2019年7月26日は、本来なら萩原健一さん69歳の誕生日だったが、ご存知のように3月に急逝され、月命日4ヶ月と変わってしまった。
ジストという聞きなれない病で、萩原さんは旅立たれたが、映像であり音楽であり素晴らしい数々の作品は、永遠に生き続けるだろう。
私はある時期萩原さんの仕事を少し手伝わせて頂いたので、萩原さんが熱望しながらも実現しなかった『傷だらけの天使』映画版について、追悼の気持ちを込めて、簡単に紹介させて頂きます。
10年以上前になるが、その頃萩原さんは、つまらない事件の影響による謹慎がようやく解けて、復活の策を練っていた。その復活の起死回生策が、萩原さんの代表作品である『傷だらけの天使』映画版だった。
私が関わる前にも、著名な脚本家やプロデューサーがこの作品の実現に向けて、企画を練り、座組み作りに奔走していたが、難航していた。
映画化を望む声は多数あれども、現実の作品として立ち上がる段階までには到らなかったのだ。
作家の矢作俊彦さんは、『傷だらけの天使 リターンズ-魔都に天使のハンマーを-』という小説まで書き、ラブコールを送って頂いたが、これは映画の企画とは別の話である。
矢作さん以外にも、長年お付き合いがある瀬戸内寂聴さんは、誌面対談などにご協力頂き、復帰への後押しをして頂いていた。
そのように応援団が動いても、企画が実現に向かわなかった理由は幾つかある。
そのうちの大きな理由の一つは、これが役者発信の企画であった事である。
大手事務所の所属でない限り、役者が個人事務所から企画を発信して、映画化を実現させるのはかなりハードルが高い。
映画は制作費だけではなく、開発にもそれなりの費用がかかる。脚本を作るだけでも、相応の費用がかかるが、当時のほとんど仕事をしていない萩原さんの状況では、開発費の捻出は至難の業だった。
また1997年に制作された豊川悦二さん主演映画版『傷だらけの天使』が、期待されながらも興行的に不振だった影響も大きい。
この作品は丸山昇一さん脚本、阪本順治さん監督、音楽井上堯之さんという強力な布陣で、決して悪い作品ではなかったが、やはり別物。
スクリーンから、オリジナル版の持っているカタルシスはあまり感じられず、従来の傷天ファンも、当時人気絶頂だった豊川さんのファンも、劇場に呼び込む事が出来なかった。
私も都心の劇場に足を運んだが、10人程度しか観客がおらず、驚いた記憶が残っている。
そのような状況で、登場したのが、脚本家故市川森一さんだった。
2007年2月、『傷だらけの天使』で綾部社長を演じた岸田今日子さんのお別れ会が、有楽町の東京会館で開催された。
その会の前に、萩原さんと市川さんが集まり、構想の打ち合わせをした。市川さんはオリジナル『傷だらけの天使』の脚本家で、キャラクターの生みの親と言うべき存在である。
この時点で市川さんは、ボランティアとして参加されており、プロットや脚本がある訳ではなく、あくまでも口頭での構想をお話し頂いた。
綾部社長の追悼の場で、この話し合いは、何かの縁を感じ、成功を確信したが、それは甘い考えであった。
以下その際伺った構想のあらましである。
衝撃の最終回から、約30年後。
木暮修は、乾亨の死後、表立って活動する事なくひっそりと暮らしていた。
しかし一人息子の健太は、成人し自立。しっかりとした人間として成長していた。
一方亡くなった亨には、弟がいた。その弟も成長し、闇社会の大物となっていた。
亨の弟は、修が亡くなった亨を夢の島に葬った事を、死体遺棄だと考えていた。
そして亨の死因にも疑問を持ち、修を恨み、復讐の機会を図っていた。
その状況で、まず健太が亨の弟に発見され、健太は悲しい事に命を落としてしまう。
最愛の息子健太を失った修は、大きな怒りと悲しみの中、亨の弟との対決に向かっていく。
市川さんのお話では、『傷だらけの天使』は、負けの物語だとの事だった。
常に修は何かに負け、最後には悲しみや怒りが残る。
この映画版の構想も、正に真骨頂というべき負けの物語であり、オリジナル版のカタルシスを、強く感じる事が出来た。
この企画では、亨の弟役は水谷豊さんである。
その為には、まず水谷豊さんに賛同して頂かなくてはいけない。
週刊誌やテレビで報じられた事もあったが、この後萩原さんと水谷さんは、それこそ約30年ぶりに再会をする。
場所は代々木公園にある萩原さん行きつけのレストラン。夕方の時間を貸し切りにして、マネージャーも入れず二人きりでの修と亨の再会である。
店が奥まった場所にある為、水谷さんが見つけられず、萩原さんが迎えに行き、修と亨は再会した。
その再会はうまくいったと聞いている。
そして監督候補の人選も進んでいた。
しかしこの企画は、永遠に実現する事がなく、終わってしまった。
今や『相棒』シリーズで大スターで、出演作品も厳選している水谷さんサイドは、萩原さんへの想いは別にして、この企画に参加する難しさもあったのではないかと推察している。
ロケ場所であった代々木会館は、長年権利問題があったが、正式に取り壊しが始まった。
奇しくも新海誠監督の『天気の子』でも重要なロケーションで登場する為、聖地巡礼する人が後を絶たないという。
萩原さん自身は、映画版打ち合わせで、「あそこには魔物が棲んでいるから、絶対に使ってはダメだ」と、言明されていた。
市川森一さんも2011年に早すぎる逝去をされた。
市川さんは萩原さんの為に、ブルートレインを舞台した企画『夜行列車』を作られ、これはプロットまで書かれていた。
フジテレビで放映された萩原さんのドキュメンタリー『ショーケンという孤独』では、萩原さんと市川さんがロケハンをしている場面が最後に映っているが、これも市川さんのご逝去と共に、幻と消えた企画となってしまった。
結局萩原さんが出演した映画は、セルクルルージュでもお馴染み中野裕之監督の『TAJOMARU』が最後となってしまった。
この作品の脚本も市川森一さんである。
萩原さんの足利義政役は素晴らしい存在感だったが、萩原さんとしては、これはスクリーン復帰への序走だった筈だ。
萩原さんの著書『ショーケン最終章』には、白川道氏の小説『終着駅』映画化の記述がある。
元マネージャーとの金銭トラブルにつながったエピソードとして書かれているが、私の手元にはある著名監督によって書かれたこの作品の脚本が残っている。
原作も読破したが、幾つかあった企画の中では、『傷だらけの天使』を別にしたら、最も萩原さんに相応しい作品であった。
監督による序文には、ジャン・ギャバンやアラン・ドロンが出演していたフレンチ・フィルムノワールのような作品にしたいという想いが込められている。
あまり過去を振り返るのがお好きではない萩原さんにとっては、この作品の方がやりたい作品だったのかもしれない。
私は2007~8年位に、この作品開発に関わったが、著書を読むと2011年までこの企画は続いていたので、少し驚いた。
この脚本自体は萩原さんへの当て書きではないが、『傷だらけの天使』や『終着駅』などの映画主演が実現していたら、萩原健一という稀有の存在感を持った俳優のフィルモグラフィーも大きく変わった筈であり、日本映画の軌跡に、更なる刻印を刻む事が出来たであろう。
個人的な反省と後悔含めて、大変残念である。
改めて謹んで萩原さんのご冥福をお祈り致します。