『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』ゴスペルの神が降臨/Cinema Review-5

Cinema Review第5回は、『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』です。
2018年8月16日、惜しくもこの世をさってしまった「ソウルの女王」アレサ・フランクリンの1972年に教会で行われた幻のコンサート・フィルムが、49年と時を経てついに日本公開されました。1972年1月13日、14日、ロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブを収録したライブ・アルバム「AMAZING GRACE」は、300万枚以上の販売を記録し大ヒットしています。
監督(撮影表記)は、『追憶』の名匠シドニー・ポラック。
撮影時のミスで、永らくオクラ入りになっていましたが、テクノロジーの進化により作品が蘇りました。
レビューは、映画評論家川口敦子、川口哲生、川野正雄の3名です。

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川口哲生

アレサ・フランクリンの1972年1月13日及び14日、ロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブを収録したドキュメンタリー映画。
アレサは1967年にキャロル・キングの「ナチュラル・ウーマン」1968年にバート・バカラックの「セイ・ア・リトル・プレイヤー」でヒットを放っているけれど、これらもアレサ流に十分ソウルフルではあるけれど、やはり白人層にも受ける、ラジオでもオンエアされる選曲だったのではないだろうか?それに対して、この映画が捉えている音楽はまさにsounds of blacknessという感がする。コール&レスポンスと後乗りの独特のハンドクラッピング、同年リリースのダニー・ハサウェイのライブアルバムでも感じた観客との一体感やサクラなのと思うぐらいの合いの手のかっこよさ。これは彼女が映画にも登場する宣教師の父の元、子供の頃から馴染んできたゴスペル、自分たちの魂の音楽を誰にも遠慮せずに歌う姿だと感じる。
クアイヤ・スタイルのゴスペルを確立したジェームス・クリーブランドのしゃべりや演奏、毛皮やスーツで熱い中でも登場するあの感じ、宣教師の父親のスピーチの独特の抑揚と間、ワッツ・タックスのコンサート映画でも観る今のブラックスタイルとは違うあの頃のキメキメなブラックスタイル、そしてダンス。全てがblack peopleによるblack peopleのための場だ。
それをアポロシアターでジェームス・ブラウン観ていたように、観に来ているミック・ジャガーには脱帽。監督は何故に、シドニー・ポラックなのか?
チャック・レイニーとバーナード・パーディのフンキーリズム隊も渋い。1日目はキャッチーな馴染みのある選曲、2日目はよりディープなゴスペル。どちらも若いアレサ・フランクリンのエネルギーが満ちていて必見!

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川野 正雄
ライブ・ドキュメンタリー映画は世の中に数多くある。
好きなアーチストのライブには気持ちが高揚し、知らないアーチストを体験し、発見の喜びを感じる事もある。
同日に公開されたデヴィッド・バーンのライブ・ドキュメンタリー映画『アメリカン・ユートピア』も、感動的な作品である。
監督はスパイク・リー。ここでの感動は、表現者としてのデヴィッド・バーンの完成度の高さであり、そのメッセージに込められた意味合いに起因するものである。
映画の中で観客の存在感は薄い。それは際立っているステージパフォーマンスに、観客の視線を集中させる為なのかもしれない。
『アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン』から得られる感動は違う種類である。これまであまり感じたことのない強い共感性である。
演者と観客と会場が一体化することによって、大きなバイブスが生まれ、それが観る者の心を揺さぶる共感性に昇華しているのである。
アレサ・フランクリンを知らなくても、70年代のブラックミュージックを知らなくても、この映画のバイブスは、誰もが感じる筈だ。

僕自身は、もちろんアレサの事は知っているが、アルバムを多く持っているわけではない。
ライブ映像を見るのも、今回が初めてであり、このライブを収録したライブアルバムも聴いてはいなかった。
アレサファンというよりも、彼女が活躍した時代、60〜70年代のブラックミュージックファンであり、彼女の所属していたアトランティック・レコードのファンである。
とはいえ、『Think』『Chain of fools』『Respect』など好きな曲は多く、いずれも1960年代にリリースされており、一番好きな『Rock Steady』は、このライブの前年1971年にリリースされている。
アレサ・フランクリン正に全盛期の、教会という小箱のライブである。
監督はシドニー・ポラック。
シドニー・ポラックは、同じ時期に代表作『追憶』を撮っている。
改めて『追憶』を見直したが、完璧な演出のラブストーリーで、ここにも観客の心を揺さぶるバイブスが流れていた。
白人の人気シンガー、バーブラ・ストライサンドを、シドニー・ポラックは見事に使いこなしている。
全盛期同士のカップリング、最強のはずであった。
ワーナーが撮影するというアナウンスが流れるが、音声と映像のシンクロを失敗してしまう。
ライブ盤はコンプリートな物もリリースされているので、アフレコ的に作業を重ねれば当時の技術でも何とかなったように思うが、作品は長年オクラ入りであった。
アレサ自身は完成を望まなかったという話もあるが、現代のテクノロジーで、幻の作品は蘇った。

オープニングに登場したアレサの表情は、緊張しているようだった。
そして1曲目のパフォーマンスは今ひとつしっくりいないように見えた。
いつもと違う教会でのライブ。
しかし2曲目からアクセルが高回転になっていく。
教会でも構わず、どんどんグルーヴも増していく。
そしてアレサの汗もどんどん増えていく。
狭い教会での観客との一体感がすごい。
この時代のソウルミュージックのライブは、こんなにもエモーショナルなのか。
観客のダンスも、バッチリキメたスタイルも、完璧だ。
客席にはミック・ジャガーとチャーリー・ワッツの姿も。
1972年ローリング・ストーンズは、『メインストリートのならず者』をリリースし、ツアーを敢行。更にジャマイカに渡り、『山羊の頭のスープ』のレコーディングに入る。
そんな多忙な1年の初頭に、ミック達はこの場を訪れているのだ。
途中アレサの父親も登場し、このライブの意味合いを誰もが共有する。
益々パワーアップするアレサのパフォーマンス。
狭い教会の中で、アレサの歌は、天使にも神にも聴こえてくる。
アレサの歌に涙ぐむサポートメンバー達。
思い思いの態度で、エモーショナルに感情を表現するメンバー達。
今の時代では体験できない素晴らしい瞬間である。
音楽って素晴らしい。
改めて感じた。
ライブがなかなか体験できない今の時期、ライブの素晴らしさを改めて痛感した。

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川口敦子

「この映画を見ることはスピリチュアルな、宗教的な体験だ」(nonfiction.com12/8/2018)――1972年に撮影されてから2018年、オスカーレースをにらんでのNY限定公開、そして翌年4月の米一般公開までほぼ半世紀近くもお蔵入りとなっていた『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』、その内輪向けの試写でホストを務めたスパイク・リーの発言にまさに! と、映画を見ながら味わった興奮を重ねていた。同時にリーが監督作『アメリカン・ユートピア』のコーダとしてデトロイトの高校の聖歌隊の面々の喜々とした歌声をフィーチャーしていたことも思い出され、ゴスペル(福音)のルーツに立ち戻ったアレサ・フランクリンの教会でのコンサートに満ちていく高揚感との共振を改めて嚙みしめてみたくもなった。嚙みしめながらこの圧倒的な快作が日の目をみずに葬られかけたこと、なぜ、どうして? と、その経緯と背景への興味もむくむくと頭をもたげてきたのだった。

まずは時代のこと。72年1月に2晩にわたって行われたコンサート、その会場となったニューテンプル・ミッショナリー・バプティスト教会がLAのワッツ地区にあったという点にはやはり注目してみたい。なにしろそこは65年、白人ハイウェイ・パトロールが黒人青年とその親族を不当に乱暴に扱い逮捕して勃発した一週間に及ぶ暴動の舞台に他ならず、それを端緒として差別に対する火の手が全米に広がることにもなった、要は公民権運動の熱い盛り上がりをリマインドさせずにはいない場所なのだから。暴動の記憶がまだまだ生々しく燻っていたはずの72年、その時空を思ってみるとフランクリンの、聖歌隊の、熱唱に息づく祈りの心が空気を染め上げていく様にいっそう胸打たれる。
いっぽうで、そんな霊的、宗教的イベントにも音楽、映画業界それぞれのコマーシャルな欲望が食い込んでもいたこと、それもまたいつの時代にも共通する苦い現実として見逃すわけにはいかない。ソウルの女王フランクリン絶頂期のコンサートをライブアルバムにするいっぽうで『モンタレー・ポップ』『ウッドストック』と往時、大ヒットを飛ばし、文化的現象ともなっていたコンサートの記録映画、そのアレサ・フランクリン版でまたヒットを、との思惑がハリウッドに渦巻いていたのもまた事実だろう。

フランクリンが移籍していたアトランティック・レーベルを傘下に収めたワーナーの重役テッド・アシュリーが製作を務め、ピンク・フロイドのドキュメンタリーを手掛けたジョー・ボイドが実作面の協力者として名を連ねて始動したフランクリンの映画プロジェクト、その監督として当初、ボイドは二本立上映を予定していた『スーパーフライ』(こちらも当時のトレンドのひとつだったブラック旋風映画の代表格)の撮影監督ジェームズ・シニョレッリ(「サタデー・ナイト・ライブ」に参画、ときくとベル―シ+エイクロイドの『ブルース・ブラザース』のこと、そこにフランクリンも登場していたなあなどとつい、脱線したくなるのだが)に白羽の矢を立てていたという。ところがボス、アシュリーは『ひとりぼっちの青春』でオスカー候補となり、レッドフォード主演の『大いなる勇者』を次回作に控える注目の監督シドニー・ポラックの起用を決めてしまう。『追憶』『コンドル』と続くレッドフォードとのコンビ作、あるいは『ボビー・ディアフィールド』と、ポラック監督作の面白さは今、もっと見直されてもいいと常々思っているのだが、72年の時点でその”話題の人″ぶりに目を奪われたスタジオの製作の判断は些か問題だったかもしれない。
ドキュメンタリーの経験のないポラックの下、集められた4,5人の撮影スタッフは16ミリフィルムを思う存分回し続け、臨場感あふれる映像を掬い取った。が、ロールごとに音声とのシンクロのためのカチンコの目印を入れるのを怠るという致命的ミスを冒してしまった。それでも時間が十分にあれば手作業でシンクロ作業を続けることも不可能ではないはずと、知人の記録映画制作会社元スタッフは語ってくれもしたのだが、それをするより『大いなる勇者』のお披露目上映のためカンヌに行くことをとったポラックにはその後も新作が続き、ボイドとの連絡が途絶え、フランクリンのコンサートを収めたフッテージはスタジオの倉庫で眠り続けることになったのだった。ポラックを責めるつもりはないけれど、俳優修業から監督に進出した彼にはドラマへの興味、その分野の演出力はあっても『ウッドストック』で製作助手のみならず編集も務めたスコセッシの場合のように音楽、そしてコンサート・フィルムに対する意欲や技術を存分に持ち合わせてはいなかった、といった事情もなくはなかったかもしれない。

その後の紆余曲折をかいつまむと、アトランティックでフランクリンのプロデューサーを務めたジェリー・ウェクスラー、彼の下で働いていた青年アラン・エリオットが90年前後、お蔵入りとなった映画のことを聞いて以来、発掘、復活に向け繰り返し私財を抵当に入れての努力を続けた結果、『アメイジング・グレイス』の感動が世界に解き放たれることになる。
その途中で他ならぬフランクリン自身による上映阻止の訴訟が一度ならず起こされもした。それは映画界でもスターにというソウルの女王の夢を打ち砕くことになった撮影後の顛末にフランクリンが深く傷つき怒ったからだろうと、エリオットはコメントしている。いっぽうでがんで逝去する間際、ポラックとコンタクトを取ったエリオットは彼が映画の完成に心を砕き、スタジオと交渉もしてくれた、共に完成に向けてアイディアを練り、女王と聖歌隊をあのワッツ地区の教会に再び招いて映画のエンディングにするといった案も飛び出していたのだと明かしている。極言すれば一度はキャリアのために完成を待たず放り出したプロジェクトへの後悔か、罪の意識か、監督ポラックのクレジットを同作から取り去るようにと逝去後、家族を通じてエリオットに要請されたという。また一時はドキュメンタリー『ブロックパーティ』(スタンダップ・コメディアン デイブ・シャペル発案のブルックリンでのライブ・イベントを記録)の腕を買われた監督ミシェル・ゴンドリーが協力、スケジュールの都合で離れた彼の推薦で編集のジェフ・ブキャナンが完成をめざしての作業で尽力したともエリオットは述懐している。

大急ぎで振り返ってみると映画の復活に向けてのドラマで新たな映画ができそうだが、そんな背景を知るにつけ歳月を経て届けられた映画、銀幕に刻まれたフランクリンの熱唱にいっそう深く神の恩寵とも呼びたいようなものを感じたくもなってしまう。

撮影:シドニー・ポラック『愛と哀しみの果て』 映画化プロデューサー:アラン・エリオット
出演:アレサ・フランクリン、ジェームズ・クリーブランド、コーネル・デュプリー(ギター)、チャック・レイニー(ベース)、ケニー・ルーパー(オルガン)、パンチョ・モラレス(パーカッション)、バーナード・パーディー(ドラム)、アレキサンダー・ハミルトン(聖歌隊指揮)他
原題:Amazing Grace/2018/アメリカ/英語/カラー/90分/字幕翻訳:風間綾平 /
2018©Amazing Grace Movie LLC 配給:ギャガ GAGA★ 公式サイト
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