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Cinema Discussion-21/黒沢清監督からの挑戦状『散歩する侵略者』

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第21回は、黒沢清監督の『散歩する侵略者』です。
第21回にして、初めての日本映画です。日本映画を扱う事は、前からやりたかったのですが、なかなかタイミング合う公開作品がなく、ようやく実現となりました。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★意識的に除外したわけではなかったけれど、これまでLCR CDで日本映画を取り上げる機会がありませんでした。現代の日本映画とはどんな関係をもっていますか?
それぞれの関係の中でこの『散歩する侵略者』に対してはどんな感想を持ちましたか?

川野正雄(以下M)個人的には、日本映画とは近い距離感があるので、なかなかフラットに語れる映画が無かったというのが、実際の所です。後はタイミングが合わなかったりとか。
黒沢清監督に関しては、昔サンダンスのジューンラボ(米ユタ州サンダンスで開催される脚本デベロップ合宿のようなシステム)に、『カリスマ』で参加された際にお会いしています。
その頃は2作目の『ドレミファ娘の血が騒ぐ』の印象しかなかったのですが、当時と比べると、ものすごくメジャーな存在になられたというのが実感です。

川口哲生(以下T):私は全く現代の日本映画についていってないし、コメントできる人間ではありませんね。
テーマとしてのある種の説教臭さを、エンターテイメントとして描くことに成功していたと思います。面白かったです。

名古屋靖(以下N):黒沢清監督の事は、今まではあまり一般向けでない映画を多く撮られているけど、日本映画界が期待するすごい才能をお持ちの方と聞いていたので、観る前から少しかまえてしまいましたが、観終わった感想は「普通に面白かった」です。

★その反応はどういう部分から引き出されましたか?

N:「思ってたより普通」だったので。
勝手にもっと変態、難解のイメージを持っていたので拍子抜けだったのもあります。
最初にWOWOWのロゴを目撃したせいでイメージがついてしまったのもあるのですが、『MOZU』シリーズなどと同じWOWOW独特のカラーが今回の映画にも感じられて、スタイリッシュなのですが、その迫力はTVと映画のちょうど中間くらいの緊張感でした。

M:『キュア』が当たり、すごく評価もされていましたが、まだまだインディペンデントな存在でしたが、その後どんどんスケールアップされ、『クリーピー 偽りの隣人』や、『散歩する侵略者』は、10億円以上を狙うメジャー作品になっていますから。
メジャー作品の中でも、しっかりと黒沢監督のカラーというものは反映されていたと思います。

T:暗喩としての「宇宙人の侵略」の扱い方。宇宙人とガイドの二組の関係性。大きなテーマを表現しつつ、これらがエンタテイメントとして映画を成立させていたと思います。

川口敦子以下(A):なんだかやな感じのコメントに響きそうで心配ですが、そういうつもりでいうのではなく、率直な感想として、「エンタテインメントとして成功」「メジャー」「普通に面白かった」というみなさんの反応がこの映画の目指す所をふまえて嚙みしめてみると、まずとても面白いと思いました。

★黒沢清監督は現代日本映画を牽引する作り手のひとりだと思いますが、これまで彼の映画に親しんできましたか? この一作に関して監督にどんな印象を持ちましたか?

M:元々の印象は、立教で蓮見重彦門下の論客的な映像作家というものでした。
最初に見た『ドレミファ娘の血が騒ぐ』は、あまり好きな作品ではありませんが、当時の師匠格であった伊丹十三さんが出演されたり、今や週刊文春の映画コラムをやっている洞口依子主演だったりと、見所はありました。
Vシネマ的な作品ですが『地獄の警備員』あたりから、今に通じる毒素みたいなエッセンスが強く出てきて、異彩を放っていたと思います。
そんな時期にサンダンスに派遣され、多分すごく良い経験になったのではないかと思います。
映画としてはサンダンスの後に監督したのが『キュア』で、そこで大ブレイクされましたから。
自分としてはサンダンスでデベロップした『カリスマ』や、『ドッペルベンガー』といった役所広司さんと組んだ作品の持つ毒素みたいな部分に、魅力を感じていました。
この作品は、そういった映画とは全く違う大作ですし、豪華キャストです。しかしながら当初から持っている毒素や、シニカルな視線といったものは、メジャーに飲みこまれることなく健在で、ちょっと嬉しくなりました。
黒沢流のメジャー作品への挑戦状のような作品と思いました。
ある種観客に媚びる部分が日本のメジャー作品には内包されることがありますが、そういう部分は極力排除したいのではないでしょうか。

A:前作『ダゲレオタイプの女』の時にフランスでフランスのスタッフ・キャストと撮った映画にヒッチコック的なもの、往年のハリウッドのジャンル映画と通じる”アメリカ映画”がまぎれこんでいるように見えるという点がスリリングで、その部分を監督に訊いたのですが、取材の最後に「本当によくできたアメリカ映画に代表されるある種のジャンル映画って愛とか死とかってそういうものがヒッチコックを持ち出すまでもなく、大げさなテーマというより人間のドラマを普通に考えていると当然、そこになるもの、大きなストーリーの中心として横たわっている。自分もそういう方にも辿りつきたいと思ってます」と述懐された。取材の時点で監督は『散歩する侵略者』を撮り終わってらしたんですが、振り返るとこの映画についてのコメントのようにも響いてくるんですね。

★宇宙人が地球にやってくる”侵略SF”ジャンルとして、ハリウッドの同ジャンルの映画(といってもいろいろな時代があるとは思いますが、その比較も含めて)と比べていかがですか?

A:英語版のプレス資料にある監督インタビューでは、この種のジャンルの無数にある先例の中から特定の作品を引用するのはよそうと決めたと語ってらっしゃいますね。ただ取り終えた後でジャーナリスト桜井と”侵略者”天野の場面に漂うものにはどこかジョン・カーペンター的なものがあると感じた、なぜかは定かでないのだがとも仰っています。カーペンターといえばハワード・ホークスをリスペクトする彼がホークス製作の”侵略SF”『遊星よりの物体X』(51)を『遊星からの物体X』(82)としてリメイクしてますね。でもそれを引用したというより男と男の友情とか、活劇の無駄口たたかぬ切れ味とか、そういう部分で結び目を感じますよね。
また黒沢監督は同じインタビューで、このジャンルが基本的には常にその時代の世界的な危機感と結ばれていたことをふまえつつ、何か心得違いのメッセージのようなものを発することは避けたいと意識していた。自分の映画で政治的なメッセージを込めたことはこれまでにもない、ただ意図しないところで映画作家の作品にはその政治的なスタンスが露呈するものだとは思っている――とも述懐されてます。その意味で、『トウキョウソナタ』とも通じる戦争、今そこにある危機感、それに対する監督のスタンスは強く感じられると思いました。

T:ステレオタイプの宇宙人の侵略でなく、宇宙人も自分たちと瓜二つであり、それらが集める人類の概念そのものが地球に対しての侵略者だというアイロニー。そしてまた侵略から地球を救うのもまた人類の持つ概念という、最終的な人間に対する肯定感、希望も感じました。

N:舞台で面白い本をどう映画にするか難しいですよね。画期的アイデアは、画期的な分初めて見る側に素早く理解させるのが難しい。映画の中での「概念」という言葉の使い方が僕には完全には理解納得できておらず、大事な所がモヤモヤしたまま終わってしまいました。 ただ監督のインタビューによれば、原作の舞台を見て「いつかこれを映画にしたい。」と思っていたとの事なので、映画としては違和感を感じる言葉でもそのままなのは、監督の原作に対するリスペクトなのでしょう。

M:最近だと『メッセージ』がありますね。そちらも好きな映画なんですが、比較するのは難しいですね。
そういったハリウッド映画との比較とか、そういう目線で語って欲しくない映画を、黒沢監督は目指したように思います。すごくオリジナリティがあると思います。
黒沢流メジャー映画というか、すごく挑戦している印象です。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★“宇宙人”の描き方に関しては?
M:松田龍平君につきますね。彼の演技力が、全てを包括していると思います。
それと長澤まさみさんの会社の場面が顕著ですが、身近な人が突然変異する恐怖感みたいなものは、すごく伝わってきました。

N:この宇宙人の設定も、舞台劇のセリフで出てくればとても魅力的ですが、映画にすると欲求不満は否めません。 SF映画としてのカタルシスを一つ分損しています。

A:質問とちょっと外れるかもしれませんが真治、天野、あきらという侵略者のそれぞれのあり方が複線の物語を紡いでいくという、これは原作の方法でもあるわけですが、その点と点の操り方が興味を持続させ、さらに映画になった時にそのスケールを全うさせていく、そういう描き方として面白かったです。あとたとえば『リアル~完全なる首長竜の日』の時、感じたことですが、CGの首長竜があっけなく出現する時、自然に「ウソ~」という言葉が口を突く、そうやって「ウソ」とスクリーンに向かって呟く瞬間、実のところ観客は映画が差し出すまざまざとした感触にもうまんまと巻き込まれているんですよね。あり得ない、でも――と、ただただまざまざとしぶとい現実感に支配されていく醍醐味を今回も冒頭から味わいました。

★人間の概念を奪うという部分、現代人を縛るそれらからの解放とみることもできそうですが、だとしたらちなみに何を奪われたいでしょう?

A:映画とその歴史に対する記憶――なんてね 笑

M:自分としては想像がつかないのですが、“欲”を奪われたら、楽になるのでしょうか。

T:時間ですかね。笑
ただ「いま」にいることができていませんね。

★気づいてみると日常を浸蝕している異常の描き方に関してはいかがですか?

N:監督が伝えたかった事がこの「気づいてみると日常を侵蝕している〇〇」なのでは。例えばトランプと北朝鮮。世界各地で続発するテロ行為。日本政府による憲法改正やテロ等準備罪成立や、その他いろいろな動きも含めて監督なりの平和ボケした我々への警告発信なんじゃないかと。

T:気づかないでのほほんと送っている日常が蝕まれ、ある日から戒厳令的な町やパニックと化した人々に移っていく。それでも危機感の欠如した人々にとっては冗談にしか思えない危機。日常と非日常の紙一重さ。宇宙人はそんな暗喩的ですね。名古屋君が言うようになにかきな臭い現状と重なりますね。

M:この映画はネタバレにならないように語らないといけないと思いますが、日常がいきなり奪われる恐怖をうまく描いていると思います。
光石研さんの役は、仕事から解放されて、楽になったようにも見えました。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★監督はカンヌでの会見の動画の中では「戦争に愛で対抗するという強くシンプルなメッセージが原作にあり、映画でもこれが伝われば」と語っていますが、伝わりましたか? 往年のハリウッドのジャンル映画をふまえた大きなテーマの黒沢的な消化法に関してどう見ますか?

M:混乱や乱世の中のプリミティヴな部分を、黒沢監督は描きたかったのではないでしょうか?
先ほども伝えましたが、従来のハリウッド的なSFやジャンルムービーとは、全く違うアプローチで侵略者を描きたかったのではないかとみています。

N:個人的には「〜に愛で対抗する」というメッセージに関しては、いかにも昔のハリウッド映画的で普遍的ではありますが、新鮮味にかけて今更かなと。ただ侵略者と牧師のシーンはちょっとだけ毒があって一番笑えました。

T:ジャンルムービー云々ではなくて、侵略する側とされる側の二組のストーリー、それぞれの気持ちの相手へのシンパシーへ変化していく様子が私は面白かった。異なる者間のシンパシーとして。愛についても、宗教ではなく一個人のレベルの愛であるところも監督の伝えたい所ではないでしょうか?

★俳優たちに関してはいかがでしたか?

M:松田龍平君も、長澤まさみさんも、役柄へのアプローチを相当練りこんだ感が強いです。
長谷川博巳君は、今や得意の役柄で、これはもっと違うアプローチを見たかった気がします。
彼の駅前で聴衆に語りかける場面は、とてもいい芝居でした。

T:松田龍平はとぼけた味出してましたね。

N:松田龍平は相変わらずよかったです。本人も得意なパターンだったんじゃないですかね。
長谷川博己の演技に関しては川野さんに同意です。

A:私は長谷川博巳、今までもひとつぴんとこなかった俳優なんですが、今回かつてなく好きだなと思いました。あと『モテキ』とか『海街diary』とかこのところぐんぐん魅力的になってきた長澤まさみもまた新たな領域を開拓していていいですね。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

★どこでもないどこかという舞台の設定については?

N:原作が人気の舞台劇という事でそれを覆すのは難しかったとは思いますが、 「とある町」の設定は、「概念」という言葉の選び方もそうなのですが抽象的で、セリフが主役になる芝居的な発想で、ビジュアルが主役とも言える映画っぽくないなあと思ってしまいました。
その辺の抽象表現は一貫していますが、現実感のないお話に感情移入しづらく、そこが映画的迫力に欠けている点かなあと。庵野監督が『シンゴジラ』でリアリティを追求して観客を圧倒させたのとは全く反対方向の、ある種ファンタジー的な演劇映画の印象です。ラブ・ストーリーですしね。

M:この作品、見ている間はオリジナルストーリーだと思っていました。後から資料見て、舞台が原作と知りました。
どこでもない町に起こる怪奇現象という設定は、とても舞台的だなと思います。

A:さっきいった3つの点の距離感が遠くて意外に近い奇妙な世界の中で結ばれていく、だからこその今そこにある危機感の熟成、そしてそこで展開されていく活劇の部分にこの場所の曖昧さが効いていると感じました。茫漠としているのに案外、小さい町の奇妙なサイズ感の面白さといったらいいのかな。田園風景と住宅地が並び立っていて、しかもショッピングゾーンのような人が集う界隈もある、ドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の小さな町とも通じるような――。

★原作とは違うエピローグをもってきています。このエンディングに関しては?

M:原作を見ていませんし、エピローグもネタバレになるので、あまり言えませんが、ラストで作品の印象も変わると思います。
最近特に原作が売れている作品が多いのですが、原作と違うエンディングになっている作品をよく見かけます。
大概は後日談的になっており、原作ファンへのサプライズ的な一面もあるのではないかと思います。
この作品に関しては原作も舞台も見ていないので、何とも言えません。
一般論ですが、原作は作者によって完成されているものですので、エピローグの追加によって、原作の持つカタルシスが失われてしまった作品が幾つかあり、残念に思いますね。
このエンディングに関しては、監督がどのような思いで、脚本を書かれたのか、きいてみたいと思います。

©2017『散歩する侵略者』製作委員会

「散歩する侵略者」
2017年9月9日(土)より 全国ロードショー中
配給:松竹 日活
©2017『散歩する侵略者』製作委員会

Cinema Discussion-19/4Kで蘇る『牯嶺街少年殺人事件』

(C)1991 Kailidoscope

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第19回は、1991年に制作された台湾映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』の4Kデジタルリマスター版を取り上げます。
『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』は、2007年惜しくも59歳で逝去した台湾の誇る鬼才エドワード・ヤン監督の最高傑作とも言われている作品です。
3時間56分という長尺が今回4Kの解像度でのデジタルリマスター版で復元され、3月11日の公開以降、映画ファンに新たな衝撃を与えています。
今回のシネマディスカッションは、は映画評論家川口敦子と、川野正雄の対談形式でお届けします。

(C)1991 Kailidoscope

★『牯嶺街少年殺人事件』は権利関係の問題で長らくdvd化もされず伝説の傑作となってきました。今回25年ぶりに日本公開されるのは、マーティン・スコセッシの肝いりで制作された4K/デジタルリマスター版、監督エドワード・ヤン生誕70周年、没後10年の今年、蘇った映画をご覧になった感想は?

川口敦子(以下A):
長いこと自宅にあるもう劣化したVHSでの再見をくりかえしてきたので、今回の復活上映にはものすごく期待して、怠け者でいつも試写は日程の終りの方になるのに、いの一番でかけつけました。すべりだし、夏の光にあふれた並木道をフィックスでキャメラがとらえ、緑の息吹みたいなものがスクリーンにたちこめるなか、向こうの方に小さく見えた人影が、やがて自転車の父と息子の姿として像を結び、ゆっくりと迫ってくる。それだけでおおっと幸せな気持ちになりましたね。
フィルムではないかもしれないけれど、やはり大きなスクリーンで見たい、そういう深く大きな映画だと思います。
去年、ヴィスコンティの『山猫』の4Kデジタル・リマスター版のお披露目上映の際、撮影監督のジュゼッペ・ロトゥンノからくれぐれも全てをぴかぴかつるつるにしないでほしいとの要請があったというエピソードが紹介されたんですが、そういった不安をみごとにけちらすこの修復版、黒がちゃんと黒というのも素晴らしいです。
それにしても没後もう10年になるのか、と感慨深いものがありますが、その意味では先ほどあげた並木道の場面でエドワード・ヤン監督の遺作になってしまった『ヤンヤン夏の思い出』のそれが結ばれてきて、さらにううっと惹き込まれました。ソフト化が滞っていたせいでエドワード・ヤンを見られずにきた若い、いえ、さまざまな世代の観客に、これを機に、彼の映画にふれてほしいなあと思います。

川野正雄(以下M):
自分も古い作品の4K修復をやった事があるのですが、オリジナリティの再現には、相当に神経を使うものです。新作みたいにピカピカにしてもいけませんし。
そして、同じ復元の素材でも、フィルムとDCPだと、スクリーンで上映すると、全く質感が違うのですね。
これは、見た感じで言うと。綿100%と、麻100%の服くらいに、違いがあるものなのです。
デジタル修復は一コマずつ最新の注意をはらって行いますから、3時間56分という長尺を考えると、本当に気の遠くなるような修復作業だったと思います。
自分が修復をした作品でも、結果的にはご一緒していませんが、スコセッシも興味を持ってくれていました。
彼の映画文化にかける情熱は、素晴らしいものがありますね。
なので、まずはという感想は、修復作業に拍手です。

(C)1991 Kailidoscope

★89年侯孝賢の『悲情城市』がヴェネチアで金獅子賞を受け、かたや彼と並び称されたヤン監督は86年『恐怖分子』でロカルノ金豹賞を受賞。『牯嶺街少年殺人事件』は『悲情城市』とともに95年,釜山映画祭で投票された”アジア映画ベスト100”に選ばれ80年代から注目された台湾ニューウェーブの力を世界に印象づけました。世界的に高い評価を受けたのはなぜだと思いますか?

A:
80年代にかけて日本でミニシアター・ブームというのがありましたが、世界的にもアートハウス系の映画が注目され、一定の観客が確保されていましたよね。それが”今やさんざん”という状態になって久しいわけですが、往時、そうした観客層がワールドシネマというジャンルへの関心の高まりも支えていたように思います。中国、香港、台湾、アジア、中東といったこれまで一般的には顧みられることのなかった地域の作家たちに関心が集まり、優れた才能が紹介されるようになった。キアロスタミをはじめとするイランの素晴らしい映画が当り前にみられるようになった。そういう時代でしたよね。台湾ニューウェーブに対する関心もそういう中で深められ、特集上映があって監督の来日があったりもしましたよね。
なぜ、高い評価を集めたかというのは我ながら愚問でそれはそこに面白い映画と作家がいるからということにつきるのでしょうけど、ただ乱暴にくくっていいますが、長回し、クロースアップを回避した引きの画の活用、といった侯孝賢やヤンの映画のスタイルの清新さは当時、やはり見逃せなかった。それはハリウッドに対してまた”別の”という音楽や他のジャンルにもあったオルタナティブの時代の価値観とも無縁ではないかもしれませんね。

当時、台湾映画を代表して並び称された侯孝賢とヤンですが、そして台湾ニューウェーブとして最初は共に活動もし、侯孝賢が主演したヤン監督の『台北ストーリー』なんて快作(5月に公開予定)もある、そんなふたりなのでつい一緒にしてしまいがちなんですが、実は一緒じゃない部分も多いですよね。乱暴にくくれば――と先ほどことわったのもそういうことなんです。『台北ストーリー』『恐怖分子』それから90年代の『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』とヤン監督は都市的な現代のドラマを手掛けていますよね。そこが彼の核になるというのかな。60年代を背景にしているものの、彼の映画に通底する都市性を『牯嶺街少年殺人事件』も濃密に感じさせると思います。88年に来日した監督にインタビューした折、こんなことをいってました。ちょっと長くなりますが引用してみますね。

「一歳半で台湾に移住して以来、台北は愛着の持てる唯一の場所でした。いつも惹きつけられてきた。初めてアメリカに行った時にはもう一生というつもりでいたけれど、台北に戻って自分のルーツがある所はここだと思った。たとえ自分が中国大陸から来た人間だとしてもやはり台湾に愛着を感じるんだし、基本的に台湾人だと感じている。台北は、都市は、いつも僕の映画の主題だった。都市のルック、視覚的なものというよりそこにある物語に惹かれている。都市化された環境の中にある興味深いストーリーに。自分の親密な経験がここにあるから」

(C)1991 Kailidoscope

M:
当時この手のアジア映画は、気になる存在ではありましたが、あまり夢中にはなれなかったです。自分の年代もあると思いますが『恐怖分子』を見て、そんなに大きな衝撃はありませんでした。
今回改めて見直すと、引きのロングショットと長回しの多用は、テンポや集中力を削ぐケースがあるので、あまり好きな手法ではないのですが、非常にうまく長尺の中で使っていますね。
本来ならあれだけ長回しを多用して4時間だと、客席には怠惰な空気が生まれがちなのですが、見事にエドワード・ヤンは、観客の集中力を引っ張っていると思います。このテンションの維持のさせ方は、本当に凄いなと思います。
中華圏の映画にありがちな大河ドラマでもありませんしね。
この時代の台湾映画を見ながら、初めてワクワクしました。

A:
80年代にヤン監督を紹介する記事にはよくアントニオーニの名前がひっぱりだされたりもしてましたが、都市的な乾きというか、人に対する観察の距離、感情的になりすぎない語り口が彼にはあると思います。この所、台湾の若い監督たちがヤンに触発されたとかいいながらキラキラ系の青春映画を撮って感傷でいっぱいみたいなことになっていますが、『牯嶺街少年殺人事件』の人と人、家族や、青春の悲しさをみつめながら決してクールさを手放していない所をもっとよく見てほしいですね(笑)

★青春映画であり、家族映画であり、不良少年ものでもあってさらに、やくざ映画的要素もあったりして、だから歴史映画でもあるような多旋律の”大きな物語“については?

M:
自分は『牯嶺街少年殺人事件』を見るのは初めてでした。後年の『カップルズ』は見ていますが。
例によって、ストーリーの予備知識0で臨んだので、物語の多様性に序盤はなかなかついていけなかったのですが、90分位から、どんどん引き込まれて行きました。
こういった多旋律な物語展開は、例えが的確ではないかもしれませんが、村上春樹作品のような多様性と、洞察力の鋭さを感じました。
単なる60年代の学校ものとか青春映画という枠組みでは語れない、いや語ってはいけないような作品ですね。

A:
もちろん14歳の少年を主人公にしたみずみずしい青春映画として素晴らしいのですが、同時に家族の映画、父と子の映画であり、また台湾の現代史、中国本土との関係、戦前の日本、戦後のアメリカ文化の子といった歴史への目も深く物語に食い込んだ重層的な一作ですね。
で、さきほどいった都市性という点で前にも書きましたがヤン監督のとりわけこの映画『牯嶺街少年殺人事件』を視ているとドストエフスキーのことを書いたバフチンの多声の物語に関する記述を思い出したくなるんですね。集団の物語なんですが、単なる群像劇とは呼びきれない気がする、それは世界を支配する神にも似た語り手が操る複数の物語であるよりは個々の声がそれぞれに響いていくような構造を映画が突きつけてくるからじゃないかと思うんです。
「ドストエフスキーの詩学」でバフチンは「ドストエフスキーは自分の時代の対話を聞き取る天才的な能力を持っていた。あるいはもっと正確に言えば、自分の時代を巨大な対話として聞き、時代の一つ一つの声を捉えるばかりでなく、まさに声たちの間の対話的な関係、その対話的相互作用そのものを捉える能力に秀でていた」と書いていますが、ドストをヤンに置き換えてみると彼の映画が炙り出されてくるような、そんな気がします。

(C)1991 Kailidoscope

★ハニー、シャオマー、リトル・プレスリーことワン・マオ等々、主人公小四の周りの少年たちのキャラクターも面白いですね。また父の世代のおじさんたちもさりげなく、でも濃密に色分けして描かれています。人物描写で印象的だったのは?

A:
ハニーって不良グループの伝説のリーダーがなんというか日活ムードアクションのヘンさに通じるものがあって、笑うとこじゃないんでしょうが笑えたりしつつ楽しみました。水兵ルックが、隠れ蓑という設定ですが、妙に大仰で・・・。小公園って彼らの根城みたいなカフェというかパーラーというのかな、そこでエンジェルボイスを披露するワン・マオも最後にぐっとくる後日譚を請け負ってもいていい。歌詞の聞き取りとか、時代はやや違っても身に覚えがあって懐かしかったりもしますね。そういう憧れのアメリカ、西部劇やプレスリー、『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンの影が見え隠れしていたりコンバースや白Tシャツ、リーゼントを模倣している彼らの姿はかつての日本を思わせなくもなくて興味深いですね。
いっぽうで大陸の影、上海コミュニティを背負い、いつか帰る所としてそこをにらみ、だから根無し草的に今ここにあることへの不安を抱きつつある父の世代の人たち、その姿を見ながら語られる「未来」や「世界の変化」、対する「世界と同じで変わらない」と吐き捨てる子の世代、そこに属していた筈の監督――と、青春や家族のドラマを歴史の重みが裏打ちしている点も面白い。

M:
ハニーは名前ばかり出てきていて、登場シーン以降存在感は強烈でしたね。
ラッパズボンも似合ってましたし(笑)。
リトル・プレスリーと合わせて、僕はアメリカ映画的なキャラクター造形だと思いました。
日本家屋に住んでいたり、子供が押し入れに籠るシーンなどは、戦時中の日本占領時代以降の影響も見え隠れしていましたね。
大陸からの移民、日本の影響下で生活していた人たち、アメリカへの留学を考える人たち、当時の台湾人の生活や生き方というか、我々日本人が表面的にはわからない部分であるし、エドワード・ヤンも歴史的な解釈とか、歴史の傷跡みたいな部分に対する想いを込めているようにも感じました。

(C)1991 Kailidoscope

★家族の関係については? 父と子、母と娘たち、兄弟姉妹の関係、世代の描き方に関しては?

A:
上海っ子の母と地方から上海にでてきた父との微妙な優越/劣等意識が微笑ましくもリアルで、旧世界の集まりに女性たちがみなチャイナドレスで盛装している姿とか、腕時計の由来とか、“亡命者”のコミュニティの様子が子供時代の監督が見た世界として描かれていて面白い。リアルさと美化されたものというのか、そのバランスが映画全体に響いているようにも感じます。言葉がわからないのではっきりはいえないけど、子供に内緒の話の時には上海語、そうでないときは台湾の公用語の北京語が語られているそうで、侯孝賢の映画でも大事な要素になっている台湾社会を構成する人々のルーツの多様さも、解ってみるとさらに興味深いものがあるんでしょうね。
兄弟で押し入れの上下を二段ベッドがわりにしていたりして、戦前をひきずる日本の影も家屋や食事の場に流れている橋幸夫のカバーとか見逃し難いものがありますね。監督自身、手塚治虫はじめ日本の漫画で育った部分もあったようです。

(C)1991 Kailidoscope

M:
家族関係については、正直序盤はついていけない部分もあったのですが、中華思想とか台湾独自の家族に対する考え方。
そういうものが、非常に濃く根底に流れているように思いました。

★清純無垢を思わせる外見と男の子たちを翻弄するファム・ファタール的資質を内包したヒロインに関しては? 他の女性たちの描き方はどうですか?

M:
小明の透明感は凄まじいですね。
劇中ですが、映画監督が夢中になってしまうのもわかります。
それだけに、後半の展開で彼女が人間らしくなっていく流れは、すごく緊張感があると思います。
ファム・ファタールに見えないのが、どんどんファム・ファタールになっていく。その辺の流れも、台湾映画というよりもアメリカ映画の影響を感じました。
A:
ヒロインの少明、そして小公園派の不良娘、小翠、ふたりの少女に世界と同じで私は変わらない――と奔放な恋愛関係の言い訳のような絶望を語らせているのが印象的でした、少年たちに対してより深い闇を抱えた存在であるような、そう描く監督の女性観にも興味がつのります。

(C)1991 Kailidoscope

★学校の隣に撮影所があって、スタジオで撮影中の劇中劇が出てきたりするあたりをどう見ますか?

A:
紋切型のメロドラマを撮影している映画内映画のスタッフ・キャストが紋切型のバックステージのどたばたを演じてみせるのが全体からみるとちょっと異色で、乱調と見えなくもないのですが、なんとも捨て難い。映画=フィクションを改めておもわせる存在が主人公の少年の世界、現実の核となる学校に隣接している。少年自身も現実とフィクションの狭間を生きているというのかな。

中学生たちの間にいきなり仁義なき闘いみたいな抗争劇が食い込んでいる部分もあって奇妙な魅力となっていますが、映画映画した要素を旺盛に取り込みつつ、いっぽうでは中国本土と台湾の関係緊張をふまえた父の検挙、取り調べなどリアルな背景も並び立っている、へたをするといびつになりそうな構造を成立させる監督の力業にも注目です。

映画は少年時代の監督が衝撃を受けた61年台湾で実際に起きた中学生による同級生の少女殺人事件をヒントにしていますが、そのことを反映した『牯嶺街少年殺人事件』という原題に対し、プレスリーの曲の歌詞を引用した英語タイトル『A Brighter Summer Day』もあって、映画の背景となった時代や闇が支配する映画が希求する光、台詞に何度か登場してくる世界や未来を変えることを思わせたりもして興味深いですね。虚実の対照をのみこんでいる映画の成り立ちをふたつのタイトルが指し示しているようにも思えます。

M:
劇中劇的な構造は、ちょっとありがちだなと思いましたが、一つのスパイスとしては、すごく効いているんですね。
一度台湾に行き、何人も現地の映画関係者とも会ったのですが、結構未だに興行の世界は、昔の日本の興行という世界観なんですね。
でも若い映画人は、アメリカへ留学して、アメリカ文化の影響を多大に受けています。
台湾では、日本よりも早くシネコン方式など、劇場では米メジャー方式が導入されていました。
そういった台湾の映画業界におけるアメリカ映画の影響というものが、この作品にも、結構色濃く反映されているように感じました。

(C)1991 Kailidoscope

★懐中電灯、妹のスカートのボタン、懐剣、野球バットレコードプレイヤーやラジオ等々、繰り返される小物をめぐるエピソードの使い方に関しては?

A:
ふっと生活の一景として描かれていた小さなエピソードが辛抱強く反復される時、鮮やかな効果を生んでいく。映画的な繊細さが大きいけれど大味ではない映画には必須ですよね。
M:
日本人なので(笑)、やはり押し入れとか日本刀とか、今や日本の生活にも無くなっているような日本文化の細かいエピソードが面白かったです。
それとラジオですよね。音楽の影響とか。この映画の時代は、自分が生まれた時代ですが、多分少し前の日本と同じような環境なのかなとか、色々勝手に想像をしていました。

★主演のチャン・チェン 今や大スターですが、少年時代の彼はどうですか?

A:
もちろん美形だし、カウボーイの真似をする所はじめ、飄々といわれるままに形にしているような熱演ではないよさがありますね。でも、正直言うと今回は彼の実の父でもある父役チャン・クオチューがこんなに素敵だったかなあと見直しました(笑)
M:
成人後の彼の存在に、これまで注目していなかったので、あまりコメント出来ないのですが、この作品の存在感というか、小明に振り回され揺れ動き、ぶれまくる少年の気持ちを、見事に演じていると思います。

★ここが面白いという見所を
M:
想定外だったのは、音楽の使い方の巧みさです。
天使のようなリトルプレスリーの歌声に、アメリカンポップスへの憧憬。
60年代台湾の青春映画と考えると、音楽のスパイスが見事に効いていると思います。
エドワード・ヤンによるアメリカ映画への回答とも言える作品ではないでしょうか。

『牯嶺街少年殺人事件』は、現在角川シネマ有楽町、新宿武蔵野館など全国順次ロードショー公開中です。
*上映は4Kデジタルリマスターから変換した2Kでの上映です。