イヌミチ

メイン
 映画の”イヌ”といえばJ=P・メルヴィルのノワールの快作「いぬ」が想起され、その影響を例によって口角泡の勢いで語りとばしたタランティーノの出世作「レザボア・ドッグス」もあったなあと懐かしくなる。が、そこで扱われたいわゆる”官憲の犬”系の裏切り者をめぐる物語とはまた別のお話、別の映画がここには差し出されている。あるいは仮想のドアノブや白墨で囲ったテリトリー内の共同幻想、ままごとにも通じる“ごっこ遊び”の敷衍という点では案外、接点がなくもなさそうなラース・フォン・トリアーの「ドッグヴィル」なんて怪作もまた思い出してみたくなるが、それともやはり違うのが万田邦敏監督(『UNLOVED』『接吻』)7年ぶりの長編映画「イヌミチ」(72分)だ。
 んっ??と目を引くタイトル、加えて「男女」「異常な関係」「首輪をはめたら、『自由』になれた」――と、プレス資料を拾い読みした時点では、ああそういえばドヌーヴがマストロヤンニの犬になり、確か首輪をはめたりもするマルコ・フェレーリの「ひきしお」なんて映画もあった、孤島の男女の犬と飼い主にも似た支配被支配関係の逆転をえげつなく追いつめたリナ・ヴェルトミューラーの「流されて…」もあった、要は男と女、恋愛にも結婚にもつきものの力の構図、隷属、従属、加虐被虐等々の関係を1978年生まれ、映画美学校脚本コースに学んだ新鋭伊藤理絵嬢が今日的に料理したお話かしらと、勝手に早呑み込みしていた。

©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO
©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO

 ところがそんな思い込みを映画はまんまと打っ遣ってみせる。犬が好きで14年間、飼いもしたという伊藤が、人に与えられるものが全て、人生の選択に煩わされない犬をそれはそれで羨ましいと思った、そこから発想された物語なのだという。
 花嫁カットが表紙を飾る女性誌の編集部で、責任感に欠ける編集長を筆頭に、「呑気でいいよね」のバイト君、妙に可愛い口調で言われたことを取り次ぐだけの新人女子らの尻拭いに追われ、家に帰れば同居する恋人に入籍する? とまたしても答えを迫られて、数珠つなぎの「選択と決断」の呪縛にもう、うんざりのヒロイン響子。彼女が、笑顔で土下座していた携帯ショップの販売員、西森の家に転がり込み、「どういうわけか四つん這いになって犬の真似をし始める。男も男で、そういう女を素直に受け入れる。しかし二人の間に性的な関係は一切いない。これが『イヌミチ』の物語だ」(ユーロスペース 作品紹介ページ掲載の監督のコメントより)――そう、これが「イヌミチ」の物語と、1956年生まれの監督の言葉を縁取る動揺に目をとめるともう少し、先までコメントを引用したくなる。

©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO
©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO

「私は、最初不思議な話だと思った。新しい話だとも思った。『今』のひとたちの話なのだとも思った。一方、撮影現場に参集したスタッフ・キャストの(映画美学校フィクション、アクターズ、脚本コースの)学生たちはみな若く、そこにも『今』があった。さあ、困った。『若さ』にも『今』にも弾かれている年寄りは、それに迎合するのは業腹だし、ただ逆らって頑固になるのも大人げないし。ジレンマ。今こそ『わん!』と鳴いて四つん這いになるべきか。もちろんそんなことはできなかったけれど、それをやるのにもそれなりの勇気と覚悟が必要なのだということには気づかされた。そうして、そんな勇気と覚悟をおくびにも出さず犬になった主人公が、いよいよ奇妙に思えたのである」

©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO
©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO

 映画批評家としても健筆を揮った万田監督の名調子につい「わん!」と尻尾をふって反則ぎりぎりの長い引用になったけれど、映画「イヌミチ」のスリルはまさにそんな監督の「今」にも「若さ」にもすり寄らない矜持の貫き方にあるだろう。
 実際、映画は「弾かれてる」などと自嘲しつつ、これみよがしの勇気も覚悟もひけらかさずに映画新人類たちとしなやかに折り合い、しかし同時に開巻そうそう「グラン・トリノ」のじいさまをも思わせる独自の歩調でみごとに突き進む監督のしらりと涼しいタッチを刻印してみせる。
 電車が吸い込まれるターミナルを背景に交差する歩道橋。階段。そこをヒロインが歩き、上り、横切り、そうして繋がれた犬を上から見下ろして「ふん」と鼻を鳴らす。白い彼女の横顔に繋がれた犬の横顔が切り返され赤いタイトルが画面に収まる。同じ赤は、イヌの日々、共同幻想でも共闘でもあるような4日を経た響子と西森が静かに向き合う公園の樹の幹にも、初めて泣く響子の背後の信号にも欠片として散りばめられ、禍々しい予感の成就を乗りこえたヒロインがまたあの歩道橋にやってきて犬の不在を確かめ「終」のタイトルに収まる。

©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO
©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO

 極言すれば毅然と昔の色した映画の赤を息づかせ、同様に「今」を忘れたヒロインの顔も切り取って、あくまでさりげなく動きを連ね、美しい単純さに満ちているショットとショットを突き合わせる始まりと終わりの対置を確かめれば、両者に挟まれた新作の噛みごたえはくだくだと説明するまでもなく保証されたも同然だろう。
 前2作の圧倒的な台詞の量と比べると、伊藤の書いた台詞はいかにも簡潔だ。そんな台詞の自然さ、そこに凝縮された奥行深いリアル(とりわけ今や若さのそれ)を尊重しながらも、情緒やニュアンス、曖昧さに意味を託さない決然とした語尾、今どきの調子、表情におもねらない具現の仕方が改めて監督の求める演技の質を指し示している点も見逃せない。ショットとその切り返しが作るリズム。ローアングル、仰角の視線の効かせ方。おかし味の彼方に浮上するうっすらとした悲しさ。選び取られた映画らしい映画の道が、一見、奇妙だけれどよく見ると繋がれていた犬の自分を解き放つ人の普遍の物語を語る正しい作法として清々しく輝いている。
6
3/22(土)よりユーロスペースにて3週間限定レイトショー、4/26(土)より名古屋シネマテーク、以降第七藝術劇場、松本CINEMA セレクト他、全国順次公開。
■予告動画

■『イヌミチ』公式ホームページ
http://inu-michi.com/index.html

不気味なものの肌に触れる

©LOAD SHOW, fictive
©LOAD SHOW, fictive

既にウェブで配信されてもいる54分の中編のため映画館に駆けつける意味なんてほんとにあるのか?!――と、ネガティブに身構えた観客にこの際、いっておきたい。映画館で映画を見るという今やみごとに周縁へと追いやられた行為にまつわるちょっとやらしいヒロイズムやロマンティシズムでいうのではないとまずおことわりした上で、断言してしてみたい。快作「不気味なものの肌に触れる」のためならば映画館へと迷わず走って正解だ!

 開巻。雨に追い立てられるように制服の男子がふたり、石の階段を駆け上る。
 走ること。速さを競うこと。夢中になれる子供っぽさをあっけなく放り出した背中にはそれだけでもう、うっとりと見蕩れざるを得なくするものがある。くっきりとした求心力を思わせる。緑、水の気配、鼓動。見えるものと見えないけれど在るものとがふたりの後に列なって、そこに鮮やかに浮かぶ物語。青春映画の美しいクリシェを思わせもするそんな始まりから一転、映画が次に差し出す室内場面では、上半身をむき出しにした先のふたりがダンス・リハーサルに励んでいる。
 青みがかった透明のきんと冴えて冷たい時空。その無機質な感触を裏切って踊るふたりの身体と距離がまた別の物語を手繰り寄せる。ドラマとはかけ離れた場所で静かに熱くスリリングにドラマが生起する。身を躱して距離をつきつけ同時に互いの距離を奪いもしながら限りなくゼロに近い非ゼロの近さ/遠さを保つふたりの試みが、人と人、肌と肌、思いと思い、存在すること、感覚すること等々をめぐっていくつもの問と答えを投げかけてくる。じっくりと距離を保って距離をみつめるキャメラの眼差しは、スクリーンのあちらとこちらをめぐる問いとしてもはらはらと迫ってきて、映画とはと今さらながらにもう一度、真新しい気持ちで問いたいような気にもさせる。
「触っちゃった」と踊り手のいっぽうがいい、動きが途切れる。
©LOAD SHOW, fictive ©LOAD SHOW, fictive

「イメージすること」「自分が動くより相手に動かされるという所に入っていく」ようなと導く振付家砂連尾 理(じゃれお おさむ)の言葉が終わるか終らないかのタイミングで、「お届けものですよ」とオフの声が侵入し、いかにも日常茶飯なやりとり(であるかのような芝居)がそれまでぼこぼこと立ち上がっていた命題の時空に水をさす。自覚的に作られるそうした落差はけれども、いっそう挑発的な奥行を映画に獲得させていく。例えば少し前に冒頭のふたりを踊るふたりと当り前に同じ存在として書いたけれど、ふたつの場面でふたりは千尋と直也という同じ役柄を演じていながら、演じていない俳優、染谷将太と石田法嗣の肉体もここにはまざまざと映し出されてしまっている。存ることとは、演技とは、演じるとは、俳優とは、役柄とは、素の顔とは、人とは、物語とは、現実とは、そうした一切に介在する距離とは――頭をもたげる問いがまたスクリーンに切り取られたフィクション/リアルを近く/遠くする。そうやって果敢に落差と問とを突きつける濱口竜介監督はそれでもなお、父を亡くし腹違いの兄と暮らす少年千尋、そうして彼と”踊る“直也を軸にした圧倒的なロマンス、物語のしぶとい時空を研ぐことも忘れてはいない(80年代末から90年代にかけての主流を外れた米青春映画、とりわけティム・ハンター「リバーズ・エッジ」とガス・ヴァン・サント「マイ・プライベート・アイダホ」が交わる所のような感触が懐かしい)。

 深い深い川の底に流れが堆積させたもの。いつか大きなうねりと共に浮上して鉄砲水が来る。世界に水が溢れ出て一切を洗い流す日、あるいはその時、人の胸の底の底に降り積もった澱にも似た感情もまた堰を切って溢れ出す――そんな未来の覆し難さをわなわなとした胸騒ぎとして植えつけて、「不気味なものの肌に触れる」は来たるべき濱口の長編「FLOOD」に向けた予告編としての使命をあっけらかんと完遂してみせるのだ。

「不気味なものの肌に触れる」公式Facebook
3月1日(土)~14日(金) オーディトリウム渋谷にて限定ロードショー

濱口監督の後輩にあたる東京藝大映画専攻第八期修了作品展も開催

人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)