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Cinema Discussion-4 ビートニク映画祭/ The Beat Goes On

ジャック・ケルアック/キング・オブ・ザ・ビート』 ©John Antonelli
ジャック・ケルアック/キング・オブ・ザ・ビート』
©John Antonelli

映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えるセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第4弾は、3月22日よりスタートするビートニク映画祭から3本の作品『ジャック・ケルアック/キング・オブ・ザ・ビート』『キャンディ・マウンテン』『スウィンギング・ロンドン1&2』をピックアップして、ご紹介致します。
今回も参加者は、前回と同様に映画評論家川口敦子さんをナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。

川口敦子(以下A):まず皆さんのビートニクに対する思いみたいなものを聞いてみたいのですが。川野さんは、バロウズに会った事があるんですよね。

川野正雄(以下M):1990年に、当時バロウズが住んでいたカンザスシティローレンスという小さな街で会いました。
一度夕食を共にして、翌日は森の中に行って、バロウズ主催のショットガンパーティに参加しました。当時バロウズは、板をショットガンで撃ち抜き、その弾痕にペイントするショットガンペインティングという作品を制作していたのですが、その現場を体験させてもらいました。銃をみんなで撃って、その後山小屋に移動し、ささやかだけど、強烈なパーティを催すという流れでしたね。
パーティの内容は詳しく書けないのですが、バロウズが隣に座ってくれたので、色々と話しをして頂きました。
その頃バロウズは、ビートニクというよりサイバーパンクという存在でしたが、ちょうどガス・ヴァン・サントの『ドラッグストアカウボーイ』に出た後で、ガス・ヴァン・サントのことを誉めていましたね。

A :私がガス・ヴァン・サントにインタビューした時、彼はバロウズのグルーピーだと言ってはにかんだみたいに笑ってました。その一言でいっきに親近感が増しましたね。彼の場合はほんとは深くビートを掘り下げ生き方の面でも自分の作る映画でもその精神を受け継いでると思いますが、グルーピー感覚も残しているところが素敵というのかな。彼自身、ケルアックがニール・キャサディを「路上」で外側から見て描いたように、バロウズのような実践者ではなく、どちらかというと、見ている側の人間だと考えているようでした。そう聞いてみると『ドラッグストア・カウボーイ』の主人公も『マイ・プライベート・アイダホ』のキアヌが演じる市長の息子も、結局、踵を返す、旅にとどまれないケルアック的存在で、観客もそこについ自分を重ねたくなったりするのではないでしょうか。

名古屋靖(以下Y):僕の「On The Road」とジャック・ケルアックの漠然としたイメージは、「On The Road」の主人公のモデルとなったニール・キャサディだったんだと思います。サイケデリックなバスで全米を旅しながら、各地でアシッドテストと言う名のPartyを開催しつつLSDをばらまいたケン・キージー率いる「メアリー・プランクスターズ」の主要メンバーで、そのバスの運転手がニール・キャサディ。そんなニール・キャサディ自身のハチャメチャぶりがまさに「On The Road」であり、彼とケルアックが巡り会わなければ、ケルアックは「King of the Beats」にはなれなかったと思われます。
映画を観るとケルアックは実にまともです。彼を良く知る方はなるほど納得の内容でしょう。しかし、ビートニクの派手な側面にばかり目を向けていた自分には、申し訳ないけれども彼のリアルな人生には少なからず失望させれらました。ケルアックはビートニクというよりビートニクの観測者であり理解者だったんだと思います。アルコール依存などはミイラ取りがミイラになっただけで、彼自身はニール・キャサディやバロウズのような筋金入りのビートニクではなかったんでしょうね。

©WALTER LEHMAN
©WALTER LEHMAN

M: 最初にバロウズに会った時は、ホテルのレストランでした。しばらくバロウズを待っていると、レストランの窓に帽子を被り、猫背で歩くバロウズそのもののシルエットが写し出され、その影だけでものすごいオーラを感じました。
食事の時のバロウズは、穏やかで、ゆっくり喋っていたので、かなり老いた印象でした。その土地はなまずが名物だと言って、なまず料理を食べていましたが、食事をすごくこぼしていた事をよく覚えています。彼の秘書のジェームス・グラワーホルツが、こぼした食事をきれいに片付けている姿が、世話女房のように献身的で、すごく印象に残っています。後から聞いた話しですが、ジェームス・グラワーホルツは、アレン・ギンズバーグから譲り受けた秘書だそうです。
ところが、翌日の森でのショットガンを撃つ時や、アフターパーティのバロウズは、まだかなりの現役感がありましたね。
映画のプレミアか何かで、ロンドンから帰ってきたばかりだと言ってましたから。

日本版「ブレードランナー」にサインを頂きました。
日本版「ブレードランナー」にサインを頂きました。

バロウズのサイン
バロウズのサイン

川口哲生(以下T): 私の中ではbeatは同時代感は全くないです。いろいろなものの中の影響を後追いで体験して来たように思います。それ故にbeatを正面から語るのはちょっと重さがあるかな。だからわざと横道から入りますが、1988年ぐらい毎金曜日の深夜、青山のサルパラダイスからクラブジャマイカへのクラブ・クロールを繰り返していた時期があります。当時サル・パラダイスはオン・ザ・ロードのサル・パラダイスかぐらいにしか意識していなかったけれど、レゲエのダンスホール、ましてやランキンタクシーが原発やら差別やらの危ないDJをしていた、いわゆるマジョリティの価値観と全く外れたこういう店の経営者は、こういう名前をつけるのだなと感慨深いですね(笑)。何か時代は違い、行き先は違っても、ホーボー、ボヘミアン、ヒップスターといった世界観に駆り立てられる感じは、時代や世代を超えて繰り返される様に思います。ヒッピーのインドだったり、僕らの80年代初頭だとバリだったりジャマイカだったり。そしてそこに絡む音楽やヒップスターは変わっても。アフロアメリカ的純粋なもの、感覚的なものものへのあこがれも(beat ではjazzなんだろうけれど)も共通ですね。

M: JAZZといえば、バロウズに会った時、僕がブルース・ウェーバーのチェット・ベイカーTシャツを着ていたら、バロウズが「1950年代に彼に会ったことがあるが、ひどいジャンキーだったよ」と言ってました(笑)。チェット・ベイカーをブルース・ウェーバーが撮った『LET’S GET LOST』も、ビートニク的な作品かもしれませんね。

A:『LET’S GET LOST』と同じ年にイーストウッドが製作総指揮の『セロニアス・モンク/ストレート・ノー・チェイサー』という記録映画もあって、確かベルリン映画祭で一緒に上映していてすごくよかったですね。イーストウッドにはやはり88年にC・パーカーに迫った監督作『バード』もある。
T: ケルアックやチェット・ベイカーの時代では、JAZZがすごくヒップだったんでしょうね。
「オン・ザ・ロード」のケルアックは名古屋君も先に言っていたように、観察して、共感する人だと言うことが映画の中でも語られていますね。ビートの本質は「退屈でない」、「知識人でない」、「西部の太陽の子」モリアーティことニール・キャサディが体現していたのでしょうね。でもお互いの無い物ねだりなのだと思います。
この無い物ねだりはウォーホルの『ロンサム・カウボーイ』のジョー・ダレッサンドロにも重なる様に私には思えます。

A: 映像メディアにのった作家の時代なのかな。同時代の映画との近さも強く感じます。J・ディーン、ブランド、P・ニューマンとメソッド系の反抗児のイメージを掲げたスターたちとか。第二次大戦中から後にかけての青年の疲れの感じとかまで見渡すと40年代スターも視界に入れたポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』も意外にビートニク映画だったかも。
声をともなう文学でもあるので、本人たちを映像に残す意味もありますね。
その意味でビートをめぐるドキュメンタリーの多さもすごく感じます。
ビートニクというのは、映画祭でもすごく普遍的な、人気のあるテーマで、扱った作品も多いと思います。さっきもいったベルリンでは(私が通っていた頃だからちょっと昔のことになりますけど)フォーラムとかパノラマとか、メインのコンペではなく、ちょっとくせのあるセレクションをする部門で毎年、関連するドキュメンタリーを必ず上映していたし、サンダンスでも多いですよね。
ヴェネチア映画祭では、1996年the beat goes onという特集上映がありました。その際に『キャンディ・マウンテン』の ロバート・フランクの 『Pull My Daisy』『Me and My Brother』 や、『スウィンギング・ ロンドン』のピーター・ホワイトヘッド監督作品『Wholly Communion』を上映していました。
面白かったのはビートニクをめざとく商売にしたロジャー・コーマン監督作『血のバケツ』とかジョージ・ペパード、レスリー・キャロン、そしてアルトマンの『三人の女』にも出てるジャニス・ルール共演の『地下街の住人』なども同時に上映されていたこと。同時代的に映像化、商品化される文学でもあったんですね。

Y: この映画でひとつ収穫だったのは「ケルアックは朗読がとても魅力的」ということ。
冒頭とエンディングでケルアック自身がTV出演した映像がありますよね。終わりの方でピアノの演奏をバックに自身の作品を朗読するシーンが出て来ますが、このリーディングがすばらしい。ギーンズバーグほど大げさで仰々しくなく、スマートだけど嘘っぽくないく力強い。ほんの数分の朗読シーンですが、ぐっと彼に引き込まれる自分がいました。当時、彼の朗読を観た女性達はきっとケルアックに惚れ込んだ事でしょう。彼が有名になれた要因を垣間みれた気がします。日本で太宰治が女性ファンに人気があるのと、近いのかな。
また字幕でなく直接英語で彼の作品を理解出来たら、その魅力はさらに倍増することでしょう。もっと自分の英語能力が高ければと痛感しました。

T: 私も最後のケルアックのこの朗読だけで、この映画は見る価値があったと思った。すごくマスなバラエティみたいな番組なだけに、逆に当時ケルアックがどういう存在だったのかも、イメージ出来た。
これがポエトリー・リーディングの字面とは違う、言葉の力かなという感じですね。初め緊張していて固かったのが、勢いづいてきてblowしているのがすごくよかった。

英語という意味では、beatという言葉には、[やられちゃった」みたいな意味もあるみたい。ヘロインかと思って買ったら、砂糖だったみたいな。『キャンディ・マウンテン』は、’逆’わらしべ長者というか、取引ごとに「だまされてふんだくられて精神的にも肉体的にも消耗している」という意味でbeatですね。(笑)癖のあるミュージシャン(デビッド・ヨハンセン、トム・ウエイツ、Dr.Johnなど)の使い方はジャームッシュに通じる感じ。最後に伝説のギター職人がいう「オン・ザ・ロードが自由でない」はケルアックの路上が聖典化してその呪縛に縛られた人生を喝破しているように聞こえた。

『キャンディ・マウンテン』提供:アダンソニア
『キャンディ・マウンテン』提供:アダンソニア

A: BEATには、美しい、至福のという意味もあるみたいですね。

M:そういう意味でも、ビートニクは、本当の英語文化なのだと思います。色々読んでみて、イマイチピンと来ないのも、日本語に翻訳しているからかもしれない。スタイルとしてのビートニクは多少わかっても、真のビートを自分が共鳴して理解しているとは思わない。

Y:『キャンディ・マウンテン』は、 登場人物にひとりも善人が出て来ないですね。みんな金で動く(or 金でしか動かない)打算的な人たち。主人公だけは伝説のギター職人を見つけたら、自分の全てが変わると信じている。その他の人々が何も悪びれず全て金で話を進めるところもそうですが、主人公の所持金(財産)の象徴が車で、それがどんどん落ちぶれて行くところがまさにアメリカらしい表現で、分りやす過ぎて面白かった。
ストーリーはロバート・フランク的というか、ためもなく終わりに向けてのカタルシスもなく淡々としていて、敗者の美学もない。ダメな若者のダメな旅を少しだけ面白おかしく描きながら、その結末には感動など皆無。主人公は失望の中、故郷から遠く離れた見知らぬ土地の「路上」を歩いて行くところでエンディングを迎える。当てのない「新たな放浪のはじまり」で終わる様はまさにビートニクそのもの。
ジョー・ストラマーがどれか分らなかったのですが、アッパーなアート・リンゼイや、成功者だけど金にセコいトム・ウェイツ、DVなダメ亭主Dr.ジョンなど、くせの強いミュージシャンが魅力的な役者として登場するあたりは、ロバート・フランクのファンであるジャームッシュに影響を与えたであろうテクニックのルーツを見ました。

M:ジョー・ストラマーは、最初にギターを返してくれないガードマンみたいな制服の人。この頃はアレックス・コックスの映画にも出ていましたね。
『キャンディ・マウンテン』は、今度公開されるコーエン兄弟の新作『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』にもつながってくる部分があって、面白かった。カタルシスの無い旅が出てくるシチュエーションは、共通ですね。

A: ジム・ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』は、ほぼ同年代です。
ネオ・ビート・ノワール・コメディと銘打ち、いつの時代にもいた漂流者への共感を打ち出していましたが、その辺の感覚は共通ですね。
アレックス・コックスも、英国視点ですが、同じようなコンセプトを持っていると思います。『キャンディ・マウンテン』のもうひとりの監督ルディ・ワーリッツァーとの関係も要チェックですよね。
英国と言えば、『スウィンギング・ロンドン1&2』は、如何でしょうか?

『スウィンギング・ロンドン1&2』提供:アダンソニア
『スウィンギング・ロンドン1&2』提供:アダンソニア

T: 『スウィンギング・ロンドン1&2』は、ギンズバーグとか出ているけど、ビートニクとは少し距離があるように感じました。素直にこの頃のスウィンギング・ロンドンを感じる映画を集めて自分たちのディスカッションは別にしたいですね。

A: ピーター・ホワイトヘッドの65年の監督作品が、ベネチアのビートニク特集には出てたから、位置としては大西洋をつなぐみたいなポジションなのかもしれませんね。

M:これは原題が『Tonight Let’s all make love in London』で、テーマもFREE LOVE, FREE SEXや、反体制主義みたいな内容のインタビューが中心だから、ビートニクのムーヴメントとは、一線を画している印象ですが、出演者の人選が非常に興味深かったです。
ミック・ジャガーやマイケル・ケイン、ジミヘンなどは当然という感じですが、バネッサ・レッドグレイブやジュリー・クリスティなどは、ちょっと意外でした。彼女達は、今で言うカルトヒロインみたいなパブリック・イメージだったのかなって。
でもリー・マービンや、ナタリー・ドロンは、何故出てくるのか、ちょっとわからなかった。
リー・マービンは、『ポイントブレイク』とか格好良かったけど、アメリカのタフガイ俳優というイメージでしたから。
音楽だとスティーブ・マリオットやジョージ・フェイムあたりに、出演して欲しかったな。

A: ニコラス・ローグの共同監督作で、ミック・ジャガー主演の『パフォーマンス』などもほぼ同じ時代ですね。ニコラス・ローグやジャームッシュが出てくると、前回の『オンリー・ラバーズ・レフト・アライブ』ともつながってきますね。あ、トッド・ヘインズもつなげたいな。『ベルベット・ゴールドマイン』、そして今回の映画祭で上映される『ドント・ルック・バック』を意識してもいる『アイム・ノット・ゼア』も興味深い。
ケルアックやニール・キャサディは1968〜69年に亡くなっている。ラブ&ピースやヒッピーの時代から70年代への移り目ですね。で、『スウィンギング~1&2』はその前後のロンドンで、ビートニクというよりは、サイケデリックなアプローチが強いです。

M:バネッサ・レッドグレイヴは、『欲望』、ジュリー・クリスティは『華氏451』『ダーリング』が、当時の代表作でしょうか。
原題ともつながってくるのですが、当時のスターのゴシップ的な視点も、この映画にはあると思います。
バネッサは、モッズ映画のバイブルである『長距離ランナーの孤独』のトニー・リチャードソン監督や、ジャンゴ=フランコ・ネロと浮き名を流していました。
ジュリー・クリスティも、当時の最先端俳優テレンス・スタンプと付き合っていたみたいです。
その他にもミック・ジャガーがマリアンヌ・フェイスフルとの交際で話題になり、映画には出ていませんが、ニコはアラン・ドロンの子供を産んだりと、スターのゴシップネタには事欠かない時代だったと思います。
ミックのインタビュー見ていると、割とステレオタイプの反体制ヒーローみたいな位置づけに、インタビュアーがしようとしている意図が感じられました。スコセッシがボブ・ディランを描いた『ノー・ディレクション・ホーム』でも同じような場面があり、ディランが少しイラついていた場面を思い出しました。
60年代って、すごくメディアが進化した時代だと思いますが、メディアは割とステレオタイプにスターをとらえて、ネタにしていたように感じます。今見ると、逆にその辺が面白い部分でもあるので、一概に否定は出来ませんが。

Y: 個人的には後半のギーンズバーグのリーディングなど、音楽でない映像の方が新鮮でした。
ドキュメンタリーとしても全体的には緩い印象。でもそのラフな雰囲気もビートニクという単語で括るといい味になっています。ビートニク映画祭の一作品としては正解でしょうね。

M:ギンズバーグやバロウズは、とてもフットワークが軽く、色んなアーチストとコラボする事で、結果的に自分達のフォロワーを拡大していったように思います。ギンズバーグはディランの『ドント・ルック・バック』にも出ているし、クラッシュとはツアーまでしていますね。
この二人が長生きした事で、ビートニクは普遍的なカルチャーになっていったと思います。
ジェームス・グラワーホルツの譲渡の逸話もありますが、二人の関係も長い間継続していたのではないかと思います。
これは僕がサンダンス映画祭に行った際、見つけたギンズバーグの短編です。音を聞くとクラッシュみたいですが、ポール・マッカートニーとのコラボした”BALLAD OF THE SKELTONES”です。

Y:今まで話題になっていない作品で言うと、時代は違いますが、ハンター・S・トンプソン原作、アレックス・コックス脚本、テリー・ギリアム監督の『ラスベガスをやっつけろ』が僕の中ではビートニクのイメージにかなり近いです。

A: ちょうどラルフ・ステッドマンを描いたドキュメンタリー『マンガで世界を変えようとした男』も公開されてますね。

A: 日本におけるビートニクはどうだったのでしょうか。三島由紀夫や石原慎太郎、太陽族などが当てはまるのかな。

M:荒木一郎さんは、ギンズバーグの詩を日本語に置き換えた「僕は君と一緒にロックランドにいるのだ」を歌っていますね。
ギンズバーグのフレイバーみたいなものは、そのままうまく日本語に移植されていると思います。
「帰ってきたヨッパライ」の北山修さんも、ビートニクの要素が強いと思います。
加藤和彦さんは、文化的な要素は強いと思うけど、あえて言葉での表現は避けていた人なので、北山さんの方がよりビートニク的ですね。

言葉をリズムに置き換えているという意味では、唐十郎さんや寺山修司さんの台詞の洪水も当てはまるかもしれません。
唐さんを映画で起用した大島渚監督の『新宿泥棒日記』は、日本のビートニク映画とも言えるのではないでしょうか。

T: 高橋幸宏さんもビートニク好きですね。鈴木慶一さんとビートニクスというユニットをやっていたり。

A: ジム・ジャームッシュから一つの流れが生まれていますが、次回のCINEMA DISCUSSIONは、ボブ・ディランに影響を与えたフォークシンガーを描いたコーエン兄弟の新作『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』を予定しています。1961年のニューヨークが舞台で、ビートニクも出てくるので、うまくつながっていければと思います。

ビートニク映画祭は、3月22日よりオーディトリウム渋谷にて開催されます。会期中はトークイベントも開催されますので、是非チェックしてみて下さい。

Cinema Discussion3 “Only Lovers Left Alive”/「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ」から見えてくる二人のミュージシャン


「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」

新年明けましておめでとうございます。
2014年最初のアップは、12月20日に公開されたジム・ジャームッシュ監督の新作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ」をテーマに、映画を多方面な角度から分析するシネマ・ディスカッション3です。
参加者は映画評論家川口敦子さんをナビゲーターに、川口哲生、名古屋靖、川野正雄の4名です。
今回は作品からつながってくる映像を、ジャームッシュも好きだと言い作品にも登場するYOU TUBEから幾つかご紹介する事で、皆様のイメージも膨らませて頂けるように構成しています。

川口敦子(以下A) この作品は、引用やトリビュート的に様々なアーチストの名前が出てくることが話題になっていますが、人軸から見えてくることを中心に、ジャームッシュがこの作品で狙っている背景を考えてみたいと思います。
まずは皆さんの印象や、ジャームッシュについての想いを聞かせて下さい。

川口哲生(以下T) 夜のデトロイトの、暗い中でモゾモゾやっているところが、「ダウン・バイ・ロウ」とかに通じて、ジャームッシュ的。
個人的にはティルダ・スウィントンに救われているなと感じた。デレクジャーマンとかボウイとか、「ブリングリング」で描かれているSNSで自慢をして、大量に消費していく若い子達とは対極にある、バンパイアの様に希少化しても面々と存在していく生き延び方が面白い。

川野正雄(以下M) 資料を見てみたら、「パーマネント・バケーション」以降の長編は全て劇場で見ている事に気づきました。フリークではないんだけど、気になる存在である事は間違いないです。前作「リミッツ・オブ・コントロール」は、ドロドロし過ぎている印象で失望したので、今回の作品で本来のユーモアと、リズムを取り戻してくれたように思います。
実はジャームッシュとは縁があって、何回か遭遇したことがあります。直接話したのは、昔僕がDJをしていた西麻布のクラブに来て、わざわざDJブースまで本人がリクエストをしに来た時。そのリクエストは、当時流行っていたスパイク・リーの「ドゥ・ザ・ライト・シング」の1曲目パブリック・エナミーの「FIGHT THE POWER」。残念ながらあいにく持って来ていなかったので、ジャームッシュのリクエストには応えられなかった。もっとマニアックなリクエストを想像していたので、ベタな希望が意外。

名古屋靖(以下N) ジム・ジャームッシュがクスクス笑いながら脚本書いていそう。
久しぶりにもう一回見なくては、と思わせる映画。
でも「是非見たい」というより、次回はパンフレットを手始めに、その周辺の情報も取り入れてからキチンと学習した上で見て確認してスッキリしたい系。
ジャームッシュの趣味や答えの無いナゾナゾがちりばめられてますね。

C)2013 Wrongway Inc., Recorded Picture Company Ltd., Pandora Film, Le Pacte &Faliro House Productions Ltd. All Rights Reserved. C)2013 Wrongway Inc., Recorded Picture Company Ltd., Pandora Film, Le Pacte &Faliro House Productions Ltd. All Rights Reserved.[/caption]

M タランティーノが、自分が好きだったマカロニ・ウエスタンやナチ物、ブラックムービーなどを自分流に作って、ある種のリスペクトを表現しているのと同じように、この映画からは、ジャームッシュの古典的な吸血鬼映画へのリスペクトを感じました。
新しい吸血鬼映画のように見えますが、古典的な吸血鬼周りの伝説〜夜しか行動しないとか、心臓に木の杭を打つと死ぬというようなお約束は、キッチリと守られているのが面白かった。

A 「ゴースト・ドッグ」は、メルヴィルへのオマージュが込められていると言いますし、そういう過去の映画に対するリスペクト的なテーマは、常に彼の中にはあるのではないでしょうか。
今回は吸血鬼映画がお金になるというので撮ったと、インタビューでは言っています。吸血鬼映画の歴史全体に愛情を持っているが、現代のコマーシャルなバンパイヤストーリーには関心がないようなコメントもあります。
ここでは吸血鬼を題材にする事によって、アナログ、アウトサイダー、ボヘミアンへの彼の執着を描いているように見えます。
夜のデトロイトドライブ、あの暗すぎる夜の中がジャームッシュ的だし、デトロイトのおひざ元で育ったアクロン・オハイオの子ジャームッシュのルーツにも関わってくるのかもしれません。

M タンジールの夜の街並やドライブシーンは、デトロイトと対象的に、とても美しく撮っていますね。今までのジャームッシュには見られないビューティフルショットだと思いました。モロッコを撮影場所に選んだ理由も気になりますね。

A そういうジャームッシュの世界ですが、軸をティルダ・スウィントンに移してみると、案外70年代的ジャンルを越境した表現者たちの生き延び方を考えられるかもしれません。
参考としてティルダが出ているボウイの「The Stars(are out tonight)」を見てみましょう。

M デビット・ボウイといえば、カトリーヌ・ドヌーブと共演した吸血鬼映画「ハンガー」がありますね。
デカダン的なバンパイヤラヴストーリーというエッセンスは、共通のものが観じられます。

A エイリアン的な存在を描いたボウイ作品としては、ニコラス・ローグの「地球に落ちて来た男」もありますが、その影も観じられますね。

A もう一人この作品の重要な存在が、ディレッタント的プロデューサー ジェレミー・トーマスです。
彼は「戦場のメリークリスマス」を作っていて、ここでもボウイがキーパーソンになってきます。

A ジェレミー・トーマスは、デビット・クローネンバーグが、ウイリアム・バロウズの原作を映画化した「裸のランチ」にも関わっています。この辺がモロッコのヒントになるのかもしれません。

N タンジール編に出てくるカフェ「千一夜」のオーナーがガイシンで、彼はバロウズにカットアップを伝授している。

A 影武者的存在への共感も観じられます。 シェークスピア/マーロウの関係もそうだし、バロウズ/ガイシンにもある――映画そのものよりそこから派生した興味で見る映画とも言える要素がありますが、その辺がジャームッシュが若い観客にもうひとつ受けない理由にもなるのでしょうか。

N まるで「時代劇」を見ているかのようなのでは…遠い距離感(自分とは遠いので感情移入が難しい)があるのかもしれません。
「そこから派生した興味で見る映画」は今の若者には面倒臭い映画なのかもしれませんね。もちろん、好きな子もいますが。ただマジョリティではないですよね。

A キャラクターたちの造形にも、その辺は顕著ですね。 英国的なスーパースノビズムvsゾンビ・センターLAのような関係性が存在しています。

T ブリングリングのブランドでのname drop(ひけらかす)とは違う、いろいろなちりばめられた記号を(音楽やアート、底流を流れる文化的リスペクト)おもしろがれるか?全くわからず引っかからない層、そしてわかって鼻に付く層、そしてつぼにはまる層と分かれそう。自分たちが好きなアーティストの影響を受けたり、カバーした曲を掘っていく感覚を持った層が、どれだけ存在するのか。

N 「俺のインテリジェンスとオシャレなユーモアについてこい!」的なところが若い人がついてこない理由かも。若い子は掘り起こすの好きじゃない子が多いらしいし。昔ならそんなジャームッシュの映画に惚れたら、その周辺の音楽から文学、それこそファッションまで掘ったもの。いまそれはかっこよくない行為かもしれない。今は一生懸命が暑苦しい時代になってきているのかもしれません。

A ポストモダンとレーベルつけるといやがるだろうが、その中で愛されるセンスと、そこから出ようとしないことの功罪があるのでしょうか。

M 主人公トム・ヒドルストンの生き方が、ジャームッシュの生き方に被ってきますね。

N トム・ヒドルストンも歴代の成功したミュージシャンと逢っていますよね。彼は曲を提供するだけで、代わりに作品を広めるのはゾンビ(人間)。純粋に芸術家としての行為。たぶん血を飲むのと同じいくらいに重要で必要な作業。ただし名声は一切求めていない。永遠に生きるための退屈しのぎでしょうか?
壁に飾ってあったジョー・ストラマーの写真も気になります。

M 会話に出てくるエディ・コクランや、ジョー・ストラマーは、いかにもジャームッシュ的ですね。この世にいないミュージシャンへのレクイエム的なエッセンスも込められているように思います。
これは、ジャームッシュが撮ったジョー・ストラマーの追悼フィルムです。曲はボブ・マーリィのカバー。
4分という短い尺の中に、ジャームッシュらしい夜の闇と昼のコントラストが描かれています。
クラッシュNY公演に、アンディ・ウォホールと共に楽屋を訪れていたスティーブ・ブシェミも登場しています。

M もう一つ気になったのは、オープニングで7インチがかかるワンダ・ジャクソン。ジャームッシュは、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」では、スクリーミン・J・ホーキンスの「I PUT A SPELL ON YOU」をうまく使うなど、R&RやBLUESには造詣が深いけど、なんでワンダ・ジャクソンなのか、最初はよくわからなかった。チェット・アトキンスやエディ・コクランと同じR&R的な流れと言えなくもないんだけど。
これは彼女の最大のヒット曲「フジヤマ・ママ」。この「フジヤマ・ママ」つながりで考えていくと、アイデアの原泉も見えてきます。

M こちらはクラッシュ日本公演の映像。当時のポール・シムノンのガールフレンド、パール・ハーバーが、「フジヤマ・ママ」を歌っています。この映画ではギターロック的な曲に重きを置き、パンク的な曲はあえて使っていないように観じましたが、やはりジャームッシュのルーツミュージック的には避けては通れない部分ではないかな。

A 好きなものへの投影は、常にテーマとして内在していますね。

M デビット・ボウイと、ジョー・ストラマーという作品自体には直接関係のないアーチストの影が見えてきました。

N 映画を見た後に調べると、場面場面でのシャレやギャグの意味が色々分かって来る。事後復習する事で見る前より興味がどんどん湧いて来る。また見たくなる、確認したくなる。何度も楽しめる映画。
ティルダはクールでかっこよかったのですが、ラストシーンの表情はお笑い。あそこで、ああ、これはお笑い映画なんだと気がついた(血のアイスバーとか)。

M 液体(血液)は、飛行機機内に持ち込めないとか、血液型によって、飲み物としての血のグレードが変わったりとか、今回はとてもひねったユーモアが生かされている。

A エンディングは、サバイバルの本能を描いたように観じました。
全体としては、ジャームッシュとジェレミー・トーマスが意気投合して、自分達の好きな物を集積させて(見えなくても)、作った作品なのではないでしょうか。
二度見る事によって、新たな発見が幾つも見つかるような映画ですね。

T 昔ジャームッシュが好きで、ここのところ離れていたジャームッシュファンにはぜひみてほしいと思います。

『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』は12月20日よりTOHOシネマズ シャンテ、ヒューマントラスト シネマ渋谷、新宿武蔵野館他全国公開中です。
作品公式HP。