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CINEMA DISCUSSION-30/キューブリックを巡る二つの人生

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新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクルルージュのシネマ・ディスカッション。
第30回となった今回は、巨匠スタンリー・キューブリック没後20年を記念して公開される2本のドキュメンタリー『キューブリックに愛された男』と、『キューブリックに魅せられた男』です。
『キューブリックに愛された男』は、キューブリックのイタリア人ドライバー、『キューブリックに魅せられた男』は、俳優から制作スタッフに変わった元役者という二人の側近を描いたドキュメンタリーです。
いわば巨匠キューブリックの私設秘書と、政策秘書のような対照的な二人を描く事で、2本を通して見ると、今まで知らなかったキューブリックという偉大なる映画監督の実像が見えてきます。
ディスカッションメンバーは、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。

★恒例の質問になってきましたが、まずみなさんのキューブリック体験は?

名古屋靖(以下N):たしか『時計じかけのオレンジ』が最初だったと思います。自分が何歳だったか忘れましたが、話題先行、興味津々で観たものの、その過激すぎる内容に戸惑い、正直よく解らず観終わった後に混乱していた事は覚えています。
前後しますが『2001年宇宙の旅』を1978年の再ロードショウで地元の遊び仲間達と渋谷まで観に行ったのは覚えています。
その時代にオールナイトで映画を見に行くのは、いくつかある楽しい週末遊びの一つでした。
『バリー・リンドン』は歴史劇に興味が湧かなかったのもあり見逃したまま。照明は蝋燭のみで高感度カメラを使用して撮影した事位しか知りません。
その後の『シャイニング』『フルメタル・ジャケット』は個人的に気に入りましたが、『アイズ ワイズ シャット』は好きになれずキューブリック最後の作品になって残念な想いがありました。

川野正雄(以下M):小学生の時、銀座のテアトル東京に『2001年宇宙の旅』を観に行きましたが、満席で入れず、東劇で『猿の惑星』を観ました。
最初に観たのは中学生の時の『時計じかけのオレンジ』ですが、内容が過激すぎて、親にパンフレットを捨てられてしまいました。
その後の作品は、長尺で公開当時評判が悪くて回避した『バリー・リンドン』以外は見ています。
好きなのはむしろそれより前の作品で、『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』や、『レザボア・ドッグス』の元ネタ『現金に体を張れ』、『突撃』などですね。1950年代後半の作品としては、アイデアや構成、ストーリーがすごいと思います。
後年の『アイズ ワイズ シャット』も、『フルメタル・ジャケット』も、強烈なメッセージと、圧倒的な演出力ですごいと思いました。
逆に後年リバイバルで見た『2001年宇宙の旅』は、怒られてしまいそうですが、映像へ特化しすぎていて、あまり好きにはなれませんでした。

川口哲生(以下T):いつものように1950年代後半の生まれのレイト・カミングな私としては後追いで『2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』を観ています。恥ずかしい言い方だけど、そのころのアートやファッションや音楽に興味がある人間にとってはmust-seeな通過儀礼みたいな感じだったと思います。
個人的には好きだったディヴィド・ボウイの興味の先にあるものとしてたどり着いているような気がします。ボウイが『2001年宇宙の旅』にインスパイアされて「スペースオディティ」を書いたことや「サフラジェット・シティ」の歌詞に『時計じかけのオレンジ』のナッドサッド語の友人という言葉を使っていることからは、ボウイのキューブリックへの心酔ぶりが伺えます。ボウイの息子の映画監督のダンカン・ジョーンズもインタヴューで、ボウイと子どものころ『2001年宇宙の旅』と『時計じかけのオレンジ』を観たことをよく覚えていると語っているし、ボウイにとって重要な位置を占める作品だったのだと思います。
リアルな年代で観たキューブリックは『シャイニング』。ジャック・ニコルソンへの興味もあってみたように思います。
その後の作品は観れていません。『ロリータ』はパリにいたときに観たかな。

川口敦子(以下A): 最初は確かテレビの洋画劇場で『博士の異常な愛情~』を見たんだったと思います。中学生の頃かな。調べたら1971年8月8日『日曜洋画劇場』ですね。ってことは高1だったんですね。キューブリックがすごいというのは映画ファン雑誌で読んでいたので、かなり身構えて見たようにも思いますが普通に面白いというか、スタンリー・クレイマーとか、ジョン・フランケンマーとかシドニー・ルメットとか、前後してやはりtv放映された社会派、政治危機ものの流れで愉しんだように記憶しています。キューブリックよりピーター・セラーズすごいというのが正直な感想でした(笑)。
大学の時には文芸坐で立ち見で『時計じかけのオレンジ』を見ましたが、最初の方だけの印象でもひとつ、同時代に封切り作として見た最初のキューブリックが『バリー・リンドン』でした。これは今野雄二さんの影響下にもろにいたおしゃれものミーハー・ファンとして観に行って、話題の蝋燭の灯だけの照明、そこにぼんやり浮かんでいるお化粧した男たちの白い顔にはなかなか惹きこまれました。そのあたりでリバイバルの『2001年宇宙の旅』も見たはずですが、この凄さはむしろ後年、タイレル社時代に中野裕之さんがオフィスでたまにLDでご覧になっているのを横から見て、パンナム機内の赤と白のかっこよさとか、なるほどねと映画としてよりそういうデザイン性の部分で確かに凄いと思いました。
という感じで大好きな監督だったことは一度もないのですが、さらに後年、『レザボア・ドッグス』でタランティーノに取材して『現金に体を張れ』がヒントのひとつと口角泡をとばして勧められ見ましたが、確かに面白い! と、巨匠になる前のモノクロ時代のキューブリックに熱狂的なファンが少なくないのもなるほどねと思いました。

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★その体験から抱いていたキューブリック映画、またキューブックという監督、人間へのイメージはどんなものですか?

M:人間キューブリックについては、今回初めて垣間見たので、これまでのイメージはありません。
映像作家としては、映像的テクニックと、強烈な演出力、そしてセンスの良さを兼ね備えた類稀なる存在だと思っています。
作品数は多くないですが、そのどれもがまったく違うカテゴリー。フィルムノワール、歴史、SF、フェティズム、ホラー、戦争と、全く違うカテゴリーの作品を、それぞれ完璧に生み出すキューブリックの仕事は、すごいの一言です。

A:意匠の人っていったらいいでしょうか。完璧主義というのもだからすべてデザインというところで出てくるように思います。
人間キューブリックという点では植草甚一「ぼくは散歩と雑学がすき」で“グリニッチ・ヴィレッジのコンクリート将棋盤でチェス・ゲームをやって食っていた”人というのは印象強烈でしたね。「クブリック」が「変わりダネの映画作家」にすぎず、きちんと紹介されてない頃のプロフィール記事、面白かったなあ。

T:一つには「完璧主義」。映画の1シーン1シーンが一枚の絵画のような完成度で作りこまれているように感じていました。
そしてもう一つは「人間の狂気」の表現者です。ここの表現のエスカレーションが個人的に受け入れられなさもであったのも事実です。
的外れかもしれないけれど、ボウイから到達した自分だから感じるのか、ロンドン的シニカルさ、ブラックなユーモアみたいなところもすごく感じますが。アメリカ出身なんでしょうが。。。

N:すべての作品を見たわけではありませんが勝手に、反ハリウッド的な芸術家肌の映画監督で、私生活は謎に包むのを好む印象だったので、厳しく難しそうという以外に人としてのイメージは湧いてきませんでした。

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★そのイメージはこの2本の映画を見ることでどう変わりましたか?

A:完璧主義の具体性が2本をみることで公私両面から見えてきたと思います。という意味でこの2本は二本立てで見るのが正解みたいにも思いました。映画が描くふたりの生身の経験を通してキューブリックの完璧さが人間レベルで感知できたというのかしら。また意外に自主映画っぽい、全部自分でしないと気が済まない、その意味での手作り感覚というような所にいるキューブリック像と結ばれていくようにもみえてきて、もっとひんやりとしたイメージしかもっていなかったので興味深かったです。

T:内容こそ異なれ、キューブリックからのエミリオに対するスペシフィックすぎるメモやきりのない電話、そしてレオンのメモ魔みたいになってあらゆる仕事に巻き込まれていく様から,キューブリックの終わりのない「more&more」を求める様を見た気がします。こういった病的ともいえる気性がキューブリック映画から感じていた「完璧主義」を醸し出させているのだと妙に納得しました。

N:悪意のない無邪気な子供みたいです。 相手の人生や生活から精神までもを蝕むほどの執拗な要求やオーダーをしていることを、本人はほとんど気づいていない。それだけでなく子供じみた無垢なわがままも、恥ずかしげもなく言えるキューブリックは計算のない純粋な人だったんじゃないかと思います。

M:映像作家としては、皆さんの指摘する完璧さの追球と、結果生まれる高いクオリティ、その印象は観賞後も変わりません。
人としては、この作品2本を見て、優しい面と、作家として狂気なほど頑固な面、両方が感じられ、理解が深まりました。
以前黒澤明監督のドキュメンタリーTVを見ましたが、同じような印象があります。
スタッフへの気配りや優しさと、作家としての拘りとか狂気、そういう部分は共通でした。
突出した監督には、狂気に近い完璧主義があり、それと人としての安らぎ、そのような部分の両立が必要なのかなと感じました。

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★”愛された男”エミリオ・ダレッサンドロと”魅せられた男”レオン・ヴィターリ、キューブリックに人生を捧げた(奪われた?)という点では共通するけれど、親密な前者、戦場を裏から統括しているような切れ者の後者とその人間性がドキュメンタリーの感触ともなっていますが、そのあたりどう見ましたか? 愚問ですがなるならどちらになりたい?

N:エミリオとレオン、キューブリックは2人を完全に使い分けていましたね。 エミリオは何度か作品について意見や感想を求められた際、毎回キューブリックをがっかりさせています。彼にクリエイティヴ面で期待はしていなかったのでしょう。その分プライベートな方面については恥ずかしくて人には頼めないような事まで依頼。エミリオなしでは生活できないほどの親密さを感じます。その点ではエミリオとキューブリックの関係は常に平等に見えます。
その反面レオンのことは、映画制作者として自分ほど完璧ではないにしろ分身のように感じていたからこそ、厳しく深く作品についてあらゆる要求をしていたのではないでしょうか?ただこっちの関係は神と仕えし者の歴然とした格差を感じます。
自分がなるとしたら、正直どちらにもなりたくありません。彼らのように一度キューブリックに気に入られてしまったら、最後まで食べ尽くされてしまうだろうから。

A:エミリオはちょっとだけジョナサン・デミの『メルビン&ハワード』の、砂漠で拾ったハワード・ヒューズを彼とは知らずにラス・ベガスに送り届けて遺産相続リストにのってしまうトラック運転手メルビンを思い出させますね。メルビンみたいにだめだめ男ではないと思いますが、エミリオは。でもF!レーサーとしていいとこまでいっていて、その夢を息子に託していくあたり、やんちゃな部分もあったのかな。朴訥な英語の口調と老人ぶりで今のエミリオからほんとにほっこりとしたいい人の印象がまず植えつけられますが、いい人なりに、でも若い頃にはいろいろあったのかななんて想像してしまいます笑 小津の名キャメラマンとしてやはり滅私奉公的な関係を築いたかにみえる厚田雄春のこともちょっと思い出す、ベンダースのドキュメンタリーにいる彼の感じ。厚田さんは映画に関してプロですからその点では違いますが、小津との関係はレオンじゃなくエミリオかなと。なにいってるかちょっと不明になっていますね。すみません(笑)。
エミリオの話に戻すとキューブリックが何者かなんて関係なく、その映画もいっさいみたことない、そういうエミリオの前では自分が無名のひとりとしていられる心地よさがキューブリックの彼に対する愛着、執着となっていたのではないかしら。
かたやレオンはミニ・キューブリックみたいに自らも映画作りの鬼として戦場にのめりこんでいく。才能という点で自身への見極めのつけ方も面白いですね。キューブリック映画のもうひとつのメイキングみたいに愉しむこともできると思います。
私も自分の好きに生きたいから笑 どちらにもなりたくはないですけど、物欲的にはエミリオのあのガレージは欲しいかも。

M:エミリオから感じるのは、キューブリックには心地よい存在が常に必要で、それがエミリオで、彼には甘えたかったのでしょうね。
エミリオを見ていて、先日やはりテレビで見たチャップリンの日本人マネージャーの話を思い出しました。人種差別されていた日本人を、チャップリンは信頼して長期間雇っていたのです。イタリア人のエミリオへの愛情は、そのチャップリンの愛情に近いものがありました。
レオンには、役者の姿を見ながら、彼の別の才能を、キューブリックが見つけたのではないかと思います。
どちらになりたいかと言えば、やはりクリエイティブに関わるレオンの方かな。キューブリックは日本語字幕までチェックしていたという伝説がありますが、それはレオンの仕事だったのではないかと推察します。
10年位前に、ハリウッドのアカデミー協会と一緒に、黒澤明監督の『羅生門』の4Kデジタル修復をやったのですが、そのチームはキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』のデジタル修復チームでした。
理由はモノクロで、オリジナル素材の状態が良くないという似たような条件だったからなのですが、プロジェクトにはチェック役としてレオンも関わっていたのではないかと思います。

T:両方の映画を観て、キューブリックの人を巻き込んでいく様が面白いなと感じました。
キャリアもない、深い関係でもない人間に仕事を任せ、そしていつしか底なし沼のようなずぶずぶな「slave to Stanley」状態に巻き込んでいく。人たらし?
ちょっと共依存関係みたいで、ゲーっと思うところもあるけれど、どんどん任せられ、信頼されることにこたえるべく「selfless」に「no own life」に生きる二人。
そしてどんどん要求がエスカレートしていくキューブリック。。。
そうした共通点はあっても、たしかにエミリオとレオンのキューブリックとの関係性はちょっと違いますね。
エミリオははじめからキューブリックを知っていたわけではなく仕事としての運をつかんだところからの関係だったけれど、レオンははじめからキューブリック=神だったからね。
私は自分的にはレオンの方が近いと思いました、Mぽっくて(笑)。
なりたいとは思わないけど。

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★印象的なエピソードは? 家族のコメントも印象的ですね?

M:エミリオが引き戻されるエピソードは印象的です。
キューブリックが亡くなった日の話が、それぞれの立場から語られていたのも、印象に残っています。
エピソードではないですが、エミリオが着ていたミリタリージャケット、多分『フルメタル・ジャケット』のスタッフユニフォームと思いますが、欲しいなと思いました。

T:エミリオの『シャイニング』撮影時のジャック・ニコルソンのドラッグ話もファンとしては興味深いですが、イタリアに帰る決心をした彼を2週間だけといいつつ2年間になったエピソードとかエミリオの奥さんの微妙な感情との狭間でのエミリオのことを慮ります。
レオンは上映フィルムチェックやその他の気が遠くなるような作業や罵倒され続けるキューブリックとの胃の痛くなるような消耗戦、放り出してしまう方が圧倒的に楽なのに、そこにとどまり続ける創造への執着みたいなところでしょうか。親を誰かに横取りされているような子どもたちのインタビューでの思いも感じるところがありました。

A:エミリオに関してはやっぱり一本もキューブリック見てませんというところ、それから見てみたら天才とわかった、で、どれが一番気に入ったとキューブリックにきかれて、監督としては「御用監督に徹した」「一切自分を抑えて作った映画」と不満いっぱいのあの一作(見てのお楽しみですね)をあげちゃうところが、たくまずしてキュート!
レオンのほうは『バリー・リンドン』での俳優ぶり、ちょっとあのころの顔していて、ブラッド・ダリフとかみたいで、続けていたらエキセントリック系でかなりいい線いったのではと思わせるのにすっぱりやめて裏方に回っていくところがやはり興味深かったです。
あとキャスティングに関してレオンがかなりアイディア源で、キューブリックが素直にそれにしたがっている点も、そうなんだという感じで意外でしたね。

N:みなさんがおっしゃる通り、エミリオが引き戻されるエピソードは面白かったです。キューブリックも悪気があってやったことではないと思うし、エミリオ本人も本当はちょっと嬉しかったんじゃないでしょうか?
レオンの息子達のコメントも印象的でした。父親がキューブリックのために全身全霊を傾ける姿に幼い頃は戸惑いながら、その後は援助も。。。 またレオンの活動が映画会社にあまり承認されず、しかし本人は名誉や評価など眼中になく、キューブリック作品に携わっていられる事に心から喜びを感じている姿にグッときました。

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★『~魅せられた男』の監督トニー・ジエラはニューヨーク大やUCLAで学びハリウッドでの成功を夢見る4人の俳優を追ったドキュメンタリーCarving Out Our Nameでデビュー、かたや『~愛された男』の監督アレックス・インファセッリはローマ生まれのイタリア人、LAでいくつかのバンドを転々とした後、帰国して人気MV監督になったそうです。どちらもホラー映画で劇映画デビューを飾っているようですが(笑)、ふたりの監督、またその作品の持ち味に関しては?

N: キューブリックに仕えた2人のドキュメンタリーですが、まったく違う趣の映画ですね。『~愛された男』の方は、プライベートを中心に数々の思い出をエミリオ自身が語るほっこりとした感じで、キューブリックの魅力的な人間性を垣間見せてくれました。二人の絆も感じるキュートな印象です。 『~魅せられた男』の方は原題の『Filmworker』が語っているように、シリアスで鬼気迫るドキュメンタリーでした。未見の撮影時のオフショットや映画出演者のコメントなど、レオンとキューブリック作品の両方を語った見ごたえのある映画です。

T: 描かれているキャラクターとの相似性がやはりあるように感じます。

A:ホラー映画でデビューのふたりが怪物監督にちなんだドキュメンタリーを共に撮っているという点は、ちょっと個人的に受けました。
作品の感触はやはり描く対象のエミリオ、レオンの人柄を映すようでそこも面白いですね。
『~愛された男』は監督とエミリオが最後にキューブリック邸の閉ざされた門にいきつくまでの親密なロードムーヴィーみたいでもあり、ヨーロッパの小さな映画ぽさが魅力でもありますね。その朴訥とした肌触りにちょっと退屈しちゃうという観客ならば、コメントも華やかな顔ぶれ、そして映画の世界のスリル、スピードが映画の歩調にもなっているような『~魅せられた男』がおすすめでしょうか。

M: これは結構差がありますね。
『~魅せられた男』は、」使用しているフッテージ含めて、予算も多く、映画としてのクオリティも高いと感じました。
ドキュメンタリー映画として、キッチリ作られています。
『~愛された男』は、プライベートフィルムのようなゆったり感があります。

★『〜愛された男』の原題はS is for Stanley、『〜魅せられた男』の原題が『Filmworker』です。それぞれ味わい深いものがありますが?

A:手書きのサイン Sの肌触り、パーソナルな映画としての『〜愛された男』にふさわしいタイトルですね。
『魅せられた男』の方のfilmworkerというのは映画を支える労働への讃歌、エンディングのクレジットにある名前の全部にというコメントもありましたが、裏方の力を讃えてその代表としてのレオンをフィーチャーするという、その意味でこれもこの映画にぴたりのタイトルですよね。

T:確かにレオンのアシスタントじゃないんだ「Filmworker」だという矜持を強く感じました。
レオンの最後の一人語り、ぐっと来ました。

M: S is for Stanleyは、そのものの原題ですね。
レオンの仕事は、本当に大変だったろうなと思います。二人ともキューブリックからの信頼が、全てのモチベーションになっていたと思います。それを感じさせる原題ではないでしょうか。

(C)2016 Kinetica-Lock and Valentine

★今、改めて見直してみたいキューブリック映画はありますか?

T: 昔よりクラシックかをストレートに受け入れられている今、楽曲の選択の意図を考えつつ
冒頭挙げた2作品は見直してみたいと思います。
観ていない『アイズ ワイド シャット』もレオンの出演箇所確認しながら観たいと思いました。

M: 映画よりも、展覧会「Stanley Kubrick: The Exhibition」を見たいですね。
『〜魅せられた男』を見て、未見の『バリー・リンドン』は見なくてはと思いました。
それと今の時代に『博士の異常な愛情〜』は再見したいです。
デジタル修復版のフッテージは、サンプルとして見せてもらいましたが。

N:好きなキューブリック作品はこれからも何度でも見たいと思っています。 でも、個人的にはあまり印象が良くなかった『アイズ ワイズ シャット』はもう一度ちゃんと見てみようかな?

A:ちょっと反則的コメントになりますが、亡くなるまで準備していたという未完の大作『ナポレオン』は見てみたかったと思います。

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「キューブリックに愛された男」
2019年11月1日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国カップリング上映
配給:オープンセサミ
(C)2016 Kinetica-Lock and Valentine
2016年/イタリア/カラー/82分/ビスタサイズ/5.1ch
原題:S is for Stanley
監督:アレックス・インファセッリ
出演:エミリオ・ダレッサンドロ/ジャネット・ウールモア/クライヴ・リシュ

「キューブリックに魅せられた男」
2019年11月1日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国カップリング上映
配給:オープンセサミ
(C)2017True Studio Media
2017年/アメリカ/カラー/94分/ビスタサイズ/5.1ch
原題:FILMWORKER
監督・撮影・編集:トニー・ジエラ
出演:レオン・ヴィターリ/ライアン・オニール/マシュー・モディーン/R・リー・アーメイ/ステラン・スカルスガルド/ダニー・ロイド

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Cinema Discussion-29/ ボサノヴァの見果てぬ夢〜『ジョアン・ジルベルトを探して』

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクルルージュのシネマ・ディスカッション。
第29回は、先頃突然の訃報で世界中を悲しみに包んだボサノバ界の巨匠ジョアン・ジルベルトを追ったドキュメンタリー『ジョアン・ジルベルトを探して』です。
マーク・フィッシャーというドイツ人作家が、ジルベルトを追いかけた著書の発売1週間前に自殺をしてしまった。
監督のジョルジュ・ガシュは、マーク・フィッシャーの足跡を自らが追うことで、逃げ水のようなジョアン・ジルベルトの姿に迫っていきます。
ディスカッションメンバーは、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。
メンバー間には、ボサノヴァに関する熱量の違いなどもありますが、そこを含めてご一読ください。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★まずはみなさんのジョアン・ジルベルト体験をお話し下さい。

川口哲生(以下T):ジョアンのことになると正に「想いあふれて(シェガ・ヂ・サウダーヂ)」という感じになってしまいますので話が長くなったら失礼。笑
ボサノヴァ誕生年の1958年生まれのわたしのブラジリアンミュージック体験と置き直して考えると、一番初めの明確な体験は1968年のセルジオ・メンデス&ブラジル66です。きっと大阪万博に来日した時のライブだったと思うのですが、TVで見た記憶があり、小学生の自分にとってそれまで聞いたことのない地球の反対側の音楽として「マシュケナダ」とか転調とか、リズムとか、ポルトガル語の響きとか強烈なインパクトがあり耳に残ったのを覚えています。
その後のロック少年時期は距離を置きますが、それでも1970年代半ばのミカバンドの「マダマダ産婆」とか細野さんのトロピカル三部作みたいな、後のキッド・クレオールにもつながる南国エキゾチック嗜好みたいなものは自分の中に常にありました。
高校生後半に、吉祥寺のジャズバーに出入りしそこでかけられるリターン・トゥ・フォレバーでフローラ・プリムやアイアート・モレイラに出会い、そして勿論ゲッツ・ジルベルトにも出会いました。
後追いでなく自分のジャストのタイミングで聞いたジョアンは1977年の「AMAROSO」です。当時の東京のトミー・リプーマのプロデュース、アル・シュミットのミキシングのものは間違いないという気分の中、マイケル・フランクスの「スリーピング・ジプシー」や「AMAROSO」を聞いていました。このアルバムはジョビンのアレンジもやっているクラウス・オーガーマンがアレンジャーで参加していて、そのころそれぞれの曲のエンディングの分厚いストリングスに、逆光の黄金色の海岸、寄せては引く波、引き潮のあとの濡れた砂粒一つ一つが金色にきらきら輝くビジュアルイメージを本当にはっきり感じていたのを今でも思い出します。
これらのアルバムはこれらとして私も当時大のお気に入りだったわけですが、スタン・ゲッツとのレコーディング競演時に「こいつ、ぶりぶり吹きやがって」みたいな感じだったと聞いたことがあるし、この「AMAROSO」もオーガーマンについても「大足の牛野郎が僕のアルバムを潰した」といっているようにどちらもアメリカや世界市場に向けた音作りで彼を一躍有名にしたけれど、ジョアン自身は自分が生み出したボサノヴァの本質とは違うものとして「わかってねーなー」と満足していなかったのだろうと思います。この映画のボサノヴァを生むまでのジョアンの足取りを見ると、そうしたジョアンの心情も理解できるように思います。

1st アルバム アナログ盤

この時期高橋幸宏のサラヴァもあり、当然『男と女』のピエール・バルゥーやそこから深堀した、クローディーヌ・ロジェやゲーリー・マクファーランドといった後のサバービアみたいなものやシビル・シェパードとかのボサものまでも聞いていたかな。

1978年夏に敦子さんともどもニューヨークに始めていったけれど、そのときヴィレッジ・ヴァンガードでスタン・ゲッツ見てますが、ジョアンがいたような気がするんだけど夢を見ているようで不確か。。。この映画の雰囲気に通じますね。現実なのか、幻の痕跡なのか?笑

1988年にパリに住んだときは、ビデオ作家の中野裕之君の影響も受けて、FNACでボッサのCD買いまくりました。古い音源のものもこのころ多く聞いたと思います。デイヴィド・バーンの「ベレーザ・トロピカル」もこのあたりに出ていますね。

1990年のJAZZの時代になると、HIPHOPでもクインシーのSOUL BOSSAがサンプリングされたり、JAZZ FUNKの流れの中でもブラジル要素のものに光が当たったり、
ラテンやレゲエに続くものとして、またJAZZの語彙の一つとしてブラジリアンミュージックが注目されます。
この時期、踊れるJAZZ BOSSA的なもののCDコンピレーションがシリーズ化されたり、
あのELENCOのアナログリイシューがあったり、すごく面白い時期でした。
私も買えていなかったELENCOのアナログを買い増しました。笑

このELENCOのカバーのアーティストも映画に登場していましたが、「所有する価値のあるレコード」をコンセプトにしたこのレーベルは、白黒赤を使ったアルバムジャケットがすごくかっこいい。いわばブルーノートとかトーキングラウドとか統一感を持ったレーベルのグラフィックが世界観作っています。
そして2003年9月15日、パッシフィコ横浜でジョアンの日本公演を確かに(笑)観ています。
出てきた瞬間から、観客全員が神を見るような感じで、拍手と静寂の中での演奏が、繰り返しながら進みました。途中で寝入ってしまったかのようにステージ上で動くなったジョアンを誰もとがめるでもなく、ただやさしく待つそんなコンサートでした。
中原仁さんが当時のコンサートのパンフレットに書いているように「ボサノヴァの曲、ボサノヴァという音楽は存在しない。(中略)ジョアン・ジルベルトがその声とギターを通じてたった一人で生み出した表現が、創造に向かうジョアンの姿勢が、ひいてはジョアンその人がボサノヴァであるということだ。」ということを心から感じました。

初来日公演パンフレット

川口敦子(以下A):あくまで受動的、主には哲生さん経由で、隣から聞こえてきて、いいなあとそういうレベルの体験です。部屋に確か”Amoroso “のジャケットが飾ってありましたよね。テープを作ってもらったと思うのですがそれを車でどこかに行く時よく聞いていた。80年代の始めの頃のことでしょうか。今回のために、参考で送ってもらったリンクにある曲を聞くとああ、あれあれねと聞けばすごく懐かしく思い出し、どれもいいなあと思います。ニューヨークでスタン・ゲッツと出てきたというのは夢のまた夢のような朦朧の記憶です。チキンのディナーと共に? マンハッタンのどのあたりでしたか。ヴィレッジ・ヴァンガードだったのね。あの78年の夏は私としては画期的に濃いコンサート続々で、いい夏でしたね。

川野正雄(以下M):
ゲッツ/ジルベルトのアルバムは持っています。後ライブ盤CDを持っていたのですが、タイトルがわからない状況です。「イパネマの娘」とか、「黒いオルフェ」とか、一般的な曲はもちろんわかりますが、深追いしたことはありません。
どちらかというと、元妻のアストラッド・ジルベルトの方がよく聞いていました。
音だけあればいいアートストと、周辺を掘っていくアーチストがいますが、自分の中でジルベルトは前者の存在でした。
ジョアン・ジルベルトは、アストラッドに比べると、とっつきにくいのと、やや単調なので、あまり入り込めなかったのだと思います。

名古屋靖(以下N):まだ10代の頃なので、初めてレコードを聴いた時の記憶は定かではありません。
当時ボサノヴァというジャンルに強い興味があったわけでもなく、70年代に多くのJAZZミュージシャンがブラジルに向かっていたクロスオーバーな時代に、その辺の理解を深めるために聴いたのが最初だったかもしれません。その後本人にまつわるエピソードを聞いたり、たまたま目にしたジョアン・ジルベルトのギター教則本で、レコードを聴いただけでは解らない難解な奏法に痺れたりして、何度も聴き直すうちに徐々に深みにはまって行きました。
実体験できたのは2006年11月の国際フォーラムです。川口さんと同じ初来日2003年に弟が先に行っていて絶賛していたものの翌2004年の再来日も見逃してしまい、かなり気合を入れて観に行ったことを覚えています。
数々の噂と逸話の持ち主ですし年齢の事も加味すると、本当に来るのか?演るのか?本人がステージに登場するまで勝手にドキドキしていました。
うるさいので会場の空調を止める。明るいので非常口の灯りは消灯する等、もはや名物とも言える本人のリクエストは聞いていた通り普通に実施されていたし、来日公演ではいつも通り開演時間過ぎてからの「まだ会場に到着しておりません。」から「先ほど宿泊のホテルを出発しました」のアナウンスも観客の温かい拍手に包まれて、全てが特別扱いの別格感でいっぱいでした。
ヨレヨレなスーツで現れた神様は予想以上に可愛いおじいちゃんでしたが、放つオーラは半端なくついに本当のボサノヴァを体験できることに静かに興奮していたのを思い出します。しかし正直言うと、始まって小一時間過ぎた頃には定期的に襲ってくる睡魔との戦いが、まるで禅寺で修行しているかのような状態だったのも事実です。。。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★その体験から抱いていたジルベルト像、あるいは彼の音楽の魅力はこの映画を見た後で変化しましたか?

N:いい意味で変わりませんでした。映画を観る前から変わり者で難しい人なのは認知していました。そんな本人のミステリアスで謎多き点が、その他ミュージシャンが奏でるただお洒落なボサノヴァとの差で、聴き手の勝手な妄想なのかもしれませんが、容易には手の届かない理解不能で、深い沼のような音楽だと今でも思っています。

A:音楽としてはBGM以上に掘りさげた態度で臨んだことがなかったので、映画で彼と彼の音楽を命をかけて探究したマーク・フィッシャーはじめ、魔力のように惹きつけられた人々を知って、正直いうとかなり驚きました。無責任にいってしまうと心地よさとか軽やかさとか、耳に吹き抜ける風みたいな音楽としていいなと思っていたので、映画を見て、その先にある世界に初めて目を向ける準備ができた、そんな感じです。

M:ジルベルト本人に興味を抱いた事がなかったので、知らないことばかりでした。亡くなった事との因果関係含めて、初めて彼の人生を知りました。
ここまで謎が多くて、変人だという事も知りませんでした。
音楽に関しては、多少聞いていましたが、非常に新鮮な気持ちで、作品を見ることが出来ました。

T:二番目の奥さんのミウシャがジョアンについて、インタビューで「ジョアンは本当に特別な人でどうやって定義しようとも言葉足らずになってします。相手によっては相反する印象を与える人なので、本当に難しいわね。」と言っているけれどこの映画でもみんな彼を一つに焦点を結んだ像として捉え切れていないようにも感じられました。
彼のミステリアスさや数々の変人伝説は聞いていてけれど、そのどれもが彼であり
それを反映する彼の音楽は、大量消費されている「耳優しいおしゃれな音楽」に貶められない魅力に満ちていることを再確認しました。

★08年8月26日リオ・デ・ジャネイロで催されたボサノヴァ誕生50年記念コンサートを最後に公の場に現われなかったというジルベルトの謎については前から興味をもっていましたか?

T:そのことについてはあまり意識していませんでしたし、興味を持っていたとはいえません。もはや「パジャマの神様」状態が続いていましたから。

M:全くその事実を知りませんでした。生きているかどうかも、正直死去のニュースを見て、知った次第です。

A:J・D・サリンジャーとかテレンス・マリックとか謎に満ちた存在についてのミーハー的興味はある方だと自認してますが、ジルベルトの謎は初めて知りました笑

N:なぜ公の場に現れなかったのか?その理由について興味はありました。ただ、予定されていた2008年の来日も中止になりましたし、体力や歌、演奏に自信がなくなっていたとしたら、完璧主義者としてはそんな妥協した姿を晒したくはなかったんじゃないかと思います。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★印象に残るコメント、証言者は?

A: 前妻ミウシャのコメントというより、彼女自身は隠遁中のジルベルトとコンタクトをとれる、電話口にも呼び出している、なのにこちらにひっぱり出しはしないというスタンスが面白いなあと感じましたね。あと、マークが訪ねたというレコードショップの主人、これは私の愛聴盤とかいって確か貸出拒否するんでしたか(すみません、見たのがちょっと前なので要確認ですが)、そのマイペースさにしても、ミウシャのスタンスにしても、裏返すとそれを許す、強要しない“探偵役”ガショの人柄の反映なのかなあと思ったりもしました。

N:ジョアン・ドナートとマルコス・ヴァーリが登場したのは嬉しい驚きでした。
二人ともまだ現役で、特にマルコス・ヴァーリは先月新譜をリリースしたばかりで近々来日もします。ジョアン・ドナートはバンドメンバーとして、マルコス・ヴァーリは憧れの人としてジョアン・ジルベルトを語っていましたが、二人ともボサノヴァ・ブームが去った後はレアグルーヴやAOR的な要素を盛り込んだMPBで名を挙げた人です。
マルコス・ヴァーリのHIT曲を電話口で称賛した話は、ジョアン・ジルベルトも人を褒めるのか!と意外でした。
後は、本人が長らく暮らしたホテルの料理人とのエピソードは、まさにジョアン!といった感じで最高でした。

M:元奥さんのミュウシャは個性的ですね。
マルコス・ヴァーリは格好良かったです。
ジョアン・ドナートの話はリアリティがありました。
料理人のガリンシャの話も面白かったですし、ジルベルトのメニューも美味しそうでした。

T:私もマルコス・ヴァーリの電話で彼の歌を歌ったという話。2003年の来日パッンフレットの国安真奈さんの「ジョアンという名の奇跡」にはジョアンが40年代から50年代にかけてのブラジルコンポーザーの曲の莫大な記憶の宝庫で、ボサノヴァ専門書の著者ルイ・カルロスがLPにもCDにもなっていない何十年も聞くことのできなかったブラジルヴォーカルグループの78回転盤を発見したと電話でジョアンに話したら、タイトルを挙げただけで彼はその曲を電話先で歌い、アレンジの細かいところまで再現したようです。電話先で歌うんですね。やっぱり笑

★映画はジルベルトの謎を追うふたり、ドイツ人ジャーナリストでジルベルトを求めての顛末を記した「Ho-ba-la-lá: À Procura de João Gilberto」を上梓し自殺したマーク・フィッシャーと、この映画を監督したジョルジュ・ガショ(フランス生まれ、スイスと二重国籍をもつ)による二重の探偵物語といえるような構造をもっていますが、その点についてはいかがですか?

T:その二重構造が見えないゴールを目指すこの映画をとてもスリリングに面白いものにしていたと思います。探す痕跡はジョアンのものなのか本の作者マークのものなのか?はたまた探しているのはマークなのかジョルジュなのか?マークの言葉なのか、ジョルジュのものなのか?
離れそして交わりしながら進む感じがとてもおもしろかった。

M:ミステリーのようで、面白いですね。ジルベルトに魅了される理由とか、そういう部分含めて、より深い理解が出来ました。
マークはドイツ人で、何故ここまでジルベルトに惹かれたのか。そこが特に気になりました。
マークに関しては、マーク自身の事も、もっと知りたくなりました。彼がどんな想いで帰国し、なぜその後死んでしまったのか。

N:ボサノヴァのように気持ち良く漂うような映像なので、スペクタクルな点では大きな抑揚はありませんが、ジョアン・ジルベルトを執拗に追いかけた2人の心情の浮き沈みや重なり具合がさながらサスペンス映画を見ているようで最後まで飽きさせませんでした。

A:この構造が私には映画の一番の面白さとして迫ってきました。フィルムノワールの王道というか、探すべき相手をみつけられずに自分をみつける、あるいは退路を断たれ迷宮、迷路に閉じ込められてしまう、その解決のなさが魅力というのかな。謎の答えそのものよりも探究自体が物語となっていくんですよね。ドイツ語でマーク役のナレーションが入る、それがなんとなくヴェンダースの映画みたいな気分にさせる所もありました。
ジルベルト以上にマーク・フィッシャーという人についての映画ともなっていますが、彼が書いた「Ho-ba-la-lá: À Procura de João Gilberto」、英語版がないかと探したんですがまだ出ていないようで、読んでみたいですね。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★もともと42のシーンと会話のあるフィクションとして脚本を書いたと監督はプレスのインタビューで述懐しています。きっちり区分けするのは難しいと思いますがドキュメンタリーとフィクション、どちら寄りの一作としてご覧になりましたか?

N:ドキュメンタリーは、ある程度冷静な視線と両方向の資料分析が出来て納得の内容になる分、感情移入しづらいところもあります。
この映画は自分が3番目の主人公になったようで、どんな結末を迎えられるのか不安と期待で相当気持ちが入りました。その点ではフィクションに近いのかもしれません。

A:前の答えと重なりますが私は答えのない探偵映画としてかなり愉しみました。ただインタビューで監督が「予期していなかった様々なドキュメンタリーの状況によって豊かなものになりました」とフィクションとして準備したとのコメントの後に続けているのはなるほどと思えるんですね。

M:42のシーンというのは、マークの軌跡を42の場面に切り分けて構成したのだと思いますが、そこを実証していくという正に探偵的な手法だと思います。
結果的には事実の積み重ねですから、ドキュメンタリーというカテゴリーにはなりますが、演出されたドキュメンタリーと言って良いと思います。
意図を持って撮影していく手法は、フィンクションではなく、ドキュメンタリーとして必要だと思います。

T:私にはジョアン、そしてマークの足跡を追うドキュメンタリーよりの映画に感じられました。彼に関わる、ブラジル音楽のレジェンドたちのインタビューの積み上げがその間を強くさせていたと思います。

★これまでシネマ・ディスカッションでとりあげてきた人物をめぐるドキュメンタリーと比較してどのあたりに面白さを感じましたか?

M:取り上げた訳ではありませんが、アフリカでブレークした幻のシンガーを探す『シュガーマン 奇跡に愛された男』や、ファンが消息不明のスライ・ストーンを探す『スライ・ストーン』が似た作品と思いました。
特にスライ・ストーンの作品は、演出的な物足りなさは残りましたが、監督がスライを探すという構造は似ていますね。
これまでシネマ・ディスカションで扱った作品は、バイオグラフィーの要素が強かったりしますが、この作品はバイオの要素は低く、マークとジベルトの2重の軌跡を辿るロードームービー的な面白さを感じました。

T:いわゆるバイオピクチャー然としていないところ。先に行った二重構造かな。

A:今年紹介したサラ・ドライバーのバスキアの映画がニューヨーク ダウンタウンの一つの時代を切り取っていたように、ここにもブラジルの街路、そのルックとボサノヴァの響きの共鳴があるような気もしました。音楽的にきちんとわかってないのでおざなりな感想になってしまいますが。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★ポルトガル語でいう「サウダージ」、ドイツ語でいえば「憧れde Schunsucht」がマークの本と監督の映画に通底する探究の原動力と監督はプレスで記しています。そんな原動力についてはどんなふうに思われますか?

N:おそらく絶対に手に入らないと最初から分かっている何かを手に入れたいと願い恋い焦がれるのが「サウダージ」。
手に入るか入らないかは別として、その道のりにある苦難や小さな喜びの方が終着点より深く記憶に刻まれている事はよくありますね。
マーク・フィッシャーの結末はハッピーではないと思いますが、監督はこの映画を撮る事でそんなボサノヴァの深みを伝えてくれていると思います。

T:SAUDADEはブラジル音楽には根底に流れるテーマです。爆発的な感情の発露の瞬間でなく、持続される時間、継続される時間の流れの中の感情です。
ブラジル音楽のマイナー、メジャーへの転調の中に私は感情の揺らぎやSAUDADE的な時間軸を感じています。
叶わない想い、恋焦がれる想いが時間軸とともに増して行く、そんな感覚が映画の中にも流れているように感じました。

M:実は全く「サウダージ」という言葉に馴染みがなく、コメントがしにくいのですが…。
日本人の影響のエピソードが映画にも出てきますが、監督のガショやマークなど欧米人からしたら、何故極東の日本まで何回もジルベルトが訪れ、日本人に愛されていたのか、よくわからなかったのではないかと思いました。
逆にライブをやらないジルベルトが、2回も日本に来てくれたのは、嬉しい事です。
川口君や名古屋君がいつになく熱く語るのを見ると、ジルべルトの日本でのサウダージというものが、確実に深くあるんだなと思いました。

A:決して叶わぬものを求め続ける気持というと、いっぽうに「白鯨」の船長とか「老人と海」とかアメリカ文学の中にある狂気をはらんだ執着というのもあると思うのですが、そういう求心性、あるいは急進性と異なるたゆたい、微睡の中で断ち切れない思いの心地よさと悲しさみたいな感触の、その力みたいなものを思い浮かべ、この映画のあてどなさというか、歩調の緩慢さのようなものを重ねて見ました。

★映画を通して、それぞれが何を見つけたのでしょうか?

N:永遠に手の届かない憧れだと再確認はできたけれど、何も見つけられないまま。
先日の逝去のニュースは88歳という高齢なので「ついにその時が、、」という気持ちもありましたが、ちょうどこの映画を見終わったタイミングでもあり、喪失感は大きいなものでした。結局いろいろな事は分からないまま、多くの謎を残してこの世からすっと消えてしまった感じです。
これからもジョアン・ジルベルトの事を考えながら彼の歌を聴き、底なしの沼にズブズブとのめり込んでいく事でしょう。

M:ともかく音でしか知らないアーチストでしたので、そのミステリアスな生き方を知っただけでも価値は大きいです。
また亡くなった事で、よりこの映画の中での探求の意味合いが大きくなったと思います。
個人的にはジョアン・ジルベルトという巨人の姿を垣間見れたのが、大きかったですし、今まであまり関心のなかった人としての興味も湧いてきました。
ストイックな姿勢を貫くアーチストは、音楽界にも映画界にも少なからずいますが、ここまで徹底した生き方をしている人は、自分の知っている限り、他にはいません。

T:恋焦がれて手に入れたいものが手に入るとは限らないが、それが「ジョアンを通じてマークの中に自分自身を見出した」そういう体験であったり、QUEST ITSELF IS REWARDと言う感じかな。

A:QUEST ITSELF IS REWARD――ナイスですね!

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

『ジョアン・ジルベルトを探して』
©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018
配給:ミモザフィルムズ
8月24日(土)より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開中。