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Cinema Review-1 史上最大の映画プロジェクト『DAU.ナターシャ』

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セルクルルージュでは、これまで気になる映画を複数の視点から考察する座談会=Cinema Discussionシリーズを、34回に渡って、続けてきました。
この度もう少し気軽に、数多く映画をご紹介出来るようにする為に、CINEMA REVIEWという新企画をスタートさせます。
これは、それぞれが好きなように、作品のレビューを書いていくという手法です。
きっちり目線を合わせて構成する座談会と違い、視点もフォーカスする部分もずれてくると思いますが、それはそれで面白さがあると考えています。
こちらの企画は新しくスタートしたセルクルルージュのNOTEとも連動をさせます。
また今後はメディアの数を増やして、更にマルチアングルで映画を考えていく予定ですので、お付き合い頂けますよう、よろしくお願い致します。

その第1弾は、大国ロシアの怪物プロジェクト『DAU.ナターシャ』です。

以下はプレスシートからの引用です。
オーディション人数約40万人、衣装4万着、欧州最大1万2千平米のセット、
主要キャスト400人、エキストラ1万人、制作年数15年……
「ソ連全体主義」の社会を完全再現した狂気のプロジェクト!
第70回ベルリン映画祭において、あまりにも衝撃的なバイオレンスとエロティックな描写が物議を醸し賛否の嵐が吹き荒れながらも、映画史上初の試みともいえる異次元レベルの構想と高い芸術性が評価され、第70回ベルリン映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞。
ロシアの奇才イリヤ・フルジャノフスキーは処女作『4』が各国の映画祭で絶賛を浴びると、「史上最も狂った映画撮影」と呼ばれた本プロジェクトに着手。それは、いまや忘れられつつある「ソヴィエト連邦」の記憶を呼び起こすために、「ソ連全体主義」の社会を完全に再現するという前代未聞の試みだった。

今回は映画評論家川口敦子と、川野正雄の二人のレビューになります。

川野正雄

出来るだけ予備知識なく、いつも映画を見る事にしている。
先入観無く見て、ファーストインプレッションを大事にしたいからだ。
とんでもない映画を見た。それが『DAU.ナターシャ』の率直な感想である。
ともかく今までの映画とは違う。
その違いを言葉で説明しようとすると、陳腐な表現になってしまい、作品に相応しくなくなってしまいそうだ
わかったのは、これがまだ序章に過ぎないという事だけである。
この映画は音楽もなく、何の説明もない。
ほとんどの場面が、秘密研究所のカフェで展開される。
唐突に始まるが、難攻不落な芸術映画とは違い、開始早々短時間に、不思議な映画の世界観に引きずり込まれる。
映画を鑑賞しているというより、映画の中に入り込み、フィジカルに体験しているといった感覚に近い。
それは見ながら、いくばくかの苦痛やストレスや恐怖を感じたからかもしれない。
そして全編を覆う奇妙な不安感は、映画の体験とは、違う感覚のものであった。
通常のドラマから得る感動や興奮、ドキュメンタリーから得る共感性とは違った類の感情である。

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観賞後資料を見て、1952~54年のソ連を完璧な形で再現していると知った。
映画のプロジェクトが開始したのが2006年。14年を経て、2020年のベルリン映画祭で上映され、賛否両論の中、銀熊賞を受賞している。
撮影期間は40ヶ月、主要キャスト400名、衣装4万着。ヨーロッパ最大のロケセットが組まれ、役者もスタッフも、当時のソ連の生活様式のままの共同生活をし、1950年代のソ連が正確に再現されている。
正に物量で圧倒する大国ロシア(ソ連)。スケールで制圧するのは、ロシアの伝統的な手法だろう。
しかしこの映画には、圧倒的なスケールだけではなく、芸術性とアヴァンギャルドな挑戦が根底に流れている。それは多分今までのロシアにはなかったテーマだ。。
映画の中で出演者が見せるものは、芝居ではない。その時、その場所で、出演者一人一人が、役柄を演じるのではなく、役柄そのものの生き方や感情の表現なのだ。
それは歴史ドキュメンタリーでもなければ、歴史ドラマでもない。
あえて言うなら、旧ソ連における社会と科学の関係性を実験的に再現した歴史シミュレーションである。

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この映画のプロジェクトがスタートした時期と同じ頃、2007年モスクワのモスフィルムスタジオを訪問した事がある。ヨーロッパ最大の映画撮影スタジオと言われていたが、全く人気がなく、突然大雨が降ってきて、受付も無人という状況で、とても不安を感じた。
電話をかけ、ようやく中に入る事ができ、アポイントも確認する事が出来たのだが、その時感じた不安感と、この映画に漂う不安感は、同じ質に思える。
モススタジオには、撮影所としての歴史が展示されていた。ロシア映画には門外漢の為、『戦争と平和』とエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』以外は知っている作品はなかった。
撮影所は広大だったが、その日は1箇所しか撮影をしておらず、人気もほとんどなく、閑散としていた。オーケストラの機材設備を備えたサウンドステージなど見所も多くあった。
どこもとても綺麗に清掃されているが、冷たく無機質な空気感であった。強いていうと、この映画で尋問に使われる部屋に似た雰囲気である。
同じ年にバーバンクのソニー・ピクチャーズのスタジオも訪問したのだが、そこはモスフィルムスタジオとは、真逆のエモーショナルな空域感が満ち溢れており、明らかな米国とロシアの文化の違いを感じた事を記憶している。
モスフィルムは100年の歴史があり、旧ソ連時代も通過しており、『DAU.ナターシャ』で描かれている時代には、映像表現という観点から、同じように政府に管理されていたのかもしれない。
時代は変わっても、流れている歴史の空気感は、変わらず、スタジオは多くの真実を通過してきたのだろう。

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『DAU.ナターシャ』は、撮影したフッテージが700時間を超えるという。
2019年パリのポンビドゥーセンターとシャトレ座で開催された展覧会では、ビザと携帯電話の提出が必要で、外界と隔離された状態での鑑賞により、1950年代のソ連をフィジカルに体験する事が出来たようだ。
少し見たフッテージはロシア語で内容はわからないが、当時のソ連の生活が再現されていた。展覧会らしい物販コーナーでは、当時の無機質な食器のレプリカなどが並んで販売されていた。映画の衣装も同様だが、機能主義オンリーでデザインされたものは、それなりに美しい。
昨年のベルリン映画祭では、2本の作品が上映されたが、監督が希望したインスタレーションは中止されたという。一体何をインスタレーションでやりたかったのか、気になるところである。
『DAU.ナターシャ』を見て、これはナターシャが主役の映画と思ったが、そうではなく、各作品にそれぞれ主要な登場人物がおり、それが約400人になるのだ。

劇場用映画は既に15本が完成し、昨年から数年間で世界の映画祭を回る予定だったが、コロナの影響で映画祭サーキットは中止になったようだ。
自分としては、最後まで見逃す事なく、追いかけて行きたい。いや追いかけていかないといけない作品である。
今後劇場で見る機会が生まれる事を願ってやまない。

日本の法的規制で、100%完全な状態で作品を見れなかった事について、作品の本質に関わる部分でもあり、大変残念であった事を言っておきたい。
芸術の領域に入る作品であり、今後公開される作品が、100%の描写で見れる事を願ってやまない。
『DAU.ナターシャ』は、映画の概念を変えていく可能性のある作品なのだから。

尚映画の世界での歴史の再現という手法で、映画製作をしようとした日本人の監督がいる、
黒澤明監督である。フォックスの依頼で監督をすることになった作品『トラ・トラ・トラ』である。黒澤は経済人など一般人を日本海軍首脳にキャスティング。スタジオ入りも海軍の制服を着て入る事を強いり、徹底した歴史の再現に挑んだ。残念ながら黒澤は、様々なトラブルが起き、フォックスから解任されてしまい、普通の映画に生まれ変わってしまった。フォックスは三船敏郎さんが山本五十六を演じるような作品を望んでいたのだろう。
これは当時フォックスの日本側コーディネーターをしていた方から直接聞いた話なので、事実である。黒澤明監督が出来なかった事を、ロシアでは実現されたのだ。余談ながら黒澤の『デルス・ウザーラ』は、旧ソ連時代のモスフィルムスタジオで撮影されている。

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川口敦子

何なのこれは!?
2018年、Comme des Garçonsから届いたダイレクトメールを前にしてむくむくと湧き上がる好奇心と、ページを繰るごとに現われてくる正体不明のイメージたちの鬱蒼と怪しく危険な磁力に唖然としながら呟かずにはいられなかった。
確かに今年の映画作家クリス・マルケルに至るまで一年間、ひとりのアーティストをピックアップしてフィーチャーする同社の季節ごとの宣材、年数回送られてくる素敵にスリリングな小冊子の挑発性は常々、密かな愉しみとなっているのだけれど、あの年のあの選択には大袈裟でなくふるふると胸が高鳴った。
「DAU INSTIYUTE 1938-1952」と扉のページに付された名前には、不明にして覚えがなく、けれどもそこに差し出された建造物や人の顔、その衣裳と意匠のどれもこれもが鈍色の抑制と古めかしさの新しさ、不自由さゆえの奔放さ、得体の知れない不安や恐怖にも似た感触を纏って迫ってきて、差し挟まれた赤色のページに日英二か国語で記された「壮大な映画の試み」DAUなる一作を待望することになったのだった。

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というわけでこの春、ついに日本公開が実現の『DAU/ナターシャ』――構想から15年、4年がかりで撮影された700時間に及ぶ35ミリフィルムのごくごく一端を垣間見て、無論、そこで辛抱強くみつめられるスターリン体制下ソ連の物理工学研究所、そのカフェテリアに働くもう若くはないウェイトレス ナターシャとその妹分オーリャのまさに姉妹然と愛憎あいまった関係、そのまずまずしげな食卓と酒浸りの会話以下、恐怖政治の下で坦々と続く毎日から理不尽に人を密告者に仕立て上げる体制の力の怖さまで、時代のリアルを再構築する果敢な試み(そこで囲い込まれた時空を実際に生きた演者/普通の人々の息遣い)の端々に、“映画(というもの)”を超えて歴史の向こうに透けて見える現在をこそ省察するプロジェクトとして好きも嫌いもうっちゃって圧倒され、されつつまずはComme des Garçonsとこのプロジェクトの関わりについて知りたいと、唐突な欲求に突き動かされた。
取材の結果、映画やその衣裳の制作に直接関わったわけではないこと、往時欧州スタッフの奨めがあってビジュアル使用の許諾をとり、Comme des Garçons独自のデザインを施して編んだ冊子であることが判明。勝手に濃密な関係を夢想した早飲み込みを恥じながら、でも――と、嚙み応えある実験精神に両者の結び目を見出したい強引な気持ちも抑え難くくすぶっている。

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そういえば少し前のプラダのコレクションも発想源としていたようなロシア・アヴァンギャルド、芸術の革命を生活に採り入れた時代の尖鋭な実験精神にいち早く注目していたのがComme des Garçonsではなかったか。あるいは無難な着易さばかりを求める時代の風潮に毅然と逆らって、素材にも意匠にもアートの心を追究してきた創り手の、今どき稀な萎びない試みの姿勢を再確認してみれば、DAUという映画+インスタレーション作品に息づく不敵さが近しいものと思えたことにも納得がいく気がしてくる。
皮肉にも社会の革命と芸術のそれの蜜月時代に産み落とされた構成主義やシュプレマティズム、ジャンルを超えた詩や絵画や建築や衣類や家具や食器等々に迸った試みの意気を封じ込めたスターリンの粛清、抑圧――そんな全体主義の社会を完璧に再現するという、見ようによればみごとに反動的な時代に向けたDAUプロジェクトの監督イリヤ・フルジャノフスキーの眼差し。それを実験と呼べるのは、そこに今を透かし見て警告するしたたかな覚悟が感知されるからだろう。
リアルとは何か、演出と搾取との境界とは等々、様々に物議もかもした監督とプロジェクト、まずは自らの眼で、心身で体験してみることが肝心だと思う。

2月27日(土)シアター・イメージフォーラム、アップリンク吉祥寺 他全国公開

公式サイト:www.transformer.co.jp/m/dau/

Cinema Discussion-34 蘇った伝説のカルトロードムービー『ヒッチャー』

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2021年が明けました。昨年からエンターティメントやファッションを取り巻く環境は大きく変わってきています。セルクルルージュのサイトの更新も昨年は滞りがちでしたが、今年は我々なりのnew normalを考えながら、新たな情報や価値観を皆様に伝えていきたいと考えておりますので、本年もお付き合いくださいますよう、よろしくお願い致します。
2021年のスタートは、映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッションです。
34回目になる2021年最初のCinema Discussionは、36年ぶりにニューマスター版で公開される伝説のカルト作品『ヒッチャー』(The Hitcher)です。
1986年製作された『ヒッチャー』は、『ブレードランナー』で注目されたルドガー・ハウアーが、恐怖のヒッチハイカーを演じたサイコ・サスペンス作品です。
私自身は公開当時ノーマークな作品でしたが、伝説になる事が納得のカルトムービーでした。
ディスカッションメンバーは、川野正雄、名古屋靖、ナヴィゲーター役の映画評論家川口敦子の3名になります。

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★まずはご覧になった感想を。怖かったですか? 余りの怖さに笑っちゃいましたか?

名古屋靖(以下N):僕は1986年公開時に劇場で観てました。当時は『ブレードランナー』で気になった役者が主役級の映画という理由で観に行った覚えがあります。当時もそうでしたが「怖い」とか「笑っちゃう」映画ではなかったです。シンプルなストーリーに、これでもかなの惨忍の繰り返しはまるで70年代アメリカン・ニューシネマを彷彿とさせてくれて、ぞくぞくするかっこよさがありました。今観直してみても「ルトガー・ハウアーいいなあ。」と思います。

川野正雄(以下M):全くこの作品の事は知らなかったので、驚きました。ヒッチコックではよくある巻き込まれ型のストーリーですが、逃げ場のない状況に追い詰められる心理的な圧迫が怖かったです。最初はどうかな~と思いながら見ましたが、直ぐに引き込まれました。

川口敦子(以下A):ひとつのジャンルに押しこめるのが難しい映画という気もするのですが、ホラー、サイコスリラー、その極限を超えてコメディの域に踏み込んでいく、というか踏み込ませることで逃げても逃げてもやってくる不条理な殺人鬼からの逃げ道にするというような見方をしているように思います。無理やり笑うしかないような、つまり理由も動機もないものに対する答えのなさの怖さを、しかめつらしく語るのでなくアクション活劇として成り立たせている点が、面白かったというんでしょうか。ちなみに今回、お休みした哲生くんにどこがダメだったのと訊いたら、もともと怖いもの、痛いもの苦手なので、もう目をつぶってないとダメみたいな感じになちゃったのだそうです。血のりぐちゃぐちゃみたいなホラーというんじゃないですが乗せたら最後なサイコを相手にじわじわと追いつめられる感じは確かにすごい。

★86年の公開当初はあまり高い評価を受けたわけではなかったのに、じわじわとカルト的人気を獲得していった一作です。どこが人気の秘密と思いますか?

N:しつこく冷酷な殺人鬼とは対照的な、観ているこっちがイラつくほど純朴な被害青年がどんどんワイルドに変貌して行き、後半クレージーな相手と意識を共感できるまでに成長していくところはこの映画の魅力のひとつですね。 カルト的には、答えや理由が語られることなく全然ハッピーエンドじゃないところ。

A:すみません! 公開当初、試写では見逃しました笑
私もルトガー・ハウアーが気になっていて、だから見たいという気持ちはあったのですが、つい後回しにするうちに公開も終わってしまって結局、ビデオでチェックということになりました。カルト化したのは感想の所でもいったことと重なりますけど、一見そうはみえない実存的恐怖をテーマにしながらBムービー的チープな雰囲気(爆発とか炎とか、パトカーのつぶし方とかけっこう派手に、湯水のような大金ではないにしても予算をかけてる部分もありそうですが)を前面に押し出していくセンスが、特にマイナーメジャーがより広範に受けていった80年代にマッチしていたからかしらなんて思います。

M:『激突』的な感じかなと思って見たのですが、よりエグいですよね。一度見たら忘れないというか、記憶に長く残る映画なのかなと思います。サイコホラー的な映画ですが、荒唐無稽ではなく、かと言ってリアルではないんですが、ダークファンタジー的な要素も感じました。いわゆるB MOVIEになるのかもしれませんが、タランティーノなど、その後の映画への影響もしっかり感じました。超低予算と思って見ていましたが、思ったより空撮やアクションなど、お金もかかっていて、エンタメ要素もしっかり高いなと思いました。製作費は600万ドルで、公開時の配給は松竹富士、製作はトライスターでしたから、超インディーズ作品という事でもなく、敦子さんのいうマイナーメジャー作品だったのですね。人気の秘密は、やはりルドガー・ハウアーのキャラクターの強烈さではないでしょうか。

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★86年というと『ターミネータ―』の2年後、リンチ『ワイルド・アットハート』は90年、タランティーノが出てくるのはもう少し後の92年ごろになります。暴力描写、サイコなキャラクター、ロードムーヴィーの要素等々、アメリカ映画の流れの中で今、見直すことの面白さはどのあたりにあると思いますが?

N:日本と違ってアメリカでは70~80年代恐怖映画は、映画館でポップコーン食べながら爆笑大騒ぎで観るのが本当の楽しみ方だと聞いた事があります。『ターミネーター』なんかも正直笑っちゃう要素はたくさんありました。90年の『ワイルド・アットハート』もそうですが、タランティーノ作品で残酷&爆笑のスタイルは日本でも確立された印象です。 この『ヒッチャー』はそれらとはちょっと違う路線な気がしていて、どちらかというと『激突!』や『バニシングポイント』に近いと勝手に思っています。

A:後出しみたいな答えになりますが笑 キャメロン『ターミネータ―』、リンチの『ワイルド・アット・ハート』そしてタランティーノという流れの中でこの映画を見ることができるというのが、今、見ることの面白さのひとつといえるんじゃないでしょうか。ぐっと洗練度は上がりますがトム・フォードが06年に撮った『ノクターナル・アニマルズ』――20年前に離婚した夫から唐突に送られてきた小説「ノクターナル・アニマルズ」、妻と娘を乗せて深夜のハイウェイを走る学者トニーがならず者たちとのいざこざの末、被った悲劇とその顛末をひもときながら、現実と小説と回想の世界を往還するヒロインをじわじわと包み込む恐怖――なんて快作のことも合わせて思い出してみるといっそう楽しめるように思います。
もちろん名古屋さんが挙げられたスピルバーグ『激突!』からの流れもありますね。あの映画との比較は公開当時、ニューヨーク・タイムズ紙始め、多くの評で指摘されていてなるほどと思います。

M:見終わって、すぐイメージしたのが、タランティーノへの影響です。『デス・プルーフ』なんかは、すごく影響を受けているのではないかと感じました。それこそカーアクション、ロードムーヴィーの要素、暴力的なキャラクター、男尊女卑的な視線など、まんま受け継がれていると感じました。
それからサム・ペキンパー的なホコリっぽいロードムービーの雰囲気もありますね。ハンバーガードライブインや、ガソリンスタンドの雰囲気がすごく良かったです。

★ジョン・ライダー役ルトガー・ハウアーの魅力も甚大ですが、彼については?

A:『ブレード・ランナー』の時にも感じさせることですが、非常に暴力的な悪役を演じているのにどこか高貴で超越した、言葉にすると陳腐になってしまいますが哲学者めいた生/死への想いのようなもので役に深みを与えてしまう。本人の文学的な、浪漫派的なものへの嗜好もあるようにも思うのですが、それが映画に寓話的ともいえる陰翳を付加しているんじゃないでしょうか。
その出で立ちも勤め帰りのサラリーマンみたいな、普通のよき家庭人みたいにみえなくもない。それが凶暴な殺しをしてきたらしいとあっけらかんと正体を明かしていく、その落差。薬指に結婚指輪があって、このままお家に帰ればよき夫、よき父ともなるのかもと一瞬思わせるけれど、その指輪が実は犠牲者のひとりの指にあったのかも、で、もしかしてあの……と想像させる怖さ笑 仔羊をいたぶるようにどこまでも凡庸なアメリカ青年を玩ぶ様も存在の格上感満載で素敵です。唐突ですが少し前、井口昇監督作『悪の華』で玉城ティナが見せたキレ方の魅力とも通じる紙一重の無邪気と狂喜と凶暴さの領域というんでしょうか。ファンなのでつい話があちゃこちゃとんでしまってすみません。

N:『ブレードランナー』の後なので、同じ路線で突っ走ってる感じ。痛そうな演技はもちろん、シリアルキラーの代名詞「俺を止めろ」のセリフなどクールでありながら悲哀も感じて、いい意味でハマり役かと。

M:とても怖いですし、見事なキャラクター作りだと思います。実は『ブレードランナー』にあまり魅力を感じていないので、1度遥か昔に見ただけで、ルトガー・ハウアーも、全く知らない役者でした。

★元々、ライダー役はテレンス・スタンプにオファーされていたそうです、また脚本のエリック・レッドはシリアル・キラーのヒッチハイカーを歌ったドアーズの”Riders on the Storm”にインスパイアされたそうで、また執筆中には骸骨めいたルックスの、ストーンズのキース・リチャーズみたいな奴を思い描いていたそうですが、スタンプ版やキース版だったらどうだったでしょうね?

N:テレンス・スタンプの作品をそんなに観ていないので何とも言えませんが、80年代はそんなに目覚ましい活躍はしていなかった印象ですし、もしそうだったとしたら少々地味で重すぎ? キース・リチャーズだったらもっと爆笑できたかも?ですがルトガー・ハウアーくらい演技力がないと冷酷な中にも哀愁滲み出る魅力的なキャラクターにはならなかったとは思います。

M:見た感じはテレンス・スタンプを彷彿させますね。彼が演じたら、ちょっとハマり過ぎですかね。車とテレンス・スタンプというと、『世にも怪奇な物語』のフェリーニ編『悪魔の首飾り』のトビー・ダミットを想像してしまいますが、彼が出ていたら見ていたと思います。
雰囲気的には『欲望』のデビット・ヘミングスでも良さそうですが、年齢的にルドガー・ハウアーが良かったと思います。
テレンス・スタンプは名古屋君も指摘しているように、80年代は目立った活躍が全くありませんでした。確か89年だったと思いますが、ある英国の国立美術館のメンバーと話していた時、英国俳優の話題になり、テレンス・スタンプが好きだと言ったら、あんなに最悪な人はいないと言われました。レセプションに来て、酔っ払っていなくなり、当日の役割も果たさなかったそうです。80年代のテレンス・スタンプは、そういう時期だったのかもしれません。90年代に入り、雑誌エスカイヤのインタビューで、堕落の日々について語っていたことを思い出しました。
キース・リチャーズはちょっといかにもで、怖さは半減しそうです。
ドアーズの「Riders on the storm」はいい曲ですので、劇中でも使って欲しかったですね。ヒッチハイカーを歌った曲とは知りませんでした。

A:テレンス・スタンプ、そうだったんですか……87年にチミノの『シシリアン』に出てましたが…。スタンプ版はまた別の映画になっていくでしょうが見てみたかった気はしますね。『テオレマ』の正体不明さ、『コレクター』のサイコ演技、その先にジョン・ライダーを思い描くとぞくりと興味が募ります。でも、監督はもっとアート系の人選を望みたくもなりますね。ハウアーの欧州出身という要素がヒッチハイクというアメリカンの典型みたいな部分に突き刺さる違和感、その絶妙な塩梅で成功している点を考えるとやはりヨーロッパ、あるいは英国を出自とするスタンプだったらと思い描くのもなかなか楽しい作業です。リチャーズ版はわりにありきたりかな笑
ドアーズとの、というかジム・モリソンとのかかわりでは彼が脚本・監督、ヒッチハイカー役で主演もした“HWY:An American Pastoral”(70)という50分強の短編映画との関係もスリリングです。70年にヴィレッジ・ヴォイスとのインタビューで明かした所に拠れば映画は50年代の連続殺人犯ビリー・クックをヒントにしているそうで、そのクックといえば女優で女性監督の先駆としても知られるアイダ・ルピノが撮った『ヒッチ・ハイカー』のモデルでもある、連続殺人犯と知らずにヒッチハイクする彼を乗せたふたりの釣り好きが人質状態でメキシコの荒野を逃走につきあわされるという、このルピノの映画、UCLA映画科でコッポラと同級だったモリソンならきっと見ていたと思われ、その彼が歌った歌とエリック・レッドの絆は『ヒッチャー』とルピノの映画のそれへと繋がっていくんですね。『ヒッチャー』が『ヒッチ・ハイカー』のリメイクとする説もあるようですが、見比べると実録的タイトな語り口のルピノ版、片目が閉じないシリアル・キラーの寝姿の不気味さに詩が漂う部分がなくもないけど、ハウアー演じる悪の化身的寓話性とはむしろ違いの方が感じられるようで、それがまた面白い。

★アメリカの景観、それを背景にした悪夢、あるいは独特の残酷さを備えたおとぎ話と見ることもできそうですが、いかがでしょう?

M:ジム・モリスンとそういう因果関係があったのですね。悪夢である事は間違いないですが、このストーリーも想像以上に練られていたのでしょうね。この残酷さや、ヒッチハイカーによる突然の恐怖は、アメリカ人には誰にでも起こりえる災難であったり、恐怖なのかもとも思います。重要な要素として、警官による恐怖も並行して描かれており、冤罪の恐怖を味わえるハイブリッドな恐怖感が、ファンタジーなんだけど、リアルに怖い映画になっている要因と思います。
むしろヒッチャーより、警官の方が恐ろしいと思える場面もありました。

N:今となっては少々テキサスをバカにしすぎなところもありますが、当時のアメリカ南部を誇張した表現や人物像なども含め、特に後半はおとぎ話的なノリもあるかもしれませんね。主人公達を追う警官隊を撃退するあたりは『ブルース・ブラザース』的で笑えたし面白かったです。そんな派手な追走シーンもあってか、シリアスとエンタメの両方いいとこ取りな印象もあり、結果どっちつかずなジャンルになっているのは良くも悪くも80年代的な映画だと思います。

A:ヒッチハイクといえばビート、ケルアックなんて単純な連想だけでなくアメリカ文学やアメリカ映画のひとつの景色ともいいたいモチーフですよね。ルート66でアメリカ大陸を横断してみたいとぼんやりとした憧れのようなものもあったりするわけですが、それはともかく、青年の大人へのイニシエーションをふまえた悪夢の物語――と、あからさまにお説教臭く作ってはいませんが、そう見ることもできますよね。あるいはジム・モリソンにこだわるわけじゃないですが、ハートならぬ煙草に火をつけて始まる映画はマッチを擦って灯ったあかりの束の間を照らすおとぎ話、ママの言いつけを破った男の子の受難の物語とも見えるのかな。こじつけめきますか??笑

★ジョン・シールの撮影に関してはいかがですか?

A:今回のリマスター版公開にあわせた特別映像でシールは「砂漠を美しく撮りたい、狂気が続く場所を」といっていますが、最近では『マッドマックス怒りのデスロード』も手がけた彼、監督のマーク・ハーモンは全くノーチェックだったが、脚本のエリック・レッドが推薦したと同じ映像でプロデューサーがいってますね。オーストラリア以来のピーター・ウィアー監督とのコンビ作、『ピクニックatハンギング・ロック』や『刑事ジョン・ブック 目撃者』のやわらかな色調もいいんですが、『ヒッチャー』でのそれとはまた別の派手派手しいアクションと自然の美しく大きな切り取り方、両者の並び立て方も要チェックじゃないでしょうか。

N:単純な背景の連続、砂漠の乾いた空気感などはそのままに、たまに登場するガソリンスタンドなど建物のデザインや撮影アングルなども何気にお洒落に撮られていて、80年代の新しいアメリカン・ニューシネマな映像に感じました。

M:空撮やいきなりの展開の恐怖、そしてカーアクションはうまく撮っていますね。600万ドルという予算の中で、、カーアクションの臨場感などは、見事だと思いました。名古屋君の指摘のように、ガソリンスタンドの空気感は、うまく撮っているなあと思いました。

★女嫌いの映画、ホモ・エロティシズム的描写といった評価もありますが、その点はどうですか?

N:ダイナーの娘の扱い方で「女嫌いの映画」と言われそうですが、逆にラストシーンで二人抱き合ってキスで終わるような映画だったら、カルト化はしなかったでしょう。

M:これはこの質問で初めて意識しました。女性への残酷さは感じましたが、ホモの要素は見ていてあまり感じませんでした。最後に両者がシンパシーを感じているのかどうかも、観客の判断に委ねる感じだと思いました。
根底に流れる精神は怒りなのか、悲しみなのか、愛なのか、難しいですね。

A: この点でもルトガー・ハウアーの資質がものをいってる気がします。吐きかけられた唾をなでくりまわす様とか怪しくも妖しい彼の美貌あっての見どころかも笑

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『ヒッチャー』 ニューマスター版
2021年1月8日(金)よりシネマート新宿ほか全国順次公開
配給:アンプラグド
出演:C・トーマス・ハウエル、ルトガー・ハウアー、ジェニファー・ジェイソン・リー、ジェフリー・デマン
監督:ロバート・ハーモン(「ボディ・ターゲット」)
脚本:エリック・レッド(「ブルースチール」)
撮影:ジョン・シール(「マッドマックス 怒りのデス・ロード」)
音楽:マーク・アイシャム(「ザ・コンサルタント」)
1986年/アメリカ/97分/カラー/シネスコ/5.1ch/日本語字幕:落合寿和(2019年新訳版)