ジャック・ドワイヨンの新作が19年ぶりに日本で公開される。それだけで快哉を叫びたくなる。
アートシネマの現状は相変わらず厳しい冬を抜け出せずにいるけれど、そんな中でも我関せずとあくまで小さな話、小さな映画で勝負し続けるドワイヨン。その強固な意思を確認させる『ラブバトル』、同様に男と女の普遍の闘いをみつめ、自らの世界を頑として貫く荒井晴彦脚本の『海を感じる時』と2本立てで見てみたくなる快作だ。あるいはシンプルさの極みがどれほど豊かな奥行を抱え込むかという点では奇しくも同じ日に公開されるブレッソンのデジタルマスター版『やさしい女』とはしごでの鑑賞をぜひお薦めしてみたい。
作曲家ドビュッシーが愛娘クロード=エマのために書いたというピアノ組曲「子供の領分」の最終曲「ゴリウォークのケーキウォーク」に伴われ映画はさらりと幕をあげる。ほんのりと哀調を帯びながらおどけた気分がやけのやんぱちで弾けているかにも響く奇妙に懐かしい楽曲に先導されてみごとにさりげなく立ち現れる名無しのヒロイン。ミニスカートの白い脚が幼女のいたいけなさこそを縁取っているブロンドの娘は、周りの世界のことなどお構いなしといった風情(ドワイヨン的一目散!)でやってくる。かたや丘の上の屋敷で彼女の到来を半ば予期していたかのように迎えうつロダンの彫刻然とした逞しい男(彼もまた名無しのままに描かれる)。ふたりの間に“未然形の過去”があるらしいことを無駄口叩かず明示するドワイヨンの映画は、“彼女”と“彼”の飽くなきバトルをしぶとく見すえていく。
「伝統的なウエスタンのように撮った」とそんな新作を監督は述懐してくれたのだけれど、実際、映画は男と女の“決闘”を、ふたりの勝敗をめぐるサスペンスではなく、むしろ闘うこと自体が目的と化し儀式となっているような関係として差し出す。そこに対決よりは共闘の意志をスリリングに浮上させていく。心身ともにぶつかり合い理屈や言葉を脱ぎ捨てていくふたりの愛の軌跡は知恵の木の実を口にする前のアダムとイヴ、その始源の歓びの世界へと逆行していくかにもみえる。セザンヌのタブローに触発されて生まれた映画は原題にある”闘いのセッション”の記録として立ち上がり、爽快な疲れの感覚に観客をも巻き込んでいく。父の亡霊を乗り超えようともがく女は父の代理役を請け負う男(そこには身分差や性差も端から平等な関係を阻んで見え隠れしている)に飽くことなく挑みかかる。その姿は母の死を受け容れるまで『ポネット』の幼女が示した爽やかなまでに頑なな闘志を迷いなく継承するかにも見える。アブデラティフ・ケシシュ(『アデル、ブルーは熱い色』)の『身をかわして』でも即興と見まがう自然な身体性を獲得しつつどこまでも脚本に忠実な演技をものした女優サラ・フォレスティエとチャップリンの孫ジェームズ・ティエレ。ほぼ全編をふたりの場面、ワンシーンワンカットの長回し、手持ちでありながら厳格に“振り付け”を体現して演者のバトルに加わるキャメラの動きで構成したこの新作は、即興と見えて実はどこまでも演出された映画と新鋭時代のドワイヨンを絶賛したトリュフォーの眼の確かさを40年を経た今も証し続けている。
ラブバトル
配給:アールツーエンターテインメント
2015年4月4日、ユーロスペースほか全国順次ロードショー