『いとみち』世代を超えた津軽三味線バトル/ Cinema Review-7

 

(c)2021『いとみち』製作委員会

Cinema Review第7回は、レビューとしては初めての日本映画『いとみち』です。
監督は『ウルトラミラクルラブストーリー』、『俳優亀岡拓司』の横浜聡子。
地元青森を舞台に、会話が苦手な女子高生の成長を、見事な演出で描いています。
レビューは映画評論家川口敦子と、川野正雄の2名です。

★川野 正雄
津軽三味線を描いた映画というと斉藤耕一監督の『津軽じょんがら節』と、新藤兼人監督の『竹山ひとり旅』を思い起こす。
どちらも1970年代の独立映画特有の重さ、暗さ、人間の業などが描かれ、荒涼とした津軽の風景と合い重なり、自分の中の津軽三味線のイメージは、そのまま今日まで2本の映画の延長線上にあるものだった。
『津軽じょんがら節』は、同じ斉藤耕一監督の岸惠子、ショーケンの逃避行を描いた『約束』の延長線上にある荒涼とした恋愛映画。その年のベスト1に選ばれるほど評価が高い作品である。

https://youtu.be/v4lCi_GdwNo

三味線第一人者高橋竹山を描いた『竹山ひとり旅』は、渋谷のライブハウスジァンジァンも制作に参加し、竹山本人も出演するドラマ+ドキュメンタリーを先駆的に作った傑作だった。詳細な記憶は薄れたが、高橋竹山の三味線はブルーズ・ロックのようで、当時ジァンジァンでの動員が大きかった事が納得できる強烈なものだった。
主演は林隆三。ピアノの名人林隆三の三味線演奏シーンも素晴らしく、生涯の最高傑作とも言える代表作になった。貧困の中生き抜く竹山の旅芸人としての半生が描かれていたが、新藤兼人監督らしく、差別的なテーマにも真正面から向き合うものであった。

https://youtu.be/74bvEQwF0BM

『いとみち』は、現代の高校生の視線で三味線が描かれ、そういった過去の映画にある暗さや重さとは無縁である。
しかしおばあちゃん役の西川洋子は、高橋竹山の一番弟子であり、間違いなく壮絶な時代を、竹山と共に生き抜いた人である。
この西川洋子の出演が、作品全体をまず担保している。
駒井蓮演じるいとは高校生。祖母から三味線を学んでいたが、一旦三味線から距離を置いていた。映画の基軸は、いとがどう三味線と向き合っていくのかだ。その中にいとの人間としての成長も描かれていく。
監督の横浜聡子は、現代の課題として、ジェンダー、職業、訛りなどの差別に、映画の中で向き合っている。
家族、同級生、職場など、周囲からのちょっとした事への視線が、小さな事でも人の心を刺してしまう。
人間の心のデリケートな部分を、横浜聡子監督は、観客が自然に共感性を持てるように、描いている。

(c)2021『いとみち』製作委員会

これまでの横浜聡子作品は、狙い過ぎ、ひねり過ぎの演出がややあり、その分メッセージも曖昧になってしまうケースがあったと思う。
しかし『いとみち』は、苦境を乗り越えるポジティブなメッセージが、ダイレクトに伝わってきて、心地よい。
出演者の中では、同級生役のジョナゴールド(りんご娘)の存在感が素晴らしい。
彼女によって、この映画はネガティブな局面が、ポジティブな局面に一変する。

地域の伝統芸能が、どう継承されていくのか、都会にいる自分達は、ほとんど考えた事のないテーマである。
ご当地映画、伝統芸能映画では、関係者の思いが強過ぎると、バランスを欠くケースがある。
しかしこの映画は、少し私たちと距離感のあるテーマを、意外なほどすんなりと、身近に感じさせてくれる。

(c)2021『いとみち』製作委員会

いとと祖母の共演、ラストのライブなど、三味線の魅力もふんだんに味わえる。
先人たちの深い想いをベースにしながら、今の時代の三味線を描く『いとみち』。
青森という土地の魅力もあり、見た後の爽快感が素晴らしい。
セルクルルージュのHPを始めた頃、青森大学の新体操部を描いた映画『FLYING BODIES』の上映で、青森を訪れた。その時に体感したポジティブな青森の人たちとの触れ合いを思い出した。
『いとみち』は、先人達へのリスペクトと、周りにいる人たちへの愛に溢れた映画である。

(c)2021『いとみち』製作委員会

★川口 敦子
“女性監督″とわざわざくくって特別視する世の中のよくある姿勢になんだかなあと合点がいかない思いを嚙みしめる。嚙みしめつつ、そんな余計なくくりをあっけらかんと踏み超える快作を放つ女性監督がぞくぞくと登場してくる今にはやはりにんまりとうれしい気持ちを抱えてほくそえみたくなってしまう。それって同性としてくくりに縛られていることじゃないかと、面倒な理屈が頭をもたげもするが、でもとうっちゃり涼しい顔で映画が素敵、それが肝心と念を押してみたくなる。

(c)2021『いとみち』製作委員会

 
つい最近もそんなにんまりのうれしさを味わった。コロナのせいでイレギュラーな形とはなったものの昨年カンヌの正式エントリー作に選ばれたスザンヌ・ランドン監督・脚本・主演作『スザンヌ、16歳』(8月21日ユーロスペース他で公開予定)を前にした時だ。15歳でものした脚本を20歳前に映画化したランドンの快作は、年の離れた俳優への淡い初恋の想いに染まる16歳の少女の気持ち、そのふんわりとやわらかなおぼつかなさを細やかに掬いあげる。判ってくれない大人に抗うとか、いじめに悩むとか、暴力的な衝動を抱えて暗闇に逼塞する――とかとか、青春映画につきものの悩みや息/生き苦しさ、鬱陶しさをさらりとかわして退屈という、いってしまえばそれもまた思春期のクリシェに他ならぬ感触をしかし新しく透明な空気の中を漂うようにすりぬけていくスザンヌの蕾の春の奇妙なくもりのなさに惹き込まれずにいられなくなる。そうしてこの奇妙に透明な仄明るさの磁力はりんごの津軽で蕾の春を、初めはそろそろうつ向きがちに、それからゆっくり顔をあげ、やがて全力疾走で駆け抜けていく16歳、相馬いと、『いとみち』のヒロインが銀幕上で全開にするそれと鮮やかに共振し、ここにも有無を言わせず存在している注目すべき女性監督横浜聡子の素敵を改めて吟味せずにはいられなくする。

 既に短・長編合わせて確かなキャリアを積んできた横浜の映画はいつも自由ということの真意をきっぱりと指し示し勇気づけ励ましてくれる。『ウルトラミラクルラブストーリー』『りんごのうかの少女』に続いて故郷、青森を舞台に聞き取りの困難さもなんのその手加減なしの津軽弁で押し通すその新作もまた、ストーリーテラーとしての成熟を確かに感じさせながらも、生と死の境界も夢と現,正と異のそれもあっけらかんと無化して恐れず混沌の強さを探り当てる。物心つく前に逝った母の面影をいとは髪をすいてくれた櫛の歯の感触の懐かしさとして想起する。現実の物語りと頭の中、記憶の景色がことわりもなく並びたっている。記憶の感触が現実のそれとして蘇る時、泣くことを忘れていたいとの頬に涙が伝わる。目をあげるときっとそこにある岩木山、聖書を引いて助けは何処よりと呟いた太宰を遠いこだまのように思わせて要所要所になだらかな山の姿が挿入され、いととその世界の涙ぐましさを仄明るさが包み込む。じわじわと生の活力がせり上がる。メイドカフェ再建、そこで働く面々、同級生早苗、それぞれがそれぞれに抱えた問題に安易な答えを探り当てるわけではなく、けれども映画はしぶとくやわらかに生き抜く術を思い、その力を裏打ちするように祖母から亡き母へ、さらにいとへと継承される津軽三味線、撓う幹の強みを思わせる重低音を響かせる。
「しゃべればしゃべるほどひとりになる」「ふたしか、いきるってそういうことだべ」――滋味深い台詞の余韻を胸に、エンディング父と上った岩木山、その山頂から見下ろす下界をめぐるいとの感懐もまるごと共に抱きしめたい。

(c)2021『いとみち』製作委員会

『いとみち』6月25日より全国順次公開中。