新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクルルージュのシネマ・ディスカッション。
第27回は、アメリカンインディペンデント映画の巨匠ともいえるガス・ヴァン・サント監督の新作『ドント・ウォーリー』です。
ヴァン・サント自身が親交のあったポートランドの車椅子の漫画家ジョン・キャラハンを描いた意欲作です。
主演は、ヴァン・サントの『マイ・プライベート・アイダホ』でブレイクしたリバー・フェニックスの弟、ホアキン・フェニックス。
ディスカッションメンバーは、映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。
★まずは、『ドント・ウォーリー』どのようにご覧になりましたか?
川口哲生(以下T):アルコールにしてもドラッグにしても、そのアディクトから抜けだすには「もはや自分の力では どうにもならないことを自ら認める」という過程が肝ですよね。「誘惑に負けるのは、誘惑に勝てない弱い人間だからではなく、それに勝ち続けようという無謀な戦いに疲れ、絶望し、やけくそになったからであって、むしろ自暴自棄の絶望にはまり込んでしまうほどの強い意志と努力を続けた強い人こそが最も誘惑に負けやすい」と言われますが今回描かれるジョン・キャラハンも正にそんな人だと思います。彼が強い分離感と葛藤とを抱える限り結局誘惑には勝てないわけです。彼の場合、自暴自棄のたどり着いた先が四体麻痺という大事故なのですからその心の痛みはどれだけだったんだろうと思います。でもそれが彼にとっては、初めに言ったような現状への心の底からの認識を生み、その中での人と関わりがアディクトの誘惑に魅力を感じないでいられる、十分な満足、心の平和、愛されている感覚に繋がった訳で、この映画で描かれているそう言った彼の心の平和に関わる、周りの人との関係がすごく魅力的でした。
川野正雄(以下M):最近多い実話の映画化、ハンディキャップものだと、ちょっと引いてしまう部分もあるのですが、冒頭から引き込まれました。
美談で終わってしまいそうなテーマを、ヴァン・サントらしく少し意地悪な視線や、アクの強い描写で、一筋縄ではいかない作品にしていると思いました。
また何よりも、主人公のジョンだけではなく、登場するキャラクター達が個性的で、それぞれの人生の背負い方みたいな部分が、すごくインパクトのある描き方をされているのが、心に残りました。
名古屋靖(以下N):よかったです。 ART系とか実験映画系?と商業系の両方がバランス良くミックスされていて、映画として楽しめ、観終わった後は心の中に大切な何かをきちんと残してくれていました。
川口敦子(以下A):カンヌで上映された前作『追憶の森』がブーイングの嵐にさらされたと聞いて、別にファンだからGVSに肩入れしていうわけじゃないけれど、とても普通によくできた映画だったのになあと、不思議に思っていました。確かに樹海で生死の境をさまよっているひとりが、自殺を決意したひとりを生の方へと導いてと判りやすく説明してしまったのではこぼれ落ちるいくつもの細部にこそ滋味がある映画で、しかもスピリチュアルな部分に深く入り込んでいて、その部分はいっそ明快にシンプルに物語りされるので、もっと重大な何かかがないのかなんて身構えるとすっと外されたような肩すかし感を味わうのかもしれませんが、そのすとんと生と死とをみつめるみつめ方、圧のない語り口にGVSのよさがあると思うんですね。で、今回の『ドント・ウォーリー』もまたそういうGVSらしさをいっそうさらさらと差し出していて愉しみました。
★ガス・ヴァン・サントの映画はこれ以前にどんなものを見ていますか? その印象と今回の映画は繋がる感じですか? そうだとしたらどのあたりが? そうでないとしたらまたどのあたりが変わったなの印象になったのでしょう?
M:冒頭のスケートボードのシーンは、『パラノイド・パーク』を思い出しました。
クリストファー・ドイルの撮影含めて、絵がふっと浮かんでくる作品でした。
元々はウイリアム・バロウズに会った際に、『ドラッグストア・カウボーイ』に出演して、若いけどいとてもいい監督だと聞いて、関心を持ちました。
その『ドラッグストア・カウボーイ』は、その当時見て、荒削りな部分もありましたが、エッジの効いた感触が好きになった作品です。
メジャー感の強い『誘う女』はあまり惹かれませんでしたが、90年台中期のアメリカン・インディーズの趣を強く持つ『カウガール・ブルース』は、音楽の使い方含めて好きな作品です。
実は『グッド・ウイル・ハンティング/旅立ち』は見てなかったりします。
むしろ最近の作品には、強く魅力を感じています。
一見つまらそうなビジネス的題材をスリリングに見せる『プロミスト・ランド』、加瀬亮君が見事な英語で登場するファンタジーラヴストーリー『永遠の僕たち』、敦子さんの評価する樹海の迷宮物語『追憶の森』など、テーマは違えど、どこかヴァン・サント作品には共通のエッセンスがあります。
この『ドント・ウィーリー』も、その一連の近作からの流れを継承していると思います。
N:実はガス・ヴァン・サントの映画はほとんど観ていません。だから彼がどのようなタイプの監督で、どういうところが魅力的なのか?正直僕に語る資格はありません。 『ドラッグストア・カウボーイ』は当時話題だったのもあり映画館に見にいきました。昔のことなのであまり細かい記憶はなく、上部だけしか観ていなかったからかもしれませんが、カッコは良かったけれど退屈で、正直その当時はあまり好印象は持てませんでした。 この2作品だけで言うなら、掴みは同じですかね。特にこの映画の何層かのカットアップ的な手法は決して分かり辛くはなく見事です。漫画の使い方も絶妙だと思います。
A:80年代の終り頃、ジャームッシュとかスパイク・リーとかNYインディーズと呼ばれてハリウッドの大作主義とは異なるスモールフィルムが清新な風を感じさせてくれた、その流れの中で90年代にかけてGVSを知り、追いかけて来たんですが、最初『ドラッグストア・カウボーイ』が騒がれた頃はやっぱりそのかっこよさ、マット・ディロンのルックと重なる印象で”おしゃれ映画”として受け取っていたなあというのが今、思い返すと正直なところありますね。で、実際に取材してみるとそういう思い込みをやんわりとケイベツするその微笑がなかなか怖いんですね。取材する側ってついこうでしょときめつけてかかった質問をしがちなんですが、そこをふふっと見越して責めないけれど違うぞ光線みたいなものを放つのでだんだん居心地悪くなってくる。試されてる感じをこちらが勝手に増幅して自意識過剰みたいになってくる――といっても、質問にはきちんと答えてくれるんですが、終わった後になんだかなあと、自己嫌悪に陥るような、そんな感じがありましたね。
多分、そういう部分が一部の、とりわけ若くてまだ毒されていない俳優にすごく信頼されている要因なんじゃないかな。
で、GVSの映画そのものも実験映画とコマーシャルな映画の狭間にあるような――と最初に話してくれた感触を温存しながら、『グッド・ウィル・ハンティング』のようにぐっとウェルメイドに傾くかと思えば、『ジェリー』『エレファント』『ラスト・デイズ』みたいなリニアな物語を排した究極へと振り切れていく――と、決めつけ難さをどんどん更新していく、そこが魅力でもあります。
『ドント・ウォーリー』はウェルメイドと実験色をうまく配合したという点で確かに『ドラッグストア・カウボーイ』と近いかもしれませんね。『ドラッグストア・カウボーイ』が青春後期の感懐だったとすると『ドント・ウォーリー』には生/死への目にも、語り口にも成熟が感じられるようにも思えました。
T:『ドラッグストア・カウボーイ』と『マイ・プライベート・アイダホ』ぐらいしか観ていないのでいつものようにごくごくアマチュアな印象ですが。。。やはりマット・ディロンやリヴァー・フェニックス、キアヌ・リーブスといった美形の若い男の子を配し、ドラッグや男娼みたいなセンセーショナルな題材の中で、すごく魅力的にこの世代の破滅的な美しさを撮っているなあ、というストレートな印象。
そうした初期作から中抜けで『ドント・ウォーリー』を観たわけですが、今回は主人公にそうしたわかりやすい見た目の美しさはないし、もっと大人の痛みや切なさを克服するような終わり方に美しさを見る感じで、これは年を経た変化なのでしょうか。
★アルコール依存症で四肢麻痺という主人公の克己、再生の過程を描きながら、その種のジャンル映画の重苦しさとか説教臭さを抜け出していますね。どのあたりがこの軽やかさの素だと思いますか?
M:比較的テーマ的には、最近よくあるジャンル映画とも言えますね。その手のジャンル映画が食傷気味になっていますが、ちょっと違うんですよね。
やはりキャラクターではないでしょうか。
どのキャクターも濃いですが、単純な善人とかではなく、暗いバックボーンがあったりして、それをまたシニカルに描くことで、ティピカルなジャンル映画から脱却していると思います。
A:最初の方、二本足で歩いた最期の日の回想の中で、ジョン・キャラハンが塗装の仕事の現場に行くとその家の住人なのか、玄関の車寄せみたいなところに車椅子の人がいて、キャラハンが身障者とどう接していいか分からない――みたいなことを心の中でつぶやくと、その車椅子の人がさかさにするとエッチな絵になるペンをいきなりみせるというちょっと唐突な場面があったと思うんですが、ああいう正直さ、それはスケボー少年たちの転倒したキャラハンに対する態度とも通じるんだと思うけど、それが爽やかな軽味を支えているんじゃないでしょうか。
N:主人公が電動車椅子に乗って街を猛スピードで疾走する姿と、そのスケボー少年たちとのエピソードは、重苦しさや深刻さ等を先に払拭させてくれましたね。また少年達とキャラハンが手作りのバンクで一緒に遊ぶシーンはとてもチャーミングで一番印象に残ります。
★当初、ロビン・ウィリアムズが自身の主演企画としてヴァン・サントにアプローチしたそうですが、彼が演じていたらどうだったでしょうね?
N:もっと涙や笑いの要素が多くドラマチックになっていたかもしれませんが、メジャーな商業映画らしさが際立ち、キャラハン本人のシニカルな雰囲気は少し削がれたかもしれません。ロビン・ウイリアムスが演じていたらもっと泣けたかもしれませんけどね。
M:本当にロビン・ウイリアムスには申し訳ありませんが、ティピカルでありがちな感動する映画になったと思います。ある種の毒素見たいな部分は、ホアキン・フェニックスの方がうまく表現したと思います。
A:GVSの映画というよりあくまでロビン・ウィリアムズの映画になっていたでしょうね。
今は亡きウィリアムズには悪いのですが個人的にはホアキンでよかった。
ホアキン・フェニックスは今、いちばん刺激的な俳優のひとりだと思うんですが、いろんな怪物的なキャラクターを演じているのに、自分の色を消せるんですね。デ・ニーロの全盛期に役になり切ると言われてましたがやっぱりデ・ニーロだといつも感じさせた。あのにやにや笑いとか、意外となり切り演技をはみ出してくる部分もあったように思うけど、ホアキンにはなんだかそれがない、でも惹きこまれる。その意味で不思議って言葉はなんか違うのですが気になる俳優なんですね。
★導師ドニーとそのセラピー・グループの描き方に関してはいかがですか?
T:このドニーが70年代後半から80年代初頭のアメリカの西海岸的なブルジョワスピリチュアル導師という感じで笑える。アクセサリージャラジャラ、香水ぷんぷん、週末にウォーホルのパーティに行くとか。。。だけどこの胡散臭さが逆に人間ぽくて、この映画のキーパーソンですよね。最後のシーンもいいですね。
N:ドニーは当時、アートや音楽、ファッション、遊び事で最も恵まれて輝いていた最先端の人達の典型。彼が週末NYに遊びに行く準備中、馬鹿っぽく踊っている姿もアリだし、そこそこ下品な冗談を挟みながら主人公達を模範的な方向に導こうとする真摯な姿勢も素晴らしい。まるでフィクションのような彼の一生はとても映画的で魅力的なキャラクターでした。 その他セラピー参加者たちも、一見表向きは社交的でも実はみんな出口のない悩みを抱えた、リアルなアメリカ人のステレオタイプの集まりのようでそれぞれが際立っています。
僕のごく近いアメリカの友人に本格的なアルコール中毒の男がいます。本人は悩んでもいませんし、酒を止める気もありません。でも家族はとても心配しています。彼を想って一度忠告した事があるのですが、その時の彼の反抗的で恐ろしい目つきを忘れる事ができません。僕にとってアメリカのアル中問題は身近でリアルな問題だったりします。
A:依存を克服する12のステップに関する部分は原作にもあるけれど、GVSが独自にふくらませていて、面白いですね。常連俳優ウド・キアがこれまでの役とつながりあるみたいな台詞をいうのもにやりの部分ですが、それが浮きそうで浮かずにキャラハンの克己の過程に関与してくるあたり、自ら脚本を書いたGVSのいいたいことがさりげなく配されているんでしょうね。
M:ドニーは重要なキャラクターだと思います。彼の存在が、単なるハンディキャップのある主人公の伝記映画から、一段深い世界へと観客を引き込み、映画の世界観に誘導していると思います。
彼のファッションも独特で良かったです。ああいう善悪つきかねるキャラクターを魅力的に描くのが、上手いですね。
その他のセラピーグループのメンバーは、何だかドキュメンタリーを見ているような気分になる描き方でした。
★アヌー(ルーニー・マラ)の描き方に関して海外評では否定的なものが多いのですが、いかがでしょう? 他に気になるキャラクターは?
A:アヌーの役はキャラハンが実際に交際した何人かの女性を合成して作ったとプロダクション・ノートにありますが、光を招き入れるように最初に現われるところとか、CA姿での再登場が空のイメージと結びつけられているところとか、ある種の天使みたいな存在でキャラハンの頭の中にだけ見えているのかしらと感じた部分もありました。でも、いっぽうでパンフレットにあるインタビューではアヌーが手助けする入浴の場面とか現実のガールフレンドに取材してリアルに描き込んだといった監督の発言もあるので幻想とばかりもいえないようですね。どちらにしてもちょっと判らないという評がでるのは判るけれど、むしろその曖昧さに好感をもちました笑
その意味ではジャグラーたちというのも面白かったし、公園でデートしているゲイのおじさんカップルとか、お酒のませてとよってくるホームレスとか、一見、無駄みたいなキャラクターの点描が効いてますよね。
あとぼーっとしているんだかしていないんだか、妙におかしい介護士のお兄ちゃんも好きです。
T:アヌーはCA姿の登場等確かに唐突な感がありましたし、過酷な状況での一筋の光感が誇張されている気もしましたが。
主人公の生きていくことの、生まれ変わることの大きなモチベーションだったろうし、そのハンデキャップを特別視しないような、どんな世界いにいても自分で生きられるような人間の大きさも感じました。
N:彼女はこの映画の中でも最も作られた印象の華やかなキャラクターなので人によっては余計もしくは不要な要素に映ったのかもしれませんね。 僕はジャック・ブラックの演じたデクスターが好きでした。めちゃくちゃな前半も最高ですが、再会時の二人のやりとりはベタかもしれませんがやはりグッとくるものがあります。
M:ルーニー・マラは、『ドラゴン・タトゥーの女』のリズベット役で、すごく気になった女優です。この作品の序盤では、髪型のせいか老いたトポルを相手にするミア・ファーローの『フォロー・ミー』を思い出してしまいました。
エンジェルのような造形された彼女の設定が、海外では辛口になっているのでしょうか?
僕には常に救いの部分で、アヌーはスパイスとして機能していたと思います。
他では名古屋君と同じくデクスターです。
見ながらデクスターの存在が、ずっと気になっていたので、デクスターの再登場は素晴らしい場面だと思いました。
★母、家探しの話というヴァン・サント映画のひとつのテーマがここにも出てきますが、その中で壁の画が活人化されたりする。といったちょっと昔の実験映画っぽさは気になりませんでしたか?
A:実母探しのエピソードは原作でかなりのボリュームをもってふれられていて、実は、母のことも、父のことも判明し、その家族ともコンタクトがとれ、拒絶され――といった部分にまで触れられているんですね。母の親友でルームメイトだった人が大量の写真を送ってくれたってくだりもある。でも、そういう具体的なエピソードはばっさりけずりとって赤毛の教師で生まれたばかりの僕を捨てたととGVSがエッセンスに煮詰めたことで映画的な強さが迫ってきていいですね。養父母の家での夕食の場面も印象的です。
母を探すエピソードは『マイ・プライベート・アイダホ』の核でもあるし、疑似家族というのは同作にも、『ミルク』のハーヴェイ・ミルクを取り巻くグループにも、『ドラッグストア・カウボーイ』の盗みの仲間4人にも、『カウガール・ブルース』や『ラスト・デイズ』にもといくつものGVS映画で繰り返し見られます。先のドニーとそのセラピーグループもひとつのファミリーとして捉えられるし。GVSの“非公認”バイオというのを読むと父の仕事のせいで(服飾関係のセールスマンからマクレガー社のトップに上りつめた人のようですが)転々として育った、それが家を求めることとつながったとありましたが、ここは本人のコメントを直接聞いてみたい所ですね。
昔の実験映画っぽさというのはコネチカットにいた頃、ハイスクールの先生に60年代のアンダーグラウンド映画、ウォーホルやメカス、ロン・ライスといった実験映画を見せられてそれが映画的教養の一つの柱になっていると最初に取材した時に語ってくれたのですが、”実験”色と同時に“ちょっと昔っぽい”という点も要になっているんじゃないかしら。
因みにその後、進学したロード・アイランドの美学校ではD・バーンやトーキング・ヘッズのメンバーとは顔見知りだったようです。
M:あまり母や家探しと追うのが、過去の作品とうまくインターフェース出来ないのですが、母の存在の無さが、ジョンの人生には重要な事は、強く伝わってきました。
画の活人化や、アニメの使い方は、僕は面白いと思いました。
N:肩の手の跡はこの映画にはちょっと不自然だったかな?
★音楽の使い方はどうですか?
A:デクスターとの再会の場面で80年代当時流行ってたビリー・ジョエルの曲が流れてて、いかにもキャラクターのいる時と所を思わせて、かっこ悪さがうまく活かされてる気がしました。
エンディングの曲はクレジットをみるとキャラハン自身が歌っているんですね。やわらかな声で痛烈な皮肉、黒い笑いを核にした彼の漫画の底にある素顔が覗いている、そんな声ですね。
N:あの時代を再現するのに、衣装やセットよりもシーンでの選曲は効果的だったと思います。
T:GVSはボウイやディーライトのクリップ作ったり、プライべートアイダホもB-52‘sからだし、音楽好きなんだろうね。挿入歌のジョンレノンの『アイソレーション』は一人ではないこと、家〈寄り添う人たち〉があることに感謝するように使われているのかな?
M:70~80年代という時代性と合わせて、常に音楽の使い方はうまい監督だと思います。やはりジョン・レノンが印象に残ってしまうのですが、『カウガール・ブルース』や『パラノイド・パーク』ほどには、音楽のインパクトはありません。
ただピーチズ&ハープのダンスシーンのベタな使い方は絶妙で、改めてヴァン・サントのセンスの良さを実感しました。
★主人公のジョン・キャラハンの地元でありガス・ヴァン・サントの拠点でもあるオレゴン州ポートランドが映画に寄与したものに関しては? 70年代から80年代という時代背景に関しては?
T:POPEYEにガス・ヴァン・サントの引っ越したLAの家でのインタビューが出ていたけれど、ポートランドについて「20年住んだからね。そろそろいいかなと思ったんだよ。それに街も変わったけれど、ネットで全てが変わっただろう?どこに住んでもあまり変わらない時代になったんだよ。」と言ってます。
ということは逆に言えば描かれる70年代後半から80年代初頭のポートランドはジョンとガス・ヴァン・サントが「ワーキング・クラスやパンク・ロッカーのようなミュージシャンが住んでいる」ようなエリアで「赤い髪をなびかせて、雨の中でも車いすを猛スピードで走らせていく姿」を目撃するようなリアルな人間関係の成立するスモールタウン的だったのかな?
N:ガス・ヴァン・サントのポートランド3部作の認識や知識も無いのでその観点では語れませんが、ポートランドは好きな町です。サン・フランシスコに裕福なアジア人やインド人たちが大量流入し、家賃も高騰し続けたおかげで、西海岸のアーティストたちの多くが移住先にポートランドを選んだのも納得出来る、自由と寛容さを持った自然とも近いハイパーすぎないほどよい都会です。
A:ポートランドってまさにGVS取材で束の間滞在しただけですが、LAから飛んで夜、降りた途端に湿気に包まれてやわらかくなってくみたい――と感じたのを覚えています。その時、準備中だった『マイ・プライベート・アイダホ』そして実質的なデビュー長編『マラ・ノーチェ』に切り取られているタフな界隈というのがキャラハンのいた場所でもあったようですね。あの独特の色や匂いが薄れてしまったんでしょうか。
M:ポートランドは行った事もないですから、なんとも言えないのですが、以前勤務していた会社の本社がポートランドで、ナイキと合わせてポートランドの独特なカルチャーみたいな部分は、感触としてはイメージが出来ます。
単なる田舎町ではなく、独特の文化のセンスの良さであったり、クリエイティブな空気というものが、作品には結びついているように感じました。
ヴァン・サントは、大都市というより地方都市を描くことが多いですし、その街の空気感を映像を通じて醸成するのが上手い監督だと思っています。
『ドント・ウォーリー』5月3日より、ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館他全国公開。
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