Cinema Review-3/ 広大なアメリカを描くアジアの新たな才能の発見『ノマドランド』

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

Cinema Review第3回は、ゴールデン・グローブ賞作品賞、監督賞を有色女性監督作品として、初めて受賞したクロエ・ジャオ監督の『ノマドランド』です。
既にアカデミー賞の候補にもなっており、ベネチア映画祭の金獅子賞も受賞している話題の作品です。
主演はコーエン兄弟の『ファーゴ』などに出演し、オスカーを2回受賞しているフランシス・マグドーマンド。彼女はプロデューサーも兼ねた存在です。
今回のレビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄、名古屋靖の3名で行いました。

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★名古屋靖
日本からアメリカに行き、好きなバンドのツアーを一つでも多く追いかけたい時、夜12時前にショウが終了、そのままクルマに乗り込んで次のライヴ会場の町まで何時間も徹夜でドライブしなければならない事がある。出来れば夜間移動は緊張するし退屈なんだけれど、移動中に迎える日の出の時間ほど感動的なご褒美はない。アメリカでしか味わえない見渡す限りの大空と大地が少しずつ赤く染まっていくその真っ直中にいると「ずいぶん遠くまで来たもんだ。今日も楽しい一日が始まる、アメリカすごいよ!」と、期待感と高揚感が最高潮にまで高まる。『ノマドランド』はそんな感動を追体験できる映画だ。とにかく映画館の大スクリーンに自分を埋没させることをお勧めしたい。

アメリカ人は意外と海外旅行経験者が少ない。「海外に出なくても国内でまだ見た事がない憧れの地がいっぱいあるから」だそうだ。僕らの海外旅行は、彼らにとっての遠方への国内旅行と同じスケール感だったりする。自分の言語とテリトリーである程度安心して冒険ができるアメリカは本当にでかくて羨ましい。劇中「あなたはどこへでも移動できるノマドね」という台詞のように、ノマドたちにとって部屋はクルマだけど庭はアメリカ全土という贅沢。そんなポジティブシンキングもアメリカ的で好感が持てる。以前アメリカの友人に「もう一度行くとしたらどこ行きたい?」と聞いたとき「アラスカ!」と即答だった。映画でもノマドたち憧れの地としてアラスカやハワイが出て来たのには笑った。

ただ、主人公ファーンがノマド生活を始めたきっかけは決して前向きな理由ではない。アメリカには民間企業1社だけで成り立つ町が数多く存在するが、そこが不採算事業に転じた瞬間から町自体が消滅する現実がある。長く暮らしていたホームタウンが消える不幸。自宅を始め友人・知人はもちろん、生活必需品や、電気・ガス・水道などのインフラ事業も撤退してしまう。日本ではちょっと考えづらい事だけれど、経済優先の資本主義アメリカではよくある事だそうだ。
そんな、夫とホームタウンを失った初老のファーンが、ノマドの先輩たちから様々なノウハウを享受され、慎ましくもたくましく成長していく姿は愛おしくとても美しい。そんな先輩の多くがリアルなノマド達だという事が最初は信じられなかった。素人とは思えないあまりにも自然な演技でその表情や発する言葉も滞りなく明快で分かりやすい。パンフレットのインタビューを読んでなるほどと思った。「私たちは他の人々の生活の中にただ存在していただけで、彼らの人生を混乱させようとはしていません。彼らの真の生活に入り込もうと努力しました。」この映画はフィクションとノンフィクションの境界を取っ払い、リアリティのその先へ新たなジャンルを確立している。

また自分の話になってしまうのだが、「じゃあ、またね。」とアメリカ人は別れ際に”さようなら”を言わない。絶対また再会できるのを信じているかのように。そしてこんなに広い国でこんなにたくさん人がいるのに、偶然にも再会出来た時には「また会えたね。」と言いハグをする。友情とか人とかが最も尊い財産だと実感できる瞬間だ。劇中でも何度かある再会シーンは静かだけれど好きだ。特にタバコをあげた若いヒッピーとのエピソードは自分にも似たような経験があって強く印象に残っている。ボブ・ウェルズの「この生き方が好きなのは、最後の”さようなら”がないんだ」という台詞にアメリカの魅力が詰まっているような気がする。この映画は一見すると社会問題を題材にした深刻なものに見えるかもしれないが、それを乗り越えた先にある自由や希望を描いたスケールの大きい作品になっている。

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★川野正雄

90年代クエンティン・タランティーノの排出をきっかけに、アメリカの若いフィルムメーカーのFrom Sundance to Cannes というシンデレラストーリーが生まれた。ロバート・レッドフォードが主宰するサンダンス映画祭で注目されたインディペンデントの監督が、カンヌ映画祭にピックアップされ、世界的な評価を得るという流れである。
今や王道とも言えるそのシンデレラストーリーから生まれた新しい才能が、『ノマドランド』の監督クロエ・ジャオである。
既にアカデミー賞候補、アジア系女性監督として初めてのゴールデングローブ賞監督賞受賞、ベネチア映画祭金獅子賞、トロント映画祭観客賞など、多くの栄誉を獲得しているが、久々にすごい監督に出会えたというのが、率直な感想である。
あまりに『ノマドランド』が素晴らしいので、前作の『ザ・ライダー』を、早速アマゾンプライムで鑑賞した(すぐ見れる便利な時代である)。
川口敦子さんのレビューに詳しいが、実際のロデオライダーを役者として起用した見事なカウボーイ映画であり、『ノマドランド』に勝るとも劣らない傑作だった。
何より驚いたのは、サム・ペキンパーの『ジュニアボナー』で描かれているような男の中の男の世界のロデオライダーを、中国系女性監督が見事に描き切っている事である。
この作品はいかにもロバート・レッドフォードが好みそうな現代の西部劇であり、クロエ・ジャオはサンダンス映画祭での上映で注目を集め、カンヌを始めとする各国の映画祭で上映された。
そして本作品の主演兼プロデューサーであるフランシス・マクドーマンドと、トロント映画祭で出会い、本作品は生まれるきっかけが出来たのである。
前置きが長くなったが、本題である『ノマドランド』について。
作品には『ザ・ライダー』のロデオライダーと同様に多くの実際のノマドが登場する。
先日ご紹介したロシア映画『DAU ナターシャ』でも同様の手法が取られていたが、プロの役者ではなく、実際の体現者が演じる事で、映画のリアリティは格段に増し、一つ一つの言葉の重みも違ってくる。

ノマドという言葉には、二つの意味があると思う。一つは劇中でマグドーマンド演じるファーンの台詞にもあるハウスレス。車上生活者として移動をしながら暮らすノマドライフ。
もう一つは非正規雇用者として、定職がなく、スポット的な業務を渡り歩くノマドワーク。
どちらがきっかけなのか、ノマドになる理由として、それぞれが心の奥底に過去の何らかの重い感情を抱えていることは、想像にかたくない。
やむおえずノマドになった人もいれば、ノマドを自らの意志で選択をしている人もいるだろう。

映画の冒頭は、クリスマス需要などで繁忙期のAmazonの倉庫シーンが描かれる。
日本でもAmazonの倉庫業務はハードと言われているが、原作でも過酷な職場として描かれているという。
しかしクロエ・ジャオは、Amazonを貴重な安定した仕事の場として描いている。
定住地を持たないノマドが、Amazonのサービスを利用する事はほとんど無いだろう。
しかし彼らにとって、繁忙期のAmazonのスポット的な労働は、貴重な仕事の場である。
この相反する関係性が、現代のノマドの社会的な位置付けを象徴しているように思った。

移住者生活をする事で、多くの出会い、別れ、そして再会が、映画では描かれる。
ファーンも60歳の設定であり、登場人物の多くが高齢者であり、自分ないしは近しい人との死とも対峙している。
出会いと別れを繰り返しながら、ファーンや多くのノマドが目指す終着点はどこなのか?
ファーンが大事にしたいものは、何なのか?
些細な出来事が、ファーンの心を細かく切り刻んでいきながら、この終わりのない旅は続いていく。
観客は自らの人生観との相対をしながら、ファーンと共に旅を続けていく。

出会いと別れは、シンプルだが、人生の根底に流れるテーマである。
『ノマドランド』は、ノマドのリアルな視点を通じて、このテーマが語られる。
その語り口は、散文的であり、文学的でもある。
あたかも文学作品を読んだような感触で、この映画は観客の心を揺さぶっていく。
中国生まれのクロエ・ジャオが、何故ここまで深くノマドやカウボーイを描けるのか。
ハリウッドのエンターティメントな演出ではなく、フランス映画のような芸術性を目指す演出でもない。
客観的な事実や、日常の風景を積み重ねる事で、観客の心の奥底にテーマを伝える演出は、並大抵な才能では到達できない領域である。
もしかしたら、彼女は現代最高の女性映画監督ではないのか。
プロフィールやインタビューを読んだだけでは、その謎は解決しないので、是非一度川口敦子さんにインタビューして欲しいと思う。
また今回この映画をオンライン試写で見たのだが、アメリカの厳しく美しい風土を感じる為に、再度映画館で見てみたいと思っている。

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★川口敦子

クロエ・ジャオ。長編監督第三作『ノマドランド』で詩とリアルとをひらりと両立させる時空を切り取ったそのやわらかで強かな才能を前に、じっくりと追いかけてみたいと心底、思った。

この春、ゴールデン・グローブ作品賞と監督賞に輝きオスカー最有力候補と注目を浴びる中、”アジア系“”中国出身”“女性監督″と、おなじみのおせっかいなレッテル付けとも無縁ではいられないジャオはしかし、マイノリティであることを成功への切り札のように利用するつもりはない、でももう手遅れかな?――などと、不自由を軽やかにジョークで躱す知的スタンスもあっけらかんと身につけていて、そんな気鋭の軌跡、輝く今への道のりもまた、もっと知りたいとさらなる興味を掻き立てられる。

1982年3月31日北京生まれのジャオは、改革開放期、中国最大規模の鉄鋼会社の重役を経て不動産開発、投資に携わった実業家の父と病院勤務の母の離婚を中学生の頃に体験。父の再婚で「コスビー・ショー」を翻案したような中国初のTVホームコメディ・シリーズや映画『四十不惑』『LOVERS』でも知られる女優ソン・タンタンが新たな母となった。
放任主義の両親の下、学校の成績はもひとつのままマンガ(『ノマドランド』の折、リサーチのため愛用したヴァンはAKIRAと命名)や物語を書くことに熱中、マイケル・ジャクソン、そしてウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』にも心奪われた。スタイリッシュなウォンの映画の底に震えている途上の時を生きる人の覚束なさ、それでも微かに浮上する希望の欠片、世界の果てを睨みながらきっとまたどこかで会えると信じる路上の魂に満ちていく仄明るさ、その愛おしさを思えば『ノマドランド』とのこれみよがしではないけれど見過ごし難い結び目を思わずにはいられなくなる。中国本土への帰還を前にトランジットの感触に裏打ちされた20世紀末香港の今を鮮やかに感覚させもするウォンの快作はまた、08年リーマン・ショック以来の貧困、分断に苛まれるアメリカの今を新種のノマドを通して掬うジャオの映画をしぶとく貫く歴史的現在への眼、思いとも確かに共振してみせる。

いっぽうで90年代、北京で西側、なかでもアメリカのポップカルチャーを享受して成長したという新世代ジャオには、同じ頃、同じ北京で映画を学んでいたはずの中国映画第六世代の雄ジャ・ジャンク―の作品を見たことがあるかとぜひ訊いてみたい(ついでにいえば公開待たれるロウ・イエのノワール『シャドウプレイ』のバブル期の都市の家族の姿を見ると、その闇と結びつけるつもりはないけれど、ロウの映画は見ている?とさらなる好奇心も募る)。『山河ノスタルジア』『帰れない二人』と20世紀末中国のバブル前後の人と国の歩みに向けたジャの真摯な眼差しを少し遅れて生まれたジャオがどう受け止めるかを知りたいから。それにも増して監督ジャが虚実の狭間に果敢に挑む時空を耕し、市井の人とプロフェッショナルな俳優とを分け隔てなくそこで息づかせてみせたこと――ネオレアリズモもブレッソンもキアロスタミもペドロ・コスタも同様の作法を究め,21世紀の映画の世界のそこここで無視し難く同様の試みが試みられているとはいうものの、同じ中国を出自とし(とレッテルづけしてしまうのだが)世界の映画の今を牽引しつつある先達の作法をジャオがどう見るのかはいかにもスリリングな問いとして迫ってくるように思えるから。
ついつい比較に走る悪い癖を反省しつつもこの際だからジャオの映画、とりわけ『ノマドランド』に射し込む先達の影をもう少しだけ追ってみたい。となるとまずはマジックアワーの文字通り魔法のような光の情感、暮れなずむ空に映える詩情で結ばれたテレンス・マリックのことが想起される。とりわけマリック最初期の『地獄の逃避行』は原題“Badlands”からしてジャオの映画が切り取る西部の荒野、そこに美しく浮上するロマンチシズムと静かに響きあう。あるいは移動する季節労働者を物語の核心に置いた『天国の日々』にしても、ヴァンを駆る移動的季節労働者として21世紀を生き延びる新たな種族を追うジャオの映画に遠いこだまを響かせる。ちなみにヨルゴス・ランティモス、カルロス・レイガダス、ミランダ・ジュライにココナダとクセ者アーティストをクライアントとして多く抱えるイレーネ・フェルドマンを共にマネージャーとしていることもあり、ジャオは『ノマドランド』に関する意見のメモをもらったりと謎に満ちた隠者的存在として知られる先達マリックとカジュアルに(?)コンタクトがとれているらしい。
もっとも映画狂的目配せの部分に関しては、ニューヨーク大学院映画科(教授のひとりがスパイク・リーだった)で知り合った英国出身の撮影監督(にして年下の恋人でもある)ジョシュア・ジェームズ・リチャーズの選択に依る部分が大ともいえそうだ。

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いくつかのインタビューでリチャーズは、家/定住の地に背を向けて遠ざかる男を扉のこちら側/家/定住の地からとらえたジョン・フォード『捜索者』の名高いエンディングを『ノマドランド』の終幕で引いたと明かしている。ジャオの長編第二作『ザ・ライダー』のヴァラエティ紙による上映会後のQA(2018年4月)で、自分にはあまりなじみのなかったジャンル、西部劇を参照するようにとリチャーズに勧められたとジャオが首をすくめつつ告白する様が動画サイトで確認できる。あるいは21世紀のノマド・コミュニティを精神的に束ねるボブ・ウェルズの集会(RTR)に立ち寄ったファーン/フランセス・マクド―マンドの逍遥のペースに関してはハル・アシュビー監督、ハスケル・ウェクスラー撮影『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』を参考にした、マクドーマンドの刈り込まれた短髪はカール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』へのオマージュともリチャーズは述懐している。『アンモナイトの目覚め』の監督フランシス・リーの長編デビュー作『ゴッズ・オウン・カントリー』の撮影も務めた彼はジャオのデビュー長編から『ノマドランド』までの3作すべてで撮影監督を務め、のみならずプロダクション・デザイナーとしても腕を振るっている。公私共にのパートナー、ジャオの世界へのリチャーズの貢献度はクレジットされた役割にとどまらぬものがあるとみていいだろう。無論、彼の最大の貢献は映像そのものの力に他ならない。地平線、沈む夕陽、上る朝陽、薔薇色に染まる雲、砂漠にぽっかりと立つ恐竜、青く澄んだ夜、荒海、雨、風、そしてまた荒野を切り裂き続く道。掬い取られた圧倒的に美しいアメリカの景観、それが絵葉書みたいなきれいさに堕すことなく迫ってくるのは、人の心、その感情の真実がぬかりなく景観を裏打ちしているから、息をのませる映像と厳然と拮抗してそこにあるからだ。そうしてみると撮影監督リチャーズと監督ジャオの共闘、その結晶ともいうべきふたりの映画を輝かせる無二の磁力の核心もまた人と世界の真実への旺盛な興味なのだと改めて気づく。

ジャオの軌跡に戻ってみよう。14歳。世界は嘘に満ちている、この欺瞞でいっぱいの閉ざされた場所から絶対に脱出できないのではーーと、不安を胸に囲っていたとフィルムメイカー誌とのインタビュー(2013年8月14日)でジャオは振り返っている。両親にも体制にも反抗の心を尖らせていた少女は英語もできないままに英国の寄宿学校行きのチャンスに飛びついた。さらに憧れのアメリカへ。LAでハイスクールを終えた彼女は夢見ていた世界とアメリカの現実とのギャップをかみしめ、政治を学ぼうとマサチューセッツ州にある女子大マウント・ホーリーオーク・カレッジへと進む。が、そこでの4年を過ごすうちに政治にも、それを学ぶことにも倦みはてて、バーテンダーをはじめとするいくつもの仕事に就いて、「様々な人々と出会い、それぞれの歴史を知り。映画でならそうした出会いや経験、みつけた興味をひとつにできるのでは」とニューヨーク大学院映画科入りを決めた。

在学中にものした最初期の短編をめぐる資料(IMDb Pro)をみると様々な人との出会いをベースにしたジャオの映画の作法の基本がすでにそこに見て取れる。報われない結婚生活を送る主婦が一人過ごすクリスマスの夜にPC修理にやってきた移民の労働者とそれぞれの孤独を分かち合う『The Atlas Mountains』(09)、中国近郊都市に暮らす14歳の少女が見合い結婚を強いられて自由への危険な道を選ぶ『Daughters』(10)、春節の日にセネガル人の恋人を同伴した中国人一家の息子が家族に波紋を投げかける『Benachin』(11)――。いずれも『ノマドランド』とも通じるマージナルな環境に置かれた人への眼差を感知させて面白い。とりわけ中国に帰って撮ったという『Daughters』についてジャオは、チャン・イーモウ『紅夢』を大いに模倣したと率直に明かしつつ、映画科の制作課題は俳優と仕事することだったが、舞踊学校に通う少女をみつけ、そこから映画を紡いだ、すでに少女がいる世界にフォーカスしていくこと、非俳優と組むことをして自身の映画作りの術を見出したと、ヴァルチャー誌で述懐している。「暗い部屋にこもって自分ひとりで登場人物を生み出す、創造する、そういうタイプの監督でも脚本家でもないんだと気づいたの」
NYU卒業制作として撮られた長編デビュー作『Songs My Brothers Taught Me』(15)、続く『ザ・ライダー』(17)と、ノース・ダコタのラコタ族パインリッジ先住民居留地で出会った人々と時間をかけ、その世界に入り込むことで手にした物語を、当の人々が生きるーーそんな作法を徹底させ、磨きをかけてジャオの映画はサンダンス、カンヌと世界に羽ばたいていく。とりわけ『ザ・ライダー』! 頭部の負傷でロデオを諦めざるを得なくなるカウボーイの挫折と再生という、いってしまえばありふれた物語の型をとりながら、映画はそこに息づく真正の怒り、悲しみ、慈しみ、繰り返せば人の心の真実を切り取る。主人公の青年の知的障害をもつ妹、彼の親友で事故で四肢麻痺の障害を背負ったロデオ界のヒーローと、ともすれば偽善的描写に陥りがちな”素材″と向き合い、あるがままの在り方をあるがままに掬い上げて対峙する。そんな快作の公正で清潔な眼差し(またまた比較の悪癖を持ち出せばガス・ヴァン・サント『ドント・ウォーリー』とも通じるそれ)にもう一度深く、肯かずにはいられなくなる。
現実に向けた真にフェアな眼と耳、まっすぐに見る力、聴く力。ジャオという監督を、その映画『ノマドランド』をとびきり忘れ難くするのも実はそうしたシンプルな(だから得難い)力ではないか。ジェシカ・ブルーダーのルポルタージュをもとに、映画は独自の物語を抽出する。(フランシス・マクドーマンド)/ファーンを見る人、聴く人として、原作/現実にいる人々の物語を辿りながら、彼女自身の一年の旅、奪われるままに移動生活へと乗り出したひとりが、家もなく法もなく、けれども何物にも縛られない自由と自分を見出して新たに旅立つまでを親密な息づかいと共に見つめ切る。彼女の旅が円を描き振り出しからまた新たに始まる。”セルクル・ルージュ″赤い環の中で、人はどこかでまためぐりあうーー臆面もなくそんな手前味噌な感懐を呟かせるほどに、冴えたジャオの物語りの力に見惚れながら映画の、人の、世界のその先を懐かしく想った。

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『ノマドランド』
2021年3月26日(金)より 全国公開中
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン

Cinema Review-2 韓国期待の女性監督が描くほろ苦いサマータイム『夏時間』

(C)2019 ONU FILM, ALL RIGHTS RESERVED

Cinema Review第2回は、韓国期待の新人女性監督ユン・ダンビの『夏時間』です。
監督は新人女性監督、若干30歳のユン・ダンビです。
奇しくも次回このコーナーで取り上げる予定の『ノマドランド』の中国系女性監督クロエ・ジャオが、有色系女性監督としては初めてゴールデングローブ賞の監督賞を受賞したというニュースが飛び込んできたところです。
侯孝賢やエドワード・ヤンなどの台湾人監督や、是枝裕和や小津安二郎など日本人監督の影響が感じられるユン・ダングが、アジア系女性監督として、次なる評価を高めていく日も近いのではないか。
『夏時間』は、そんな風な期待を抱かせる作品です。
レビューはセルクルルージュの川野正雄と、映画評論家川口敦子の二人から、お届けします。
こちらのレビューは、セルクルルージュのNOTEページにも掲載いたします。
また3月6日(土)21時より、クラブハウスにて、川野正雄と川口敦子が「韓国映画と映画『夏時間』を語る部屋」を、開催いたします。
お時間ある方は、是非ご参加ください。Masao Kawanoで検索すると、その時間部屋の案内が、出てくると思います。

以下はプレスシートからの抜粋です。

――注目の女性監督ユン・ダンビが描く、懐かしく繊細な夏の物語
誰もが記憶に残っている、夏休みの思い出。その懐かしくも記憶に刻まれる日々を、ひとりの少女 の視点から描く。それは、ただ楽しいだけのものではなかった。
監督は 1990 年生まれのユン・ダンビ。第 24 回釜山国際映画祭で 4 冠に輝いたのを筆頭に、ロッ テルダム国際映画祭など数多くの映画祭で、デビュー作である本作の繊細さと確かな演出力が絶 賛された。『はちどり』のキム・ボラや『わたしたち』のユン・ガウン、『82年生まれ、キム・ジヨン』の キム・ドヨンに並ぶ、新たな才能が韓国から登場した。

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★川野正雄

『パラサイト 半地下の家族』 が世界の映画賞を席巻するのを見て、何故韓国映画は、日本映画よりも海外で評価されるのか、よく友人と話題にしていた。
過去に韓国映画業界とは、少し仕事をした経験もあるので、実感を踏まえて導いた結論として、
① 韓国内のマーケットは小さく、グローバルセールスを成功させないと、資金回収が難しい。
② 韓国の映画制作者達は、日本よりもかなり若い。高齢者が多い日本の現場とは、空気も違う。
③ 韓国の映画人は、海外留学者が多い。留学先はアメリカもいれば、日本もいる。その為外国語も堪能な人が多い。
④ 万国共通で感じる感情表現の演出が、優れている。
『夏時間』は、この4つの要素を満たした作品に思える。監督のユン・ダンビは30歳。これが長編デビュー作の女性監督である。
釜山映画祭でワールド・プレミア上映をした後、ロッテルダム国際映画祭では、部門賞も受賞している。                            
因みにユン監督は東京芸大への留学経験もあるらしい。

ストーリーは、日本映画にもよくある設定〜夏休みの帰省ものである。
主人公は少女オクジェ。主な登場人物は、仕事がうまくいっていない感じの父、かなり年下の弟ドンジュ、亭主ともめている叔母、体調が悪くなってきた祖父、そして姿は見えないが、父と離婚した母。
しかしこの夏休みに、この一家には、結構色々なことが起きる。
そしてそれぞれの立場での痛みもあれば、思惑もある。
その内に秘めた感情を、ユン監督は、情報量を抑えながら、淡々とした語り口で観客の心の中に、共感性を積み上げていく。  
テンポよく情報量を詰め込む展開が多い韓国映画としては、かなり引いた演出の映画である。観客に与えられる情報量は多くない。
感情を押し出す演出が多い韓国映画としては、珍しい引き技で感情を見せる作品である。
口数は少ないが、感情表現は時にストレートであり、気持の揺れ幅が、微振動のように伝わってくるのだ。
同じ韓国映画でも、以前セルクルルージュのシネマ・ディスカッションで取り上げたホン・サンス監督のヌーベルヴァーグぽさとは違う。
余白を大切にした演出は、エドワード・ヤン監督や、是枝裕和監督や、小津安二郎監督などのアジアの監督の影響が感じられる。

特に食事のシーンが多く、盛り上がらない会話の中でも、それぞれの思惑が、食卓上で見えてくるのが、面白い。
そして主役のオクジュと、弟のドンジュ。この二人の姉弟の演技が素晴らしい。
時間の経過と共に、この二人の心の奥底が、徐々に垣間見えてくる。
韓国映画は人の痛みを描くのが上手い。
最たる作品が、母親の過ちと痛みを描いたイ・チャンドン監督の『シークレット・サンシャイン』だ。
チョン・ドヨンが主演女優賞を受賞したカンヌ映画祭のプレミア上映に参加する機会に恵まれたのだが、上映終了後クエンティン・タランティーノが真っ先に立ち上がり、スタンディング・オベーションを送っていた。
『シークレット・サンシャイン』は、もっと強烈で激しい作品だが、心の痛みを描きながら、根底に流れるのは家族愛であるという部分では、『夏時間』と共通するテーマだ。

人間は誰しもが悔いを持っている。その悔いを埋めるのは、家族なのだ。
そんな人生を卓越したような世界感を、30歳の女性監督が作り上げた事が驚きである。
そして30歳の監督に大きなチャンスが与えられ、自由に創作できる韓国の映画環境も素晴らしいと思う。
多分ユン・ダンビは相当な映画マニアなのではないかと思う。
家族という世界観に切り込んでいったユン・ダンビが、次にどこに向かうのか。
次回作が待ち遠しい監督に出会えた。

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★川口敦子

開巻早々、思春期の厄介さの只中にいる少女オクジュは、住み慣れた部屋を引き払い父と弟ドンジュと共に新しい時空へと進んでいく。否、進まざるを得なくなる(母の不在の理由も、どうやら事業に行き詰まったらしい父の背景も、説明を退け潔く曖昧なまま語られない)。
 英題は”Moving On”。辞書で引くとmove on「どんどん進む」とあって、勝手な思い込みかもしれないが前進のイメージが強くあるのだけれど、映画は一家3人を乗せて進む車を捉えたキャメラの長い長いワンテイクの中で、いっそ後退の感触こそをゆっくりと醸し出す。その感触が一家の行き着く昔風の大きな家、懐かしい風の吹きぬける場所、そこに祖父と共に温存されている時代へとゆるゆるとタイムスリップしていくような時の旅の感覚をも滑らかに紡いで、ここでないどこかで改めて家族をみつめ直す少女の眼差しごしに失われゆく価値を、世界の今を、そうしてその先へと進む(move on)ことを想う映画の核心が射抜かれてく。
 そんなふうに力こぶのかけらもみせずに嚙み応えある主題を提示してしまえる新鋭ユン・ダンビ。脚本・監督を手がけたこの長編デビュー作で世界に羽ばたいた彼女は”韓国女性映画作家の新しい波”と話題を呼ぶ『はちどり』キム・ボラ、『わたしたち』ユン・ガウン等々と並べて紹介されることも少なくないようだ。
 確かに新しい環境でくたびれた象のぬいぐるみを引きづって寂しさを耐えつつ、幼さゆえの順応力で祖父と菜園の唐辛子をつみ、出て行った母ともこだわりなく会ってしまえる弟をしり目に、祖父にも遠慮がちな距離を保ち、母へのわだかまりを胸に燻らせ続けている10代半ばのオクジュの物語、それを過剰なドラマを排して語る快作は”女性監督”による”少女映画”としての磁力も見逃し難く備えているだろう。けれども、この新鋭とそのデビュー作の真の醍醐味はそれだけにとどまってはいない。多くを語らずじっと過ぎ行く季節に耐えているような少女の眼差しの向こうに映画はぬかりなく時代や世代や世界を浮上させる。懐かしい家族の姿を介して見えてくる普遍に手をかけ得る大きさを備えてもいる。『夏時間』とその監督ユンのスリルはまさにそこにある。
 その意味でささやかな物語を語りながらイタリアの歴史や伝統と対峙してもいたアリーチェ・ロルヴァケルの『夏をゆく人々』、少女映画と社会的視野を軽やかに両立させた快作の頼もしさを『夏時間』に重ねてみるのはどうだろう。

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 子供と大人の狭間、甘やかに息苦しい季節をかいくぐる少女とその家族のいた時空をパーソナルに切り取ったロルヴァケルの映画は、幕切れで誰もいなくなった家の裡の白い場所へと踏み入って、やわらかに吹き抜ける風を孕んだ時間を慈しみつつ凍結し観客にそっと手渡してみせた。そうやって確かに印象づけられた記憶/歴史と物語とが交わる時空。どこか牧歌的で神話のようでもある映画はそこで外界、現代社会の肌触りを観客に感知させることも忘れてはいなかった。続く『幸福なラザロ』でもまた、記憶/歴史と物語の交わる時空としての今への眼を、意識を、逞しく鍛えてロルヴァケルはふわりと奇蹟を成り立たせつつ寓話のはらんだ鋭い棘で現代社会を刺し貫いてみせた。
 同様に『夏時間』の新鋭もまた親密な語り口の底に移ろう(move on)人と世界への思いをしぶとくたくしこんでいる。
 蚊帳、扇風機、足踏みミシン、それを食卓代わりにして昼食を分ち合う姉弟。3世代の家族が同居して賑やかに祖父の誕生日を祝う様。おどけて踊った弟のダンスが通夜の場で反復され家長を欠いたおぼつかない家族のその先がやんわりと思いやられる。懐かしい家族の光景をそっと拾い上げるいっぽうで再開発の進む街、壊れた家庭をモチーフに食い込ませ過剰なドラマを避けつつもほろ苦い現実がプロットの片隅にしぶとく顔をのぞかせていく。だからこそ陳腐な感傷、ノスタルジーに堕さない懐かしさの重みが胸に響く。
 とりわけ興味深いのはオクジュの父と叔母の描かれ方だ。事業に失敗し、ばったもののスニーカーを路上で売りつつ成功の夢を捨てきれずにいるような父。夫に裏切られ友人の部屋に転がり込んでいた叔母。それぞれに挫折して実家に寄生するふたりは高度経済成長下、成功と富の夢に踊らされ美しい価値を見失った世代を象って、情けなくも涙ぐましい後悔を浮かべている。そんなふたりが思い出話をする夏の夜の屋台に吹く風はいっそうっすらと苦くしょっぱく、ついには微笑ましくさえあってだから、小津の『お早う』で映画に目覚めたと語っているユン監督がまたその後の挫折の世代を代表する相米慎二のことも好きだと述懐しているのを読んで、なるほどとしっくりうなずきたくなったのだった。あるいは侯孝賢『冬冬との夏休み』を想起させもする『夏時間』が現代の大人たちの揺れを繊細に掬い取っていたエドワード・ヤン『ヤンヤン夏の想い出』といっそう近く思えてくるのものまた不思議ではないはずだ。
『パラサイト』のようなブラック・コメディとして構想されていた一作を監督自身の感情的な体験をもとにシンプルに語る映画にと、方向転換を勧めたという撮影兼製作キム・ギヒョン、その大いなる助言に感謝しつつ、この静かでしぶとく懐かしいデビュー作を吟味したい。

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『夏時間』
第24回 釜山国際映画祭韓国映画監督協会賞/市民評論家賞 NETPAC(アジア映画振興機構)賞/KTH賞
第 49 回ロッテルダム国際映画祭 Bright Future 長編部門グランプリ 第 45 回ソウル独立映画祭新しい選択賞 第8回ムジュ山里映画祭 大賞(ニュービジョン賞)

出演:姉オクジュ:チェ・ジョンウン 弟ドンジュ:パク・スンジュン(『愛の不時着』)
父ビョンギ:ヤン・フンジュ(『ファッションキング』) 叔母ミジョン:パク・ヒョニョン(『私と猫のサランヘヨ』『カンウォンドの恋』) 祖父ヨンムク:キム・サンドン
スタッフ
監督・脚本:ユン・ダンビ 制作:ユン・ダンビ/キム・ギヒョン(『私たち』) 撮影:キム・ギヒョン(『私たち』)
2021 年 2 月 27 日(土)から渋谷ユーロスペースにてロードショー全国順次公開中。

人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)