不気味なものの肌に触れる

©LOAD SHOW, fictive
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既にウェブで配信されてもいる54分の中編のため映画館に駆けつける意味なんてほんとにあるのか?!――と、ネガティブに身構えた観客にこの際、いっておきたい。映画館で映画を見るという今やみごとに周縁へと追いやられた行為にまつわるちょっとやらしいヒロイズムやロマンティシズムでいうのではないとまずおことわりした上で、断言してしてみたい。快作「不気味なものの肌に触れる」のためならば映画館へと迷わず走って正解だ!

 開巻。雨に追い立てられるように制服の男子がふたり、石の階段を駆け上る。
 走ること。速さを競うこと。夢中になれる子供っぽさをあっけなく放り出した背中にはそれだけでもう、うっとりと見蕩れざるを得なくするものがある。くっきりとした求心力を思わせる。緑、水の気配、鼓動。見えるものと見えないけれど在るものとがふたりの後に列なって、そこに鮮やかに浮かぶ物語。青春映画の美しいクリシェを思わせもするそんな始まりから一転、映画が次に差し出す室内場面では、上半身をむき出しにした先のふたりがダンス・リハーサルに励んでいる。
 青みがかった透明のきんと冴えて冷たい時空。その無機質な感触を裏切って踊るふたりの身体と距離がまた別の物語を手繰り寄せる。ドラマとはかけ離れた場所で静かに熱くスリリングにドラマが生起する。身を躱して距離をつきつけ同時に互いの距離を奪いもしながら限りなくゼロに近い非ゼロの近さ/遠さを保つふたりの試みが、人と人、肌と肌、思いと思い、存在すること、感覚すること等々をめぐっていくつもの問と答えを投げかけてくる。じっくりと距離を保って距離をみつめるキャメラの眼差しは、スクリーンのあちらとこちらをめぐる問いとしてもはらはらと迫ってきて、映画とはと今さらながらにもう一度、真新しい気持ちで問いたいような気にもさせる。
「触っちゃった」と踊り手のいっぽうがいい、動きが途切れる。
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「イメージすること」「自分が動くより相手に動かされるという所に入っていく」ようなと導く振付家砂連尾 理(じゃれお おさむ)の言葉が終わるか終らないかのタイミングで、「お届けものですよ」とオフの声が侵入し、いかにも日常茶飯なやりとり(であるかのような芝居)がそれまでぼこぼこと立ち上がっていた命題の時空に水をさす。自覚的に作られるそうした落差はけれども、いっそう挑発的な奥行を映画に獲得させていく。例えば少し前に冒頭のふたりを踊るふたりと当り前に同じ存在として書いたけれど、ふたつの場面でふたりは千尋と直也という同じ役柄を演じていながら、演じていない俳優、染谷将太と石田法嗣の肉体もここにはまざまざと映し出されてしまっている。存ることとは、演技とは、演じるとは、俳優とは、役柄とは、素の顔とは、人とは、物語とは、現実とは、そうした一切に介在する距離とは――頭をもたげる問いがまたスクリーンに切り取られたフィクション/リアルを近く/遠くする。そうやって果敢に落差と問とを突きつける濱口竜介監督はそれでもなお、父を亡くし腹違いの兄と暮らす少年千尋、そうして彼と”踊る“直也を軸にした圧倒的なロマンス、物語のしぶとい時空を研ぐことも忘れてはいない(80年代末から90年代にかけての主流を外れた米青春映画、とりわけティム・ハンター「リバーズ・エッジ」とガス・ヴァン・サント「マイ・プライベート・アイダホ」が交わる所のような感触が懐かしい)。

 深い深い川の底に流れが堆積させたもの。いつか大きなうねりと共に浮上して鉄砲水が来る。世界に水が溢れ出て一切を洗い流す日、あるいはその時、人の胸の底の底に降り積もった澱にも似た感情もまた堰を切って溢れ出す――そんな未来の覆し難さをわなわなとした胸騒ぎとして植えつけて、「不気味なものの肌に触れる」は来たるべき濱口の長編「FLOOD」に向けた予告編としての使命をあっけらかんと完遂してみせるのだ。

「不気味なものの肌に触れる」公式Facebook
3月1日(土)~14日(金) オーディトリウム渋谷にて限定ロードショー

濱口監督の後輩にあたる東京藝大映画専攻第八期修了作品展も開催

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