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Cinema Discussion-19/4Kで蘇る『牯嶺街少年殺人事件』

(C)1991 Kailidoscope

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第19回は、1991年に制作された台湾映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』の4Kデジタルリマスター版を取り上げます。
『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』は、2007年惜しくも59歳で逝去した台湾の誇る鬼才エドワード・ヤン監督の最高傑作とも言われている作品です。
3時間56分という長尺が今回4Kの解像度でのデジタルリマスター版で復元され、3月11日の公開以降、映画ファンに新たな衝撃を与えています。
今回のシネマディスカッションは、は映画評論家川口敦子と、川野正雄の対談形式でお届けします。

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★『牯嶺街少年殺人事件』は権利関係の問題で長らくdvd化もされず伝説の傑作となってきました。今回25年ぶりに日本公開されるのは、マーティン・スコセッシの肝いりで制作された4K/デジタルリマスター版、監督エドワード・ヤン生誕70周年、没後10年の今年、蘇った映画をご覧になった感想は?

川口敦子(以下A):
長いこと自宅にあるもう劣化したVHSでの再見をくりかえしてきたので、今回の復活上映にはものすごく期待して、怠け者でいつも試写は日程の終りの方になるのに、いの一番でかけつけました。すべりだし、夏の光にあふれた並木道をフィックスでキャメラがとらえ、緑の息吹みたいなものがスクリーンにたちこめるなか、向こうの方に小さく見えた人影が、やがて自転車の父と息子の姿として像を結び、ゆっくりと迫ってくる。それだけでおおっと幸せな気持ちになりましたね。
フィルムではないかもしれないけれど、やはり大きなスクリーンで見たい、そういう深く大きな映画だと思います。
去年、ヴィスコンティの『山猫』の4Kデジタル・リマスター版のお披露目上映の際、撮影監督のジュゼッペ・ロトゥンノからくれぐれも全てをぴかぴかつるつるにしないでほしいとの要請があったというエピソードが紹介されたんですが、そういった不安をみごとにけちらすこの修復版、黒がちゃんと黒というのも素晴らしいです。
それにしても没後もう10年になるのか、と感慨深いものがありますが、その意味では先ほどあげた並木道の場面でエドワード・ヤン監督の遺作になってしまった『ヤンヤン夏の思い出』のそれが結ばれてきて、さらにううっと惹き込まれました。ソフト化が滞っていたせいでエドワード・ヤンを見られずにきた若い、いえ、さまざまな世代の観客に、これを機に、彼の映画にふれてほしいなあと思います。

川野正雄(以下M):
自分も古い作品の4K修復をやった事があるのですが、オリジナリティの再現には、相当に神経を使うものです。新作みたいにピカピカにしてもいけませんし。
そして、同じ復元の素材でも、フィルムとDCPだと、スクリーンで上映すると、全く質感が違うのですね。
これは、見た感じで言うと。綿100%と、麻100%の服くらいに、違いがあるものなのです。
デジタル修復は一コマずつ最新の注意をはらって行いますから、3時間56分という長尺を考えると、本当に気の遠くなるような修復作業だったと思います。
自分が修復をした作品でも、結果的にはご一緒していませんが、スコセッシも興味を持ってくれていました。
彼の映画文化にかける情熱は、素晴らしいものがありますね。
なので、まずはという感想は、修復作業に拍手です。

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★89年侯孝賢の『悲情城市』がヴェネチアで金獅子賞を受け、かたや彼と並び称されたヤン監督は86年『恐怖分子』でロカルノ金豹賞を受賞。『牯嶺街少年殺人事件』は『悲情城市』とともに95年,釜山映画祭で投票された”アジア映画ベスト100”に選ばれ80年代から注目された台湾ニューウェーブの力を世界に印象づけました。世界的に高い評価を受けたのはなぜだと思いますか?

A:
80年代にかけて日本でミニシアター・ブームというのがありましたが、世界的にもアートハウス系の映画が注目され、一定の観客が確保されていましたよね。それが”今やさんざん”という状態になって久しいわけですが、往時、そうした観客層がワールドシネマというジャンルへの関心の高まりも支えていたように思います。中国、香港、台湾、アジア、中東といったこれまで一般的には顧みられることのなかった地域の作家たちに関心が集まり、優れた才能が紹介されるようになった。キアロスタミをはじめとするイランの素晴らしい映画が当り前にみられるようになった。そういう時代でしたよね。台湾ニューウェーブに対する関心もそういう中で深められ、特集上映があって監督の来日があったりもしましたよね。
なぜ、高い評価を集めたかというのは我ながら愚問でそれはそこに面白い映画と作家がいるからということにつきるのでしょうけど、ただ乱暴にくくっていいますが、長回し、クロースアップを回避した引きの画の活用、といった侯孝賢やヤンの映画のスタイルの清新さは当時、やはり見逃せなかった。それはハリウッドに対してまた”別の”という音楽や他のジャンルにもあったオルタナティブの時代の価値観とも無縁ではないかもしれませんね。

当時、台湾映画を代表して並び称された侯孝賢とヤンですが、そして台湾ニューウェーブとして最初は共に活動もし、侯孝賢が主演したヤン監督の『台北ストーリー』なんて快作(5月に公開予定)もある、そんなふたりなのでつい一緒にしてしまいがちなんですが、実は一緒じゃない部分も多いですよね。乱暴にくくれば――と先ほどことわったのもそういうことなんです。『台北ストーリー』『恐怖分子』それから90年代の『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』とヤン監督は都市的な現代のドラマを手掛けていますよね。そこが彼の核になるというのかな。60年代を背景にしているものの、彼の映画に通底する都市性を『牯嶺街少年殺人事件』も濃密に感じさせると思います。88年に来日した監督にインタビューした折、こんなことをいってました。ちょっと長くなりますが引用してみますね。

「一歳半で台湾に移住して以来、台北は愛着の持てる唯一の場所でした。いつも惹きつけられてきた。初めてアメリカに行った時にはもう一生というつもりでいたけれど、台北に戻って自分のルーツがある所はここだと思った。たとえ自分が中国大陸から来た人間だとしてもやはり台湾に愛着を感じるんだし、基本的に台湾人だと感じている。台北は、都市は、いつも僕の映画の主題だった。都市のルック、視覚的なものというよりそこにある物語に惹かれている。都市化された環境の中にある興味深いストーリーに。自分の親密な経験がここにあるから」

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M:
当時この手のアジア映画は、気になる存在ではありましたが、あまり夢中にはなれなかったです。自分の年代もあると思いますが『恐怖分子』を見て、そんなに大きな衝撃はありませんでした。
今回改めて見直すと、引きのロングショットと長回しの多用は、テンポや集中力を削ぐケースがあるので、あまり好きな手法ではないのですが、非常にうまく長尺の中で使っていますね。
本来ならあれだけ長回しを多用して4時間だと、客席には怠惰な空気が生まれがちなのですが、見事にエドワード・ヤンは、観客の集中力を引っ張っていると思います。このテンションの維持のさせ方は、本当に凄いなと思います。
中華圏の映画にありがちな大河ドラマでもありませんしね。
この時代の台湾映画を見ながら、初めてワクワクしました。

A:
80年代にヤン監督を紹介する記事にはよくアントニオーニの名前がひっぱりだされたりもしてましたが、都市的な乾きというか、人に対する観察の距離、感情的になりすぎない語り口が彼にはあると思います。この所、台湾の若い監督たちがヤンに触発されたとかいいながらキラキラ系の青春映画を撮って感傷でいっぱいみたいなことになっていますが、『牯嶺街少年殺人事件』の人と人、家族や、青春の悲しさをみつめながら決してクールさを手放していない所をもっとよく見てほしいですね(笑)

★青春映画であり、家族映画であり、不良少年ものでもあってさらに、やくざ映画的要素もあったりして、だから歴史映画でもあるような多旋律の”大きな物語“については?

M:
自分は『牯嶺街少年殺人事件』を見るのは初めてでした。後年の『カップルズ』は見ていますが。
例によって、ストーリーの予備知識0で臨んだので、物語の多様性に序盤はなかなかついていけなかったのですが、90分位から、どんどん引き込まれて行きました。
こういった多旋律な物語展開は、例えが的確ではないかもしれませんが、村上春樹作品のような多様性と、洞察力の鋭さを感じました。
単なる60年代の学校ものとか青春映画という枠組みでは語れない、いや語ってはいけないような作品ですね。

A:
もちろん14歳の少年を主人公にしたみずみずしい青春映画として素晴らしいのですが、同時に家族の映画、父と子の映画であり、また台湾の現代史、中国本土との関係、戦前の日本、戦後のアメリカ文化の子といった歴史への目も深く物語に食い込んだ重層的な一作ですね。
で、さきほどいった都市性という点で前にも書きましたがヤン監督のとりわけこの映画『牯嶺街少年殺人事件』を視ているとドストエフスキーのことを書いたバフチンの多声の物語に関する記述を思い出したくなるんですね。集団の物語なんですが、単なる群像劇とは呼びきれない気がする、それは世界を支配する神にも似た語り手が操る複数の物語であるよりは個々の声がそれぞれに響いていくような構造を映画が突きつけてくるからじゃないかと思うんです。
「ドストエフスキーの詩学」でバフチンは「ドストエフスキーは自分の時代の対話を聞き取る天才的な能力を持っていた。あるいはもっと正確に言えば、自分の時代を巨大な対話として聞き、時代の一つ一つの声を捉えるばかりでなく、まさに声たちの間の対話的な関係、その対話的相互作用そのものを捉える能力に秀でていた」と書いていますが、ドストをヤンに置き換えてみると彼の映画が炙り出されてくるような、そんな気がします。

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★ハニー、シャオマー、リトル・プレスリーことワン・マオ等々、主人公小四の周りの少年たちのキャラクターも面白いですね。また父の世代のおじさんたちもさりげなく、でも濃密に色分けして描かれています。人物描写で印象的だったのは?

A:
ハニーって不良グループの伝説のリーダーがなんというか日活ムードアクションのヘンさに通じるものがあって、笑うとこじゃないんでしょうが笑えたりしつつ楽しみました。水兵ルックが、隠れ蓑という設定ですが、妙に大仰で・・・。小公園って彼らの根城みたいなカフェというかパーラーというのかな、そこでエンジェルボイスを披露するワン・マオも最後にぐっとくる後日譚を請け負ってもいていい。歌詞の聞き取りとか、時代はやや違っても身に覚えがあって懐かしかったりもしますね。そういう憧れのアメリカ、西部劇やプレスリー、『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンの影が見え隠れしていたりコンバースや白Tシャツ、リーゼントを模倣している彼らの姿はかつての日本を思わせなくもなくて興味深いですね。
いっぽうで大陸の影、上海コミュニティを背負い、いつか帰る所としてそこをにらみ、だから根無し草的に今ここにあることへの不安を抱きつつある父の世代の人たち、その姿を見ながら語られる「未来」や「世界の変化」、対する「世界と同じで変わらない」と吐き捨てる子の世代、そこに属していた筈の監督――と、青春や家族のドラマを歴史の重みが裏打ちしている点も面白い。

M:
ハニーは名前ばかり出てきていて、登場シーン以降存在感は強烈でしたね。
ラッパズボンも似合ってましたし(笑)。
リトル・プレスリーと合わせて、僕はアメリカ映画的なキャラクター造形だと思いました。
日本家屋に住んでいたり、子供が押し入れに籠るシーンなどは、戦時中の日本占領時代以降の影響も見え隠れしていましたね。
大陸からの移民、日本の影響下で生活していた人たち、アメリカへの留学を考える人たち、当時の台湾人の生活や生き方というか、我々日本人が表面的にはわからない部分であるし、エドワード・ヤンも歴史的な解釈とか、歴史の傷跡みたいな部分に対する想いを込めているようにも感じました。

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★家族の関係については? 父と子、母と娘たち、兄弟姉妹の関係、世代の描き方に関しては?

A:
上海っ子の母と地方から上海にでてきた父との微妙な優越/劣等意識が微笑ましくもリアルで、旧世界の集まりに女性たちがみなチャイナドレスで盛装している姿とか、腕時計の由来とか、“亡命者”のコミュニティの様子が子供時代の監督が見た世界として描かれていて面白い。リアルさと美化されたものというのか、そのバランスが映画全体に響いているようにも感じます。言葉がわからないのではっきりはいえないけど、子供に内緒の話の時には上海語、そうでないときは台湾の公用語の北京語が語られているそうで、侯孝賢の映画でも大事な要素になっている台湾社会を構成する人々のルーツの多様さも、解ってみるとさらに興味深いものがあるんでしょうね。
兄弟で押し入れの上下を二段ベッドがわりにしていたりして、戦前をひきずる日本の影も家屋や食事の場に流れている橋幸夫のカバーとか見逃し難いものがありますね。監督自身、手塚治虫はじめ日本の漫画で育った部分もあったようです。

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M:
家族関係については、正直序盤はついていけない部分もあったのですが、中華思想とか台湾独自の家族に対する考え方。
そういうものが、非常に濃く根底に流れているように思いました。

★清純無垢を思わせる外見と男の子たちを翻弄するファム・ファタール的資質を内包したヒロインに関しては? 他の女性たちの描き方はどうですか?

M:
小明の透明感は凄まじいですね。
劇中ですが、映画監督が夢中になってしまうのもわかります。
それだけに、後半の展開で彼女が人間らしくなっていく流れは、すごく緊張感があると思います。
ファム・ファタールに見えないのが、どんどんファム・ファタールになっていく。その辺の流れも、台湾映画というよりもアメリカ映画の影響を感じました。
A:
ヒロインの少明、そして小公園派の不良娘、小翠、ふたりの少女に世界と同じで私は変わらない――と奔放な恋愛関係の言い訳のような絶望を語らせているのが印象的でした、少年たちに対してより深い闇を抱えた存在であるような、そう描く監督の女性観にも興味がつのります。

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★学校の隣に撮影所があって、スタジオで撮影中の劇中劇が出てきたりするあたりをどう見ますか?

A:
紋切型のメロドラマを撮影している映画内映画のスタッフ・キャストが紋切型のバックステージのどたばたを演じてみせるのが全体からみるとちょっと異色で、乱調と見えなくもないのですが、なんとも捨て難い。映画=フィクションを改めておもわせる存在が主人公の少年の世界、現実の核となる学校に隣接している。少年自身も現実とフィクションの狭間を生きているというのかな。

中学生たちの間にいきなり仁義なき闘いみたいな抗争劇が食い込んでいる部分もあって奇妙な魅力となっていますが、映画映画した要素を旺盛に取り込みつつ、いっぽうでは中国本土と台湾の関係緊張をふまえた父の検挙、取り調べなどリアルな背景も並び立っている、へたをするといびつになりそうな構造を成立させる監督の力業にも注目です。

映画は少年時代の監督が衝撃を受けた61年台湾で実際に起きた中学生による同級生の少女殺人事件をヒントにしていますが、そのことを反映した『牯嶺街少年殺人事件』という原題に対し、プレスリーの曲の歌詞を引用した英語タイトル『A Brighter Summer Day』もあって、映画の背景となった時代や闇が支配する映画が希求する光、台詞に何度か登場してくる世界や未来を変えることを思わせたりもして興味深いですね。虚実の対照をのみこんでいる映画の成り立ちをふたつのタイトルが指し示しているようにも思えます。

M:
劇中劇的な構造は、ちょっとありがちだなと思いましたが、一つのスパイスとしては、すごく効いているんですね。
一度台湾に行き、何人も現地の映画関係者とも会ったのですが、結構未だに興行の世界は、昔の日本の興行という世界観なんですね。
でも若い映画人は、アメリカへ留学して、アメリカ文化の影響を多大に受けています。
台湾では、日本よりも早くシネコン方式など、劇場では米メジャー方式が導入されていました。
そういった台湾の映画業界におけるアメリカ映画の影響というものが、この作品にも、結構色濃く反映されているように感じました。

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★懐中電灯、妹のスカートのボタン、懐剣、野球バットレコードプレイヤーやラジオ等々、繰り返される小物をめぐるエピソードの使い方に関しては?

A:
ふっと生活の一景として描かれていた小さなエピソードが辛抱強く反復される時、鮮やかな効果を生んでいく。映画的な繊細さが大きいけれど大味ではない映画には必須ですよね。
M:
日本人なので(笑)、やはり押し入れとか日本刀とか、今や日本の生活にも無くなっているような日本文化の細かいエピソードが面白かったです。
それとラジオですよね。音楽の影響とか。この映画の時代は、自分が生まれた時代ですが、多分少し前の日本と同じような環境なのかなとか、色々勝手に想像をしていました。

★主演のチャン・チェン 今や大スターですが、少年時代の彼はどうですか?

A:
もちろん美形だし、カウボーイの真似をする所はじめ、飄々といわれるままに形にしているような熱演ではないよさがありますね。でも、正直言うと今回は彼の実の父でもある父役チャン・クオチューがこんなに素敵だったかなあと見直しました(笑)
M:
成人後の彼の存在に、これまで注目していなかったので、あまりコメント出来ないのですが、この作品の存在感というか、小明に振り回され揺れ動き、ぶれまくる少年の気持ちを、見事に演じていると思います。

★ここが面白いという見所を
M:
想定外だったのは、音楽の使い方の巧みさです。
天使のようなリトルプレスリーの歌声に、アメリカンポップスへの憧憬。
60年代台湾の青春映画と考えると、音楽のスパイスが見事に効いていると思います。
エドワード・ヤンによるアメリカ映画への回答とも言える作品ではないでしょうか。

『牯嶺街少年殺人事件』は、現在角川シネマ有楽町、新宿武蔵野館など全国順次ロードショー公開中です。
*上映は4Kデジタルリマスターから変換した2Kでの上映です。

『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』監督インタビュー

正直いってフラメンコにとびきり惹かれたことはなかった。知識も興味もなかった。なのに『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』には圧倒的に惹き込まれた。知識はなくてもその歌を、その踊りを、あるいはそれを歌う“部族の長老たち”(原題)の顔、声、そこに息づく生の気迫にうちのめされた。彼らが語る洞窟のフラメンコの黄金時代の記憶には、血や土地や歴史の翳りの部分もまた呑み込まれているのだが、活き活きと弾んで迫りくる言葉はやわな感傷などを打っ遣ってただただその生きる力に見惚れていたいと思わせる。

静かだけれど鮮やかな活力に満ちたこのドキュメンタリーを撮ったのは、62年グラナダ生まれのチュス・グティエレス。80年代ニューヨーク、技術はなくてもやりたいことをやりたいようにしてみる時代の心意気を、”フラメンコ・ラップ”で実践した彼女は、「実験する贅沢が好き」と歯切れよく言い放つ。いっぽうで写真撮影をと取材の最後にリクエストするとポーズの前にまずは口紅をね、と衒いなく目配せしてみせる。そんないやみでない女っ気もまたチャーミングだった。

チュス・グティエレス監督。チャーミングな監督さんです。

――もちろん映画やテレビ等で見ることはありましたがフラメンコの熱心なファンというわけではなかった、それがあなたの映画『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』で洞窟のコミュニティによって残されてきたフラメンコに初めてふれ、その強烈なパワーに圧倒されました。監督がこのテーマで撮ろうと思ったきっかけは? プレスのインタビューを読むとやはり、映画で案内役を務めるサクロモンテ出身のトップ・アーティスト、クーロ・アルバイシンさんとの出会いが大きかったのですか?

チュス・グティエレス(以下C) そうね。クーロのことは子供の頃から知ってはいたんです。両親のホームパーティに踊りに来た彼と出会っていたので。12歳の頃かしら。それからずっと会うこともなかったんですけど、私の映画の公開イベントのために20数年ぶりに再会したんですね。その時にクーロがこれまでやってきたことを話してくれた。で、彼がしようとしているのはサクロモンテの丘にまつわる記憶をとどめておくということ、そこにどういう人が住んでいたのか、いるのかをすべて記録しようということなんですね。それを聞いて初めてこのドキュメンタリーを撮ろうと思いました。

――この映画以前にはずっと劇映画を撮られていたんですね。フィルモグラフィーを見ると『アルマ・ヒターナ/アントニオとルシアの恋』(95)という映画もありますが、ここではヒターノ(語尾ナは女性形、スペインのロマ、ジプシーにあたる言葉。アンダルシアでは誇りをこめてヒターノ(ナ)と自称するという)と非ヒターノの恋を描いたそうですね。クーロさんの話を聞いてドキュメンタリーを撮ろうと思う以前から社会の外部にある存在をテーマにしていたのですか?

C 今回の映画と『アルマ・ヒターナ』は直接的に関係しているわけじゃないんです。

そうですね、アウトサイダーというか、社会の外部の存在への興味というのもありますが、『アルマ・ヒターナ』に関してはまたちょっと別で、マドリードにラバピエスという地区があって、多様な文化圏の人々が集まっている地区で、貧しい人たちも多いんですが、あの映画ではそこを背景にした愛の物語を描いてみたんですね。

――なんていう地区ですって?

C ラバ・ピエス、ラバールが洗うでピエスが足って意味なんですが(”洗足”みたいなもんですね(笑)と通訳氏がフォローしてくださる)

――ああそうなんですね。そういえば監督は80年代にニューヨークで“フラメンコ・ラップ”グループxoxonees(https://www.youtube.com/watch?v=Z565NqaBIbE)で歌やダンスを披露してらしたんですよね。あの時代のニューヨークもまた混沌としたエスニックの文化が魅力的だった、そのあたりに惹かれてニューヨークを目指した部分もありましたか?

C いえ、ニューヨークにはあくまで映画の勉強に行ったんです。当時、スペインには映画学校がなかったので、それでニューヨークに行っただけのことなんです。

――あ、そうなんですね。で、“フラメンコ・ラップ”グル―プ結成はどういう経緯で?

C ま、すべてはもう偶然なんですけど(笑) ニューヨークでスペインから来ている子たちに出会って一緒に何かしようってことになったんですね。ほんとに楽しもうってだけのためにしたことでした。あの頃、80年代っていうのは音楽にしても、アートにしてもなんていうか完璧でなくてもよかった、歌うことをきちんと学んで知っていたりしなくても歌えたし、楽器だってきちんと技術がなくても弾いてよかったのよね。

――確かに映画にしてもジャームッシュとか、まさにやればできるというような、我が道を往くNYインディたちの流れが出てきた、面白い時代でしたよね。

Cそう、そう、ちょうどそういう時期にラップもまた勢いづいてきた、それで私自身もそういう流れにすごく啓発されたし、おおっという感じをもったりもしていたので、じゃあ自分たちも何か――となって、だったらスペインから来たんだし、フラメンコ+ラップでいこうみたいなことになったわけ。

――取材前にちょっと動画を見せていただいたんですがすごくかわいい! パブリシストからはスリッツみたいとの声もありましたが。あのフラメンコのひらひらしたフリルいっぱいの衣裳とかもご自分たちでコーディネートしたんですか?

C スペインからヒターナの衣裳を持参していたのね。

――ニューヨークのその時代、70年代後半からの時代というのは実際、音楽でもパンクのあとのニューウェーブにしても自分たちで技術はなくてもできるという気運があってすごく興味のあるところなんですが、そういう時代の流れをまさに実践し、呼吸した後でスペインに帰国された時はどんな感じでしたか? アルモドバル等が先導したマドリードの文化の新しい波ラ・モビーダの頃になるのでしょうか?

C 私が帰国したのが87年なんですね。フランコの独裁体制が75年に終わって、それから10年ちょっとという時期で、実際、帰った時はあらゆる実験的なものが爆発したような時代でしたね。中でもその爆発がいちばん大きかったのが音楽だったと思います。もちろん映画もそうなんですが、何よりも社会自体にものすごい活気があった。40年間も続いた独裁政権でしたからね、いいたいこともいえずに、あとセックスも教会に管理されてといったところから国が、社会がいっきに開かれた、そんな感じだった。ですから若者たち、私も含めてですけど、みんなが、これからすごく新しい国を作るんだと、そういう”幻想”を抱いていた時代でしたね。

――裏返すとフランコ政権があったから外国に、ニューヨークやその前に英語の勉強に行ったロンドンに自由を求めるといったこともあったのでしょうか?

C ノ、ノ、それはないです。自由とかじゃなくあくまで勉強だけのために行ったのよ。


――それではそもそも映画を学ぼう、撮ろうと思ったのは?

C これもある意味では偶然でしたよね。子供の頃から私はずっと物語を書くことが好きで作家になりたいと思ってたんです。で、18歳の頃、当時、まだ大学ではさっきもいったように映画科はなく情報科学という学部の中に映画も押しこめられているといった時代だったんですけど、そんな中でも映画を学んでいる友達がいて、たまたまアパートで同居したりってことがあった。ちょうどその頃、私はタイプライターの勉強をしていたので、彼女たちが書く脚本の清書を請け負って、その脚本を読みながら、ああ、これは物語を語るもうひとつの方法なんだと気づいて、それで自分も映画をやりたいなと思ったわけなのね。

――普通、監督をめざすというとまず映画が大好きでとか、誰かの映画を見て夢中になってといった動機があがりますが、あなたの場合はちょっと異色の経路ともいえますね。

C 確かに。

――となるとこの質問は的外れかもしれませんが、念のため、好きな監督は?

C ものすごく沢山います(笑)。どちらかというと商業映画はあまり好きじゃない。実験して何かを探る、そういう贅沢をしている監督が好きです。

――実験する“贅沢”、なるほどですね。例えば日本だとフラメンコのことを撮っているというとやはりまずはカルロス・サウラの名が出てきたりするんですが?

C もちろんサウラは素晴しいことをした、そう思います。特に『血の婚礼』はスペイン人全員が驚いた、ああいう踊りも見たことがなかったし、ロルカの原作をあんなふうに映画化できるなんて誰も思っていなかったので。彼はスペインにとっても、世界にとってもひとつの扉を開いた人だと思います。

――チュスさんの『サクロモンテの丘』もまた別の新しい扉を開いてくれる、そういう映画でした。フラメンコがある種、権威づけられたアートとしてあるとしたら、それとは全く別の、生きる力のようなものとして脈々と生き延びているんだと、この映画を通じてそういう事実や歴史が迫って来たので。

C ありがとう!

――こちらこそ監督と映画にありがとうといいたいです。

ところで無知な質問で心苦しい限りなんですが、映画の中で長老たちが十八番の踊りや歌をそれぞれに披露する場所、ステージでもあり壁に写真や肖像が飾られた居間でもあり、調理器具が天井に吊るされたダイニングのようでもあるあの場所は? あれが洞窟の”サンブラ“なんですか?

C あれはクーロの家なんですね。現存しているサンブラじゃあないのね。元々、グラナダのサクロモンテ地区のヒターノたちは洞窟に住んで、そこで生活し、そこで踊っていたんですね。そう職住近接というか一体の、そこで寝て、そこで料理して、そこで食べて、そこで踊る、そういう場所だったわけ。

――あの場所を基本的に真正面から引きの画でまず捉える姿勢もいいなと思ったのですが、踊りを撮るのにテイクはどのくらい重ねたのでしょう? キャメラの数は?

C 3台のキャメラで撮りましたが、すべてワンテイクです。一度しか回していません。なにしろ踊り手のみなさんがもう年配の方たちなので、そう何度も踊れない。一回踊ったら終わりという(笑)

――まさに生のステージを記録するのといっしょですね。

C そうそう

――原題は『部族の長老たち』という意味だそうですが、演者の選択もクーロさんが?

C はい、本当に彼がいなかったら何年かかってもとても完成できなかったと思う。クーロはみんなと繋がりをもっていましたから。彼がいろいろな人たちを紹介してくれて、その中から誰が出るかを決めていった、まさに案内役でした。

――あそこまでコミュニティの中に入り込んで撮れたのも彼のおかげですね。

C ええ。それと深めるにはやはり時間がかかる。何よりも時間を十分にかけることが必要でしたね。

――撮影に至るまでに何度も通って話を聞くことをしたんですか?

C もちろん何度も足を運んで、まずはサクロモンテの丘を熟知するまで通って、その後、クーロに紹介してもらった人たちにインタビューをして、その中から核になる4人を選んでいきました。

――映画の魅力はその老人たちの語りにもありますね。世代も違う人たちに心を開いて語ってもらう、コツは何かありましたか?

C 幸運でしたね。ただ昔からなんですけど私にとってはインタビューってそう大変なことじゃない、むしろ簡単なことなのね。多分、そういう才能に恵まれているんだと思うんですが、人から告白してもらうのがわりにうまいんです。


――映画も学校がなかったということでしたが、フラメンコの踊りも歌もやはり学校では教えられないものなんですよね。

C いまは学校もありますがここで語ってくれている”長老”たちの時代にはまったくなかったので、生活の中で見ながら、聞きながら覚えたんですね。

――洞窟の時代のものはレコードに残っているんですか、

C 何らかの形で録音されたものはあるかもしれませんけど、私が探した限りではみつからなかった。洪水で洞窟からみんなが退去させられた1963年以前のものということを考えると、当時は録音も今と違って大がかりだったでしょう。貧しかったスペインでは難しかったと思いますね。

――ギターの人がすごくうまいと思ったんですが、レコードもなくてどうやって身につけたんでしょうね。

C これも見よう見まねで覚えたんですね。ひとついっておきたいのはサクロモンテのフラメンコというのは音楽も含めてその価値をきちんと認められたことがなかった、常に蔑まれてきたフラメンコなんですね。

――ガルシア・ロルカが彼らの存在に魅了されて光りを当てましたね。

C 彼の「ジプシー歌集」は確かにあります、でもあれは彼の作った詩なんで、丘の上の彼らのオリジナルの歌も詩も踊りも曲も彼ら自身のものは記録されていなかった。この映画を作る中で、おそらく50年代ごろ、観光客がやってきた一時期なら、あの頃のお金持ちなら8ミリフィルムで撮ったりもしたんじゃないかと、いろいろ探してみた。でもみつからなかった。映画に入れたモノクロの16ミリの素材が唯一、you-tubeでみつかったものでした。

――ちょっと日本の歌舞伎のことも思い出されてくるんですが。つまり歌舞伎も今は学校もありますが、基本は人から人へと伝承されるアートで、しかもかつては蔑まれた時代もあった――と、そう考えるとサクラモンテの洞窟のフラメンコと通じるものがあるようで興味深く思えました。で、監督は声高に差別された民といったメッセージをこの映画で伝えるのではなく、長老たちが語る中でああ、そうだったのかと自然に思い至るような形をとっていますね。暮しの中でこうして生きてきたんだなというのが見えてくるのがすごくいいなと思う。

C それは自然にというよりそうすることを目的として始めた映画なんです。暮しのこと、その思い出を語ってもらうということ。だからこの映画の中では年配者たちにしかインタビューしていません。若い人たちは当時のことを知らないから。1963年に洪水があって誰もが洞窟から退去させられた。洞窟の中で踊って生活していたというのはそれ以前のことです。その頃、サクロモンテの丘に暮らした人たち、63年以前を経験した人たちにしか話を聞いてはいないんです。その頃の暮しを知っている人たちの記憶を再構築するというのがこの映画の大きな目的でした。50年代ぐらいからハリウッドやラテン・アメリカ、メキシコといった様々な国の人たちが観光客ではあっても興味をもってサクロモンテを訪ねてきた、そういう時代があった、その頃を、いわば黄金時代を体験した人たちの記憶です。この黄金時代に子供たっだり青年だったりした人たちの思い出を採集したんです。彼らの記憶、サクロモンテの黄金時代の記憶をとどめること。それが映画のめざしたことでした。

interview by Atsuko Kawaguchi,Masao Kawano

『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』

●公開表記:
2017年2月18日(土)より、有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか順次公開中

監督:チュス・グティエレス/参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、ラ・モナ、ライムンド・エレディア、ラ・ポロナ、マノレーテ、ペペ・アビチュエラ、マリキージャ、クキ、ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、チョンチ・エレディア他多数
日本語字幕:林かんな/字幕監修:小松原庸子/現地取材協力:高橋英子
(2014年/スペイン語/94分/カラー/ドキュメンタリー/16:9/ステレオ/原題:Sacromonte: los sabios de la tribu)

提供:アップリンク、ピカフィルム 配給:アップリンク 宣伝:アップリンク、ピカフィルム
後援:スペイン大使館、セルバンテス文化センター東京、一般社団法人日本フラメンコ協会