CINEMA DISCUSSION-24/バスキア NYロワーイーストサイドの異端児

©2017 Hells Kitten Productions, LLC. All rights reserved.
LICENSED by The Match Factory 2018 ALL RIGHTS RESERVED
Licensed to TAMT Co., Ltd. for Japan

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション。
またまた半年空いてしまい、2018年3回目の作品になる第24回は、70年代末のニューヨークに忽然と現れたアーチスト、バスキアをとらえたドキュメンタリー『バスキア、10代最後のとき』です。
監督はCINEMA DISCUSSIONお馴染みのジム・ジャームッシュのパートナーであるサラ・ドライバー。ジャームッシュも作品には登場するとの事で、今回取り上げる事にしました。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★まずはこのドキュメンタリーをどんな期待をもってご覧になりましたか?
その期待に映画は応えてくれましたか?

川口敦子(以下A): 川野さんからサラ・ドライバー+バスキアのドキュメンタリーがあるからセルクルでもやりましょうと聞いて、ずっと追いかけてきたニューヨーク・フィルム・インディのこと、その背景にあった70年代後半のダウンタウンのことを、それも内側から描いてくれるのだろうなと期待が募りました。
開巻間もなくジャームッシュの『パーマネント・バケーション』のエンディング、パリへの(実はスタテン島へのフェリー)船出、波の道の向こうにマンハッタン島が浮かぶ場面が出てきて、期待通りの映画になりそうと身を乗り出しました。

川口哲生(以下T):自分たちにとって、様々な興味とインスピレーションの対象となるカルチャームーブメントが生まれた時代がありますね。ヌーベルヴァーグやスウィンギングロンドンやCD対象として取り上げてきたビートや、敦子さんにとってはロシアンアヴァンギャルドだったり、様々な時代が。
その中でも、この映画の描きとっているであろう70年代後半から80年代初めというのが自分にとって「遅れてきていない初めてのドンピチャな時代」だと思います。ニューヨークでおこっていたその時代を確認・再発見できる期待感がありました。

名古屋靖(以下N):このメンバーの中で一番年齢が若くまだ子供だった自分にとって、70年代終期~80年代初頭は、音楽やファッションをはじめ日々更新される刺激的すぎるニュースにただただ振り回されていた時期でした。まさに川口さんのおっしゃる通りそんな「ドンピシャな時代」について、当時の自分にはまだ理解不能だった真意や真相を再認識できたことは期待以上でした。

川野正雄(以下M):サラ・ドライバー&バスキアという事で、期待を持っていました。
フォーカスする瞬間がピンポイントで、驚きましたが、時代の変わり目の熱気を感じました。構成もうまいですね。
この手のドキュメンタリーは、監督が後追いフォロワーで、歴史的価値を再発見しながら制作していくものと、監督自身がそのムーヴメントの中にいて、実際に自分がフィジカルに感じた事を軸に構成していくタイプがありますが、今回は後者で、実際に自分がそのシーンの中にいたリアリティがうまく整理されて押し寄せてくる印象を持ちました。
いい作品だと思います。

©2017 Hells Kitten Productions, LLC. All rights reserved.
LICENSED by The Match Factory 2018 ALL RIGHTS RESERVED
Licensed to TAMT Co., Ltd. for Japan

★映画はバスキアに関する伝記的事実、出自や家族や家庭環境のことなどにはふれず、またアート界の寵児となりドラッグの過剰摂取で27歳で早逝する最期についても描かずに、ブレイク寸前のバスキア、カリスマ的ストリートキッドとしていろいろ模索していた頃にフォーカスしていますが、この点はどう見ましたか? これ以前のバスキア映画と比べていかがですか?

T:その夜明け前から太陽が昇り始めた時まで、のようなピリオドの捉えかたはCDで前に取り上げたジミヘンのバイオグラフィ映画に通じますね。
監督サラ・ドライヴァーはバスキアという象徴を通じて『その時代のイーストヴィレッジ、ローワーイーストサイドといったニューヨーク』を描き止めたかったのでは。

N:個人的趣味の問題なのですが、僕自身ストリートやプリミティヴな作品にアートな魅力を感じなかったのもあり、バスキアを追求することはありませんでした。正直言えば、その時代の寵児として「上手くやりやがったな。」くらいの感覚しか持っていませんでしたし、この映画を観終わった後もその気持ちはあまり変わりませんが、本人のチャーミングなキャラクターには魅力を感じました。とてもハンサムだし、外見も含めて彼の人間性はスターになるための大事な要素だったんじゃないかと想像します。ジュリアン・シュナベール監督のスタイリッシュすぎる『バスキア』より、今回のドキュメンタリーの方が彼の魅力が溢れています。

A:寵児になる以前のバスキアに絞り込んで映画くことで時代と場所こそを浮き彫りにしようという、撮りたいことへの徹底的に頑固な姿勢が、さすがにジャームッシュの映画を支えてきた人らしくていいですね。
シュナーベルの『バスキア』も彼がコメンテイターのひとりとなっているタムラ・デイビスの『バスキアのすべて』も80年代スーパースターとなってから最期に至るまでをカバーしていて、ありがちな興亡の物語に収めつつも温かい眼差しが感じられ、中でもウォーホルとの関係とか、やはり興味深くて惹き込まれるのですが、そういう”物語”をあえて紡がずにほとんど淡々と10代の、多分、いちばん幸福だった時代の彼を祝福するスタンスが素敵だと思います。

M:ジュリアン・シュナーベルの『バスキア』は、かなりスタイリッシュな作品でした。ボウイがアンディ・ウォーホルだったりして。
音楽の使い方も象徴的で、サントラもよく聞いていました。
今回の『バスキア 10代最後のとき』は、よりプリミティブな姿勢のバスキアが描かれていて、そういうオシャレ作品とは違いますね。HIP HOP前夜でもあるNYのマグマみたいなものを、すごくダイレクトに感じました。
バスキアの近年のイメージは、Tシャツが街に溢れたりして、妙なメジャー感が生まれたりしていたのですが、この作品で改めてバスキアというアーチストの本質を知る事が出来て良かったです。SAMOとか、グレイとか、マンメイドとか、アンダーグランドな活動についてはよく知らなかったし、すごくかっこいいとも思いました。

A:もう一本、今回のドライバーの映画でも謝辞が捧げられている故グレン・オブライエンが脚本・共同製作で参加した『Downtown81』って、バスキアが主演したおとぎ話仕立てで70年代後半のダウンタウンを検証する一作も音楽的にも見ごたえあって、2本立てで見るとさらに愉しめるんじゃないでしょうか。

★印象的なコメントは? 同時代の友人、知人、恋人の声を熱心に拾っているのに、バスキア自身の肉声はない。映像と作品に語らせるような選択に関してどうですか?

A:今言ったオブライエンの映画や往時のスーパー8でささっと撮ってクラブで上映していたようなインディもインディのインスタントな映画とか、抜粋されているいくつもの映像が十分に語ってくれているので、むしろ本人の声は余計な感傷を付加していまうようにも思え、そこを敢然と切り捨てるところが繰り返せばいいなあと。

M:割と身近で、無名な人も拾ってインタビューしていますね。間接話法なんですが、外側からバスキアの人物が見えてくる印象です。
この手法は、ボブ・ディランを描いたスコセッシの『NO DIRECTION HOME』の前半を、思い出しました。時代は違えどNYの夜明け前的な描写を、証言で表現した結果でしょうか。
グレイでは、ヴィンセント・ギャロが一緒にバンドやっていたなんて、知りませんでしたし、JAZZをやっていた事も知りませんでした。
自分でペイントした服=マンメイドとか知っていたら、きっと絶対に欲しかったと思います。

N:僕もみなさんと同じく、本人のプライベートに近かしい、名もなき人々のコメントに現実性を強く感じましたし、どこまで本意か今では確認できないであろう本人の肉声より説得力があったように思います。

T:みんなが一様に、彼の人間的魅力、一種の人なつっこさを語っていたけれど、登場する彼の映像からそれが伝わってくるような気がしました。
誰の言葉か忘れたけれど、当時アパートメントの入り口に座り、日長ハイにきめて話をして過ごすような、誰かの家に転がり込んで居候して過ごすような、そんな時間の流れを共有するボヘミアンなコミニティがうらやましくまた懐かしく感じました。

©2017 Hells Kitten Productions, LLC. All rights reserved.
LICENSED by The Match Factory 2018 ALL RIGHTS RESERVED
Licensed to TAMT Co., Ltd. for Japan

★バスキアを素材にしながら監督サラ・ドライバーは彼女自身もそこにいた70年代末ニューヨーク ロワーイーストサイドのスリルこそを描いているように見えますが、真の主役ともいえそうなそんな時代と場所の面白さについていかがでしょう?

T:先に監督のファーカスした部分のところでも触れた様に、正にそれを感じる映画ですね。
この時代のニューヨークってこの映画にも登場する様に音楽的にもパンク、ニューウェーブ、インダストリアルなノイズ、フェイクジャズ、黎明期のヒップホップと混沌としていてその関わりやキーパーソンが誰かといった所も興味深いですね。
グラフィティというとWILD STYLEとかHIPHOPとかにストレートに結びつけがちだけどファブ5フレディのビバップの話とか、バスキアはラジカセでいつもインダストリアル聞いていたとか、アートイベントでのプレイでHIPHOP側も新鮮なオーディエンス得たりと混ざり方が面白いですね。
バスキアのGRAYの音楽も聞き直してみたけれど、いろいろな要素だね。ステージ写真とかフェイクジャズみたいだけど

A:「78年にひとつの頂点を迎えた音楽シーンで私たちは知り合った。あの頃はだれもがギターを試し、その後はみんなが画家をめざしてた」と、86年PFFでニューヨークのインディ映画を特集した際、来日したドライバーは語ってくれましたが、実際、何かをしたいと思う人々が、健やかな野心だけを芯にうろうろしていた時代と場所は、素敵に輝いて見えましたね。ロシア・アヴァンギャルドとかダダとかシュルレアリスムにしてもジャンルを超えた大きな創作の力が不思議に同じ所に同じ興味を持つ人を集めるっていうのがある、その力に私はまあロマンチックに惹かれてしまうんですね。

M:これはワクワクした感じでした。懐かしさも含めてです。70年代末は、ロンドンでパンクも生まれ、世界中で新しいカルチャーが生まれてきた時代ではないでしょうか。
音楽的には70年代後半に、レゲエが英国も米国も認知され始め、ホワイト&ブラックのカルチャーがミックスされ始めたと思います。多分それまでの時代は、ミックスカルチャーになる土壌は無かったと思います。バスキアが世間に受け入れられたのも、そんな時代背景もあったと思います。
映画に登場する人々も、思いのほか白人が多く、バスキアを正当にバイヤスかけずに評価していたんだなと思いました。
出演者では、やはり『ワイルドスタイル』の出演者でもあるファブ・5・フレディや、リー・キュノネスは、印象に残りました。
バスキアとヒップホップって、自分の中ではちょっと距離感がある印象でしたが、この作品を見て、改めてそのベースにあるであろう関係性を認識しました。
個人的には、やはり『ワイルドスタイル』の池袋西武でやった出演者によるイベントが最初の実体験でした。超満員で、何とか裏から入れてもらい、その場で見たパフォーマンスの強烈さは、忘れられません。
会場でグラフティアーチストのFUTURA2000にサインをしてもらったのですが、今見るとバスキアにつながるエッセンスがあるのがわかります。
FUTURA2000は、クラッシュと一緒にレコーディングしたり、ツアーをしています。そのクラッシュは1978年〜79年とニューヨークでライブをやり、アンディ・ウォーホルも楽屋に訪れたりしていましたが、クラッシュにとってもバンドの方向性を決めるような刺激を当時のニューヨークで受けたといいます。
後々のジャームッシュとジョー・ストラマーの関係性含めて、その時代のニューヨークに行った事が、大きな転機になるようなスリルがあったのではないかと思います。
バスキアの周りでも、様々な出会いが化学反応を生んで、新たなアートや、スタイルがどんどん生まれていくすごい環境だったのではないでしょうか。

FUTURA2000のサイン。1983年10月10日にもらったもの。

N:白人層の郊外への移住、治安の悪さや不景気等が重なったその時代のニューヨーク、ローワーイーストサイドの実情を知ることで、なぜその時その場所で様々な事柄が突発的に次々と発生して行ったのか?またストリート・カルチャーとは?など興味深く観ることができました。

©2017 Hells Kitten Productions, LLC. All rights reserved.
LICENSED by The Match Factory 2018 ALL RIGHTS RESERVED
Licensed to TAMT Co., Ltd. for Japan

★クラブ・カルチャーや音楽、映像、アート、詩等々がストリートと一体になり境界を超えてひとつのシーンを作っていく、70年代末ニューヨークは80年代東京と通じていなくもないように思いますが自分自身の体験と比べて見る部分もありましたか?

A:70年代後半の名残りがまだあった84年のニューヨーク――ドライバーは今回の映画のプレスでレーガン、黄金流入、エイズ、麻薬対策が81年以降、全てを変えてしまったと述懐してるんですが――でもそれでもまだまだ余熱は感じられたそこに行ってみて、それから80年代末にジョン・ルーリーとか取材すると、家の床で寝ていたバスキアとかいってるその感じ、それは80年代東京でジャンルが違ういろんな仕事をしている人が集まったオフィスに夜な夜ないろんな人が来ていろいろ試そうとしていた頃とやはりちょっとだけ通じてきてしまうんですね。

M:個人的な体験の話になってしまいますが、どうしても哲生君や敦子さんと一緒に初めて行ったNYを思い出しますね。あの時はまだバスキアもウォーホルもまだNYでは健在で、今考えると結構すごい時代だったんだなと思います。
チェルシーホテルの近くの銀行に行ったら。顔見知りだったワールズエンドにいたジーン・クレールに偶然会ったし、キッド・クレオールもホテルの前でバッタリでしたね。PIZZA AU GO GOという水曜夜だけクラブになるピザ屋には、フランク・ザッパやスクリッティ・ポリッティのグリーンがいたし、クリシー・ハインドもリッツにいた。
ともかくすごい体験というか衝撃的でした。HIP HOPカルチャーも、多分そういうカルトな人物が近くにウロウロしているNYの日常的な世界を原動力として、当事のバスキアがいた世界の周辺あたりから沸いてきて、それが80年代になり大きく発達したのではないかと思います。ただバスキア自身はそういう世界とは、一線を引いていたようにも思います。
ちょっと距離感がある孤高の存在です。逆にウォーホルは意外と距離感は近いのではないでしょうか。

T:東京はロンドンでパンク、ニューヨークでのパンクやニューウェーブやヒップホップとまだまだ情報を誰が一番先取りするかみたいな時代だった気がしますが、それでも潜在的無意識としてはそうした気持ちを共有していた人たちもいたんだろうし、少なくても世界同時多発な気分はありました。

N:NETのなかったその頃、桑原茂一氏など諸先輩の方々が独自のルートで仕入れた、ある程度バイアスがかかっていたであろう情報しか知ることが出来なかった自分にも、世界で初めてパンクが登場したニューヨークはユース・カルチャーの震源地であり、様々な尖った情報の発信源の一つでした。その後もそれまでの価値観を打ち壊されながら新たな何かが雨後の筍のように続々と登場してきた刺激的な時期、東京に住む若い僕らにとっても常にアンテナを張って走り続けなければ、何だか分からないけど乗り遅れてしまいそうな、エネルギッシュな毎日だったように思い出されます。

★この時代と場所から生まれたもの、サブカルチャーのメジャー化というお定まりのルートを辿る一方、現在のSNS環境の中で誰もがアーティスト化がいっそう進んで来ていますが、その今と10代のバスキア、あるいは彼をスターにした時代との繋がりを感じますか?

N:そのやり方・方法は違えど若きバスキアの時代も、SNSな現代も、どうやって来た波に乗るか?が大事なコトなのは同じような気がします、良い悪いは別として。 アンディ・ウォーホルがその約10年前に予言した「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」は、バスキア自身はもちろん、現代にも通ずる光であり忠告でもあると思います。

T:人間の体温を感じるコミュティレベルからこうしたサブカルチャーのムーブメントが発生し突き抜けていく熱量みたいなところ、そこがsnsとの違いかなと思います。

M:SAMOもCOLABも、SNSがあったら、当たり前のように一躍大人気になったと思います。バスキアの平凡さと天才さの境目とか、すごくわかりにくくて、実は誰にでもチャンスはある。そんな事もサラ・ドライバーは伝えたかったのではないかと感じました。

A:触知できる何かがあった閉じられた世界を甘ったるく懐かしむのではない、でもそこを機能させていた程度の規模というのかな、それを自分では守るというドライバーの現代(バスキアをスターにしたもの?)との切断の仕方が見終わった後、しばらくした今もなんだか胸に迫ってきています。

『バスキア 10代最後のとき』
12月22日(土) YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開