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Cinema Discussion-32 今この時代に、ファッションを描いたフレンチドキュメンタリー2本

『ライフ・イズ・カラフル!』

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
2020年に入ってからは、2月の『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』以来8か月ぶりとなります。
皆様ご存じのように、コロナウイルスの影響で、映画業界も大きな影響を受けました。
ここにきてようやく映画館によっては、100%の客席を開放していますが、まだまだ昨年の状況に戻るには時間がかかりそうです。ただ皆様への映画の紹介は再開してもよいかと考え、第32回のシネマ・ディスカッションを開催する事に致しました。
今年に入り、ファッションシーンも、コロナの影響が過大で、ヨーロッパ、特にフランスは最近コロナの状況が悪化しているというニュースを聞きます。
そんな環境下ですが、今回はあえてファッションを題材にしたフランスのドキュメンタリー2本を取り上げる事にしました。
1本はフレンチデザイナーの巨人ピエール・カルダンのドキュメンタリー『ライフ・イズ・カラフル!未来をデザインする男 ピエール・カルダン』です。日本では、すっかりライセンス商品の雑貨のイメージが強いカルダンですが、98歳になる今も健在です。このドキュメンタリーで明かされる彼のファッション・イノベーションは、私たちのイメージを覆すものでした。
もう1本は、2017年末に閉店したパリ、『コレット』の最後の日々を追ったドキュメンタリー『COLETTE MON AMOUR (コレット・モン・アムール) 』です。パリのNO1セレクトショップですが、2017年惜しまれて閉店しました。この伝説的なショップの閉店は、世界中のファンに衝撃を与えました。
ディスカッションメンバーはいつものように川野正雄、名古屋靖、川口哲生、ナヴィゲーター役の映画評論家川口敦子の4名。

(C)House of Cardin – The Ebersole Hughes Company

★まず『ライフ・イズ・カラフル!』ですが、ピエール・カルダンのドキュメンタリー、
どんな発見がありましたか?

川口哲生(以下T)
私たちの年代の日本人の大半は、ピエール・カルダンというとタオルからスリッパからについたPマークをイメージするのではないかな。ちょっと節操のないネガティブなイメージとして。笑
この映画を見て、「全てはデザイナーの仕事」として取り組むモダニストとしてのカルダン像をポジティブに捉え直しました。本人も若い時に男女ともにモテたのもわかる感じだったし、Aラインドレスももっと宇宙的なテロテロな素材感のイメージだったけれど質感があってかっこよく見えたし、だいぶ見直しました。カルダン。というかちゃんと生き様やヴィジョンを理解していなかったと反省しました。

川口敦子(以下A)
多分、子供の頃、というのはまあ60年代の初めになりますがフランスのデザイナーとして最初に名前を覚えたひとりが、カルダン。あとはシャネルとサンローランだったと思うのですが、哲生くんもいってるように、それがだんだんPマークのちょっとはずかしい名前になっていく過程を中学、高校と進む成長期と共に経験していたんですね。そんなイメージがこのドキュメンタリーを見てみると知らない事ばかりだったんだなと、矯正といったらいいのかしら、「へえ~」の連発みたいに覆されていく、そんな感じでした。そもそもイタリア生まれということにも驚いたんですが、そのくらいきちんと知ろうとしたこともなかった人なんだ、と改めて気づいたりもしました。若い頃の本人はなかなか素敵でふーんと驚きましたね。ジャンヌ・モローとの恋愛関係というのは映画ファン雑誌で読んで
まあ、それなりに知っていたし彼女が映画でカルダンを着ているというのも知ってた、でもジャン・コクトーやジャン・マレーにももててたというのは不勉強で恥かしいですが初めて知りました。

川野正雄(以下M)
ピエール・カルダンについて、全く知らなかったのだなと思いました。皆さんと同じでやはり雑貨などのライセンス商品の、ちょっとネガティブなイメージがあり、ピエール・カルダンの本質的な理解は出来ていませんでした。この映画を見て、ライセンスも戦略があっての事で、売上を上げて、カルダンがやりたかった事も見えたので、「大変失礼しました」と謝りたい気分です。
映画は、ともかく発見の連続でした。敦子さんと同様、イタリア人であった事も知りませんでした。現代のファッション業界の基本戦略、プレタポルテ=百貨店の汎用モデル、メンズデザイン、グローバル展開、ライセンス事業などは、全てカルダンが創造したと言っても過言ではないと思います。またそれを教えてくれたこの『ライフ・イズ・カラフル』に感謝です。

名古屋靖(以下N)
みなさんがおっしゃっている通り、僕らの世代ではお中元やお歳暮でいただくリネン商品についたPマークが最初で、これさえ付いていればある程度安心。でもこだわりがあっておしゃれな人には逆効果的なデザイナーでした、ごめんなさい。しかし、このドキュメンタリーを観た事で、作品や仕事だけでなくご本人の人柄も含めとても魅力的で、知らなかった事の発見だらけでした。

(C)House of Cardin – The Ebersole Hughes Company

★デザイナーとしての彼の面白さはどこにあると思いましたか?

A:ディオールのメゾンにいた頃、三羽烏といわれていたというサンローランとの関係、確か映画の中で短く「決裂した」みたいに言われていたと思うのですが、もう少しそこは詳しく知りたいなと思いました笑 ライセンス・ビジネスとか、重なりもあってどうしても同時代のライバルとして比べてしまいますから。
で、カルダンのデザイナーとしての面白さに関しても、最初の頃のモンドリアンしていた頃のサンローランとはモダンというテイストでその前の大御所たちと別の新しさを共に提示して、好敵手みたいな感じがありますよね。
でもその後、サンローランがエスニックをデザインのモチーフにして創造の部分で世界をまたにかけ変化を旺盛に取り入れていったのに対し、まあ、ずっと追いかけていたわけではないので間違っているかもしれませんがカルダンのルックというと同じひとつのモダン、未来的な形で勝負し続けているようで、そのカルダン的未来をグローバルに布教していったみたいにも見えます。あるいはデザインのモチーフとしてエスニック採り入れることはしない、あくまで自分の世界なのに、商売は世界でという、それも強さですよ
ね。

N:それまでの様々な常識からの解放を成し遂げた革命家。プレタポルテの先駆けでモードの民主化に成功。男性ファッションの開拓、人種にこだわらないモデルの起用。戦略的な考えもあったのでしょうが、日本人モデルをミューズにしていたとは全く知りませんでした。あと、かのマキシム・ド・パリが彼の持ち物で、それを手に入れるまでのストーリーはそれだけで一本の映画が作れそうない魅力的です。(笑)
服飾デザインではAラインやフューチュアリスティックなものは有名ですね。メゾン・マルジェラとノースフェイスのコラボ2020年秋冬コレクションで、両手を横に広げると真円になるマウンテンパーカーがあります。そのコレクションを見た時「なんじゃコリャ?」な奇抜極まりないデザインだと思ったのですが、このドキュメンタリーを観ている途中、すでにカルダンが60年代にほぼ同じデザインを発表していたことに驚き、カルダンの才能を再認識しました。

M:60年代のデザインは、すごくポップで、華があり、面白いと思います。メンズへの取り組みなど含めて、すごく先端的な人だった(ビジネス面含めて)と、改めて認識しました。
日本人モデル松本弘子の起用とか、黒人モデルなど、人種を超えた展開、メンズにモードの概念を持ち込んだ点など、やはりすごくイノーベーションを起こす部分が、一番面白いですね。
僕はジャンヌ・モローとの関係も知りませんでした。個人的な話ですが、オリジナルポスターは持っているのですが、見た事のない『バナナの皮』のフッテージが出てきて、嬉しかったです。
マキシム買収したり、シアター作ったり、ある意味やりたい放題ですが、全部きちんと戦略と想いがあるのがわかり、非常に納得出来ました。
優秀なデザイナーでもありながら、素晴らしいプロデューサーでもあったのだなと思います。そこの差は、イヴ・サンローランとの違いではないでしょうか。

T:やっぱり独特の構築的なモダンさですね。これってやっぱり時代感があって、VIVAやサッスーンのスインギングロンドンやatomicとかとも呼応する感じがありますよね。今年の年初に行ったNYのエーロ・サーリネンのTWAホテルとか。成長期の今日より明るい明日みたいな気分とともに近未来的なモダンな感じ。

C)House of Cardin – The Ebersole Hughes Company

★時代との関係については?

N:良くも悪くも60年代の人。豊かで夢に溢れた時代にあらゆる不可能を可能にしてきたのはデザイナーとしての才能もさることながら、時代の波にうまく乗れたクレバーな人だったんでしょう。
他に類を見ない、大手資本グループに参加吸収されなかったことで自由を手に入れられたのは素晴らしい事ですし、その戦略のためにライセンス事業に邁進したことを知って正直敬服しました。

A:白人のマヌカンが当り前の時代に有色人種を起用したということや、メンズや子供服にもいち早く進出したとか、その進取の精神というのかな、60年代という時代が世界のそこここで破壊と新しさの構築に向けたパワーに満ちていた時代だったと思いますが、まさにそういう時代の力をパワフルな戦略として活かし、基本的にはその60年代的な強さの中にとどまり続けた存在なのかなあ、なんて映画を見ながら思いました。
変わらなさは、時代の方が変わるとまた新鮮に見えてくるというのはありますね。あと、コングロマリットに吸収されるのが当り前の時代の中で今もカルダンで看板をしょって立つという往き方、意地悪くいえばこの先どう生き延びていくのだろうと余計なお世話ですが興味深いですね。

M:イヴ・サンローランと、時代性では共通しますね。グランメゾンにいた事含めて、似たような印象です。実際二人はうまくいかなかったようですが。60年代のトップデザイナーで、今も現役はカルダンくらいではないでしょうか。
ジャン=ポール・ゴルチェや、フィリップ・スタルクが、カルダン出身とは知りませんでしたが、才能のあるデザイナーを排出しているのは、ファッションの歴史において、やはり貴重な存在だったのだなと認識しました。
それから私が生まれた年でもあるのですが、1959年に初来日しているというのは、すごいと思いました。
その頃はヨーロッパで、戦後日本に視点を向けるデザイナーや、実業家はほとんどいなかったのではないでしょうか。
中国やロシアというファッション後進国へのチャレンジもすごいですね。単にテーマや風土をデザインに取り入れたり、販売するのではなく、各国でファッション革命を起こして、国民のファッションに対する意識を変革させてきたというのは、世界的に見ても貢献度がものすごく高いと思います。

C)House of Cardin – The Ebersole Hughes Company

★より開かれたファッション、服だけでないデザインへの眼という点で、『コレット・モン・アムール』が閉店までを追った伝説的なコンセプトストアのストリートとカルチャーとモードのミックスという部分とつながっていかなくもない存在なのでは?

A:民主化、開くということの先に閉じる、排除する(誰もと一緒じゃつまらない)ということがないとおしゃれ心は満足できないというのがあるんじゃないかと感じるんですが、コレットが2017年末に店を閉じたというのも開く/閉じるという点から見て興味深いですよね。なんだかうまく説明できてないんですが。

N:カルダンとコレットでは、その方法やゴールは違いますが、両方とも「解放」や「自由」が重要なテーマになっているのではないかと。今風に言えば、前向きな「多様性」とか。それまでの価値観やルールなど関係ない、仕切りを取っ払った、見たことがない新しい提案に心踊るのは時代が違ってもおしゃれな人々を魅了します。

T:カルダンの「モードの民主化(オートクチュールからプレタポルテへ)」とコレットのキュレーション力での「特別なものの民主化(カテゴリーや価格帯も取り混ぜ16歳のhiphop少年からブルジョア女性までにとって特別なものを感じさせる)」というキーワードの重なりが面白いですね。

M:僕は一度だけコレットに行った事があります。それが1997年だったので、映画を見て、オープンした年だと知りました。
その時はコレットの存在は知らず、何か他の用事があり、フォーブル・サントノーレから歩いていて、偶然発見して、入りました。まだ飲食もなく、コンパクトな印象でした。
ただコム・デ・ギャルソンやBEAMSの商品があり、日本の商品が多いなと。BEAMSと似ているなあという印象でした。何故かニナ・リッチの商品が多くあり、それが映画で言っていたハイブランドとのコラボレーションか、共存だったのかな。
そこでギャップも感じたのすが、モードとストリートカルチャーのミックスというコンセプトは、表現されていたのですね。
ただ何か買ったかというと、何も買いませんでした。
またフューチュラ2000が出ていましたが、映画『ワイルドスタイル』や、ザ・クラッシュのアルバムにも参加していて、ヒップホップカルチャーの最初期の重要人物である彼が連携しているのは、とてもカッコいいなと思いました。

『COLETTE MON AMOUR (コレット・モン・アムール) 』

★今も現役とはいえカルダンの時代というのはやはりあったと思うのですが、その時代、とコレットが代表した今への流れ、私たちもくぐり抜けてきた変化だと思いますが、2本の映画を通してみてそのあたりどんなふうに感じましたか?

T:カルダンの時代は一人がそのテイストを持って生活に関わる全てのものをデザインして一つのブランドで串刺しようという時代だと思います。
一方コレットはスタイル、デザイン、アート、食について独特の視点を持ってキュレーションする。カニエやファレルみたいな層、昔のブラックストリート系だったら関心示さなかっただろうパリに反応するこうしたファッションコンシャス層の出現とファッションそのものがやはりブラックカルチャーやストリートの影響無しでは語れなくなっている両方向からの歩み寄りが面白い。

それがNYでなくパリでというところも。RADIO NOVAからDAFT PUNKへの音楽的地下水脈とも呼応しそうですよね。パリの意味。

A:シネマ・ディスカッションでも取り上げたミア・ハンセン=ラヴの『エデン』も思い出してみたくなりますね。

デザイナーが作るモードからスタイリスト、あるいは哲生君のいうキュレイターの世界へという流れは70年代から80年代へという時代の中でパルコが果たした役割のことも想起させますね。
『コレット・モン・アムール』が新生パルコで上映されているのもその意味でちょっと感慨深い、なんて。

N:カルダンの全盛期は自分が物心つく前のお話ですが、知らなかったことばかりで楽しく観ることができました。特にレトロモダン好きな人には是非お勧めしたい。
その逆で、自分がコレットに影響受けていることは否定できません。コレットの存在がなければこんなにスニーカー買ってませんから!(笑)コレットの20年は今ある新しいモードを提案・定着させた歴史そのものです。そしてそれがパリのサントノーレ通りにあったということが、ハイファッションとストリートを融合させる説得材料になっていたのは重要なポイントだと思います。

M:コレットの店舗が、ハイブランドが並ぶサントノーレ通りにあるというのが、象徴的だと思います。セレクトショップなら、レアル、サンジェルマン、バスティーユなどに出店してもよかったと思いますが、あえてサントノーレというのが、カルダンからの流れ~モードを意識していたからではないかと思います。
そしてコレットがサントノーレ213番地、カルダンの初店舗が、サントノーレ118番地と、同じ通りに最初に出店したというのも、縁というか、ストーリーを感じます。
カルダンからコレットへの流れのは、そのままサントノーレ通りの変遷でもあったのではないかと思います。それはファションビジネスの主流が、生産中心から仕入れ中心に変化していった時代の変化を象徴しているのではないかと思います。

『COLETTE MON AMOUR (コレット・モン・アムール) 』

★コレット・ルスローとサラ・アンデルマン母娘については? 映画はこのふたりへのリスペクトを背骨にして成立しているように思いますが。

N:親子であり信頼しあうパートナーという理想的な二人。アンデルマンがいなかったら、あそまでの世界的評価を得るような店にはなれなかったでしょうが、それでも母親のコレットさんが愛すべきボスなのは映画を通して伝わってきます。『ライフ・イズ・カラフル!』でも制作者2人のカルダンへの愛を感じますが、『コレット・モン・アムール』はその業績より2人を中心とした「コレットの人々」を愛情たっぷりに見せてくれました。

M:コレットの芯の強さと、親子ならではの信頼関係を感じました。お互いもリスペクトしていますね。コレットが店頭の在庫補充に関して、スタッフにクレームを言っているシーンがありましたが、コレットが小売り業の基本を大事にしている姿を、象徴的に描いていると感じました。
そういう姿勢が、お店が長く続いた理由の一つではないかと思います。それと、当然ですが、コレットの着ている服は、独特でとても素敵だと思いました。サラはあまりそうは思いませんでした(笑)。

T:似ているけれど違うパートを背負っているのが興味深いですね。ああやって毎日普通に店にいるのが素敵。

A:彼女たちにとっての日本というのがインスピレーション源としてどのくらい大きいのかななんて映画を見つつぼんやり思っていました。コレットさんの目立たず、厳しく、自分の好きを貫く感じ、さらりとお店にいる感じもちょっと違うのかもしれないけれど、20世紀末、成田空港にふらりと紀ノ国屋のエコバッグを提げて現われ機内に入っていったという川久保玲の佇まいと通じてるような、昨日今日でてきた俄かじゃない重みを軽やかに身につけているのが見て取れて面白かったです。

『COLETTE MON AMOUR (コレット・モン・アムール) 』

★ドキュメンタリー映画としての作り方、2本のそれぞれの魅力はどこにあると思われましたか?

M:割とどちらもオーソドックスなドキュメンタリーと感じました。オーソドックスというのは、いい意味で、見やすく、伝わりやすいという事でもあります。
『コレット・モン・アムール』は、アニメーションの使い方が可愛かったですね。

A:『ライフ・イズ・カラフル!』はドキュメンタリー映画の作り方として何かとりたてて目新しい部分はないけれどカルダンについて彼のデザイン+ビジネス・センスの力強さをこの映画を通じてみせつけられた気がします。その意味で98歳でいまも現役という帝国の支配者が自ら指揮したプロモーション映画としても成功しているんじゃないかな。『コレット・モン・アムール』は閉店までの刻々を追うというカウントダウンの要素が通奏低音的にあって、それがサスペンスというとやや大仰で、映画のテイストとは離れちゃいますがでもある種のスリルを付加しているなと感じました。お店のテーマカラーの涙やハートのアニメーションを実写にのせる使い方もさらりとかわいくていいですね。それぞれの映画のコメンテイターを見比べるとそれぞれの世界がみえてくる、そこも面白いですね。

N:『ライフ・イズ・カラフル!』のPOPで軽快なタッチは、以前観た『イヴ・サンローラン』の威厳的で重厚な見せ方とは真逆でした。「お仕事」を軸にそれを積み重ねることでその人間性まで魅力的に描いているのは監督兼プロデューサー2人の個性のおかげだと思います。
『コレット・モン・アムール』ですが、自分は一度もコレットに行ったこともないくせに、影響を受けていたからか勝手に親近感やリアリティを感じてしまい、カウントダウンという手法も相まって、エンドロールでは「ありがとう!」とともに少々感傷的になるくらい気持ちが入り込んでしまいました。最近のハイストリート系のファッションに少しでも興味があったり、好きだったりする人は観に行くべきドキュメンタリーだと思います。

『COLETTE MON AMOUR (コレット・モン・アムール) 』

★コロナの時代ということも含めて服に対する姿勢は今、どんな感じですか?

M:コレットが終盤、今日の世界状況を予言するような発言をしていて、2017年閉店という選択は、正しかったのだなと、最後に思いました。
自分自身でいえば、コロナは関係なく、この1年位は、トレンド的なもの、モード的な服への欲求は、殆ど無くなりました。去年は2回ほど海外に行く機会もありましたが、セレクトショップなどに行っても、心が動かされる事はありませんでした。
今良いと思うの服は、ベーシックで、カンファタブルな服。同じアイテムの色違いや、同じ色の似たアイテムで、いつもあまり変わらない装いになるようにだけ、考えています。
コロナの影響によって、見せる服を着ていく場が消失したのは、やはり大きいと思っています。ブルックス・ブラザースが倒産するなど、少し前は想像出来なかったと思います。レナウンも倒産し、セレクトショップのアウトレットショップが銀座に出来るなど、ファッション業界の先行きは、厳しいと言わざるおえません。
ただコロナの影響で、服だけではなく、仕事や生活においても、取捨選択がなされ、見つめ直す事によって、本当に必要なものだけが残っていくという状況は、良かったかなと思っています。苦境の中、この先に生まれてくるカルチャーに期待したいですね。

A:朝日新聞のインタビュー(20年9月14日)で無難さ、同調、安心を突き「着るものも含めて他人と違いたいという欲求がますます弱くなってきたのは、特に女の人たちだと思います」と、川久保玲氏が答えていたのが興味深かったです。

N:川久保玲氏のインタビュー、敦子さんがおっしゃてた部分は僕も胸に突き刺さった発言でした。みんながそうならないようコレット亡き後、Dover Street Marketには頑張っていただきたい。

T:コレットの1997から2017年は一方では男性ファッションにおいてはイタリアンクラシコから始まったイタリアンな時代でもあったように思います。その中でクラシックから過剰なカジュアル化が進みそのカウンターパートとしてのクラシックなスーツの極まりがちょうど自分の中では2017年ごろでピークアウトした感があります。そこから教条的になったファッションをもっと着る楽しみに戻そうという感じがあります。自分では着なくてもミケーレとかの精神に時代が呼応しているように思います。もっと自由な着方、というスピリットでフレンチや古着やちょっとモードっぽい感じや、何か自分の中では1970年代から1980年代中頃のものが新鮮な気がします。着飾って出かけていくところがないからこそ、単調な毎日だからこそハイブリッドな組み合わせや着る楽しみで自分自身を鼓舞する日々です。泣

Pharrell-Williams-Colette-Mon-Amour_H.Lawson-Body

座談会を編集中に飛び込んできた高田賢三さんが、コロナで亡くなったというニュース。『ライフ・イズ・カラフル!』にも、元気に出演されており、残念極まりませんが、高田さんの元気なお姿を、是非この作品で見て頂きたいと思います。

『ライフ・イズ・カラフル! 未来をデザインする男 ピエール・カルダン』
Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国公開中!
配給:アルバトロス・フィルム
公式サイト:colorful-cardin.com 

C)House of Cardin – The Ebersole Hughes Company

『COLETTE MON AMOUR (コレット・モン・アムール) 』2020年9月26日(土)〜2020年10月8日(木) 19:00-
渋谷シネクイントにて、2週間限定公開
https://www.cinequinto.com/white/

『COLETTE MON AMOUR (コレット・モン・アムール) 』

Cinema Discussion-31 テリー・ギリアムの見果てぬ夢『ドン・キホーテ』

© 2017 Tornasol Films, Carisco Producciones AIE, Kinology, Entre Chien et Loup, Ukbar Filmes, El Hombre Que Mató a Don Quijote A.I.E., Tornasol SLU

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
2020年第1回目で、トータル31回目となる今回は、英国の鬼才テリー・ギリアム監督が、苦節28年かけて完成させた『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』です。
このシネマ・ディスカッションにテリー・ギリアムが登場するのは、前作『ゼロの未来』以来2回目です。
テリー・ギリアムは、英国的な笑いで知られるコメディ・グループ モンティ・パイソン唯一のアメリカ人メンバーであり、アニメーターとしても活躍。
映画監督としては『未来世紀ブラジル』『フィッシャー・キング』『12モンキーズ』と独自の世界観を描いて来たギリアムの新作に、期待は高まります。
ディスカッションメンバーはいつものように川野正雄、名古屋靖、川口哲生、ナヴィゲーター役の映画評論家川口敦子の4名。

© 2017 Tornasol Films, Carisco Producciones AIE, Kinology, Entre Chien et Loup, Ukbar Filmes, El Hombre Que Mató a Don Quijote A.I.E., Tornasol SLU

★28年がかりで完成をみた”呪われた”映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』ですが、何がギリアムをそこまで執着させたと思いますか?

川野正雄(以下M):当初$2000万とギリアムが言っていた予算が、$3000万まで集まりスタートしたのが、いきなり頓挫で、脚本の権利は保険会社とか。ありえない展開で、挽回する気持ちがすごくあったのではないでしょうか。
それから『ドン・キホーテ』は、意外に映画化されていなく、1972年のアーサー・ヒラー版『ラ・マンチャの男』くらいなんですよね。そういう意味でも映画化の価値を、ギリアムは随分と見出していたのではないでしょうか。
誰も知っているネタだけど、映画化はあまりされておらず、独自のアイデアがどんどん湧いてくる〜そんな状態だと、何とか実現したいと永年執着しても不思議ではないですね。

川口哲生(以下T):ギリアム自身のメッセージ「『ドン・キホーテ』の問題は、一度でもドン・キホーテと彼が象徴するものに夢中になると、その人自身がドン・キホーテになってします。」に尽きると思います。
「ドン・キホーテは夢想家で理想主義、ロマンティックかつ断固として現実の限界を受け入れようとしません。」と言っているけれど、これはギリアムの28年間のこの映画を成就するための執着に重なるのではないでしょうか?

名古屋靖(以下N):川口さんのおっしゃる通り、パンフレットにある監督のメッセージがそれを語っていると思います。「〜そして、狂気の領域に入り込み、自分が想像した世界を作ろうと決心します。」とあるように何十年掛かろうがゴールすることを強く心に決めたんでしょう、狂気の沙汰と言われても。

川口敦子(以下A):みなさん仰る通り、監督のメッセージにあるミイラ取りがミイラならぬキホーテ撮りがキホーテに――の、結果の狂ったような執着だったのだろうなと思いますね。ただ同時に、というか逆にというのかな、この企画に関わる前から「夢想家で理想主義者」「断固として現実の限界を」受け入れず「挫折をものともせずに進んでいく」ギリアムがいて、だからこそドン・キホーテに惹かれ映画化に突き進んでいったともいえる気がします。英オブザーヴァー紙のインタビューでは真っ当な人たちには「テリー、前に進め。この企画にいつまでもこだわるのは君のためにも、君のキャリアのためにもならないと忠告された、でも真っ当な人間や道理に適ったことっていうのが僕は嫌いなんでね、だからこの映画への道を進み続けた」と答えてます。いずれにしても一生に一度というような磁力を感じ、取り憑かれていったんでしょうね。
 ちなみにスタジオとの闘いという点で通じる異才オーソン・ウェルズもドン・キホーテの映画化に憑かれて結局、幻の一作になった。ギリアムがその二の舞とならず、こうして完成作を見られてほんとによかったです!

★邦題に“ギリアムの”とついているように、セルバンテスの「ドン・キホーテ」の単なる映画化ではないですね。ギリアム印を特にどのあたりに感じましたか?

N:構想30年、企画頓挫9回、幾多の困難と紆余曲折を経たからか、脚本も当初聞いていた「現代の主人公が17世紀にタイムスリップしドン・キホーテと出会い冒険の旅に出る〜」という内容とはかなり違ったものでした。しかし観始めれば、オープニングから導入部の落差のあるコミカルな演出や、夢と現実の境い目がどんどん曖昧になって訳がわからなくなったり、現代リアリズムと中世美意識のシニカルな対比、振り出しに戻るようなエンディングまで、まさにギリアム的な映画でした。

M:ギリアムを表現する唯一無二そのものの映画ですね。ギリアムでしか、撮りえない映画。アーサー・ヒラー版『ラ・マンチャの男』は、ピーター・オトゥールがセルバンテスと、ドン・キホーテの2役で、よく出来た映画でしたが、もちろん全く違います。
日本だと『ラ・マンチャの男』は、松本幸四郎さんのミュージカルが一番馴染みが深いと思いますが、この映画に同じものは、当然ながらひとかけらもありません。
まCF撮影現場と、トビーの学生映画や、ドン・キホーテを巡る旅とのハイブリッド構造は、ギリアムらしいと思いました。
また序盤のプロデューサーの妻にトビーが誘惑される場面は、何となくモンティ・パイソン的に感じました。

T:原作のプロットを借りながら、トビーというキャラクターを絡ませることで、夢や理想や純粋さとすごく現代的な権力や金や名声等々の現実との綱引きを、ユーモアと圧倒的なギリアム的美意識や混沌さの中で描いている。見終わった後のみんなからの反応が、良くも悪くもやっぱりギリアム!と異口同音だったのが笑えますよね。

★想像の力、夢見ること、現実と夢の境界というテーマは一貫してギリアム界を支配していると思いますが『未来世紀ブラジル』はじめ前作とのつながりをどう見ましたか。

M:『ゼロの未来』が、どうも意図が理解出来ず、個人的には距離感を感じてしまったので、この作品とのつながりは、あまり感じませんでした。
『未来世紀ブラジル』とは、カオスな中からのも計算された演出がすごく効いているという部分で、共通項を感じました。
正に現実と夢の境界が、常に根底に流れるテーマだと思います。
ただ自分は、そんなに多くギリアム作品を見ているわけではないので、つながりは何とも言えないです。

T:悪夢から覚めてもまた夢だったみたいな,どこが覚めていて現実かわからないような、
いいかえれば劇中の現実を主人公が夢であってほしいと思いながら生きるみたいな。笑
そんな感じってやっぱりギリアム作品にずっと流れていますよね。
その夢のシーンの色彩や、カーナバル的混沌や、一種の宗教性や、時空を超えた造形力みたいなところが、私のギリアムが大好きなところです。『ゼロの未来』はちょっと残念だったけれど。

A:夢見る力対夢を殺す現実というテーマと、それを語るための重層的な構造、その混沌ゆえの魅力という点ももちろんですが、モンティ・パイソン時代のアニメーションにも見て取れたグロテスクで不完全でだからおかしく忘れ難いビジュアル、童話のような残酷さに満ちた世界を創りあげていくあたりの爆発的な想像と創造の力の融合ぶりには相変わらず惹き込まれます。テイストとしては必ずしもピタリと来るものだけじゃない部分も実はあるのですが。CM撮影現場にある巨大なはりぼての顔とか掌とか、終盤に出てくる3巨人とか、パイソン時代に撮った映画や『ジャバウォッキー』『バンデットQ』等の初期監督作、はたまた『バロン』にもあるお伽が梨的な世界、スケール感を狂わせることへの密かな愉しみ的志向というのかな、変わらないなあ、でもそこがいいなあと、若干苦笑いしつつ思ったりもしました(笑)

★撮影、美術、音楽についてはどんな印象を?

N:個人的にギリアム作品の好きなポイントとして、どの映画もどこかに一瞬だけでも感動的な映像美があることです。それは『未来世紀ブラジル』のドーム型の部屋だったり、『フィッシャー・キング』のセントラルステーションだったり、『12モンキーズ』の空港のスローモションだったり。。。たとえそれがストーリー上必然でなくとも観る者をあっと言わせる圧倒的なカタルシスだったりダイナミズムを感じさせてくれていました。今回は細かな装飾や美術が行き届いていた、古城や火祭りがそれにあたるものだったかもしれませんが、そんなに深くはヨーロッパ文化に慣れ親しんでいない自分には今ひとつその美しさや貴重性にはピンと来ませんでした。ただ、多くのシーンで見られる様々な自然のランドスケープはさりげない扱いですが、実は素晴らしく美しい風景の連続でした。これは今までは作り込まれた凝った映像の印象が強かったギリアム作品とは違う潔さを感じました。

A:トビ―の学生映画、情熱の産物というモノクロ映画の部分、そのモノクロというのがギリアム映画としてちょっと新鮮でしたね。もちろんメキシコ時代を含めたブニュエルとか、思い切り思い込んでいえばロッセリーニ『イタリア旅行』の聖なる祭との遭遇部分とか、学生ならではのオマージュをちょっとからかってはいるんでしょうが、案外、まじめなギリアムの”好き”がそこに感じ取れたりするようで、素朴でシンプルなその質感、モノトーン、仄明るさとどす黒いような音調が混じった音楽も効いてましたね。
 あと、ラマンチャの荒涼とした景観というのもなかなかいいですよね。作り込まれたセットの映画という印象が強いギリアムの映画でこんなふうに素の自然、普通にロケした場面がいい味出してるのも面白かったです。

M:特に美術なんですが、フェリーニ的なセンスを強く感じました。フェリーニ後期の『カサノバ』や、『魂のジュリエッタ』などのカラー作品の寓話的な演出です。『ボッカチオ70』のフェリーニ編に登場する巨大看板と、コマーシャル撮影の巨人も、イメージがつながります。特に終盤の展開が、より寓話的な見え方や神話の世界感が漂い、フェリーニの描くカオスな世界へのリスペクトを、感じました。今時こんな演出が出来る監督は、ギリアムしかいないのではないでしょうか。敦子さんの言うギリアムの“好き”が、ここにも感じました。

© 2017 Tornasol Films, Carisco Producciones AIE, Kinology, Entre Chien et Loup, Ukbar Filmes, El Hombre Que Mató a Don Quijote A.I.E., Tornasol SLU

★スペインはもちろんドン:キホーテの国ですから舞台なのは当然ですが、イスラム、ユダヤ、キリスト教と宗教的背景のミッシュマッシュな部分にギリアム的なもの、はたまた今の世界に通じるものがないでしょうか?

T:日西観光協会の案内によれば、カステージャ・ラ・マンチャ地方はスペイン内陸部のカステージャ高原南部を占め、北は中央山脈、南はシエラ・モエナ山系に沿ってアンダルシアと接し、タホ川とグアディアナ川の二つの大きな川は大西洋へ、フカール川は地中海に流れ込んでいる、とあります。
「この地ではスペインを通過した通過した様々な文化の後を見ることができる。最も深くその跡をとどめているのは、中世を通じて平和と調和を保ちながら共存したイスラム教、ユダヤ教、キリスト教である。そしてこれらの人種、宗教、民族が融合した地がトレドである。」だそうです。
もともと原作が生まれる地の背景にこれらが共存していたわけでしょう。
『ラ・マンチャの男』ではセルバンテスがカトリックを冒涜して投獄されたところから話が始まるけれど、そうした平和な融合が崩れた部分を現代に置き換えてギリアムは描きたかったのでは。
美術的には火祭りの聖カタルティカの像とか、川野くんと行ったニース・カンヌのレモン祭のときにも感じた『新しいものに再生させる』カーナバル的な極めてカトリック的な表現は映画のテーマと重なって利いていたと思います。
ゴヤとどれからヴィジュアルインスピレーションを得たと言うのもすごいね。

M:モロッコで撮影したのかと思いましたが、モロッコでは撮影していませんでした。スペインやポルトガルでかなり撮影したのですね。
神話的な見え方をする演出に、宗教的な背景を少し感じました。

A:自分の発言なのにすっかり忘れていたのですが、シネマ・ディスカッションで『ゼロの未来』をとりあげた時にもこんなことをいってました。以下、長いけど引用します。
「縞模様の灰色のパジャマがナチ収容所の制服に通じると、意図したわけではないが結果的にそうなったとプレスブックでギリアムは発言していますが、意図してないのかなあ、というのも(主人公の)コーエンという名前のユダヤ性を強調するように名前の言い直しが繰り返され、ビーチのボールをふわふわと突く、それが最後は太陽になるけれど、やはりチャップリン『独裁者』のヒットラーの地球もてあそびが思い出される、暴力的管理社会の寓話的モチーフのひとつとして興味深かった。もちろん、キリストを思わせるボブとマネージャーの父子関係もいっぽうにはあり、カオスにすいこまれる部分なんてふと丹波哲郎みているのだろうかと思わなくもないなんて、そこはいいすぎでしょうか宗教的言及も意外とまじめにやっている。というかひとつのテーマとして無と神といったものもあるのでしょうね。そのあたりがリドリー・スコットのきんとした美学に対して、やはりミネソタ出身の(コーエン兄弟もミネソタですが)洗練され過ぎないものを残している感覚、まじめさ、捨てきれないアメリカ中西部性として見逃せない気もします」
 と、ギリアムの映画の意外に根深い宗教的テーマ、人類、歴史、そのつながりとしての現代への風刺的スタンス。案外、一貫したこのテーマはやはり過激に宗教をからかいながら真面目に考え、でもそこは英国流のユーモアで辛辣に包んだモンティ・パイソン以来のこだわりでもあるのかなあ。

N:先ほども言いましたが、自分はキリスト教徒でもなく、ヨーロッパ史=宗教史も不勉強な方だったので、その辺については盛り込みすぎな印象もありましたし、正直上っ面しか楽しめなかったのも事実です。

★キャストについては? ジョニー・デップ、ユアン・マクレガーでなくアダム・ドライヴァーでよかったなと思いましたか? それはなぜ?
N:この脚本とアダム・ドライバーはとてもよかったですね。様子がどんどんおかしくなっていく過程も違和感なく自然に観られました。多分ジョニー・デップだと過剰になりすぎ、ユアン・マクレガーでは世界観が違ったような気がします。

A:“宗教問題”にこだわるわけではないのですが(笑)、アダム・ドライヴァーになってユダヤ系って要素も使えましたね。ドライヴァーはオスカー候補の『マリッジ・ストーリー』でも積極的に自身の出自を活かしてユダヤ系ということを主張というのではないけれど盛り込んでいたと思います。と、大騒ぎすることではないけど、興味深いです。ついでにいっちゃうとオスカーとらせたいなあ。
 ジョニー・デップにしろユアン・マクレガーにしろこの独特の間の抜け方、というのかそこはかとないおかしさは出せなかったでしょうね。カンヌの記者会見の録画をみると、キホーテ役のジョナサン・プライスが英国俳優として「less is more」が褒められるべき演技と信じてきたが、ギリアムの映画では「more is more」が正しい演じ方といったことをコメントしていて、さもありなんと思ったのですが、アダムのはmoreもできるけれど、lessも捨ててない、それが好い加減なんですね。

M:2008年ならジョニー・デップ、2011年ならユアン・マクレガーがベストなキャスティングで、今のタイミングでは、アダム・ドライバーが旬な役者ですので、一番良かったと思います。
アダム・ドライバーはユダヤ系なんですね。ノア・アームバックの『マリッジ・ストーリー』は、彼本来の個性が出ていてすごく良かったですが、このトビーも、目一杯の芝居だと思いますが、素晴らしいです。

T:アダム・ドライバーはすごくよかった。登場時間の半分以上顔が汚れているし、フォーレターワーズ叫びっぱなし。笑
現在の夢を売った軽薄な感じから、夢や情熱を取り返していく過程の行きつ戻りつが自然だったと思います。

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★映画作りの現場、あるいは学生映画時代の創ることへの情熱を失わせるような映画業界へのパロディとしての面もありますね?

N:この映画自体の製作過程も包括しつつ「お金」についての皮肉はたっぷり盛り込まれていましたね。

T:金に関わる人々、CM撮影現場での日本人代理店みたいな人たち?やBOSSやスポンサーの大富豪とかすごく象徴的でパロディですよね。
もう一方映画が人の人生を狂わせる、みたいなもう一つの自分に矛先が向くるような
テーマも取り上げていましたね。

M:哲生君のいう日本人広告代理店的な人が気になりました(笑)。映画監督目指して、CM監督とか、日本でもよくあるシチュエーションですが、作り手としての想いは普遍的だというメッセージとして受けとりました。

A:アメリカ時代にはコマーシャル・アートに身をおいていたギリアムなので、譲歩を知らないわけではきっとない、そういう背景ゆえに、バトル・オブ・ブラジルの時の爆発みたいに管理統制されることへの反発もあるんでしょうね。もちろんその後の映画作りの中でもいやというほど煮え湯をのまされてきたのでしょう。ロシアン・マフィアみたいなスポンサーはじめ、昨今の(ちょっと前のかな?)ハリウッドへの皮肉もたっぷりですね。
 いっぽうの学生映画に出たことで人生を狂わされたヒロイン、靴職人の部分は、やはりインタビューを読むと、パイソン時代の映画でスコットランドの寒村の人々を出演させて彼らの人生を狂わせた苦い記憶――なんてモチーフもあったようです。といった部分も含めて多分に自伝的要素が盛り込まれた映画といってよさそうですね。

★今後、どんなものを撮って欲しいですか?

M:年齢も年齢なんで、後何本かと思いますが、ハムレットのような古典やってみて欲しいです。

N:僕も『ゼロの未来』は消化不良でもやもやして正直好きになれませんでした。でもやっぱりテリー・ギリアムは僕らが見たことがない世界を見せてくれる監督だと思っていますので、懲りずにまた独自の解釈で未来的な映画も撮って欲しいです。

A:いつも一作を撮り終えると寂しい気持ちに襲われるけれど、今回はとびきりもぬけの殻状態とギリアムはコメントしていますね。
“The Detective Unknown”(絵本のような幻想世界に迷い込んだ少女を探す探偵)、20年代の全米を巡業した「空飛ぶ少年」の「飛翔と落下の半生」を描くポール・オースター原作の”Mr.Vertigo“とライターとしてクレジットされている新作企画はあるようですが具体化はいずれもされてないようですね。いずれにしてもファンタジー系からの脱出はなさそうですが、あの学生映画みたいなタッチの一作も見てみたい、と言いつつそれはないだろうなと半ば、諦めている自分もいたりします(笑)

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』
公開日:1 月 24日(金)より、TOHO シネマズ シャンテほか全国ロードショー公開中
配給:ショウゲート