『遭難者』『女っ気なし』で押しつけがましさのかけらもなく才人ぶりを印象づけた監督ギヨーム・ブラック。待望の長編デビュー作『やさしい人』は、北仏のさびれた海辺の町オルトを舞台に世界から忘れ去られた場所と人との共振をやわらかに掬った前2作同様、ブルゴーニュ地方の小さな町トネールを舞台にその土地のゴシック・ロマンな肌触りを映して中年男を貫く突然の雷鳴のような狂った恋と勘違いの使命感の物語を差し出してみせる。
ヴァカンス映画の軽やかさを受け継いだ『女っ気なし』の成功に安住することなく、果敢に変化をのみこんだ新作は、しかしよく見ると冬の夜のちょっと怖いお伽噺にも似た感触、携帯メールを話の運びに使う術、胸に燻るもやもやの解き放ち方――と『遭難者』の心に荒海を抱えた自転車のりをめぐるお話とそう遠くない世界を感じさせもする。監督ブラックの才能の柔軟性と好ましい頑なさとを共に確認させてもくれる。
それなりに知られたインディ系ロッカー役で今回も主役を務めるヴァンサン・マケーニュの周到な演技と土地っ子のノンシャランとした存在の力とをつきあわせる手法に磨きをかけるいっぽうで、ブラックはスマートフォンの待ち受け画面として印象的に挿入されるゴッホの絵、そこに漲る狂気を主人公の狂った恋の深化を指し示す道しるべのように活かしたり、雪と雨の対比で心の温度差を縁取ったり、終盤にかけフィルム・ノワールの方へと舵を切ったりと、緻密に計算された語りの術の冴えも新たに感じさせる。思春期映画になるという次回作への期待も否応なしに膨らんでいく。
そんな監督ブラックの美質のなかでももういちど、確認しておきたいのが人に向けた確かな眼差しのことだ。
今回は敬愛するジャック・ロジエ映画で知られるベルナール・メネズが「祖父の世代のちょっと大げさな演劇性(笑)」(監督談)を全開にして素敵に象る父とマケーニュの息子の関係にとりわけその確かな眼が息づいている。
互いの胸に残された人生の痕跡、傷も痛みも楽しい思い出も、忘れたり風化したりしたようでしかし、時にふっと帰りくる記憶として、しらんぷりしたそれぞれの時空を侵食する。直截に語られるわけではなくとも人と人の歩みの歴史を涙ぐましくそれが裏打ちしていることを、ブラックはさりげなく不器用な父と子の関係にたくしこむ。そこに浮上する人という存在の普遍の真実。それを普通の家庭の食卓にとけこんだヴェルレーヌの詩の一場に映画はこともなげに響かせる。密やかなのに鮮やかな永遠のつかみとり方を前にすると「あゝ!――そのやうな時もありき、寒い寒い 日なりき」なんて中也の詩集を思わずこっそりひっぱり出したくなったりするかもしれない。
『やさしい人』は渋谷・ユーロスペースで公開中。名古屋シネマテークで11月29日から、その他全国で順次公開予定。
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次回のLCR Cinema Disucussionでも取り上げる予定です。乞うご期待!
映画の”イヌ”といえばJ=P・メルヴィルのノワールの快作「いぬ」が想起され、その影響を例によって口角泡の勢いで語りとばしたタランティーノの出世作「レザボア・ドッグス」もあったなあと懐かしくなる。が、そこで扱われたいわゆる”官憲の犬”系の裏切り者をめぐる物語とはまた別のお話、別の映画がここには差し出されている。あるいは仮想のドアノブや白墨で囲ったテリトリー内の共同幻想、ままごとにも通じる“ごっこ遊び”の敷衍という点では案外、接点がなくもなさそうなラース・フォン・トリアーの「ドッグヴィル」なんて怪作もまた思い出してみたくなるが、それともやはり違うのが万田邦敏監督(『UNLOVED』『接吻』)7年ぶりの長編映画「イヌミチ」(72分)だ。
んっ??と目を引くタイトル、加えて「男女」「異常な関係」「首輪をはめたら、『自由』になれた」――と、プレス資料を拾い読みした時点では、ああそういえばドヌーヴがマストロヤンニの犬になり、確か首輪をはめたりもするマルコ・フェレーリの「ひきしお」なんて映画もあった、孤島の男女の犬と飼い主にも似た支配被支配関係の逆転をえげつなく追いつめたリナ・ヴェルトミューラーの「流されて…」もあった、要は男と女、恋愛にも結婚にもつきものの力の構図、隷属、従属、加虐被虐等々の関係を1978年生まれ、映画美学校脚本コースに学んだ新鋭伊藤理絵嬢が今日的に料理したお話かしらと、勝手に早呑み込みしていた。
ところがそんな思い込みを映画はまんまと打っ遣ってみせる。犬が好きで14年間、飼いもしたという伊藤が、人に与えられるものが全て、人生の選択に煩わされない犬をそれはそれで羨ましいと思った、そこから発想された物語なのだという。
花嫁カットが表紙を飾る女性誌の編集部で、責任感に欠ける編集長を筆頭に、「呑気でいいよね」のバイト君、妙に可愛い口調で言われたことを取り次ぐだけの新人女子らの尻拭いに追われ、家に帰れば同居する恋人に入籍する? とまたしても答えを迫られて、数珠つなぎの「選択と決断」の呪縛にもう、うんざりのヒロイン響子。彼女が、笑顔で土下座していた携帯ショップの販売員、西森の家に転がり込み、「どういうわけか四つん這いになって犬の真似をし始める。男も男で、そういう女を素直に受け入れる。しかし二人の間に性的な関係は一切いない。これが『イヌミチ』の物語だ」(ユーロスペース 作品紹介ページ掲載の監督のコメントより)――そう、これが「イヌミチ」の物語と、1956年生まれの監督の言葉を縁取る動揺に目をとめるともう少し、先までコメントを引用したくなる。
「私は、最初不思議な話だと思った。新しい話だとも思った。『今』のひとたちの話なのだとも思った。一方、撮影現場に参集したスタッフ・キャストの(映画美学校フィクション、アクターズ、脚本コースの)学生たちはみな若く、そこにも『今』があった。さあ、困った。『若さ』にも『今』にも弾かれている年寄りは、それに迎合するのは業腹だし、ただ逆らって頑固になるのも大人げないし。ジレンマ。今こそ『わん!』と鳴いて四つん這いになるべきか。もちろんそんなことはできなかったけれど、それをやるのにもそれなりの勇気と覚悟が必要なのだということには気づかされた。そうして、そんな勇気と覚悟をおくびにも出さず犬になった主人公が、いよいよ奇妙に思えたのである」
映画批評家としても健筆を揮った万田監督の名調子につい「わん!」と尻尾をふって反則ぎりぎりの長い引用になったけれど、映画「イヌミチ」のスリルはまさにそんな監督の「今」にも「若さ」にもすり寄らない矜持の貫き方にあるだろう。
実際、映画は「弾かれてる」などと自嘲しつつ、これみよがしの勇気も覚悟もひけらかさずに映画新人類たちとしなやかに折り合い、しかし同時に開巻そうそう「グラン・トリノ」のじいさまをも思わせる独自の歩調でみごとに突き進む監督のしらりと涼しいタッチを刻印してみせる。
電車が吸い込まれるターミナルを背景に交差する歩道橋。階段。そこをヒロインが歩き、上り、横切り、そうして繋がれた犬を上から見下ろして「ふん」と鼻を鳴らす。白い彼女の横顔に繋がれた犬の横顔が切り返され赤いタイトルが画面に収まる。同じ赤は、イヌの日々、共同幻想でも共闘でもあるような4日を経た響子と西森が静かに向き合う公園の樹の幹にも、初めて泣く響子の背後の信号にも欠片として散りばめられ、禍々しい予感の成就を乗りこえたヒロインがまたあの歩道橋にやってきて犬の不在を確かめ「終」のタイトルに収まる。
極言すれば毅然と昔の色した映画の赤を息づかせ、同様に「今」を忘れたヒロインの顔も切り取って、あくまでさりげなく動きを連ね、美しい単純さに満ちているショットとショットを突き合わせる始まりと終わりの対置を確かめれば、両者に挟まれた新作の噛みごたえはくだくだと説明するまでもなく保証されたも同然だろう。
前2作の圧倒的な台詞の量と比べると、伊藤の書いた台詞はいかにも簡潔だ。そんな台詞の自然さ、そこに凝縮された奥行深いリアル(とりわけ今や若さのそれ)を尊重しながらも、情緒やニュアンス、曖昧さに意味を託さない決然とした語尾、今どきの調子、表情におもねらない具現の仕方が改めて監督の求める演技の質を指し示している点も見逃せない。ショットとその切り返しが作るリズム。ローアングル、仰角の視線の効かせ方。おかし味の彼方に浮上するうっすらとした悲しさ。選び取られた映画らしい映画の道が、一見、奇妙だけれどよく見ると繋がれていた犬の自分を解き放つ人の普遍の物語を語る正しい作法として清々しく輝いている。
3/22(土)よりユーロスペースにて3週間限定レイトショー、4/26(土)より名古屋シネマテーク、以降第七藝術劇場、松本CINEMA セレクト他、全国順次公開。
■予告動画
■『イヌミチ』公式ホームページ
http://inu-michi.com/index.html
人はそれと知らずに、必ずめぐり会う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ず赤い輪の中で結び合うーラーマ・クリシュナー (ジャン・ピエール・メルヴィル監督「仁義」*原題"Le Cercle Rouge"より)