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『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』監督インタビュー

正直いってフラメンコにとびきり惹かれたことはなかった。知識も興味もなかった。なのに『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』には圧倒的に惹き込まれた。知識はなくてもその歌を、その踊りを、あるいはそれを歌う“部族の長老たち”(原題)の顔、声、そこに息づく生の気迫にうちのめされた。彼らが語る洞窟のフラメンコの黄金時代の記憶には、血や土地や歴史の翳りの部分もまた呑み込まれているのだが、活き活きと弾んで迫りくる言葉はやわな感傷などを打っ遣ってただただその生きる力に見惚れていたいと思わせる。

静かだけれど鮮やかな活力に満ちたこのドキュメンタリーを撮ったのは、62年グラナダ生まれのチュス・グティエレス。80年代ニューヨーク、技術はなくてもやりたいことをやりたいようにしてみる時代の心意気を、”フラメンコ・ラップ”で実践した彼女は、「実験する贅沢が好き」と歯切れよく言い放つ。いっぽうで写真撮影をと取材の最後にリクエストするとポーズの前にまずは口紅をね、と衒いなく目配せしてみせる。そんないやみでない女っ気もまたチャーミングだった。

チュス・グティエレス監督。チャーミングな監督さんです。

――もちろん映画やテレビ等で見ることはありましたがフラメンコの熱心なファンというわけではなかった、それがあなたの映画『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』で洞窟のコミュニティによって残されてきたフラメンコに初めてふれ、その強烈なパワーに圧倒されました。監督がこのテーマで撮ろうと思ったきっかけは? プレスのインタビューを読むとやはり、映画で案内役を務めるサクロモンテ出身のトップ・アーティスト、クーロ・アルバイシンさんとの出会いが大きかったのですか?

チュス・グティエレス(以下C) そうね。クーロのことは子供の頃から知ってはいたんです。両親のホームパーティに踊りに来た彼と出会っていたので。12歳の頃かしら。それからずっと会うこともなかったんですけど、私の映画の公開イベントのために20数年ぶりに再会したんですね。その時にクーロがこれまでやってきたことを話してくれた。で、彼がしようとしているのはサクロモンテの丘にまつわる記憶をとどめておくということ、そこにどういう人が住んでいたのか、いるのかをすべて記録しようということなんですね。それを聞いて初めてこのドキュメンタリーを撮ろうと思いました。

――この映画以前にはずっと劇映画を撮られていたんですね。フィルモグラフィーを見ると『アルマ・ヒターナ/アントニオとルシアの恋』(95)という映画もありますが、ここではヒターノ(語尾ナは女性形、スペインのロマ、ジプシーにあたる言葉。アンダルシアでは誇りをこめてヒターノ(ナ)と自称するという)と非ヒターノの恋を描いたそうですね。クーロさんの話を聞いてドキュメンタリーを撮ろうと思う以前から社会の外部にある存在をテーマにしていたのですか?

C 今回の映画と『アルマ・ヒターナ』は直接的に関係しているわけじゃないんです。

そうですね、アウトサイダーというか、社会の外部の存在への興味というのもありますが、『アルマ・ヒターナ』に関してはまたちょっと別で、マドリードにラバピエスという地区があって、多様な文化圏の人々が集まっている地区で、貧しい人たちも多いんですが、あの映画ではそこを背景にした愛の物語を描いてみたんですね。

――なんていう地区ですって?

C ラバ・ピエス、ラバールが洗うでピエスが足って意味なんですが(”洗足”みたいなもんですね(笑)と通訳氏がフォローしてくださる)

――ああそうなんですね。そういえば監督は80年代にニューヨークで“フラメンコ・ラップ”グループxoxonees(https://www.youtube.com/watch?v=Z565NqaBIbE)で歌やダンスを披露してらしたんですよね。あの時代のニューヨークもまた混沌としたエスニックの文化が魅力的だった、そのあたりに惹かれてニューヨークを目指した部分もありましたか?

C いえ、ニューヨークにはあくまで映画の勉強に行ったんです。当時、スペインには映画学校がなかったので、それでニューヨークに行っただけのことなんです。

――あ、そうなんですね。で、“フラメンコ・ラップ”グル―プ結成はどういう経緯で?

C ま、すべてはもう偶然なんですけど(笑) ニューヨークでスペインから来ている子たちに出会って一緒に何かしようってことになったんですね。ほんとに楽しもうってだけのためにしたことでした。あの頃、80年代っていうのは音楽にしても、アートにしてもなんていうか完璧でなくてもよかった、歌うことをきちんと学んで知っていたりしなくても歌えたし、楽器だってきちんと技術がなくても弾いてよかったのよね。

――確かに映画にしてもジャームッシュとか、まさにやればできるというような、我が道を往くNYインディたちの流れが出てきた、面白い時代でしたよね。

Cそう、そう、ちょうどそういう時期にラップもまた勢いづいてきた、それで私自身もそういう流れにすごく啓発されたし、おおっという感じをもったりもしていたので、じゃあ自分たちも何か――となって、だったらスペインから来たんだし、フラメンコ+ラップでいこうみたいなことになったわけ。

――取材前にちょっと動画を見せていただいたんですがすごくかわいい! パブリシストからはスリッツみたいとの声もありましたが。あのフラメンコのひらひらしたフリルいっぱいの衣裳とかもご自分たちでコーディネートしたんですか?

C スペインからヒターナの衣裳を持参していたのね。

――ニューヨークのその時代、70年代後半からの時代というのは実際、音楽でもパンクのあとのニューウェーブにしても自分たちで技術はなくてもできるという気運があってすごく興味のあるところなんですが、そういう時代の流れをまさに実践し、呼吸した後でスペインに帰国された時はどんな感じでしたか? アルモドバル等が先導したマドリードの文化の新しい波ラ・モビーダの頃になるのでしょうか?

C 私が帰国したのが87年なんですね。フランコの独裁体制が75年に終わって、それから10年ちょっとという時期で、実際、帰った時はあらゆる実験的なものが爆発したような時代でしたね。中でもその爆発がいちばん大きかったのが音楽だったと思います。もちろん映画もそうなんですが、何よりも社会自体にものすごい活気があった。40年間も続いた独裁政権でしたからね、いいたいこともいえずに、あとセックスも教会に管理されてといったところから国が、社会がいっきに開かれた、そんな感じだった。ですから若者たち、私も含めてですけど、みんなが、これからすごく新しい国を作るんだと、そういう”幻想”を抱いていた時代でしたね。

――裏返すとフランコ政権があったから外国に、ニューヨークやその前に英語の勉強に行ったロンドンに自由を求めるといったこともあったのでしょうか?

C ノ、ノ、それはないです。自由とかじゃなくあくまで勉強だけのために行ったのよ。


――それではそもそも映画を学ぼう、撮ろうと思ったのは?

C これもある意味では偶然でしたよね。子供の頃から私はずっと物語を書くことが好きで作家になりたいと思ってたんです。で、18歳の頃、当時、まだ大学ではさっきもいったように映画科はなく情報科学という学部の中に映画も押しこめられているといった時代だったんですけど、そんな中でも映画を学んでいる友達がいて、たまたまアパートで同居したりってことがあった。ちょうどその頃、私はタイプライターの勉強をしていたので、彼女たちが書く脚本の清書を請け負って、その脚本を読みながら、ああ、これは物語を語るもうひとつの方法なんだと気づいて、それで自分も映画をやりたいなと思ったわけなのね。

――普通、監督をめざすというとまず映画が大好きでとか、誰かの映画を見て夢中になってといった動機があがりますが、あなたの場合はちょっと異色の経路ともいえますね。

C 確かに。

――となるとこの質問は的外れかもしれませんが、念のため、好きな監督は?

C ものすごく沢山います(笑)。どちらかというと商業映画はあまり好きじゃない。実験して何かを探る、そういう贅沢をしている監督が好きです。

――実験する“贅沢”、なるほどですね。例えば日本だとフラメンコのことを撮っているというとやはりまずはカルロス・サウラの名が出てきたりするんですが?

C もちろんサウラは素晴しいことをした、そう思います。特に『血の婚礼』はスペイン人全員が驚いた、ああいう踊りも見たことがなかったし、ロルカの原作をあんなふうに映画化できるなんて誰も思っていなかったので。彼はスペインにとっても、世界にとってもひとつの扉を開いた人だと思います。

――チュスさんの『サクロモンテの丘』もまた別の新しい扉を開いてくれる、そういう映画でした。フラメンコがある種、権威づけられたアートとしてあるとしたら、それとは全く別の、生きる力のようなものとして脈々と生き延びているんだと、この映画を通じてそういう事実や歴史が迫って来たので。

C ありがとう!

――こちらこそ監督と映画にありがとうといいたいです。

ところで無知な質問で心苦しい限りなんですが、映画の中で長老たちが十八番の踊りや歌をそれぞれに披露する場所、ステージでもあり壁に写真や肖像が飾られた居間でもあり、調理器具が天井に吊るされたダイニングのようでもあるあの場所は? あれが洞窟の”サンブラ“なんですか?

C あれはクーロの家なんですね。現存しているサンブラじゃあないのね。元々、グラナダのサクロモンテ地区のヒターノたちは洞窟に住んで、そこで生活し、そこで踊っていたんですね。そう職住近接というか一体の、そこで寝て、そこで料理して、そこで食べて、そこで踊る、そういう場所だったわけ。

――あの場所を基本的に真正面から引きの画でまず捉える姿勢もいいなと思ったのですが、踊りを撮るのにテイクはどのくらい重ねたのでしょう? キャメラの数は?

C 3台のキャメラで撮りましたが、すべてワンテイクです。一度しか回していません。なにしろ踊り手のみなさんがもう年配の方たちなので、そう何度も踊れない。一回踊ったら終わりという(笑)

――まさに生のステージを記録するのといっしょですね。

C そうそう

――原題は『部族の長老たち』という意味だそうですが、演者の選択もクーロさんが?

C はい、本当に彼がいなかったら何年かかってもとても完成できなかったと思う。クーロはみんなと繋がりをもっていましたから。彼がいろいろな人たちを紹介してくれて、その中から誰が出るかを決めていった、まさに案内役でした。

――あそこまでコミュニティの中に入り込んで撮れたのも彼のおかげですね。

C ええ。それと深めるにはやはり時間がかかる。何よりも時間を十分にかけることが必要でしたね。

――撮影に至るまでに何度も通って話を聞くことをしたんですか?

C もちろん何度も足を運んで、まずはサクロモンテの丘を熟知するまで通って、その後、クーロに紹介してもらった人たちにインタビューをして、その中から核になる4人を選んでいきました。

――映画の魅力はその老人たちの語りにもありますね。世代も違う人たちに心を開いて語ってもらう、コツは何かありましたか?

C 幸運でしたね。ただ昔からなんですけど私にとってはインタビューってそう大変なことじゃない、むしろ簡単なことなのね。多分、そういう才能に恵まれているんだと思うんですが、人から告白してもらうのがわりにうまいんです。


――映画も学校がなかったということでしたが、フラメンコの踊りも歌もやはり学校では教えられないものなんですよね。

C いまは学校もありますがここで語ってくれている”長老”たちの時代にはまったくなかったので、生活の中で見ながら、聞きながら覚えたんですね。

――洞窟の時代のものはレコードに残っているんですか、

C 何らかの形で録音されたものはあるかもしれませんけど、私が探した限りではみつからなかった。洪水で洞窟からみんなが退去させられた1963年以前のものということを考えると、当時は録音も今と違って大がかりだったでしょう。貧しかったスペインでは難しかったと思いますね。

――ギターの人がすごくうまいと思ったんですが、レコードもなくてどうやって身につけたんでしょうね。

C これも見よう見まねで覚えたんですね。ひとついっておきたいのはサクロモンテのフラメンコというのは音楽も含めてその価値をきちんと認められたことがなかった、常に蔑まれてきたフラメンコなんですね。

――ガルシア・ロルカが彼らの存在に魅了されて光りを当てましたね。

C 彼の「ジプシー歌集」は確かにあります、でもあれは彼の作った詩なんで、丘の上の彼らのオリジナルの歌も詩も踊りも曲も彼ら自身のものは記録されていなかった。この映画を作る中で、おそらく50年代ごろ、観光客がやってきた一時期なら、あの頃のお金持ちなら8ミリフィルムで撮ったりもしたんじゃないかと、いろいろ探してみた。でもみつからなかった。映画に入れたモノクロの16ミリの素材が唯一、you-tubeでみつかったものでした。

――ちょっと日本の歌舞伎のことも思い出されてくるんですが。つまり歌舞伎も今は学校もありますが、基本は人から人へと伝承されるアートで、しかもかつては蔑まれた時代もあった――と、そう考えるとサクラモンテの洞窟のフラメンコと通じるものがあるようで興味深く思えました。で、監督は声高に差別された民といったメッセージをこの映画で伝えるのではなく、長老たちが語る中でああ、そうだったのかと自然に思い至るような形をとっていますね。暮しの中でこうして生きてきたんだなというのが見えてくるのがすごくいいなと思う。

C それは自然にというよりそうすることを目的として始めた映画なんです。暮しのこと、その思い出を語ってもらうということ。だからこの映画の中では年配者たちにしかインタビューしていません。若い人たちは当時のことを知らないから。1963年に洪水があって誰もが洞窟から退去させられた。洞窟の中で踊って生活していたというのはそれ以前のことです。その頃、サクロモンテの丘に暮らした人たち、63年以前を経験した人たちにしか話を聞いてはいないんです。その頃の暮しを知っている人たちの記憶を再構築するというのがこの映画の大きな目的でした。50年代ぐらいからハリウッドやラテン・アメリカ、メキシコといった様々な国の人たちが観光客ではあっても興味をもってサクロモンテを訪ねてきた、そういう時代があった、その頃を、いわば黄金時代を体験した人たちの記憶です。この黄金時代に子供たっだり青年だったりした人たちの思い出を採集したんです。彼らの記憶、サクロモンテの黄金時代の記憶をとどめること。それが映画のめざしたことでした。

interview by Atsuko Kawaguchi,Masao Kawano

『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』

●公開表記:
2017年2月18日(土)より、有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか順次公開中

監督:チュス・グティエレス/参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、ラ・モナ、ライムンド・エレディア、ラ・ポロナ、マノレーテ、ペペ・アビチュエラ、マリキージャ、クキ、ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、チョンチ・エレディア他多数
日本語字幕:林かんな/字幕監修:小松原庸子/現地取材協力:高橋英子
(2014年/スペイン語/94分/カラー/ドキュメンタリー/16:9/ステレオ/原題:Sacromonte: los sabios de la tribu)

提供:アップリンク、ピカフィルム 配給:アップリンク 宣伝:アップリンク、ピカフィルム
後援:スペイン大使館、セルバンテス文化センター東京、一般社団法人日本フラメンコ協会

Cinema Discussion-18/ヌーヴェルヴァーグを突き抜けたガレルの『パリ、恋人たちの影』

(C)2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第18回は、フランス映画『パリ、恋人達の影』です。
監督のフィリップ・ガレルについては、前作『ジェラシー』を、シネマ・ディスカッション第7回で取り上げていますので、2回目の紹介になります。
ガレルは、ヌーヴェルヴァーグ第2世代的な位置づけの監督ですが、アンディ・ウォーホルのスタジオ・ファクトリーで出会い、パートナーになったニコを主演にした7作品など、これまでは私小説的なテーマの作品を、撮り続けてきました。
今回ご紹介する『パリ、恋人たちの影』は、第68回カンヌ映画祭の監督週間に出品されており、ヌーベルヴァーグ全盛期のスタッフを集めて製作されたガレル期待の新作です。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

(C)2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

★『パリ、恋人たちの影』は、セルクルルージュのシネマディスカッションとしてとりあげる2本目のフィリップ・ガレル監督作ですが、前作と比較しつつまずは感想を。

・名古屋靖(以下N): 前作と比較して、とてもわかりやすく軽やかな作品でした。 映画において「撮影現場で起きることを最重視」して来たヌーヴェル・ヴァーグな監督が、脚本を尊重しながら時系列通りに撮影を行ったことは今作の大きな特徴になっているのかもしれません。脚本をしっかり練ったおかげで撮影や編集に迷いも少なかったであろう、目立った長回しもなく、出来上がりは想像以上に観やすく、わかりやすい映画に出来上がっています。

・川野正雄(以下M):これまでのガレル作品は、自伝的要素が強く、『ジェラシー』も、父の寓話を元にした作品だったと思います。
今回の作品は、あまりパーソナルな要素はないのかと思っていましたが、インタビュー見ると、母親の死と関係があるみたいですね。
前作との比較でいうと、非常にわかりやすくなっているなという感想です。
モノクロの映像の美しさは、変わらずです。

・川口敦子(以下A):前作『ジェラシー』と今回の『パリ、恋人たちの影』そしてフランスで公開間近の最新作“L’amant d’un jour”で”男と女のうつろう感情”を描く3部作となっているそうですが、皆さんも仰るように『ジェラシー』に比べると今度の一作は不思議な軽やかさを感じさせますね。話自体をかいつまむと決して軽いものではないはずだし、相変わらずだめだめ男の話でもある。でも達観というのかな、人を見る目にふっと吹き抜ける風を捉えるようなやさしい距離がある。大人になれない面々を描く自分が変わってないつもりでも大人になってしまったか――というような諦め、寂しさみたいなものがあって、それは前作ではもしかすると自分の子供時代を投影していたあの女の子の眼差しの中にあったものとも通じているのかもしれないけれど、つまりは対照への距離ということでしょうか。決して突き放すという意味でのそれではなく、むしろ回想のそれのような。そこがシンプルな語り口の奥行となってすごくいいなあと思います。

・川口哲生(以下T):そうですね、作品の尺、ストーリー性、エンディング等々に前作を支配した『重さ』
とは違うものを感じました。監督の心の有り様の変化とともに、監督が言っている「現場で何が起きるか(カメラ)」と練られた「脚本」のバランスの変化ということかもしれませんね。歩行の映画から、もっとテンポが速まった感。

・A:ガレルはものすごく繊細な私小説的な所で撮ってきた人で、今回もそれはないとはいえないでしょう。素材という意味と別に暮らしの感触のパーソナルな掬い上げ方といったあたりにもそれは相変わらず感じられますよね。ただ、いっぽうで描き方、話術の部分ではそこから踏み出した古典的な、骨太の小説を視界に入れたともいいたいようなスタイルに向かおうというような気持もありそうと、見ていると思えてくる。モーリス・ピアラとのコンビで知られるアルレット・ラングマン、現在の妻カロリーヌ・ドゥリュアスという前作以来のふたりの女性に加えて脚本に大御所ジャン=クロード・カリエールを迎えているのも何か寓話的でさえあるような、はたまた普遍性をのみこんだかっちりとした物語を語ることへの傾き、を示しているんじゃないかと。
カリエールというすごく強く、また一筋縄ではいかない他者の目を獲得したことで、これまでにない距離をもって素材に向かうことになり、でもそれによって重厚さより軽みに行き着くのも面白いですね。で、若い頃のすごく痛切だったニコとの関係ベースの私的恋愛映画からブラックな? 何食わぬ顔の? ちくちくと皮肉な“コメディ”の方へといった志向が出てきてるようにもみえる。撮影現場でのチャンス、偶然に最終的には任せるけれど、脚本、言葉/台詞(日常会話のようにさりげなく口にされるけど、じつはかなり文学的な、いい台詞がたくさんある)に重きを置いた撮り方にも向かっているのかな。すべてワンテイクとインタビューを見るといってるけど。そうした変化の理由はやはりガレルの年齢にあるといってしまったら身もふたもないけれど、成熟の軽みというのはやはりある気がする。かっこつけなくなってるというか・・・。

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★今回の撮影監督はエリック・ロメールやダニエル・シュミットの映画を手がけたレナート・ベルタですが『ジェラシー』のモノクロとまた別の感触がありますね。そのあたりについてはいかがですか?

・N:同じモノクロームでも前作は絵画的な重厚さが魅力的でしたが、今作はストーリーや視点の違いもあり、より日常的でナチュラルな印象ですが、室内シーンのライティングなど白黒のコントラストは相変わらずとても美しいです。 現代的で普通のパリの日常を表現しているモノクロだと思います。冒頭でピエールがバケットをかじりながら不安げに人待ちするシーンは、日常のパリを舞台にした物語の始まりを告げています。そのわりにその後に出てくるその他の食べ物の不味そうなこと!モノクロとは言え、美食の街パリを舞台にしながら、食べるシーンが全て惰性的で、喜ばしくなく描かれているのも珍しいです。もしかすると監督の中では、食事と排泄は同じ次元なのかもと疑ってしまいます。

・A:キネマ旬報のインタビューを読むと35ミリフィルム、アナモルフィック・レンズを使ってのシネスコ・サイズと今や死滅しかけた古典的手法に執着するガレルの頑固さをベルタは半ばあきれ顔で、でも称賛している。そんな監督のモノクロームへの執着を突出し過ぎない形にするあたりに手練れの撮影の底力があるんでしょうね。どこまでも映画的なのに同時にあまりにみごとに何気ない。すっと主人公たちの住む世界、その日常へとすべり込む。この感じがヌーヴェルヴァーグを睨むガレルならではなんでしょうね。
ベッドの上のエリザベットを捉えてそのまま彼女の主観へとすべり込み窓ごしの外界、白い光が掬われる。そんなシームレスな移行も今回の軽やかさと無縁ではなさそう。その窓への眼差しがもっと別の種類の映画だったら頻出しそうな空とか海とかの心を映す大仰な景観ショットの代わりになっているんですね。あとは殆んど部屋と裏通りとカフェ。そして人の顔。ピエールとエリザベットが出会うフィルムの保管庫の部分がせいぜい”お出かけ”の場面ですね。限られた暮しの眺めを拾いながらじわじわとその奥行を見せていく。そのあたりもいいですね。

・M:言葉では表現しにくいですが、前作の方がクラシックな趣のモノクロだったと思います。今回のモノクロのタッチは、よりモダンで、現代的な発色だったのではないでしょうか。
ダニエル・シュミットやロメールの映像の美しさを、彷彿させられます。
モノクロなんですが、カラーに近い自然な感触があると思います。
ガレルがフィルム、シネスコ撮影に拘っていた感じはよくわかりますが、敦子さんの言うように本当に何気なくて、「どうだ、モノクロシネスコだぞ」みたいな押しつけがましさののない映像なのが、いいですね。
ハリウッド系の監督がモノクロで撮ると、すごくモノクロが主張し過ぎるケースがあるんですが、あくまでも自然なモノクロ映像でした。

T:パリでのオールロケ、俳優の衣装も本当に毎日着なれて皮膚のようになった感じ、メイクやヘア等(目の下のくま)も含め、パリの普通の街なかの普通の人たちの日常感が、この作品のモノクロでは際立っていたと思います。

★73分という上映時間もあって、不思議な軽やかさがありますね。ウディ・アレンの映画もちょっと想起してしまうのですが、コメディと呼ぶのはいきすぎでしょうか?
・N:コメディ映画とまでは言えないですが、そう言いたくなるのも分かります。前作にあったような生き死にの恋のお話でもなく、男女それぞれのエゴというか性(さが)というか、白黒はっきりさせられないそれぞれの複雑な心情を描いている中で、ピエールのだらしなさはコメディです。街中でマノンの後を追う後ろ姿なんて情けなさの極致。

・A:最初にもふれましたけど成熟という距離を世界や人、自身に対して持ち得たことで、もしかしたら自嘲的といえるのかもしれない、ダメさに対する笑いが感じられる。そこが少しだけアレンと繋がってしまうのかな。

・T:コメディとは思っていませんでしたが、ダメダメな男ぶりとある種のドタバタというところですか?

・M:私もコメディとは思いませんが、オフビートな感覚は、今回はありますね。
73分という時間もいいです。
マノンの愛人とのエピソードや、ピエールとエリザベットの出会いのエピソードを追加すれば、すぐに100分位になると思うのですが、あえて説明的なエピソードを排除しての73分ではないでしょうか。
共同脚本にした効果なのかと思いますが、ドキュメンタリーに近い撮り方をしていたガレルの作品が、すごくドラマ的になったというのが、今回は一番の印象です。
ドラマ的にしても、尺が短くなり、余計なエッセンスはない。その辺がガレルらしいですね。
オフビート的な感覚は、その副産物のようにも思えますし、ちょっと意地悪な視線は、アレンにも通じるものがあると思います。

(C)2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

★「私にとってこの作品は、映画が到達しえた最高の男女平等についての映画といえます」とプレス所収のインタビューでガレルは語っていますが、プロット、キャラクター、台詞等々さまざまな角度からみてこのコメントをどう受けとめますか?

・T:お互い様の不倫話を、自分勝手さに『振り切れた男』の心情を中心に描くということは、女性目線で男へのパッシングが強くなるように描いた様で、実は前時代的な価値観の踏襲(男の言動主導でことが引き起こされる)にも感じました。時代はもっと
違った形で進んでいるようにも思います。笑
それとも、そんな身勝手さや何も相手に自分は大声を出さない男をも、包み込んでいるさらに大きな女性の懐の深さ、ってこと?

・M:マノンの愛人だけが、心象風景が描かれませんね。ピエールにしても、今ひとつクールというか、本当の気持ちはラストになるまでは描かれませんが、彼から見た二人の女性の姿が、うまく伝わってきます。
ラフに描いた男性陣に比べると、マノンとエリザベットの女性の心理は、丁寧に描かれています。
その辺のバランスが、ガレルの狙いだったのかなと思います。
ピエールの視点だけかと思いきや、マノンとエリザベットの視点も描かれている。
その視点のパラレルな感じが、男女平等なのかとも思います。

・A:自分の可能性を捨ててピエールと映画を共に撮ることが幸福――と、現実的な母の追及に答えるマノンは昔ながらの日本映画に出てきそうな(『王将』の女房の小春みたいな???)自己犠牲の妻として提示され、それが意外にも自分の楽しみはそれなりに追求している、でも高潔なその精神が自分の楽しみの可能性にも、多分、ピエールの成功も含めた悦びの可能性にも目隠しをしてしまう。それに気づきかけたのにまた最後はぎゃふんな記録映画に活路を開くアイデアを提示して元の鞘に収まっていく――とダメ男の自分勝手の話とみせて彼女の物語としている所を“平等”とみるかどうかはまあどうなのかなあ。ただマノンに関して示したかったのかもしれない大きさ、そこにガレルは亡くなった母へのオマージュのようなものをこめたかったのでは、なんて思ったりもします。で、父の話だという『ジェラシー』を振返ってみると母にあたる、つまりマノンと重なるかもしれないあの映画のもう一人のヒロインがしみじみと懐かしく思えるような気もしますね。
マノンが愛人といるのを発見したピエールの愛人エリザベットの「自分の愛を汚されたように感じた」というようなナレーションが確か入ったように思うのですがそこは女性の心理の描き方としてそういう感じ方もあるかと興味深かったです。

(C)2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

★原題は直訳すると女たちの影となるようですが、”影の女”とも”女の影”ともいろいろにとれますね?

・M:二人の女性の影の部分=ダークサイドを描いているという事でしょうか。
真面目に見えるマノンに愛人がいて、エリザベットは割り切っているようで、割り切っていない。
世界中の女性に起こりうるような、ある種通俗的な感情を描いているのが、前作『ジェラシー』の嫉妬心からの継続的なテーマにも思えます。

・T:気にせずいれば意識することもない自分の影のようになった女、それが女の裏切りが許せないと追いかければ逃げていく、そんな自分の影としての女性ってことだと思いました。影ふみみたいな感じ。

・N:「影ふみみたいな感じ。」いいですね。

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★ピエールが撮っているドキュメンタリーの素材の旧レジスタンスの老人とその妻のエピソードをどうみましたか?
・N:夫の話を遮ってアニス入りのクッキーを勧めるその妻。そこにこの老夫婦の力関係が何となく想像できて笑えます。 この旧レジスタンス老人のエピソードが結果的にこの映画を軽妙洒脱にしていますね。

・M:ネタバレになってしまうので、あまり言えませんが、思ったより重要なエッセンスでしたね。
証言者の寿命の問題もあり、第二次世界大戦のドキュメンタリーというのは、今世界中で作られているので、割と普通のテーマを選んでいるんだなと感じました。
インタビューされる奥さんの態度が、オフビートですね。

・A:知らないうちに大きな影を投げかけられてしまっている――そんな女性、というか伴侶というものをめぐるちょっと恐怖めいた(笑)感覚はあの老夫婦の関係、夫が発言中なのにお構いなしでクッキーをとすすめる妻の感じによく出ていて、でも案外、あのふたりの姿がピエールとマノンの将来でもあるようで、なかなか味わい深いものがあると思いました。

★今回、出演はしていませんが息子のルイ・ガレルがナレーションで声を担当しています。 このナレーションについてはどう感じましたか?
・N:フランス映画にありがちな文学的で抽象的な詩的台詞でない、わかりやすくその心情や状況を理解させるためのナレーションに徹し、ルイ・ガレルは声もいいので、すっと自然に内容が入ってきました。

・A:もちろんまずトリュフォーの映画を思い出すようなちょっとぶっきらぼうな語り口がいいですよね。興味深いのは3人称のナレーションではあるんですが、事の次第を後になって淡々と語るある種の回想のようにも聞こえてきて、で、さきほどもいいましたがガレルの亡き母へのオマージュといったことを思うと、この回想の主が父母のすったもんだを見ていたガレル自身なのかな、とかとかいろいろ思いをめぐらしたくなる。そう思うとそこに息子の声を使っているのもなかなか感慨深いものがありますよね。

・T:ヌーベルバーグの映画のなかで使われてきた手法ですね。

・M:やはりヌーヴェルバーグ的な演出と感じました。ルイは声もいいですね。
トリュフォーの『ピアニストを撃て!』を、何故か思い出しました。

★ガレルのパリについては?
・N:ごく日常が絵になる舞台。

・M:パリでないと、成立しない映画。今回はそう感じるくらい、パリと映画の風景がマッチしていたと思います。

・A:エリザベットがマノンをみかけた話をする中でたしかグラン・ブールヴァールのカフェでとかなんとかいってたように思うのですが、そういう固有名詞があってもなくても関係ない時空というのかな。それは時代についてもいえることで、現在でも過去でもあるような場所と時間の物語、要はパーソナルだけど普遍的でもある映画以外の何ものでもない時空ってことでしょうね。

★今回の音楽はどうでしたか?
・N:多分劇中で9回ほど音楽が挿入されていますね。全てそのシーンでクローズアップしてる人物の心情を補完する意味合いで使われています。シーンによって「ときめき」「怒り」「嫉妬」「ほのぼの」「後悔」etc. 基本は音楽なしで生活音を大きめに扱いながら、必要な箇所に限って室内楽系の音楽をはめているのがとても効果的です。フランス映画には珍しく今作は、音楽に限らずナレーションなどの演出がよりわかりやすく観せるために直接機能している感じがします。

・M:音楽というよりSE的に、効果的に使っている印象があります。

・A:前作でもいったけれど途切れることでいっそう鮮やかさが増すような、記憶と結ばれた音楽の使い方が今回も印象的でした。

★キャスティングは?

・A:マノン役のクロチルド・クローの泣きべその子供だった頃を彷彿とさせる顔が面白かった。笑うともう若くない暮らしの澱が降り積もったみたいな顔に子供が帰ってくる。それがなんだか切ない感じで。うまいキャスティングだと思いました。

・M:ニヒルなピエール、ヌーベルヴァーグ的な容姿のエリザベット、不安定なマノン、三人それぞれに個性があり、何よりも自然な芝居がよかったと思います。

・N:美人すぎず、イケメンすぎず、普通のフランス人な感じで余計な先入観なく見れました。特にマノンのお母さんは本当にパリの食品スーパーとかにいそうです。

(C)2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

★前回、一緒に撮り上げた『フランシス・ハ』の監督ノア・バームバックがニューヨークのドキュメンタリー作家とその妻を新世代と対比した『ヤングアダルト・ニューヨーク』は見てますか? もしご覧になっていたら比べてどうですか?

・M:確かに設定は似ていますね。二組のカップルに、ドキュメンタリー作家。
但しテーマは全然違いますよね。ノア・アームバックの方は、ベン・ステイラーという明確な主人公がいて、対比する存在として、アダム・ドライバーがいる。視点は全てベン・ステイラーで、彼のフィルターを通して、映画は構成されています。彼の作家的な倦怠感みたいな部分や、クリエイティブに対するアプローチの表現などアメリカのインテリぽい雰囲気も興味深いものでした。
総体的に言うと、やはりエッジの効いたアメリカ映画的というか、表現方法自体は非常に直接的で、それがまた面白かったりするわけです。
ガレルの方は、先ほども言ったように無駄な部分は排除したソリッドなストーリーですが、視点が動いていくハイブリッドな構成が、フランス映画らしく感じました。

・A:もちろんバームバックの映画は新旧世代の対比に主眼があって、そこが面白くもあるんですが、時流に乗れない記録映画作家とその妻って設定がちょっと重なっていて、前回のディスカッションで並べた縁もあるのでつい質問したくなりました。アメリカでもハリウッド以外の所でやってる映画作家はこんな感じかと、ガレルの映画のカップルのつましい暮らしの描き方と比べてみたいようにも思ったわけです。

★この映画の真の主役は誰? もしくは何だと思いますか?
・M:マノンがやはり主役ではないでしょうか。
ガレルとしては意外なエンディングが、テーマだと思います。

・A:マノン、ってことはアニスのクッキーの老妻かも・・・。

★ガレルの映画の面白さはどういう部分にあると思いますか?

・A:重々しい巨匠になってしまわないこと、のように思います。

・M:近作2本しか見ていないので、あまり言えないのですが。
ヌーベルヴァーグの感触を持った今や貴重な現役監督の一人ではないかと思っています。
特に今回の作品は、多分今までの作品では排除していたドラマ的な演出も加え、ちょっとアメリカ映画的なエンディングの持って行き方など、ガレルも70歳を前に新たな方向性に覚醒したような印象を持ちました。
3部作最終作の次回作品も楽しみになりました。

(C)2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中
35mmフィルムによる特集上映同時開催!

監督・脚本:フィリップ・ガレル /共同脚本:ジャン=クロード・カリエール/撮影:レナート・ベルタ
出演:クロティルド・クロー、スタニスラス・メラール、レナ・ポーガム
2015 年/フランス/73 分/配給:ビターズ・エンド

公式サイト:http://www.bitters.co.jp/koibito/
Facebook:www.facebook.com/koibitotachinokage/
Twitter :@garrel_movie