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『アメリカン・ユートピア』デイヴィッド・バーン×スパイク・リー=?/Cinema Discussion-35

©2020 PM AU FILM, LLC AND RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC ALL RIGHTS RESERVED

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。第35回は、元トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンが、2019年秋から2020年2月までニューヨークブロードウェイのショーとして開催したAMERICAN UTOPIAのライブドキュメンタリー映画『アメリカン・ユートピア』です。
監督はスパイク・リーで、80年代ニューヨークを代表する音楽と映画のトップスターがガッチリ組んだ作品で、単なるライブ映画という枠を超えた作品になっています。
セルクルルージュのメンバーは、皆でトーキングヘッズの1982年新宿厚生年金会館のライブは見に行っており、川口哲生は、2020年1月ニューヨークのハドソンシアターで、実際にAMNERICAN UTOPIAの公演を見ています。
今回は現地での感想も含めて、川口哲生、名古屋靖、川野 正雄と、ナヴィゲーター役の映画評論家川口敦子の4名で、お届けします。

HUDSON THEATER

★まず、哲生くんへの質問です。昨年、コロナ禍のぎりぎり直前にブロードウェイの舞台を見ることができたんですよね。その折のこと、舞台について感想ともども聞かせてください。

・川口哲生(以下T):私がこのショーを知ったのは、2019年11月21日、渋谷PARCOのリニューアルオープンで三宅一生さんのパリのショーを撮ったドキュメンタリー映画の上映があり、そこで一緒になった中野監督からでした。お互いデイヴィッド・バーンの大ファンであり、1980年代初頭に一緒にバリに行ったときに毎晩“once in a lifetime”のへんてこなダンスを真似しあった仲です。一気に話が盛り上がり翌2020年1月末の弾丸NYツアーとなりました。
具体的には1月25日ダブルヘッダーの初回、5時からのショーをW44th STのHUDSON THEATERで観ました。
ショーはそぎ落とされた潔さを感じるセッティングの中、照明のコントラストで場面展開を繋げていく構成が素晴らしく、一瞬も飽きることなく魅入ってしまいました
劇場の小ささも相まって、コンパクトなステージ全体を観る感じ、デイヴィッドの動きを中心として追うコンサート的な見方ではなく、群舞としての魅力をすごく感じました。
様々な人種、ジェンダーのミックスされたグループ全体の動きを水槽の魚の群れが泳ぐのを観る、そんなイメージを受けました。感銘を受けました。スパイク・リー監督がマーチングバンドの様だといっているのも、このグループの動きを観てだと思います。

★オフやオフオフでなくブロードウェイでの公演だった、それはデイヴィッド・バーンの軌跡からするとメジャーすぎるみたいな抵抗感はありませんでしたか? 
これはみなさんのご意見も伺ってみたいです。

T:まさにブロードウェイのど真ん中といったロケーションと1903年からの歴史を持つ由緒正しいシアターでの上演でした。389ドルの特別バーラウンジが利用できるオーケストラシートのチケットを取り、一時間前からウォーミングアップという感じでした。笑

コロナ禍前のニューヨークは平和で、今まで行ったどのタイミングよりも治安が良く、どこも居心地がいい感じでした。
今回このプロジェクトに貫かれていることは、トランプ政権を生ませたアメリカの分断、そしてトランプが新たにもたらした様々な問題を抱えながらも、それをただ糾弾するような“years ago,I am an angry young man(”nothing but flowers”) “でも、だれにも居心地の悪さを強いる”I am tense & nervous , and I can’t relax (“psycho killer”)”でも、そして“does anybody have any questions?”と投げかけるだけで足早に去っていく(”stop making sense”)でもない
reasons to be cheerfulを観客と一緒に実現しようとする大人な、というと安直ですが、マチュアなデイヴィッドの在り様に思えます。
その意味では、一緒に成長した観客側も含め、今回のブロードウェイなのではないでしょうか?インタヴューでも言っていますが、ドグマチックなステートメントでなく、あなたの今ブロードウェイで楽しんでいるこのショー、それを成立させているのは何なのか?という投げかけですね。

公演チケット

・名古屋靖(以下N):今回のブロードウェイ公演とその映画化について、2018年にリリースされたデイヴィッド・バーンのソロ・アルバム『AMERICAN UTOPIA』の話から始めなければならないかと思います。
今映画作品のタイトルと同名のソロ・アルバムは、デイヴィッド・バーン自身がどうしても伝えたかったことを彼独自のスタイルでシニカルに、しかし確実に(2018時点での)今、出来るだけ多くの人々に届くよう作られたメッセージ性の高い意欲作でした。彼が言いたかったのは、当時トランプ政権下のアメリカについてで、国民の分断、移民問題、銃規制、レイシズムなど現在もなお続いている様々な不条理や絶望が渦巻くアメリカン・ユートピアという名のデストピアについて訴えることでした。
2018年3月9日に全米で発売されたこのアルバムは、1週間後「Billboard top 200」で初登場3位を獲得。これはTalking heads解散後、デイヴィッド・バーンの様々なコラボ作品も含めた彼の長いキャリアの中で最高位の大ヒットとなりました。このアルバムが様々な疑問や不安を抱えたアメリカの人々に、求められ、支持された作品になったことで、彼のメッセージはアメリカの良心を代表する言葉になったんだと思います。
若かりし頃、小汚いCBGBでギグを繰り返していた痩せて捻くれた美大生ではなく、平和で優しい心を持った大衆の代弁者としてブロードウェイのど真ん中で声を上げるのは当然の成り行きじゃないでしょうか。またそのステージを映画化することは、公演を観に来れない世界の人々に向けて自身のメッセージをさらにもう一段スプレッドする事ができると考えたのでしょう。

・川口敦子(以下A):私にとってのデイヴィッド・バーンというのはトーキング・ヘッズ時代、そして80年代半ば『ストップ・メイキング・センス』と自ら監督した『トゥルー・ストーリー』を通じての存在で、それ以後は殆どフォローしていなかったんだなあと今回改めて振り返ってみて気づいた、覚醒した(笑) すごく近くの人として追いかけていたつもりが、いつの間にか遠くなっていたんだなあとそんな感じです。
まあ、哲生くんに教えてもらった”reason to be cheerful”のサイト、あるいはバイク日記は読んでいますが、アップデイトはできてなかった、正直そう思いました。
なにしろいまだにバーンといってぱっと浮かんでくるのは78年かな、LAにいた頃、サンセットのウィスキアだったかロキシーだったかで見た、まさにアートスクールの学生そのままみたいなトーキング・ヘッズのギグの生硬な尖り方、まだショートヘアだったティナの少年みたいな存在感とバーンの古着の格子(そういえばこの時もやっぱりグレー系だったような)のたらんとしたシャツ、で、結局、一緒に行った哲生くんの影響下での体験だったなあと思うのですが、ともかく同時代的に発生していた映画界のNYインディとも通じる70年代末的アンダーグラウンド、前衛、非メジャーのイメージで捉えてきたんですね。
その意味では『アメリカン・ユートピア』でダダ、超意味言語にふれているのも面白かった。前衛演出家ロバート・ウィルソンと組んだりもしていますよね。
『ストップ・メイキング・センス』のリマスター版が出た99年、サンフランシスコの映画祭でトーキング・ヘッズのメンバー4人が久々に揃って記者会見した折のQAからはそれぞれの道を行っているとはいえ、インディな姿勢というのが背骨として相変わらず共有されていていいなあと、うれしかったですね。で、そこでバーンがデビュー当時、外見はすごく保守的だった、それが逆に因襲破壊的な態度を表明する術だったと語っているのも面白い。すみません、だらだらになってしまいましたが、要は今回のブロードウェイの選択もそういう姿勢なのかなとまずは思っていたんです。だけど、『アメリカン・ユートピア』を見ているとそんなふうな身構えはもう超えたという感触、みなさんが仰る成熟ゆえの衒いなさこそを受け止めるべきかなと思い直したりしています。

・川野正雄(以下M):NYのニューウェーブ的なバンドとしてGBGBからスタートしたデイヴィッド・バーンが、60代になりブロードウェイで連続公演するというのは、素晴らしいストーリーですし、バーンらしいなと思いました。
どのミュージシャンも、年代と共に立つステージは変わってくると思います。往々にしてそれは定番化や退化を伴っていますが、バーンはむしろ進化して、これまでの軌跡の集大成的なパフォーマンスに昇華させているのは、さすがだなと感じました。
デイヴィッド・バーンに関しては、トーキング・ヘッズ解散以降、個人的に急激に関心が薄れていき、しばらく全く聞いていませんでした。
バーンがラテンのセレクトアルバム出したころから、バーンの迷走とそれを受け止め、エッジの効かせ方が、少し時代遅れに感じてしまっていたのです。
改めて意識したのは、2010年香港にいた時に、ファットボーイスリムが来て、TIME OUTのインタビューで、影響を受けたアーチストとしてデイヴィッド・バーンをあげていたので、再注目をしました。
その後名古屋君から2009年の来日ステージの話を聞いたりして、再度ブライアン・イーノとのコラボアルバムを聞き出し、改めてそのセンスというか、音楽的な魅力に引き込まれていました。

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★観客層はどんな感じでしたか? 反応は?

T:観客はおおむね私と同年代60前後の男女がやはり多いのでは?おしゃれな印象はないです。笑
映画の中でも、観客とのやり取りがありますが、一体になってステージを作っている感はすごくありました。そぎ落として、防御するものがないミュージシャンが観客とともに作るステージ、インタヴューでスタンダップコメディの観客に対する防御のなさを、ミュージカルショーとしてやってみたかったといっていますが、その感じです。
”Burning down the house“では総立ちだったと思います。
私の後ろの席には小学生ぐらいの男の子を連れた人もいて、“Toe Jam”とか笑いながら踊っていて、しっかり受け継がれていいていていいなぁ、とうれしく思いました。
大統領選前のNY、選挙に関する発言もショーの中でも多いですが、ここにいる人でトランプに投票する人はいないだろうなって感じ。

★映画版でも観客の存在が意識的に切り取られていますが、舞台にはない映画の面白さ、みなさんはどのあたりにあると感じましたか?

T:スパイク・リー監督がマルチアングルで撮っているし。ソロパートでのクローズアップもあるので、アーティストそれぞれのジェンダーや人種や移民というテーマとの関係性をより強烈に意識した様に思います。ステージではデイヴィッドに近いクリス・ギアーモの存在感が強烈でしたが、映画では彼だけでないそれぞれの表情まで鮮明に伝わりますよね。

N:実際に現場に行かれた川口さんがおっしゃる通り、映画を観る限り写っている観客はみんなおしゃれじゃない。ニューヨークに観に行けるくらいだから貧困層では無いにしろ、リッチな雰囲気はないちょっとダサい感じ。でもそれが今のアメリカの普通の人々に見えて共感できました。もちろんセレブな客層も会場にいたはずですが映さない。この映画のテーマを伝えるためには、その辺も意識して撮影していたのかもしれません。

M:現場体験した哲生君の印象と同じで、お洒落ではないですね(笑)。
チケットも、ロックコンサートと考えると安くはないですし、バーンのファンって、アメリカではこんな感じなんだな~と思って見ました。
マルチアングルで、コンサートをしっかりと理解してスパイク・リーが撮影していると思いました。
メッセージも字幕できちんと伝わり、映画ならではの理解ができました。

A:まずはこのショウそのものでバーンが劇場という時空を観客席を含めて意識しているような所が興味深かったですね。観客席を巻き込んでのトークと照明、それが”物語″(メッセージといってもいいですが)を共有して進めていこうという覚悟みたいなものを感じさせる。『ストップ・メイキング・センス』のステージは、観客もつられてダンスダンスという部分はあるとしても、直方体の舞台の時空の中でキンと完結しているように見える。その点、ショウとしての構成、設計の綿密さを思わせる『アメリカン・ユートピア』が、むしろ開かれた時空としてあろうとしているのが面白いですよね。あるいはこの映画のバーンの在り方がそういうオープンさを意識的に打ち出し、見る側にも積極的な印象として伝わってくるのかもしれませんが。
映画として俯瞰の視点、はたまた裸足のクロースアップ、顔のそれとマルチな視点、眼差しを導入して舞台にはない面白味を追及しながら、でも案外、ドキュメンタリー的に観客との対話を掬い取った部分のはみ出し方がより生き生きと迫ってきてバズビー・バークレーの人工的な俯瞰の幾何学模様を思わせる面白さもあるけれど、それよりはフレデリック・ワイズマンのアメリカなマーチングバンドの場面、その生気と共振してしまうような点の魅力についても考えてみたいなと思いました。

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★デイヴィッド・バーンと監督スパイク・リーの顔合わせに関しては?

A:ジャームッシュとはPVで組んだことがあるみたいですが、その方がすんなりくる気がしますね。スパイク・リーとは意外でしたが、でも、映画のメッセージ性を思うとやはりここにはリーが欲しかったということでしょうか。哲生くんが送ってくれた動画サイトの対談ではリーの初期の快作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』がよかったなんてバーンいってますね。ちなみにバーンは『トゥルー・ストーリー』を作る上でアルトマン『ナッシュビル』を視界に入れていたようで脚本のジョーン・チュークスベリーに参加を求め、辞退された後にも様々に助言を受けていたりと、映画に関して造詣も深そうだし、いい趣味しているんだなあ。監督としても面白い。

T:ありそうでないというか、大丈夫かな?という感じかな。笑
“Hell You Talmbout“の演出はスパイク・リーだからこそでしょう。
最期の“Everyboby‘s coming to my house”のデトロイト・スクール・オブ・アーツ版の挿入も。

N: スパイク・リーの演出は、コテコテな印象の彼らしくないシンプルですがリズミカルで素晴らしかったです。後半「Hell You Talmbout」での気合の入れ方はまさにスパイク・リーでしたが。監督が事前にどこまでデヴィッド・バーンを知っていたかは知りませんが、相当に時間をかけて事前予習したんじゃないかと思うくらい、独特なデヴィッド・バーンの特徴を捉えているのに感心しました。
何よりみなさんのおっしゃる通り、マルチ・アングルの撮影は秀逸。

M:二人の対談見ると、スパイク・リーは、二階席から見て、俯瞰撮影のインスピレーションを得たと言ってますね。
共に80年代にNYでデビューして、近くて遠い存在だったみたいですね。スパイク・リーは80年代のトーキング・ヘッズは見に行っていたようですし、バーンは『ドゥ・ザ・ライト・シング』のプレミアに行ったみたいな話もしていました。
80年代NYのブラックカルチャーとホワイトカルチャーの象徴みたいな二人が、今組むという事に、すごく意義があると思います。
同じ時代のNYの監督のジム・ジャームッシュがやったら、また違ったものになったでしょうね。もっとオフショットが増えたのではないかと想像します。
この映画で言えば、エンディングも良かったです。
ちょっと意外な感じで。バーンもNORTH FACE着るんだなみたいな意味も含めて(笑)。

スパイク・リーとの対談

★音楽、ダンスについてはいかがでしょう? ジョナサン・デミ監督の『ストップ・メイキング・センス』との比較は?

N:『ストップ・メイキング・センス』は臨場感があって擬似ライヴ体験ができる映画でした。今作は荒削りなライブ感とは対極の、感動するくらいの完璧さが際立っている印象です。 僕はスタジオ盤とこのブロードウェイ公演ライヴ盤の『AMERICAN UTOPIA』アナログ盤を両方とも所持しているのですが、正直言うと今回の映画版を観てやっとデヴィッド・バーンが伝えたかった事がちゃんと理解できたと思っています。映画にしか収録されていない曲間のバンター(MC)はデヴィッド・バーンらしい表現でいちいち笑えるし、実はとても重要なことを言ってました。

T:『ストップ・メイキング・センス』はラジカセ抱えたミニマルから、だんだんに音の厚みを増していく構成が素晴らしいですが、ドラムセットがセッティングされ、ラインにつながれた楽器での自由度なので、デイヴィッドは走り回り踊りまくりますが、フォーマットはコンサートですよね。 今回は先にも述べたけれど、ミュージシャンとして音楽的パートを担うとともにグループダンスとしてそれぞれの意味を担っています。その自由度の違いがコンサートとは違うショーを生んでいると思います。
デイヴィッドのヘンテコダンスはメリカ人も笑っていたけど、昔からシリアスさとユーモアのミクスチャーなんだけれど、昔のそれは感情の表出へのバリアみたいに感じられたけれど、今回はそれを超えたこうしているのが”damn good”(“I  Dance Like This”) だからと素直に感じました。

M:『ストップ・メイキング・センス』は、実は細かい記憶がなく、比較は難しいですね。
でもVHSビデオ買い、当時は何回も見ました。
トーキング・ヘッズのライブも、多分最後の来日公演で、トムトムクラブと一緒の時に見ただけで、その印象もあまり残っていません。何故かトムトムクラブは憶えているんですが。
比較は別にして、昔の曲の進化も、新しい曲のメッセージ性も素晴らしいと思いました。
ダンスは、バーンの得意とする部分で、今回も集団のマスゲーム的な動きが素晴らしいと思いました。
80年代も『ザ・キャサリン・ホイール』でバレエ~ダンスとのコラボレーションがありましたが、他のロックミュージシャンと比べると、ダンスに対するアプローチは、単なるステージアクションという領域を超えたレベルだと思います。
音だけではなく視覚的にも美しくかつユニークにステージを構成していくというバーン独特のスタイル、ライブコンサートというよりも、ステージパフォーマンスという言葉の方が似つかわしいショーの集大成ととらえています。
自分の感性でいうと、トーキング・ヘッズが活動していた時代では、やはり初期のエッジの効いた曲が好きでしたが、最近は『リトル・クリーチャーズ』など、カントリーぽい曲の方が好きです。
先ほども言いましたが、一時期はバーンの音楽的な多様性が、少し無節操にも見えて、あまり好きではなかったのですが、今改めてその懐の深さに魅力を感じています。

A:デミはスタジオ映画『スウィング・シフト』を思うように撮れない鬱憤を『ストップ・メイキング・センス』で晴らしていたとdvd所収の会見で元トーキング・ヘッズの4人が明かしてますが、バンドメンバーのインタビューとか舞台裏とかを一切、そぎ落としステージに的を絞り切った潔さに包まれてバーンのほとんど自閉的疾走、そのグルーブにスクリーンのこちら側でも巻き込まれる快感が今見ても凄い。それに比べると体形的にも丸くなったバーンの『アメリカン・ユートピア』での身体性は、チームワークによって完遂されていく、その磁力ですね。で、唐突なんですが、最初と最後に舞台の緞帳が映るでしょ、あれなんだか鳥獣戯画っぽく見えて、そういえば前半の振り付け、どこかお祭りの踊りめいたところもありませんでしたか? だからどうした、なんですがちょっと気になってます。あれ、バーンが描いたのかな・・・。(哲生くん情報によればMaira Kalman というイラストレーター/作家の作品なんですね。映画も撮ってるんだ!)

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★制服のようなグレーの衣装と裸足というバーンとバンドの出で立ちは形式と非形式、コントロールと自由、真面目さと遊び心、皮肉と誠意ーーといった対立項をめぐってバーンの世界を思わせてくれるとニューヨーク・タイムズ紙の評にありますが、映画としての、はたまた、コンサート・ショウとしての、あるいはアーティストとしてのバーンの面白さもそうした両極の存在と関係しているのでは?

N:デイヴィッド・バーンは2009年1月に来日公演をしています。僕は1/28今はなき渋谷AXでのショウを観に行きました。その時もすでにデイヴィッド・バーンを含めた全出演者は白いスーツで統一されていて、オフラインの楽器演奏者とダンサーが入り乱れながら縦横無尽にステージを動き回る、見事なコンテンポラリー・パフォーマンスが行われていました。今回の『AMERICAN UTOPIA』は、さらに無駄な要素が削ぎ落とされ、テクニカルな照明演出等も加わり、パフォーマンスの精度は何倍もUPしていました。まさにデイヴィッド・バーンの今の完成形をこの映画で観ることが出来ます。

T:確かにユニフォーム然としたグレーのスーツは没個性の様で、それを着る人たちの個性を逆に明確にしていますよね。一番堅固な靴を履かない裸足でのパフォーマンスは、前に触れた、観客に対しての無防備さを象徴していますね。
話はちょっとそれるけれど、
昔からデイヴィッドっておしゃれなんだろうか、わざと外しているのだろうかと思わなかった?笑
インタヴューとかも感情押えた抑揚のない受け答えだったり、あるいは『ツゥルー・ストーリーズ』みたいなアメリカーナだったり。
すごく複雑でアンビバレント。
“nothing but flowers”だってジョニー・ミッチェルの”Big Yellow Taxi“みたいなパラダイスに対してのストレートさはないし。ツイステッド。笑
https://www.youtube.com/watch?v=PPpZONGD9GE
どうしてここにたどり着いちゃったんだろう?これがパラダイスなんだろうか?みたいな感覚はデイヴィッドの歌詞によく登場しますね。
それと対になる”This must be the place”みたいなHome、自分の居場所みたいなことも。

A:アンビバレント、バーンの核心じゃないでしょうか。リンチともちょっと違うんですが幼児性と老成が今回もやわらかく混じりあっていて、でもメッセージの率直さ、まっすぐさの邪魔にはなっていない、そこが素敵ですね。

M:『ストップ・メイキング・センス』もですが、スーツというのはバーンの一つの表現になっていますね。今回のスーツは、色も形もよく、動きやすそうで、欲しいなと思ってしまいました。
『ストップ・メイキング・センス』の冒頭は、トップサイダーのデッキシューズのようなスニーカーでしたが、今回は裸足で、スーツと足元の対比というのは、確かに対峙的な構図にしているのかもしれません。

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★アメリカ、ユートピア/ディストピアの主題に関してはいかがですか?

T:バイデンになっても、トランプを支持したあれだけの層の想いは、リベラルなコレクトネスとは別に現存しているし、コロナ禍で人種問題もさらに加速度ついている様に思います。
まさにアメリカンユートピアとは対極なんだろうけれど、さっきも言ったようにそれでもReason to be cheerful を模索するそんなデイヴィッドへのシンパシーを”road to nowhere”で会場を練り歩く一団を観ながら感じました。

A:これは『トゥルー・ストーリー』の頃から一貫したテーマだとも思います。ただ、大きな政治みたいなものでなく、小さな足元からの呼びかけ、「ユートピアはあなたから始まる」とか「Us and You」ってスタンス、

M:これはやはりトランプの時代を皮肉るという意味合いが強いのではないかと感じました。映画で良かったのは、MCも歌詞も字幕付きで、メッセージを理解できた事です。
古い曲『イジンバラ』の意味合いも、30年近く聞いていますが、初めて理解出来ました。
ブロードウェイのショートしてこの公演をやるところに、劇場の中で体験するユートピアと、現実社会の隔世みたいな意味合いがあるのかなとも感じています。

★なんでもコロナと結びつけたくはないですが、また映画が撮られたのもコロナ以前のことですが、でも映画は世界の今をきっちり睨んでいるように思います。今、この映画を見ること、どのように受け止めましたか?

A:絶望的な今に絶望しないでいくことの強さを信じている、それが率直に伝わってきますね。希望なんていってしまうと陳腐ですが、シニカルでない呼びかけには応えたい、そう思えますね。

T:コロナが終息したら、ブロードウェイのショーは再開が予定されていましたが、それがなかなかかなわない中、映画化の意味も別のものになったように思います。

M:元々このライブには哲生君と一緒にNYに行く予定でしたが、個人的なタイミングが悪く、泣く泣くキャンセルをしました。
改めて映画を見て、ちょっと複雑な感情も湧きましたが、これは本当にわざわざ行く価値がある体験だったんだなと実感しました。
コロナの直前で、現時点ブロードウェイが最後に輝いた時期でもあったと思います。
この1年でコロナが出て、トランプも退場しました。
そしてこのようなライブパフォーマンスが現在も出来ない状況が続いています(回復の流れはありますが)。
今この世界を考える上でも、1年ちょっと前の記録であるこの映画を見る事は、重要ではないでしょうか。

劇場内緞帳

5月28日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、渋谷シネクイント他全国順次公開となります。
緊急事態宣言の状況で、公開は変わりますので、公式サイトでご確認ください。
監督:スパイク・リー 製作:デイヴィッド・バーン、スパイク・リー
出演ミュージシャン:デイヴィッド・バーン、ジャクリーン・アセヴェド、グスタヴォ・ディ・ダルヴァ、ダニエル・フリードマン、クリス・ジャルモ、ティム・ケイパー、テンダイ・クンバ、カール・マンスフィールド、マウロ・レフォスコ、ステファン・サンフアン、アンジー・スワン、ボビー・ウーテン・3世

2020年/アメリカ/英語/カラー/ビスタ/5.1ch/107分/原題:DAVID BYRNE`S AMERICAN UTOPIA/字幕監修:ピーター・バラカン
公式サイト
©2020 PM AU FILM, LLC AND RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC ALL RIGH

予告編

Cinema Review-3/ 広大なアメリカを描くアジアの新たな才能の発見『ノマドランド』

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

Cinema Review第3回は、ゴールデン・グローブ賞作品賞、監督賞を有色女性監督作品として、初めて受賞したクロエ・ジャオ監督の『ノマドランド』です。
既にアカデミー賞の候補にもなっており、ベネチア映画祭の金獅子賞も受賞している話題の作品です。
主演はコーエン兄弟の『ファーゴ』などに出演し、オスカーを2回受賞しているフランシス・マグドーマンド。彼女はプロデューサーも兼ねた存在です。
今回のレビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄、名古屋靖の3名で行いました。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

★名古屋靖
日本からアメリカに行き、好きなバンドのツアーを一つでも多く追いかけたい時、夜12時前にショウが終了、そのままクルマに乗り込んで次のライヴ会場の町まで何時間も徹夜でドライブしなければならない事がある。出来れば夜間移動は緊張するし退屈なんだけれど、移動中に迎える日の出の時間ほど感動的なご褒美はない。アメリカでしか味わえない見渡す限りの大空と大地が少しずつ赤く染まっていくその真っ直中にいると「ずいぶん遠くまで来たもんだ。今日も楽しい一日が始まる、アメリカすごいよ!」と、期待感と高揚感が最高潮にまで高まる。『ノマドランド』はそんな感動を追体験できる映画だ。とにかく映画館の大スクリーンに自分を埋没させることをお勧めしたい。

アメリカ人は意外と海外旅行経験者が少ない。「海外に出なくても国内でまだ見た事がない憧れの地がいっぱいあるから」だそうだ。僕らの海外旅行は、彼らにとっての遠方への国内旅行と同じスケール感だったりする。自分の言語とテリトリーである程度安心して冒険ができるアメリカは本当にでかくて羨ましい。劇中「あなたはどこへでも移動できるノマドね」という台詞のように、ノマドたちにとって部屋はクルマだけど庭はアメリカ全土という贅沢。そんなポジティブシンキングもアメリカ的で好感が持てる。以前アメリカの友人に「もう一度行くとしたらどこ行きたい?」と聞いたとき「アラスカ!」と即答だった。映画でもノマドたち憧れの地としてアラスカやハワイが出て来たのには笑った。

ただ、主人公ファーンがノマド生活を始めたきっかけは決して前向きな理由ではない。アメリカには民間企業1社だけで成り立つ町が数多く存在するが、そこが不採算事業に転じた瞬間から町自体が消滅する現実がある。長く暮らしていたホームタウンが消える不幸。自宅を始め友人・知人はもちろん、生活必需品や、電気・ガス・水道などのインフラ事業も撤退してしまう。日本ではちょっと考えづらい事だけれど、経済優先の資本主義アメリカではよくある事だそうだ。
そんな、夫とホームタウンを失った初老のファーンが、ノマドの先輩たちから様々なノウハウを享受され、慎ましくもたくましく成長していく姿は愛おしくとても美しい。そんな先輩の多くがリアルなノマド達だという事が最初は信じられなかった。素人とは思えないあまりにも自然な演技でその表情や発する言葉も滞りなく明快で分かりやすい。パンフレットのインタビューを読んでなるほどと思った。「私たちは他の人々の生活の中にただ存在していただけで、彼らの人生を混乱させようとはしていません。彼らの真の生活に入り込もうと努力しました。」この映画はフィクションとノンフィクションの境界を取っ払い、リアリティのその先へ新たなジャンルを確立している。

また自分の話になってしまうのだが、「じゃあ、またね。」とアメリカ人は別れ際に”さようなら”を言わない。絶対また再会できるのを信じているかのように。そしてこんなに広い国でこんなにたくさん人がいるのに、偶然にも再会出来た時には「また会えたね。」と言いハグをする。友情とか人とかが最も尊い財産だと実感できる瞬間だ。劇中でも何度かある再会シーンは静かだけれど好きだ。特にタバコをあげた若いヒッピーとのエピソードは自分にも似たような経験があって強く印象に残っている。ボブ・ウェルズの「この生き方が好きなのは、最後の”さようなら”がないんだ」という台詞にアメリカの魅力が詰まっているような気がする。この映画は一見すると社会問題を題材にした深刻なものに見えるかもしれないが、それを乗り越えた先にある自由や希望を描いたスケールの大きい作品になっている。

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★川野正雄

90年代クエンティン・タランティーノの排出をきっかけに、アメリカの若いフィルムメーカーのFrom Sundance to Cannes というシンデレラストーリーが生まれた。ロバート・レッドフォードが主宰するサンダンス映画祭で注目されたインディペンデントの監督が、カンヌ映画祭にピックアップされ、世界的な評価を得るという流れである。
今や王道とも言えるそのシンデレラストーリーから生まれた新しい才能が、『ノマドランド』の監督クロエ・ジャオである。
既にアカデミー賞候補、アジア系女性監督として初めてのゴールデングローブ賞監督賞受賞、ベネチア映画祭金獅子賞、トロント映画祭観客賞など、多くの栄誉を獲得しているが、久々にすごい監督に出会えたというのが、率直な感想である。
あまりに『ノマドランド』が素晴らしいので、前作の『ザ・ライダー』を、早速アマゾンプライムで鑑賞した(すぐ見れる便利な時代である)。
川口敦子さんのレビューに詳しいが、実際のロデオライダーを役者として起用した見事なカウボーイ映画であり、『ノマドランド』に勝るとも劣らない傑作だった。
何より驚いたのは、サム・ペキンパーの『ジュニアボナー』で描かれているような男の中の男の世界のロデオライダーを、中国系女性監督が見事に描き切っている事である。
この作品はいかにもロバート・レッドフォードが好みそうな現代の西部劇であり、クロエ・ジャオはサンダンス映画祭での上映で注目を集め、カンヌを始めとする各国の映画祭で上映された。
そして本作品の主演兼プロデューサーであるフランシス・マクドーマンドと、トロント映画祭で出会い、本作品は生まれるきっかけが出来たのである。
前置きが長くなったが、本題である『ノマドランド』について。
作品には『ザ・ライダー』のロデオライダーと同様に多くの実際のノマドが登場する。
先日ご紹介したロシア映画『DAU ナターシャ』でも同様の手法が取られていたが、プロの役者ではなく、実際の体現者が演じる事で、映画のリアリティは格段に増し、一つ一つの言葉の重みも違ってくる。

ノマドという言葉には、二つの意味があると思う。一つは劇中でマグドーマンド演じるファーンの台詞にもあるハウスレス。車上生活者として移動をしながら暮らすノマドライフ。
もう一つは非正規雇用者として、定職がなく、スポット的な業務を渡り歩くノマドワーク。
どちらがきっかけなのか、ノマドになる理由として、それぞれが心の奥底に過去の何らかの重い感情を抱えていることは、想像にかたくない。
やむおえずノマドになった人もいれば、ノマドを自らの意志で選択をしている人もいるだろう。

映画の冒頭は、クリスマス需要などで繁忙期のAmazonの倉庫シーンが描かれる。
日本でもAmazonの倉庫業務はハードと言われているが、原作でも過酷な職場として描かれているという。
しかしクロエ・ジャオは、Amazonを貴重な安定した仕事の場として描いている。
定住地を持たないノマドが、Amazonのサービスを利用する事はほとんど無いだろう。
しかし彼らにとって、繁忙期のAmazonのスポット的な労働は、貴重な仕事の場である。
この相反する関係性が、現代のノマドの社会的な位置付けを象徴しているように思った。

移住者生活をする事で、多くの出会い、別れ、そして再会が、映画では描かれる。
ファーンも60歳の設定であり、登場人物の多くが高齢者であり、自分ないしは近しい人との死とも対峙している。
出会いと別れを繰り返しながら、ファーンや多くのノマドが目指す終着点はどこなのか?
ファーンが大事にしたいものは、何なのか?
些細な出来事が、ファーンの心を細かく切り刻んでいきながら、この終わりのない旅は続いていく。
観客は自らの人生観との相対をしながら、ファーンと共に旅を続けていく。

出会いと別れは、シンプルだが、人生の根底に流れるテーマである。
『ノマドランド』は、ノマドのリアルな視点を通じて、このテーマが語られる。
その語り口は、散文的であり、文学的でもある。
あたかも文学作品を読んだような感触で、この映画は観客の心を揺さぶっていく。
中国生まれのクロエ・ジャオが、何故ここまで深くノマドやカウボーイを描けるのか。
ハリウッドのエンターティメントな演出ではなく、フランス映画のような芸術性を目指す演出でもない。
客観的な事実や、日常の風景を積み重ねる事で、観客の心の奥底にテーマを伝える演出は、並大抵な才能では到達できない領域である。
もしかしたら、彼女は現代最高の女性映画監督ではないのか。
プロフィールやインタビューを読んだだけでは、その謎は解決しないので、是非一度川口敦子さんにインタビューして欲しいと思う。
また今回この映画をオンライン試写で見たのだが、アメリカの厳しく美しい風土を感じる為に、再度映画館で見てみたいと思っている。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

★川口敦子

クロエ・ジャオ。長編監督第三作『ノマドランド』で詩とリアルとをひらりと両立させる時空を切り取ったそのやわらかで強かな才能を前に、じっくりと追いかけてみたいと心底、思った。

この春、ゴールデン・グローブ作品賞と監督賞に輝きオスカー最有力候補と注目を浴びる中、”アジア系“”中国出身”“女性監督″と、おなじみのおせっかいなレッテル付けとも無縁ではいられないジャオはしかし、マイノリティであることを成功への切り札のように利用するつもりはない、でももう手遅れかな?――などと、不自由を軽やかにジョークで躱す知的スタンスもあっけらかんと身につけていて、そんな気鋭の軌跡、輝く今への道のりもまた、もっと知りたいとさらなる興味を掻き立てられる。

1982年3月31日北京生まれのジャオは、改革開放期、中国最大規模の鉄鋼会社の重役を経て不動産開発、投資に携わった実業家の父と病院勤務の母の離婚を中学生の頃に体験。父の再婚で「コスビー・ショー」を翻案したような中国初のTVホームコメディ・シリーズや映画『四十不惑』『LOVERS』でも知られる女優ソン・タンタンが新たな母となった。
放任主義の両親の下、学校の成績はもひとつのままマンガ(『ノマドランド』の折、リサーチのため愛用したヴァンはAKIRAと命名)や物語を書くことに熱中、マイケル・ジャクソン、そしてウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』にも心奪われた。スタイリッシュなウォンの映画の底に震えている途上の時を生きる人の覚束なさ、それでも微かに浮上する希望の欠片、世界の果てを睨みながらきっとまたどこかで会えると信じる路上の魂に満ちていく仄明るさ、その愛おしさを思えば『ノマドランド』とのこれみよがしではないけれど見過ごし難い結び目を思わずにはいられなくなる。中国本土への帰還を前にトランジットの感触に裏打ちされた20世紀末香港の今を鮮やかに感覚させもするウォンの快作はまた、08年リーマン・ショック以来の貧困、分断に苛まれるアメリカの今を新種のノマドを通して掬うジャオの映画をしぶとく貫く歴史的現在への眼、思いとも確かに共振してみせる。

いっぽうで90年代、北京で西側、なかでもアメリカのポップカルチャーを享受して成長したという新世代ジャオには、同じ頃、同じ北京で映画を学んでいたはずの中国映画第六世代の雄ジャ・ジャンク―の作品を見たことがあるかとぜひ訊いてみたい(ついでにいえば公開待たれるロウ・イエのノワール『シャドウプレイ』のバブル期の都市の家族の姿を見ると、その闇と結びつけるつもりはないけれど、ロウの映画は見ている?とさらなる好奇心も募る)。『山河ノスタルジア』『帰れない二人』と20世紀末中国のバブル前後の人と国の歩みに向けたジャの真摯な眼差しを少し遅れて生まれたジャオがどう受け止めるかを知りたいから。それにも増して監督ジャが虚実の狭間に果敢に挑む時空を耕し、市井の人とプロフェッショナルな俳優とを分け隔てなくそこで息づかせてみせたこと――ネオレアリズモもブレッソンもキアロスタミもペドロ・コスタも同様の作法を究め,21世紀の映画の世界のそこここで無視し難く同様の試みが試みられているとはいうものの、同じ中国を出自とし(とレッテルづけしてしまうのだが)世界の映画の今を牽引しつつある先達の作法をジャオがどう見るのかはいかにもスリリングな問いとして迫ってくるように思えるから。
ついつい比較に走る悪い癖を反省しつつもこの際だからジャオの映画、とりわけ『ノマドランド』に射し込む先達の影をもう少しだけ追ってみたい。となるとまずはマジックアワーの文字通り魔法のような光の情感、暮れなずむ空に映える詩情で結ばれたテレンス・マリックのことが想起される。とりわけマリック最初期の『地獄の逃避行』は原題“Badlands”からしてジャオの映画が切り取る西部の荒野、そこに美しく浮上するロマンチシズムと静かに響きあう。あるいは移動する季節労働者を物語の核心に置いた『天国の日々』にしても、ヴァンを駆る移動的季節労働者として21世紀を生き延びる新たな種族を追うジャオの映画に遠いこだまを響かせる。ちなみにヨルゴス・ランティモス、カルロス・レイガダス、ミランダ・ジュライにココナダとクセ者アーティストをクライアントとして多く抱えるイレーネ・フェルドマンを共にマネージャーとしていることもあり、ジャオは『ノマドランド』に関する意見のメモをもらったりと謎に満ちた隠者的存在として知られる先達マリックとカジュアルに(?)コンタクトがとれているらしい。
もっとも映画狂的目配せの部分に関しては、ニューヨーク大学院映画科(教授のひとりがスパイク・リーだった)で知り合った英国出身の撮影監督(にして年下の恋人でもある)ジョシュア・ジェームズ・リチャーズの選択に依る部分が大ともいえそうだ。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

いくつかのインタビューでリチャーズは、家/定住の地に背を向けて遠ざかる男を扉のこちら側/家/定住の地からとらえたジョン・フォード『捜索者』の名高いエンディングを『ノマドランド』の終幕で引いたと明かしている。ジャオの長編第二作『ザ・ライダー』のヴァラエティ紙による上映会後のQA(2018年4月)で、自分にはあまりなじみのなかったジャンル、西部劇を参照するようにとリチャーズに勧められたとジャオが首をすくめつつ告白する様が動画サイトで確認できる。あるいは21世紀のノマド・コミュニティを精神的に束ねるボブ・ウェルズの集会(RTR)に立ち寄ったファーン/フランセス・マクド―マンドの逍遥のペースに関してはハル・アシュビー監督、ハスケル・ウェクスラー撮影『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』を参考にした、マクドーマンドの刈り込まれた短髪はカール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』へのオマージュともリチャーズは述懐している。『アンモナイトの目覚め』の監督フランシス・リーの長編デビュー作『ゴッズ・オウン・カントリー』の撮影も務めた彼はジャオのデビュー長編から『ノマドランド』までの3作すべてで撮影監督を務め、のみならずプロダクション・デザイナーとしても腕を振るっている。公私共にのパートナー、ジャオの世界へのリチャーズの貢献度はクレジットされた役割にとどまらぬものがあるとみていいだろう。無論、彼の最大の貢献は映像そのものの力に他ならない。地平線、沈む夕陽、上る朝陽、薔薇色に染まる雲、砂漠にぽっかりと立つ恐竜、青く澄んだ夜、荒海、雨、風、そしてまた荒野を切り裂き続く道。掬い取られた圧倒的に美しいアメリカの景観、それが絵葉書みたいなきれいさに堕すことなく迫ってくるのは、人の心、その感情の真実がぬかりなく景観を裏打ちしているから、息をのませる映像と厳然と拮抗してそこにあるからだ。そうしてみると撮影監督リチャーズと監督ジャオの共闘、その結晶ともいうべきふたりの映画を輝かせる無二の磁力の核心もまた人と世界の真実への旺盛な興味なのだと改めて気づく。

ジャオの軌跡に戻ってみよう。14歳。世界は嘘に満ちている、この欺瞞でいっぱいの閉ざされた場所から絶対に脱出できないのではーーと、不安を胸に囲っていたとフィルムメイカー誌とのインタビュー(2013年8月14日)でジャオは振り返っている。両親にも体制にも反抗の心を尖らせていた少女は英語もできないままに英国の寄宿学校行きのチャンスに飛びついた。さらに憧れのアメリカへ。LAでハイスクールを終えた彼女は夢見ていた世界とアメリカの現実とのギャップをかみしめ、政治を学ぼうとマサチューセッツ州にある女子大マウント・ホーリーオーク・カレッジへと進む。が、そこでの4年を過ごすうちに政治にも、それを学ぶことにも倦みはてて、バーテンダーをはじめとするいくつもの仕事に就いて、「様々な人々と出会い、それぞれの歴史を知り。映画でならそうした出会いや経験、みつけた興味をひとつにできるのでは」とニューヨーク大学院映画科入りを決めた。

在学中にものした最初期の短編をめぐる資料(IMDb Pro)をみると様々な人との出会いをベースにしたジャオの映画の作法の基本がすでにそこに見て取れる。報われない結婚生活を送る主婦が一人過ごすクリスマスの夜にPC修理にやってきた移民の労働者とそれぞれの孤独を分かち合う『The Atlas Mountains』(09)、中国近郊都市に暮らす14歳の少女が見合い結婚を強いられて自由への危険な道を選ぶ『Daughters』(10)、春節の日にセネガル人の恋人を同伴した中国人一家の息子が家族に波紋を投げかける『Benachin』(11)――。いずれも『ノマドランド』とも通じるマージナルな環境に置かれた人への眼差を感知させて面白い。とりわけ中国に帰って撮ったという『Daughters』についてジャオは、チャン・イーモウ『紅夢』を大いに模倣したと率直に明かしつつ、映画科の制作課題は俳優と仕事することだったが、舞踊学校に通う少女をみつけ、そこから映画を紡いだ、すでに少女がいる世界にフォーカスしていくこと、非俳優と組むことをして自身の映画作りの術を見出したと、ヴァルチャー誌で述懐している。「暗い部屋にこもって自分ひとりで登場人物を生み出す、創造する、そういうタイプの監督でも脚本家でもないんだと気づいたの」
NYU卒業制作として撮られた長編デビュー作『Songs My Brothers Taught Me』(15)、続く『ザ・ライダー』(17)と、ノース・ダコタのラコタ族パインリッジ先住民居留地で出会った人々と時間をかけ、その世界に入り込むことで手にした物語を、当の人々が生きるーーそんな作法を徹底させ、磨きをかけてジャオの映画はサンダンス、カンヌと世界に羽ばたいていく。とりわけ『ザ・ライダー』! 頭部の負傷でロデオを諦めざるを得なくなるカウボーイの挫折と再生という、いってしまえばありふれた物語の型をとりながら、映画はそこに息づく真正の怒り、悲しみ、慈しみ、繰り返せば人の心の真実を切り取る。主人公の青年の知的障害をもつ妹、彼の親友で事故で四肢麻痺の障害を背負ったロデオ界のヒーローと、ともすれば偽善的描写に陥りがちな”素材″と向き合い、あるがままの在り方をあるがままに掬い上げて対峙する。そんな快作の公正で清潔な眼差し(またまた比較の悪癖を持ち出せばガス・ヴァン・サント『ドント・ウォーリー』とも通じるそれ)にもう一度深く、肯かずにはいられなくなる。
現実に向けた真にフェアな眼と耳、まっすぐに見る力、聴く力。ジャオという監督を、その映画『ノマドランド』をとびきり忘れ難くするのも実はそうしたシンプルな(だから得難い)力ではないか。ジェシカ・ブルーダーのルポルタージュをもとに、映画は独自の物語を抽出する。(フランシス・マクドーマンド)/ファーンを見る人、聴く人として、原作/現実にいる人々の物語を辿りながら、彼女自身の一年の旅、奪われるままに移動生活へと乗り出したひとりが、家もなく法もなく、けれども何物にも縛られない自由と自分を見出して新たに旅立つまでを親密な息づかいと共に見つめ切る。彼女の旅が円を描き振り出しからまた新たに始まる。”セルクル・ルージュ″赤い環の中で、人はどこかでまためぐりあうーー臆面もなくそんな手前味噌な感懐を呟かせるほどに、冴えたジャオの物語りの力に見惚れながら映画の、人の、世界のその先を懐かしく想った。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

『ノマドランド』
2021年3月26日(金)より 全国公開中
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン