新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
2018年最初の作品になる第22回は、デヴィッド・リンチ監督を描いた待望のドキュメンタリー『デヴィッド・リンチ:アートライフ』です。
リンチに関しては、デュラン&デュランのドキュメンタリーを、セルクルルージュでは過去に紹介しています。
『デヴィッド・リンチ:アートライフ』は、これまでヴェールに包まれていたリンチの創作のバックボーンを、リンチ自身が明らかにしていくセルフポートレートのようなドキュメンタリーです。監督はジョン・グエン、オリヴィア・ネールガード=ホルム、
リック・バーンズの3名がクレジットされています。
公開を記念して、渋谷ヒカリエのアートギャラリーでは、デヴィッド・リンチ版画展を、2月12日(月祝)まで開催。
公開前日1月26日(金)までとなりますが、立川シネマシティでは、リンチ旧作の極音上映で、旧作を特集上映するなど、リンチのアーカイブに触れる機会も、次々に生まれています。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。
★ これまで自作、そして自分についてあまり多くを語ってこなかった印象のあるリンチが『デヴィッド・リンチ:アートライフ』で自身の人生について語ること、人生を振り返るきっかけになったのが2012年(リンチ66歳の時)の末娘ルーラの誕生だったとプロダクション・ノートにありますが、意外なようでいかにもでもあるような、この動機についてまずはどのように?
リンチならではの愛情表現なんでしょうか。
川野正雄(以下M):かなり前ですが、映画にも出てくる長女のジェニファー・リンチが初監督作品『ボクシング・ヘレナ』を撮った際、サンダンスでその上映を見ましたが、リンチが全面的にバックアップしていたと思います。その時はその場にリンチがいたわけではないのですが、そのような印象が残っています。作品が今ひとつだっただけに、尚更リンチも人の親とその時に感じました。70歳を過ぎたリンチは、小さな娘の為にも、自分のバックグラウンドの作品化をしたくなったのではないかと思います。
名古屋靖(以下N):昔に比べるとさまざまな寛容性が希薄になり、観る者を選ぶアーティスティックな映画の時代は終焉に。興行的に自分の作風が難しくなった現在、66歳になり監督引退も頭を過ぎりだした頃かと。それまで自身について多くは語らずミステリアスに装うことを好んでいるように見えましたが、孫ほどの歳の差の末娘が産まれたのを機会に、自分の家族やファン達に向けて、間違っていない記録を残しておきたくなったのかもしれませんね。
川口哲生(以下T):自分の父親に、ある種の精神的な問題、偏執さを恐れられ『子供を持つべきでない』と言われたリンチが、初めの子供を授かりアメリカン・フィルム・インスティテュートの助成金を受け映画に向かう時期を迎えたり、66歳にして末娘ローラの誕生というタイミングで、自作を語り、自分の生い立ちを記録するかのようなこの映画を受けたということは面白いと思います。映画の中に語られる自分の人生の分断された構成要素の中での家族との人生にリンチが重みをおいているのがちょっと意外な気がしました。
川口敦子(以下A):川野さんも仰っている『ボクシング・ヘレナ』を撮った最初の娘ジェニファー・リンチには私も取材しましたが、自分が生まれたということ、デイヴィッド(と彼女は”父”がとはいわずに名前で呼んでましたが)にとって父になることの恐怖が『イレイザーヘッド』を生んだんだといっていたのがなるほどと面白かったですね。まさにそういう映画だったと思いますが、同時に赤ん坊側にはこの人たちは親になれないんだ、自分の面倒は自分でみないとサバイヴできないんだといった感覚があったともいっていた。そういういかにも”リンチ界”的と思える証言のいっぽうで、『アートライフ』に登場するホームムーヴィー、あの母と娘のお風呂の時間を撮ったのは多分、新米パパのデイヴィッドなんですよね。意外に普通に家族の時間を愉しんでいるのがあの映像からは伝わってくる。というような“いかにもノーマル”も、“いかにもリンチ(=ストレンジ)´´もある中で、新たな娘をきっかけに自分を語るというスタンスも素直にうけとるべきか、リンチという世界を完璧にしようとしている演出のひとつとうけとるべきなのか、どっちもありなのかと、観客としていつもながらの迷走が始まる、そんな感じです。
★ 『インランド・エンパイア』の撮影を追ったドキュメンタリー『リンチ1』を撮った監督ジョン・グエンと被写体リンチの関係をどうみましたか? 撮りたいものを撮らせているようで、自身を語り、自身を表現する上で撮るべき所を撮るようにグエンを”操作”してもいるような、リンチのコントロール術のようなものを感じませんか? 隠しマイクで拾われたという呟きのようなコメント、その素の感触と奇妙なマイクに向かって語る部分にある演出のようなもの、そこに感じられるある種の齟齬をどう見ましたか?
T:タバコを吸いながら髪をかきあげカメラに正対する映像の中に、一瞬演じているリンチをかいま見たような所もありましたし。撮られるものや構図にリンチ的なものを感じるところもありました。
引用されるリンチの昔の映像の中での、カメラを完全に意識した『とられている自分』とは別の映像作家としての自画像的なというのかな。
N:リンチが前向きなのは映画を見ていると分かりますね、カッコよく撮れてますし。 リンチが好きなシュールレアリズムの作家は作品とともに本人のキャラクターも大切な作品要素ですから。この映画でもそれは貫かれていて、リンチから暗黙の操作は行われていると思われます。 奇妙なマイクに向かって語るシーンは最初と最後だけですよね。(他にありましたっけ?) 最初のタバコに火をつけながら独白するセリフは、まさに自身の「アート・ライフ」とこの映画について端的に表現しています。 それに対して、最後のシーンは本人がマイクに向かってしっかりと声に出して語っています。その内容は、最近の映画制作現場に対する静かなる反発にも聞こえます。
A:最初の答えの続きにもなりますが、ものすごく自己プロデュース能力に長けた存在としてのリンチというのがいると思う。最初の「ツイン・ピークス」旋風の時、関係者に取材するうちにうっすらと感じたのも、これ結局すべてリンチが書いた台本通りのコメントでは――ってことでしたね。今、振り返るといっそうその感が強いんですが笑 “MidnightMovies”( Dacapo press)のあとがき代わりの対談で、著者で共に映画評論家のジョナサン・ローゼンバウムとJ.ホーバーマンは、すべてを引用符の中に囲い込むようなポストモダンの80年代を通過して90年代のとば口で差し出された「ツイン・ピークス」は、リンチが自らをリンチ的なものという引用符に取り込む試みだったと看破している。その延長上に今回のドキュメンタリーもまたあるといったらいいのかな。オープニングのタイトルバックというか、稚拙な幼児文字的なアルファベットが、確か「私がほんとに考えてることを知りたい?」みたいなメッセージになっていたと思いますが、そしてあのマイクに向かう姿がくるんですよね。最初と最後でマイクに向かう”俳優”リンチ、彼が語る姿にはさまれたこの映画全体が”物語”としてリンチのコントロール下に差し出されてるのかなあと思ったりもしたくなる。そうであっても、あるいはそうだからこそとても興味深かったといえそうな気がします。ちなみにハリー・ディーン・スタントンの遺作となった「Lucky」にリンチは主人公の親友役で登場し、相変わらず俳優としても実にいい味出しています。春に公開されるのでぜひ、こちらもチェックしていただきたいですね。
M:感覚としてですが、リンチ自身がセルフプロデュースして、ドキュメンタリー映画を作っているように思いました。そういう意味ではリンチ自身の意図が強くにじみ出てるのかなとも思います。
逆にいうと、純然たる第三者が、批判的な視点も含めて、対象者を解剖するようなドキュメンタリー映画ではありませんね。
ジャームッシュが撮ったイギー・ポップのドキュメンタリーと同じように、監督から対象者へのアンセムのような主旨も込められているのではないでしょうか。
★ 家族や友人、関係者あるいは評論家らのコメントをいっさい交えずリンチの語りと創作する彼の姿、創られるものだけに絞った構成についてはいかがでしょう?
M:前の回答に近くなるのですが、その辺の構成に関しては、リンチ本人の意向が強く反映されているのではないでしょうか。
ドキュメンタリー映画ですと、対象者の内面やプライベートの深い部分、仕事でもプラスマイナスを掘り下げて行く物が多いのですが、
これは作家リンチの誕生前夜というか、映像作家としての誕生までを、本人含めてきちんと形にして残していこうという意図と思っています。
T:話にでてくる登場人物で知っているのが、Jガイルスバンドのピーターウルフぐらいだから(笑)ごくパーソナルな人生を、自分の見方で振り返った、『リンチサイドから見た世界』だと思う。
それにしても親密な関係性が少なくない?むしろ要所要所で家族との話がでてくるのにびっくり。
A:両親、兄弟、そして自分の娘と、ここで描かれている家族との密な関係は実際、興味深いですね。その部分も、はたまた他者の視点や声を含めないこの映画の構成もセルフ・ポートレートとしては当然なのかもしれません。今回の一作で自画像を描くという意図や意志を改めてそういう構成が示してもいるような。
N:家族や関係者が語る大監督の功績を讃える映画ではなく、ロバート・ヘンライ著『アート・スピリット』に書かれたことを淡々と実践しながら人生を送っている一人の芸術家の独話です。ドキュメンタリー・スタイルではありますが、一方的にリンチが語るエピソードの中にはグロテスクで幻影的なお話もあります。実話なのか疑いたくもなりますが、それだけでリンチの映画を見ている気分になれたりもします。
★ 印象的なエピソード満載ですがとりわけどのあたりが面白かったですか?
A:泥んこ遊びの泥のぐちゃぐちゃと湿った感じの中でものすごく気持ちよかった――って子供の頃の原初的な記憶が映画の中で創作にあたるリンチ、粘土のようなものをこねる今のリンチの制作の図と照応して、ぐちゃぐちゃの気持ちよさが伝わってくる。最初に出てくるこのエピソードもそうですが、「過去」が今を色づけるのか、「今」が過去を色づけるのか、繰り返しになりますがそれがリンチの世界を解くひとつの鍵なんだと思います。
引っ越し前夜でしたっけ? 隣人のスミス氏が話をしかけていきなり口をつぐんだこととか、闇に浮かぶ口元血まみれの裸の女とか、子供時代の記憶は『ブルーベルベット』や『ツイン・ピークス』の世界に直結していて、すごすぎる。スモールタウンの平和の表皮をめくるとぽっかりと浮かんでくる怖いこととか。
いっぽうで美学生時代のフィラデルフィアの恐怖。いやな感じ。LAの陽射しのまぶしさ。どれもこれもリンチ自身の記憶がリンチ映画と重なって興味深く迫ってきますね。
N:『ロスト・ハイウェイ』のオープニング映像の話は面白かったです。 ボストンでリンチに初めてマリファナを吸わせたルームメイトで、後のJガイルズ・バンドのヴォーカルとなるピーター・ウルフは当時顔が広かったようです。彼らがルームメイトを解消した後ですが、ブルース好きのピーター・ウルフは、マディ・ウォーターズ達が公演でボストンに来るたび、長年彼らのために様々趣向品を調達し自宅アパートで一緒にハングアウトしていたエピソードがあるほどです。 世話好きだけどだらしないピーター・ウルフと夢想家で神経質そうなデビッド・リンチの同居は長続きするはずがありません。
M:月並みですが、Jガイルズバンドのピーター・ウルフに、ディランのLIVEを途中で帰って、怒られたというエピソードですね。当時のリンチには、60年代のディランの音楽が一つの枠にはまっているように感じて、耐えられなかったのでしょうか。
T:子供の頃の夕暮れの夢なのか真なのか判らない女性との遭遇のエピソード、彼の描く狂気を体現したようなフィラデルフィアのエピソード、そしてピーター・ウルフとのドラッグ体験。
★ リンチとリンチの父、母の関係については?
M:父親の遺伝子というか、クリエイティブな才能は引き継いでいるという事を、初めて知りました。また母親が意外と普通の母親が心配するような事を言っていたというのが、妙におかしかったです。娘に対する愛情もそうですが、リンチ自身はファミリーを大切にずっと想ってきた。そんなちょっと意外な一面に触れた感触もあります。
A:お父さんがけっこうしばしば息子を訪れるのが面白いですね。
T:全くの完全な、ゆがみや偏りのない父母像。それはそれで分断された人間関係の一つとしては評価している点が印象的ですね。
その真っ当さと彼の描く恐怖や異常さとの溝の深さ。
映画をあきらめて働けと父親に説得され泣くリンチ、、、
むしろリンチの中の根っこにある『真っ当さ』に意識が言った映画だったような。
N:「D.C.に引っ越した時期、父親が毎日カウボーイハットに森林局の制服で歩いて出勤する姿を恐ろしくダサいと感じていたが、今はSuper Coolだと思う。」というコメントですぐに連想したのは『TWIN PEAKS』に登場する保安官達でした。威厳を示しながらどこか間抜けな言動や行動がおかしい、それは彼が父親に抱いていた感情が表に現れた一例かもしれません。 また映画製作の準備中にその一片だけを見て、息子の精神状態を疑った父親の堅物さは、リンチと共有できる範囲は狭く、その遺伝子は感じながら距離感があったものと思われます。 それとは逆に、自分にだけ塗り絵を与えなかった母親には幼い頃から自分と同じ感覚があり、良き理解者であり、父親より近いこっちの存在だったのでしょう。
★ リンチの映画とリンクするようなエピソードに関しても、あえて場面をインサートしないでいますが、この点は?
N:始まりが映画監督ではなく、動く絵画を発案しそこから映像芸術に発展。映画監督は好きなことをしながらお金を稼ぐ手段の一つだったのかもしれません。芸術活動を継続するための過程でたまたま映画監督にたどり着いただけで、興行を気にする映画監督に今はそんなに興味がなくて、もっと自由に創作活動を楽しんでいるようです。 はたから見ると映画はリンチにとって最も大きな人生要素ですが、本人の芸術人生の中ではほんの一部分なのかもしれません。もしくは、そう言いたいのかも??笑
M:『イレイザーヘッド』までの人生の話なので、それは仕方ないと思います。直接リンクはしなくても、関連づけたくなるようなエッセンスはありましたね。
以前ベルリンで彼のインタビューに立ち会ったのですが、「自分の映画はクロスワードパズルみたいなものだ。皆さんは、一つひとつのパーツしか見えていないので、わからないと感じるかもしれないが、自分には完成形の全体像が見えている。全体が見えたら決して難しいものではないし、一つのパーツにも意味があるんだよ。」と話していたのが、印象的でした。
思いつきでインサートしているように見えるショットでも、全て計算されているようです。
その話と、今回描かれている絵画の創作活動は、何となくリンクしているように、見ていて感じました。
A:あまりに鮮烈に結びついてまうエピソードは脳内に残っているリンチ映画の残像で十分と、作り手も観客も納得できる選択だと思います。
T:これは安易な回答でなく、自分でたどり着く所にゆだねる感じで潔い。
★ リンチの絵や塑像、アート作品、その創造の過程も記録されていますがその世界と、現実の場所の掬い方は? ライフとアートの相関関係に関しては?
N:リンチがフランシス・ベーコンの信者であることは以前から承知していましたが、アトリエで謎の粘着物をキャンバスに伸ばして塗りたくるシーンはまさにベーコンの絵画にある筋肉を思い起こさせます。 ただベーコンのモダンな表現と比べるとリンチはプリミティブでグロテスクです。 そんなおかしな作家はいたってまともで見た目も悪くありません。末娘と一緒にアトリエでほのぼのと過ごすシーンには狂気の微塵も感じません。多くのアメリカのコンテンポラリー系芸術家は色々と不適合な問題は抱えていても、それなりに人畜無害で見た目普通の人が多いです。逆にもしベーコンの傍に幼い少年を置いて2人っきりにしたら・・・ああ怖い。
T:ひたすら絵を描き続けること、誰がなんといおうとアートライフを生きること。たどり着いて所としての現実の場所なんだろう。
A:この質問に対する答えになるのか、ただこれはこのドキュメンタリーに限らずホームムービーの残され方ってすごいですよね。写真もそうですが、記憶を所有すること。『ブレードランナー』のレプリカントじゃないですが人間がそうして作りだした”現実”の中のリンチを見る。美大の頃の服装とか、たばことコーヒーと創作と共にある今と同様に自分を”デザイン“することの中にあった過去を垣間見るのはスリリングでした。
M:彼にとっては、絵を書く行為と、監督するという行為に、そんなに違いがないのか、或は今映画を監督する機会が減ってしまい、書いているのか、その辺はどうなのかなと、率直に思いました。
結局『インランド・エンパイヤ』が2006年なので、『ツイン・ピークス The Return』はありますが、10年以上劇場用映画は撮っていないので、内心忸怩たるものはあると思います。
2007年リンチに会った時は、内容の話は聞いていませんが、次回作へ意欲十分の姿勢を見せていましたから。
ただ年齢的なこともあり、どんどん厳しくなってきますよね。
一人で絵を描く為に、色々やっているリンチは、何となく可愛らしかったです。
★ 効果音、音楽の使い方に関しては?
M:あまり記憶に残ってないですのですが、近年リンチが出したソロワークは聞いています。打ち込みを多用した音作りで、彼の新しいサウンドに対するどん欲さというか、感性には、驚きを感じます。
A:小鳥のさえずりの置き方が映画の世界とのつながりを裏打ちするようで印象に残りました。
T:水滴のような効果音や、短いバンドの音楽は覚えているけれど、きわめて限定的。
★ スモールタウンとインダストリアルな都市、無垢と闇、恐怖、不安といった部分でアメリカの時代の変遷をも考えさせますが?
T:アメリカって、いつも書く様に、TVドラマの健全な善良な家族の住む裏庭の芝生にあまりにも深い闇や溝が隠されているような、そんなイメージがあります。
N:フィラデルフィアのエピソードは腑に落ちるものがありました。 フィラデルフィアの中心部はともかく、川沿いやスポーツ施設が集まるちょっと外れのエリアに行くと、いつも湿った古いレンガの壁や錆びた配管などのちょっと昔のインダストリアルな風景を見ることができ、治安は良くないですがそれなりにフォトジェニックです。 普通なら一昔前のアメリカのそんな寂れた風景が、リンチの独特なフィルターを通すと、彼の少し普通と違った経験が加味されて全く別の何かに変容してしまいます。それが冒頭の奇妙なマイクでの台詞「新しいアイデアに過去が色をつける」ということかと。。
M:自分は『ワイルド・アット・ハート』が好きなんですが、あの作品に流れる暴力的な部分とプレスリーという偶像化されたアメリカみたいなエレメンツは、リンチが描く一つのアメリカ史の象徴にも見えます。
全てをうまく作品に紐づける事は出来ないのですが、リンチの青年期の体験や環境というものが、作品形成に深い部分で影響している事は、この作品を見て感じます。
A:ちょっと外れますが、ピーター・ウルフって確か70年代のフェイ・ダナウェイの夫でもありましたよね。美大時代以来の友人で一緒にオスカー・ココシュカに弟子入りしようと渡欧したりもするのはテレンス・マリック、デパルマとも深く繋がっている美術監督ジャック・フィスク(妻はシシー・スペイセク)ですよね。そのあたりの人と人のつながり、同時代性を思うとこれもまた妙で面白いです。
で、リンチとその映画をめぐってアメリカ映画の変遷のことも合わせて考えてもまた興味深いんですね。50年代のアメリカを体現するような存在。その価値観が壊れた60年代に青春を迎え70年代ニューシネマのこわした垣根のすきまをつくように70年代末に注目される。そんな時代に浮上したミッドナイト・シネマの恩恵に浴して登場しながら、80年代大作主義に向かうスタジオの新たな才能にまだオープンだった束の間に間に合って『デューン砂の惑星』やメル・ブルックスが製作した『エレファント・マン』に抜擢されるタイミングのよさ。といった流れの中でディズニー/アメリカ/童心みたいな図式にあてはめられたスピルバーグのフリップサイド、B面的存在ともいえるのかしら。いっぽうで実験映画界出身者としてガス・ヴァン・サントとかトッド・ヘインズ等、90年代インディの、とりわけアート系の流れとも考えあわせてみたい。どんどん広がるテーマに満ちた存在なんですね。
★ この映画をみてリンチに対する理解や彼の映画への気持は変わりましたか?
M:自分が会った時の印象は、日本人に対してはわかりやすい英語でゆっくりと話してくれる優しいジェントルマンであり、そこに垣間見せるアーチスト性が同居するカリスマというものでした。ただ『ロスト・ハイウェイ』のワールド・プレミアの際に米国内で見たリンチは、アメリカのプレスに対しては非常にシビアで、説明もしないアロガントな姿勢でした。
その辺のリンチの二面性みたいな部分がミステリアスさを増幅していたのですが、この映画を見てリンチもアートでの成功を目指す売れない若者で、月並みに苦労していたのを見て、ちょっと安心しました。
また彼のちょっとグロテスクな古い怪奇映画みたいな要素も、元々内包していたエレメンツだった事も確認出来て、良かったです。
リンチ作品のもう一つのエレメンツであるロカビリーではない50’s趣味みたいな要素も、このドキュメンタリーの中から感じ取ることが出来ました。
引退宣言はしたみたいですが、改めてもう1本劇場用映画を監督して欲しいですね。
N:すごく純粋で真面目な人。 極めて狭い世界観で、エンターテイメントも良くわかってない、ただのシュールレアリズム好きの画家が、よくまあこれだけ沢山の記憶に残る映像作品を監督したなあ、と感心しました。あと見事に時代の波に乗ったなと。
T:私にとってリンチは1978年前後にLAに住んでいた時の、NUARTとかの映画館の深夜のカルト映画としての『イレーザーヘッド』につきる。あの逆光の埃舞う異常な髪型の男。それを撮ったリンチの人生を初めて垣間みたけれど、意外や意外って感じでした。
A:才能ということを脇に置いてみると家族との関係、時代との関係など青春映画をみるみたいでもあり、自分の通り過ぎてきた道とそう変わらないように見えたりもしますが、やはり違うんでしょうね。創ることが心底、好きなんだなあと痛感もしました。
またこう感じるのは作り手リンチの思う壺なのかもなどとうがった見方をしてしまうのが嫌なのですが、でもやはりもう一度、彼の映画をきちんと見たいなと思いました。
映画『デヴィッド・リンチ:アートライフ』
2018年1月27日(土)、新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか、全国順次公開。