4年ぶりの新作(企画は7年越しという)で吸血鬼を素材にしたのは「お金になるらしいから」と、涼しい顔のジム・ジャームッシュが記者を煙に巻く様子がお披露目上映されたカンヌ国際映画祭の公式ページでも確認できる。お金になる一作、ヒットが欲しいと冗談めかしたコメントには、孤高のインディとして生き延びるために――との注釈つきではあるとしても案外、率直な本気が含まれていそうでアート映画冬の時代の厳しさを改めて実感したくなったりもする。
そうはいってもそこはジャームッシュ、素直にティーンに人気の吸血鬼映画の公式を踏襲するわけもなく、素敵にひとくせありのヴァンパイア・ロマンスを差し出している(吸血鬼映画といえばのお約束を自分なりに作りたくて皮手袋をめぐる挿話を考案したと、これは確かトロントかNY映画祭のQ&Aで明かしていた)。
映画の英文プレス・ブックに載った監督の言葉によると男と女の無条件降伏的な愛の物語を書く上で部分的にヒントになったのがマーク・トウェイン作「アダムとイヴの日記」なのだという。人類最初のカップル、アダムとイヴ各々の日記を交互に並べて読者には男と女のすれ違う思いをくすくす笑いとじんわりほろりの共感との狭間で目撃させていく”原作”(結局、映画に残ったのはアダムとイヴの名前だけでだから原作というわけではないとジャームッシュのノートは続いているのだが)は、1904年の作とは俄かに信じ難いモダンな感触でカップルの日々の既視感、現実感を掬い上げていく。
そんな掬い上げ方はジャームッシュの映画にも彼独特のそっけなさ、無愛想を伴ってではあるものの確かに踏襲されている。デトロイトとタンジール、それぞれの居場所でそれぞれの生のパターンを守りつつ、うんざりするようなカップルの日常の回避し難さとそれでもまあ一緒がいいかと思える瞬間の涙ぐましさのようなものをぽろりと浮上させたりして、なるほどこれは吸血鬼映画の形を借りたジャームッシュ流のラブ・ストーリー、恋もその主役のふたりももう若くはないカップル映画なのだなともう一度、しみじみしてみたくなる。
となると映画の終わりにそっと置かれたジャームッシュにとってのイヴーー長年のパートナー、サラ・ドライヴァーへの献辞も見逃せない。ここでinstigator(煽動家、おだてや、唆しけしかける人)と呼ばれたドライヴァーがそもそもトウェインの原作を紹介したとのエピソードを知ってみると、そういえばと20世紀末、自らも映画監督である彼女が企画していた一本のことが思い出されてくる。
それは”Two Serious Ladies“といって「ふたりの真面目な女性」とのタイトルで邦訳もあるジェーン・ボウルズの小説にちなんだ興味深い脚本なのだった。幻の企画ですますにはあまりに惜しいその一作を思ってみると、何度も頓挫しかけながら陽の目をみたという『オンリー・ラヴァーズ~』(映画の中では美しい夜が貫かれ、決して陽の目をみないことでも記憶したい快作なのだが)に置かれた献辞がいっそう胸に迫ってくる。
勝手に妄想を膨らませれば、ジャームッシュの映画にしのびこんだポール+ジェーン・ボウルズ・カップルとのリンクに列なってかつて『シェルタリング・スカイ』を手掛けたアート系製作者の雄ジェレミー・トーマスが動いたりしたのではとも思えてくる。タンジールの千一夜カフェに気づけば同じトーマスがバロウズの『裸のランチ』を手掛けていたこともまた思われるし、若き日のトーマスがD・ボウイを主役に製作したカルト的SF『地球に落ちて来た男』へと連想ゲームをつなげれば、今度はボウイが久々に放ったPV”The Stars(are out tonight)”で『地球に~』のエイリアンとも吸血鬼とも見える姿で登場し、”もう、うんざり、でも・・・”のカップルをなんとティルダ・スィウントンと演じたりもしているのだ。カンヌの記者会見ではそのPVとこっちの映画とアイディアはどちらが先との質問にティルダがクールに大人なお茶の濁し方も披露している。
と、いうわけでジャームッシュ待望の新作は、荒廃したデトロイトへの、ひいてはオハイオ州アクロン出身の自らのルーツでもあるはずの中西部アメリカ――モータータウンの滅びの図をしんと澄んで寂しくだから美しい景観として切り取り、孤高のインディ作家の神髄を確認させつつ周囲に広がるいくつものリンクを観客それぞれに思う愉しみも提供してくれる。一見すればきっと自分なりの愉しみ方がみつかると、この際、断言してみたい。
『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』は12月20日からTOHOシネマズ シャンテ、ヒューマントラスト シネマ渋谷、新宿武蔵野館他全国公開。
作品公式HP。
セルクル・ルージュではシネマディスカッション第3弾でもジャームッシュのこの新作をとりあげ近々アップの予定です。乞うご期待!