Cinema Review第6回は、韓国の鬼才ホン・サンス監督の『逃げた女』です。
ホン・サンスについては、シネマ・ディスカッションで2018年特集上映を取り上げています。
今回上映される『逃げた女』は、昨年のベルリン映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞した注目作品です。
主演は公私ともパートナーと言われるキム・ミニ。
今までのホン・サンス作品よりも、力強いタッチで、女性心理を描いた傑作です。
レビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄の2名です。
★川野 正雄
韓国で一番ヨーロッパの香りがする監督が、ホン・サンスである。
2018年『クレアのカメラ』『それから』などの特集上映を見て、すっかりファンになってしまったが、この新作『逃げた女』も、期待通りの作品であった。
お馴染みの俳優達、長回し、食事や飲みの場面、短めの本編など、ホン・サンスならではの要素が、ここでも満載である。
1年に何本も量産するホン・サンスは、何とこれが24本目である。
ゴダールのような即興演出ぽく見える作品もあれば、韓国のウッディ・アレンと言われるような日常の切り取りで構成されている作品もある。
今回の『逃げた女』は、かなり脚本がしっかり練られ、忠実に演出されているように見える。
前半は監督のパートナーでもあるキム・ミニ演じる主人公が、久々に友人を訪問するという日常の切り取りでスタートする。
それぞれの事情は描かれるが、特別不穏な空気は感じられない。
しかし途中からいつもと違う雰囲気が出てくる。
会話のみでほぼドラマは成立しているが、ちょっとしたきっかけや、仕掛けが会話の中には込められている事に気がつくのは、映画の終盤になってからだ。
これはラブ・サスペンス、或いはミステリーなのかと気づくと同時に、映画は一気に終焉に向かい、自分は疑問を消化できないまま、映画は終了してしまった。
果たして、自分の思っている結論でよかったのか、誰かと語り合いたくなる。
ホン・サンス作品には、いつも不思議な余韻がつきまとう。
その余韻は心地よいもので、映画を見たという満足感が湧いてくるものである。
『逃げた女』の余韻は、今まで私が見たホン・サンス作品の余韻とは少し違うものだった。
全作品を見ているわけではないが、不倫や三角関係は、よく描かれるテーマである。
キャストもテーマもシークエンスも、従来のホン・サンス作品から逸脱したものではない。
ただこの『逃げた女』は、少しだけ今までよりも骨太に思える。
ちょっとフワッとした感覚がこれまではあったが、今回は違う。
思いつく理由は、一つだけ。
これまで垣間見た即興性が無くなり、念密に計算された脚本に基づいて撮影されたように感じたのだ。
観客をあっという間に巻き込んでいく、素晴らしいミステリー映画になった。
是非この機会に、ホン・サンスの世界を体験して頂きたい。
★川口敦子
多作の人ホン・サンス。2月のベルリンで『Introduction』が銀熊賞(脚本)に輝いたと思ったらすでに26本目の最新作『In Front of Your Face』が7月、カンヌの映画祭でのお披露目を待っているという。「描き続けることが健やかさの秘訣」と『Introduction』にも売れっ子のアーティスト役で登場する公私共にのパートナー キム・ミニがそんな台詞を口にするそうだが、そっくりそのまま多作の理由を監督が自ら説明しているようにも響く。
ちなみに『Introduction』の上映時間は66分だそうで、作品の長大化が進む昨今の映画界の流れに掉さす短かさ、シンプルさへの道を果敢に歩み続けているようなホンにはその点だけでもつい好感を抱いてしまう。映画は3つのパートからなる3つのハグの挿話――と紹介されていて、となると本邦公開中の前作『逃げた女』の77分、3つのパート3つの再会のエピソードという形がゆるやかに反復されているのかしらと注目したくなる。個々の映画の中で”反復とずれ″を徴としてきたホンは、そのフィルモグラフィ上にも無視し難い繰り返しと差異を刻み付けているようで興味深い。
実際、改めて見渡すと”逃げた女″というのもホンのフィルモグラフィのあちこちで反復されたモチーフに他ならない。長編処女作『豚が井戸に落ちた日』に登場した夫の下を逃げ出して作家と関係する人妻。イザベル・ユペールがパリから逃げ出してきた3人の女を3つのパートで演じ分けた『3人のアンヌ』の場合は、そのプロットを書いている脚本家志望の女の子が、追われる身として母ともども都会を逃げ出し海岸の宿に潜伏中なのだった。『自由が丘で』には駆け落ちなのか、家出なのか、ともかく逃げ出して父に連れ戻される娘がいた。そんな傍らの挿話を後目に再会を願って丘の街の裏道をさすらう主人公を翻弄したのも、どういう事情か定かではないが彼の下から一度は逃げた女ではなかったか。
ミューズ、キム・ミニを得て以降の近作でも”逃げた女″をみつけるのはそれほど難しいことではない。キムと初めて組んだ『正しい日間違えた日』でまさに反復とずれを射抜くふたつの挿話にいたヒロインはモデルの仕事、虚業の空しさから逃げ出して絵を書く道を、心地よく生きることを選んでいた。これもまた逃げた女と呼べなくはない。『夜の浜辺でひとり』のヒロインは妻子ある監督とのスキャンダルを逃れてハンブルグへと飛んだ女優だった。『川沿いのホテル』のふたりの女も傷心を癒すため何かの只中を逃げ出してきた誰かたちと見えた。面白いのは『逃げた女』でキムが訪ねる3人の旧友が、『夜の浜辺でひとり』や『それから』での係わりを踏襲していなくもないようなこと。最初のパートのメガネの先輩(を演じた女優)は『夜の~』のハンブルグで、第二のパートで詩人にストーカーされてる先輩(を演じた女優)も『夜の~』の後半、帰国後の宴会の場や海沿いのホテルで((『川沿いのホテル』のホテルでも)ヒロイン(キム)とそれぞれに和みの時間を共有していた。第3のパート、文化センターで遭遇するひとり(を演じた女優)は『それから』の出版社の社長兼評論家の愛人だった。やっかいな関係から逃げ出した彼女に代わって社に入ったヒロイン(キム)は社長の妻に人違いされて理不尽な糾弾と暴力を被った。と、そんなことの次第を思い出すと文化センターで再会するふたりの女、その過去にあったらしい因縁も、ひと悶着も、一人の男(『それから』の社長を演じた俳優)をめぐっての三角関係のそれでなく、人違いのそれだったのか――などと別の見方に向けて映画が開かれていく。反復とずれとはそういうことでもあるだろう。そんなふうに映画と映画の記憶で結ばれたホンの映画、そこにふんわりと漂って同じひとつの台詞を反復しているヒロインとはいったい何者なのだろうと、ことさらなドラマを避けて展開される映画の底に奇妙なドラマが見え隠れする。そうしてエンディング。シネマに再び身を置いたヒロインは銀幕の中、寄せては返す海をみつめている。その彼女をもう一度、新しい目で見直してみる。と、その海は、その波は『夜の~』の浜辺でひとり、黒い塊然と横たわっていた女優/逃げた女の目に映っていた光景ではなかったか――。ならば、いまその海を銀幕のこちらで眺めているのは、あの時、あそこで海をみていたヒロイン(キム)、映画から逃げ出した女だったりもするのでは――。彼女を欠いて抜け殻になったそこ(銀幕?映画?世界?)でもしかし海は寄せては返す波を反復し続けている。それを美しさと見惚れるのか、残酷さとしてそれでもまた見蕩れるのか。穏やかに見える一作とヒロインが孕んだじわじわとくる危なさを嚙みしめてみたい。
監督・脚本・編集・音楽:ホン・サンス
出演:キム・ミニ、ソ・ヨンファ、ソン・ソンミ、キム・セビョク、イ・ユンミ、クォン・ヘヒョ、シン・ソクホ、ハ・ソングク
2020年/韓国/韓国語/77分/カラー/ビスタ/5.1CH
原題:도망친 여자 英題:THE WOMAN WHO RAN 字幕:根本理恵
配給:ミモザフィルムズ
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■6/11(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開中
■「作家主義 ホン・サンス」6月12日より、渋谷ユーロスペースにて、旧作特集上映中