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CINEMA DISCUSSION-15/マックイーン栄光と挫折 THE MAN& LE MANS

photo by NIGEL SNOWDON
photo by NIGEL SNOWDON

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
第15回はスティーブ・マックイーンのドキュメンタリー『スティーブ・マックイーン その男とル・マン』を取り上げます。
誰もが名前を聞くだけで胸がときめいてくるような憧れのスターの存在というのはあると思いますが、スティーヴ・マックイーンはその時代を共有した世代にとっては、多くの人にとって、そういう存在だったのではないかと思います。
このドキュメンタリーはそのマックイーンが心血を注いで作った作品『栄光のル・マン』(1971年)の真実に迫っていく作品になります。
日本では1971年7月17日に、京橋のテアトル東京を基幹劇場にして公開され、配収2.5億円をあげました。これはその年の洋画配収の第3位の数字となりました。
因みに1位は世界的に大ヒットした『ある愛の詩』、2位はなんと以前このサイトでもご紹介した『エルビス・オン・ステージ』でした。
マックイーン自身は、この作品が決定打となり当時の夫人と離婚、後年『ある愛の詩』の主演女優アリ・マッグローと再婚する事になります。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

川口敦子(以下A)
『栄光のル・マン』は71年7月に公開されその年の年間洋画配収第3位と、興行的に惨敗した他の国と対照的に日本ではヒット作となりました。映画のこと、当時のこと、覚えていますか?

川野正雄(以下M)
当時テアトル東京のロードショーを見に行きました。『荒野の七人』のリバイバルや『大脱走』のTV放映を見て、既に彼のファンになっていました。
作品自体は予想以上に渋かったですが、マックイーンの台詞や、車のエンジン音が入ったサントラを買い、ミッシェル・ルグランの楽曲とともに毎日のように聞いていました。
当時はこの作品でマックイーンが奈落の底に落ちたことなどは知りませんでした。

『栄光のル・マン』公開時のパンフレット
『栄光のル・マン』公開時のパンフレット
パンフレットには先日亡くなったレーサー式場壮吉氏が寄稿
パンフレットには先日亡くなったレーサー式場壮吉氏が寄稿

名古屋靖(以下N)
当時、母親に連れられて映画館まで実際に観に行きました。正直面白くなかった記憶しかありません。小学4年生には、ル・マンについて全く知識がなく、各スポーツカーの細かな違いなど分かるはずもなく、母親もそれまでの彼の派手なアクション映画とは違う地味な内容に、無理やり連れてきた僕に向かって「おもしくなかったね。」と言い訳していました。ただ日本ではモータースポーツ全般が盛り上がりだした時期でもありますし、マックィーンが日本では人気だったので、内容に関係なくヒットしたんでしょうね。

川口哲生(以下T)
当時この映画を観たわけではないが、このレーシングスーツに身を包んだマックイーンの姿は印象的だったし、はっきりと覚えています。自分もそういう腕にラインの入り胸にワッペンのついたナイロンのレーシングブルゾンを持っていた(夢だったかなあ)気もします(笑)。はやったのでしょうか?
1958年生まれの自分の中では小学校1年のクリスマスに、「もうおもちゃとか要らないから服が欲しいな」、と思ったはっきりした記憶以降、ジーンズだったりハイカットのキャンバススニーカーとかいわゆるアメカジの原体験があり、さらに4年生ごろからはVAN miniの登場で、そのクリスマスごろの赤と緑のラインのチルデンセーターやコーデュロイでトグルの変わりにメタルの金具のついたダッフルコートとか、夏のシアサッカーのジャケットとかトラッドよりの今につながるベースを築いた時期を経て、モンキーズや子どもながらのヒッピー的時代感やさらにはヤング720やビートポップスからのビートルズといった音楽に目覚める時期だったと思います。そのころのラジオの洋楽のトップ10番組のようにアメリカ、ヨーロッパごった混ぜの中で、どちらかというイギリスを中心としたヨーロッパに意識が行き始めた時代だと思います。
マックィーンはじめ映画の男優は、姉のスクリーンで観てはいたと思いますが、何か年代が上な感じで、音楽的なヒーローたちの親近感とは違っていました。

A:71年ということは私は高校1年生、人生で一番暗い人間だった頃ですが、毎月欠かさず読んでいた雑誌「スクリーン」を通じて映画の情報は得ていました。公開された新作が一本もなかったのにマックィーンは同誌のファン投票による人気スター男優篇の4位に入っていて、待望の『栄光のル・マン』が公開された暁には――みたいな期待感が特にファンというわけではないこちらにも伝わってきていました。でも、映画は見なかった(笑) テレビで放映されたのを見たままきちんと見たのはずっと後です。
ちなみに今回、公開当時の「スクリーン」を引っ張り出してみると双葉十三郎”ぼくの採点表”(71年10月号)で★4つ「ありふれたドラマ部分を最小限にとどめル・マン24時間レースをみごとに描き出し、ルルーシュの『白い恋人たち』と相通じる魅力を生み出した」と、ドキュメンタリー的なリアルの追究法が評価されてます。かたや淀川長治”さいならさいなら先生近況日誌”では「スティーヴ・マックィーンどうも感じがよくない。映画はすばらしい」。
『白い恋人たち』と比べられるところがさすが御大の評で素敵ですね。ルルーシュといえば『男と女』も隠れたレース映画ですよね。その前年に撮られた短篇『ランデヴー』は、10月に日本で初上映されるのですが、愛車にキャメラをくくりつけてパリの朝を疾走しまくるマックィーンの理想を実現したような究極の走りの映像を体感させるんですね。

A:このドキュメンタリーを見て往時の印象はどう変わりましたか?

T:足折ってでも本物のレースに出るような、自分のしたいことに子どものように純粋な人なんだろうなと感じました。
結構離婚したインタビューに登場するニール・アダムスとかの懐の広さの中で、やんちゃさせてもらってたんだろうなと思うし、映画を完成させるといったビジネスとしての感覚ではないのだろうと思いました。
『ダーティーハリー』とか『明日に向かって撃て』等々のオファーを断っているのもそこなのでは。

M:後年ソーラープロを倒産させた原因になったとか、色々なネガティヴなエピソードを知ったので、すごく興味深かったです。
当初はマックイーンがル・マンを走るということだけで、皆が成功を確信していたのに、歯車が狂い始める。
その過程が明らかになっていく部分は、興奮を覚えました。
最大の敗因は、やはり恩師ともいえるジョン・スタージェスの降板でしょうね。脚本が完成しない事に業を煮やしたようですが、プリプロでしっかり握れていれば、素晴らしい作品になった可能性があると思いました。
マックイーン自身は、彼の降板をプレッシャーによるものだと決めつけていますが、後年彼を責めてないとも話しています。
マックイーンはル・マンのカーニバル的な要素や、観客、レース独自の緊張感などは生で撮らないと表現出来ないと考え、ル・マン本番での撮影と、映画撮影のハイブリッドな構造になりましたが、それは間違っていないと、改めて感じました。
レース全体を再現するには、観客など費用もかかり過ぎるということも、あったようです。
エンツォ・フェラーリには、最後にはどちらが勝つのか?と聞かれ、ポルシェと言ったら、車輌提供を断られたそうです。その為フェラーリは車輌を買う羽目になり、更にコストが増加したようです。今なら考えにくい話です。
そういった色んな伝説は聞いていましたが、こうやって生の映像で当時の真相を見る事、知る事が出来たのは、すごく貴重な体験でした。

N:スピード狂のマックィーン自身のコントロール下で、どうしても撮りたかったテーマだとは知らなかったので、少しだけ見方が変わりました。 人気絶頂だった俳優が私財投下してまで形にしたかった映画のドキュメンタリーですが、正直マックィーン・ファンではない自分からすると最初は、こんな壮大なワガママがまかり通る時代性の方に興味が湧きました。

photo by NIGEL SNOWDON
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A:マックィーンがめざした「映画の壁を破る」ということについてどう思いますか?

N:自から制作する映画について、台本がない事など非常識という意見に抵抗する意味も込めて「映画の壁を破る」と発言したのでは?と勘ぐってしまいます。 このプロジェクトの最も深刻な問題は、リーダーのマックィーン自身が具体的な完成図を描けなかった事にあると思います。色々な意味で映画のセオリーを破りたかったのは理解しますが、今思えば無謀な挑戦だったのでしょう。

M:先に言ったハイブリッドな構成でしょうね。ル・マンの真実の姿を、ドラマとして伝える。役者ですから、ドキュメンタリーではダメだったのだと思いますし、生のル・マンがないと彼の望むものにはならなかった。
映画には事故のシーンがあり、撮影でも実際に事故があり、ドライバーが重傷を負いました。後年レースは安全なものではなく、過酷だということを伝えたかったと話しています。
それが彼の追求したリアリティでしょうね。
改めて『栄光のル・マン』のここで紹介する映像を見ると、心臓の鼓動でドライバーの緊張感を描き、スタートの興奮と激しいドライビングが、ミッシェル・ルグランの音楽と共に、見事に伝わってきます。
商業的な失敗はありましたが、マックイーンの狙い自体は、成功しているようにも思えます。
このドキュメンタリーを見た後、改めて『栄光のル・マン』を見直すと、きっと色んな部分が見えてくると思います。

A:好きが高じて作った究極のレース映画でドラマよりドキュメンタリー的なものをめざした、つまり”劇“映画の壁を破るということでもあったんですよね。本作で『栄光のル・マン』に関わった人々のいくつもの証言を聞いてみると、マックィーンがそこまで意図してはいなかったのかもしれないけれど振り返るとアメリカン・ニューシネマやヨーロッパにもあった映画の流れとも無意識のうちに共振してしまっていたんだなあと、そこにも感慨深いものがありました。その意味でもきちんと大きな画面で『栄光のル・マン』を見てみなければという気にもなってますね。で、参考までにもう一度、「スクリーン」誌を見てみると同じ年、ただただ走るその空しさが時代の気分といわれた『バニシング・ポイント』が執筆陣の選ぶベストテンの4位に入って評価されている。中途半端に思わせぶりなロマンス部分をなくしてマックィーンの思い通りの映画になっていたらと想像してしまいます。

T:脚本が無いまま取り始めるみたいな、無謀だけど「自分の体感している世界を見せる」を本気でしたかったのだろうな。きっと300kmを超える生死をかけた世界のひりひりするような感じをとか、走っているものの中でしか共有されない関係性を。
演じることとリアリティーの境界性とでも言うのでしょうか?
そういう意味でこのドキュメンタリーを観て、当初の脚本と違ってポルシェチームの首位キープのためにフェラーリ妨害のために走り二位になるマックイーンの役柄が、脚本が無いまま破綻しかける中、新しい監督と妥協しレース以外のストーリー性を譲歩した現実のマックィーンと二重写しになりました。自分の映画づくりでも1位ではなく、勝てなかった。

https://youtu.be/DNjCAAo86m4

A:次回のシネマ・ディスカッションで取り上げるジェームス・ブラウンのドキュメンタリーともある意味で通じる、スターがキャリアの中でパワーを持った時をフォーカスしている作品ともいえますが、この一作に賭けて、この一作の後にはレースを二度としなかったというマックィーンについて、あるいはそんな彼についてのドキュメンタリーの視点をどう感じましたか?

T:挫折もあり、友人のドライバーの事故の重さもあったと思います。

M:この作品では語られていませんが、レースをやめた理由は、『ゲッタウェイ』で共演して結婚したアリ・マッグローです。彼女がレースを望まなかった為に、きっぱり止めました。
マックイーンのドキュメンタリーは以前NHKで見たのですが、それは彼の役者人生をオーバービューするもので、切り込みの深さは、今作の方がありました。
マックイーン自身もこの作品で、キャリア、お金、結婚、人生など全てを失ってしまったと言ってますが、彼のすごさは、その後の巻き返しですね。
サム・ペキンパーと組んだ『ジュニア・ボナー』『ゲッタウェイ』、ダスティン・ホフマンとの『パピヨン』、ポール・ニューマンとの『タワーリング・インフェルノ』と、彼の代表作になる作品に次々と出演し、役者としての格付けはさらに上がることになりました。
このドキュメンタリーからはそういう役者として、或いは人間としての過渡期にあったマックイーンがある種狂気ともいえる情熱で、ル・マンにはまっていった姿が、念密に描かれていると思います。
特に事前に出場したセブリングなどのレースから、どんどんレースに自らを突っ込んでいく姿は、リスクを顧みないマックイーンの人生を象徴していると思います。
それと根は優しい人間だったマックイーンの人柄も、最後には明らかになるので、感動しました。

A:もちろん人気絶頂期のスターのわがままということもできるけど、後先構わずのめりこめる少年ぽさが迫ってきますね。彼がその主演作で演じた役がらとも通じる魅力、反抗児でしかも結局、負けながら苦い笑いでまた自分の道を往くといったロマンチシズムを本人の行路にも感じさせる、記録映画があざとくはないドラマをつかみとってるというのかな。

photo by NIGEL SNOWDON
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A:印象に残るコメントは? 元妻、息子、『栄光のル・マン』の元監督、脚本家、足をなくしたレーサーとドラマを排した映画の背後にあるドラマとその関係者については?

M:やはり妻のニールですね。シャロン・テート事件との関連は驚きました。当時のアメリカでのマックイーンの存在感も、よくわかりました。
マックイーンはニールとの夫婦仲を、ハリウッドでは珍しい下積み時代からの長期に渡る夫婦だったと言っています。
又その夫婦仲が決定的に破局したのも、『栄光のル・マン』だと、マックイーンも語っています。ニールは、ミュルサンヌをポルシエ917で200マイルの猛スピードで駆け抜けるマックイーンを見て、二度と撮影現場には行かなかったようです。
実際ニールは、ロスのレースで目の前でマックイーンがクラッシュするシーンを見ており、レースに参加する事に対する恐怖感を常に持っていたそうです。
ただ撮影時は家族でフランスのお城に泊まり、楽しい生活の時期もあったようです。当時の日本人の取材を読んだのですが、夫婦で50ccのバイクに乗って現れたりしていたようです。マックイーンは、『砲艦サンパブロ』の際に、20時間だけ日本に滞在しましたが、この記事を読むと、「食事が美味しかった。わざわざ日本から来てくれたのに、ゆっくり話せずすまない」と、フレンドリーな対応をしていたようです。
この時は車のシーンの撮影だったのですが、演出は殆どマックイーンがやっていて、監督は撮影監督的な仕事をしていたと、レポートされています。
共演女優の話も驚きました。ありがちな話ではありますが。
息子のチャドに関しては、あまり興味を持てませんでした。

A:『華麗なる賭け』『ブリット』の脚本家アラン・トラストマンのコメントも忘れ難い。もともとショーン・コネリーを想定して書いた『華麗なる賭け』だったのに監督ノーマン・ジュイソンとプロデューサーの一声でこれまでのイメージとは異なるこの役を希望していたマックィーン主演になって、彼のために彼の好みに合わせてトラストマンは渾身のリライト作業をして気に入られた。それが『栄光のル・マン』での対立で結局、その後、トラストマンのキャリアも失速し映画界を離れることになる。「その後、電話が鳴らなくなった」って淡々というだけに胸に響きます。

T:先にも言ったけれど、ミュージカルスターだからマスコミ向けに作っていたところもあるんだろうけれど、別れた妻のニール・アダムスの話とか面白かった。母性を持って見守ったというか。
足をなくしたレーサーの話もよい話でした。

N:正直上手くまとめている印象です。みなさん映画のために素晴らしいコメントを語っていますが、もっと本音で当時感じた本心を語ってもらいたかったと思うのは僕だけでしょうか? JBの『ミスター・ダイナマイト』のように、彼のダメなところももっと証言して欲しかったです。

A:71年はハリウッドにとっても広く世界の映画にとっても変わり目でしたが、そこにいたスターとしてのマックィーンの単なるスターでなく自分の興味を活かした製作への興味は、イーストウッド、レッドフォード、ウォーレン・ビーティ、それにポール・ニューマンと同時代のスターにも共有されたものですが、その中でマックィーンだけがつまずいた点、あるいは現代のビジネスに長けたスターたちの在り方と比べてどう感じますか?

T:マックイーンのモータースポーツへの興味は、趣味といったレベルではなかったのだろうし、ビジネスと折り合いをつけて実現することが許せなかったのだろうと思います。
自分がル・マンをレースで実際に走ろうと思った人なのだから。

M:実際にマックイーンは、多くのレースに、レーサーとして命がけで走っています。
妻のニールは、目の前でマックイーンがクラッシュするシーンを見て以降、レースに大しての恐怖感がぬぐえず、ル・マン後の離婚につながったとも言われています。
ポール・ニューマンは少し後に『デッドヒート』というレースのドキュメンタリーを作っていますね。本人がレポーターで、アメリカのインディ500やF-1を取材していましたが、明らかにマックイーンへの対抗心で制作したと思います。
ロバート・レッドフォードは、自分の興味のある題材を、監督したり出演したりしながら、バランス取ってうまく実現していると思います、マックイーンに関していえば、映画でも描かれていますが、監督よりも役者が上位に来ており、誰も制御できなかったのが問題だったと思います。
本人も後年失敗を認めていますが、スターならではのバランス感覚の悪さが、悪い方向になってしまったと思います。
最近もジョニー・デップ、ブラッド・ピット、などのスターが製作にも参入していますが、より製作者としてプロフェッショナルになっていると思います。まあシステム自体も、70年前後とは違いますから、一概に比較は出来ません。
マックイーンの場合は、王様でしかなく、有能なプロデューサーの側近がいなかったのも不幸でした。

A:現代のスターたち、イメージだけでいいますけどお利口な感じですよね。はみ出しそうではみ出さない。といいつつスターをめぐるシステムは変わらないのだろうなあという感じもあって、コーエン兄弟の『ヘイル、シーザー!』のエディ・マニックスみたいなスタジオ時代のスタア保護システムの用心棒みたいな存在は形を変えて今もないわけではないでしょう? この映画に見るマックィーンだって共演女優との事故は隠されるというシステム内にいた。いながらいられない部分を制御しなかった、というあたりをショウビジネスではなくスポーツ分野の記録映画を撮ってきた監督ふたりがみつめているというのも面白いと思いました。監督のひとりガブリエル・クラークは問題作『SCUM/スカム』『Made in Britain』『Elephant』等を撮りゲーリー・オールドマンやティム・ロスを発掘したことでも知られる英国の鬼才アラン・クラークの息子なんですね。

photo by NIGEL SNOWDON
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A:ところで今さらな質問ですが、マックィーンのファンでしたか? どの映画の彼に惹かれましたか? マックィーンの魅力とは?

T:はじめに述べたように、世代間も違うし当時ファンではなかったと思います。
後日写真集とかファッション目線でアイコン的な意味を再確認はしましたが。
『ブリット』とかタートルにジャケット、ムスタングみたいなところにマックイーンらしさを感じます。
大いなる子供性や、少年性が魅力でしょうか。

N:子どもの頃「この猿みたいなおじさんが何で人気あるの?」と思っていました。自分がある程度の年齢になってから、改めてその魅力に気がついた次第です。田中邦衛みたいにお猿顏なのになぜかカッコ良い。

A:田中邦衛!! そう聞くと頭の感じとか、先細のパンツの感じとかふたりがだぶってもう、切り離せなくなってきた(笑) 私もファンではなかったですね。でも当時、テレビでみた『ガールハント』とかあと『マンハッタン物語』とかちょっと気になりました。
アルトマンが『BIRD★SHT』でマイケル・マーフィーに『ブリット』のマックィーンのパロディをさせてますけど、そこまでするかというくらいにこってりとカッコよさを演じるマーフィを見ると“キング・オブ・クール”を真顔で全うしてもさらっとしている、その感触がマックィーンの魅力かなあと思えてきます。

M:最初にファンになったアメリカ人の俳優です。最初は『荒野の七人』と『大脱走』。監督降ろされたジョン・スタージェスの作品です。
その後は『シンシナティ・キッド』『ネバダ・スミス』『ブリット』『砲艦サンパブロ』
『華麗なる賭け』と旧作を、リバイバルや名画座で見まくりました。
特に『砲艦サンパブロ』のマックイーンの毅然とした海兵隊の姿は良かったです。
この辺の作品は甲乙つけがたい位に好きです。
『栄光のル・マン』以降は追いついて、リアルタイムで見ています。
後期ではサム・ペキンパーの2本は最高だと思います。
主演作品は、多分晩年の『民衆の敵』以外は全て見ています。
魅力は、アンチヒーローだったり、敗者の美学といった少し影のある部分でしょうか。
それと笑顔ですね。
ル・マンもそうですが、負ける役が多かったと思います。
彼の映画は、何度見ても飽きないんですよね。見る度に魅力が増してきます。
日本人で言ったら、石原裕次郎みたいな存在かな。
『栄光への5000キロ』というレース映画を自社プロで制作したのも、似ている気がします。

photo by NIGEL SNOWDON
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A:ちなみに彼でなかったら、当時、誰のファンでしたか?

M:ありきたりですが、アラン・ドロンとベルモンド。アメリカ人ではロバート・レッドフォードですかね。イギリス人だとピーター・オトゥールやテレンス・スタンプとか。

A:同時代の映画をコンスタントに映画館で見始めるのはもう少し後なのでむしろ洋画劇場でみた昔のスターたちに憧れていました。
あ、リバイバルで『アラビアのロレンス』を見てピーター・オトゥールに、『恋』(これは地元の国立スカラ座でみました)のアラン・ベーツにファンレターを出したのがこの頃かな。

A:スターというもののあり方の変化を振返るとマックィーンはどのように位置づけられますか? その意味でこのドキュメンタリーはスターへの見方を変えましたか?

M:我々には全く手の届かないところにいるハリウッドのスター。
最近のスターは、何となく距離感が短いのですが、マックイーンは違いますね。
因みに淀川長治さんは、嫌いな役者の筆頭にあげていました。
タイプキャストしか出来なくて、同じような役ばかりで、芝居に深みがないと思っていたようです。

N:昔と違い分業制が進んだ今なら、JBのミック・ジャガーのようにもっと違う参画の仕方があったように思いますが、当時誰も文句も言えないスターだった彼自身が感じたレースにおけるヒリヒリ感を表現するには、このやり方しかなかったんでしょう。

A:当時、女子校では彼をアイドルみたいに崇めている人はあまりいなかったのですが、またファン雑誌を読んでいても男の子のファンが多かったように思いますが、そのあたりどうでしょうか?

T:80年代のイギリスのアコースティックバンドがでてきた時期、プレファブ・スプラウトというバンドが『スティーブ・マックィーン』というアルバムでトライアンフ・ボンネヴィルのジャケットだったよね。やっぱり男の子にとって、マックィーンのそういう世界観てすごくあこがれとしてあるのだと思う。イタリアでもPittiでスナップの常連のAlessandro Squarziはじめアメカジ的なものに夢中になっている。きっとマックィ—ンとか好きだと思います。

M:『大脱走』がテレビ放映される度に、男子のファンは増えていました。女子学生には魅力はわかりにくいですね。
当時はレイモンド・ラブロックとかルノー・ベルレーみたいな役者が人気あったのではないでしょうか。アクション系だとジュリアーノ・ジェンマとかですね。
日本だけが『栄光のル・マン』がヒットしたというのも、当時の人気がわかる話ですね。

A:級友の透明下敷きの中にはさまれていたのはピーター・フォンダとかピーター・ストラウス、確かにレイモンド・ラブロックとかレナード・ホワイティングとかもいましたね。

photo by NIGEL SNOWDON
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T:原初的にはスポーツカー的なものにはすごく興味があったと思います。かっこよさに。小さいときジャグアE-typeの絵をよく描いてたのを覚えています。でも実際のスピードは苦手なのかも?

M:『栄光のル・マン』は、自分に車やモータースポーツへの扉を開いてくれた作品でもあります。
特に冒頭に出てくるナローポルシェことポルシェ911は、最高に素敵でした。
このドキュメンタリーでも同じ911で、同じ市街地を走っていて、感動しました。
実際に映画で走っていたル・マンのキングと呼ばれているジャッキー・イクスというベルギー人ドライバーがいるのですが、後年彼に会う機会があり、サインをもらってしまいました。
マックイーンは車のセンスも、アメリカ人には珍しく際立っていました。
スポーツカーだけでなく、日常の足にはミニを使ったり、ジャガーE typeを愛するなど、ヨーロッパ感覚も高かったです。
『華麗なる賭け』に出てくるショートボディにしたフォルクスワーゲンのバギーも、彼の好みのようですが、大変運転には苦労したようです。
『栄光のル・マン』で共演したエルガ・アンデルセンには、ポルシェ911をプレゼントしています。彼女は割と早く亡くなり、最近その車がマックイーンの写真と共にオークションに出され、高額で落札されたようです。

A:マックィーンのファッションに関しては?

T:当時理解できたものは少ないと思います。その後ニールとの結婚時代だと思うけれど、マックィーンの写真集を見て、海辺のピクニックとか、ノンチャランスな格好よさを理解できるようになりました。
マックジョージのアランセーターとかショールカラーのセ—ターとかでリラックした感じ。
裾幅や丈をいじったと思うパンツやトリッカーズのマッドガード、ペルソールとかね。おなじみのバラクータG9とかも。
今の時代のシャレ感に通じるベーシックなジャケットとかパンツとかコートとか,サイズ感・丈等に自分の価値観があったのかなと思います。

N:A2ジャケットくらいでしょうか?今回のドキュメンタリーを観るかぎり、このロケの時のマックィーンの私服はちょっと残念でしたね。

M:『華麗なる賭け』で着ていたダグラス・ヘイワードは、着こなし含めて素敵でした。当時のお洒落なスター、マイケル・ケイン、テレンス・スタンプ、ジェームス・コバーンなども御用達のロンドンのビスポークです。
ただ彼の本質は、アメリカ的なカジュアルですね。LEEのデニム、バラクーダー、サンダースのチャッカーブーツのシンプルな着こなしは好きです。
それからミリタリーアイテムを格好良く着るのも、マックイーンが代表選手のようなものですね。
実際に彼が着ていた英国のバブアーでは、今もマックイーンモデルがありますし、サングラスのペルソールにもあります。
タグ・ホイヤーもモナコというマックイーンのル・マンモデルを再発売しています。
本人の意識以上に高まっていますが、ファッションアイコンとしてのカリスマ性は高いと思います。

A:『ダーティーハリー』『フレンチ・コネクション』『明日に向って撃て』『地獄の黙示録』『ティファニーで朝食を』『カッコーの巣の上で』と、プレスにあるマックィーンが蹴った企画の中で彼主演でみたかったものはありますか?
N:どれも彼じゃなくて良かったと思います。笑 先日、久しぶりに『地獄の黙示録』を観ましたが、最初から最後まで目が離せないくらい面白く観ました。全てに完璧な映画、すばらしかったです。

A:『ティファニーで朝食を』は意外にいいのでは。

M:『ダーティハリー』は、サム・ペキンパーの師匠であるドン・シーゲルですから、面白くなったでしょうね。意外に刑事役は『ブリット』だけど少ないです。
初期の作品ですが、ドン・シーゲルと組んだ『突撃隊』は、良かったので、相性もいいでしょう。
『明日に向かって撃て!』は、サンダンス・キッド役だと思いますが、あれはロバート・レッドフォードで良かったです。
どの映画もマックイーンがやったら、違った映画になりましたが、一番見たいのは『ダーティハリー』ですね。
でも今回の作品で生のマックイーンを見ると、マックイーンはやはりマックイーンなので、彼が実際に出演した作品で十分だったと思います。

『スティーヴ・マックィーン/ その男とル・マン』
2015 年カンヌ映画祭・CANNES CLASSICS 部門正式出品
2015 年ドーヴィル映画祭・2015 年ニュージーランド国際映画祭正式出品
[2015 年/アメリカ=イギリス合作/112 分/原題:STEVE McQUEEN THE MAN & LE MANS] 提供:キングレコード 配給:ビーズインターナショナル
監督:ガブリエル・クラーク、ジョン・マッケンナ
5 月 21 日(土)より新宿シネマカリテにてモーニング&レイトショー 6 月 25 日(土)よりシネマート心斎橋にて、ほか全国順次公開

photo by NIGEL SNOWDON
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60’s Pop Musicの仕事人達を描いた 『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』/ ”THE WRECKING CREW”/

©2014,Lunchbox Entertainment
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Entertainment

60年代LAで活躍していたスタジオミュージシャンを描いたドキュメンタリー『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』が公開されている。
今の時代は、参加ミュージシャンはクレジットされるのが当たり前になっているが、1960年代には、殆どスタジオミュージシャンの名前が表に出る事が無かった。
この映画は、スタジオミュージシャン集団レッキング・クルーのギタリストであり、リーダー格だったトミー・テデスコの息子デニー・テデスコが、父親達の軌跡を埋もれさせない為に制作したものである。ただ使用される130曲の楽曲の著作権クリアにお金と時間を要し、18年の年月とクラウドファンディングの助けを借りて、ようやく完成にこぎつけたという背景を持つ。
僕は彼らの存在を、残念ながら全く知らなかった。
キネマ旬報のピーター・バラカンさんの評を読むと、モータウンやスタックスなどのレーベルはには専属ミュージシャンがいたというし、ジャマイカのレゲエレーベルスタジオワンでも独特のサウンドを創り出すメンバーがいたが、LA,NYではそういう存在はなく、フリーのスタジオミュージシャンが多数活動していたようだ。

©2014,Lunchbox Entertainment
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レッキング・クルーはその中でも、フランク・シナトラやエルビス・プレスリーのような超メジャーアーチストから、ビーチ・ボーイズ、サイモン&ガーファンクル、バーズ、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンド、フィフス・ディメンションなど、一つのカテゴリーや時代を創り出したアーチストに大きく貢献をしているチームである。
ビーチ・ボーイズのブライアン・ウイルソンは、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドに影響を受けて、レッキング・クルーを起用し大きな成功を収めたのだが、彼らの存在をしっかりウォッチすると、当時のLA音楽シーンのネットワークが見えてくるのではないかと思う。

このドキュメンタリーの中で、僕が最も注目したのは、前述したフィル・スペクターがプロデュースするウォール・オブ・サウンドとザ・モンキーズである。
ウォール・オブ・サウンドの代表曲はロネッツの名曲『ビー・マイ・ベイビー』だ。
遥か昔の話になるが、映画『さらば青春の光』を見て、一時期は毎日スペクターサウンドを聴いていた。
オーバーダビングを多用し、ラジオ用にモノラル録音に拘り、誰もが好むようなガールズポップを次々に産み出したフィル・スペクターの音楽シーンに与えた影響は計り知れなく、それを陰ながら支えたのが、レッキング・クルーということになる。

70年代になると、レッキング・クルーは、カーペンターズの世界的大ブレイクにも貢献する。
デビュー前のカーペンターズは、サイケデリック全盛のLAで、地道に自分達のサウンドである美しいポップミュージックを追求していたグループだ。
この映画にも度々登場するA&Mのハープ・アルバートに見出され、メジャーデビューをしているので、レッキング・クルーの起用は必然であった。
サウンド的にはフィル・スペクターの影響を感じされる楽曲が初期には多く、大ヒット曲『スーパースター』は、映画の中でもレッキング・クルーの一員的な位置づけで登場するレオン・ラッセルの作曲である。
あまりにもメジャーな存在で、日本ではイージーリスニングの代表としてやや軽く扱われている一面もあるが、カーペンターズのサウンドは、フィル・スペクターのようなポップミュージックの基盤に立脚しているという事を、改めてこの映画を見て感じることが出来た。

ザ・モンキーズは、自分にとって特別な存在のグループである。何と言っても最初に買ったレコードが『モンキーズのテーマ』なのだ。
この映画の中では初めて(なのかな)と言ってもいいのではないかと思うが、ミッキー・ドレンツとピーター・トークというメンバー自身によって、モンキーズの真実が語られる。
僕が一番好きだったメンバーは、一番地味でミュージシャンらしいピーターだった(以前小山田圭吾さんとモンキーズについて話した際、彼もピーターが一番好きだと言っていた)のだが、現在の彼の口から真実が語られる事に、小さな興奮を覚えた。
自分が小学生だった時代だが、モンキーズが来日して武道館公演が放送され、「スター千一夜」に出演する生の彼らの姿を見て、TVとは違いヒッピーのような様相だったので驚いた事を、よく覚えている。その時も裏では別のミュージシャンが演奏しているという疑惑が持ち上がっていた。
実際リーダー格のマイク・ネスミスが演奏問題でマネージメントともめるなど、人気グループゆえの様々な問題を抱えていたらしい。
その辺はアイドルとミュージシャンの狭間で同じように悩みを抱えていた同時代の日本のグループサウンズにも、相通じる部分がった。
しかしLIVEからの叩き上げであった日本のグループサウンズとの決定的な違いは、モンキーズがオーディションによって集められたグループであり、演奏力以外の部分で、メンバーが決まっていった部分である。
落ちていたメンバーの中には、スティーヴン・スティルスや、後年ラヴィン・スプーンフルや、スリー・ドッグ・ナイトに加入する実力派のメンバーがいたという伝説になっている。
そういう芸能的な事情があるグループだけに、レッキング・クルーへ大きく音楽的に依存していた事も、容易に理解できる。
例えそうであっても、モンキーズのポップで、美味しいどこ取りをしたようなヒット曲の数々は素晴らしく、今聴いても全く色褪せていない。
ビートルズやビージーズのようなロック的なサウンドから、後年登場するアバのようなポップなサウンドまで、モンキーズのジャンル的懐が深いのも、レッキング・クルーがあっての事であろう。

パンクアンセムになっている『STEPPIN’ STONE』や、忌野清志郎さんもカバーした『デイドリーム・ビリーバー』など、現在まで生き続けている曲も多い。
1967年にリリースされた『スターコレクター』は、この時代らしいスカビートに、サイケデリックを混ぜたアップテンポの傑作だが、皮肉なのかギャグなのか、ビデオではピーターとマイクがエアギターを弾いている。
こういった楽曲のクオリティと守備範囲の広さは、レッキング・クルー無しでは生まれなかったのではないだろうか。
一番人気だったディヴット・ジョーンズは既に鬼籍に入っている(デヴィッド・ボウイは、彼と同姓同名だった為、ボウイと名前を変えたらしい)が、最近ミッキーと、ピーターで再結成し、ポール・ウェラーやノエル・ギャラガーが楽曲を提供するという話も聞いている。

https://youtu.be/3TCOggiUGHk

映画『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』は、見た方一人一人の音楽的体験で、様々な入り口や思い出が見つかってくる作品だ。
1960年代のポップミュージックが好きな方には、是非体験して見て頂きたい記録映画である。

2016年2月20日(土)~3月4日(金)
新宿シネマカリテほか、2週間限定モーニング&レイトショー!
2014/アメリカ/101分/1.78/ドキュメンタリー