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Cinema Discussion-28/ワークショップ発ギョーム・ブラックの挑戦~『7月の物語』

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクルルージュのシネマ・ディスカッション。
第28回は、デビュー作『遭難者』+『女っ気なし』が、このシネマ・ディスカッション第1回だったセルクルルージュ一押しのフランス若手作家ギョーム・ブラックの新作『7月の物語』です。
前作『やさしい人』は長編第1作として、常連俳優ヴァンサン・マケーニュを主軸にした見事な作品でしたが、今回は2本の短篇に分かれており、2016年7月のパリとその郊外を描いたものとして、ひとつの作品を構成しています。
ギョーム・ブラックといえば、俳優との入念な準備をする印象がありますが、今回はフランス国立高等演劇学校の学生たちとのワークショップから作り上げた作品で、役者も全員学生です。
俳優と場所を熟知したうえで撮影に臨むギヨーム・ブラックですが、今回の俳優たちのことは何も知らない為、はじめに俳優たちの家に行き、彼らの夢、政治とのかかわり方、恋愛事情などについて話を聞いて、親密な関係を築きあげていったといいます。
撮影場所は、幼少のころから馴染みのあるセルジー=ポントワーズ(「日曜日の友だち」)と、自宅近くの国際大学都市(「ハンネと革命記念日」)。
撮影期間はそれぞれ5日間、そして3人の技術スタッフと少ない機材で行ったギョーム・ブラックのチャレンジです。

ディスカッションメンバーは、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。

「女っ気なし」

★『遭難者』『女っ気なし』そして長編デビュー作『やさしい人』とシネマ・ディスカッションで追いかけてきた監督ギヨーム・ブラックの新作『7月の物語』ですが、これまで主役を務めてきたヴァンサン・マケーニュなしで、演劇学校の学生たちと素早く撮った今回の映画はいかがでしたか?

川口哲生(以下T):
そうですね、明確な主役ヴァンサン・マケーニュがいた映画では、どうしても彼を中心に映画を観、彼の心情に寄り添い、彼の視点で風景を見る、といった流れになりますが、今回の短編2編では、演劇学生たちの役割のイーヴンさ故に、それぞれの登場人物の心情を行きつ戻りつしながら観たように感じます。「思ったようにはいかない人」が次から次に入れ替わるような。笑
アドリブを多用したとのことですが、人間関係の自然さも感じました。

名古屋靖(以下N):
今まで観た作品より若々しさというかフレッシュな印象はありました。 短編なのもありフランス映画だけど忍耐力は必要としない、いかにもありそうな題材を、演劇学校の学生ながらそれぞれキャストの心の揺らぎや喜怒哀楽を細かく引き出しているところはこの監督らしかったです。

川野正雄(以下M):
やはりヴァンサン・マケーニュの存在感は大きかったですね。彼の視点というか、基軸で映画の中に入って行く感がありました。
彼がいない分、また中編的な尺であるという事含めて、全2作よりは薄味な風味に感じました。
自分はあまりエリック・ロメールの作品の造詣は深くはないが、リゾートで起こる1日的な風合いは、フランス映画ぽいなと思いました。
同時にホン・サンスの即興性との共通項も感じたのですが、インタビュー見るとホン・サンスについての話も出ていたので、自分だけではなく良かったです。
男女のちょっとした感情の動きの描き方とか、そういう繊細さみたいな部分と、即興性のような演出が、共通点として感じました。

川口敦子(以下A):
みなさんも仰るように、ヴァンサン・マケーニュがこれまでのブラック映画に占めてきた大きさを、今回その不在によって改めて実感しましたね。ただ、逆によりポジティブな効果になっている面もあるなあとも感じました。あのダメダメ男の悲哀というのかおかしさというのか、それが強烈に前面に出てこない分、より繊細にそれぞれの人物の心情の推移が漂ってくるようで、前篇の水辺の景色、夕暮れに向かう空気や風や温度の推移ともよりしっくりとなじんでいる。
いっぽうで俳優としての強烈な個性はないけれどキャラクターの個性という面ではブラックの映画を構成するだめだめ男、ちょっと控えめな女の子、もう少しぐいぐい自己主張する気のいい女の子と、例えばリュシーとミレナは『女っ気なし』の娘と母の個性とも重なるようだし、学生たちとの即興のワークショップから生まれたとはいっても、やっぱりまとめるブラックならではの映画となっているのは監督としての逞しさみたいなものの証明にもなっているんじゃないかしら。

★第1部2016年7月10日「日曜日の友だち」と第2部2016年7月14日「ハンネと革命記念日」という2つの短編で構成されていますが、この構成に関しては?

M: ワークショップを3チームに分けて、3本撮ったんですよね?3本あった方が、見応えはあったと思いますし、3本並んだら、長編として成立しますね。
実際に学生達と制作するとなると、あまり長いものよりも、中短編の方が濃縮されて、良いのではないでしょうか。
お芝居含めて、1本づつは程よい長さと構成ですね。
ワークショップという性質上、撮影期間も5日間とか短く、役者とのコミュニケーションや台本にも、色々工夫がなされたとインタビューで読みましたが、まとめ方の旨さは、さすがだなと思いました。

T: いかにもフランスのごく日常にありそうな話ですが、パリからRERで40分ぐらいのセルジー=ポントワーズのレジャーセンターとか14区の国際大学都市とか、いわゆる中心としてのパリではない、ブラックのほかの作品にも共通する「周縁的な日常感」を感じさせるロケーションの組み合わせが面白かったです。

N: 学生を使って若者たちの数日間を映画にするには、一つの重くて長い物語より全く違う二つのエピソードを重ねて軽快に見せたほうが、彼らのあやふやというか未熟な魅力は感じられたかと思います。役者に多くを頼らず、粘らず素早く撮れたのも短編だからかと。

A: 『女っ気なし』で取材した時だったと思うのですが、僕の映画は中間に切断面のようなものがあって、楽しく始まった何かがそこを通過すると一転してしまう、楽しいままでは終われなくなる――といったことをブラックが話してくれて確かにどの映画にもそういう明暗の転換点のようなものがあるなと思うのですが、今回もそれぞれの短編にそれがあり、同時に2編を通じて何かより大きな切断面を、前後を通じて見ることで感じさせるようにも思えて興味深かったですね。それが単なる夏のガールハント物語のようにみえた軽やかさの向こうに広がる深みようなものを招き寄せているようにも思いました。で、最後には淡い希望、とまではいかなくてもそれでも続く毎日といった、諦めの明るさみたいなものがやってくるって所もいいですね。
哲生くんがいうようにパリならパリの中心部ではなく周縁的な場所を選ぶというのも面白いですよね。『遭難者』『女っ気なし』のオルト、『やさしい人』のトネールとどこか忘れられたような人と土地が好きみたいな監督の好みというんでしょうか、リュシーとか、後半の消防士とか生き難そうにしている人への共感みたいなものを二つの短編を合わせることでよりくっきり浮かび上がらせてもいる気がしました。

★特定の日付を指定している裏にはこの年、この時期にかけて労働法改正案撤回のデモやパリ、リパブリック広場を起点とした夜通しの演説集会Nuit Debout(立ち上がる夜)の全国的な広がりとフランス国内が騒然としたという背景があり、また15年のパリ同時多発テロの記憶も冷めやらぬ時、16年革命記念日にニースで新たなテロが勃発ということがあるわけですが、一見、シンプルでパーソナルな女の子同士の友情とか男女の恋のさや当て物語ともみえる映画にそうした政治的、あるいは時事的要素を取り込むブラックの姿勢、あるいはその方法についてはどう感じましたか?

T: さっきも触れたけれど、ざわついている中心でない周縁で、そうした政治的熱気やざわつきと時を同じくするごくパーソナルな話が語られるのが面白い。
より『ハンネと革命記念日』の方にそれを感じたけれど。
大好きな映画の『特別な一日』の大きなアパート群の全ての住人がファシスト集会に借り出された後のぽっかり空いた空間と時間の中での特別な情事みたいな。。。
革命記念日のシャンゼリゼのパレードや花火に人が集まる中で、大学のドミトリーの真空地帯みたいな感じがいい。
その日の特別さはそれそれにとってごくパーソナルな悲劇なんだけれど、挿入されるテロのニュースによりその悲劇はとるにたらないことの様に観ている人には思えてくる。
「その日の特別さ」の多層性がフィクションとリアリティが入り混じって意味を持っているように感じました。

M: その部分に関しては、ちょっと強引にも感じました。しかし強引でもテーマの中に、そういう現実の大きな問題を絡ませる事で、作品を撮る意義とか、単なる恋愛すれ違い映画ではなくなる瞬間とか、そのような価値も合わせて生まれてくるのかなと思います。
今回はニースのテロが偶然重なり、そこへの感情的な憤りも含めて、挿入されるエピソードになったのだと思います。
ただ映画の流れ的には唐突感というか、そこまでに出てきた問題~人種とか男女間とか、そういうものとの乖離を、少し感じてしまいました。
ただゴダールのパリ革命ではないですが、監督がそういうテーマに正面から対峙するのも、あえて言うと、ヌーベルヴァーグ的かなと思います。

N: 物語の登場人物たちは今のフランスの深刻な問題に直面している当事者ではないし、出演者は若者ばかりでどこか他人事な雰囲気もあります。2話目など留学生寮のお話ですし別にフランスでなくとも成立するかも。そこに現実の時事的要素を取り入れた演出、例えばニースのテロを持ってくることでこの作品が、若者の戯言なだけでない自分にも身近なフランスの今を感じることは出来ました。でも時事的要素を盛り込むことで問題定義したり何かしらのメッセージが発せられているとは感じらませんでした。監督がそれを求めていたのなら川野さんがおっしゃるように少し強引な印象です。

A: 生半可な知識しかないのでおそるおそるいいますが、やはり今、人種とか移民の問題というのは欧州映画の多くに見られる避けて通れないテーマなのだろうなと。
もちろん後半は留学生寮の話なのでそれがより鮮明に出ているけれど、学生たちとアルメニア系の消防士との関係、かなり正直にそこにある上下関係のようなものを映画はみつめてますよね。その意味では前半のリュシーとミレナはどういう仕事の同僚なのかはっきりと描かれてはいないけれど、理不尽な怒りを抱えてもいそうですよね。出だしのリュシーの激しい不満のぶつけ方とか。で、彼女たちにしても、レジャーセンターで出会う警備員とそのガールフレンドにしても、フランスで生まれてはいるんだろうけれど、多分、ルーツは北アフリカとかのあたりにありそうで。純粋な白人種は森で出会う剣士だけなのかな。
そういう配役からもブラックがプレスのインタビューでいっている「政治的発言に纏わる映画を」との気持がスタート時点でまずあったんだなと感じ取れますよね。そうさせるような切迫感が当時、あったんだなとも感じましたね。最後のテロのニュースをかぶせる部分もだから、下手をすればあざとくなるのだろうけれど、そうはなっていなくてよかったなと。

「やさしい人」

★『女っ気なし』では海辺のさびれたヴァカンスの町オルトの実在の人々が出演していましたね。また『やさしい人』ではフィルムノワール的な話の展開の緻密さのいっぽうで雪や雨という撮影現場で遭遇した現実が映画にマジックをもたらしたと監督は語っていたのですが、今回もドキュメンタリー的なものとフィクションとを並び立たせようとしている、そのあたりに関してはどうご覧になりましたか?

A: ホン・サンスの『自由が丘で』に出演した加瀬亮さんが取材で語ってくれたことなんですが、少し長くなりますがまず引用しますね。
「画面の中で説得力、“自然”(この言葉も本当はきちんと定義しなくちゃいけないんですけど)が成立すればホントになる。でもそれは監督それぞれが作る画の世界の中での”自然”なので。例えばロメールでもホン・サンス監督でもいいんですが、仮にいまここで撮影しているのを見たとしたら、ものすごい熱量で役者が芝居をしていることがわかると思います。”自然”に見えるための”不自然”をしている。ロメールの映画で役者が”自然”に見える、それは何もしないでそのまんまの感じでいるというのとは全然、違いますよね」
で、ドキュメンタリーのように見える自然を作り込む演技、それを最終的に活かしていく監督の演出の力の大きさを加瀬さんは仰っていたのですが、今回のブラックの映画をみると、実際、彼の演出の力を改めて噛みしめたくなりました。

T: 一つには演劇学校の生徒たち、特に実生活での繋がりがある人たちを起用して、アドリブを多用し撮っていますが、川野くんが言っているようにホン・サンスに通じる「撮影現場で遭遇した」感が感じられました。
もう一つはプログラムを読んではじめてわかりましたが、『ハンナと革命記念日』は現実のニーステロが起こった次の日に撮られてており、その現実が演じる人の内面に作用して「悲しい酒」のリアリティを高めており、また元々はなかったテロのニュースの音を編集段階でハンネが泣いている映像にインサートしているんですね。
フィクションとリアリティが複雑に関係しあって、作品に特別な一日が刻印されるような作り方は大変興味深かったです。

M: 確か『女っ気なし』の併映の、検問に引っかかる短編『遭難者』にも、そのようなテイストを感じました。あまり芝居芝居しない演出は、ブラックの特質かと思います。
演出としては、とても洗練されていると思います。
会話の中に芝居っぽさがないんですよね。
多分そこは事前の俳優たちとのコミュニケーションや、年密な準備から入っているのではないかと思います。今回はワークショップという事で時間がなく、監督が役者の家に行くなどして相互理解を深めたといいますが、監督の要求が、役者に対して、どういうものなのか、気になりますね。

★出演者――演劇学生の中で、もし製作者だったらスカウトしたいのはどの人?

A: ちょッと外した所をいいたかったけど、やっぱりリュシーとハンネかな(笑)

T: リシューでしょうか。。。

N:  アルメニア出身の消防士が良かったです。東ヨーロッパの果てに位置するアルメニア出身のティグラン・ハマシアンという孤高のJAZZピアニストがいて個人的にファンなのですが、この消防士の容姿とコンテンポラリーダンスを踊る姿はそのティグランの純粋無垢で神秘的な姿と重なりました。

M: やはりリシューかな。名古屋君のアルメニア人の消防士も良かったです。以前上司が、カナダ生まれのアルメニア人だったのですが、移民というか色々ヒストリーがあるようでした。少ない登場人物の中に、人種の多様性が織り込まれるのは、たまたま学生達が多様な人種だったのかもしれませんが、ギョーム・ブラック的ですね。

「戦士たちの休息」

★併映されるドキュメンタリー『勇者たちの休息』は、どのような印象でしょうか?

M :あんまり適切な表現ではないかもしれませんが、NHK-BSの世界のドキュメンタリーを思い起こしてしまいました。
よく見るのですが、それまで興味や知識の全く無かった色々な知らない世界観を垣間見れて、面白いんですよね。
リタイアした人たちのチャレンジとして、こんなレースがあるんだなと。そして運送業の人が、チャレンジしているのも、面白かったです。
移動が仕事の人は、引退しても移動に魅力を感じるんだなあと思いました。

N: 『7月の物語』との対比が面白かったです。 情緒不安定だけど、やっぱり友情が大切な部分を占める若者達と、子供の頃から変わらぬ一途さで、究極友達は自転車だけでいい老人達。そんな2本のカップリングは見事だと思いました。度々登場する被写体の後方で関係ない行動をしている、おじいちゃんたちの自転車乗り独特の日焼け跡がなんともかわいい。

A: 遅々として進まない自転車を漕ぐ人の姿とアルプスの山道とを背後から辛抱強く、ぐらりとめまいがするような浮遊感に満ちた映像で切り取っていく冒頭から惹き込まれました。そこにもうあまりに豊かに物語が溢れ出ていて、ドキュメンタリーを”演出する”監督の力をもう一度、実感しました。

★ギヨーム・ブラックという監督、そしてその映画のいちばんの面白さはどのあたりにあると思われますか?
A:今回のロメール、前作のトリュフォー、その前のジャック・ロジェと、どうしたってヌーヴェルヴァーグの監督たちと比べたくなる、今回はいっそもう比べなさいと誘惑するように撮ってますよね。一日一本見ないと不安になった、そんな時代もあったとも語ってくれたので、シネフィルに違いないんでしょう。だけど、その“おフランスな映画狂的”価値観を一度覆す、距離といったらいいのか、それを自覚的に保って、ジャド・アパトーとかアメリカ映画の面白い所にも目をやって、で、その上で自分の世界を確かに、かなり頑固に究めようとしているところがいいなあと思うんですね。先ほどもいったと思いますがその自分の世界の軸になるのが生き難さを抱えた人の姿というのでしょうか。周囲も含めて人に対する観察の目。撮り方の部分も含めた押しつけがましさのなさ。それらを守りながら物語する繊細さが好きです。

T: 描かれ「いとおしい不器用さ」ですかね。私は『優しい人』とか『日曜日の友人』のエンディングの、それでも明日に続くといった感じがとても好きです。

M: テレ東の『山田孝之のカンヌ映画祭』に出てきたギョーム・ブラックを見て、思ったよりも若くて、ハンサムで、知的で、全てを満たしたような人だなと思いました。
合わせてその番組にキャスティングされているという事で、やはり注目されている存在なんだなあと、改めて認識しました。
面白さは一言では表現しにくいですが、絶滅貴種になりつつあるヌーヴェルヴァーグ的な監督なんだけど、その風合いは独特なところでしょうか。
面白さは、何気ないシーンに込められた笑いとか、皮肉とか、そういうエッジの効き方ですね。
今回の作品でも、彼のそういった面白さは、随所に感じました。
ただ資料見ると『やさしい人』を撮ったのが、2013年。そこから5年以上長編を彼のような才能ある監督が新作長編を撮れないフランスの状況が、気になります。
今回も依頼があって、好きにワークショップをやっていいというオーダーから生まれた話で、彼の本来の流れから撮った作品ではないですね。
レオス・カラックスですら、なかなか難しい状況だと聞きますが、ギョーム・ブラックは1年に1本くらいコンスタントに作品を作って欲しいと思います。

N: 物語は映画ごとに違いますが、登場人物はみないい人たち。だからと言ってフワフワした作風な訳ではなく、ツッコミどころはたくさんあるけど憎めないというか、気分を害する悪人は出てこないですし。曖昧な言い方ですが、この監督の作品は後味がいいです。 あと監督の色使いが好きです。「日曜日の友だち」の帰りの車窓や「ハンネと革命記念日」の寮から見える少しだけ滲んだ夜景、『勇者たちの休息』でアルプスをヒルクライムする映像など、ため息が出るほど美しい。

『7月の物語』
Contes de juillet 2017年(71分)
2017年 / フランス / フランス語 / カラー / 71分 / 1.33:1 / 5.1ch / DCP / 原題:Contes de juillet / 日本語字幕:高部義之 / 配給:エタンチェ / © bathysphere – CNSAD 2018

『勇者たちの休息』
Le Repos des braves 2016年(38分)
(『7月の物語』と併映)
2016年 / フランス / フランス語 / カラー / 38分 / 1.85:1 / 5.1ch / DCP / 原題:Le Repos des braves / 日本語字幕:高部義之 / 配給:エタンチェ / © bathysphere productions 2016
contes-juillet.com

6月8日より渋谷ユーロスペース他、順次全国公開予定。

Cinema Discussion-27/ 『ドント・ウォーリー』ガス・ヴァン・サントが描く異端のコミック作家

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新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクルルージュのシネマ・ディスカッション。
第27回は、アメリカンインディペンデント映画の巨匠ともいえるガス・ヴァン・サント監督の新作『ドント・ウォーリー』です。
ヴァン・サント自身が親交のあったポートランドの車椅子の漫画家ジョン・キャラハンを描いた意欲作です。
主演は、ヴァン・サントの『マイ・プライベート・アイダホ』でブレイクしたリバー・フェニックスの弟、ホアキン・フェニックス。
ディスカッションメンバーは、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。

★まずは、『ドント・ウォーリー』どのようにご覧になりましたか?

川口哲生(以下T):アルコールにしてもドラッグにしても、そのアディクトから抜けだすには「もはや自分の力では どうにもならないことを自ら認める」という過程が肝ですよね。「誘惑に負けるのは、誘惑に勝てない弱い人間だからではなく、それに勝ち続けようという無謀な戦いに疲れ、絶望し、やけくそになったからであって、むしろ自暴自棄の絶望にはまり込んでしまうほどの強い意志と努力を続けた強い人こそが最も誘惑に負けやすい」と言われますが今回描かれるジョン・キャラハンも正にそんな人だと思います。彼が強い分離感と葛藤とを抱える限り結局誘惑には勝てないわけです。彼の場合、自暴自棄のたどり着いた先が四体麻痺という大事故なのですからその心の痛みはどれだけだったんだろうと思います。でもそれが彼にとっては、初めに言ったような現状への心の底からの認識を生み、その中での人と関わりがアディクトの誘惑に魅力を感じないでいられる、十分な満足、心の平和、愛されている感覚に繋がった訳で、この映画で描かれているそう言った彼の心の平和に関わる、周りの人との関係がすごく魅力的でした。

川野正雄(以下M):最近多い実話の映画化、ハンディキャップものだと、ちょっと引いてしまう部分もあるのですが、冒頭から引き込まれました。
美談で終わってしまいそうなテーマを、ヴァン・サントらしく少し意地悪な視線や、アクの強い描写で、一筋縄ではいかない作品にしていると思いました。
また何よりも、主人公のジョンだけではなく、登場するキャラクター達が個性的で、それぞれの人生の背負い方みたいな部分が、すごくインパクトのある描き方をされているのが、心に残りました。

名古屋靖(以下N):よかったです。 ART系とか実験映画系?と商業系の両方がバランス良くミックスされていて、映画として楽しめ、観終わった後は心の中に大切な何かをきちんと残してくれていました。

川口敦子(以下A):カンヌで上映された前作『追憶の森』がブーイングの嵐にさらされたと聞いて、別にファンだからGVSに肩入れしていうわけじゃないけれど、とても普通によくできた映画だったのになあと、不思議に思っていました。確かに樹海で生死の境をさまよっているひとりが、自殺を決意したひとりを生の方へと導いてと判りやすく説明してしまったのではこぼれ落ちるいくつもの細部にこそ滋味がある映画で、しかもスピリチュアルな部分に深く入り込んでいて、その部分はいっそ明快にシンプルに物語りされるので、もっと重大な何かかがないのかなんて身構えるとすっと外されたような肩すかし感を味わうのかもしれませんが、そのすとんと生と死とをみつめるみつめ方、圧のない語り口にGVSのよさがあると思うんですね。で、今回の『ドント・ウォーリー』もまたそういうGVSらしさをいっそうさらさらと差し出していて愉しみました。

ガス・ヴァン・サント監督

★ガス・ヴァン・サントの映画はこれ以前にどんなものを見ていますか? その印象と今回の映画は繋がる感じですか? そうだとしたらどのあたりが? そうでないとしたらまたどのあたりが変わったなの印象になったのでしょう?

M:冒頭のスケートボードのシーンは、『パラノイド・パーク』を思い出しました。
クリストファー・ドイルの撮影含めて、絵がふっと浮かんでくる作品でした。
元々はウイリアム・バロウズに会った際に、『ドラッグストア・カウボーイ』に出演して、若いけどいとてもいい監督だと聞いて、関心を持ちました。
その『ドラッグストア・カウボーイ』は、その当時見て、荒削りな部分もありましたが、エッジの効いた感触が好きになった作品です。
メジャー感の強い『誘う女』はあまり惹かれませんでしたが、90年台中期のアメリカン・インディーズの趣を強く持つ『カウガール・ブルース』は、音楽の使い方含めて好きな作品です。
実は『グッド・ウイル・ハンティング/旅立ち』は見てなかったりします。
むしろ最近の作品には、強く魅力を感じています。
一見つまらそうなビジネス的題材をスリリングに見せる『プロミスト・ランド』、加瀬亮君が見事な英語で登場するファンタジーラヴストーリー『永遠の僕たち』、敦子さんの評価する樹海の迷宮物語『追憶の森』など、テーマは違えど、どこかヴァン・サント作品には共通のエッセンスがあります。
この『ドント・ウィーリー』も、その一連の近作からの流れを継承していると思います。

N:実はガス・ヴァン・サントの映画はほとんど観ていません。だから彼がどのようなタイプの監督で、どういうところが魅力的なのか?正直僕に語る資格はありません。 『ドラッグストア・カウボーイ』は当時話題だったのもあり映画館に見にいきました。昔のことなのであまり細かい記憶はなく、上部だけしか観ていなかったからかもしれませんが、カッコは良かったけれど退屈で、正直その当時はあまり好印象は持てませんでした。 この2作品だけで言うなら、掴みは同じですかね。特にこの映画の何層かのカットアップ的な手法は決して分かり辛くはなく見事です。漫画の使い方も絶妙だと思います。

A:80年代の終り頃、ジャームッシュとかスパイク・リーとかNYインディーズと呼ばれてハリウッドの大作主義とは異なるスモールフィルムが清新な風を感じさせてくれた、その流れの中で90年代にかけてGVSを知り、追いかけて来たんですが、最初『ドラッグストア・カウボーイ』が騒がれた頃はやっぱりそのかっこよさ、マット・ディロンのルックと重なる印象で”おしゃれ映画”として受け取っていたなあというのが今、思い返すと正直なところありますね。で、実際に取材してみるとそういう思い込みをやんわりとケイベツするその微笑がなかなか怖いんですね。取材する側ってついこうでしょときめつけてかかった質問をしがちなんですが、そこをふふっと見越して責めないけれど違うぞ光線みたいなものを放つのでだんだん居心地悪くなってくる。試されてる感じをこちらが勝手に増幅して自意識過剰みたいになってくる――といっても、質問にはきちんと答えてくれるんですが、終わった後になんだかなあと、自己嫌悪に陥るような、そんな感じがありましたね。
多分、そういう部分が一部の、とりわけ若くてまだ毒されていない俳優にすごく信頼されている要因なんじゃないかな。
で、GVSの映画そのものも実験映画とコマーシャルな映画の狭間にあるような――と最初に話してくれた感触を温存しながら、『グッド・ウィル・ハンティング』のようにぐっとウェルメイドに傾くかと思えば、『ジェリー』『エレファント』『ラスト・デイズ』みたいなリニアな物語を排した究極へと振り切れていく――と、決めつけ難さをどんどん更新していく、そこが魅力でもあります。
『ドント・ウォーリー』はウェルメイドと実験色をうまく配合したという点で確かに『ドラッグストア・カウボーイ』と近いかもしれませんね。『ドラッグストア・カウボーイ』が青春後期の感懐だったとすると『ドント・ウォーリー』には生/死への目にも、語り口にも成熟が感じられるようにも思えました。

T:『ドラッグストア・カウボーイ』と『マイ・プライベート・アイダホ』ぐらいしか観ていないのでいつものようにごくごくアマチュアな印象ですが。。。やはりマット・ディロンやリヴァー・フェニックス、キアヌ・リーブスといった美形の若い男の子を配し、ドラッグや男娼みたいなセンセーショナルな題材の中で、すごく魅力的にこの世代の破滅的な美しさを撮っているなあ、というストレートな印象。
そうした初期作から中抜けで『ドント・ウォーリー』を観たわけですが、今回は主人公にそうしたわかりやすい見た目の美しさはないし、もっと大人の痛みや切なさを克服するような終わり方に美しさを見る感じで、これは年を経た変化なのでしょうか。

★アルコール依存症で四肢麻痺という主人公の克己、再生の過程を描きながら、その種のジャンル映画の重苦しさとか説教臭さを抜け出していますね。どのあたりがこの軽やかさの素だと思いますか?

M:比較的テーマ的には、最近よくあるジャンル映画とも言えますね。その手のジャンル映画が食傷気味になっていますが、ちょっと違うんですよね。
やはりキャラクターではないでしょうか。
どのキャクターも濃いですが、単純な善人とかではなく、暗いバックボーンがあったりして、それをまたシニカルに描くことで、ティピカルなジャンル映画から脱却していると思います。

A:最初の方、二本足で歩いた最期の日の回想の中で、ジョン・キャラハンが塗装の仕事の現場に行くとその家の住人なのか、玄関の車寄せみたいなところに車椅子の人がいて、キャラハンが身障者とどう接していいか分からない――みたいなことを心の中でつぶやくと、その車椅子の人がさかさにするとエッチな絵になるペンをいきなりみせるというちょっと唐突な場面があったと思うんですが、ああいう正直さ、それはスケボー少年たちの転倒したキャラハンに対する態度とも通じるんだと思うけど、それが爽やかな軽味を支えているんじゃないでしょうか。

N:主人公が電動車椅子に乗って街を猛スピードで疾走する姿と、そのスケボー少年たちとのエピソードは、重苦しさや深刻さ等を先に払拭させてくれましたね。また少年達とキャラハンが手作りのバンクで一緒に遊ぶシーンはとてもチャーミングで一番印象に残ります。

★当初、ロビン・ウィリアムズが自身の主演企画としてヴァン・サントにアプローチしたそうですが、彼が演じていたらどうだったでしょうね?

N:もっと涙や笑いの要素が多くドラマチックになっていたかもしれませんが、メジャーな商業映画らしさが際立ち、キャラハン本人のシニカルな雰囲気は少し削がれたかもしれません。ロビン・ウイリアムスが演じていたらもっと泣けたかもしれませんけどね。

M:本当にロビン・ウイリアムスには申し訳ありませんが、ティピカルでありがちな感動する映画になったと思います。ある種の毒素見たいな部分は、ホアキン・フェニックスの方がうまく表現したと思います。

A:GVSの映画というよりあくまでロビン・ウィリアムズの映画になっていたでしょうね。
今は亡きウィリアムズには悪いのですが個人的にはホアキンでよかった。
ホアキン・フェニックスは今、いちばん刺激的な俳優のひとりだと思うんですが、いろんな怪物的なキャラクターを演じているのに、自分の色を消せるんですね。デ・ニーロの全盛期に役になり切ると言われてましたがやっぱりデ・ニーロだといつも感じさせた。あのにやにや笑いとか、意外となり切り演技をはみ出してくる部分もあったように思うけど、ホアキンにはなんだかそれがない、でも惹きこまれる。その意味で不思議って言葉はなんか違うのですが気になる俳優なんですね。

★導師ドニーとそのセラピー・グループの描き方に関してはいかがですか?

T:このドニーが70年代後半から80年代初頭のアメリカの西海岸的なブルジョワスピリチュアル導師という感じで笑える。アクセサリージャラジャラ、香水ぷんぷん、週末にウォーホルのパーティに行くとか。。。だけどこの胡散臭さが逆に人間ぽくて、この映画のキーパーソンですよね。最後のシーンもいいですね。

N:ドニーは当時、アートや音楽、ファッション、遊び事で最も恵まれて輝いていた最先端の人達の典型。彼が週末NYに遊びに行く準備中、馬鹿っぽく踊っている姿もアリだし、そこそこ下品な冗談を挟みながら主人公達を模範的な方向に導こうとする真摯な姿勢も素晴らしい。まるでフィクションのような彼の一生はとても映画的で魅力的なキャラクターでした。 その他セラピー参加者たちも、一見表向きは社交的でも実はみんな出口のない悩みを抱えた、リアルなアメリカ人のステレオタイプの集まりのようでそれぞれが際立っています。
僕のごく近いアメリカの友人に本格的なアルコール中毒の男がいます。本人は悩んでもいませんし、酒を止める気もありません。でも家族はとても心配しています。彼を想って一度忠告した事があるのですが、その時の彼の反抗的で恐ろしい目つきを忘れる事ができません。僕にとってアメリカのアル中問題は身近でリアルな問題だったりします。

A:依存を克服する12のステップに関する部分は原作にもあるけれど、GVSが独自にふくらませていて、面白いですね。常連俳優ウド・キアがこれまでの役とつながりあるみたいな台詞をいうのもにやりの部分ですが、それが浮きそうで浮かずにキャラハンの克己の過程に関与してくるあたり、自ら脚本を書いたGVSのいいたいことがさりげなく配されているんでしょうね。

M:ドニーは重要なキャラクターだと思います。彼の存在が、単なるハンディキャップのある主人公の伝記映画から、一段深い世界へと観客を引き込み、映画の世界観に誘導していると思います。
彼のファッションも独特で良かったです。ああいう善悪つきかねるキャラクターを魅力的に描くのが、上手いですね。
その他のセラピーグループのメンバーは、何だかドキュメンタリーを見ているような気分になる描き方でした。

★アヌー(ルーニー・マラ)の描き方に関して海外評では否定的なものが多いのですが、いかがでしょう? 他に気になるキャラクターは?

A:アヌーの役はキャラハンが実際に交際した何人かの女性を合成して作ったとプロダクション・ノートにありますが、光を招き入れるように最初に現われるところとか、CA姿での再登場が空のイメージと結びつけられているところとか、ある種の天使みたいな存在でキャラハンの頭の中にだけ見えているのかしらと感じた部分もありました。でも、いっぽうでパンフレットにあるインタビューではアヌーが手助けする入浴の場面とか現実のガールフレンドに取材してリアルに描き込んだといった監督の発言もあるので幻想とばかりもいえないようですね。どちらにしてもちょっと判らないという評がでるのは判るけれど、むしろその曖昧さに好感をもちました笑
その意味ではジャグラーたちというのも面白かったし、公園でデートしているゲイのおじさんカップルとか、お酒のませてとよってくるホームレスとか、一見、無駄みたいなキャラクターの点描が効いてますよね。
あとぼーっとしているんだかしていないんだか、妙におかしい介護士のお兄ちゃんも好きです。

T:アヌーはCA姿の登場等確かに唐突な感がありましたし、過酷な状況での一筋の光感が誇張されている気もしましたが。
主人公の生きていくことの、生まれ変わることの大きなモチベーションだったろうし、そのハンデキャップを特別視しないような、どんな世界いにいても自分で生きられるような人間の大きさも感じました。

N:彼女はこの映画の中でも最も作られた印象の華やかなキャラクターなので人によっては余計もしくは不要な要素に映ったのかもしれませんね。 僕はジャック・ブラックの演じたデクスターが好きでした。めちゃくちゃな前半も最高ですが、再会時の二人のやりとりはベタかもしれませんがやはりグッとくるものがあります。

M:ルーニー・マラは、『ドラゴン・タトゥーの女』のリズベット役で、すごく気になった女優です。この作品の序盤では、髪型のせいか老いたトポルを相手にするミア・ファーローの『フォロー・ミー』を思い出してしまいました。
エンジェルのような造形された彼女の設定が、海外では辛口になっているのでしょうか?
僕には常に救いの部分で、アヌーはスパイスとして機能していたと思います。
他では名古屋君と同じくデクスターです。
見ながらデクスターの存在が、ずっと気になっていたので、デクスターの再登場は素晴らしい場面だと思いました。

★母、家探しの話というヴァン・サント映画のひとつのテーマがここにも出てきますが、その中で壁の画が活人化されたりする。といったちょっと昔の実験映画っぽさは気になりませんでしたか?

A:実母探しのエピソードは原作でかなりのボリュームをもってふれられていて、実は、母のことも、父のことも判明し、その家族ともコンタクトがとれ、拒絶され――といった部分にまで触れられているんですね。母の親友でルームメイトだった人が大量の写真を送ってくれたってくだりもある。でも、そういう具体的なエピソードはばっさりけずりとって赤毛の教師で生まれたばかりの僕を捨てたととGVSがエッセンスに煮詰めたことで映画的な強さが迫ってきていいですね。養父母の家での夕食の場面も印象的です。

母を探すエピソードは『マイ・プライベート・アイダホ』の核でもあるし、疑似家族というのは同作にも、『ミルク』のハーヴェイ・ミルクを取り巻くグループにも、『ドラッグストア・カウボーイ』の盗みの仲間4人にも、『カウガール・ブルース』や『ラスト・デイズ』にもといくつものGVS映画で繰り返し見られます。先のドニーとそのセラピーグループもひとつのファミリーとして捉えられるし。GVSの“非公認”バイオというのを読むと父の仕事のせいで(服飾関係のセールスマンからマクレガー社のトップに上りつめた人のようですが)転々として育った、それが家を求めることとつながったとありましたが、ここは本人のコメントを直接聞いてみたい所ですね。

昔の実験映画っぽさというのはコネチカットにいた頃、ハイスクールの先生に60年代のアンダーグラウンド映画、ウォーホルやメカス、ロン・ライスといった実験映画を見せられてそれが映画的教養の一つの柱になっていると最初に取材した時に語ってくれたのですが、”実験”色と同時に“ちょっと昔っぽい”という点も要になっているんじゃないかしら。
因みにその後、進学したロード・アイランドの美学校ではD・バーンやトーキング・ヘッズのメンバーとは顔見知りだったようです。

M:あまり母や家探しと追うのが、過去の作品とうまくインターフェース出来ないのですが、母の存在の無さが、ジョンの人生には重要な事は、強く伝わってきました。
画の活人化や、アニメの使い方は、僕は面白いと思いました。

N:肩の手の跡はこの映画にはちょっと不自然だったかな?

★音楽の使い方はどうですか?

A:デクスターとの再会の場面で80年代当時流行ってたビリー・ジョエルの曲が流れてて、いかにもキャラクターのいる時と所を思わせて、かっこ悪さがうまく活かされてる気がしました。
エンディングの曲はクレジットをみるとキャラハン自身が歌っているんですね。やわらかな声で痛烈な皮肉、黒い笑いを核にした彼の漫画の底にある素顔が覗いている、そんな声ですね。

N:あの時代を再現するのに、衣装やセットよりもシーンでの選曲は効果的だったと思います。

T:GVSはボウイやディーライトのクリップ作ったり、プライべートアイダホもB-52‘sからだし、音楽好きなんだろうね。挿入歌のジョンレノンの『アイソレーション』は一人ではないこと、家〈寄り添う人たち〉があることに感謝するように使われているのかな?

M:70~80年代という時代性と合わせて、常に音楽の使い方はうまい監督だと思います。やはりジョン・レノンが印象に残ってしまうのですが、『カウガール・ブルース』や『パラノイド・パーク』ほどには、音楽のインパクトはありません。
ただピーチズ&ハープのダンスシーンのベタな使い方は絶妙で、改めてヴァン・サントのセンスの良さを実感しました。

★主人公のジョン・キャラハンの地元でありガス・ヴァン・サントの拠点でもあるオレゴン州ポートランドが映画に寄与したものに関しては? 70年代から80年代という時代背景に関しては?

T:POPEYEにガス・ヴァン・サントの引っ越したLAの家でのインタビューが出ていたけれど、ポートランドについて「20年住んだからね。そろそろいいかなと思ったんだよ。それに街も変わったけれど、ネットで全てが変わっただろう?どこに住んでもあまり変わらない時代になったんだよ。」と言ってます。
ということは逆に言えば描かれる70年代後半から80年代初頭のポートランドはジョンとガス・ヴァン・サントが「ワーキング・クラスやパンク・ロッカーのようなミュージシャンが住んでいる」ようなエリアで「赤い髪をなびかせて、雨の中でも車いすを猛スピードで走らせていく姿」を目撃するようなリアルな人間関係の成立するスモールタウン的だったのかな?

N:ガス・ヴァン・サントのポートランド3部作の認識や知識も無いのでその観点では語れませんが、ポートランドは好きな町です。サン・フランシスコに裕福なアジア人やインド人たちが大量流入し、家賃も高騰し続けたおかげで、西海岸のアーティストたちの多くが移住先にポートランドを選んだのも納得出来る、自由と寛容さを持った自然とも近いハイパーすぎないほどよい都会です。

A:ポートランドってまさにGVS取材で束の間滞在しただけですが、LAから飛んで夜、降りた途端に湿気に包まれてやわらかくなってくみたい――と感じたのを覚えています。その時、準備中だった『マイ・プライベート・アイダホ』そして実質的なデビュー長編『マラ・ノーチェ』に切り取られているタフな界隈というのがキャラハンのいた場所でもあったようですね。あの独特の色や匂いが薄れてしまったんでしょうか。

M:ポートランドは行った事もないですから、なんとも言えないのですが、以前勤務していた会社の本社がポートランドで、ナイキと合わせてポートランドの独特なカルチャーみたいな部分は、感触としてはイメージが出来ます。
単なる田舎町ではなく、独特の文化のセンスの良さであったり、クリエイティブな空気というものが、作品には結びついているように感じました。
ヴァン・サントは、大都市というより地方都市を描くことが多いですし、その街の空気感を映像を通じて醸成するのが上手い監督だと思っています。

『ドント・ウォーリー』5月3日より、ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館他全国公開。
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