『アメリカン・ユートピア』デイヴィッド・バーン×スパイク・リー=?/Cinema Discussion-35

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新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。第35回は、元トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンが、2019年秋から2020年2月までニューヨークブロードウェイのショーとして開催したAMERICAN UTOPIAのライブドキュメンタリー映画『アメリカン・ユートピア』です。
監督はスパイク・リーで、80年代ニューヨークを代表する音楽と映画のトップスターがガッチリ組んだ作品で、単なるライブ映画という枠を超えた作品になっています。
セルクルルージュのメンバーは、皆でトーキングヘッズの1982年新宿厚生年金会館のライブは見に行っており、川口哲生は、2020年1月ニューヨークのハドソンシアターで、実際にAMNERICAN UTOPIAの公演を見ています。
今回は現地での感想も含めて、川口哲生、名古屋靖、川野 正雄と、ナヴィゲーター役の映画評論家川口敦子の4名で、お届けします。

HUDSON THEATER

★まず、哲生くんへの質問です。昨年、コロナ禍のぎりぎり直前にブロードウェイの舞台を見ることができたんですよね。その折のこと、舞台について感想ともども聞かせてください。

・川口哲生(以下T):私がこのショーを知ったのは、2019年11月21日、渋谷PARCOのリニューアルオープンで三宅一生さんのパリのショーを撮ったドキュメンタリー映画の上映があり、そこで一緒になった中野監督からでした。お互いデイヴィッド・バーンの大ファンであり、1980年代初頭に一緒にバリに行ったときに毎晩“once in a lifetime”のへんてこなダンスを真似しあった仲です。一気に話が盛り上がり翌2020年1月末の弾丸NYツアーとなりました。
具体的には1月25日ダブルヘッダーの初回、5時からのショーをW44th STのHUDSON THEATERで観ました。
ショーはそぎ落とされた潔さを感じるセッティングの中、照明のコントラストで場面展開を繋げていく構成が素晴らしく、一瞬も飽きることなく魅入ってしまいました
劇場の小ささも相まって、コンパクトなステージ全体を観る感じ、デイヴィッドの動きを中心として追うコンサート的な見方ではなく、群舞としての魅力をすごく感じました。
様々な人種、ジェンダーのミックスされたグループ全体の動きを水槽の魚の群れが泳ぐのを観る、そんなイメージを受けました。感銘を受けました。スパイク・リー監督がマーチングバンドの様だといっているのも、このグループの動きを観てだと思います。

★オフやオフオフでなくブロードウェイでの公演だった、それはデイヴィッド・バーンの軌跡からするとメジャーすぎるみたいな抵抗感はありませんでしたか? 
これはみなさんのご意見も伺ってみたいです。

T:まさにブロードウェイのど真ん中といったロケーションと1903年からの歴史を持つ由緒正しいシアターでの上演でした。389ドルの特別バーラウンジが利用できるオーケストラシートのチケットを取り、一時間前からウォーミングアップという感じでした。笑

コロナ禍前のニューヨークは平和で、今まで行ったどのタイミングよりも治安が良く、どこも居心地がいい感じでした。
今回このプロジェクトに貫かれていることは、トランプ政権を生ませたアメリカの分断、そしてトランプが新たにもたらした様々な問題を抱えながらも、それをただ糾弾するような“years ago,I am an angry young man(”nothing but flowers”) “でも、だれにも居心地の悪さを強いる”I am tense & nervous , and I can’t relax (“psycho killer”)”でも、そして“does anybody have any questions?”と投げかけるだけで足早に去っていく(”stop making sense”)でもない
reasons to be cheerfulを観客と一緒に実現しようとする大人な、というと安直ですが、マチュアなデイヴィッドの在り様に思えます。
その意味では、一緒に成長した観客側も含め、今回のブロードウェイなのではないでしょうか?インタヴューでも言っていますが、ドグマチックなステートメントでなく、あなたの今ブロードウェイで楽しんでいるこのショー、それを成立させているのは何なのか?という投げかけですね。

公演チケット

・名古屋靖(以下N):今回のブロードウェイ公演とその映画化について、2018年にリリースされたデイヴィッド・バーンのソロ・アルバム『AMERICAN UTOPIA』の話から始めなければならないかと思います。
今映画作品のタイトルと同名のソロ・アルバムは、デイヴィッド・バーン自身がどうしても伝えたかったことを彼独自のスタイルでシニカルに、しかし確実に(2018時点での)今、出来るだけ多くの人々に届くよう作られたメッセージ性の高い意欲作でした。彼が言いたかったのは、当時トランプ政権下のアメリカについてで、国民の分断、移民問題、銃規制、レイシズムなど現在もなお続いている様々な不条理や絶望が渦巻くアメリカン・ユートピアという名のデストピアについて訴えることでした。
2018年3月9日に全米で発売されたこのアルバムは、1週間後「Billboard top 200」で初登場3位を獲得。これはTalking heads解散後、デイヴィッド・バーンの様々なコラボ作品も含めた彼の長いキャリアの中で最高位の大ヒットとなりました。このアルバムが様々な疑問や不安を抱えたアメリカの人々に、求められ、支持された作品になったことで、彼のメッセージはアメリカの良心を代表する言葉になったんだと思います。
若かりし頃、小汚いCBGBでギグを繰り返していた痩せて捻くれた美大生ではなく、平和で優しい心を持った大衆の代弁者としてブロードウェイのど真ん中で声を上げるのは当然の成り行きじゃないでしょうか。またそのステージを映画化することは、公演を観に来れない世界の人々に向けて自身のメッセージをさらにもう一段スプレッドする事ができると考えたのでしょう。

・川口敦子(以下A):私にとってのデイヴィッド・バーンというのはトーキング・ヘッズ時代、そして80年代半ば『ストップ・メイキング・センス』と自ら監督した『トゥルー・ストーリー』を通じての存在で、それ以後は殆どフォローしていなかったんだなあと今回改めて振り返ってみて気づいた、覚醒した(笑) すごく近くの人として追いかけていたつもりが、いつの間にか遠くなっていたんだなあとそんな感じです。
まあ、哲生くんに教えてもらった”reason to be cheerful”のサイト、あるいはバイク日記は読んでいますが、アップデイトはできてなかった、正直そう思いました。
なにしろいまだにバーンといってぱっと浮かんでくるのは78年かな、LAにいた頃、サンセットのウィスキアだったかロキシーだったかで見た、まさにアートスクールの学生そのままみたいなトーキング・ヘッズのギグの生硬な尖り方、まだショートヘアだったティナの少年みたいな存在感とバーンの古着の格子(そういえばこの時もやっぱりグレー系だったような)のたらんとしたシャツ、で、結局、一緒に行った哲生くんの影響下での体験だったなあと思うのですが、ともかく同時代的に発生していた映画界のNYインディとも通じる70年代末的アンダーグラウンド、前衛、非メジャーのイメージで捉えてきたんですね。
その意味では『アメリカン・ユートピア』でダダ、超意味言語にふれているのも面白かった。前衛演出家ロバート・ウィルソンと組んだりもしていますよね。
『ストップ・メイキング・センス』のリマスター版が出た99年、サンフランシスコの映画祭でトーキング・ヘッズのメンバー4人が久々に揃って記者会見した折のQAからはそれぞれの道を行っているとはいえ、インディな姿勢というのが背骨として相変わらず共有されていていいなあと、うれしかったですね。で、そこでバーンがデビュー当時、外見はすごく保守的だった、それが逆に因襲破壊的な態度を表明する術だったと語っているのも面白い。すみません、だらだらになってしまいましたが、要は今回のブロードウェイの選択もそういう姿勢なのかなとまずは思っていたんです。だけど、『アメリカン・ユートピア』を見ているとそんなふうな身構えはもう超えたという感触、みなさんが仰る成熟ゆえの衒いなさこそを受け止めるべきかなと思い直したりしています。

・川野正雄(以下M):NYのニューウェーブ的なバンドとしてGBGBからスタートしたデイヴィッド・バーンが、60代になりブロードウェイで連続公演するというのは、素晴らしいストーリーですし、バーンらしいなと思いました。
どのミュージシャンも、年代と共に立つステージは変わってくると思います。往々にしてそれは定番化や退化を伴っていますが、バーンはむしろ進化して、これまでの軌跡の集大成的なパフォーマンスに昇華させているのは、さすがだなと感じました。
デイヴィッド・バーンに関しては、トーキング・ヘッズ解散以降、個人的に急激に関心が薄れていき、しばらく全く聞いていませんでした。
バーンがラテンのセレクトアルバム出したころから、バーンの迷走とそれを受け止め、エッジの効かせ方が、少し時代遅れに感じてしまっていたのです。
改めて意識したのは、2010年香港にいた時に、ファットボーイスリムが来て、TIME OUTのインタビューで、影響を受けたアーチストとしてデイヴィッド・バーンをあげていたので、再注目をしました。
その後名古屋君から2009年の来日ステージの話を聞いたりして、再度ブライアン・イーノとのコラボアルバムを聞き出し、改めてそのセンスというか、音楽的な魅力に引き込まれていました。

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★観客層はどんな感じでしたか? 反応は?

T:観客はおおむね私と同年代60前後の男女がやはり多いのでは?おしゃれな印象はないです。笑
映画の中でも、観客とのやり取りがありますが、一体になってステージを作っている感はすごくありました。そぎ落として、防御するものがないミュージシャンが観客とともに作るステージ、インタヴューでスタンダップコメディの観客に対する防御のなさを、ミュージカルショーとしてやってみたかったといっていますが、その感じです。
”Burning down the house“では総立ちだったと思います。
私の後ろの席には小学生ぐらいの男の子を連れた人もいて、“Toe Jam”とか笑いながら踊っていて、しっかり受け継がれていいていていいなぁ、とうれしく思いました。
大統領選前のNY、選挙に関する発言もショーの中でも多いですが、ここにいる人でトランプに投票する人はいないだろうなって感じ。

★映画版でも観客の存在が意識的に切り取られていますが、舞台にはない映画の面白さ、みなさんはどのあたりにあると感じましたか?

T:スパイク・リー監督がマルチアングルで撮っているし。ソロパートでのクローズアップもあるので、アーティストそれぞれのジェンダーや人種や移民というテーマとの関係性をより強烈に意識した様に思います。ステージではデイヴィッドに近いクリス・ギアーモの存在感が強烈でしたが、映画では彼だけでないそれぞれの表情まで鮮明に伝わりますよね。

N:実際に現場に行かれた川口さんがおっしゃる通り、映画を観る限り写っている観客はみんなおしゃれじゃない。ニューヨークに観に行けるくらいだから貧困層では無いにしろ、リッチな雰囲気はないちょっとダサい感じ。でもそれが今のアメリカの普通の人々に見えて共感できました。もちろんセレブな客層も会場にいたはずですが映さない。この映画のテーマを伝えるためには、その辺も意識して撮影していたのかもしれません。

M:現場体験した哲生君の印象と同じで、お洒落ではないですね(笑)。
チケットも、ロックコンサートと考えると安くはないですし、バーンのファンって、アメリカではこんな感じなんだな~と思って見ました。
マルチアングルで、コンサートをしっかりと理解してスパイク・リーが撮影していると思いました。
メッセージも字幕できちんと伝わり、映画ならではの理解ができました。

A:まずはこのショウそのものでバーンが劇場という時空を観客席を含めて意識しているような所が興味深かったですね。観客席を巻き込んでのトークと照明、それが”物語″(メッセージといってもいいですが)を共有して進めていこうという覚悟みたいなものを感じさせる。『ストップ・メイキング・センス』のステージは、観客もつられてダンスダンスという部分はあるとしても、直方体の舞台の時空の中でキンと完結しているように見える。その点、ショウとしての構成、設計の綿密さを思わせる『アメリカン・ユートピア』が、むしろ開かれた時空としてあろうとしているのが面白いですよね。あるいはこの映画のバーンの在り方がそういうオープンさを意識的に打ち出し、見る側にも積極的な印象として伝わってくるのかもしれませんが。
映画として俯瞰の視点、はたまた裸足のクロースアップ、顔のそれとマルチな視点、眼差しを導入して舞台にはない面白味を追及しながら、でも案外、ドキュメンタリー的に観客との対話を掬い取った部分のはみ出し方がより生き生きと迫ってきてバズビー・バークレーの人工的な俯瞰の幾何学模様を思わせる面白さもあるけれど、それよりはフレデリック・ワイズマンのアメリカなマーチングバンドの場面、その生気と共振してしまうような点の魅力についても考えてみたいなと思いました。

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★デイヴィッド・バーンと監督スパイク・リーの顔合わせに関しては?

A:ジャームッシュとはPVで組んだことがあるみたいですが、その方がすんなりくる気がしますね。スパイク・リーとは意外でしたが、でも、映画のメッセージ性を思うとやはりここにはリーが欲しかったということでしょうか。哲生くんが送ってくれた動画サイトの対談ではリーの初期の快作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』がよかったなんてバーンいってますね。ちなみにバーンは『トゥルー・ストーリー』を作る上でアルトマン『ナッシュビル』を視界に入れていたようで脚本のジョーン・チュークスベリーに参加を求め、辞退された後にも様々に助言を受けていたりと、映画に関して造詣も深そうだし、いい趣味しているんだなあ。監督としても面白い。

T:ありそうでないというか、大丈夫かな?という感じかな。笑
“Hell You Talmbout“の演出はスパイク・リーだからこそでしょう。
最期の“Everyboby‘s coming to my house”のデトロイト・スクール・オブ・アーツ版の挿入も。

N: スパイク・リーの演出は、コテコテな印象の彼らしくないシンプルですがリズミカルで素晴らしかったです。後半「Hell You Talmbout」での気合の入れ方はまさにスパイク・リーでしたが。監督が事前にどこまでデヴィッド・バーンを知っていたかは知りませんが、相当に時間をかけて事前予習したんじゃないかと思うくらい、独特なデヴィッド・バーンの特徴を捉えているのに感心しました。
何よりみなさんのおっしゃる通り、マルチ・アングルの撮影は秀逸。

M:二人の対談見ると、スパイク・リーは、二階席から見て、俯瞰撮影のインスピレーションを得たと言ってますね。
共に80年代にNYでデビューして、近くて遠い存在だったみたいですね。スパイク・リーは80年代のトーキング・ヘッズは見に行っていたようですし、バーンは『ドゥ・ザ・ライト・シング』のプレミアに行ったみたいな話もしていました。
80年代NYのブラックカルチャーとホワイトカルチャーの象徴みたいな二人が、今組むという事に、すごく意義があると思います。
同じ時代のNYの監督のジム・ジャームッシュがやったら、また違ったものになったでしょうね。もっとオフショットが増えたのではないかと想像します。
この映画で言えば、エンディングも良かったです。
ちょっと意外な感じで。バーンもNORTH FACE着るんだなみたいな意味も含めて(笑)。

スパイク・リーとの対談

★音楽、ダンスについてはいかがでしょう? ジョナサン・デミ監督の『ストップ・メイキング・センス』との比較は?

N:『ストップ・メイキング・センス』は臨場感があって擬似ライヴ体験ができる映画でした。今作は荒削りなライブ感とは対極の、感動するくらいの完璧さが際立っている印象です。 僕はスタジオ盤とこのブロードウェイ公演ライヴ盤の『AMERICAN UTOPIA』アナログ盤を両方とも所持しているのですが、正直言うと今回の映画版を観てやっとデヴィッド・バーンが伝えたかった事がちゃんと理解できたと思っています。映画にしか収録されていない曲間のバンター(MC)はデヴィッド・バーンらしい表現でいちいち笑えるし、実はとても重要なことを言ってました。

T:『ストップ・メイキング・センス』はラジカセ抱えたミニマルから、だんだんに音の厚みを増していく構成が素晴らしいですが、ドラムセットがセッティングされ、ラインにつながれた楽器での自由度なので、デイヴィッドは走り回り踊りまくりますが、フォーマットはコンサートですよね。 今回は先にも述べたけれど、ミュージシャンとして音楽的パートを担うとともにグループダンスとしてそれぞれの意味を担っています。その自由度の違いがコンサートとは違うショーを生んでいると思います。
デイヴィッドのヘンテコダンスはメリカ人も笑っていたけど、昔からシリアスさとユーモアのミクスチャーなんだけれど、昔のそれは感情の表出へのバリアみたいに感じられたけれど、今回はそれを超えたこうしているのが”damn good”(“I  Dance Like This”) だからと素直に感じました。

M:『ストップ・メイキング・センス』は、実は細かい記憶がなく、比較は難しいですね。
でもVHSビデオ買い、当時は何回も見ました。
トーキング・ヘッズのライブも、多分最後の来日公演で、トムトムクラブと一緒の時に見ただけで、その印象もあまり残っていません。何故かトムトムクラブは憶えているんですが。
比較は別にして、昔の曲の進化も、新しい曲のメッセージ性も素晴らしいと思いました。
ダンスは、バーンの得意とする部分で、今回も集団のマスゲーム的な動きが素晴らしいと思いました。
80年代も『ザ・キャサリン・ホイール』でバレエ~ダンスとのコラボレーションがありましたが、他のロックミュージシャンと比べると、ダンスに対するアプローチは、単なるステージアクションという領域を超えたレベルだと思います。
音だけではなく視覚的にも美しくかつユニークにステージを構成していくというバーン独特のスタイル、ライブコンサートというよりも、ステージパフォーマンスという言葉の方が似つかわしいショーの集大成ととらえています。
自分の感性でいうと、トーキング・ヘッズが活動していた時代では、やはり初期のエッジの効いた曲が好きでしたが、最近は『リトル・クリーチャーズ』など、カントリーぽい曲の方が好きです。
先ほども言いましたが、一時期はバーンの音楽的な多様性が、少し無節操にも見えて、あまり好きではなかったのですが、今改めてその懐の深さに魅力を感じています。

A:デミはスタジオ映画『スウィング・シフト』を思うように撮れない鬱憤を『ストップ・メイキング・センス』で晴らしていたとdvd所収の会見で元トーキング・ヘッズの4人が明かしてますが、バンドメンバーのインタビューとか舞台裏とかを一切、そぎ落としステージに的を絞り切った潔さに包まれてバーンのほとんど自閉的疾走、そのグルーブにスクリーンのこちら側でも巻き込まれる快感が今見ても凄い。それに比べると体形的にも丸くなったバーンの『アメリカン・ユートピア』での身体性は、チームワークによって完遂されていく、その磁力ですね。で、唐突なんですが、最初と最後に舞台の緞帳が映るでしょ、あれなんだか鳥獣戯画っぽく見えて、そういえば前半の振り付け、どこかお祭りの踊りめいたところもありませんでしたか? だからどうした、なんですがちょっと気になってます。あれ、バーンが描いたのかな・・・。(哲生くん情報によればMaira Kalman というイラストレーター/作家の作品なんですね。映画も撮ってるんだ!)

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★制服のようなグレーの衣装と裸足というバーンとバンドの出で立ちは形式と非形式、コントロールと自由、真面目さと遊び心、皮肉と誠意ーーといった対立項をめぐってバーンの世界を思わせてくれるとニューヨーク・タイムズ紙の評にありますが、映画としての、はたまた、コンサート・ショウとしての、あるいはアーティストとしてのバーンの面白さもそうした両極の存在と関係しているのでは?

N:デイヴィッド・バーンは2009年1月に来日公演をしています。僕は1/28今はなき渋谷AXでのショウを観に行きました。その時もすでにデイヴィッド・バーンを含めた全出演者は白いスーツで統一されていて、オフラインの楽器演奏者とダンサーが入り乱れながら縦横無尽にステージを動き回る、見事なコンテンポラリー・パフォーマンスが行われていました。今回の『AMERICAN UTOPIA』は、さらに無駄な要素が削ぎ落とされ、テクニカルな照明演出等も加わり、パフォーマンスの精度は何倍もUPしていました。まさにデイヴィッド・バーンの今の完成形をこの映画で観ることが出来ます。

T:確かにユニフォーム然としたグレーのスーツは没個性の様で、それを着る人たちの個性を逆に明確にしていますよね。一番堅固な靴を履かない裸足でのパフォーマンスは、前に触れた、観客に対しての無防備さを象徴していますね。
話はちょっとそれるけれど、
昔からデイヴィッドっておしゃれなんだろうか、わざと外しているのだろうかと思わなかった?笑
インタヴューとかも感情押えた抑揚のない受け答えだったり、あるいは『ツゥルー・ストーリーズ』みたいなアメリカーナだったり。
すごく複雑でアンビバレント。
“nothing but flowers”だってジョニー・ミッチェルの”Big Yellow Taxi“みたいなパラダイスに対してのストレートさはないし。ツイステッド。笑
https://www.youtube.com/watch?v=PPpZONGD9GE
どうしてここにたどり着いちゃったんだろう?これがパラダイスなんだろうか?みたいな感覚はデイヴィッドの歌詞によく登場しますね。
それと対になる”This must be the place”みたいなHome、自分の居場所みたいなことも。

A:アンビバレント、バーンの核心じゃないでしょうか。リンチともちょっと違うんですが幼児性と老成が今回もやわらかく混じりあっていて、でもメッセージの率直さ、まっすぐさの邪魔にはなっていない、そこが素敵ですね。

M:『ストップ・メイキング・センス』もですが、スーツというのはバーンの一つの表現になっていますね。今回のスーツは、色も形もよく、動きやすそうで、欲しいなと思ってしまいました。
『ストップ・メイキング・センス』の冒頭は、トップサイダーのデッキシューズのようなスニーカーでしたが、今回は裸足で、スーツと足元の対比というのは、確かに対峙的な構図にしているのかもしれません。

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★アメリカ、ユートピア/ディストピアの主題に関してはいかがですか?

T:バイデンになっても、トランプを支持したあれだけの層の想いは、リベラルなコレクトネスとは別に現存しているし、コロナ禍で人種問題もさらに加速度ついている様に思います。
まさにアメリカンユートピアとは対極なんだろうけれど、さっきも言ったようにそれでもReason to be cheerful を模索するそんなデイヴィッドへのシンパシーを”road to nowhere”で会場を練り歩く一団を観ながら感じました。

A:これは『トゥルー・ストーリー』の頃から一貫したテーマだとも思います。ただ、大きな政治みたいなものでなく、小さな足元からの呼びかけ、「ユートピアはあなたから始まる」とか「Us and You」ってスタンス、

M:これはやはりトランプの時代を皮肉るという意味合いが強いのではないかと感じました。映画で良かったのは、MCも歌詞も字幕付きで、メッセージを理解できた事です。
古い曲『イジンバラ』の意味合いも、30年近く聞いていますが、初めて理解出来ました。
ブロードウェイのショートしてこの公演をやるところに、劇場の中で体験するユートピアと、現実社会の隔世みたいな意味合いがあるのかなとも感じています。

★なんでもコロナと結びつけたくはないですが、また映画が撮られたのもコロナ以前のことですが、でも映画は世界の今をきっちり睨んでいるように思います。今、この映画を見ること、どのように受け止めましたか?

A:絶望的な今に絶望しないでいくことの強さを信じている、それが率直に伝わってきますね。希望なんていってしまうと陳腐ですが、シニカルでない呼びかけには応えたい、そう思えますね。

T:コロナが終息したら、ブロードウェイのショーは再開が予定されていましたが、それがなかなかかなわない中、映画化の意味も別のものになったように思います。

M:元々このライブには哲生君と一緒にNYに行く予定でしたが、個人的なタイミングが悪く、泣く泣くキャンセルをしました。
改めて映画を見て、ちょっと複雑な感情も湧きましたが、これは本当にわざわざ行く価値がある体験だったんだなと実感しました。
コロナの直前で、現時点ブロードウェイが最後に輝いた時期でもあったと思います。
この1年でコロナが出て、トランプも退場しました。
そしてこのようなライブパフォーマンスが現在も出来ない状況が続いています(回復の流れはありますが)。
今この世界を考える上でも、1年ちょっと前の記録であるこの映画を見る事は、重要ではないでしょうか。

劇場内緞帳

5月28日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、渋谷シネクイント他全国順次公開となります。
緊急事態宣言の状況で、公開は変わりますので、公式サイトでご確認ください。
監督:スパイク・リー 製作:デイヴィッド・バーン、スパイク・リー
出演ミュージシャン:デイヴィッド・バーン、ジャクリーン・アセヴェド、グスタヴォ・ディ・ダルヴァ、ダニエル・フリードマン、クリス・ジャルモ、ティム・ケイパー、テンダイ・クンバ、カール・マンスフィールド、マウロ・レフォスコ、ステファン・サンフアン、アンジー・スワン、ボビー・ウーテン・3世

2020年/アメリカ/英語/カラー/ビスタ/5.1ch/107分/原題:DAVID BYRNE`S AMERICAN UTOPIA/字幕監修:ピーター・バラカン
公式サイト
©2020 PM AU FILM, LLC AND RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC ALL RIGH

予告編

『ハウス・イン・ザ・フィールズ』 アトラス山脈に棲む妖精/ Cinema Review-4

HOUSE IN THE FIELDS

Cinema Review第4回は、モロッコのアトラス山脈に住アマズィーグ人の姉妹を描いたドキュメンタリー『ハウス・イン・ザ・フィールズ』です。
写真家でもあるタラ・ハディド監督が、モロッコ現地で7年間密着して撮影した作品で、アトラス山脈の自然と、私たちが知らなかった数百年続いてきたアマズィーグ人の生活を描いた美しい作品です。
今回のレビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄の2名で行いました。

★川野正雄

2017年モロッコを訪問し、車でフェズからマラケシュまで移動をし、アトラス山脈を通過した。その道中では、多くの山の麓で生活する人々の姿を見かけた。
3日もかかる移動で、車中から眺めるだけで、直接接する機会はほとんど無かったが、羊たちの群れの移動や、タジン鍋を焼いている家族など、日本とは別世界の場面に遭遇し、もっと深く知りたいと思っていた。
『ハウス・イン・ザ・フィールド』は、そんな私の願望を少し満たしてくれる映画であった。
数百年間変わらない生活をしているアマズィーグ人(ベルベル人とガイドブックなどには記載されているが、これはあまりよくない呼称のようだ)の家族を描いたドキュメンタリーである。
監督はタラ・ハディド。新国立競技場のデザインを当初担当した建築家ザハ・ハディドの姪であり、写真家でもある。
血筋が関係しているのかどうかは不明だが、この作品の映像は非常に美しい。宣材として提供されたスティール写真も、どれも絵葉書のような美しさを持っている。
7年間アマズィーグ人の生活に密着し、アトラス山脚の四季を描きながら撮影された記録映画である。主人公は結婚を控えた姉と、裁判官を夢見る妹の姉妹である。
彼女たちの父親は過去にフランスに出稼ぎに行き、過酷な経験をして、モロッコに戻っている。そのエピソードだけでも、彼らの置かれている立場が想像できる。
動物や自然と共生しながら、自給自足で生活を営む家族。私がモロッコに行った際も、街中でも働くロバを見かけ、人間と動物の距離感が日本とは全く違うと感じた。

車道を横断する羊達
犬が隊列を誘導している

反面サハラ砂漠に入ってもWi-Fiが使えるなど、デジタルの国家的な整備もされている。
モロッコという国は、マラケシュタンジェなどの都市部と、サハラ砂漠やアトラス山脈では、同じ国とは思えない位に大きな違いがある。
この姉妹は正に民俗的な生活様式と、DXに向かう国家の狭間で生きている。特に姉はカサブランカに住む見知らぬ男性との結婚に期待と不安を抱いている。姉ファテマが抱く大都市カサブランカでの生活の不安。短期間ではあったが、都市部と山間部を通過し、そのギャップはリアリティを持って感じる事ができた。

ファテマは思い切り盛大な結婚式で送り出される。しかしそこには新郎の姿はない。
タンジェで偶然結婚式のパレードに出会った。その景色は、ファテマの為に開催されるセレモニーと同じように盛大で、日本では考えられない大人数が市中をパレードしていた。

街中を練り歩く結婚式のパレード

モロッコの街中には、幾つもカフェがある。しかしそこにいるのは男性ばかりである。女性は外でお茶を飲む習慣がない、家事に専念していて、外出出来ないのだと聞いた。
会った事のない男性に未だ嫁ぐ習慣含めて、モロッコでは未だに男女格差が存在しているようだ。そういった習慣へのアンチテーゼとしても、『ハウス・イン・ザ・フィールズ』の存在価値はある。
この映画には手のアップが度々登場する。描かれる手は揺れ動く感情を表現している時もあれば、働く為の肉体的なギアとしての手の表情も描かれる。
この手の表情と、随所に流れるアーシーなモロッコの楽器の音色、そして動物や自然と共生するアマズィーグ人の生活に是非目を向けて欲しい。
モロッコにはファテマの手と呼ばれるお守りがある。よく家の前に取り付けられている。
私もお守りとして、キーホルダーを買ってきた。
姉のファテマと彼女の手のアップ。ここには幸運を呼びたいというタラ・ハディドの祈りが込められているのかもしれない。
そして今の日本人が忘れてしまっている人間本来の姿、生きる為にはどうすべきか、自然とどう付き合っていくのか、今の時代だからこそ考えるべきテーマが内包されているのだ。

ファテマの手

★川口敦子

「こんなにも異なる世界とその仕組み、にもかかわらずあまりに遠く思えたものが自分といかにも近しく、じつは同じなんだと感じてほしい」
 ベルリン国際映画祭フォーラム部門で上映された『ハウス・イン・ザ・フィールズ』をめぐるインタビューで、観客のどんな反応を望むかとの問いに監督タラ・ハディドはそんなふうに答えている。確かに――と、数年遅れで映画に触れた観客のひとりとして大きくうなずきたくなった。
実際、モロッコはアトラス山脈の奥地で豊かな自然とやっかいだけれど捨て難い伝統、慣習、暮らしの重みに包まれながら、軽やかに夢見ることも忘れていないハディーシャ、うっすらと薔薇色の頬にいつも陽炎みたいな憂いを浮かべている瓜実顔のアマズィーグの少女の”物語″を、ハディッドの映画はその遠さを捻じ曲げることなくしかし、いかにも他人事でない思春期の不安や憧れや退屈、いらいら、微笑ましさと共にそっと手渡してくれる。めぐる四季、移ろう自然の中で営まれる家族の、コミュニティの日々。外界と隔絶されたかに見える毎日には世界の今も確かに息づいている。伝統の衣装を身につけた女たちの傍らにナイキやプーマやアディダスのジャージを纏った男たちがいる。

春になると色を取り戻す自然の中、友達とふたり無心に木の実を口に運ぶ少女はのびやかに大地に寝そべって、進学し弁護士になるのだと夢を語る。ほっそりとして幼く見える彼女のイスラムのベールの下に豊かに波打つ黒髪が隠されていて、そのなまめきがドキリを目を打ち胸に刺さる。姉は学校をやめて夏の終わりに会ったこともない相手との婚礼をあげることになっている。定められた未来に抗えないひとりと自由に夢見るもうひとり。寝床をならべた姉妹の語らいはもう一度、世界の遠さと近さのことを思わせずにはいない。
いかめしそうな眼差しをキャメラに向ける老人。「キャメラを見るな」と呟きならみごとにキャメラ目線になっている面々。その照れ隠しめいたやわらかな笑顔がいかめしさを駆逐する。唐突に出稼ぎの日々を語る初老の男。茶をすする老夫婦。ポートレートのように人をきりとり、その語りを掬いとる映画は5年とも、7年とも伝えられる時間をかけて監督がそこに赴き、そこで暮らし、そこで遭遇した”物語″を記録する。ドキュメンタリーは強かに現実の人々の物語りに支えられている。現実(ノンフィクション)を物語(フィクション)にする山の人々とその暮らし、その世界と映画の共闘が静かなスリルを紡ぎだす。

ロンドンに生まれアメリカで映画を学んだモロッコとイラクの血を引く監督ハディド(幻の新国立競技場案でも話題を呼んだ建築家、故ザハ・ハディドの姪にあたるという)。彼女の虚実の境界への働きかけはいってしまえばもはやニュースでもなんでもない映画界の当り前の営為に他ならない。が、この映画を見た直後にやっとアメリカから届いたクロエ・ジャオの長編監督デビュー作『The Songs My Brother Taught Me』のDVDを目にしてみると、虚実の境界に挑むふたりの監督の奇妙な近さが見逃し難く迫ってくる。
ハディドがアマズィーグの村でしたように、ジャオはサウスダコタ州パインリッジの米先住民居留地に赴き、そこに暮らす人々と時間をかけて交わって、タテマエだけでない話を聞きだし、そうして彼らの物語りを彼らが演じる/生きる映画が差し出された。9人の妻と25人の子をなした居留地のロデオ・ライダーを父にもつ少年が恋人と共にLAに向かうことを夢見ながら、結局は妹と母との暮らしに踵を返すーー。そんな展開は、居留地という遠い世界の現実を射抜きつつ、飛び立つことを願う少年の夢と、それに勝る何かのために諦めを超えて生きる思春期の”物語″、その他人事でない近しさをも思わせて、ハディドの映画の”遠くて近い″感触と興味深く響きあっていく。かたやフィクション、かたやドキュメンタリーと分類されてはいるものの、どちらもその境い目のつけ難さの上で創る覚悟を感じさせる。

 そういえばジャオのNY大学院映画科時代の短編のひとつは奇しくも『The Atlas Mountains』と銘打たれ、幸うすい主婦がクリスマスの夜にPC修理にやってきた移民と孤独を分かち合うーーと粗筋が紹介されている。となると移民というのはアトラスの山の村から来ているのでは、ひょっとしてハディダの映画で出稼ぎ時代の挿話を披露していた老人がモデルだったりはしないだろうかと、勝手に妄想を膨らませてみたくなる。まあまあそんな偶然の一致はまさに物語の上でしかあり得ないのだろう。が、面白いのは素晴らしく刺激的な映画をものしたふたりの監督が、ともにサンダンスのラボで企画を耕し、ジャオはフォレスト・ウィテカー、ハディドはダニー・グローバーの支援をとりつけていることで、そこには実際的な映画界のサバイバル術、そのトレンドが垣間見えたりもしそうで、蛇足と言えば蛇足だがちょっと気にしてみてもいいかもしれない。

(モロッコ、カタール/2017 年/86 分/HD/1:1.85/アマズィーグ語/原題:TIGMI N IGREN)
監督・撮影:タラ・ハディド
出演:ハディージャ・エルグナド、ファーティマ・エルグナドほか
配給・宣伝:アップリンク
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人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)