持ちよさが伝わってくる。最初に出てくるこのエピソードもそうですが、「過去」が今を色づけるのか、「今」が過去を色づけるのか、繰り返しになりますがそれがリンチの世界を解くひとつの鍵なんだと思います。
引っ越し前夜でしたっけ? 隣人のスミス氏が話をしかけていきなり口をつぐんだこととか、闇に浮かぶ口元血まみれの裸の女とか、子供時代の記憶は『ブルーベルベット』や『ツイン・ピークス』の世界に直結していて、すごすぎる。スモールタウンの平和の表皮をめくるとぽっかりと浮かんでくる怖いこととか。
いっぽうで美学生時代のフィラデルフィアの恐怖。いやな感じ。LAの陽射しのまぶしさ。どれもこれもリンチ自身の記憶がリンチ映画と重なって興味深く迫ってきますね。

N:『ロスト・ハイウェイ』のオープニング映像の話は面白かったです。 ボストンでリンチに初めてマリファナを吸わせたルームメイトで、後のJガイルズ・バンドのヴォーカルとなるピーター・ウルフは当時顔が広かったようです。彼らがルームメイトを解消した後ですが、ブルース好きのピーター・ウルフは、マディ・ウォーターズ達が公演でボストンに来るたび、長年彼らのために様々趣向品を調達し自宅アパートで一緒にハングアウトしていたエピソードがあるほどです。 世話好きだけどだらしないピーター・ウルフと夢想家で神経質そうなデビッド・リンチの同居は長続きするはずがありません。

M:月並みですが、Jガイルズバンドのピーター・ウルフに、ディランのLIVEを途中で帰って、怒られたというエピソードですね。当時のリンチには、60年代のディランの音楽が一つの枠にはまっているように感じて、耐えられなかったのでしょうか。

T:子供の頃の夕暮れの夢なのか真なのか判らない女性との遭遇のエピソード、彼の描く狂気を体現したようなフィラデルフィアのエピソード、そしてピーター・ウルフとのドラッグ体験。

★ リンチとリンチの父、母の関係については?

M:父親の遺伝子というか、クリエイティブな才能は引き継いでいるという事を、初めて知りました。また母親が意外と普通の母親が心配するような事を言っていたというのが、妙におかしかったです。娘に対する愛情もそうですが、リンチ自身はファミリーを大切にずっと想ってきた。そんなちょっと意外な一面に触れた感触もあります。

A:お父さんがけっこうしばしば息子を訪れるのが面白いですね。

T:全くの完全な、ゆがみや偏りのない父母像。それはそれで分断された人間関係の一つとしては評価している点が印象的ですね。
その真っ当さと彼の描く恐怖や異常さとの溝の深さ。
映画をあきらめて働けと父親に説得され泣くリンチ、、、
むしろリンチの中の根っこにある『真っ当さ』に意識が言った映画だったような。

N:「D.C.に引っ越した時期、父親が毎日カウボーイハットに森林局の制服で歩いて出勤する姿を恐ろしくダサいと感じていたが、今はSuper Coolだと思う。」というコメントですぐに連想したのは『TWIN PEAKS』に登場する保安官達でした。威厳を示しながらどこか間抜けな言動や行動がおかしい、それは彼が父親に抱いていた感情が表に現れた一例かもしれません。 また映画製作の準備中にその一片だけを見て、息子の精神状態を疑った父親の堅物さは、リンチと共有できる範囲は狭く、その遺伝子は感じながら距離感があったものと思われます。 それとは逆に、自分にだけ塗り絵を与えなかった母親には幼い頃から自分と同じ感覚があり、良き理解者であり、父親より近いこっちの存在だったのでしょう。

Young David Lynch family©Duck Diver Films & Kong Gulerod Film 2016

★ リンチの映画とリンクするようなエピソードに関しても、あえて場面をインサートしないでいますが、この点は?

N:始まりが映画監督ではなく、動く絵画を発案しそこから映像芸術に発展。映画監督は好きなことをしながらお金を稼ぐ手段の一つだったのかもしれません。芸術活動を継続するための過程でたまたま映画監督にたどり着いただけで、興行を気にする映画監督に今はそんなに興味がなくて、もっと自由に創作活動を楽しんでいるようです。 はたから見ると映画はリンチにとって最も大きな人生要素ですが、本人の芸術人生の中ではほんの一部分なのかもしれません。もしくは、そう言いたいのかも??笑

M:『イレイザーヘッド』までの人生の話なので、それは仕方ないと思います。直接リンクはしなくても、関連づけたくなるようなエッセンスはありましたね。
以前ベルリンで彼のインタビューに立ち会ったのですが、「自分の映画はクロスワードパズルみたいなものだ。皆さんは、一つひとつのパーツしか見えていないので、わからないと感じるかもしれないが、自分には完成形の全体像が見えている。全体が見えたら決して難しいものではないし、一つのパーツにも意味があるんだよ。」と話していたのが、印象的でした。
思いつきでインサートしているように見えるショットでも、全て計算されているようです。
その話と、今回描かれている絵画の創作活動は、何となくリンクしているように、見ていて感じました。

A:あまりに鮮烈に結びついてまうエピソードは脳内に残っているリンチ映画の残像で十分と、作り手も観客も納得できる選択だと思います。

T:これは安易な回答でなく、自分でたどり着く所にゆだねる感じで潔い。

★ リンチの絵や塑像、アート作品、その創造の過程も記録されていますがその世界と、現実の場所の掬い方は? ライフとアートの相関関係に関しては?

N:リンチがフランシス・ベーコンの信者であることは以前から承知していましたが、アトリエで謎の粘着物をキャンバスに伸ばして塗りたくるシーンはまさにベーコンの絵画にある筋肉を思い起こさせます。 ただベーコンのモダンな表現と比べるとリンチはプリミティブでグロテスクです。 そんなおかしな作家はいたってまともで見た目も悪くありません。末娘と一緒にアトリエでほのぼのと過ごすシーンには狂気の微塵も感じません。多くのアメリカのコンテンポラリー系芸術家は色々と不適合な問題は抱えていても、それなりに人畜無害で見た目普通の人が多いです。逆にもしベーコンの傍に幼い少年を置いて2人っきりにしたら・・・ああ怖い。

T:ひたすら絵を描き続けること、誰がなんといおうとアートライフを生きること。たどり着いて所としての現実の場所なんだろう。

A:この質問に対する答えになるのか、ただこれはこのドキュメンタリーに限らずホームムービーの残され方ってすごいですよね。写真もそうですが、記憶を所有すること。『ブレードランナー』のレプリカントじゃないですが人間がそうして作りだした”現実”の中のリンチを見る。美大の頃の服装とか、たばことコーヒーと創作と共にある今と同様に自分を”デザイン“することの中にあった過去を垣間見るのはスリリングでした。

M:彼にとっては、絵を書く行為と、監督するという行為に、そんなに違いがないのか、或は今映画を監督する機会が減ってしまい、書いているのか、その辺はどうなのかなと、率直に思いました。
結局『インランド・エンパイヤ』が2006年なので、『ツイン・ピークス The Return』はありますが、10年以上劇場用映画は撮っていないので、内心忸怩たるものはあると思います。
2007年リンチに会った時は、内容の話は聞いていませんが、次回作へ意欲十分の姿勢を見せていましたから。
ただ年齢的なこともあり、どんどん厳しくなってきますよね。
一人で絵を描く為に、色々やっているリンチは、何となく可愛らしかったです。

David_FilmStudent ©Duck Diver Films & Kong Gulerod Film 2016

★ 効果音、音楽の使い方に関しては?

M:あまり記憶に残ってないですのですが、近年リンチが出したソロワークは聞いています。打ち込みを多用した音作りで、彼の新しいサウンドに対するどん欲さというか、感性には、驚きを感じます。

A:小鳥のさえずりの置き方が映画の世界とのつながりを裏打ちするようで印象に残りました。

T:水滴のような効果音や、短いバンドの音楽は覚えているけれど、きわめて限定的。

★ スモールタウンとインダストリアルな都市、無垢と闇、恐怖、不安といった部分でアメリカの時代の変遷をも考えさせますが?

T:アメリカって、いつも書く様に、TVドラマの健全な善良な家族の住む裏庭の芝生にあまりにも深い闇や溝が隠されているような、そんなイメージがあります。

N:フィラデルフィアのエピソードは腑に落ちるものがありました。 フィラデルフィアの中心部はともかく、川沿いやスポーツ施設が集まるちょっと外れのエリアに行くと、いつも湿った古いレンガの壁や錆びた配管などのちょっと昔のインダストリアルな風景を見ることができ、治安は良くないですがそれなりにフォトジェニックです。 普通なら一昔前のアメリカのそんな寂れた風景が、リンチの独特なフィルターを通すと、彼の少し普通と違った経験が加味されて全く別の何かに変容してしまいます。それが冒頭の奇妙なマイクでの台詞「新しいアイデアに過去が色をつける」ということかと。。

M:自分は『ワイルド・アット・ハート』が好きなんですが、あの作品に流れる暴力的な部分とプレスリーという偶像化されたアメリカみたいなエレメンツは、リンチが描く一つのアメリカ史の象徴にも見えます。
全てをうまく作品に紐づける事は出来ないのですが、リンチの青年期の体験や環境というものが、作品形成に深い部分で影響している事は、この作品を見て感じます。

A:ちょっと外れますが、ピーター・ウルフって確か70年代のフェイ・ダナウェイの夫でもありましたよね。美大時代以来の友人で一緒にオスカー・ココシュカに弟子入りしようと渡欧したりもするのはテレンス・マリック、デパルマとも深く繋がっている美術監督ジャック・フィスク(妻はシシー・スペイセク)ですよね。そのあたりの人と人のつながり、同時代性を思うとこれもまた妙で面白いです。
で、リンチとその映画をめぐってアメリカ映画の変遷のことも合わせて考えてもまた興味深いんですね。50年代のアメリカを体現するような存在。その価値観が壊れた60年代に青春を迎え70年代ニューシネマのこわした垣根のすきまをつくように70年代末に注目される。そんな時代に浮上したミッドナイト・シネマの恩恵に浴して登場しながら、80年代大作主義に向かうスタジオの新たな才能にまだオープンだった束の間に間に合って『デューン砂の惑星』やメル・ブルックスが製作した『エレファント・マン』に抜擢されるタイミングのよさ。といった流れの中でディズニー/アメリカ/童心みたいな図式にあてはめられたスピルバーグのフリップサイド、B面的存在ともいえるのかしら。いっぽうで実験映画界出身者としてガス・ヴァン・サントとかトッド・ヘインズ等、90年代インディの、とりわけアート系の流れとも考えあわせてみたい。どんどん広がるテーマに満ちた存在なんですね。

★ この映画をみてリンチに対する理解や彼の映画への気持は変わりましたか?

M:自分が会った時の印象は、日本人に対してはわかりやすい英語でゆっくりと話してくれる優しいジェントルマンであり、そこに垣間見せるアーチスト性が同居するカリスマというものでした。ただ『ロスト・ハイウェイ』のワールド・プレミアの際に米国内で見たリンチは、アメリカのプレスに対しては非常にシビアで、説明もしないアロガントな姿勢でした。
その辺のリンチの二面性みたいな部分がミステリアスさを増幅していたのですが、この映画を見てリンチもアートでの成功を目指す売れない若者で、月並みに苦労していたのを見て、ちょっと安心しました。
また彼のちょっとグロテスクな古い怪奇映画みたいな要素も、元々内包していたエレメンツだった事も確認出来て、良かったです。
リンチ作品のもう一つのエレメンツであるロカビリーではない50’s趣味みたいな要素も、このドキュメンタリーの中から感じ取ることが出来ました。
引退宣言はしたみたいですが、改めてもう1本劇場用映画を監督して欲しいですね。

N:すごく純粋で真面目な人。 極めて狭い世界観で、エンターテイメントも良くわかってない、ただのシュールレアリズム好きの画家が、よくまあこれだけ沢山の記憶に残る映像作品を監督したなあ、と感心しました。あと見事に時代の波に乗ったなと。

T:私にとってリンチは1978年前後にLAに住んでいた時の、NUARTとかの映画館の深夜のカルト映画としての『イレーザーヘッド』につきる。あの逆光の埃舞う異常な髪型の男。それを撮ったリンチの人生を初めて垣間みたけれど、意外や意外って感じでした。

A:才能ということを脇に置いてみると家族との関係、時代との関係など青春映画をみるみたいでもあり、自分の通り過ぎてきた道とそう変わらないように見えたりもしますが、やはり違うんでしょうね。創ることが心底、好きなんだなあと痛感もしました。
またこう感じるのは作り手リンチの思う壺なのかもなどとうがった見方をしてしまうのが嫌なのですが、でもやはりもう一度、彼の映画をきちんと見たいなと思いました。

my thoughts are all mixed up ©Duck Diver Films & Kong Gulerod Film 2016

映画『デヴィッド・リンチ:アートライフ』
2018年1月27日(土)、新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか、全国順次公開。