Cinema Discussion-29/ ボサノヴァの見果てぬ夢〜『ジョアン・ジルベルトを探して』

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクルルージュのシネマ・ディスカッション。
第29回は、先頃突然の訃報で世界中を悲しみに包んだボサノバ界の巨匠ジョアン・ジルベルトを追ったドキュメンタリー『ジョアン・ジルベルトを探して』です。
マーク・フィッシャーというドイツ人作家が、ジルベルトを追いかけた著書の発売1週間前に自殺をしてしまった。
監督のジョルジュ・ガシュは、マーク・フィッシャーの足跡を自らが追うことで、逃げ水のようなジョアン・ジルベルトの姿に迫っていきます。
ディスカッションメンバーは、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。
メンバー間には、ボサノヴァに関する熱量の違いなどもありますが、そこを含めてご一読ください。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★まずはみなさんのジョアン・ジルベルト体験をお話し下さい。

川口哲生(以下T):ジョアンのことになると正に「想いあふれて(シェガ・ヂ・サウダーヂ)」という感じになってしまいますので話が長くなったら失礼。笑
ボサノヴァ誕生年の1958年生まれのわたしのブラジリアンミュージック体験と置き直して考えると、一番初めの明確な体験は1968年のセルジオ・メンデス&ブラジル66です。きっと大阪万博に来日した時のライブだったと思うのですが、TVで見た記憶があり、小学生の自分にとってそれまで聞いたことのない地球の反対側の音楽として「マシュケナダ」とか転調とか、リズムとか、ポルトガル語の響きとか強烈なインパクトがあり耳に残ったのを覚えています。
その後のロック少年時期は距離を置きますが、それでも1970年代半ばのミカバンドの「マダマダ産婆」とか細野さんのトロピカル三部作みたいな、後のキッド・クレオールにもつながる南国エキゾチック嗜好みたいなものは自分の中に常にありました。
高校生後半に、吉祥寺のジャズバーに出入りしそこでかけられるリターン・トゥ・フォレバーでフローラ・プリムやアイアート・モレイラに出会い、そして勿論ゲッツ・ジルベルトにも出会いました。
後追いでなく自分のジャストのタイミングで聞いたジョアンは1977年の「AMAROSO」です。当時の東京のトミー・リプーマのプロデュース、アル・シュミットのミキシングのものは間違いないという気分の中、マイケル・フランクスの「スリーピング・ジプシー」や「AMAROSO」を聞いていました。このアルバムはジョビンのアレンジもやっているクラウス・オーガーマンがアレンジャーで参加していて、そのころそれぞれの曲のエンディングの分厚いストリングスに、逆光の黄金色の海岸、寄せては引く波、引き潮のあとの濡れた砂粒一つ一つが金色にきらきら輝くビジュアルイメージを本当にはっきり感じていたのを今でも思い出します。
これらのアルバムはこれらとして私も当時大のお気に入りだったわけですが、スタン・ゲッツとのレコーディング競演時に「こいつ、ぶりぶり吹きやがって」みたいな感じだったと聞いたことがあるし、この「AMAROSO」もオーガーマンについても「大足の牛野郎が僕のアルバムを潰した」といっているようにどちらもアメリカや世界市場に向けた音作りで彼を一躍有名にしたけれど、ジョアン自身は自分が生み出したボサノヴァの本質とは違うものとして「わかってねーなー」と満足していなかったのだろうと思います。この映画のボサノヴァを生むまでのジョアンの足取りを見ると、そうしたジョアンの心情も理解できるように思います。

1st アルバム アナログ盤

この時期高橋幸宏のサラヴァもあり、当然『男と女』のピエール・バルゥーやそこから深堀した、クローディーヌ・ロジェやゲーリー・マクファーランドといった後のサバービアみたいなものやシビル・シェパードとかのボサものまでも聞いていたかな。

1978年夏に敦子さんともどもニューヨークに始めていったけれど、そのときヴィレッジ・ヴァンガードでスタン・ゲッツ見てますが、ジョアンがいたような気がするんだけど夢を見ているようで不確か。。。この映画の雰囲気に通じますね。現実なのか、幻の痕跡なのか?笑

1988年にパリに住んだときは、ビデオ作家の中野裕之君の影響も受けて、FNACでボッサのCD買いまくりました。古い音源のものもこのころ多く聞いたと思います。デイヴィド・バーンの「ベレーザ・トロピカル」もこのあたりに出ていますね。

1990年のJAZZの時代になると、HIPHOPでもクインシーのSOUL BOSSAがサンプリングされたり、JAZZ FUNKの流れの中でもブラジル要素のものに光が当たったり、
ラテンやレゲエに続くものとして、またJAZZの語彙の一つとしてブラジリアンミュージックが注目されます。
この時期、踊れるJAZZ BOSSA的なもののCDコンピレーションがシリーズ化されたり、
あのELENCOのアナログリイシューがあったり、すごく面白い時期でした。
私も買えていなかったELENCOのアナログを買い増しました。笑

このELENCOのカバーのアーティストも映画に登場していましたが、「所有する価値のあるレコード」をコンセプトにしたこのレーベルは、白黒赤を使ったアルバムジャケットがすごくかっこいい。いわばブルーノートとかトーキングラウドとか統一感を持ったレーベルのグラフィックが世界観作っています。
そして2003年9月15日、パッシフィコ横浜でジョアンの日本公演を確かに(笑)観ています。
出てきた瞬間から、観客全員が神を見るような感じで、拍手と静寂の中での演奏が、繰り返しながら進みました。途中で寝入ってしまったかのようにステージ上で動くなったジョアンを誰もとがめるでもなく、ただやさしく待つそんなコンサートでした。
中原仁さんが当時のコンサートのパンフレットに書いているように「ボサノヴァの曲、ボサノヴァという音楽は存在しない。(中略)ジョアン・ジルベルトがその声とギターを通じてたった一人で生み出した表現が、創造に向かうジョアンの姿勢が、ひいてはジョアンその人がボサノヴァであるということだ。」ということを心から感じました。

初来日公演パンフレット

川口敦子(以下A):あくまで受動的、主には哲生さん経由で、隣から聞こえてきて、いいなあとそういうレベルの体験です。部屋に確か”Amoroso “のジャケットが飾ってありましたよね。テープを作ってもらったと思うのですがそれを車でどこかに行く時よく聞いていた。80年代の始めの頃のことでしょうか。今回のために、参考で送ってもらったリンクにある曲を聞くとああ、あれあれねと聞けばすごく懐かしく思い出し、どれもいいなあと思います。ニューヨークでスタン・ゲッツと出てきたというのは夢のまた夢のような朦朧の記憶です。チキンのディナーと共に? マンハッタンのどのあたりでしたか。ヴィレッジ・ヴァンガードだったのね。あの78年の夏は私としては画期的に濃いコンサート続々で、いい夏でしたね。

川野正雄(以下M):
ゲッツ/ジルベルトのアルバムは持っています。後ライブ盤CDを持っていたのですが、タイトルがわからない状況です。「イパネマの娘」とか、「黒いオルフェ」とか、一般的な曲はもちろんわかりますが、深追いしたことはありません。
どちらかというと、元妻のアストラッド・ジルベルトの方がよく聞いていました。
音だけあればいいアートストと、周辺を掘っていくアーチストがいますが、自分の中でジルベルトは前者の存在でした。
ジョアン・ジルベルトは、アストラッドに比べると、とっつきにくいのと、やや単調なので、あまり入り込めなかったのだと思います。

名古屋靖(以下N):まだ10代の頃なので、初めてレコードを聴いた時の記憶は定かではありません。
当時ボサノヴァというジャンルに強い興味があったわけでもなく、70年代に多くのJAZZミュージシャンがブラジルに向かっていたクロスオーバーな時代に、その辺の理解を深めるために聴いたのが最初だったかもしれません。その後本人にまつわるエピソードを聞いたり、たまたま目にしたジョアン・ジルベルトのギター教則本で、レコードを聴いただけでは解らない難解な奏法に痺れたりして、何度も聴き直すうちに徐々に深みにはまって行きました。
実体験できたのは2006年11月の国際フォーラムです。川口さんと同じ初来日2003年に弟が先に行っていて絶賛していたものの翌2004年の再来日も見逃してしまい、かなり気合を入れて観に行ったことを覚えています。
数々の噂と逸話の持ち主ですし年齢の事も加味すると、本当に来るのか?演るのか?本人がステージに登場するまで勝手にドキドキしていました。
うるさいので会場の空調を止める。明るいので非常口の灯りは消灯する等、もはや名物とも言える本人のリクエストは聞いていた通り普通に実施されていたし、来日公演ではいつも通り開演時間過ぎてからの「まだ会場に到着しておりません。」から「先ほど宿泊のホテルを出発しました」のアナウンスも観客の温かい拍手に包まれて、全てが特別扱いの別格感でいっぱいでした。
ヨレヨレなスーツで現れた神様は予想以上に可愛いおじいちゃんでしたが、放つオーラは半端なくついに本当のボサノヴァを体験できることに静かに興奮していたのを思い出します。しかし正直言うと、始まって小一時間過ぎた頃には定期的に襲ってくる睡魔との戦いが、まるで禅寺で修行しているかのような状態だったのも事実です。。。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★その体験から抱いていたジルベルト像、あるいは彼の音楽の魅力はこの映画を見た後で変化しましたか?

N:いい意味で変わりませんでした。映画を観る前から変わり者で難しい人なのは認知していました。そんな本人のミステリアスで謎多き点が、その他ミュージシャンが奏でるただお洒落なボサノヴァとの差で、聴き手の勝手な妄想なのかもしれませんが、容易には手の届かない理解不能で、深い沼のような音楽だと今でも思っています。

A:音楽としてはBGM以上に掘りさげた態度で臨んだことがなかったので、映画で彼と彼の音楽を命をかけて探究したマーク・フィッシャーはじめ、魔力のように惹きつけられた人々を知って、正直いうとかなり驚きました。無責任にいってしまうと心地よさとか軽やかさとか、耳に吹き抜ける風みたいな音楽としていいなと思っていたので、映画を見て、その先にある世界に初めて目を向ける準備ができた、そんな感じです。

M:ジルベルト本人に興味を抱いた事がなかったので、知らないことばかりでした。亡くなった事との因果関係含めて、初めて彼の人生を知りました。
ここまで謎が多くて、変人だという事も知りませんでした。
音楽に関しては、多少聞いていましたが、非常に新鮮な気持ちで、作品を見ることが出来ました。

T:二番目の奥さんのミウシャがジョアンについて、インタビューで「ジョアンは本当に特別な人でどうやって定義しようとも言葉足らずになってします。相手によっては相反する印象を与える人なので、本当に難しいわね。」と言っているけれどこの映画でもみんな彼を一つに焦点を結んだ像として捉え切れていないようにも感じられました。
彼のミステリアスさや数々の変人伝説は聞いていてけれど、そのどれもが彼であり
それを反映する彼の音楽は、大量消費されている「耳優しいおしゃれな音楽」に貶められない魅力に満ちていることを再確認しました。

★08年8月26日リオ・デ・ジャネイロで催されたボサノヴァ誕生50年記念コンサートを最後に公の場に現われなかったというジルベルトの謎については前から興味をもっていましたか?

T:そのことについてはあまり意識していませんでしたし、興味を持っていたとはいえません。もはや「パジャマの神様」状態が続いていましたから。

M:全くその事実を知りませんでした。生きているかどうかも、正直死去のニュースを見て、知った次第です。

A:J・D・サリンジャーとかテレンス・マリックとか謎に満ちた存在についてのミーハー的興味はある方だと自認してますが、ジルベルトの謎は初めて知りました笑

N:なぜ公の場に現れなかったのか?その理由について興味はありました。ただ、予定されていた2008年の来日も中止になりましたし、体力や歌、演奏に自信がなくなっていたとしたら、完璧主義者としてはそんな妥協した姿を晒したくはなかったんじゃないかと思います。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★印象に残るコメント、証言者は?

A: 前妻ミウシャのコメントというより、彼女自身は隠遁中のジルベルトとコンタクトをとれる、電話口にも呼び出している、なのにこちらにひっぱり出しはしないというスタンスが面白いなあと感じましたね。あと、マークが訪ねたというレコードショップの主人、これは私の愛聴盤とかいって確か貸出拒否するんでしたか(すみません、見たのがちょっと前なので要確認ですが)、そのマイペースさにしても、ミウシャのスタンスにしても、裏返すとそれを許す、強要しない“探偵役”ガショの人柄の反映なのかなあと思ったりもしました。

N:ジョアン・ドナートとマルコス・ヴァーリが登場したのは嬉しい驚きでした。
二人ともまだ現役で、特にマルコス・ヴァーリは先月新譜をリリースしたばかりで近々来日もします。ジョアン・ドナートはバンドメンバーとして、マルコス・ヴァーリは憧れの人としてジョアン・ジルベルトを語っていましたが、二人ともボサノヴァ・ブームが去った後はレアグルーヴやAOR的な要素を盛り込んだMPBで名を挙げた人です。
マルコス・ヴァーリのHIT曲を電話口で称賛した話は、ジョアン・ジルベルトも人を褒めるのか!と意外でした。
後は、本人が長らく暮らしたホテルの料理人とのエピソードは、まさにジョアン!といった感じで最高でした。

M:元奥さんのミュウシャは個性的ですね。
マルコス・ヴァーリは格好良かったです。
ジョアン・ドナートの話はリアリティがありました。
料理人のガリンシャの話も面白かったですし、ジルベルトのメニューも美味しそうでした。

T:私もマルコス・ヴァーリの電話で彼の歌を歌ったという話。2003年の来日パッンフレットの国安真奈さんの「ジョアンという名の奇跡」にはジョアンが40年代から50年代にかけてのブラジルコンポーザーの曲の莫大な記憶の宝庫で、ボサノヴァ専門書の著者ルイ・カルロスがLPにもCDにもなっていない何十年も聞くことのできなかったブラジルヴォーカルグループの78回転盤を発見したと電話でジョアンに話したら、タイトルを挙げただけで彼はその曲を電話先で歌い、アレンジの細かいところまで再現したようです。電話先で歌うんですね。やっぱり笑

★映画はジルベルトの謎を追うふたり、ドイツ人ジャーナリストでジルベルトを求めての顛末を記した「Ho-ba-la-lá: À Procura de João Gilberto」を上梓し自殺したマーク・フィッシャーと、この映画を監督したジョルジュ・ガショ(フランス生まれ、スイスと二重国籍をもつ)による二重の探偵物語といえるような構造をもっていますが、その点についてはいかがですか?

T:その二重構造が見えないゴールを目指すこの映画をとてもスリリングに面白いものにしていたと思います。探す痕跡はジョアンのものなのか本の作者マークのものなのか?はたまた探しているのはマークなのかジョルジュなのか?マークの言葉なのか、ジョルジュのものなのか?
離れそして交わりしながら進む感じがとてもおもしろかった。

M:ミステリーのようで、面白いですね。ジルベルトに魅了される理由とか、そういう部分含めて、より深い理解が出来ました。
マークはドイツ人で、何故ここまでジルベルトに惹かれたのか。そこが特に気になりました。
マークに関しては、マーク自身の事も、もっと知りたくなりました。彼がどんな想いで帰国し、なぜその後死んでしまったのか。

N:ボサノヴァのように気持ち良く漂うような映像なので、スペクタクルな点では大きな抑揚はありませんが、ジョアン・ジルベルトを執拗に追いかけた2人の心情の浮き沈みや重なり具合がさながらサスペンス映画を見ているようで最後まで飽きさせませんでした。

A:この構造が私には映画の一番の面白さとして迫ってきました。フィルムノワールの王道というか、探すべき相手をみつけられずに自分をみつける、あるいは退路を断たれ迷宮、迷路に閉じ込められてしまう、その解決のなさが魅力というのかな。謎の答えそのものよりも探究自体が物語となっていくんですよね。ドイツ語でマーク役のナレーションが入る、それがなんとなくヴェンダースの映画みたいな気分にさせる所もありました。
ジルベルト以上にマーク・フィッシャーという人についての映画ともなっていますが、彼が書いた「Ho-ba-la-lá: À Procura de João Gilberto」、英語版がないかと探したんですがまだ出ていないようで、読んでみたいですね。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★もともと42のシーンと会話のあるフィクションとして脚本を書いたと監督はプレスのインタビューで述懐しています。きっちり区分けするのは難しいと思いますがドキュメンタリーとフィクション、どちら寄りの一作としてご覧になりましたか?

N:ドキュメンタリーは、ある程度冷静な視線と両方向の資料分析が出来て納得の内容になる分、感情移入しづらいところもあります。
この映画は自分が3番目の主人公になったようで、どんな結末を迎えられるのか不安と期待で相当気持ちが入りました。その点ではフィクションに近いのかもしれません。

A:前の答えと重なりますが私は答えのない探偵映画としてかなり愉しみました。ただインタビューで監督が「予期していなかった様々なドキュメンタリーの状況によって豊かなものになりました」とフィクションとして準備したとのコメントの後に続けているのはなるほどと思えるんですね。

M:42のシーンというのは、マークの軌跡を42の場面に切り分けて構成したのだと思いますが、そこを実証していくという正に探偵的な手法だと思います。
結果的には事実の積み重ねですから、ドキュメンタリーというカテゴリーにはなりますが、演出されたドキュメンタリーと言って良いと思います。
意図を持って撮影していく手法は、フィンクションではなく、ドキュメンタリーとして必要だと思います。

T:私にはジョアン、そしてマークの足跡を追うドキュメンタリーよりの映画に感じられました。彼に関わる、ブラジル音楽のレジェンドたちのインタビューの積み上げがその間を強くさせていたと思います。

★これまでシネマ・ディスカッションでとりあげてきた人物をめぐるドキュメンタリーと比較してどのあたりに面白さを感じましたか?

M:取り上げた訳ではありませんが、アフリカでブレークした幻のシンガーを探す『シュガーマン 奇跡に愛された男』や、ファンが消息不明のスライ・ストーンを探す『スライ・ストーン』が似た作品と思いました。
特にスライ・ストーンの作品は、演出的な物足りなさは残りましたが、監督がスライを探すという構造は似ていますね。
これまでシネマ・ディスカションで扱った作品は、バイオグラフィーの要素が強かったりしますが、この作品はバイオの要素は低く、マークとジベルトの2重の軌跡を辿るロードームービー的な面白さを感じました。

T:いわゆるバイオピクチャー然としていないところ。先に行った二重構造かな。

A:今年紹介したサラ・ドライバーのバスキアの映画がニューヨーク ダウンタウンの一つの時代を切り取っていたように、ここにもブラジルの街路、そのルックとボサノヴァの響きの共鳴があるような気もしました。音楽的にきちんとわかってないのでおざなりな感想になってしまいますが。

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

★ポルトガル語でいう「サウダージ」、ドイツ語でいえば「憧れde Schunsucht」がマークの本と監督の映画に通底する探究の原動力と監督はプレスで記しています。そんな原動力についてはどんなふうに思われますか?

N:おそらく絶対に手に入らないと最初から分かっている何かを手に入れたいと願い恋い焦がれるのが「サウダージ」。
手に入るか入らないかは別として、その道のりにある苦難や小さな喜びの方が終着点より深く記憶に刻まれている事はよくありますね。
マーク・フィッシャーの結末はハッピーではないと思いますが、監督はこの映画を撮る事でそんなボサノヴァの深みを伝えてくれていると思います。

T:SAUDADEはブラジル音楽には根底に流れるテーマです。爆発的な感情の発露の瞬間でなく、持続される時間、継続される時間の流れの中の感情です。
ブラジル音楽のマイナー、メジャーへの転調の中に私は感情の揺らぎやSAUDADE的な時間軸を感じています。
叶わない想い、恋焦がれる想いが時間軸とともに増して行く、そんな感覚が映画の中にも流れているように感じました。

M:実は全く「サウダージ」という言葉に馴染みがなく、コメントがしにくいのですが…。
日本人の影響のエピソードが映画にも出てきますが、監督のガショやマークなど欧米人からしたら、何故極東の日本まで何回もジルベルトが訪れ、日本人に愛されていたのか、よくわからなかったのではないかと思いました。
逆にライブをやらないジルベルトが、2回も日本に来てくれたのは、嬉しい事です。
川口君や名古屋君がいつになく熱く語るのを見ると、ジルべルトの日本でのサウダージというものが、確実に深くあるんだなと思いました。

A:決して叶わぬものを求め続ける気持というと、いっぽうに「白鯨」の船長とか「老人と海」とかアメリカ文学の中にある狂気をはらんだ執着というのもあると思うのですが、そういう求心性、あるいは急進性と異なるたゆたい、微睡の中で断ち切れない思いの心地よさと悲しさみたいな感触の、その力みたいなものを思い浮かべ、この映画のあてどなさというか、歩調の緩慢さのようなものを重ねて見ました。

★映画を通して、それぞれが何を見つけたのでしょうか?

N:永遠に手の届かない憧れだと再確認はできたけれど、何も見つけられないまま。
先日の逝去のニュースは88歳という高齢なので「ついにその時が、、」という気持ちもありましたが、ちょうどこの映画を見終わったタイミングでもあり、喪失感は大きいなものでした。結局いろいろな事は分からないまま、多くの謎を残してこの世からすっと消えてしまった感じです。
これからもジョアン・ジルベルトの事を考えながら彼の歌を聴き、底なしの沼にズブズブとのめり込んでいく事でしょう。

M:ともかく音でしか知らないアーチストでしたので、そのミステリアスな生き方を知っただけでも価値は大きいです。
また亡くなった事で、よりこの映画の中での探求の意味合いが大きくなったと思います。
個人的にはジョアン・ジルベルトという巨人の姿を垣間見れたのが、大きかったですし、今まであまり関心のなかった人としての興味も湧いてきました。
ストイックな姿勢を貫くアーチストは、音楽界にも映画界にも少なからずいますが、ここまで徹底した生き方をしている人は、自分の知っている限り、他にはいません。

T:恋焦がれて手に入れたいものが手に入るとは限らないが、それが「ジョアンを通じてマークの中に自分自身を見出した」そういう体験であったり、QUEST ITSELF IS REWARDと言う感じかな。

A:QUEST ITSELF IS REWARD――ナイスですね!

©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018

『ジョアン・ジルベルトを探して』
©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018
配給:ミモザフィルムズ
8月24日(土)より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開中。

『傷だらけの天使』幻の映画版

傷だらけの天使5

2019年7月26日は、本来なら萩原健一さん69歳の誕生日だったが、ご存知のように3月に急逝され、月命日4ヶ月と変わってしまった。
ジストという聞きなれない病で、萩原さんは旅立たれたが、映像であり音楽であり素晴らしい数々の作品は、永遠に生き続けるだろう。
私はある時期萩原さんの仕事を少し手伝わせて頂いたので、萩原さんが熱望しながらも実現しなかった『傷だらけの天使』映画版について、追悼の気持ちを込めて、簡単に紹介させて頂きます。

10年以上前になるが、その頃萩原さんは、つまらない事件の影響による謹慎がようやく解けて、復活の策を練っていた。その復活の起死回生策が、萩原さんの代表作品である『傷だらけの天使』映画版だった。
私が関わる前にも、著名な脚本家やプロデューサーがこの作品の実現に向けて、企画を練り、座組み作りに奔走していたが、難航していた。
映画化を望む声は多数あれども、現実の作品として立ち上がる段階までには到らなかったのだ。
作家の矢作俊彦さんは、『傷だらけの天使 リターンズ-魔都に天使のハンマーを-』という小説まで書き、ラブコールを送って頂いたが、これは映画の企画とは別の話である。
矢作さん以外にも、長年お付き合いがある瀬戸内寂聴さんは、誌面対談などにご協力頂き、復帰への後押しをして頂いていた。

「傷だらけの天使 リターンズ」

そのように応援団が動いても、企画が実現に向かわなかった理由は幾つかある。
そのうちの大きな理由の一つは、これが役者発信の企画であった事である。
大手事務所の所属でない限り、役者が個人事務所から企画を発信して、映画化を実現させるのはかなりハードルが高い。
映画は制作費だけではなく、開発にもそれなりの費用がかかる。脚本を作るだけでも、相応の費用がかかるが、当時のほとんど仕事をしていない萩原さんの状況では、開発費の捻出は至難の業だった。
また1997年に制作された豊川悦二さん主演映画版『傷だらけの天使』が、期待されながらも興行的に不振だった影響も大きい。
この作品は丸山昇一さん脚本、阪本順治さん監督、音楽井上堯之さんという強力な布陣で、決して悪い作品ではなかったが、やはり別物。
スクリーンから、オリジナル版の持っているカタルシスはあまり感じられず、従来の傷天ファンも、当時人気絶頂だった豊川さんのファンも、劇場に呼び込む事が出来なかった。
私も都心の劇場に足を運んだが、10人程度しか観客がおらず、驚いた記憶が残っている。

そのような状況で、登場したのが、脚本家故市川森一さんだった。
2007年2月、『傷だらけの天使』で綾部社長を演じた岸田今日子さんのお別れ会が、有楽町の東京会館で開催された。
その会の前に、萩原さんと市川さんが集まり、構想の打ち合わせをした。市川さんはオリジナル『傷だらけの天使』の脚本家で、キャラクターの生みの親と言うべき存在である。
この時点で市川さんは、ボランティアとして参加されており、プロットや脚本がある訳ではなく、あくまでも口頭での構想をお話し頂いた。
綾部社長の追悼の場で、この話し合いは、何かの縁を感じ、成功を確信したが、それは甘い考えであった。
以下その際伺った構想のあらましである。

THANK YOU MY DEAR FRIEND

衝撃の最終回から、約30年後。
木暮修は、乾亨の死後、表立って活動する事なくひっそりと暮らしていた。
しかし一人息子の健太は、成人し自立。しっかりとした人間として成長していた。
一方亡くなった亨には、弟がいた。その弟も成長し、闇社会の大物となっていた。
亨の弟は、修が亡くなった亨を夢の島に葬った事を、死体遺棄だと考えていた。
そして亨の死因にも疑問を持ち、修を恨み、復讐の機会を図っていた。
その状況で、まず健太が亨の弟に発見され、健太は悲しい事に命を落としてしまう。
最愛の息子健太を失った修は、大きな怒りと悲しみの中、亨の弟との対決に向かっていく。

傷だらけの天使4

市川さんのお話では、『傷だらけの天使』は、負けの物語だとの事だった。
常に修は何かに負け、最後には悲しみや怒りが残る。
この映画版の構想も、正に真骨頂というべき負けの物語であり、オリジナル版のカタルシスを、強く感じる事が出来た。

この企画では、亨の弟役は水谷豊さんである。
その為には、まず水谷豊さんに賛同して頂かなくてはいけない。
週刊誌やテレビで報じられた事もあったが、この後萩原さんと水谷さんは、それこそ約30年ぶりに再会をする。
場所は代々木公園にある萩原さん行きつけのレストラン。夕方の時間を貸し切りにして、マネージャーも入れず二人きりでの修と亨の再会である。
店が奥まった場所にある為、水谷さんが見つけられず、萩原さんが迎えに行き、修と亨は再会した。
その再会はうまくいったと聞いている。
そして監督候補の人選も進んでいた。
しかしこの企画は、永遠に実現する事がなく、終わってしまった。
今や『相棒』シリーズで大スターで、出演作品も厳選している水谷さんサイドは、萩原さんへの想いは別にして、この企画に参加する難しさもあったのではないかと推察している。

ロケ場所であった代々木会館は、長年権利問題があったが、正式に取り壊しが始まった。
奇しくも新海誠監督の『天気の子』でも重要なロケーションで登場する為、聖地巡礼する人が後を絶たないという。
萩原さん自身は、映画版打ち合わせで、「あそこには魔物が棲んでいるから、絶対に使ってはダメだ」と、言明されていた。

市川森一さんも2011年に早すぎる逝去をされた。
市川さんは萩原さんの為に、ブルートレインを舞台した企画『夜行列車』を作られ、これはプロットまで書かれていた。
フジテレビで放映された萩原さんのドキュメンタリー『ショーケンという孤独』では、萩原さんと市川さんがロケハンをしている場面が最後に映っているが、これも市川さんのご逝去と共に、幻と消えた企画となってしまった。
結局萩原さんが出演した映画は、セルクルルージュでもお馴染み中野裕之監督の『TAJOMARU』が最後となってしまった。
この作品の脚本も市川森一さんである。
萩原さんの足利義政役は素晴らしい存在感だったが、萩原さんとしては、これはスクリーン復帰への序走だった筈だ。

瀬戸内寂聴さんと。

萩原さんの著書『ショーケン最終章』には、白川道氏の小説『終着駅』映画化の記述がある。
元マネージャーとの金銭トラブルにつながったエピソードとして書かれているが、私の手元にはある著名監督によって書かれたこの作品の脚本が残っている。
原作も読破したが、幾つかあった企画の中では、『傷だらけの天使』を別にしたら、最も萩原さんに相応しい作品であった。
監督による序文には、ジャン・ギャバンやアラン・ドロンが出演していたフレンチ・フィルムノワールのような作品にしたいという想いが込められている。
あまり過去を振り返るのがお好きではない萩原さんにとっては、この作品の方がやりたい作品だったのかもしれない。
私は2007~8年位に、この作品開発に関わったが、著書を読むと2011年までこの企画は続いていたので、少し驚いた。
この脚本自体は萩原さんへの当て書きではないが、『傷だらけの天使』や『終着駅』などの映画主演が実現していたら、萩原健一という稀有の存在感を持った俳優のフィルモグラフィーも大きく変わった筈であり、日本映画の軌跡に、更なる刻印を刻む事が出来たであろう。
個人的な反省と後悔含めて、大変残念である。
改めて謹んで萩原さんのご冥福をお祈り致します。

八つ墓村

人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)