Cinema Discussion-13/『サンローラン』 天才デザイナーのying&yangに迫るサンローラン外伝

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
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新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
今年最後となる13回目の今回は、デザイン界の巨匠イヴ・サンローランを鋭角的に描いたフランス映画の意欲作『サンローラン』です。
前回取り上げた『エデン/EDEN』は、セルクルルージュの当初からのコンセプトでもある音楽と映画をクロスオーバーさせた作品でしたが、今回はもうひとつのコンセプトでもあるファッションと映画をクロスオーバーさせた作品です。
イヴ・サンローランに関しては、これまでもサンローラン財団公認の正統派のバイオ映画『イヴ・サンローラン』や、パートナーであるピエール・ベルジェの視点で描いたドキュメンタリー『イヴ・サンローラン』など、次々に映画が制作されていますので、ご覧になった方も多いかと思います。
今回ご紹介する『サンローラン』は、他の伝記映画とは一線を画するイヴ・サンローランの持つ陰と陽~YING&YANGにフォーカスしたサンローラン外伝ともいうべき作品です。
ディスカッションメンバーはいつものように川野正雄、名古屋靖、川口哲生、映画評論家川口敦子の4名で、今回もナビゲーターは川口敦子です。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
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川口敦子(以下A)
この映画を見るまでのサンローラン像と見てからの像、どう変わりましたか、あるいは 変わらなかったでしょうか?

名古屋靖(以下N)
サンローランとの最初の出会いは幼少の頃のトイレマットやタオルのロゴマークでした。その後ファッションを意識するようになってからは、歴史的巨匠の一人として再認識していましたし、薬物依存やうつ病など抱えていたのは聞いていたのでナイーヴで静かな天才の印象は変わりません。この映画では彼の不安定性やダークサイドをさらに抽出してよりアーティスト的な側面を描いていますね。

川野正雄(以下M)
サンローラン像という意味では、より天才的でエキセントリックな印象です。戦争体験の話もありましたが、天才にありがちなバランスの悪さというか、そういう部分を強く感じました。
個人的には、映画の終盤に出てくる回顧展に絡んでサンローランの仕事をしたことがあります。回顧展は確かブランド30周年のアニバーサリーで、日本ではセゾン美術館で開催をしました。
同時開催で、日本武道館初のファッションショーを、サンローラン本人を招いて行いました。
私は中継ぎのピッチャーみたいな役割で、ファッションショーの途中過程に、ディレクターとして参加をしました。
そこで接したサンローランの主要メンバーとの仕事で、メゾンの大変さや権威主義を、身を持って体験することが出来ました。
ブランドのトップという初老のフランス人と会議をしましたが、すぐ顔を真っ赤にして怒っていました。
今思うとサンローランの公私共にパートナーだったピエール・ベルジェだったのではないかと思います。
インターネットも無い時代ですから、ステージの模型を持って、スタッフが1泊4日でパリに行き、ダメだしを喰って帰ってくる~そんな仕事でした。
残念ながらショー当日は、私は別の仕事に入っており、生で見る事は出来ませんでしたが、その時の印象と、今回の映画の印象は、オーバーラップするものがあります。

川口哲生(以下T)
私のサンローラン像はどちらかというと神経症的な、より繊細な印象が勝っていたが、映画ではデフォルメされた部分も含め派手で退廃的でスキャンダラスなイメージが強かったな。ウォーホールのサンローランのポートレイトはもちろん知っていたが、二人のやりとりや大西洋をはさんで『富と有名であることを手に入れたアーティスト』としての相似性は(作者の意図なのだろうけれど)、今まではそんなに強く意識したことが無かったように思います。

A
小学5年生の頃、伊勢丹の女子服売り場に、ノースリーブのワンピースで幾何学的にテープで分割した、すとんとしたスタイルのものがあってほしいなあと思い、母に白いグログランテープで分割を取り入れたものを縫ってもらった記憶があります。今、思うとモンドリアン・ルックでサンローランが注目を浴びた、それを日本の作り手も子供服にまで採用するくらい意識したってことなのかもしれません。そのワンピースを祖母がモダンだねと評した。モダンってこういうものか、と60年代の子供にとってサンローランは案外、そんなふうに知らずに意識されていたのだなあと思い起こすと感慨深いものがあります。
そこで植えつけられたモダンなというイメージがいつの間にかYSLのタオルやスカーフのはずかしいものになっていた。その過程はあまり覚えていないけれど80年代にはもうそういう受けとめ方をしていた。『暗くなるまでこの恋を』はじめ映画雑誌ではドヌーヴとの関連で紹介され、いしだあゆみがパリまで買いに行ったなんて記事を見た気もします。
というように子供の頃から肉体を伴った存在というよりイメージとして認識していたサンローランが今回の映画を見ることで肉体化(内面も含め)され生々しく迫ってきたように感じます。

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A
前の質問とも関連しますが、本作は既にあるオフィシャル版の伝記映画に対する”外伝”的な位置にあります。監督ベルトラン・ボネロのこれまでの映画に通じるダークで挑発的な時代や人への眼が良くも悪くも出ていると思いますが、様々な点にある映画の挑発性については? またそれはサンローランという存在を描く上でふさわしいと感じましたか?

T
これでもかというゲイ的な描写や、象徴としての途切れないタバコ、酒やドラッグヘのアディクションは確かにダークサイドに振れて挑発的ですね。それはサンローランというファッションアイコンを描くというより、サンローランを通じてこの時代や、監督がインタヴューで言っている『格調高く閉じ込められた自己が破綻していくというアイデア』を描くためということに力点が置かれた表現なのではと感じました。

M
オフィシャル認定作品では多分描けないような、アヴァンギャルドなアプローチをしていますね。正に外伝かと思います。このアヴァンギャルドさや、スリリングなアプローチというのは、サンローランが持っていた先進性にも通じるタッチなのでしょうか。
サンローランをリスペクトした作品を作るというより、サンローランというファッションの天才を題材に、自分の作りたい映画を作った~そんな感じです。
ゲイのシーンと、ドラッグのシーンは、ちょっとtoo muchでした。

A
オフィシャル版『イヴ・サンローラン』(ジャリル・レスペール監督、ピエール・ニネ主演)やそれに先立って登場した、レスペール版の原作的にも見えるピエール・ベルジェを軸にしたドキュメンタリーに比べ、本作はサンローラン自身より彼を介して監督ボネロの世界が興味深く迫ってくる怪作ですね。うんざりするような描写もあるものの、そこが面白さともいえると思います。19世紀末から20世紀の初めのパリの高級娼館を舞台にした『メゾン ある娼館の記憶』でも”笑う女”と呼ばれる、客に口を切り裂かれた美女の逸話をこれでもかというくらいに繰り返して描き、また梅毒で命を落とすひとりの病に冒された死に顔も凝視する、そういう露悪的、あるいはグロテスクともいいたいような容赦のない挑発性を人を描く上でのひとつの基準としているような面がボネロの世界なのではと。いっぽうで移ろう時代、印象派の絵の世界にあるような古き佳きパリの気風の綻びをそんな人の暴力性に対置してノスタルジックに『メゾン』は提示してみせますが、今回も世界の変わり目を残酷に、しかし感傷も添わせて描いていますね。

N
ちょっとデビッド・リンチを連想するような不穏なライティングや音楽。わざと被写体深度を浅くしてボケを多用する幻想的なカメラワークなど、彼の謎めいた暗部をスキャンダラスに描いていたと思います。ただサンローランの映画が、もしもこれだけだったとしたら、彼がちょっとかわいそう。

A
挑発性という点で映画が的を絞った60年代末から70年代という時代こそが映画の面白さで、サンローランはむしろそれを描くためのフックのようにも見えますが、そのあたりに関してはいかがですか?

N
60年代末から70年代はファッションに限らず、音楽や映画などあらゆるクリエイティヴがビジネスになっていった革命的変化が起こった刺激的な時代です。劇中1967年、アンディ・ウォーホルからの手紙で「今の時代、映画、音楽、宣伝だけが創造的だ。だから僕はバンドをプロデュースした。」という一文がありました。それから約半世紀経った2015年その3つのどれもが、ともすると衰退しつつある厳しい状態で、真の創造性はすでにそこには存在していないのかもしれません。現在のファッションや服のトレンドでも、旅や音楽などの異なるカルチャーが影響を与える事例は昔より少なくなりました。

M
時代を60~70年代の10年間にほぼ絞っていますよね。2回のコレクションが中心で。
『JIMI 栄光への軌跡』も、時代を3年間くらいに絞っていましたが、伝記映画を撮るのに、ある時代にフォーカスするというのは、焦点が絞れて面白いと思います。特に60年代後半~70年代は、デザインの飛躍や、製造技術の進化があった時代で、アヴァンギャルドが市場に受け入れられ、デザインの価値そのものが社会性を持ってきた時代だと思います。その中でのサンローランの存在感を描くことで、相乗効果の化学反応を、監督は狙っていたのではないでしょうか。
冒頭いきなりトリュフォー/ドヌーヴの『暗くなるまでこの恋を』の話が出てくるのが面白かったです。ベルモンドとドヌーヴというキャストと、サンローランの衣装以外は、あまり見るべきものがない映画でしたが。

A
インタビューで監督ボネロは、68年生まれの自分にとって映画で描いた時代は父母とその友人たちの時代、垣間見たその時代への追憶もあったと語っています。『メゾン』でも舞台の娼館が19世紀末から20世紀へという時代こそを描くための装置となっていますが、今回もやはり時代こそが主役ともいえるかもしれない。今さらな言い方ですがやはり価値の大きな転換があった10年だったとは自分の中でも思えます。
最初にホテルにお忍びでチェックインするサンローランがプルーストの『失われた時を求めて』に目配せしてスワン氏と偽名を使いますが、ヴィスコンティとも繋がる失われた時代への哀悼をボネロの映画も世界観のひとつの軸として底に湛えている気がします。

T
私も見ながら同じようなことを感じました。限られた60年代末から70年代という時代を区切って描くという感じは、表現こそ違うけれどこれまでセルクルルージュで取り上げてきたジミヘンのBIO-PICに共通するし、私たちセルクルルージュのもともとのコンセプトにある音楽・アート・ファッションの濃密な関係というテーマを含んでいますね。(逆に言えばそれだからシネマ・ディスカッションで取り上げてると言えるのかも。)

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A
68年パリを描く分割画面はサンローランのモンドリアン・コレクションへの目配せで、同時に往時の映画でもよく使われた手法でしたが、時代とファッションの関連に関してはどのように見ましたか。

T
サンローランは私の世代ではハイファッションでリアルなブランドではなかったけれど、
パリ‘68やベトナム、公民権運動等のフィルムと分割で紹介されるコレクションを見ると、サファリルックだったり、シースルーだったり、オリエンタルだったりストリートとの呼応がちゃんとありますよね。そしてまたハイファッションからストリートへフィードバックされるような循環を感じる。
メインのコレクションの一つとして描かれる71年の『40年代へのオマージュコレクション』も蚤の市の古着でストリートでは再現される。そこがおもしろい。

M
ラストのコレクションシーンの、モンドリアルの使い方が見事でした。
映画の中でのモンドリアルの使い方としては、『華麗なる賭け』のオープニングタイトルに匹敵する格好良さだと思います。確か1968年の映画ですね。
確か日本では、キャンティの川添氏が最初にサンローランを輸入していたのだと思いますが、その当時の存在感は、超スノッブだったのではないかと思います。
キャンティの1階にベビードールがあり、ザ・タイガースやテンプターズの衣装を作っていましたが、当時のキャンティ周辺の文化的欲求のテンションと、この作品で描かれている世界感は、共通しているものがあると思います。
当時ベビードールで服を作っていた方のお話を聞いたことがあります。当時はまだ日本の知識も技術も未熟で、ヨーロッパでセルッティなどの服を買ってきて解体し、裁断方法を学んだそうです。

A
分割画面の技法はもちろんこの時代に発明されたものだったりはしませんが、でも流行りましたね。ウォーホルというかポール・モリッシーも『チェルシー・ガール』(66)とかで使ってますね。あと前後した時代だとリチャード・フライシャーの『絞殺魔』(68)これは川野さんがあげられた『華麗なる賭け』と同じ年の作品ですね。そして『悪魔のシスター』(73)とかとかのデパルマもいますね。サンローランのコレクションと関係あるかは疑問ですし、ボネロは『メゾン』でも使っているからこれもサンローラン以前からお気に入りの手法なのでしょう。が、今回彼の映画ではより積極的にサンローランと結び付けて使っているように思いました。

N
スプリットスクリーンですね。70年代当時流行りましたよね。子供の頃、エルビス・プレスリーのハワイ公演のTV放映や映画『ウッドストック』でこのスプリットスクリーンを見た記憶がなぜか鮮明です。この映画ではコレクションのその時々の時代性との対比や、ランウェイの裏と表を同時に見せるための効果的な演出になっていますね。

A
特に時代との関連では性の境い目の超越という点が興味深く描かれていると思いますが、現在のスリマン版サンローランも継承しているマスキュラン/フェミナンへの眼についてご意見は? 様々に考えたいテーマがみつかるように思いますが?

N
60年代末~70年代クリエイターがゲイかバイセクシャルというのは、1981年頃にAIDSが登場するまでは最先端の流行でしたね。性の境目を超越するのがクリエイティブな何かを生み出す事と直結するとは思いませんが、ファッションを生業ととする者として顧客の気持ちになれる事や、仲間が多い事が業界で優位に働いたのは事実でしょう。ミューズの一人、ベティ・カトルーは以前インタビューで「彼とは肉体関係はないかった。じゃなければこんなに長くは友情関係は続かない。」と、本当かどうかは分かりませんが言っています。ただ彼が今で言う性同一性障害かというとそうとは言い切れない所もあり、劇中で妊娠させてしまったお針子を密かに排除するところなどは、彼が両刀だった事を表しています。個人的には事実と反する演出のような気もしますが。
エディ・スリマンの普遍テーマは「ロックと少年性」です。批判を受けても激やせモデルを使いたがり、世の中がカラフルになってもモノトーン。シルエットはあくまで細長くスキニーでタイト。その決してぶれない頑なさはまた別のアンドロギュヌス性も感じます。

T
確かにサンローランが映画の中で身にまとうものは、シャツにハイウエストのルーミーなバギーパンツ(足が長い人が履くとかっこいいなと思ったし、今クラシックなクロージングでもスーパースリムへの飽きから腰回りにゆとりのあるプリーツのあるパンツへの向かう傾向の中では何か新鮮!)とか白衣の下の花柄ぽいシャツ、襟が丸く広いウインドウペーンのツイードのスーツとかどこかフェミニンさを強く感じますね。サンローランを象徴するようなストライプのダブルブレステッドスーツも演じるウリエルのせいもあり、何か男装の麗人みたいな感があります。
他方パンツスーツやウーマンリブ的な意味も感じてしまうシースルー、ワークっぽいサファリスーツ、映画のワンシーンでも顧客の女性がためらうような男性的な肩の大きなパンツスーツ等々にはジェンダーレスを意識します。
最近人として面白いなと思うグッチの新しいクリエイティブ・ディレクターのアレッサンドロ・ミケーレもジェンダーレスと評されていますね。Vogueで読んだけれど『30年も40年も前からジェンダーレスという価値観はあったんだ。本当は古くからあるものなのに、なぜか今、新しい流れとして捉えられている。僕は取り立ててジェンダーレスを意識している訳でなくて、ただ自由でありたいだけ。ファッションにはルールは必要ないんだ。』といっている。70年代と今という時代感の相似性も面白く感じるけれど。
(セクシーからセンシュアリティへという感じですか。)

A
母役でドミニク・サンダが出ていますね。で、サンダが『暗殺の森』で教授の家を訪ねた主人公を迎えに出る所、玄関ホールの奥から太いパンタロンとくわえ煙草で腰のポケットに手を入れて男っぽく歩いてくるシーン、あの感じはディートリッヒのイメージもかぶっているジェンダーの超越、あるいは超越することによって逆に強調される性といったテーマを思い出させます。あるいはそのサンダがスモーキングをさらっと纏って、やはり煙草だったか葉巻だったかをくゆらせているパルコのコマーシャル(78)、あれも強烈に印象に残っている。と、今回、彼女が出てきた所でサンローランのスモーキングと勝手に結ばれおおっと思いました。あまり関係ないかもしれませんが、時代的にはなんか列なっていますね。
性の超越という部分ではボネロの“Tiresia”(03)という一作もすごく面白い。ブラジルから来たトランスセクシャルの娼婦をめぐって禁断の愛と奇蹟の物語がひもとかれる。もとはギリシャ神話で女性に変えられてしまうテイレシアースの物語だそうです。アーシア・アルジェントがドールっぽいモデルとそれを撮る男の子っぽい写真家を一人2役で演じる“Cindy,the doll is mine”というのもある。ちょっと今までチェックしていなかったのですが、気になる監督になりました。

A
前回の『EDEN/エデン』の前段階的なクラブ・カルチャーへの言及も見逃せませんね?
またウォーホルとの関係を通じたニューヨークとパリ、さらにはロンドン、ボヘミアンとのつながりのロシア、 またモロッコ、北アフリカが視界に入っていて――でだからこの映画はディオールではなくココ・シャネルとサンローランをつなげてるのかなとも思いましたが――。 時代とともに都市、地域性というのもファッションのアイデア源としてありますが?

T
先にも触れたけれど、セルクルルージュのシネマディスカッションで取り上げてきたさまざまな映画の共通する要素、たとえばジャームッシュの北アフリカだったり『EDEN/エデン』のパリーニューヨークだったり、ドラッグ体験だったり、ジミヘンのブレイク前の70年代だったり。時代の中でぐるぐる回ってるコアな部分がクリエーションの源泉、インスピレーションソースとして共有されていて、それが時代時代の新しい感性とぶつかって進化しつつ登場する感じがします。

M
選曲はこだわったみたいですね。パティ・オースチンとか、そういうのが良かったのかと思いました。
パラスやヴァン・ドゥーシュといった自分が初めて行ったパリで体験したクラブの名前が出てきて、個人的には嬉しかったです。
サンローラン自身も晩年はモロッコのマラケシュで過ごしたと言いますし、本人もアルジェリア系で、デザインにも一部反映されているかもしれませんが、エキゾチズムをすごく感じました。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
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A
クラブ文化に欠かせない”寵児”たち、ミューズやダンディズムの申し子たちの面白さはいかがですか? キャスティングとも通じますがどうでしょう?

T
パラス、バンドゥーシュ前のキャステルとかの感じかな。
ミューズのルルとかボーイフレンドのジャックとか結構ステレオタイプな感じがしてしまったけれど。
晩年のサンローランを演じたヘルムート・バーガーには私生活も重ねていろんな思いがありました。

N
ルイ・ガレル演じるジャック・ド・バシャールはいやらしかったですね(笑)。カール・ラガーフェルドも同時期にジャックと恋愛関係だったそうなので彼の登場を期待しましたが残念ながら出てきませんでしたね。
あと、晩年のサンローラン役をヘルムート・バーガーが演じていたのは驚きでした。重厚な雰囲気もありゲイつながりで洒落たキャスティングだと思いました。

M
レア・セドゥとルイ・ガレルは良かったです。ルイ・ガレルは『ジェラシー』と全く違うキャラクターですが、ダリみたいな風貌で面白かったです。
レア・セドゥは、同じお正月映画の『007 スペクター』にもボンドガールとして出演していますが、今最も旬な女優という印象があります。
後はやはりヘルムート・バーガーと、ドミニク・サンダですね。
『地獄に堕ちた勇者ども』の映像も出てきましたし、この二人の起用が、映画全体にデカダンな色彩を加えたと思います。

A
ところで映画そのものの衣裳については?

M
スモーキンジャケットを改めて認識しました。
ヌードとコートのコラボレーションになるヘルムート・ニュートンの撮影シーンも美しかったです。
レア・セドゥのヒッピー的な古着コーディネートからインスピレーションも面白かったです。

T
とても質感があって、こだわって作った感じが伝わりました。

N
65年のモンドリアン・ルックはオフィシャル版の独占使用だったのか、この映画で服は出てきませんでしたね。でも映画後半で、自宅で手中にしたモンドリアンの絵画を前に立つシーンはとても印象的でした。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
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A
オフィシャルやドキュメンタリーでも白衣のサンローランとお針子たちの手仕事の位置の大きさが強調されていましたが、いっぽうではストリートとも繋がりたい創造上のジレンマといった部分、継承と破壊ということ、またアメリカ(そして日本)のロゴ商売、資本の統合といった現在のファッションへの繋がりといった部分に関してはいかがですか? 今、作り手の面白さで惹かれる、着るってことはありますか?

T
これもVogueで読んだミケーレの話で恐縮ですが(笑)、‘16FWコレクションでイタリア人哲学者ジョルジュ・アガンベンの『真にコンテンポラリーな人物、自身の生きる時代に属する人物は、時代に完全に同化することも、時代の要請に順応することもできない。この意味では、コンテンポラリーな人物は非現実的であると言える』という言葉を引用したそうです。No Longer, Not Yetの感覚のズレがコンテンポラリーの最たるものであるアーティストとビッグビジネスとのせめぎ合いになることもあると思います。

M
サンローランブランドのライセンスビジネスが、理想的な形だったのかどうかは、よくわかりませんが、ブランドビジネスとして、一つの定型を作ったのではないかと思います。
ただ名古屋君の話にもありましたが、日本においては、ピエール・カルダンと並んで、大量生産型のライセンス商品が溢れ、この映画に出てくるようなサンローランのスタイルを貫いたとは思えません。
映画を見て、70~80年代のサンローランの本当のブランド力が、日本には伝わっていなかったように感じました。
またオートクチュールに代表されるメゾンの仕事ぶりは、この種の映画には欠かせないエッセンスですが、特にそこに注力をして描いているとは、この映画では感じませんでした。
もっとサンローランの内面に入り込み描写をする事に注力し、メゾンの仕事の素晴らしさとか、そういうテーマではなかったですね。
ドキュメンタリーですが『ディオールと私』では、お針子の仕事ぶりが、見事に描かれていた記憶があります。
サンローランの仕事で実際に体験した権威主義とか、植民地外交みたいな部分は、彼らのブランド主義を象徴してるのかもしれません。
自分の経験でいうと、ラルフ・ローレンの姿勢とは、全く違うものでした。アメリカとフランスの違いが顕著なのかもしれませんが。
同じライセンサーとしての傲慢さでも、質が全く違います。

A
セルクルルージュで紹介してきた仕立て服への興味は、作り手に面白さが失われたことと関連しているのでしょうか?

M
STILE LATINOみたいなビスポークとも、相通じる部分はありますよね。
サンローランの場合には、当時は顧客の想像を遥かに超える次元にあったと想像しますが。いわゆるモードとファッションの違いというか、今の時代、ファッションはたくさんあるけど、モードは少ないみたいな気がします。
感覚的な話ですが、既製服でも、モードと言える服が少なくなってきたんじゃないかなと思います。
そういう意味で、メンズのビスポークの流行は、既製服では満足出来ない人たちが、自らがデザインする感覚になっているのではないでしょうか。
学生時代によく着ていたMILK BOYの服は、当時サンローランのパターンを使っていたとスタッフに聞きました。実際フランスから来たデザイナーみたいな人に会ったこともありますが、テーラード的な服のエッジの利き加減は、今思うと実に70年代のサンローラン的で、素敵でした。そういう服から受ける緊張感や、興奮というものが、自分の年齢や感覚もあるかもしれませんが、薄まっていると感じます。この映画の中に登場する服には、緊張感や興奮が溢れていますね。

N
この映画の60年代後半から70年代中期くらいまでのアーティスト至上主義でなく、マーケティング重視の売り上げ主義にシフトしてから人々のブランドに対する興味が徐々に薄れているのではと思っています。経営側がクリエイターの感性を信頼出来ず、また残念ながらクリエイター自身の多くもそのプレッシャーに打ち勝つ心臓と才能を持ち合わせていないので、ハッとするような挑発的な提案が少なくなっているのも要因かと思います。最近ではディオールのラフ・シモンズなどハイ・ブランドのクリエイター交代劇が早すぎるという批判も耳にします。
サンローランも本人の現役引退とともに2002年オートクチュール部門を閉鎖、一人の顧客のために一から仕立て上げるドレスは今はもう存在しません。ハイ・ブランドが選んだ、より広く需要に応える方向に抵抗するように、女性に比べるとシェイプのバリエーションが少なくて済む男性のおしゃれ上級者が、丁寧な手仕事で「自分だけの理想の仕立て服」に行き着くのは当然の結果なのかもしれません。

T
作り手への興味は人間として何を考えているかということで、自分の着るものとは私の場合つながらなくなっています。

© 2014 MANDARIN CINEMA - EUROPACORP - ORANGE STUDIO - ARTE FRANCE CINEMA - SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL
© 2014 MANDARIN CINEMA – EUROPACORP – ORANGE STUDIO – ARTE FRANCE CINEMA – SCOPE PICTURES / CAROLE BETHUEL

A
映画にしてみたいクリエイターは?

M
日本人ですが、佐伯祐三。
巴里に生き、巴里に死すみたいな人生で。この作品もですが、やはりパリを舞台にするのは華があります。

A
ガス・ヴァン・サント版サンローラン および彼によるジャック・ド・バシャール

T
ホルストンでNYというのはどうでしょう?

N
少々王道過ぎますがカール・ラガーフェルドはプライベートも謎だし面白そう。前述のジャック・ド・バシャールとの蜜月や、ディオール・オム時代のエディ・スリマンのスーツが着たくて13ヶ月で42Kgダイエットした話は有名です。あとヴィヴィアン&マルコム夫婦とかも『シド&ナンシー』みたいに撮ったら笑えそう。

『サンローラン』
TOHO シネマズシャンテほか 全国ロードショー公開中です。
『スターウォーズ/フォースの覚醒』『007スペクター』と大作シリーズ作品が並ぶ今年のお正月映画の中で、知的刺激を受けたい方には、絶好の作品です。

THE MAN meets DJ Scratchy

『THE MAN × DJ SCRATCHY Japan Tour 2015』Kyoto
『THE MAN × DJ SCRATCHY Japan Tour 2015』Kyoto

今年のクリスマスイヴ、元東京スカパラダイスオーケストラの冷牟田竜之さん率いるTHE MANから、素晴らしいクリスマスプレゼントが届くことになった。
1978年以降クラッシュのツアーDJとして活躍し、スカやレゲエとパンクの融合を実現させたDJ SCRATCHYことBarry “Scratchy” Myers とのジョイントLiveが、東京と京都で実現することになったのだ。
昨年のクリスマスイヴには、同じ会場になる渋谷LA MAMAで、野宮真貴さんとのクリスマスらしい素敵なコラボレーションをファンにプレゼントしてくれたTHE MANだが、今年は彼らのルーツともいえる80年前後のロンドンのクラブシーンを彷彿させてくれるようなLIVEを期待したい。
DJ SCRATCHYは、ドン・レッツと共にロンドンのパンクシーンに大きな影響を与えた英国ロックシーンのインフルエンサーというべき人物でもあり、クラッシュのツアーDJや、LIVE前に会場に流れるクラッシュ独自のBGMを選曲したDJのパイオニアである。
多分DJ SCRATCHYやドン・レッツ以前には、DJが音楽シーンに影響を与えるという存在になる事はなかったのではないかと思う。
DJ SCRATCHYにとっては、今回が4回目の日本ツアーだと聞いた。フジロックフェスティバルにも参加しているが、これまで僕は残念ながら彼のDJを生で聴いてことはないので、今回は非常に楽しみにしている。

DJ SCRATCHYが、DJをスタートしたのは1976年ロンドンのカムデンロックにあるクラブDINGWALLSである。
DINGWALLSは、後年ジャイルズ・ピーターソンの ‘Talkin Loud and Saying Something’でアシッドジャズムーヴメントの聖地となるクラブだが、当時はアメリカから来たラモーンズが初ライブを行ったり、パブロックのグループが演奏をしていた。
その流れなのか、DJ SCRATCHYは、パブロックの雄ドクター・フィールグッドのステージにも参加していた。
ドクター・フィールグッドは、パンク前夜の英国のムーヴメントであったパブロックの中心的存在で、日本でも御馴染みのウイルコ・ジョンソンが、ギタリストとして参加していたグループである。
音楽的にはグラムロックからパンクへの過渡期のような時代であり、R&Bをリスペクトしながら、ソリッドでエネルギッシュなロックを産み出していた。

そのドクター・フィールグッドのDJをDJ SCRATCHYがしていたことと、クラッシュのDJをした事は無関係ではないと思う。
同じくパブロックの人気グループだったグラハム・パーカー&ザ・ルーモアのホーンセクションは、クラッシュの『LONDON CALLING』のホーンセクションと同じチームであり、THE MANのホーンセクションにもつながってくる演奏スタイルだった。

https://youtu.be/zzxzHA3zliw

当時ジョー・ストラマーが結成していたいたバンド101ERSも、パブロックと呼んでも良いようなグループだった。
この音源ではニューオリンズの名曲『JUNCO PARTNER』を演奏している。
数年後同じカバー曲がレゲエバージョンに生まれ変わって、クラッシュの4枚目のアルバム『サンディニスタ!』に収録されており、日本公演でも演奏された。
ニューオリンズのルーツ的なR&Bは、DJ SCRATCHYのレパートリーの一つであり、ドクター・フィールグッドもカバーで取り上げていた。
ジョー・ストラマーの『JUNCO PARTNERS』へのこだわりも含めて、当時のシーンでリスペクトされていた事がよくわかる。
同じころコヴェントガーデンのニールストリートにあったクラブROXYでは、ドン・レッツがレゲエをかけながらDJを始めており、パンクミュージックとレゲエの橋渡しをしていた。
クラッシュの曲で『1977』というタイトルがあるが、何かが起き始めていた1976年に、DJ SCRATCHYは、DJとしてのキャリアをスタートしていたのである。

DJ SCRATCHYがクラッシュのライブDJを始めたのは、1978年の仮釈放ツアーのファイナルになったロンドンミュージックセンターでのコンサートのようだ。きっかけはDINGWALLSでの彼のプレイを聴いたジョー・ストラマーが気に入り、声をかけた事だったらしい。
その後クラッシュ初の北米ツアーとなったパールハーバーツアーや、翌年のSIXTEEN TONS TOURに参加するようになり、レギュラーのクラッシュファミリーの一員となっていった。
パールハーバーツアーのハイライトとなったニューヨークのパラディアム公演には、アンディ・ウォホール、ニコ、デボラ・ハリー、ジョン・ケージなど、当時のNYセレブが集結した。また伝説のクラブスタジオ54には、メンバー全員で繰り出し、彼らの曲作りへのヒントを得る事が出来たのではないかと思う。
そういう環境でのDJプレイは、DJ SCRATCHYにとっても、重要な経験だったのではないだろうか。
DJ SCRATCHYがプレイしていた訳ではないので、多分カセットテープだと思うが、彼の選曲を初めて聴いた日の事は鮮烈に覚えている。
1982年1月24日の渋谷公会堂、クラッシュの日本公演初日である。会場に一歩足を踏み入れると、聴こえてきたのはそれまで聴いたことのないオリジナルスカ、レゲエDJ、そしてダブだった。
多分その時代に知っていたのはスカならスペシャルズ、レゲエならボブ・マーリーにピーター・トッシュに、ジミー・クリフ位。ダブはクラッシュの『サンディニスタ!』で初体験だったかもしれない。
当時はそれが誰の選曲かも知らなかったが、ライブ前に聞いたレゲエDJやダブの格好良さがともかく衝撃的だった。
ポール・シムノンがいつもツアー中は、デカいラジカセでセレクトされたレゲエを聴いているというエピソードにも影響され、その時味わった刺激を求めて、後年自分はDJをやるようになったような気がする。

日本公演にも同行したペニー・スミスの写真集からポールお気に入りの一枚を選んでもらった。
日本公演にも同行したペニー・スミスの写真集からポールお気に入りの一枚を選んでもらった。

後日見た追加公演やTV放映公演のわかりやすいセットリストとは違い、初日のクラッシュはその前にツアーしていた北米でのLIVEに近い構成だったと思う。
『夕陽のガンマン』のテーマで登場し、1曲目は当時は新曲で馴染みのなかった『SHOULD I STAY OR SHOULD GO』。
知らない曲で戸惑う中2曲目から『ONE MORE TIME』で早くもレゲエ/DUBが炸裂。ジョー・ストラマーは二日酔いなのか、ステージに嘔吐用バケツを持ち込んでの激しいパフォーマンスで、初めて相対する日本の観客との間合いを計りながらの展開。終盤のアンコールも『ARMAGIDEON TIME』に『BANKROBBER』と、レゲエチューンが並ぶ日本初上陸のステージだったが、個人的には一生忘れられない一夜になった。

その日のBGMに受けた感動が、28年を経過して蘇った日があった。2010年香港で見たゴリラズのLIVE会場である。ゴリラズはブラーのデーモン・アルバーンのユニットだが、このツアーにはギターでミック・ジョーンズ、ベースにポール・シムノンというクラッシュのメンバー二人が参加し、クラッシュ以来という二人揃ってのワールドツアー(ステージでも右サイドにポール・シムノン、左サイドにミック・ジョーンズというクラッシュのステージと同じ布陣)だった。
LIVE前の会場では、30年近く前のクラッシュの時と同じオリジナルスカや、レゲエDJにダブが、独特のリズムで流れていたのだ。DJ SCRATCHYのセレクトかどうかは不明だが、デーモン・アルバーンが、クラッシュやDJ SCRATCHYの世界観を深くリスペクトしている事がダイレクトに伝わってきた。今や英国を代表するミュージシャンのデーモン・アルバーンも、DJ SCRATCHYチルドレンというべき存在なのだ。
因みにライブ自体は、デ・ラ・ソウルら複数のヒップホップアーチストがフロントアクトを務めていた。
このスタイルは、僕がロンドンのレスタースクエアで観たビッグ・オーディオ・ダイナマイトのデビューアルバムツアーと同じ構成である。

https://youtu.be/rTul7hEfxKY

DJ SCRATCHYはクラッシュ以外にも、イギー・ポップ、クランプス、ポーグス、ブラック・ウフルーなどのツアーDJも務めているが、後年ジョー・ストラマーのソロ活動のツアーDJもしていた。
DJ SCRATCHYの音楽性は、ジョー・ストラマーに最も近いのではないかと思う。
クラッシュ解散後、ヒップホップなど新しモノ好きのミック・ジョーンズは、前述のドン・レッツとビッグ・オーディオ・ダイナマイトを結成。
レゲエが好きなポール・シムノンは、中南米の香りがするようなロックバンドハバナ3AMを結成。
トッパー・ヒードンは、グルーヴィなソロアルバムを発売と、個々の音楽的個性が表面に出るようになってきた。
ジョー・ストラマーは、ラティーノ・ロカビリー・ウォーやメスカレロスなど、彼自身のユニットを結成し、よりグローバルな肌触りの音楽を生み出していた。
レゲエ、スカは当然だが、ニューオリンズ、ラテン、チカーノ、ジプシーサウンドなど、グローバルな音楽へのDJ SCRATCHYの幅広い守備範囲は、ジョー・ストラマーとの共感性が高かったと思う。
そういう意味では同じようにレゲエとパンクを繋いだ存在だが、よりクラブサウンド的なエッセンスが強いドン・レッツよりも、ルーツミュージック色が強いという意味では、ギャズ・メイオールに近い存在かもしれない。
余談だが縁あってロンドンのポートベローにあるジョー・ストラマーの家を訪問した際、レコード棚にはギャズ・メイオールの作ったGAZ ROCKIN’BLUESのカセットが並んでいた。

ポールと同じくペニー・スミスの写真集から、一番ジョーお気に入りのショットを選んでもらった。
ポールと同じくペニー・スミスの写真集から、一番ジョーお気に入りのショットを選んでもらった。

最近のDJ SCRATCHYのセレクトは、彼自身のHPや、セルクルルージュでも参加しているMIX CLOUDに、の中に、SCRATCHY SOUNDSというページがあるので、是非とも聞いてみて頂きたい。
クラッシュのライブ前BGMの雰囲気は、トロージャンから出ている彼の選曲したレゲエコンピレーション『SCRATCHY SOUNDS』から味わうことが出来る。

DJ SCRATCHYのレゲエコンピレーションアルバム。
DJ SCRATCHYのレゲエコンピレーションアルバム。

前述したドン・レッツの最近の選曲は、BBCのRADIO 6チャンネルで、ネットでも聞くことが出来るので、聞き比べて頂くと面白いだろう。

そしてTHE MANである。THE MANについては、一度ご紹介しているが、7月にルパン三世をテーマにした『TABOO 皆殺しの唄』を、チャーリー・コーセイさんとの共演でリリース。
その後開催されたBILLBOARD TOKYOのライブでは、チャーリー・コーセイさんとのユニットの集大成ともいえる素晴らしいステージを見せてくれた。
いつものライブハウスとは違う都会的な会場であったが、一段とアップグレードしたパフォーマンスで、バンドとしての成長や成熟を強く感じる事が出来た。

多分今は次なる展開をリーダーの冷牟田さん中心に練っているタイミングだと思う。
冷牟田さんのDJを聴いていると、常にクラッシュの音楽はイメージ出来るし、彼の音楽的な根底に与えた影響を感じる。
この時期でのDJ SCRATCHYとの共演によって、1970年代末期のロンドンのように、バンドとDJの間の緊張感から新たな化学反応が生まれ、大きな爆発がある事を期待したい。
DJ SCRATCHYは、THE MANのファンの為にどのようなセットを用意するのか、そしてTHE MANはどのようなステージを用意して、英国ロックシーンのレジェンドであるDJ SCRATCHYと対峙するのか。
今年のクリスマスイヴ、日本のスカ/ロックシーンに新たな伝説が生まれることは間違いない。

THE MANのLIVE 桜井有里/藤巻鈴奈 (SAKURAI YURI/FUJIMAKI REINA)
THE MANのLIVE
桜井有里/藤巻鈴奈
(SAKURAI YURI/FUJIMAKI REINA)

THE MANのメンバーである冷牟田竜之さん、青木ケイタさん、中村和輝さんからも、セルクルルージュを読んで頂いた皆様に向けて、このライブにかける熱い気持ちのメッセージを頂いていますので、是非ご一読下さい。

2013年のFUJI ROCK FESTIVAL
深夜にも関わらず、異常な熱気が渦巻くテントの中でDJ SCRATCHYのプレイを目の当たりにしました。
一緒にやれて本当に光栄です!
THE MANとDJ SCRATCHYで作りあげる、熱気渦巻く空間をぜひ皆さんにも体感していただきたい。

青木ケイタ Keita Aoki(THE MAN baritone sax / flute)

ライブ直前、ステージ袖でDJのプレイとオーディエンスの歓声を聴き、会場の熱気を感じながら心を集中させていく
いつもやってる事です
名だたるバンドと共に世界を股にかけてきたLEGENDのプレイを全身で感じ、大きなプレッシャーと共にステージへ駆け上がりたいと思います
DJ SCRATCHY × THE MAN
どんな夜になるか、想像しただけで興奮しています
皆さんも是非体感しに来て下さい
会場で待ってます

中村和輝 Kazuteru Nakamura(THE MAN guitar)

十代の頃
THE CLASHのライブを体験するには
VIDEO TAPEしかなかった。
必死で手に入れた
ハマースミスオデオンでの
ライブ。
ライブスタートのSEは
ジョニー・キャッシュのSixteen Tons

それをレコードでかけてたのが
DJ SCRACHYだ。
彼のプレイでジョニーキャッシュを知った。
彼のRUDE STYLEを象徴する曲だと思う。

CLASH TOUR オフィシャルDJ
所謂 ROCKでDJするオリジネーターだ。

今回光栄な事に彼とライブする事になって興奮している。

真のPUNKROCK LEGENDのプレイと
THE MANの演奏、
その激突の現場を
見逃さないで欲しい。

冷牟田竜之 Tatsuyuki Hiyamuta(THE MAN alto sax / agitate-man)

『THE MAN × DJ SCRATCHY Japan Tour 2015』TOKYO
『THE MAN × DJ SCRATCHY Japan Tour 2015』TOKYO

■12月21日(月) 京都 METRO
「THE MAN × DJ SCRATCHY Japan Tour 2015 in KYOTO」OPEN 18:30 / LIVE START 19:30
前売¥3,500 /当日¥4,000 (ドリンク代別途)
■12月24日(木) 東京 渋谷La.mama
「THE MAN × DJ SCRATCHY Japan Tour 2015 in TOKYO X’mas SP」OPEN19:00 /START19:30
前売¥4,000 /当日¥4,400 (共にドリンク代別途)

人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)