新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
第14回は初めてのアジア映画として、タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の新作『光りの墓』を取り上げます。
アピチャッポンは、2010年には『ブンミおじさんの森』で、カンヌのパルムドールを獲得している世界的にも注目されている映像作家です。
今年は2006年に監督した『世紀の光』も日本公開され、福岡天神での映像制作ワークショップ「T.A.P(天神アピチャッポンプロジェクト)」や、東京都写真美術館での個展も予定されており、日本での大きなブレイクも予感されるので、今回は初めて彼の新作にフォーカスをする事にしました。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。
今回川口敦子以外のメンバーは、アピチャッポン初見参という事で、全員2006年作品『世紀の光』を予習して臨んだ座談会となりました。
川口敦子(以下A)
『光りの墓』を要約するとしたらどのように? 何を見たと思いますか? あるいは何を見るように薦めますか?
川野正雄(以下M)
やはりアピチャッポン監督の作家性でしょうか。
タイというこれまではアート作品との出会いが無かった国から出てきたアートハウス系の映像作家。
彼の描く空気と時間と光の流れ。
根底に流れるタイの政情に対するアンチテーゼなテーマ。
光というテーマは一貫していますね。作家性のアイコンみたいな存在なのでしょうか。
川口哲生(以下T)
映画を見ている自分自身が、兵士たちと同じように、現実なのか夢なのか分からない、居心地の悪い状況を彷徨っている様な感じ。眠りに誘うような女性の語り口が、アジアのビーチで昼寝している時に周りから聞こえてく女性同士の会話のような感じで、そうした感を増幅させました。そんな中で事故した足を兵士に成り代わって癒す霊媒の女のシーンの様に、自分の深層にある何か、深い恐れや悲しみと共鳴するとても美しく涙が出るようなシーンがあったのが発見でした。
A:見ている、聞いている、感じている、触ってもいる、でも「何を」と説明しようとすると手の中をすりぬけていく砂のように言葉が抜け落ちていってしまう。そういう名づけられないものを感覚することがアピチャッポン・ウィーラセタクンの映画を体験するということになるように思えます。「何か」についてではない物語り。
名古屋靖(以下N)
心の治癒までの軌跡。 今時とは思えないほど、私的な作家性に突出した新鮮で新しい映画。 A.タルコフスキー以来、心揺さぶられるほどの何かを見た感はあるのですが、それが何なのか今だに分かりません。 映像美で言えば、イットが眠るベッドのシーンは色も光りも平面構成も完璧といえるほどの美しい一枚の絵画です。
T:事前にみた『世紀の光』はより実験的で感情がむき出しに伝わってきた様に思うけれど、この映画はより暗喩的であり、ナラティヴな物語性の中での表現になっていた。自分としてはとても面白かったです。
N:幸運にも『世紀の光』からそんなに時間を空けずに『光りの墓』を観ることができたのは、作品を越えて病的と思えるほどの執着心や、それらモチーフを偏愛する結果、監督自身の映画そのものへの探究心が深まっていってるのがわかって面白かったです。アピチャッポン・ウィーラセタクン監督に身を任せるか否か?で好き嫌いは分かれますが、自分はどっぷりと2時間、監督の夢の世界を気持ちよく漂う事ができました。
M:独特の長回し。光の使い方。
インスタレーションとも言えるような演出。
病室内で繰り広げられる現実的な描写と、魂との対話のような寓話的なエッセンスとの、アンバランスとも取れるような共存。
随所の会話にはユーモアも込められ、『世紀の光』からの進化というかプロフェッショナルな成長を感じました。
それら全てを包括したアピッチャッポン監督の私小説。
彼のこれまでの人生や、周囲の様々なエッセンスが、象徴的に随所にばら撒かれているのではないか。
映画としての奥行きの深さ。
病室内での光が変化していく映像が素晴らしかった。
行間を読み取る感覚がないと、単に厳しい映画になってしまう。
そのリスクとの背中合わせのような緊張感のある映画。
A:醒めてみる夢、というか夢の中で見た映画というか。
眠りを拒もうとすると果てしない闘いに巻き込まれてしまう。名古屋さんがタルコフスキーの名をあげてらっしゃいましたが、私の場合、『ノスタルジア』を見た時のあの温泉地で歩みを進めていく、その場面での登場人物のたどりつけなさと、観る側の睡魔との闘いとが相まって襲ってくる何ともいえないせめぎあいの感覚、辛いけれど、ふと気持ちもいい、能を見ている時にも通じる感覚をしばしば味わうのがアピチャッポンの映画でもありますね。感想というのとはちょっと違いますか――。
A:「映画監督」とイージーにくくってしまうのがためらわれるようなアピチャッポンについては、どんなことを思いました?
T:とても興味深いですね。タイの政情など本当に理解しきれないところがありますが、何が彼に映画を作らせるのか、そうした興味が純粋に湧きました。
現代美術や実験的な映画というスタート地点もユニークですが、彼が表現として映画を作るということが興味深いですね。
N:変態ですね、きっと。勉強不足で今までまったく知らなかったのですが、久しぶりに興味深いアート系の映画監督と巡り合った感じです。前向きになれば実力は申し分ないと思いますが、今後も普通の商業映画の監督にはなりたくはないのでは?
監督の生まれ故郷で映画の舞台でもあるイサーン地方について、僕はタイ料理の一地方料理として認識している程度でした。自宅近所にイサーン料理の美味しいレストランがあるのですが、オーナー・シェフはラオス出身です。今回アピッチャッポン監督の映画を観るにあたり少しだけ学習したおかげで、国境・国籍、民族・種族、デモで話題になった「タイの南北戦争」など、タイでありながら純粋なタイではない複雑な問題を抱えた地方であることを知りました。
M:タイ映画というと『マッハ』シリーズのようなアクションのイメージがあったので、全く違いますね。そういった当たり障りの無いアクション映画へのアンチテーゼのような意識があったのかなとも思います。
アクション全盛期の香港映画界にウォン・カーウァイが現れたのと同じような印象でしょうか。
作家的にはアッパロ・キアロスタミやエドワード・ヤンが好きだったみたいですが、そういった作家と比べてもよりアヴァンギャルドな表現で独特の世界観を構築していると思います。
アンディ・ウォホールとかヨゼフ・ボイスは、アートを軸に映像作品も作りましたが、アピチャッポンは、映画を軸にアート作品も作っていく人だと思います。
A:ハリウッドの昔ながらの映画では、これを見なさいというのを観客に感じさせずに、でもみごとに誘導していく、その技を磨いてストーリーテリングの粋ともいうべき映画の方法を蓄積してきた、そういう意味での物語りの仕方とは別の方法を最初の長編『真昼の不思議な物体』から提示していますね。ここではシュルレアリストの手法”優美な死体“をヒントにお話を撮影クルーの訪れる所々の人びとが受け継いでいく。リレー形式で編まれる物語の意外性もさることながら、受け継がれる物語を受け継ぐ人、その人のいる場所、時間、光をすくい取る黒白の映像自体が物語となっていくような――。そんな映画にすでにこの作り手ならでは興味のありかが示されていたように思います。
フィクションとドキュメンタリーの背中合わせの在り方という部分を究めてもいて、それは21世紀へと向かう映画の作り手たちが様々に試みたひとつの傾向とも合致していた。その意味ではホン・サンスの反復とずれ、真ん中で折り返すような構成法とかとも比べてみると案外、面白いのかなあなどとも思えます。
A:アピチャッポン・ウィーラセタクンに『ブンミおじさんの森』で大賞を与えた2010年カンヌ映画祭コンペ部門の審査員長はティム・バートンでしたが、彼やデヴィッド・リンチ、ガス・ヴァン・サントのようなアート・フィルムと物語性をもつ”普通の映画”の狭間で撮る人たち、あるいはデレク・ジャーマンやウォーホルのような実験映画、現代美術の領域も含んだ映画の撮り手たち、アピチャッポンは彼らと比べてもいっそうユニークな存在ですね。自身の世界を究め、長編映画と共に、短編、アートインスタレーションもコンスタントに発表している。そのあたりの創作のスタンス、その”越境的”な要素についてはいかがでしょう?
M:個人的にはガス・ヴァン・サントのような狭間で撮る監督の方が好きです。
アピチャッポンはやはり監督でもありますが、アーチストというか、映像作家という表現の方が相応しい人に思えます。
監督としては、『世紀の光』から『光りの墓』では、その間の監督としての大きな成長を感じました。
ただ本質は変わっておらず、それが彼のスタイルなのだなと改めて思っています。
作品的には小栗康平監督の『眠る男』との近似性を感じました。
魂との対話といったテーマ性や、睡魔とのギリギリの境界線に立脚した長回しの演出や、土着的な地域性をベースにした私小説的要素とか、そういう部分の共通項です。
多分こういった私小説的な世界から彼が脱却した時、真の監督としての力量が見えてくると思います。
アジアで評価されている他の監督のように、自国から出て、外国で撮影した時、どうなるのか、気になります。もっともっとグローバルに活動して欲しいですね。
余談ですが、タイの映画祭に一度行った際に、タイはポストプロダクションの技術やCGの技術が素晴らしいという事で、いくつもの会社を訪問しました。
その中でもカンタナという会社は、今では日テレや日活と日本にも合弁会社を持ったりしているのですが、非常に素晴らしい技術があるようでした。
僕が会ったマネージング・ディレクターは香港人で、同じ香港人のウォン・カーウァイからはかなり昔からポスプロを依頼されているという話を聞きました。
そういうタイの映像に於けるテクニカルな進化というものと、この作品の映像のクオリティの高さは無関係ではないと思います。
N:チャート表を作成すれば、彼は上記の誰よりもアート・フィルム寄りの人ですよね。普通の映画のジャンルには当てはまらないであろう『世紀の光』に対して『光りの墓』は、よりナラティヴな内容とオーガニックな映像美で、その狭間のほんの近くまで歩み寄った監督の意欲作だと思います。個人的にはこれ以上は普通になって欲しくないのですが、今後どこに向かうのか?とても興味があります。
T:実験性の高い映画やアートインスタレーションがナラティヴを排している故に、見る側の『何をみるか』の幅が格段に広い様に、彼の映画は、同じ映画に何を観るか、個人ごとのレイヤーがある。解釈「making sense」でなく何を感じ、何を観るか。
A:80年代東京ではもっと当り前に見られた上記のような監督の映画が今、支持されると思いますか? 他のジャンルでも見やすい、聞きやすい、着やすいといったリアルなものが蔓延しているように思いますが、そういう傾向は変わっていくと思いますか?
N:この映画が変わるきっかけになってくれると嬉しいです。
M:デレク・ジャーマンなんかは、当時は人気がありましたね。
正直かなり苦手な監督です(笑)。
まだまだ日本人が他の世界の人からの影響を大きく受けていた時代でした。
今の東京でアートフィルムが大きく支持されるのは、段々難しくなってきたと思います。
ただ大きく支持はされなくても、常にそういった作品をきちんと評価したり、探し求めていく人は、存在し続けています。
ニューヨークやロスと比較しても、東京の方がより多くの世界中のアート系映画を劇場で見れる機会は、あるのではないでしょうか。
A:短編やインスタレーションを含めたひとつのアートワークの中に長編映画も組み込まれるというあり方。例えば『ブンミおじさんの森』にしても”プリミティブ”という複合的なプロジェクトに含まれているんですね。政治や歴史も深く呑み込んだ現代アートの一環としての映画作りを基本とする。というと観客を突き放すような印象も与えますが、そうではない。”私”の表現ではあっても、排他的ではないというか。うまく言葉にならないんですが、その辺りにもアピチャッポンの面白さがあると思う。
T:音楽や映画やファッションもですが、判りやすいもの、容易に楽しめるものになっています。先にも述べたこの人は何を考えているのだろう、といった次元の興味は今は難しくなっています。“stop making sense”という忍耐(?)がいるものには飛びつかなくなっています。
A:記憶、夢、眠りという核になっているモチーフについては? 『世紀の光』と見比べていかがですか?
T:『世紀の光』も同じインタビューのシチュエーションの場所を換えての繰り返しみたいな同じ人の中での記憶なのか、あるいは覚めない夢なのかといった感じを持ちました。
今回は、厳しい表現に対する規制といった政権政情野中での作者の心情、さらには監督自らの出身地にまつわる自らの場所や人や自然に対する記憶等々がより重層的に『記憶』『夢』『眠り』といったモチーフとして描かれているように思いました。
N:それらのモチーフは、『世紀の光』がごく私的なアート・フィルムだったのに対し、『光りの墓』を普通の映画らしく作用させた重要な要素の一つだと思います。しかしその発想の原点は、当時のタイから現実逃避するために眠ることに魅了された監督が熱中した、自分の夢を書きとめていくという極めて内向きな芸術活動からで、そこにも彼の少しだけ病的な執着心を感じます。
A:『トロピカル・マラディ』で中島敦「山月記」の引用をしたこともありますが、自然と科学(医療)、霊魂、変容、輪廻転生といったモチーフが非現実的な幻想であるよりは、まざまざとした、あっけない現実として描かれる。この点に関しては?
N:精霊や憑依など、あっけらかんと描かれていてもまったく違和感ないのは、タイという土地や人々らの南国的お気楽気質がそうさせるのかもしれません。湖畔のお堂の姉妹霊のエピソードなどがスムースに入ってきたのも、イサーン地方という土着信仰も根強いスピリチャルな土地にプラスして、タイの南国気質が関係しているのでしょう。笑いまでは行かないけれど微笑ましい緩やかなユーモアが許されるのも、微笑みの国タイらしさを感じさせます。同じ内容で別の映像作家がヨーロッパで撮影していたらこうはならないでしょう。また勝手な解釈ですが、ラストシーンのサッカー少年たちは、病院の地下に眠る昔の王様たちじゃないかと個人的には思っています。
M:非常に寓話的なエピソードの使い方が面白いです。
それぞれの作品で、息抜き的に挿入されるエッセンスは、監督のセンスを感じます。
アート性だけではない作家だと思いますので、実験的だけど映画的な手法をうまく使っているように思えます。
例えば何故か象徴的にダンスやエアロビみたいな集団シーンが差し込まれる意図がよくわかりません。
幻想と現実の対比として描いているのかなとも思います。
T:汎アジア的なアニミズム的な物事は日本人としては受け入れやすいように思いますが、そのカジュアルさはpopであっけらかんとしていますね。
A:街頭の集団エアロビクスもそうですが”森”も繰り返し各作に登場してくる。動物と植物と人の境い目をみつめている気もしますが?
N:『世紀の光』オープニングの風に揺れる木々や田園、『光りの墓』の病室から見える森など、オーガニックでボタニカルな映像が印象に残る映像作家です。それらとは逆に時折差し込まれる工事現場やその雑音がとても人工的で、『世紀の光』の後半で使っていた不穏な音楽と同様にいい対比になっています。自分にはそれらが目に見えぬ神や王様たちの魂の声に聞こえていました。
森について、動物と植物と人の境い目について、監督がインタビューで語っている「だから私は木になりたいのです。」という彼自身の夢はまさに境い目を超えた「変容」です。『2001年宇宙の旅』でボーマン船長がスターチャイルドに生まれ変わるように、『光りの墓』は主人公のジェンが「癒し」もしくは「赦し」に到達したことによって、ケンのように夢を覗く力を身につける「変容」の物語とも言えるかもしれません。
T:輪廻転生を語るようなところがありましたが、動物や植物と人間は紙一重でつながっている感がありますね。そして『世紀の光』でのたびたび挿入される工事現場やトラクターみたいな建機が象徴する埃っぽい現実感、『光りの墓』ではケミカルな光の医療機器等のSFっぽい未来感,そういったものが森や植物とともに共存するところが面白いところですね。
A:今回の映画は『世紀の光』のような真ん中でまた始まるといった不思議な構成が目につくわけではありませんが、物語り方はやはりちょっと独特ですね。その面白さについて具体的にどうでしょう? 自然とケミカルなものの共存、長回し、ほぼ素人の演技者たちといった部分で抵抗を感じましたか?
N:ほぼ引きのアングルのみで、独特のスピードで観るものを混乱と昏睡に誘う『世紀の光』と比較すると『光りの墓』は台詞にも一貫性が感じられ、至極まっとうな映画に見えてきます。先ほども触れましたが、窓の外の木々に露出を合わせたイットが眠るシーンと、夜の病室のケミカルな光の治療シーンは、忘れられない美しさです。
A:長回しの印象がありますが、『トロピカル・マラディ』の頃には案外、普通にカットを割っている所もあり、手持ちキャメラをつかったりもして、今、見直すとあっと意外な気もします。ただ、風や森の緑や、光、水といった自然への眼、時間への感覚は一貫しているので、目立った筋よりそうした時の中にこそ物語を見る方へとより積極的に向かってきたのかなあとは思います。反面、それだけではいられない政情、現実の切迫感もまたあるのでしょうが。
T:先にも言ったけれど、自然と共存するケミカルな色使い、とか不思議な集団ワークアウトとかはやはり監督のpopさや独特のユーモアを感じました。
A:独特の時の流れの感触については?
M:『世紀の光』からそのまま進化した形でしょうか。
常に病院が舞台になっている事については、監督の育った環境だということがわかりました。
『世紀の光』では、違う病院で同じドラマが進行するという極めて実験映画的なユニークな手法が印象的でした。
『光りの墓』に関しては、随所に差し込まれる静止画的な映像が、睡魔を呼び込みながらも、作品全体の余白として効果的に思えました。
ただ長回しに関しては、多用しすぎると感じました。
前述のトラン・アン・ユンも『ノルウェイの森』の雪のシーンで超長回しをやっていますが、時として長回しは、役者の緊張感を削ぎ、観客には単調さを与える結果になります。
長回しをすれば芸術的な作品になるみたいな風潮が、何処かに流れている気がして、そこに対して個人的には、常に反対側のスタンスでいたいと思っています。
T:同じアジアである日本人としてすごく『アジア的』と感じる要素はここになると思いますが。
N:油断すると寝落ちしそうになるくらいゆっくりとした時の流れと間ですが、タイ語のやさしい響きと相まって、慣れてくると心地よささえ感じられます。この柔らかい感触もアピチャッポン監督の特徴かと思います。
台詞も多い方ではないので自然に映像も凝視してしまいますが、極端なパースペクティヴなど、そこにも彼らしい病的な繰り返しが確認できます。
A:タイの現状も重要な背景になっていますが、その点に関してはどう見ましたか?
M:政情に関してですが、これはなかなか映画では訴えにくいテーマなのかもしれません。
間接話法的に今回は語っていると思います。
実際タイに行くと、街中で軍服を着た人間の多さに驚きます。
たまたま見た時期に近いタイミングで、NHK-BSで『ジョニーは戦場に行った』を見て、テーマの近似性を感じました。
N:タクシン派として赤いシャツを着てイサーン地方の人々も大勢参加していたバンコックでの大規模デモのニュースが今も印象に残っています。タイ中央に反抗する伝統も持つイサーンの人々が、如何に自分達のアイデンティティを失わないようにするか葛藤している監督の姿が、あからさまではないですが所々で見え隠れしています。
A:中国・台湾・香港、イラン等々、欧米以外の映画が注目を集める時、ある種の上から目線的エキゾチシズムをどこか払拭しきれない場合がありますよね。アピチャッポンの欧米での評価の高さにもそうした要素が関わっていると思いますか?
T:先の時間の流れの話ではないけれど、アジア人でありながらアジア的ということに関するエキゾチシズムを感じてしまうのも確か。でも監督にはそうしたアジア性を超えた興味を感じました。
A:トラン・アン・ユンの映画はベトナムで生まれたけれどパリで育ったフランス人の感覚ももった彼が、懐かしむベトナムに外からの目を感じさせずにはいない。そのエキゾチシズムはアピチャッポンの映画にはないと思える。
M:なるほどトラン・アン・ユンのベトナムを見る視点を、上から目線とすると、そうではないですね。もっと土着的な感じがします。
エキゾチシズムというものは、映画全体に覆われているようには思えますが、それは欧米人が意識するエキゾチシズムとは違う種類のものであるように思います。
トラン・アン・ユンのエキゾチシズムは、欧米人にわかりやすいエキゾチシズムで、アピチャッポンは、より内省的でプリミティブなのではないでしょうか。
観客にエキゾチシズムを感じさせるのではなく、内から湧いてくるエキゾチシズムという類かと思います。
A:ゲイであることを公表している監督ですが映画にそのことが関係していると思いましたか?
T:むしろ『世紀の光』のいくつかのシーンのほうにそういったことを感じました。
M:男性器を唐突に象徴的に描いているので、何故かと思いましたが、ゲイと聞き、納得しました。
A:次はSFをと語っていますが、どんなものになると思いますか? 彼の世界はSF的なのでしょうか?
M:彼の作品は非常に寓話的なので、面白いと思います。
彼のこれまでの私小説的な世界観から脱却した作品を見たいですね。
N:僕は今のままで行って欲しいです。アピチャッポン監督の作品は新しい種類の映画体験だと思います。そんな彼が挑むSFは予測不可能です。今から楽しみにしています。
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の新作『光りの墓』は、3月26日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショーとなります。
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