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『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』ゴスペルの神が降臨/Cinema Review-5

Cinema Review第5回は、『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』です。
2018年8月16日、惜しくもこの世をさってしまった「ソウルの女王」アレサ・フランクリンの1972年に教会で行われた幻のコンサート・フィルムが、49年と時を経てついに日本公開されました。1972年1月13日、14日、ロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブを収録したライブ・アルバム「AMAZING GRACE」は、300万枚以上の販売を記録し大ヒットしています。
監督(撮影表記)は、『追憶』の名匠シドニー・ポラック。
撮影時のミスで、永らくオクラ入りになっていましたが、テクノロジーの進化により作品が蘇りました。
レビューは、映画評論家川口敦子、川口哲生、川野正雄の3名です。

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川口哲生

アレサ・フランクリンの1972年1月13日及び14日、ロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブを収録したドキュメンタリー映画。
アレサは1967年にキャロル・キングの「ナチュラル・ウーマン」1968年にバート・バカラックの「セイ・ア・リトル・プレイヤー」でヒットを放っているけれど、これらもアレサ流に十分ソウルフルではあるけれど、やはり白人層にも受ける、ラジオでもオンエアされる選曲だったのではないだろうか?それに対して、この映画が捉えている音楽はまさにsounds of blacknessという感がする。コール&レスポンスと後乗りの独特のハンドクラッピング、同年リリースのダニー・ハサウェイのライブアルバムでも感じた観客との一体感やサクラなのと思うぐらいの合いの手のかっこよさ。これは彼女が映画にも登場する宣教師の父の元、子供の頃から馴染んできたゴスペル、自分たちの魂の音楽を誰にも遠慮せずに歌う姿だと感じる。
クアイヤ・スタイルのゴスペルを確立したジェームス・クリーブランドのしゃべりや演奏、毛皮やスーツで熱い中でも登場するあの感じ、宣教師の父親のスピーチの独特の抑揚と間、ワッツ・タックスのコンサート映画でも観る今のブラックスタイルとは違うあの頃のキメキメなブラックスタイル、そしてダンス。全てがblack peopleによるblack peopleのための場だ。
それをアポロシアターでジェームス・ブラウン観ていたように、観に来ているミック・ジャガーには脱帽。監督は何故に、シドニー・ポラックなのか?
チャック・レイニーとバーナード・パーディのフンキーリズム隊も渋い。1日目はキャッチーな馴染みのある選曲、2日目はよりディープなゴスペル。どちらも若いアレサ・フランクリンのエネルギーが満ちていて必見!

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川野 正雄
ライブ・ドキュメンタリー映画は世の中に数多くある。
好きなアーチストのライブには気持ちが高揚し、知らないアーチストを体験し、発見の喜びを感じる事もある。
同日に公開されたデヴィッド・バーンのライブ・ドキュメンタリー映画『アメリカン・ユートピア』も、感動的な作品である。
監督はスパイク・リー。ここでの感動は、表現者としてのデヴィッド・バーンの完成度の高さであり、そのメッセージに込められた意味合いに起因するものである。
映画の中で観客の存在感は薄い。それは際立っているステージパフォーマンスに、観客の視線を集中させる為なのかもしれない。
『アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン』から得られる感動は違う種類である。これまであまり感じたことのない強い共感性である。
演者と観客と会場が一体化することによって、大きなバイブスが生まれ、それが観る者の心を揺さぶる共感性に昇華しているのである。
アレサ・フランクリンを知らなくても、70年代のブラックミュージックを知らなくても、この映画のバイブスは、誰もが感じる筈だ。

僕自身は、もちろんアレサの事は知っているが、アルバムを多く持っているわけではない。
ライブ映像を見るのも、今回が初めてであり、このライブを収録したライブアルバムも聴いてはいなかった。
アレサファンというよりも、彼女が活躍した時代、60〜70年代のブラックミュージックファンであり、彼女の所属していたアトランティック・レコードのファンである。
とはいえ、『Think』『Chain of fools』『Respect』など好きな曲は多く、いずれも1960年代にリリースされており、一番好きな『Rock Steady』は、このライブの前年1971年にリリースされている。
アレサ・フランクリン正に全盛期の、教会という小箱のライブである。
監督はシドニー・ポラック。
シドニー・ポラックは、同じ時期に代表作『追憶』を撮っている。
改めて『追憶』を見直したが、完璧な演出のラブストーリーで、ここにも観客の心を揺さぶるバイブスが流れていた。
白人の人気シンガー、バーブラ・ストライサンドを、シドニー・ポラックは見事に使いこなしている。
全盛期同士のカップリング、最強のはずであった。
ワーナーが撮影するというアナウンスが流れるが、音声と映像のシンクロを失敗してしまう。
ライブ盤はコンプリートな物もリリースされているので、アフレコ的に作業を重ねれば当時の技術でも何とかなったように思うが、作品は長年オクラ入りであった。
アレサ自身は完成を望まなかったという話もあるが、現代のテクノロジーで、幻の作品は蘇った。

オープニングに登場したアレサの表情は、緊張しているようだった。
そして1曲目のパフォーマンスは今ひとつしっくりいないように見えた。
いつもと違う教会でのライブ。
しかし2曲目からアクセルが高回転になっていく。
教会でも構わず、どんどんグルーヴも増していく。
そしてアレサの汗もどんどん増えていく。
狭い教会での観客との一体感がすごい。
この時代のソウルミュージックのライブは、こんなにもエモーショナルなのか。
観客のダンスも、バッチリキメたスタイルも、完璧だ。
客席にはミック・ジャガーとチャーリー・ワッツの姿も。
1972年ローリング・ストーンズは、『メインストリートのならず者』をリリースし、ツアーを敢行。更にジャマイカに渡り、『山羊の頭のスープ』のレコーディングに入る。
そんな多忙な1年の初頭に、ミック達はこの場を訪れているのだ。
途中アレサの父親も登場し、このライブの意味合いを誰もが共有する。
益々パワーアップするアレサのパフォーマンス。
狭い教会の中で、アレサの歌は、天使にも神にも聴こえてくる。
アレサの歌に涙ぐむサポートメンバー達。
思い思いの態度で、エモーショナルに感情を表現するメンバー達。
今の時代では体験できない素晴らしい瞬間である。
音楽って素晴らしい。
改めて感じた。
ライブがなかなか体験できない今の時期、ライブの素晴らしさを改めて痛感した。

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川口敦子

「この映画を見ることはスピリチュアルな、宗教的な体験だ」(nonfiction.com12/8/2018)――1972年に撮影されてから2018年、オスカーレースをにらんでのNY限定公開、そして翌年4月の米一般公開までほぼ半世紀近くもお蔵入りとなっていた『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』、その内輪向けの試写でホストを務めたスパイク・リーの発言にまさに! と、映画を見ながら味わった興奮を重ねていた。同時にリーが監督作『アメリカン・ユートピア』のコーダとしてデトロイトの高校の聖歌隊の面々の喜々とした歌声をフィーチャーしていたことも思い出され、ゴスペル(福音)のルーツに立ち戻ったアレサ・フランクリンの教会でのコンサートに満ちていく高揚感との共振を改めて嚙みしめてみたくもなった。嚙みしめながらこの圧倒的な快作が日の目をみずに葬られかけたこと、なぜ、どうして? と、その経緯と背景への興味もむくむくと頭をもたげてきたのだった。

まずは時代のこと。72年1月に2晩にわたって行われたコンサート、その会場となったニューテンプル・ミッショナリー・バプティスト教会がLAのワッツ地区にあったという点にはやはり注目してみたい。なにしろそこは65年、白人ハイウェイ・パトロールが黒人青年とその親族を不当に乱暴に扱い逮捕して勃発した一週間に及ぶ暴動の舞台に他ならず、それを端緒として差別に対する火の手が全米に広がることにもなった、要は公民権運動の熱い盛り上がりをリマインドさせずにはいない場所なのだから。暴動の記憶がまだまだ生々しく燻っていたはずの72年、その時空を思ってみるとフランクリンの、聖歌隊の、熱唱に息づく祈りの心が空気を染め上げていく様にいっそう胸打たれる。
いっぽうで、そんな霊的、宗教的イベントにも音楽、映画業界それぞれのコマーシャルな欲望が食い込んでもいたこと、それもまたいつの時代にも共通する苦い現実として見逃すわけにはいかない。ソウルの女王フランクリン絶頂期のコンサートをライブアルバムにするいっぽうで『モンタレー・ポップ』『ウッドストック』と往時、大ヒットを飛ばし、文化的現象ともなっていたコンサートの記録映画、そのアレサ・フランクリン版でまたヒットを、との思惑がハリウッドに渦巻いていたのもまた事実だろう。

フランクリンが移籍していたアトランティック・レーベルを傘下に収めたワーナーの重役テッド・アシュリーが製作を務め、ピンク・フロイドのドキュメンタリーを手掛けたジョー・ボイドが実作面の協力者として名を連ねて始動したフランクリンの映画プロジェクト、その監督として当初、ボイドは二本立上映を予定していた『スーパーフライ』(こちらも当時のトレンドのひとつだったブラック旋風映画の代表格)の撮影監督ジェームズ・シニョレッリ(「サタデー・ナイト・ライブ」に参画、ときくとベル―シ+エイクロイドの『ブルース・ブラザース』のこと、そこにフランクリンも登場していたなあなどとつい、脱線したくなるのだが)に白羽の矢を立てていたという。ところがボス、アシュリーは『ひとりぼっちの青春』でオスカー候補となり、レッドフォード主演の『大いなる勇者』を次回作に控える注目の監督シドニー・ポラックの起用を決めてしまう。『追憶』『コンドル』と続くレッドフォードとのコンビ作、あるいは『ボビー・ディアフィールド』と、ポラック監督作の面白さは今、もっと見直されてもいいと常々思っているのだが、72年の時点でその”話題の人″ぶりに目を奪われたスタジオの製作の判断は些か問題だったかもしれない。
ドキュメンタリーの経験のないポラックの下、集められた4,5人の撮影スタッフは16ミリフィルムを思う存分回し続け、臨場感あふれる映像を掬い取った。が、ロールごとに音声とのシンクロのためのカチンコの目印を入れるのを怠るという致命的ミスを冒してしまった。それでも時間が十分にあれば手作業でシンクロ作業を続けることも不可能ではないはずと、知人の記録映画制作会社元スタッフは語ってくれもしたのだが、それをするより『大いなる勇者』のお披露目上映のためカンヌに行くことをとったポラックにはその後も新作が続き、ボイドとの連絡が途絶え、フランクリンのコンサートを収めたフッテージはスタジオの倉庫で眠り続けることになったのだった。ポラックを責めるつもりはないけれど、俳優修業から監督に進出した彼にはドラマへの興味、その分野の演出力はあっても『ウッドストック』で製作助手のみならず編集も務めたスコセッシの場合のように音楽、そしてコンサート・フィルムに対する意欲や技術を存分に持ち合わせてはいなかった、といった事情もなくはなかったかもしれない。

その後の紆余曲折をかいつまむと、アトランティックでフランクリンのプロデューサーを務めたジェリー・ウェクスラー、彼の下で働いていた青年アラン・エリオットが90年前後、お蔵入りとなった映画のことを聞いて以来、発掘、復活に向け繰り返し私財を抵当に入れての努力を続けた結果、『アメイジング・グレイス』の感動が世界に解き放たれることになる。
その途中で他ならぬフランクリン自身による上映阻止の訴訟が一度ならず起こされもした。それは映画界でもスターにというソウルの女王の夢を打ち砕くことになった撮影後の顛末にフランクリンが深く傷つき怒ったからだろうと、エリオットはコメントしている。いっぽうでがんで逝去する間際、ポラックとコンタクトを取ったエリオットは彼が映画の完成に心を砕き、スタジオと交渉もしてくれた、共に完成に向けてアイディアを練り、女王と聖歌隊をあのワッツ地区の教会に再び招いて映画のエンディングにするといった案も飛び出していたのだと明かしている。極言すれば一度はキャリアのために完成を待たず放り出したプロジェクトへの後悔か、罪の意識か、監督ポラックのクレジットを同作から取り去るようにと逝去後、家族を通じてエリオットに要請されたという。また一時はドキュメンタリー『ブロックパーティ』(スタンダップ・コメディアン デイブ・シャペル発案のブルックリンでのライブ・イベントを記録)の腕を買われた監督ミシェル・ゴンドリーが協力、スケジュールの都合で離れた彼の推薦で編集のジェフ・ブキャナンが完成をめざしての作業で尽力したともエリオットは述懐している。

大急ぎで振り返ってみると映画の復活に向けてのドラマで新たな映画ができそうだが、そんな背景を知るにつけ歳月を経て届けられた映画、銀幕に刻まれたフランクリンの熱唱にいっそう深く神の恩寵とも呼びたいようなものを感じたくもなってしまう。

撮影:シドニー・ポラック『愛と哀しみの果て』 映画化プロデューサー:アラン・エリオット
出演:アレサ・フランクリン、ジェームズ・クリーブランド、コーネル・デュプリー(ギター)、チャック・レイニー(ベース)、ケニー・ルーパー(オルガン)、パンチョ・モラレス(パーカッション)、バーナード・パーディー(ドラム)、アレキサンダー・ハミルトン(聖歌隊指揮)他
原題:Amazing Grace/2018/アメリカ/英語/カラー/90分/字幕翻訳:風間綾平 /
2018©Amazing Grace Movie LLC 配給:ギャガ GAGA★ 公式サイト
5月28日より、全国順次公開中です。

『アメリカン・ユートピア』デイヴィッド・バーン×スパイク・リー=?/Cinema Discussion-35

©2020 PM AU FILM, LLC AND RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC ALL RIGHTS RESERVED

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。第35回は、元トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンが、2019年秋から2020年2月までニューヨークブロードウェイのショーとして開催したAMERICAN UTOPIAのライブドキュメンタリー映画『アメリカン・ユートピア』です。
監督はスパイク・リーで、80年代ニューヨークを代表する音楽と映画のトップスターがガッチリ組んだ作品で、単なるライブ映画という枠を超えた作品になっています。
セルクルルージュのメンバーは、皆でトーキングヘッズの1982年新宿厚生年金会館のライブは見に行っており、川口哲生は、2020年1月ニューヨークのハドソンシアターで、実際にAMNERICAN UTOPIAの公演を見ています。
今回は現地での感想も含めて、川口哲生、名古屋靖、川野 正雄と、ナヴィゲーター役の映画評論家川口敦子の4名で、お届けします。

HUDSON THEATER

★まず、哲生くんへの質問です。昨年、コロナ禍のぎりぎり直前にブロードウェイの舞台を見ることができたんですよね。その折のこと、舞台について感想ともども聞かせてください。

・川口哲生(以下T):私がこのショーを知ったのは、2019年11月21日、渋谷PARCOのリニューアルオープンで三宅一生さんのパリのショーを撮ったドキュメンタリー映画の上映があり、そこで一緒になった中野監督からでした。お互いデイヴィッド・バーンの大ファンであり、1980年代初頭に一緒にバリに行ったときに毎晩“once in a lifetime”のへんてこなダンスを真似しあった仲です。一気に話が盛り上がり翌2020年1月末の弾丸NYツアーとなりました。
具体的には1月25日ダブルヘッダーの初回、5時からのショーをW44th STのHUDSON THEATERで観ました。
ショーはそぎ落とされた潔さを感じるセッティングの中、照明のコントラストで場面展開を繋げていく構成が素晴らしく、一瞬も飽きることなく魅入ってしまいました
劇場の小ささも相まって、コンパクトなステージ全体を観る感じ、デイヴィッドの動きを中心として追うコンサート的な見方ではなく、群舞としての魅力をすごく感じました。
様々な人種、ジェンダーのミックスされたグループ全体の動きを水槽の魚の群れが泳ぐのを観る、そんなイメージを受けました。感銘を受けました。スパイク・リー監督がマーチングバンドの様だといっているのも、このグループの動きを観てだと思います。

★オフやオフオフでなくブロードウェイでの公演だった、それはデイヴィッド・バーンの軌跡からするとメジャーすぎるみたいな抵抗感はありませんでしたか? 
これはみなさんのご意見も伺ってみたいです。

T:まさにブロードウェイのど真ん中といったロケーションと1903年からの歴史を持つ由緒正しいシアターでの上演でした。389ドルの特別バーラウンジが利用できるオーケストラシートのチケットを取り、一時間前からウォーミングアップという感じでした。笑

コロナ禍前のニューヨークは平和で、今まで行ったどのタイミングよりも治安が良く、どこも居心地がいい感じでした。
今回このプロジェクトに貫かれていることは、トランプ政権を生ませたアメリカの分断、そしてトランプが新たにもたらした様々な問題を抱えながらも、それをただ糾弾するような“years ago,I am an angry young man(”nothing but flowers”) “でも、だれにも居心地の悪さを強いる”I am tense & nervous , and I can’t relax (“psycho killer”)”でも、そして“does anybody have any questions?”と投げかけるだけで足早に去っていく(”stop making sense”)でもない
reasons to be cheerfulを観客と一緒に実現しようとする大人な、というと安直ですが、マチュアなデイヴィッドの在り様に思えます。
その意味では、一緒に成長した観客側も含め、今回のブロードウェイなのではないでしょうか?インタヴューでも言っていますが、ドグマチックなステートメントでなく、あなたの今ブロードウェイで楽しんでいるこのショー、それを成立させているのは何なのか?という投げかけですね。

公演チケット

・名古屋靖(以下N):今回のブロードウェイ公演とその映画化について、2018年にリリースされたデイヴィッド・バーンのソロ・アルバム『AMERICAN UTOPIA』の話から始めなければならないかと思います。
今映画作品のタイトルと同名のソロ・アルバムは、デイヴィッド・バーン自身がどうしても伝えたかったことを彼独自のスタイルでシニカルに、しかし確実に(2018時点での)今、出来るだけ多くの人々に届くよう作られたメッセージ性の高い意欲作でした。彼が言いたかったのは、当時トランプ政権下のアメリカについてで、国民の分断、移民問題、銃規制、レイシズムなど現在もなお続いている様々な不条理や絶望が渦巻くアメリカン・ユートピアという名のデストピアについて訴えることでした。
2018年3月9日に全米で発売されたこのアルバムは、1週間後「Billboard top 200」で初登場3位を獲得。これはTalking heads解散後、デイヴィッド・バーンの様々なコラボ作品も含めた彼の長いキャリアの中で最高位の大ヒットとなりました。このアルバムが様々な疑問や不安を抱えたアメリカの人々に、求められ、支持された作品になったことで、彼のメッセージはアメリカの良心を代表する言葉になったんだと思います。
若かりし頃、小汚いCBGBでギグを繰り返していた痩せて捻くれた美大生ではなく、平和で優しい心を持った大衆の代弁者としてブロードウェイのど真ん中で声を上げるのは当然の成り行きじゃないでしょうか。またそのステージを映画化することは、公演を観に来れない世界の人々に向けて自身のメッセージをさらにもう一段スプレッドする事ができると考えたのでしょう。

・川口敦子(以下A):私にとってのデイヴィッド・バーンというのはトーキング・ヘッズ時代、そして80年代半ば『ストップ・メイキング・センス』と自ら監督した『トゥルー・ストーリー』を通じての存在で、それ以後は殆どフォローしていなかったんだなあと今回改めて振り返ってみて気づいた、覚醒した(笑) すごく近くの人として追いかけていたつもりが、いつの間にか遠くなっていたんだなあとそんな感じです。
まあ、哲生くんに教えてもらった”reason to be cheerful”のサイト、あるいはバイク日記は読んでいますが、アップデイトはできてなかった、正直そう思いました。
なにしろいまだにバーンといってぱっと浮かんでくるのは78年かな、LAにいた頃、サンセットのウィスキアだったかロキシーだったかで見た、まさにアートスクールの学生そのままみたいなトーキング・ヘッズのギグの生硬な尖り方、まだショートヘアだったティナの少年みたいな存在感とバーンの古着の格子(そういえばこの時もやっぱりグレー系だったような)のたらんとしたシャツ、で、結局、一緒に行った哲生くんの影響下での体験だったなあと思うのですが、ともかく同時代的に発生していた映画界のNYインディとも通じる70年代末的アンダーグラウンド、前衛、非メジャーのイメージで捉えてきたんですね。
その意味では『アメリカン・ユートピア』でダダ、超意味言語にふれているのも面白かった。前衛演出家ロバート・ウィルソンと組んだりもしていますよね。
『ストップ・メイキング・センス』のリマスター版が出た99年、サンフランシスコの映画祭でトーキング・ヘッズのメンバー4人が久々に揃って記者会見した折のQAからはそれぞれの道を行っているとはいえ、インディな姿勢というのが背骨として相変わらず共有されていていいなあと、うれしかったですね。で、そこでバーンがデビュー当時、外見はすごく保守的だった、それが逆に因襲破壊的な態度を表明する術だったと語っているのも面白い。すみません、だらだらになってしまいましたが、要は今回のブロードウェイの選択もそういう姿勢なのかなとまずは思っていたんです。だけど、『アメリカン・ユートピア』を見ているとそんなふうな身構えはもう超えたという感触、みなさんが仰る成熟ゆえの衒いなさこそを受け止めるべきかなと思い直したりしています。

・川野正雄(以下M):NYのニューウェーブ的なバンドとしてGBGBからスタートしたデイヴィッド・バーンが、60代になりブロードウェイで連続公演するというのは、素晴らしいストーリーですし、バーンらしいなと思いました。
どのミュージシャンも、年代と共に立つステージは変わってくると思います。往々にしてそれは定番化や退化を伴っていますが、バーンはむしろ進化して、これまでの軌跡の集大成的なパフォーマンスに昇華させているのは、さすがだなと感じました。
デイヴィッド・バーンに関しては、トーキング・ヘッズ解散以降、個人的に急激に関心が薄れていき、しばらく全く聞いていませんでした。
バーンがラテンのセレクトアルバム出したころから、バーンの迷走とそれを受け止め、エッジの効かせ方が、少し時代遅れに感じてしまっていたのです。
改めて意識したのは、2010年香港にいた時に、ファットボーイスリムが来て、TIME OUTのインタビューで、影響を受けたアーチストとしてデイヴィッド・バーンをあげていたので、再注目をしました。
その後名古屋君から2009年の来日ステージの話を聞いたりして、再度ブライアン・イーノとのコラボアルバムを聞き出し、改めてそのセンスというか、音楽的な魅力に引き込まれていました。

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★観客層はどんな感じでしたか? 反応は?

T:観客はおおむね私と同年代60前後の男女がやはり多いのでは?おしゃれな印象はないです。笑
映画の中でも、観客とのやり取りがありますが、一体になってステージを作っている感はすごくありました。そぎ落として、防御するものがないミュージシャンが観客とともに作るステージ、インタヴューでスタンダップコメディの観客に対する防御のなさを、ミュージカルショーとしてやってみたかったといっていますが、その感じです。
”Burning down the house“では総立ちだったと思います。
私の後ろの席には小学生ぐらいの男の子を連れた人もいて、“Toe Jam”とか笑いながら踊っていて、しっかり受け継がれていいていていいなぁ、とうれしく思いました。
大統領選前のNY、選挙に関する発言もショーの中でも多いですが、ここにいる人でトランプに投票する人はいないだろうなって感じ。

★映画版でも観客の存在が意識的に切り取られていますが、舞台にはない映画の面白さ、みなさんはどのあたりにあると感じましたか?

T:スパイク・リー監督がマルチアングルで撮っているし。ソロパートでのクローズアップもあるので、アーティストそれぞれのジェンダーや人種や移民というテーマとの関係性をより強烈に意識した様に思います。ステージではデイヴィッドに近いクリス・ギアーモの存在感が強烈でしたが、映画では彼だけでないそれぞれの表情まで鮮明に伝わりますよね。

N:実際に現場に行かれた川口さんがおっしゃる通り、映画を観る限り写っている観客はみんなおしゃれじゃない。ニューヨークに観に行けるくらいだから貧困層では無いにしろ、リッチな雰囲気はないちょっとダサい感じ。でもそれが今のアメリカの普通の人々に見えて共感できました。もちろんセレブな客層も会場にいたはずですが映さない。この映画のテーマを伝えるためには、その辺も意識して撮影していたのかもしれません。

M:現場体験した哲生君の印象と同じで、お洒落ではないですね(笑)。
チケットも、ロックコンサートと考えると安くはないですし、バーンのファンって、アメリカではこんな感じなんだな~と思って見ました。
マルチアングルで、コンサートをしっかりと理解してスパイク・リーが撮影していると思いました。
メッセージも字幕できちんと伝わり、映画ならではの理解ができました。

A:まずはこのショウそのものでバーンが劇場という時空を観客席を含めて意識しているような所が興味深かったですね。観客席を巻き込んでのトークと照明、それが”物語″(メッセージといってもいいですが)を共有して進めていこうという覚悟みたいなものを感じさせる。『ストップ・メイキング・センス』のステージは、観客もつられてダンスダンスという部分はあるとしても、直方体の舞台の時空の中でキンと完結しているように見える。その点、ショウとしての構成、設計の綿密さを思わせる『アメリカン・ユートピア』が、むしろ開かれた時空としてあろうとしているのが面白いですよね。あるいはこの映画のバーンの在り方がそういうオープンさを意識的に打ち出し、見る側にも積極的な印象として伝わってくるのかもしれませんが。
映画として俯瞰の視点、はたまた裸足のクロースアップ、顔のそれとマルチな視点、眼差しを導入して舞台にはない面白味を追及しながら、でも案外、ドキュメンタリー的に観客との対話を掬い取った部分のはみ出し方がより生き生きと迫ってきてバズビー・バークレーの人工的な俯瞰の幾何学模様を思わせる面白さもあるけれど、それよりはフレデリック・ワイズマンのアメリカなマーチングバンドの場面、その生気と共振してしまうような点の魅力についても考えてみたいなと思いました。

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★デイヴィッド・バーンと監督スパイク・リーの顔合わせに関しては?

A:ジャームッシュとはPVで組んだことがあるみたいですが、その方がすんなりくる気がしますね。スパイク・リーとは意外でしたが、でも、映画のメッセージ性を思うとやはりここにはリーが欲しかったということでしょうか。哲生くんが送ってくれた動画サイトの対談ではリーの初期の快作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』がよかったなんてバーンいってますね。ちなみにバーンは『トゥルー・ストーリー』を作る上でアルトマン『ナッシュビル』を視界に入れていたようで脚本のジョーン・チュークスベリーに参加を求め、辞退された後にも様々に助言を受けていたりと、映画に関して造詣も深そうだし、いい趣味しているんだなあ。監督としても面白い。

T:ありそうでないというか、大丈夫かな?という感じかな。笑
“Hell You Talmbout“の演出はスパイク・リーだからこそでしょう。
最期の“Everyboby‘s coming to my house”のデトロイト・スクール・オブ・アーツ版の挿入も。

N: スパイク・リーの演出は、コテコテな印象の彼らしくないシンプルですがリズミカルで素晴らしかったです。後半「Hell You Talmbout」での気合の入れ方はまさにスパイク・リーでしたが。監督が事前にどこまでデヴィッド・バーンを知っていたかは知りませんが、相当に時間をかけて事前予習したんじゃないかと思うくらい、独特なデヴィッド・バーンの特徴を捉えているのに感心しました。
何よりみなさんのおっしゃる通り、マルチ・アングルの撮影は秀逸。

M:二人の対談見ると、スパイク・リーは、二階席から見て、俯瞰撮影のインスピレーションを得たと言ってますね。
共に80年代にNYでデビューして、近くて遠い存在だったみたいですね。スパイク・リーは80年代のトーキング・ヘッズは見に行っていたようですし、バーンは『ドゥ・ザ・ライト・シング』のプレミアに行ったみたいな話もしていました。
80年代NYのブラックカルチャーとホワイトカルチャーの象徴みたいな二人が、今組むという事に、すごく意義があると思います。
同じ時代のNYの監督のジム・ジャームッシュがやったら、また違ったものになったでしょうね。もっとオフショットが増えたのではないかと想像します。
この映画で言えば、エンディングも良かったです。
ちょっと意外な感じで。バーンもNORTH FACE着るんだなみたいな意味も含めて(笑)。

スパイク・リーとの対談

★音楽、ダンスについてはいかがでしょう? ジョナサン・デミ監督の『ストップ・メイキング・センス』との比較は?

N:『ストップ・メイキング・センス』は臨場感があって擬似ライヴ体験ができる映画でした。今作は荒削りなライブ感とは対極の、感動するくらいの完璧さが際立っている印象です。 僕はスタジオ盤とこのブロードウェイ公演ライヴ盤の『AMERICAN UTOPIA』アナログ盤を両方とも所持しているのですが、正直言うと今回の映画版を観てやっとデヴィッド・バーンが伝えたかった事がちゃんと理解できたと思っています。映画にしか収録されていない曲間のバンター(MC)はデヴィッド・バーンらしい表現でいちいち笑えるし、実はとても重要なことを言ってました。

T:『ストップ・メイキング・センス』はラジカセ抱えたミニマルから、だんだんに音の厚みを増していく構成が素晴らしいですが、ドラムセットがセッティングされ、ラインにつながれた楽器での自由度なので、デイヴィッドは走り回り踊りまくりますが、フォーマットはコンサートですよね。 今回は先にも述べたけれど、ミュージシャンとして音楽的パートを担うとともにグループダンスとしてそれぞれの意味を担っています。その自由度の違いがコンサートとは違うショーを生んでいると思います。
デイヴィッドのヘンテコダンスはメリカ人も笑っていたけど、昔からシリアスさとユーモアのミクスチャーなんだけれど、昔のそれは感情の表出へのバリアみたいに感じられたけれど、今回はそれを超えたこうしているのが”damn good”(“I  Dance Like This”) だからと素直に感じました。

M:『ストップ・メイキング・センス』は、実は細かい記憶がなく、比較は難しいですね。
でもVHSビデオ買い、当時は何回も見ました。
トーキング・ヘッズのライブも、多分最後の来日公演で、トムトムクラブと一緒の時に見ただけで、その印象もあまり残っていません。何故かトムトムクラブは憶えているんですが。
比較は別にして、昔の曲の進化も、新しい曲のメッセージ性も素晴らしいと思いました。
ダンスは、バーンの得意とする部分で、今回も集団のマスゲーム的な動きが素晴らしいと思いました。
80年代も『ザ・キャサリン・ホイール』でバレエ~ダンスとのコラボレーションがありましたが、他のロックミュージシャンと比べると、ダンスに対するアプローチは、単なるステージアクションという領域を超えたレベルだと思います。
音だけではなく視覚的にも美しくかつユニークにステージを構成していくというバーン独特のスタイル、ライブコンサートというよりも、ステージパフォーマンスという言葉の方が似つかわしいショーの集大成ととらえています。
自分の感性でいうと、トーキング・ヘッズが活動していた時代では、やはり初期のエッジの効いた曲が好きでしたが、最近は『リトル・クリーチャーズ』など、カントリーぽい曲の方が好きです。
先ほども言いましたが、一時期はバーンの音楽的な多様性が、少し無節操にも見えて、あまり好きではなかったのですが、今改めてその懐の深さに魅力を感じています。

A:デミはスタジオ映画『スウィング・シフト』を思うように撮れない鬱憤を『ストップ・メイキング・センス』で晴らしていたとdvd所収の会見で元トーキング・ヘッズの4人が明かしてますが、バンドメンバーのインタビューとか舞台裏とかを一切、そぎ落としステージに的を絞り切った潔さに包まれてバーンのほとんど自閉的疾走、そのグルーブにスクリーンのこちら側でも巻き込まれる快感が今見ても凄い。それに比べると体形的にも丸くなったバーンの『アメリカン・ユートピア』での身体性は、チームワークによって完遂されていく、その磁力ですね。で、唐突なんですが、最初と最後に舞台の緞帳が映るでしょ、あれなんだか鳥獣戯画っぽく見えて、そういえば前半の振り付け、どこかお祭りの踊りめいたところもありませんでしたか? だからどうした、なんですがちょっと気になってます。あれ、バーンが描いたのかな・・・。(哲生くん情報によればMaira Kalman というイラストレーター/作家の作品なんですね。映画も撮ってるんだ!)

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★制服のようなグレーの衣装と裸足というバーンとバンドの出で立ちは形式と非形式、コントロールと自由、真面目さと遊び心、皮肉と誠意ーーといった対立項をめぐってバーンの世界を思わせてくれるとニューヨーク・タイムズ紙の評にありますが、映画としての、はたまた、コンサート・ショウとしての、あるいはアーティストとしてのバーンの面白さもそうした両極の存在と関係しているのでは?

N:デイヴィッド・バーンは2009年1月に来日公演をしています。僕は1/28今はなき渋谷AXでのショウを観に行きました。その時もすでにデイヴィッド・バーンを含めた全出演者は白いスーツで統一されていて、オフラインの楽器演奏者とダンサーが入り乱れながら縦横無尽にステージを動き回る、見事なコンテンポラリー・パフォーマンスが行われていました。今回の『AMERICAN UTOPIA』は、さらに無駄な要素が削ぎ落とされ、テクニカルな照明演出等も加わり、パフォーマンスの精度は何倍もUPしていました。まさにデイヴィッド・バーンの今の完成形をこの映画で観ることが出来ます。

T:確かにユニフォーム然としたグレーのスーツは没個性の様で、それを着る人たちの個性を逆に明確にしていますよね。一番堅固な靴を履かない裸足でのパフォーマンスは、前に触れた、観客に対しての無防備さを象徴していますね。
話はちょっとそれるけれど、
昔からデイヴィッドっておしゃれなんだろうか、わざと外しているのだろうかと思わなかった?笑
インタヴューとかも感情押えた抑揚のない受け答えだったり、あるいは『ツゥルー・ストーリーズ』みたいなアメリカーナだったり。
すごく複雑でアンビバレント。
“nothing but flowers”だってジョニー・ミッチェルの”Big Yellow Taxi“みたいなパラダイスに対してのストレートさはないし。ツイステッド。笑

どうしてここにたどり着いちゃったんだろう?これがパラダイスなんだろうか?みたいな感覚はデイヴィッドの歌詞によく登場しますね。
それと対になる”This must be the place”みたいなHome、自分の居場所みたいなことも。

A:アンビバレント、バーンの核心じゃないでしょうか。リンチともちょっと違うんですが幼児性と老成が今回もやわらかく混じりあっていて、でもメッセージの率直さ、まっすぐさの邪魔にはなっていない、そこが素敵ですね。

M:『ストップ・メイキング・センス』もですが、スーツというのはバーンの一つの表現になっていますね。今回のスーツは、色も形もよく、動きやすそうで、欲しいなと思ってしまいました。
『ストップ・メイキング・センス』の冒頭は、トップサイダーのデッキシューズのようなスニーカーでしたが、今回は裸足で、スーツと足元の対比というのは、確かに対峙的な構図にしているのかもしれません。

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★アメリカ、ユートピア/ディストピアの主題に関してはいかがですか?

T:バイデンになっても、トランプを支持したあれだけの層の想いは、リベラルなコレクトネスとは別に現存しているし、コロナ禍で人種問題もさらに加速度ついている様に思います。
まさにアメリカンユートピアとは対極なんだろうけれど、さっきも言ったようにそれでもReason to be cheerful を模索するそんなデイヴィッドへのシンパシーを”road to nowhere”で会場を練り歩く一団を観ながら感じました。

A:これは『トゥルー・ストーリー』の頃から一貫したテーマだとも思います。ただ、大きな政治みたいなものでなく、小さな足元からの呼びかけ、「ユートピアはあなたから始まる」とか「Us and You」ってスタンス、

M:これはやはりトランプの時代を皮肉るという意味合いが強いのではないかと感じました。映画で良かったのは、MCも歌詞も字幕付きで、メッセージを理解できた事です。
古い曲『イジンバラ』の意味合いも、30年近く聞いていますが、初めて理解出来ました。
ブロードウェイのショートしてこの公演をやるところに、劇場の中で体験するユートピアと、現実社会の隔世みたいな意味合いがあるのかなとも感じています。

★なんでもコロナと結びつけたくはないですが、また映画が撮られたのもコロナ以前のことですが、でも映画は世界の今をきっちり睨んでいるように思います。今、この映画を見ること、どのように受け止めましたか?

A:絶望的な今に絶望しないでいくことの強さを信じている、それが率直に伝わってきますね。希望なんていってしまうと陳腐ですが、シニカルでない呼びかけには応えたい、そう思えますね。

T:コロナが終息したら、ブロードウェイのショーは再開が予定されていましたが、それがなかなかかなわない中、映画化の意味も別のものになったように思います。

M:元々このライブには哲生君と一緒にNYに行く予定でしたが、個人的なタイミングが悪く、泣く泣くキャンセルをしました。
改めて映画を見て、ちょっと複雑な感情も湧きましたが、これは本当にわざわざ行く価値がある体験だったんだなと実感しました。
コロナの直前で、現時点ブロードウェイが最後に輝いた時期でもあったと思います。
この1年でコロナが出て、トランプも退場しました。
そしてこのようなライブパフォーマンスが現在も出来ない状況が続いています(回復の流れはありますが)。
今この世界を考える上でも、1年ちょっと前の記録であるこの映画を見る事は、重要ではないでしょうか。

劇場内緞帳

5月28日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、渋谷シネクイント他全国順次公開となります。
緊急事態宣言の状況で、公開は変わりますので、公式サイトでご確認ください。
監督:スパイク・リー 製作:デイヴィッド・バーン、スパイク・リー
出演ミュージシャン:デイヴィッド・バーン、ジャクリーン・アセヴェド、グスタヴォ・ディ・ダルヴァ、ダニエル・フリードマン、クリス・ジャルモ、ティム・ケイパー、テンダイ・クンバ、カール・マンスフィールド、マウロ・レフォスコ、ステファン・サンフアン、アンジー・スワン、ボビー・ウーテン・3世

2020年/アメリカ/英語/カラー/ビスタ/5.1ch/107分/原題:DAVID BYRNE`S AMERICAN UTOPIA/字幕監修:ピーター・バラカン
公式サイト
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予告編