Atsuko KAWAGUCHI のすべての投稿

Atsuko KAWAGUCHI 1955年生まれ。映画評論家。著作に「映画の森―その魅惑の鬱蒼に分け入って」、訳書には「ロバート・アルトマン わが映画、わが人生」などがある――といういつものプロフィールからはみ出してきたものもこのページでは書けたらいいなと思っています。

ローラ・アルバート~『作家、本当のJ.T.リロイ』に訊く

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ガス・ヴァン・サントがカンヌで大賞に輝いた『エレファント』(03年)。その脚本に協力したということでJ.T.リロイという早熟の作家の名を知った。調べると幼児期に誘拐、虐待をかいくぐり11歳で女装の男娼に、18歳で自らの経験を綴った自伝的小説「サラ、神に背いた少年」を発表し時代の寵児となった――と、米各誌が報じるプロフィールを難なく入手できて、注目度の高さを思い知らされた。続いて“彼の”次作「サラ、いつわりの祈り」はアーシア・アルジェントの監督・主演で映画化され05年、映画の公開に合わせてプラチナブロンドの長髪と顔の半分を覆うようなサングラスがトレードマークの美少年J.T.も来日、話題を集めていた。同年秋、ニューヨーク・マガジンがそんな“彼”をめぐる疑惑を報じ、翌年にはニューヨーク・タイムズにJ.T.リロイの小説を書いたのはサンフランシスコ在住の女性ローラ・アルバート40歳との暴露記事が掲載される。数々のセレブリティを魅了した寵児は一転、“捏造された作家”という醜聞の只中に投げ込まれた――。

フィクション/小説を書いた作家が作品以上に注目を集め、世間の目から隠れるために創出した“アバター”がひとり歩きを始めた末に巻き起こったスキャンダル。その先にぽっかりと浮上したひとり、ローラ・アルバート。ドキュメンタリー映画『作家、本当のJ.T.リロイ』は渦中の人ローラが残していた留守電のテープや手書きの草稿等々、膨大な記録の山に分け入って狂気と創作(才能)の交わる所を吟味する。映画は同時にその数奇な生の軌跡を自ら遡り、語りつくして有無を言わせぬストーリーテラーぶりを披露するローラという在り方を凝視してもみせる。キャメラに向かって語るうちに陶然と虚実の境界を無化していく存在の、奇妙に透明な熱さは、パンク大好き少女の頃を凍結したような出で立ちで敢然とこちらを睨み語り続ける目の前のローラとの取材の時間にもひたひたと染み渉っていった。

撮影荒牧耕司

――ル・セルクル・ルージュという私たちのサイトの名前はジャン・ピエール・メルヴィルの『仁義』の原題にちなんでいるんです。

ローラ・アルバート(以下RA)ああ、メルヴィルといえば、彼は稼ぎがないなら旅行作家に戻ればいいと周囲にいわれた時、自分のやり方以外では書けないといったのよね。私がJ.T.として書いた時に感じたこととも通じてる。人が何といおうと別のやり方でするって私にはできなかった。

――あ、作家のメルヴィルですね。「白鯨」の。サイトの名前は映画作家の方のメルヴィルなんですが、彼も自分のやり方でノワールの形を究めた、そこが好きなんです。

RA あ、映画作家のね。そうか、そうなのね(笑)

――『作家、本当のJ.T.リロイ』をとても興味深く見ましたが、あなたについて撮りたいという監督は山といたと思う、その中でなぜジェフ・フォイヤージークのオファーを受けようと思ったのでしょう?

RA セレブリティ信仰とかセンセーショナリズムに惑わされない人が私には必要だったのね。もっと深い物語を語れる人が。躁うつ病を抱えたミューシャン、ダニエル・ジョンストンをめぐる彼のドキュメンタリー『悪魔とダニエル・ジョンストン』を見て、ジェフの興味は狂気と何かを創り出す力、アートの交差する所にあるんだと確信した。誰かが頭の中で別の在り方をするようにアートが舵をとってくれるのではという、そういう部分に関心をもっているんだと。だから彼に託そうと思ったわけ。

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――あなた自身も裡にある一種の狂気を創作上の糧にしている?

RA うん、そうね。つい最近、ドキュメンタリー映画『Crazywise』を見たんだけど、チベットからアフリカまで土着の文化を持つ様々な国を旅した写真家が撮ったものなのね。で、私たちの西洋文明の中では精神病というとまずは専門の施設に収容させるでしょ。投薬されて治療される。だけどそうでない多くの文化圏もあってそこにはシャーマンがいてある種の狂気を活かすことを許されている。私たちの文化の中では多重人格だとか狂ってるとか言われるかもしれないけれど、例えばチベットで聖なる存在はいたこ状態になって降りてくる人の声を語ったりする、別の人格にチャネリングできる、そういう力があるのよね。でも私たちがアーティストとしてそれをしようとするとアメリカの、あるいは西洋の文化は許さないのよ。シャーマンのように狂気を活かすことを許そうとしないの。

――その意味で『悪魔とダニエル・ジョンストン』でも『作家、本当のJ.Y.リロイ』にしても監督はアメリカや西洋文明に蔓延る良識、シャーマンを締め出すような窮屈さを突こうとしている部分もありそうですね。ダニエル・ジョンストンの場合には両親が原理主義的クリスチャンですよね。その規範が息子のアート/狂気を抑えつけ結果として助長したように見えます。あなたの場合はどうでしょう?

RA 私がラッキーだったのは母が彼女自身も劇作家だったから、アーティストとしてむしろノーマルでない部分を伸ばすようにしてくれたってこと。確かに彼女が家に連れてきたボーイフレンドたちが私に対してしたこと(性的な虐待)からは守ってくれなかった。でも私の中にある何かが私の身体を通して語ろうとしているって点に関しては心の底から信じてくれた。私がそういう特別な存在であるということを信じてくれていた。霊的な存在の訪れを感じていたってこと。今、そのことを回想録に書いているんだけど、この世界になすべき重大な使命をもって存在していると明確なメッセージを受け取っていたのよ。自分の中に別の声を聴く、別の人格が訪れているということをうまく説明できないって恐怖はすごく大きなものだったけど。 興味深いのはジェフの2本の映画に対するアメリカの観客の反応の違い。ダニエルはマネージャーを殺そうとした、パイプで頭を殴りつけたり、飛行機を墜落させようとした。それって犯罪じゃないの――って危険なこともしている彼に観客は何の文句もいわなかった。なのにそういうことは一切していない私に対しては刑務所へ行けと罪人扱い。これっておかしくない!?

――なぜでしょう?

RA 私が思うのには私が女で、しかもあまりにも大きな情熱を抱いているからなのよ。情熱は感情的なもの、感情は否定されるべきものなの。女があまりに感情的に表現すると恐怖の対象とされてしまう。大人しく受け止めていいたくてもいわないでいることが求められる。だけど私という人間はそうじゃない、だから怖がられる(笑)ありゃ完璧に狂ってる、ビョーキだと、そんなふうにこの映画の私や映画自体を歪曲して見る人がいるのはとても辛いことだけれど、でも理解してくれる人もいる、十分にいると思う。時がたてばさらに理解されるだろうとも思ってる。

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――女だから理不尽に受け取られるって、それはどんな時に感じますか?

RA いつでもよ。だって私は実際、子供のときからずっと男の子になりたいと思っていたわけだから。男の子に許されることが女の子には許されてない。振る舞い一つにしてもね。あるいは虐待にしたってそうでしょ、男の子が犠牲になればより悲劇的なこととして受け止められる。アメリカでは女の子が性的に虐待を受けることはいっそ想定内のこと、殆んどあってしかるべき、驚くに値しないなんてひどい受け止め方さえもまかり通ってる。そのくせ男の子がそういう目に遭うとみんなが激怒する。

――この世界に積み重なってきた女性に対する差別が男の子のアバターをあなたの中に導き出したと?

RA 1970年代、性的虐待に人はまだまだ口をつぐんでいた。当時、漸くPBSの「アフタースクール・スペシャル」といったテレビ番組が作られるようになって問題を語る糸口ができた。とはいえそこでも問題に遭遇するのは金髪碧眼の少年だった。女の子の問題はほったらかし、あるいは描いたとしても見栄えのいい子たちの問題で、可愛くない女の子が性的に虐待されていたって問題にされなかった。キュートな少年の方が悲劇的に映るから。私自身の体験をいえば、私が辛い目に遭った時、それを口に出して言おうとしたけれど、でも私なんか誰も気にしてはくれないとまず思ったのね。でも、男の子の話にしたら、金髪で青い目のキュートな男の子として語ったら救いの手が差し伸べられるだろうと、そう思えた。うまく説明できないけど、そんな気持ちが私の中にJTという男の子が出てきたことと関係してると思う。

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――映画の中でも、書くことがあなたにとってある種のセラピーだったという件りがありますが、今回、映画の中でご自分のことをああいうふうに語ったこともさらなるセラピーになったと思われますか?

RA キャメラに向かって語る部分は8日間かけて撮ったけど、まさにそう。いえ映画の全プロセスがそうだった。監督のジェフが私の怒りを解き放つように背中を押してくれたのね。あの時、だれも私になぜということを訊かないまま”捏造”問題として突然、みんなが私を糾弾し始めた。責任をとれと。映画を見た一部の人はなんで彼女が”ストーリー”を語っているんだと、主観的な語りの手法を映画がとっている部分を突いてきた。だけど私がJ.T.を作り出した張本人なんだから私に語らせない手はないと思う。信じないならそれでもいい、とにかく私が点と点を自分で繋いでいく。それが合理的なんで他人がそれをしたのでは理屈が通らないのよ。

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――映画を見ているとあなた自身が話の流れに乗って活き活きとしてくる。ストーリー=嘘っぱちって意味ではなく、でも根っからのストーリーテラーぶりが面白かった。

RA そうね、そうだと思う。父も母もお話するのが上手だった。私の祖父母は辛い人生を送って、だからストーリーテラーだった。ユダヤ人でワルシャワから難を逃れて脱出してきた人たちだったから。彼らにはアーティストになる贅沢が許されなかったのでストーリーテラーとなったのね、その血は私に与えられたギフト、贈りものであり才能なんだと思う。物語を語りアーティストとなり得ること。物語を語るために生かされているんだと思うの

――ユダヤ人の家庭、食卓でのストーリーテリングの大切さをハーベイ・カイテルに取材した時に語ってくれたのを思い出しました。物語りすることがサバイバルの術だったと。

RA ほんとほんとにそうよ。ユダヤ人は最も古い部族として身に降りかかったすべての苦難に対処するためのしぶとい伝統を必要とした、それがストーリーテリングということでユーモアとパッションを備えた物語を語り継ぐ、同時に使命の意識をもち、それをも語り継ぐ、そのための物語の技をもつのだという自覚が育まれた。この世に在るのは世界を癒すためって自覚が私たちユダヤ人にはあるの。世界を癒すということ。私自身、この世の中にあるものすごく多くの見過ごしにされている犠牲、許されるなら自分の経験を物語ることでそうしたことに少しでも働きかけ、ヒントを与えられたらと思ってる。

――”捏造”騒動から10年を経て例えばガス・ヴァン・サントとは今、どんな関係なんでしょう? 彼が「エレファント」で来日した04年にJTのことを訊くと微笑むだけであまり話してくれなかったんですが。

RA そうなんだ なんて訊いたの?

――JTはどのくらいこの作品に関わったの?――とか

RA どのくらいも何もすべてによ。映画の実現のため力を尽くしたし、私がいなかったら映画にはなってなかったと思う。私の書いた脚本をすべて使ったわけではないけれど、ガスの望むようにしていいと、全部を脚本通りにしないでいいって許諾を与えることもした。背後ではあったけど精力的にあちこちに働きかけた。肩書きだけでなく本当にプロデュースしたと思う。まあ複雑ではあるからね。ガスとJTの関係は(アバター、あるいは影武者だったサバンナ・クヌープ/ローラの元夫の妹の存在がある)。私にしたって私じゃなかったりする。ああ、会ったよといっても、会ったのはローラじゃなくてJTのマネージャー、スピーディとしての私だったりもするわけでしょ。だから説明が難しくなるんだけどね。トム・クルーズと彼の演じた役とを監督が混同するなんてないと思うけど私に関してはそう簡単にはいかないわけよ。

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――05年『サラ、いつわりの祈り』の公開に合わせてJTとしてのサバンナが来日した時も、ずっと側にいらしたんですよね。どんな気持ちでそこに?

RA とても寂しかった。孤独だった。もちろんサバンナは私の経験をしてはいなかったから、単にイメージを反射、反映するしかなかった。庭師がひょんなことから名士になっていくピーター・セラーズの『チャンス』って映画知ってるでしょ。まさにあれ。彼/彼女が何かを口にするとまわりの人々が勝手に深遠な意味を見出していくの。今はあのことをきちんと説明する必要を感じてる。あの関係は単に偽とか本物とかっていうんじゃない、虚実に関わるメタな入れ子構造、ある意味でアートワークともいえるようなものがある。そのことを日本人は他のどの国より理解する素養があるみたい。創るために自分から逃げるって心理もアバターに関してもジャッジしないで受容してくれる。白黒つけるのでなくグレーの部分、余地を残すことができるのね。

――それは多分、私というものを確立させない、みんなと一緒が大事な日本人という点とも関わっているかもしれませんね。曖昧な自分でいる方が生き易いというような。

RA アメリカはミーイズム、まず確かな私が先にくる。そこでは正常じゃないから、ビョーキだから、いくつもの人格をもつみたいにいわれる。理解できないことなのね。自分の中にまた別の自分が現われるのを一歩引いて観察するって感覚。日本人はこの感覚を自動的に理解できるみたいで、驚いてる。

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――映画でも紹介されるようにあなた自身に関する膨大な記録を残していますが、自分の足跡を残したいという欲求があったのですか? それと最後に女の子の映像が出てくるホームムービーもあなた自身を写したものですか?

RA そう、あれは母が撮ったもの。すべては意識的に残したものだった。必要だったの。記録することが。健常な部分にすがるっていうのかな。子供には性の、肉体の、魂の聖域がある。そこを侵す大人たちがいると子供たちに備わっているコンパスのようなもの、どこまでがオーケーなのかその境界を自然に指し示す指針のようなものが働いて、だれにいわれなくてもここまでは大丈夫、でもここからは大丈夫じゃないという境界を感知している。子供時代に聖域を侵される中で、自然に働く危機感を抱えながら何がリアルで何が違うのか、何が現実に起こっているのかそれを記録しておかないと周りの大人が勝手に捻じ曲げてしまうと警戒していた。同時に自分の中のおかしな部分と正常な部分、そのどちら側にも足をかけた自分をみつめるためにも記録が必要だった。ワニみたいに水面にいて水上も水中も眺めている、そんな感じ。狂ってる、でも同時に狂ってない。その両方が自分にあるとわかっていた。自分の中に現れるJTはリアルだと思った、同時にそうじゃないってこともわかっていた。ただ自分の中で起きてること、それがどのくらいリアルに感じられるか、それをそのまま人にはいえなかった。いったらクレイジーだってことになるから。だから記録した。怖かった。自分が狂っているってことが。ノーマルな部分とリアルだけど狂ってる部分、ノーマルでなければと修正しようとする部分、自分の中の中のそのまた中――

――合わせ鏡の中の像のように互いを映してどこまでも連なっていく。

RA それそれその喩え、映画でも使ったけどまさにそれよ。

――自分を客観的に見る目もあるのは狂いっぱなしより辛いでしょうね。

RA そのことをみんなは私への反論として使った。今回の映画を見て私を完璧なクレイジーだといった人もいたけれど、もしその通りだったらあの騒ぎの時にもっと寛大に扱ってもらえたと思う。でも現実には私に説明する能力もあったから、そのことが私を”容疑者”としたのね。何かを操っているかのようにいわれた。クレア・デーンズが実在する自閉症の動物学者を演じた『テンプル・グランディン自閉症とともに』って映画、知ってる? テンプルはひどい自閉症だったけど彼女はそれを説明できた。で、自閉症であることについての本を書き、だけどだからといって自閉症でなくはなれなかった。私の状態も同様といえるわ。精神的な問題を抱えていると説明できる、でも判ってるなら打ち勝てばいいっていうように簡単なものじゃない。ともかくサングラスしたJTはこの世から姿を消したけれど、生き続けてはいる。びくともしない作品として。それを流行りものとして今の旬みたいに味わってさっっさと捨てるのでなく吟味してほしい。その意味でも「サラ、神に背いた少年」も「サラ、いつわりの祈り」も日本で再版されることを祈ってる。

作家、本当のJ.T.リロイ』
新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか公開中
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『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』監督インタビュー

正直いってフラメンコにとびきり惹かれたことはなかった。知識も興味もなかった。なのに『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』には圧倒的に惹き込まれた。知識はなくてもその歌を、その踊りを、あるいはそれを歌う“部族の長老たち”(原題)の顔、声、そこに息づく生の気迫にうちのめされた。彼らが語る洞窟のフラメンコの黄金時代の記憶には、血や土地や歴史の翳りの部分もまた呑み込まれているのだが、活き活きと弾んで迫りくる言葉はやわな感傷などを打っ遣ってただただその生きる力に見惚れていたいと思わせる。

静かだけれど鮮やかな活力に満ちたこのドキュメンタリーを撮ったのは、62年グラナダ生まれのチュス・グティエレス。80年代ニューヨーク、技術はなくてもやりたいことをやりたいようにしてみる時代の心意気を、”フラメンコ・ラップ”で実践した彼女は、「実験する贅沢が好き」と歯切れよく言い放つ。いっぽうで写真撮影をと取材の最後にリクエストするとポーズの前にまずは口紅をね、と衒いなく目配せしてみせる。そんないやみでない女っ気もまたチャーミングだった。

チュス・グティエレス監督。チャーミングな監督さんです。

――もちろん映画やテレビ等で見ることはありましたがフラメンコの熱心なファンというわけではなかった、それがあなたの映画『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』で洞窟のコミュニティによって残されてきたフラメンコに初めてふれ、その強烈なパワーに圧倒されました。監督がこのテーマで撮ろうと思ったきっかけは? プレスのインタビューを読むとやはり、映画で案内役を務めるサクロモンテ出身のトップ・アーティスト、クーロ・アルバイシンさんとの出会いが大きかったのですか?

チュス・グティエレス(以下C) そうね。クーロのことは子供の頃から知ってはいたんです。両親のホームパーティに踊りに来た彼と出会っていたので。12歳の頃かしら。それからずっと会うこともなかったんですけど、私の映画の公開イベントのために20数年ぶりに再会したんですね。その時にクーロがこれまでやってきたことを話してくれた。で、彼がしようとしているのはサクロモンテの丘にまつわる記憶をとどめておくということ、そこにどういう人が住んでいたのか、いるのかをすべて記録しようということなんですね。それを聞いて初めてこのドキュメンタリーを撮ろうと思いました。

――この映画以前にはずっと劇映画を撮られていたんですね。フィルモグラフィーを見ると『アルマ・ヒターナ/アントニオとルシアの恋』(95)という映画もありますが、ここではヒターノ(語尾ナは女性形、スペインのロマ、ジプシーにあたる言葉。アンダルシアでは誇りをこめてヒターノ(ナ)と自称するという)と非ヒターノの恋を描いたそうですね。クーロさんの話を聞いてドキュメンタリーを撮ろうと思う以前から社会の外部にある存在をテーマにしていたのですか?

C 今回の映画と『アルマ・ヒターナ』は直接的に関係しているわけじゃないんです。

そうですね、アウトサイダーというか、社会の外部の存在への興味というのもありますが、『アルマ・ヒターナ』に関してはまたちょっと別で、マドリードにラバピエスという地区があって、多様な文化圏の人々が集まっている地区で、貧しい人たちも多いんですが、あの映画ではそこを背景にした愛の物語を描いてみたんですね。

――なんていう地区ですって?

C ラバ・ピエス、ラバールが洗うでピエスが足って意味なんですが(”洗足”みたいなもんですね(笑)と通訳氏がフォローしてくださる)

――ああそうなんですね。そういえば監督は80年代にニューヨークで“フラメンコ・ラップ”グループxoxonees(https://www.youtube.com/watch?v=Z565NqaBIbE)で歌やダンスを披露してらしたんですよね。あの時代のニューヨークもまた混沌としたエスニックの文化が魅力的だった、そのあたりに惹かれてニューヨークを目指した部分もありましたか?

C いえ、ニューヨークにはあくまで映画の勉強に行ったんです。当時、スペインには映画学校がなかったので、それでニューヨークに行っただけのことなんです。

――あ、そうなんですね。で、“フラメンコ・ラップ”グル―プ結成はどういう経緯で?

C ま、すべてはもう偶然なんですけど(笑) ニューヨークでスペインから来ている子たちに出会って一緒に何かしようってことになったんですね。ほんとに楽しもうってだけのためにしたことでした。あの頃、80年代っていうのは音楽にしても、アートにしてもなんていうか完璧でなくてもよかった、歌うことをきちんと学んで知っていたりしなくても歌えたし、楽器だってきちんと技術がなくても弾いてよかったのよね。

――確かに映画にしてもジャームッシュとか、まさにやればできるというような、我が道を往くNYインディたちの流れが出てきた、面白い時代でしたよね。

Cそう、そう、ちょうどそういう時期にラップもまた勢いづいてきた、それで私自身もそういう流れにすごく啓発されたし、おおっという感じをもったりもしていたので、じゃあ自分たちも何か――となって、だったらスペインから来たんだし、フラメンコ+ラップでいこうみたいなことになったわけ。

――取材前にちょっと動画を見せていただいたんですがすごくかわいい! パブリシストからはスリッツみたいとの声もありましたが。あのフラメンコのひらひらしたフリルいっぱいの衣裳とかもご自分たちでコーディネートしたんですか?

C スペインからヒターナの衣裳を持参していたのね。

――ニューヨークのその時代、70年代後半からの時代というのは実際、音楽でもパンクのあとのニューウェーブにしても自分たちで技術はなくてもできるという気運があってすごく興味のあるところなんですが、そういう時代の流れをまさに実践し、呼吸した後でスペインに帰国された時はどんな感じでしたか? アルモドバル等が先導したマドリードの文化の新しい波ラ・モビーダの頃になるのでしょうか?

C 私が帰国したのが87年なんですね。フランコの独裁体制が75年に終わって、それから10年ちょっとという時期で、実際、帰った時はあらゆる実験的なものが爆発したような時代でしたね。中でもその爆発がいちばん大きかったのが音楽だったと思います。もちろん映画もそうなんですが、何よりも社会自体にものすごい活気があった。40年間も続いた独裁政権でしたからね、いいたいこともいえずに、あとセックスも教会に管理されてといったところから国が、社会がいっきに開かれた、そんな感じだった。ですから若者たち、私も含めてですけど、みんなが、これからすごく新しい国を作るんだと、そういう”幻想”を抱いていた時代でしたね。

――裏返すとフランコ政権があったから外国に、ニューヨークやその前に英語の勉強に行ったロンドンに自由を求めるといったこともあったのでしょうか?

C ノ、ノ、それはないです。自由とかじゃなくあくまで勉強だけのために行ったのよ。


――それではそもそも映画を学ぼう、撮ろうと思ったのは?

C これもある意味では偶然でしたよね。子供の頃から私はずっと物語を書くことが好きで作家になりたいと思ってたんです。で、18歳の頃、当時、まだ大学ではさっきもいったように映画科はなく情報科学という学部の中に映画も押しこめられているといった時代だったんですけど、そんな中でも映画を学んでいる友達がいて、たまたまアパートで同居したりってことがあった。ちょうどその頃、私はタイプライターの勉強をしていたので、彼女たちが書く脚本の清書を請け負って、その脚本を読みながら、ああ、これは物語を語るもうひとつの方法なんだと気づいて、それで自分も映画をやりたいなと思ったわけなのね。

――普通、監督をめざすというとまず映画が大好きでとか、誰かの映画を見て夢中になってといった動機があがりますが、あなたの場合はちょっと異色の経路ともいえますね。

C 確かに。

――となるとこの質問は的外れかもしれませんが、念のため、好きな監督は?

C ものすごく沢山います(笑)。どちらかというと商業映画はあまり好きじゃない。実験して何かを探る、そういう贅沢をしている監督が好きです。

――実験する“贅沢”、なるほどですね。例えば日本だとフラメンコのことを撮っているというとやはりまずはカルロス・サウラの名が出てきたりするんですが?

C もちろんサウラは素晴しいことをした、そう思います。特に『血の婚礼』はスペイン人全員が驚いた、ああいう踊りも見たことがなかったし、ロルカの原作をあんなふうに映画化できるなんて誰も思っていなかったので。彼はスペインにとっても、世界にとってもひとつの扉を開いた人だと思います。

――チュスさんの『サクロモンテの丘』もまた別の新しい扉を開いてくれる、そういう映画でした。フラメンコがある種、権威づけられたアートとしてあるとしたら、それとは全く別の、生きる力のようなものとして脈々と生き延びているんだと、この映画を通じてそういう事実や歴史が迫って来たので。

C ありがとう!

――こちらこそ監督と映画にありがとうといいたいです。

ところで無知な質問で心苦しい限りなんですが、映画の中で長老たちが十八番の踊りや歌をそれぞれに披露する場所、ステージでもあり壁に写真や肖像が飾られた居間でもあり、調理器具が天井に吊るされたダイニングのようでもあるあの場所は? あれが洞窟の”サンブラ“なんですか?

C あれはクーロの家なんですね。現存しているサンブラじゃあないのね。元々、グラナダのサクロモンテ地区のヒターノたちは洞窟に住んで、そこで生活し、そこで踊っていたんですね。そう職住近接というか一体の、そこで寝て、そこで料理して、そこで食べて、そこで踊る、そういう場所だったわけ。

――あの場所を基本的に真正面から引きの画でまず捉える姿勢もいいなと思ったのですが、踊りを撮るのにテイクはどのくらい重ねたのでしょう? キャメラの数は?

C 3台のキャメラで撮りましたが、すべてワンテイクです。一度しか回していません。なにしろ踊り手のみなさんがもう年配の方たちなので、そう何度も踊れない。一回踊ったら終わりという(笑)

――まさに生のステージを記録するのといっしょですね。

C そうそう

――原題は『部族の長老たち』という意味だそうですが、演者の選択もクーロさんが?

C はい、本当に彼がいなかったら何年かかってもとても完成できなかったと思う。クーロはみんなと繋がりをもっていましたから。彼がいろいろな人たちを紹介してくれて、その中から誰が出るかを決めていった、まさに案内役でした。

――あそこまでコミュニティの中に入り込んで撮れたのも彼のおかげですね。

C ええ。それと深めるにはやはり時間がかかる。何よりも時間を十分にかけることが必要でしたね。

――撮影に至るまでに何度も通って話を聞くことをしたんですか?

C もちろん何度も足を運んで、まずはサクロモンテの丘を熟知するまで通って、その後、クーロに紹介してもらった人たちにインタビューをして、その中から核になる4人を選んでいきました。

――映画の魅力はその老人たちの語りにもありますね。世代も違う人たちに心を開いて語ってもらう、コツは何かありましたか?

C 幸運でしたね。ただ昔からなんですけど私にとってはインタビューってそう大変なことじゃない、むしろ簡単なことなのね。多分、そういう才能に恵まれているんだと思うんですが、人から告白してもらうのがわりにうまいんです。


――映画も学校がなかったということでしたが、フラメンコの踊りも歌もやはり学校では教えられないものなんですよね。

C いまは学校もありますがここで語ってくれている”長老”たちの時代にはまったくなかったので、生活の中で見ながら、聞きながら覚えたんですね。

――洞窟の時代のものはレコードに残っているんですか、

C 何らかの形で録音されたものはあるかもしれませんけど、私が探した限りではみつからなかった。洪水で洞窟からみんなが退去させられた1963年以前のものということを考えると、当時は録音も今と違って大がかりだったでしょう。貧しかったスペインでは難しかったと思いますね。

――ギターの人がすごくうまいと思ったんですが、レコードもなくてどうやって身につけたんでしょうね。

C これも見よう見まねで覚えたんですね。ひとついっておきたいのはサクロモンテのフラメンコというのは音楽も含めてその価値をきちんと認められたことがなかった、常に蔑まれてきたフラメンコなんですね。

――ガルシア・ロルカが彼らの存在に魅了されて光りを当てましたね。

C 彼の「ジプシー歌集」は確かにあります、でもあれは彼の作った詩なんで、丘の上の彼らのオリジナルの歌も詩も踊りも曲も彼ら自身のものは記録されていなかった。この映画を作る中で、おそらく50年代ごろ、観光客がやってきた一時期なら、あの頃のお金持ちなら8ミリフィルムで撮ったりもしたんじゃないかと、いろいろ探してみた。でもみつからなかった。映画に入れたモノクロの16ミリの素材が唯一、you-tubeでみつかったものでした。

――ちょっと日本の歌舞伎のことも思い出されてくるんですが。つまり歌舞伎も今は学校もありますが、基本は人から人へと伝承されるアートで、しかもかつては蔑まれた時代もあった――と、そう考えるとサクラモンテの洞窟のフラメンコと通じるものがあるようで興味深く思えました。で、監督は声高に差別された民といったメッセージをこの映画で伝えるのではなく、長老たちが語る中でああ、そうだったのかと自然に思い至るような形をとっていますね。暮しの中でこうして生きてきたんだなというのが見えてくるのがすごくいいなと思う。

C それは自然にというよりそうすることを目的として始めた映画なんです。暮しのこと、その思い出を語ってもらうということ。だからこの映画の中では年配者たちにしかインタビューしていません。若い人たちは当時のことを知らないから。1963年に洪水があって誰もが洞窟から退去させられた。洞窟の中で踊って生活していたというのはそれ以前のことです。その頃、サクロモンテの丘に暮らした人たち、63年以前を経験した人たちにしか話を聞いてはいないんです。その頃の暮しを知っている人たちの記憶を再構築するというのがこの映画の大きな目的でした。50年代ぐらいからハリウッドやラテン・アメリカ、メキシコといった様々な国の人たちが観光客ではあっても興味をもってサクロモンテを訪ねてきた、そういう時代があった、その頃を、いわば黄金時代を体験した人たちの記憶です。この黄金時代に子供たっだり青年だったりした人たちの思い出を採集したんです。彼らの記憶、サクロモンテの黄金時代の記憶をとどめること。それが映画のめざしたことでした。

interview by Atsuko Kawaguchi,Masao Kawano

『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』

●公開表記:
2017年2月18日(土)より、有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか順次公開中

監督:チュス・グティエレス/参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、ラ・モナ、ライムンド・エレディア、ラ・ポロナ、マノレーテ、ペペ・アビチュエラ、マリキージャ、クキ、ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、チョンチ・エレディア他多数
日本語字幕:林かんな/字幕監修:小松原庸子/現地取材協力:高橋英子
(2014年/スペイン語/94分/カラー/ドキュメンタリー/16:9/ステレオ/原題:Sacromonte: los sabios de la tribu)

提供:アップリンク、ピカフィルム 配給:アップリンク 宣伝:アップリンク、ピカフィルム
後援:スペイン大使館、セルバンテス文化センター東京、一般社団法人日本フラメンコ協会