「聞く顔」ってすごく「定義する顔」じゃないすか? つまりその場の状況を定義するのは、聞いている人の顔だったりする
「聞く顔」を撮って、オフでしゃべる人の声がきこえてくれば、状況がすべてわかるような気がする
気鋭の映画作家の作品や声に直接ふれられるウェブサイトLOAD SHOWで、濱口竜介監督作「何食わぬ顔(short version)」を入手したら「顔を巡る対話」という特典文書がついてきて、そこにある濱口監督の上記の発言を噛み締めると、彼と酒井 耕とが撮りあげた東北記録映画3部作(4篇)「なみのおと」「なみのこえ」「うたうひと」が切り取ったいくつもの「聞く顔」がいっそうスリリングに迫ってきた。
2011年3月11日の大地震をいかにかいくぐったか。沿岸部での津波被災者への聞き取り活動から生まれた「なみのおと」、宮城県気仙沼市と福島県新地町の二人一組へと絞り込んだ「なみのこえ」。向き合う二人の対話をひとりの真正面の顔、対峙するもうひとりのそれへの切り返し、真横からのふたり――と、ショットを簡潔に積み重ねながら映画は、語る者の思いをふくんで増幅される意味がいっそ聞き手の顔のほうにこそ映されていく様を静かにあぶりだす。それが作家のあざとい意図として突出することなく、けれどもそうやって人と人とが交わす言葉以上の言葉が物語へと行き着いていくのだと、改めて思わせる。その直截でシンプルな手法。それゆえにくっきりと縁取られていく言葉と意味と心の微妙なずれ。それがあってこそ新たに、より真理に肉薄して現出してくる意味と心。
多分、書き記された記録からはこばれ落ちていくそんな感情の真実の物語/歴史。だからこそ浮上してくる民話という語りの形の可能性に目を向けて第三部にあたる「うたうひと」は3人の語り手とそれを聞くひとりとを向き合わせる。
そこでは語られる同じひとつの昔話が別の語り手の語りによってまた異なる音色や調子を身につけ聞き手の顔に新たな意味を映し込む。差違をのみこんでまた繰り返される言葉。物語。個々のうねりや震えを受け止めて、やがてもたらされる限りない時空、その広がりのことを映画は鮮やかに思わせる。
繰り返された人と自然の歴史のなかにそうやって身を置くこと。対話はスクリーンの向こうとこちらの私たちの時空とももちろん共振していくだろう。そうして映画を見る者にも、もたらされているはずの「聞く顔」。物語/歴史を生きることがそんなふうに他人事でなく体感される大きなグルーブに身をゆだねてみたい。
11月9日(土)よりオーディトリウム渋谷「三部作一挙公開(『なみのおと』『なみのこえ』同時上映)」、16日(土)より渋谷アップリンクにて公開
「うたうひと」公式ホームページ