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『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』監督インタビュー

正直いってフラメンコにとびきり惹かれたことはなかった。知識も興味もなかった。なのに『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』には圧倒的に惹き込まれた。知識はなくてもその歌を、その踊りを、あるいはそれを歌う“部族の長老たち”(原題)の顔、声、そこに息づく生の気迫にうちのめされた。彼らが語る洞窟のフラメンコの黄金時代の記憶には、血や土地や歴史の翳りの部分もまた呑み込まれているのだが、活き活きと弾んで迫りくる言葉はやわな感傷などを打っ遣ってただただその生きる力に見惚れていたいと思わせる。

静かだけれど鮮やかな活力に満ちたこのドキュメンタリーを撮ったのは、62年グラナダ生まれのチュス・グティエレス。80年代ニューヨーク、技術はなくてもやりたいことをやりたいようにしてみる時代の心意気を、”フラメンコ・ラップ”で実践した彼女は、「実験する贅沢が好き」と歯切れよく言い放つ。いっぽうで写真撮影をと取材の最後にリクエストするとポーズの前にまずは口紅をね、と衒いなく目配せしてみせる。そんないやみでない女っ気もまたチャーミングだった。

チュス・グティエレス監督。チャーミングな監督さんです。

――もちろん映画やテレビ等で見ることはありましたがフラメンコの熱心なファンというわけではなかった、それがあなたの映画『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』で洞窟のコミュニティによって残されてきたフラメンコに初めてふれ、その強烈なパワーに圧倒されました。監督がこのテーマで撮ろうと思ったきっかけは? プレスのインタビューを読むとやはり、映画で案内役を務めるサクロモンテ出身のトップ・アーティスト、クーロ・アルバイシンさんとの出会いが大きかったのですか?

チュス・グティエレス(以下C) そうね。クーロのことは子供の頃から知ってはいたんです。両親のホームパーティに踊りに来た彼と出会っていたので。12歳の頃かしら。それからずっと会うこともなかったんですけど、私の映画の公開イベントのために20数年ぶりに再会したんですね。その時にクーロがこれまでやってきたことを話してくれた。で、彼がしようとしているのはサクロモンテの丘にまつわる記憶をとどめておくということ、そこにどういう人が住んでいたのか、いるのかをすべて記録しようということなんですね。それを聞いて初めてこのドキュメンタリーを撮ろうと思いました。

――この映画以前にはずっと劇映画を撮られていたんですね。フィルモグラフィーを見ると『アルマ・ヒターナ/アントニオとルシアの恋』(95)という映画もありますが、ここではヒターノ(語尾ナは女性形、スペインのロマ、ジプシーにあたる言葉。アンダルシアでは誇りをこめてヒターノ(ナ)と自称するという)と非ヒターノの恋を描いたそうですね。クーロさんの話を聞いてドキュメンタリーを撮ろうと思う以前から社会の外部にある存在をテーマにしていたのですか?

C 今回の映画と『アルマ・ヒターナ』は直接的に関係しているわけじゃないんです。

そうですね、アウトサイダーというか、社会の外部の存在への興味というのもありますが、『アルマ・ヒターナ』に関してはまたちょっと別で、マドリードにラバピエスという地区があって、多様な文化圏の人々が集まっている地区で、貧しい人たちも多いんですが、あの映画ではそこを背景にした愛の物語を描いてみたんですね。

――なんていう地区ですって?

C ラバ・ピエス、ラバールが洗うでピエスが足って意味なんですが(”洗足”みたいなもんですね(笑)と通訳氏がフォローしてくださる)

――ああそうなんですね。そういえば監督は80年代にニューヨークで“フラメンコ・ラップ”グループxoxonees(https://www.youtube.com/watch?v=Z565NqaBIbE)で歌やダンスを披露してらしたんですよね。あの時代のニューヨークもまた混沌としたエスニックの文化が魅力的だった、そのあたりに惹かれてニューヨークを目指した部分もありましたか?

C いえ、ニューヨークにはあくまで映画の勉強に行ったんです。当時、スペインには映画学校がなかったので、それでニューヨークに行っただけのことなんです。

――あ、そうなんですね。で、“フラメンコ・ラップ”グル―プ結成はどういう経緯で?

C ま、すべてはもう偶然なんですけど(笑) ニューヨークでスペインから来ている子たちに出会って一緒に何かしようってことになったんですね。ほんとに楽しもうってだけのためにしたことでした。あの頃、80年代っていうのは音楽にしても、アートにしてもなんていうか完璧でなくてもよかった、歌うことをきちんと学んで知っていたりしなくても歌えたし、楽器だってきちんと技術がなくても弾いてよかったのよね。

――確かに映画にしてもジャームッシュとか、まさにやればできるというような、我が道を往くNYインディたちの流れが出てきた、面白い時代でしたよね。

Cそう、そう、ちょうどそういう時期にラップもまた勢いづいてきた、それで私自身もそういう流れにすごく啓発されたし、おおっという感じをもったりもしていたので、じゃあ自分たちも何か――となって、だったらスペインから来たんだし、フラメンコ+ラップでいこうみたいなことになったわけ。

――取材前にちょっと動画を見せていただいたんですがすごくかわいい! パブリシストからはスリッツみたいとの声もありましたが。あのフラメンコのひらひらしたフリルいっぱいの衣裳とかもご自分たちでコーディネートしたんですか?

C スペインからヒターナの衣裳を持参していたのね。

――ニューヨークのその時代、70年代後半からの時代というのは実際、音楽でもパンクのあとのニューウェーブにしても自分たちで技術はなくてもできるという気運があってすごく興味のあるところなんですが、そういう時代の流れをまさに実践し、呼吸した後でスペインに帰国された時はどんな感じでしたか? アルモドバル等が先導したマドリードの文化の新しい波ラ・モビーダの頃になるのでしょうか?

C 私が帰国したのが87年なんですね。フランコの独裁体制が75年に終わって、それから10年ちょっとという時期で、実際、帰った時はあらゆる実験的なものが爆発したような時代でしたね。中でもその爆発がいちばん大きかったのが音楽だったと思います。もちろん映画もそうなんですが、何よりも社会自体にものすごい活気があった。40年間も続いた独裁政権でしたからね、いいたいこともいえずに、あとセックスも教会に管理されてといったところから国が、社会がいっきに開かれた、そんな感じだった。ですから若者たち、私も含めてですけど、みんなが、これからすごく新しい国を作るんだと、そういう”幻想”を抱いていた時代でしたね。

――裏返すとフランコ政権があったから外国に、ニューヨークやその前に英語の勉強に行ったロンドンに自由を求めるといったこともあったのでしょうか?

C ノ、ノ、それはないです。自由とかじゃなくあくまで勉強だけのために行ったのよ。


――それではそもそも映画を学ぼう、撮ろうと思ったのは?

C これもある意味では偶然でしたよね。子供の頃から私はずっと物語を書くことが好きで作家になりたいと思ってたんです。で、18歳の頃、当時、まだ大学ではさっきもいったように映画科はなく情報科学という学部の中に映画も押しこめられているといった時代だったんですけど、そんな中でも映画を学んでいる友達がいて、たまたまアパートで同居したりってことがあった。ちょうどその頃、私はタイプライターの勉強をしていたので、彼女たちが書く脚本の清書を請け負って、その脚本を読みながら、ああ、これは物語を語るもうひとつの方法なんだと気づいて、それで自分も映画をやりたいなと思ったわけなのね。

――普通、監督をめざすというとまず映画が大好きでとか、誰かの映画を見て夢中になってといった動機があがりますが、あなたの場合はちょっと異色の経路ともいえますね。

C 確かに。

――となるとこの質問は的外れかもしれませんが、念のため、好きな監督は?

C ものすごく沢山います(笑)。どちらかというと商業映画はあまり好きじゃない。実験して何かを探る、そういう贅沢をしている監督が好きです。

――実験する“贅沢”、なるほどですね。例えば日本だとフラメンコのことを撮っているというとやはりまずはカルロス・サウラの名が出てきたりするんですが?

C もちろんサウラは素晴しいことをした、そう思います。特に『血の婚礼』はスペイン人全員が驚いた、ああいう踊りも見たことがなかったし、ロルカの原作をあんなふうに映画化できるなんて誰も思っていなかったので。彼はスペインにとっても、世界にとってもひとつの扉を開いた人だと思います。

――チュスさんの『サクロモンテの丘』もまた別の新しい扉を開いてくれる、そういう映画でした。フラメンコがある種、権威づけられたアートとしてあるとしたら、それとは全く別の、生きる力のようなものとして脈々と生き延びているんだと、この映画を通じてそういう事実や歴史が迫って来たので。

C ありがとう!

――こちらこそ監督と映画にありがとうといいたいです。

ところで無知な質問で心苦しい限りなんですが、映画の中で長老たちが十八番の踊りや歌をそれぞれに披露する場所、ステージでもあり壁に写真や肖像が飾られた居間でもあり、調理器具が天井に吊るされたダイニングのようでもあるあの場所は? あれが洞窟の”サンブラ“なんですか?

C あれはクーロの家なんですね。現存しているサンブラじゃあないのね。元々、グラナダのサクロモンテ地区のヒターノたちは洞窟に住んで、そこで生活し、そこで踊っていたんですね。そう職住近接というか一体の、そこで寝て、そこで料理して、そこで食べて、そこで踊る、そういう場所だったわけ。

――あの場所を基本的に真正面から引きの画でまず捉える姿勢もいいなと思ったのですが、踊りを撮るのにテイクはどのくらい重ねたのでしょう? キャメラの数は?

C 3台のキャメラで撮りましたが、すべてワンテイクです。一度しか回していません。なにしろ踊り手のみなさんがもう年配の方たちなので、そう何度も踊れない。一回踊ったら終わりという(笑)

――まさに生のステージを記録するのといっしょですね。

C そうそう

――原題は『部族の長老たち』という意味だそうですが、演者の選択もクーロさんが?

C はい、本当に彼がいなかったら何年かかってもとても完成できなかったと思う。クーロはみんなと繋がりをもっていましたから。彼がいろいろな人たちを紹介してくれて、その中から誰が出るかを決めていった、まさに案内役でした。

――あそこまでコミュニティの中に入り込んで撮れたのも彼のおかげですね。

C ええ。それと深めるにはやはり時間がかかる。何よりも時間を十分にかけることが必要でしたね。

――撮影に至るまでに何度も通って話を聞くことをしたんですか?

C もちろん何度も足を運んで、まずはサクロモンテの丘を熟知するまで通って、その後、クーロに紹介してもらった人たちにインタビューをして、その中から核になる4人を選んでいきました。

――映画の魅力はその老人たちの語りにもありますね。世代も違う人たちに心を開いて語ってもらう、コツは何かありましたか?

C 幸運でしたね。ただ昔からなんですけど私にとってはインタビューってそう大変なことじゃない、むしろ簡単なことなのね。多分、そういう才能に恵まれているんだと思うんですが、人から告白してもらうのがわりにうまいんです。


――映画も学校がなかったということでしたが、フラメンコの踊りも歌もやはり学校では教えられないものなんですよね。

C いまは学校もありますがここで語ってくれている”長老”たちの時代にはまったくなかったので、生活の中で見ながら、聞きながら覚えたんですね。

――洞窟の時代のものはレコードに残っているんですか、

C 何らかの形で録音されたものはあるかもしれませんけど、私が探した限りではみつからなかった。洪水で洞窟からみんなが退去させられた1963年以前のものということを考えると、当時は録音も今と違って大がかりだったでしょう。貧しかったスペインでは難しかったと思いますね。

――ギターの人がすごくうまいと思ったんですが、レコードもなくてどうやって身につけたんでしょうね。

C これも見よう見まねで覚えたんですね。ひとついっておきたいのはサクロモンテのフラメンコというのは音楽も含めてその価値をきちんと認められたことがなかった、常に蔑まれてきたフラメンコなんですね。

――ガルシア・ロルカが彼らの存在に魅了されて光りを当てましたね。

C 彼の「ジプシー歌集」は確かにあります、でもあれは彼の作った詩なんで、丘の上の彼らのオリジナルの歌も詩も踊りも曲も彼ら自身のものは記録されていなかった。この映画を作る中で、おそらく50年代ごろ、観光客がやってきた一時期なら、あの頃のお金持ちなら8ミリフィルムで撮ったりもしたんじゃないかと、いろいろ探してみた。でもみつからなかった。映画に入れたモノクロの16ミリの素材が唯一、you-tubeでみつかったものでした。

――ちょっと日本の歌舞伎のことも思い出されてくるんですが。つまり歌舞伎も今は学校もありますが、基本は人から人へと伝承されるアートで、しかもかつては蔑まれた時代もあった――と、そう考えるとサクラモンテの洞窟のフラメンコと通じるものがあるようで興味深く思えました。で、監督は声高に差別された民といったメッセージをこの映画で伝えるのではなく、長老たちが語る中でああ、そうだったのかと自然に思い至るような形をとっていますね。暮しの中でこうして生きてきたんだなというのが見えてくるのがすごくいいなと思う。

C それは自然にというよりそうすることを目的として始めた映画なんです。暮しのこと、その思い出を語ってもらうということ。だからこの映画の中では年配者たちにしかインタビューしていません。若い人たちは当時のことを知らないから。1963年に洪水があって誰もが洞窟から退去させられた。洞窟の中で踊って生活していたというのはそれ以前のことです。その頃、サクロモンテの丘に暮らした人たち、63年以前を経験した人たちにしか話を聞いてはいないんです。その頃の暮しを知っている人たちの記憶を再構築するというのがこの映画の大きな目的でした。50年代ぐらいからハリウッドやラテン・アメリカ、メキシコといった様々な国の人たちが観光客ではあっても興味をもってサクロモンテを訪ねてきた、そういう時代があった、その頃を、いわば黄金時代を体験した人たちの記憶です。この黄金時代に子供たっだり青年だったりした人たちの思い出を採集したんです。彼らの記憶、サクロモンテの黄金時代の記憶をとどめること。それが映画のめざしたことでした。

interview by Atsuko Kawaguchi,Masao Kawano

『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』

●公開表記:
2017年2月18日(土)より、有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか順次公開中

監督:チュス・グティエレス/参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、ラ・モナ、ライムンド・エレディア、ラ・ポロナ、マノレーテ、ペペ・アビチュエラ、マリキージャ、クキ、ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、チョンチ・エレディア他多数
日本語字幕:林かんな/字幕監修:小松原庸子/現地取材協力:高橋英子
(2014年/スペイン語/94分/カラー/ドキュメンタリー/16:9/ステレオ/原題:Sacromonte: los sabios de la tribu)

提供:アップリンク、ピカフィルム 配給:アップリンク 宣伝:アップリンク、ピカフィルム
後援:スペイン大使館、セルバンテス文化センター東京、一般社団法人日本フラメンコ協会

高井戸のGiardino dal 1971

行くべき店や行ってみたいお店は数あれど、通いたくなるお店に巡り会えた時の嬉しさはまた格別なものがあります。今回ご紹介するジャルディーノ(Giardino dal 1971)はイタリアンなのですが、今まで食べ慣れたそれらとは一戦を画く、自分にとっては新たなジャンルと言ってもいいくらい新鮮な印象のお店です。

吉祥寺から京王井の頭線各駅停車で5つ目の高井戸。美味しい店がある印象のないこの駅から徒歩5分、交差する環状八号線から斜めの小道を入ってすぐのところにジャルディーノはあります。約10年間イタリアで修行したオーナー・シェフの太田さんは、北から南までイタリア各地を巡りながら、日本人である自分の華奢な身体に合った、重すぎない、毎日食べられる、身体に良い、本当に美味しい料理を探し求めてたどり着いたのが、イタリア半島中央のちょっと上に位置するマルケ州の、それも海沿いではない内陸は丘陵地区の農民料理だったそうです。
イタリアンにありがちな強い塩味でパンチを効かせるようなこともなく、高価で派手な食材に頼ることもせず、野菜や豆を多用する調理法は庶民的ですが、素材そのものの旨みやコクを最大限生かした滋味溢れる料理を、リーズナブルかつ小さなポーションで色々楽しく味わうことができるお店です。
肝心のワインですが、イタリアはもちろんのことフランスの美味しい生産者のものや、東欧のマイナーなものまで、自然派ワイン=ヴァン・ナチュールのライナップがかなり充実しており、毎回赤・白それぞれ5〜6本の中からグラスでもボトルでも快く注文に応じてくれます。その際にはどんなに忙しくても太田さん本人が、ボトルごとに、生産者、生産地、ブドウ品種、生産方法から、味、香り、印象など、一本一本時間をかけて丁寧に説明してくれます。また料理をサーヴする際も、その成り立ちや現地の食べ方など一皿ごとに教えてくれるのもイタリアの庶民文化が窺い知れてとても楽しみです。
以前このサイトでご紹介した、東松原のCHERRYもそうなのですが、このジャルディーノも料理からワイン・サーヴまでたった一人で切り盛りしています。美味しいのが一番ですが、料理と自然派ワインを心から愛し、妥協を許さず我が道を行っている彼らとの楽しいひとときは時間が経つのも忘れてつい飲みすぎてしまいます。派手さはなくマイペースなジャルディーノですが、また行きたくなるとても魅力的なお店です。

まずは、食事前にワインを選びながらつまむサービスの突き出し『パスタレッレ』をいただきました。決まった形はない焼き菓子だそうで、今回は小さなビスコットの形にして、つなぎに赤ワインを使っているので赤ワインに漬けて食べる方式で。イタリアではおじいちゃん達の大好物だそう。

今回選んだワインは『ブレッサン カラット2011』
濃い色のしっかりした白。ヴァン・ナチュールの割に時間が経ったボトルですが、見た目の印象以上に果実味が残っているのは良いブドウを使っている証拠。時が経つとワインとは思えないスモーキーな感じも出てきて時間ごとに変化を楽しめます。魚介類以外ならオールマイティに負けません。

毎回行くたびに必ず頼んでしまう前菜『ブッロ・エ・アリーチ』ちょうどいい大きさにカットしたホカッチャの上に独自の製法で作ったアンチョビと発酵バターを乗せたおつまみ。癖になります。

『ホウレン草とグラナパダーノチーズのサラダ ミルフィーユ仕立て』
一見グリーン鮮やかなただのサラダですが、食べてみるとホウレン草とチーズが確かな層になっていて口の中でミルフィーユ状態になります。上に乗ったレモンの皮とホウレン草の組み合わせが新鮮です。

こちらもサービスで出してくれた『トルタ』
本来はジャガイモを擦ってお焼きのように焼くところを、日本ですし旬なので出汁で下ゆでした里芋で作り、上に柚子を乗せたとのこと。レンズ豆のピュレ、自家製の酸味のあるチーズ、チャービルと一緒に。

『モルタデッラソーセージをのせたポテトサラダを北海道産山わさびと共に』
薄切りのソーセージの下には潰していないポテトサラダが敷かれています。すりおろした白い山わさびが不思議とイタリアンらしさを助長しています。

『京菜の温かいサラダをポテトピュレとアンチョビパン粉と共に』
シェアしづらい料理を頼んだ場合、ここでは量を半分にして2皿に分けてサーヴしてくれます。アンチョビのコクと塩味が効いたパン粉が香ばしい、日本の京菜でアレンジしたスプーンで食べる温かいサラダ。

『豚のカシラ肉とフキの煮込み”スペッツァティーノ”』
豚と野菜を少しのトマトで煮込む料理だそうですが、今回はオリジナルアレンジでフキを使ってみたとのこと。フキがまるでルバーブのようで意外と洋風煮込みと合っているのと、フキ独得の歯ごたえが心地よい一品です。

『イタリア風ミートボール”ポルペッティーネ”とホウレン草の煮込み”イン・ズィミーノ”風』
こちらも素朴な煮込み料理。肉の風味と野菜の旨みを楽しめます。

『自家製ソーセージ”サルシッチャ”』
今まで色々なところでサルシッチャは食べてきたつもりですが、ここのはまた格別です。バラ肉と肩ロースを塩と胡椒でシンプルに味付けしてワインで軽く風味付けしただけとの事ですが、何か他に入れてるんじゃないの?と疑いたくなると美味さです。付け合わせのレンズ豆もいい。

『月曜日のラザニア』
名前の由来は、日曜日の食べ残しを月曜日に食べるイタリアの古い習慣から。あえて出来たてでない温め直したラザニアです。パスタは柔らかめですがソースとの一体感は作り置きの方が美味しいのかもしれません。

『メレンゲのお菓子、チャンベローネ、カスタローネの3点盛り』
奥のピンクのお菓子がカスタローネ。粉を練ってニョッキのように一度茹でることで、生麩菓子のような独特の弾力を持たせたものを、ズッパイングレーゼにも用いるピンクのリキュール、アルケルメスと砂糖で甘く着色しています。太田さんによると今の時季(2月)イタリアはカーニヴァルのシーズンで、カスタローネはお祭りの際に作るイタリアを代表する庶民的なお菓子の一つだそうです。

『ホワイトチョコとヨーグルトのクリームをカカオのビスケット、フローズンラズベリーと共に』
こちらもいつも最後に頼んでしまう定番のデザート。写真は1人前を2つに分けてサーヴしてもらったものです。

手前の3本は、最初のボトルが7番目の皿で空になったのでその後2人で3種をグラスで1杯ずつ飲んだ赤ワインたち。後ろで料理を作っているのが、オーナーシェフの太田さん。
いつものように食後酒もしっかりいただき、いつものように千鳥足でごちそうさまのご挨拶。また来ます。

Giardino dal 1971
TEL 03-5941-8546