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Cinema Discussion-9/ “Adieu au Langage” 3Dで撮影したゴダールの新作『さらば、愛の言葉よ』について

© 2014 Alain Sarde - Wild Bunch
© 2014 Alain Sarde – Wild Bunch

2015年のCinema Discussion第1弾は、待望のジャン=ルック・ゴダール監督の新作『さらば、愛の言葉よ』です。
今度のゴダール新作は、何とゴダール83歳にして、3Dに挑戦という事で、昨年のカンヌ映画祭では、ゴダール欠席ながら審査員特別賞を受賞しました。
カンヌ映画祭の存在意義を否定し、これが多分長編最後の作品(本人弁)という本作は、ゴダールらしいアイデアに満ちあふれた作品でした。
ディスカッションメンバーはいつものように、映画評論家川口敦子をナビゲーターに、名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

川口敦子(以下A)
まずはこれまでの3D映画体験について。みなさん3D映画は見てきましたか? どんなイメージ、反応、意見をもっていましたか。

名古屋靖(以下N)
わりと見ている方だと思いますが、そのほとんどがハリウッド作品だったと思います。3Dであるべきかどうか?疑問の残る作品が多かったのも事実です。『アバター』は3Dでないと見る価値が見出せないただのアニメ作品だったし、『トロン』や『パシフィク・リム』、『アリス・イン・ワンダーランド』などは3Dである必要性を全く感じませんでした。また『トランスフォーマー』に至っては最後まで見られないほど目が疲れてしまいました。3D作品としてまあ納得いったのは『ゼロ・グラビティ』くらいでしょうか?映画というより出来のいいアトラクションを体験しているようでしたが、最後まで飽きることなく3Dの世界に引き込まれました。ただ個人的には今までの3D映画は、リアリティを追求したCGの延長線上にある最新技術の一種として認識していました。

川野正雄(以下M)
そんなに3D作品を多く、見ている訳ではありません。
3Dと2Dがあると、2Dを見てしまうタイプです。
何か面倒な感じがして。
これまで見た作品だと、『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』は良かったです。
他の作品は特に良い印象がないですね。
香港で見たピラニアが人を喰いまくる映画は、キワモノとして大迫力でした。
邦画だと『STAND BY ME ドラえもん』は、3Dである必然性があると思いました。

川口哲生(以下T)
3Dの映画を劇場で見たことは無いです。何かキワモノ的なイメージを正直感じていたようにも思います。

A
もともと映画が2次元で3次元のリアルを体感させるものなのに、なんでわざわざ・・・と文句がいっぱいある――3D映画ブームへの基本姿勢はこれでした。
特にCGを駆使した類のSFやアクション大作では、キャラクターがミニチュア化して見え、また紙芝居みたいな平板さが強調される3D映画への不満がさらに募ってげんなり感に襲われる場合が多々ありましたね。ぐったりしつつ、なんでわざわざ大金を賭けてちゃちにしか見えないものを作るんだとむかっとする、という感じでしょうか。
ただこのディスカッションの前日に試写を見たリドリー・スコット監督の『エクソダス 神と王』は、さすがに完璧主義者のヴィジュアル設計で、かなり惹きこまれました。とはいえ2次元でも『アラビアのロレンス』と『ベン・ハー』を見れば十分かも、と思ったりもしたのですが・・・。

A
特撮系の大作とは別の3Dの使い方でおおっと唸ったのはヴェンダース『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』とヘルツォーク『世界最古の洞窟壁画3D忘れられた夢の記憶』というニュー・ジャーマン・シネマ発のふたりのドキュメンタリー、それとスコセッシ『ヒューゴの不思議な発明』もちょっと違うなあと3Dへの嫌悪感なしで見られた一作です。
特にヴェンダースの快作には目からうろこの驚きがありましたね。実写版3D大作の多くが2次元のスクリーンに現実の幻影を現出させるって映画本来のスリルに背き、薄っぺらな切り抜き状の人やらものやらが積み重なる書き割り的見世物に終始してしまう。3次元をめざしてむしろ2次元感を強調してしまう皮肉をしり目に、ヴェンダースの場合は、亡き友ピナ・バウシュの“踊る演劇”、その人と世界の息づき方を親密に捕まえた3D映画として、踊る人々がいる劇場に自分も身を置いているような臨場感、観客席に染み出す“経験”のリアルを立体化するといったらいいのかな。本物らしく見せるのとはまったく別の次元、触れるような時空を切り拓く。そんな時空を宙吊りのモノレールが行くヴッパタールの街へと押し広げ、身体的官能に迫る。そうしてじわじわと銀幕からせり出す映画もダンスも超えた新世界の感触としての3次元の映像にすっぽりと包み込まれている。といった新鮮さを体感しましたね。

A
そんな今までの3D映画に対してゴダールの3Dをどう体験しましたか? 見る前に予想したものと違いましたか?

N
今回のゴダールの3D作品はCGの延長線上にあるリアリティの追求ではなく、彼が創り出した独自のアートというか、彼が企てた擬似TRIPを体験させられた人体実験のように感じました。CGを基盤にしていない3Dは、初めて見ました。
見る前から「ゴダールだから~」という先入観は当然持っていたし、普通でない事は覚悟していましたが、それ以上のいい意味での予想とは異なる映画でした。見終わった後に川口さんと会場近くでお茶を飲んだのですが、まだその段階では軽いTRIP状態でまともな話も出来ず、当日の夜に自宅に帰ってからやっと冷静に思い出してみたのですが、すでにその時には多くのディティールを忘却している事に気づきました。川野さんが早くディスカッションをやろうと言っていた理由がその時にわかりました。

T
3Dの映像が、3Dとしての自然さをまったく無視したノイズに満ちた挑戦的なもので、予想をはるかに上回っていたし、ぶっ飛んでいた。視差をコントロールした3Dとはまったく違う、ひずませ、奥行きを極端に誇張し、さらには左右のイメージを分断したり、レイヤーで重ねたり、やられたなという感じです。

M
基本的に映画を見る前には、何も想定せず無の状態で見る事を理想としています。なので、今回も何も予想せずに臨みました。
見た印象で言えば、3Dの使い方は、やはり想定外でした。
スペクタクルな3Dをゴダールがやる筈はありませんが、表現手段として3Dをすごく使いこなしているなというのが、第一印象です。
80歳過ぎた老人が、ああいう実験的なエッセンスもあるような3Dを撮る事に、大きい価値があると思います。
名古屋君の言うように、CGをベースにせず、3Dという技術だけを抜き出して、文字のレイヤーを重ねて3Dにするなど、初めて見る手法で、すごく斬新でした。

A
2012年の東京フィルメックスでカウリスマキ、オリヴェイラ、エリセ、そしてペドロ・コスタが参加したポルトガル北西部の古都をめぐるオムニバス『ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区』が上映された時、本当はゴダールも参加するはずだったが3Dで撮ると言って、叶わなかったとコスタが証言するのを聞いてえっと驚いた、ので、今回の映画のことを聞いたときは「やはり」と「ついに」って気持と共に期待が募り、正式上映された‘14年カンヌの公式ページで予告編をどきどきしながらチェックしました。
いちはやくビデオ、デジタル・ビデオのとり入れなど新メディアへの柔軟性はすごくある人ですよね。90年代にハル・ハートリーがインタビューした時の記事で、そのうちピザの宅配みたいに映画を家に出前する時代になるとさばさばといっているのが印象的だった。自分は映画の歩く神話なのに”映画”という神話に関しては意外に覚めた眼も持っているのかしら。
映画死(とメモしようとしたら最初の変換候補にこの字が出てきたのもちょっと象徴的なので残しますけど)『ゴダールの映画史』という映画愛の塊に他ならない一作もあるから、いちがいにはいえないけれど、クールな眼と愛のバランスが面白い。テニスプレイヤーでもある”神“ゴダールの運動神経のよさが、表現とその器や技術に向かう上で絶妙のバランス感覚をもたらしてる気もしますね。

http://youtu.be/7_69yUhnkZw

A
ちょっと質問が前後して重複するけど、実際にゴダールの3D映画をみた後で、彼が3Dを撮ったことについて改めてどう思いましたか? その成果に関しては?

M
ゴダール自身が、3Dという手法に興味が湧いて、撮ったんだろうなという想像はつきます。
常に新しい事に挑戦する姿は、さすがだなと思います。
若い映像作家が実験しなくてはいけないような手法、文字を3Dのレイヤーで見せたり、一つのアクションを違うレイヤーで見せたりと、3Dの本質的な特徴を掴み、うまく表現していると思いました。
ゴダール自身が、事前に3Dを、かなり研究したと思われます。
逆に言うと、ストーリー的には全く3Dで撮影する意味の無い作品だとも思いました。
資料にありましたが、撮影がキャノンEOS 5Dというデジタルカメラで行われた事が、この作品では大きいと思いました。
過去の僕が見たゴダール作品とは違う、パキッとした映像美〜花や水などの描写は、EOSだからこその、ある種写真的な美しさだと思います。

N
最初ゴダールが3D作品を撮ったのは意外に聞こえましたが、見た後は納得できるものでした。個人的で勝手な解釈ですが、常にアートとして映画を捉え、彼の作品自体が壮大な「詩」と考えれば、今回は3Dという新しい遊び道具を手に入れたゴダールが、誰も見たことがない映像を駆使して新たなジャンルの「詩」をプレゼンテーションしたように思います。それだけで、ゴダール・ファンにとっては嬉しいニュースだろうし、成果はあったと考えます。

T
意味やストーリーを追うことによって、「見ることを忘れがちになる」ことを打ち砕く更なる手段として3Dが非常に機能しているように思った。一度見ただけでは2組のカップルなのかさえわかりにくいが、そうしたプロットや意味にとらわれず、一瞬一瞬に「入ってしまう」様なトリップぽさというか。それは3Dとともにその誇張された色調や光もあいまってかな。キャプションなど、文字もすごくデザインされていて、それが3Dとして飛び込んでくるのは、すごく格好良かった。

© 2014 Alain Sarde - Wild Bunch
© 2014 Alain Sarde – Wild Bunch

A
私は最近のゴダールの映画の映像とサウンド、物語、意味、文字、ノイズ、引用といった様々なレイヤーの厚みをスリリングに解体してみせる手段として3Dがぴたりと来ていると思いましたが、どうでしょう?

T
まったく同感です。映画初期の映像、モーションピクチャーの純粋な驚きみたいなものが3Dでやってくる中で、サウンド、キャプション、引用がうねりとなって押し寄せる。映像そのもののレイヤーだけでなく映像と簡単には結びつかないそれらとの重層性が際立っていたように思います。

M
最近のゴダール作品を全く見ていないので、何とも言えません。最後に見た作品は『ヌーベルヴァーグ』ですから20年以上前。『ゴダール・ソシアリスム』は、パティ・スミスが出ていたので、興味はありましたが、結果的に見ていません。
キャプションやエッセンス(警句)を表現しながら映像に行く手法は、実は『勝手にしやがれ』の予告編と同じ手法です。(A 蛇足ですが”作家役”J=P・メルヴィルもお見逃しなく!)

意識的にかどうかは、わかりませんが、一つ前の作品になる『ゴダール・ソシアリスム』の予告編も同じような手法です。文字のデザインやレイヤーのかけかたも、改めて見ると『さらば愛の言葉よ』に、つながっていますね。

M
3Dという新しい技術を、デビュー作品と同じ表現方法を使って、映画を再生産する。
そんな思いがあったのかな〜なんて、想像したくなります。
画面に出てくる文字=キャプションのデザインを見ても、ゴダールならではの美意識が統一されていました。
iPhoneがすごくフューチャーされているし、3Dという事で、すごくデジタル化した作品かと思いきや、本はしっかり出てきて、電子書籍ではない。
新しモノ好きだけど、根底はアナログという感覚は、すごくフランス的だと思います。
昔のシトロエンのボビン式メーターみたいな感じです。
デザインへの拘り含めてです。

N
60年代当時からゴダール作品は登場人物のファッションも秀でて格好いいし、色彩も含めデザイン的なことが重要な要素になっていると思います。今回の映画は「赤」「青」「黄」「緑」の4色が見たことがないほどヴィヴィッドに目に飛び込んできます。非現実的な水の質感や光のハレーションまでも3Dで魅せる挑戦はゴダールらしいし、3Dでしか表現できない立体的なグラフィック映像は美しく驚きの連続でした。
はっきりと回数は覚えていませんが、本編中に2度ほど3Dが破綻するシーンがありました。自分の眼がおかしくなったのか?小さな混乱がありましたが、これも監督によるちょっとした悪戯だとすると、さすがゴダールとしか言いようがありません。言い換えればゴダールじゃなかったらNGです。
キャプションとかも、ゴダールらしくデザインされていて、格好よかったです。

A
で、愚問ですが意味とかプロットとかメッセージとか追おうとしましたか? 3Dが2Dに比べてここを見るようにと誘導する感じはありましたか?

N
僕は意味とかプロットとか、メッセージを追うことはできませんでした。3Dになったことで脳みそが映像に引っ張られ、ただでさえ難しい台詞が頭に入らなくなり、情報過多になった3D映像を必死に追いかける事だけに専念するしかありませんでした。その点ではいままでのゴダールとは一線を画く作品の印象です。でもそれは自分が映像以外の要素を受け入れる余裕がなかっただけかもしれません。

T
説明的ではなく、自発的な演出が続くので、わかりにくいのでしょうか。

M
誘導は感じませんでしたが、特に美しい映像を強調して使っていたのは、何か意図があるんだなと思いました。
ストーリーは追うつもりで、見ています。
2組の似たようなカップルという関係性が、わかりにくくしていたと思います。
時空が入り乱れていて、あまり説明がないので、混乱しつつも何とかついていこうと思いました。
こういう感覚は、意味を追うのではなく、フィジカルに芝居を体験する唐十郎さんの戯曲に通じる感覚があると思います。
今回は映画を見るより、私も体験したと言った方が相応しく思えます。
スペクタクルな3Dも、体験というエッセンスが強いですが、当然それとは違う類いの物です。
今回は撮影も」カメラマンに対しても、かなり自由に撮らせていたようですね。
先日のパリでのテロ事件の犠牲者になった風刺漫画家を、ゴダールは絶賛していました。表現の自由、或は自由度を奪う者に対しては、ゴダールのスタンスは常に一定なのだと思います。

A
わざとわかりにくくしているのか? という点を考えなくてはとも思うのですがなかなか。
2Dではできないことをしている、というか、2Dでわかりにくいのことが3Dの意味の重層性の解体作用で(筋に関してというよりは言いたいことに関してでしょうか)明確に見えては来る気がしました。

© 2014 Alain Sarde - Wild Bunch
© 2014 Alain Sarde – Wild Bunch

A
NatureとMetaphorという表題に関して何か思ったことは? 警句のように使われる言葉で印象に残ったものは?

T

ゴダール自身の映画のストーリーについてのメモにある
「最初のものと同じであり、にもかかわらずそうではない」という部分が映画の核心かなと。
David Byrneのsame as it ever was みたいな感じがする。自分の中で過去と同じものの繰り返しでありでも同じでありえない。
あるいは人間なんかみんな同じような繰り返し、ただその人にとってはまったく違う固有の体験。
だから共通の意味づけなんてできない。

二組かも判別できないカップルの同じような繰り返しの映像からそんな感覚が残りました。
M
見た印象はあったのですが、今は言葉が消えてしまっています。
Metaphorという意味では、煩雑に出てくるトイレのシーンが象徴的でした、
場面ではトイレのシーンで、「ここでは誰もが平等」という言葉が、妙に残っています。
花や水といった美しいものと、排泄行為に象徴される汚いもの、ゴダールは3Dを使って、何かそういう対比をしたかったのかなとも思いました。
『やさしい人』でも詩が一つのエッセンスになっていましたが、ここでも詩は重視されているなと思います。それが警句につながっているような印象です。
警句も詩からの引用が多かったのではないでしょうか。
NATUREに関しては、犬を題材に「自然に裸は存在しない。動物は裸ではない。何故なら動物は裸だから」という表現があったと思いますが、それが象徴的です。多分それを人間に置き換えたのが、自分の排泄行為を、裸の恋人に見せるという場面だと思います。
花とか水(川、海?)も、NATUREのアイコンではありますが、

A
ネオンカラーの花花、雲間から射し込陽の光、水辺、いつもながらに登場するモチーフとしての”自然”と自然そのままではない映像と、そのどちらにもある真実ってことを頭のなかでぐるぐるさせながら、結局は見惚れるしかなくなりました。
クローネンバーグの新作『マップ・トゥ・ザ・スターズ』にもジュリアン・ムーアが便器にまたがり放屁したり、その恰好でバスルームを解放したまま助手に買い物リストをいいつけるって場面がありますが、カナダ人のクローネンバーグの感覚とはまた全然別の”自然”の扱いは興味深かったですね。

http://youtu.be/ly6Equ9eYPU

A
重要なエッセンスである犬に関しては、どうでしょうか?

T
視点のオータナティブ(物理的そして価値観として)でしょうか。犬の低い視点の映像や犬の肩越しから犬の視点で流れる川を見たシーンが印象に残ります。視点の違いは求めて観ているものの違いでもある。

N
犬も様々な映像のレイヤーの一つという印象です。犬が彷徨うシーンの美しい色彩に目を奪われ、犬自体もその画額の一部としてしか認識していませんでした。

M
ゴダールもスイスで犬を飼っているみたいですが、花と並ぶ重要なアイコンなんだろうなと、見終わってから思いました。
犬のロキシーもいいですが、今回も女優が格好いいですね。ジーン・セーバーグ、アンナ・カリーナなど、女優を魅力的に撮るのが上手かったですが、その辺も変わりませんね。
『女と男のいる鋪道』とか、すごく良かったです。

A
私生活でもパートナーのアンヌ・マリー・ミエヴィル、彼女と同じ姓でロクシー・ミエヴィルって名前のゴダールの愛犬、そして自分の声、字を書く手とパーソナルなもののカケラ、“私”的なものが終盤にかけぐいぐいくるのも印象的でした。
撮影中のスナップを見るとミニチュアの鉄道模型に手作りの3Dカメラ装置を積んでカメラマンは殆んど子供みたい、腹這いになって玩具と遊ぶようなパーソナルな感覚も受け取れる。その脇でゴダールはひとりがけの椅子で足を投げ出して、少しだけ退屈したパパのようにも見える。われ関せずみたいな顔で。フィルム・コメント誌に載った撮影監督のファブリス・アラーニョのコメントではかなり放任主義的な現場のようだし、イメージのゴダールと本人との差異をまた楽しんでいるんでしょうけど・・・。以前、ジュリー・デルピーに取材した時、ゴダールというと大きすぎる存在でしゃっちょこばって接しがちだけれど、本人は不機嫌なおじさんって感じなので、そのむすっとしたおかしさ、かわいさに気づくと近寄り難さも少しなくなるといっていて、面白いと思ったけど、そのまま鵜のみにしていいのかとついまた身構えてしまう。

© 2014 Alain Sarde - Wild Bunch
© 2014 Alain Sarde – Wild Bunch

A
3人の子供がダイスで遊んでいる――3Dみたいな殆んどだじゃれオヤジみたいなものも含めてゴダールのユーモア・センスに関しては?

M
すいません。記憶にない場面です。
ユーモアというより、皮肉屋さんな印象ですが。

A
あれ? 3人の子供の場面、なかったかな?
AH Dieuああデュ神よ と adieuアデュをかけたような字幕と声のやりとりもあったような・・・、
そういう言葉あそび、引用癖(Ted Fendtfがmibi.comで本作の引用の出典リストをアップしています)、そこで当り前に示される基礎教養の厚みがこちらの身構えを強要する感じになるけれど、ゴダールは笑えるって胸をはっていえたらと思うなあ。

N
3人の子供がダイスで遊んでいる=3D。そんなシーンありましたっけ?全然気がつきませんでした!
過去の作品でも、ゴダールのシニカルなユーモアは必要不可欠な要素だと思っていましたが、今回は見る側のこちららがその準備が出来ていなかったのでしょう。作品の中に彼独自のユーモアを探す余裕はありませんでした。

A
すみません~、英国盤DVDで見直したら3つのダイスで遊ぶ子供って場面でしたね。いやあ、何度も見たくなる映画です(笑)。いや、ほんとに。
84歳、1930年生まれという点に関しては(同年生まれにC・イーストウッド、深作欣二、S・マックイーン、S・コネリー)どうでしょうか?

N
才能あふれる同世代の重鎮たちの中で、一番純粋で無邪気なのがゴダールだと思います。
他の巨匠たちが年を重ねるごとにどんどん深みと安定感が増していくのに対し、ゴダールは永遠の美大生のようでフレッシュです。スタイルは変わらず年を取っても新たに挑戦する姿勢は、ジャンルは違いますが深作欣二が近いのかもしれませんね。

A
ごくごく個人的にひきつけてみると、30年生まれは母と同い年で、戦争を子供から思春期にかけて体験している世代、イーストウッドにも深作にもそしてゴダールにもある記憶としての戦争に案外、素直な実感があるのでは。それがベトナム、サラエボ、さらにナチとしぶとく繰り返される主題になっているようにも感じます。

M
イーストウッドとか、最近亡くなったけどアラン・レネとか、バリバリの現役監督ですよね。その世代の強さや逞しさは、感じますね。
イーストウッドも『ジャージーボーイズ』とか、演出の衰えは全く感じさせないから、すごいですよね。
正直ゴダールがここまで長生きするとか、あまり想像していませんでした。
マックイーンと同じ年齢というイメージはありませんでしたが、ブレイクした『拳銃無宿』や『戦雲』が、『勝手にしやがれ』とほぼ同じ年ですから、同世代感はありますが、映画的には全くの別世界。
インタビューでも言っていますが、これで長編の監督は終わりでしょうか。
概してフランスの監督は、高齢でも撮りますね。レネ、ルルーシュ、クロード・シャブロルなど。日本でも進藤兼人さんとか、90歳超えても、鋭い感覚の作品を作っていましたから。95歳の作品ですが、『石内尋常高等小学校 花は散れども』は素晴らしかったです。

A
ゴダールの映画、68年以前と昨今と、どのようにつき合ってきましたか? 変わったのか、相変わらずなのか?

M
相変わらずは、相変わらずでしたね。ゴダールの映画、60年代のものをメインに見ているので、この映画との距離感はあります。
68年って、パリ革命が区切りなんですか?

A
そうですね。67年に始まるジガ・ヴェルトフ集団時代、68年からはその名義で撮ってますね。やはりそこで意識の変化があって、作品も変わっていったと思います。

M
個人的には『勝手にしやがれ』が、全てです。自分のオールタイムベスト1みたいな作品です。
確かに68年以降の作品は、あまり見ていません。
それまででも『中国女』『はなればなれに』になど、重要な作品を見逃していますが。
『気狂いピエロ』『アルファビル』は、好きな作品です。
後期だと『探偵』が実は全くダメで、それ以降気にはなるものの、ゴダールの新作を熱心には見なくなりました。

N
基本的にはゴダールが創る、彼の考える「映画」に変化はないと勝手に思っています。ゴダールは映画という手法を利用して彼の芸術作品を発表しているだけで、彼の本質は変わらないのではないでしょうか?ただ正直僕はそんなにゴダールとのお付き合いは深くありません。昨今の作品は観ていないのも現実です。

A
相変わらずかっこいいし、相変わらず偏屈だし、かわいい? そして相変わらず目の上のたんこぶ的愛憎を複雑にかきたてる存在。

T
やはり『勝手にしやがれ』であり『軽蔑』であり『女と男のいる鋪道』であり『パリところどころ』が自分の中ゴダールだった。近年のゴダールはほとんど見ていないので何もいえない。でもゴダールの中では分断と再構築という一貫性があるのかな?

N
ところで、ゴダールの作品って商業的にはどうなんですか?

M
日本でも少なからず、必ずゴダールの新作は見るという人がいます。そういう意味では、製作費も高くて、日本での配給が難しいフランス映画の中では、手堅い方かもしれません。観客の顔が見えますから。
ワールドワイドでも、大手セラーのWILD BUNCHが、海外セールスを取り仕切っていますから、マーケットはそれぞれ小さくても、それなりに需要があるのではないでしょうか。
今回は3Dということで、更に見たくなる人は多いと思います。


さらば、愛の言葉よ
2015年1月31日(土)より、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー!
配給:コムストック・グループ

© 2014 Alain Sarde – Wild Bunch

CINEMA DISCUSSION -8/『やさしい人』”Tonnerre”〜長編デビューしたギヨーム・ブラックは、トリュフォーの後継者なのか?

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA
© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS – WILD BUNCH – FRANCE 3 CINEMA

セルクルルージュの定番プログラムになっているCINEMA DISCUSSIONも、8回目になります。そして第1回で紹介したフランスのギヨーム・ブラック監督の新作を、再び取り上げることにしました。
『遭難者』『女っ気なし』という中短編でその才能を垣間見せていたギヨーム・ブラック監督待望の長編デビュー作が、この『やさしい人』です。
前作では、エリック・ロメールなどフランス映画の白眉ともいうべきバカンス映画に挑んだギヨーム・ブラックが、今回はあっと驚くノワールな展開も盛り込んだ恋愛映画を作りました。
既にサイトには映画評論家川口敦子による単独レビューも掲載していますので、併せてご一読頂ければと思います。
ディスカッションメンバーはいつものように、川口敦子をナビゲーターに、名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA
© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS – WILD BUNCH – FRANCE 3 CINEMA

川口敦子(以下A)
雨や雪の使い方が素晴らしく胸に迫る作品でしたが、皆さんはどうだったでしょうか?

川口哲生(以下T)
メロディとの関係が始まる前の、もういい年になった男マクシムの恋の予感に対する
恥じらいと不安みたいなものが、ダンス教室を外から覗き込むマクシムに積もる雪の
シーンや車に積もった雪をぶつけてふざけあうシーンで印象深かったです。
いろいろな事件の後、モルヴァンの木々に積もった雪、そしてその下をボートに乗るシーンは、男の恋心からの高ぶりや暴力性が時間とその冷気で冷やされたような、この映画の中で最も印象的で好きなシーンでした。
ワイナリーの女の子が暗唱するヴェルレーヌの雨の詩も映画の進み先の暗喩的でよかったけれど。
学校の授業みたいな感じで、詩が自然に使われていました。

A:
詩は重要な要素になっていますね。
内容も象徴的です。

名古屋靖(以下N)
『やさしい人』において雪・雨は、前作『女っ気なし』との対比。また同じ役者でありながら真逆な主人公の設定、その境遇や心情の対比として効果的な素材だったと思います。また、雪は主人公マクシムの幸せや喜びを、雨は彼の悲しみや怒りを象徴していたように感じました。

川野正雄(以下M)
同じ土地でも季節や天候によって、表情が変わってくる。主人公マクシムの心情とのつながりが、比喩的に表現されていました。名古屋君の言うように、前作の夏のバカンスの空気との対比も、シンボリックでした。
詩と、雪や雨で、純文学的な香りもありました。

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA
© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS – WILD BUNCH – FRANCE 3 CINEMA

A:
トネールという町のゴシック・ロマンな肌触りの活かし方は、どうでしたか?
今回の原題は『TONNERRE』で、町の名前をタイトルにする程、監督の拘りが感じられますね。前作でもオルトという寂れたリゾート地の使われ方が印象的でしたが。

T:
前作の『女っ気なし』のさびしいヴァカンス地の海、夏と違う設定だけれど、両映画ともパリという中心とは違う、しかも賑わいの過ぎた時期のぽっかり穴の開いたような感じが、主人公の心象を象徴しているように、映画全体のトーンとなっているように感じました。

N:
何度も登場する自宅の裏庭から望む小さな町の風景を始め、トネールの石造りでどこかゴツゴツとした肌触りは、ピークを過ぎた中年ミュージシャンの不安定な心情とうまくリンクしていたと思います。16mmフィルムで撮影されたという粗い画質からも、その肌触り感を感じることができますし、ウォーム・グレーとクール・グレーの違いのように、前作とは「暖・冷」「明・暗」な正反対のグレーの使い方が印象的でした。

M:
ロッジに小旅行したり、ワイナリーに、スキー。ある種伝統的なご当地映画のように、町の特徴を描いていますが、後半はその楽しかったご当地の思い出が一変して、悲しみの記憶にすり替わっていく…そういう演出が見事でした。

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA
© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS – WILD BUNCH – FRANCE 3 CINEMA

A:
思い込みの使命感とか妄想の恋といった終盤への展開はちょっと強引ですが『タクシー・ドライバー』を彷彿とさせる部分もありませんか。また雪、暖炉の火、裏切られた恋といった部分では『暗くなるまでこの恋を』を思い出してみたくなる。監督自身は『暗くなるまでこの恋を』とあまりに比べられるので見直したけれど偶然の一致で意図したわけではないと首をかしげていました。『タクシー・ドライバー』との比較もピンとこないみたいでしたが、どちらの主人公にも狂気があるねとやさしくフォローしてくれました。興味深いのはほんわかしたヴァカンス映画として始まった『女っ気なし』でも後半にかけ少しトーンが変わっていく。軽やかに始まった映画が深刻な物語へと舵を切る、そういう”断絶”のようなものが映画の中にある、それが自分の映画で試みたい重要な要素のひとつと去年の取材では述懐してくれました。「僕の映画は無邪気な幸福感に満ちた所から深刻で暗いものへと移っていく。こんな幸福の時間は長く続かないんだというように」といったパーソナルな感懐からどの映画も生まれているんですね。
その意味でも改めて見なおすと『遭難者』は『やさしい人』の習作といった面もあったかも・・・

N:
前作『女っ気なし』は中編なのもあって、テーマもストーリーもシンプルな佳作でしたが、今作は展開のあるストーリーでテーマも重層的で深みが加わった気がします。後半の思い込みの使命感や妄想の恋を理由に暴走する、その事件自体は大した問題でなく主人公の心情に寄り添ているのはギヨーム監督の描きたい本質部分なんだと思います。
その思い込みの使命感や妄想の恋による暴走は、警察署長の一言「ロマンチックだが代償は大きい」がその全てを言い表していますね。マキシムのやさしいロマンチズムが若い恋人には重荷となり離れる事になってもそれに気づかない悲しさ。ギヨーム監督とマケーニュは、ロマンチックと残酷の境目を上手く表現していると思います。

T:
前作のヴァカンス映画からは踏み出した「大きな事件」に踏み出しているし、そこでは
前作までの日常性の表現とは違うカット割や展開の映画になっていたと思う。
確かに「思い込みの使命感」とか「妄想の愛」みたいな『暗くなるまでこの恋を』ではないけれど「愛は喜びであるとともに苦しみだ」っていう感じ。
でも、終盤がこの監督にとっての戻ってくる場所なのかな?
最後の父親とのサイクリングのシーン、それでも日々は続くし、何か希望を感じさせるみたいな。
事件性はまったく違うけれど『遭難者』の携帯の使い方とか、人のもつれる気持ちみたいなものをうまく表現するツールになっているなと思いました。

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA
© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS – WILD BUNCH – FRANCE 3 CINEMA

M:
『暗くなるまでこの恋を』は、トリュフォー、ベルモンド、ドヌーヴという組み合わせで大いに期待し、大いに期待を裏切られた映画でした。
役者や衣装はいいのですが、展開含めてやや大味な作品でした。
比べてると終盤の逃避行や暖炉の場面は、彷彿させるものがありますが、作品としては主人公を繊細に描いていて、間の取り方がうまい『やさしい人』の方が好きですね。
『タクシー・ドライバー』の思い込みや、妄想の恋というより、抑えきれない嫉妬のような感情を、強く感じました。
ただグワッと昂ぶるエネルギーや狂気のような瞬間は、相通じるものがあります。

A:
監督が準備中に共同脚本家にすすめたという一作で、『F・・・comme Fairbanks』という
『チェ・ゲバラ 伝説になった英雄』(97]のモーリス・デュゴウソンが76年に撮った大人になれないダメ男を主人公にした後期青春映画があります。『バルスーズ』でドパルデューと競演し、個性派として70年代仏映画ではちょっと気になる存在だったパトリック・ドヴェール(82年、ライフル自殺)が主演しているんですが『やさしい人』の原型としても注目してみたい一作です。日本では未公開、フランスでもあまり知られていない、でもいい映画なのでもっとみんなに見てほしいとブラック監督はいっていました。
で、DVDで見てみると特に、サイレント映画のポスターを家じゅうにはって、飄々と生きる映写技師の父とふらふらと悩み多き息子の関係は通じるものがある。ちなみにタイトルのフェアバンクスはサイレント期の活劇スター ダグラス・フェアバンクスをさしています。

http://youtu.be/-g2vlybl9hE

M:
トレイラーを見るだけでも、イメージの近さはわかりますね。
親子の関係やオフビートな空気感や、70年代ぽい映像も含めて、見たくなります。

A:
『遭難者』の自転車乗りのエンディングにかけての涙、そして今回のマクシムの獣みたいな泣き方と、アメリカ映画好きを自認したギヨーム・ブラックのなかに特に70年代ニューシネマのだめ男たち、”泣く男”の残像が強烈にあるのではないかという気もしますね。9月に来日した際も、『女っ気なし』『遭難者』上映後のQAで『イージー・ライダー』についてコメントするのにピーター・フォンダでもデニス・ホッパーでもなくジャック・ニコルソンの名をまずあげていた。おおっと思いました。あの映画で彼が演じていたエリート校卒のお坊ちゃま弁護士で、でも親の地位に反発している存在に、親に言われるままエリート校に進みながら、もやもやを抱えていたという自分を重ねる部分があるのではと。その意味では『ファイブ・イージー・ピーセス』も好きなんじゃないかな。

N:
ギヨーム監督の相変わらずアメリカ好きな一面を垣間みたのが、実家のリビングの壁に飾られてたアナログ・レコードのジャケットです。息子が歌手なのにそのレコードではなく、、、
・Santanaの「Caravanserai 」(1972)
・Bob Dylanの「Nashville Skyline」 (1969)
・Simon & Garfunkelの「Sounds of Silence」(1966)
・etc.
が目立つ所にディスプレイされていました。
「Caravanserai」を選ぶあたりいい趣味していると思うのですが、あの父親がこのレコードを聴くとは思えません。。。

http://youtu.be/sVNRSOnGAJY

M:
前作ではディランは『欲望』でしたね。
着ているTシャツも、相変わらずダサめのアメリカンTでした。
アメリカの70’Sカルチャーみたいな要素への憧憬みたいなものがあるのかな。
うまくその辺の個人的な趣味をディフォルメして、表現していると思います。
逆にフランス的な要素で言うと、メロディとかマノンとか、出てくる女性の名前が、ゲンズブールの歌に出てくる女性の名前と一緒です。
なかなかメロディという名前の女性は思いつかないと思います。
この映画に出てくるメロディは、身も蓋もない言い方すると、ミュージシャンとサッカー選手を両天秤にかけるミーハーなかけ出し記者で、全ての原因は彼女にあるんだけど、それを感じさせない不思議な女性でした。

A:
父子の関係、自分の足跡を残すというテーマ、といったあたりを芯にして飄々とした語り口を磨きつつ、いっぽうで携帯の待ち受け画面を話の展開にうまく使う術とか、メールの使い方とか、作りこんだ物語りの仕方もうまいブラック監督の面白さも見逃せませんね。この秋、パリで開催中のトリュフォー特集上映では”後継者たち”の部門に選ばれて『やさしい人』も上映されたそうですが、そのあたりどうでしょうか?
トリュフォーの後継者と言ってもいいのかな。

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA
© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS – WILD BUNCH – FRANCE 3 CINEMA

T:
私が共感するこの映画のテーマは「人がそれにより他人からそして自分から非難され続ける、と同時にそこが自分の生きていくよりどころになるような両刃の記憶」との寄り添い方ということかな。
『暗くなるまでこの恋を』の「愛は昨日まで喜びだったのに、今日は苦しい」みたいな記憶。
そしてそれとの寄り添い方がそれこそ前回もシネマディスカッションで触れられた、「抜け出しにくい子ども時代から大人になること」にかかわっているように思います。
そしてこの映画では、最後に同じような事件の記憶を持つ親子のサイクリングのシーンでそれでも生きていくというポジティブな光を感じました。

N:
この映画で主人公以外で最も印象的だったのがマクシムの父親クロードの存在でした。古いアメリカ映画に出てくるような完全無欠な父親像ではない、クロードの存在。マクシムの失恋をきっかけに2人の距離感が縮まっていく過程が個人的にはこの映画の最大の魅力でした。当初二人のシーンはどこか微妙によそよそしく、表面張力な会話が不自然さを感じさせながら、徐々にですが嬉しいときは一緒に無邪気になり、悲しいとき静かに寄り添い、怒れるときには心から叫び合う。そんな過程を通して、ラストの雪解けの季節に親子二人でサイクリングするシーンは、密かに感動してしました。

M:
哀しくて、残酷なテーマを描きながら、最後には小さな感動をよぶ…こういう作風は、フランス映画の得意とする部分ですよね。そういう意味では、トリュフォーと限定するのではなく、フランスを代表する映像作家達…トリュフォーやロメール、ジャック・ロジエなどを総じての後継者と言えるのではないでしょうか。
そういえば冒頭一瞬『悲しみのアンジー』のギターフレーズを弾いていて、ドキッとしました。

A:
冒頭でマクシムが曲作りをしていて、最後に彼の曲が流れる。一つの曲が出来るまでの物語という見方も出来るのかな。そうだとすると、厳しく美しい冬を通過してもたらされたものがいっそう強く迫ってくる。曲を映画に置き換えると監督自身の創作への歩みもさらりと指し示しているのかと納得できるようにも思えてきて映画の感動にもうひとつレイヤーが加わってくるのではないでしょうか。

© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS - WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA
© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS – WILD BUNCH – FRANCE 3 CINEMA

『やさしい人』は渋谷・ユーロスペースで公開中。名古屋シネマテークで11月29日から、その他全国で順次公開予定。
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