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CINEMA DISCUSSION -11/ゼロの未来The ZERO THEOREM ~Terry G’s Brave New/Old World

© 2013 ASIA & EUROPE PRODUCTIONS S.A. ALL RIGHTS RESERVED.
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新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション、11回目となる今回は、屈折した英国的な笑いで知られるコメディ・グループ モンティ・パイソン唯一のアメリカ人メンバーであり、アニメーターとしても活躍、映画監督としても『未来世紀ブラジル』『フィッシャー・キング』『12モンキーズ』と独自のヴィジュアル世界を差し出し、また時には(しばしば?)ハリウッドと真正面からぶつかってケンカも辞さないお騒がせな存在として知られてきたテリー・ギリアムの最新作『ゼロの未来』を取り上げました。

コンピュータに支配された近未来で「ゼロ」の数式解明の任務に忙殺されながら、「人生の意味」を告げる電話を待ち続けるひきこもりの主人公。実存的命題をにらみつつ、何でもありな今日的”神”/巨大コンピュータ企業の下、虚しく闘う彼の周りで相変わらずミッシュマッシュなギリアム的意匠がはじけます。

ディスカッションメンバーはいつものように川野正雄、名古屋靖、川口哲生、ナヴィゲーター役の映画評論家川口敦子の4名。今回は話すうちにそれぞれの好みの微妙な違いが浮かび上がってきました。それも個性派ギリアムの映画にはふさわしいのかもしれません

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川口敦子(以下A):『ゼロの未来』に関してはセルクルのメンバーの中でもちょっと賛否両論があるようですが(笑) 私は楽しめた派、ダメでした派、どちらでしょう。まずはそれぞれの立場と理由を教えてください。 

川野正雄(以下M):楽しめなかった訳ではないのですが、かなり期待していたので、肩すかしを喰ったような印象で、個人的には残念な作品になりました。
映画の一番根底に流れるテーマやコンセプト的な部分に共感が出来なかったというのが、理由です。
演出の細部の凝り方、映像は素晴らしいと思います。ただもう少しストーリーがあった方がいい。枝ばっかりで幹がない感じで、ディテールは凝ってるんですけど。
共感出来ないなと感じ始めたところで、実は自分は『未来世紀ブラジル』も、割と苦手だったことを思い出しました。
基本的に(そんなに沢山見ている訳ではありませんが)、ギリアムの世界観というものが、あまり好みではないのだと思います。

名古屋靖(以下N):僕は「楽しめた派」です。でも期待度が高すぎたせいかもしれませんが、残念に思ったところもあるので「楽しめたけどちょっと残念でした派」と言った感じです。
『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』という2大テリー・ギリアム近未来モノが好きだったので、このお話を聞いた時から早く観たいと思っていました。そのせいか期待に胸膨らませすぎ、思い切りハードルを上げて観てしまいました。
テリー・ギリアム作品の魅力の一つに、『フィッシャー・キング』はセントラル・ステーションでの社交ダンスのように、ストーリーとは関係ない場面でも最高に凝ったシーンや演出を放り込んで来るがところがあります。これを撮りたくてこの映画、撮ったんでしょうというような。予算の何割そこにかけてるのっていうような、そういう見る側にインパクトがすごく残るものを出してくる。映画監督というよりは映像作家なんでしょうね。
ファンゆえのエゴだとは思いますが「今回はどんなシーンに拘って撮っているんだろう?」という穿った見方をし、それそれ探しに一生懸命だったのは反省します。

N:2つ目の魅力として、不揃いだったパズルのピースが後半バチバチっと嵌っていくのが体感的に気持ちのいい映画も多かったのですが、今回はそうじゃないパターンでした。
前半で「We」「人生の意味」「ゼロの解読」などいかにも深そうな謎をかけられてその答えを心待ちにしていたのですが。。。

川口哲生(以下T):私は実は『未来世紀ブラジル』はオールタイムファイヴァリットの一本にしているし、このヴィジュアルの作りこみとノスタルジックな未来感は『ブラジル』以来でワクワクしました。それとそうしたヴィジュアル上のはっきりした要素だけでなく、テーマとしての「人生の意味を求めそれが告げられるのを待ちながら、一日一日を本当に生きることを忘れて無為に生きる」みたいなところに、やはり現代の社会のヴァーチャル感と重ね合わせてのメッセージがあり、共感するところがありました。好きな食べ物も忘れ、楽しむことも拒否して人生の意味を求めても、そこから抜け出す力は、人との関わりの中での、ヴァーチャルでない求める気持ちみたいなこと。ギリアム自身がいっている「人は自らの手ですべてを複雑にしている」「あらがうことをやめ、自分をゆだねる」といったことに何か救いを感じました。「ゼロの定理」とか「一人称でない自分(漠然とした自己)」は確かにわかりにくい感は否めませんでした。

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A:私は映画の出来としてというよりはギリアムの世界として「楽しめた」派といったらいいでしょうか。もしギリアムのこれまでを知らずに、あるいはギリアムの映画だとも知らずにこの映画だけを見て評価するとしたら、横溢する視覚情報、その濃密さには少し、ついていけないものがあったかもしれない。でもテリー・ギリアムの世界としてはしようがないなあ、とちょっと譲歩してしまう。見続けてきたよしみ、なんていったら変なのですが、無条件で擁護しついていこうというまで積極的でないとしても、否定はできないと思わせるものがある。

あれもこれも取り込んで混沌とした意匠、アニメーションやグラフィック・デザインの基本的センス、アーサー王伝説といった中世騎士物語への傾き――とよくよくみていくと心から自分が好きといえるものとの趣味の違いは明らかなのですが、それをおいた主題の面で共感してしまう部分もある。
結局、夢見ることに逃げている『未来世紀ブラジル』の主人公、そして今回の天命を自分で知ろうとするより告げられることを待ち続け、とじこもり、人と分かち合うことを恐怖する存在。否定的な面だけでなく今、SNSが蔓延る社会で誰もが安易にコネクトしていると、そんな錯覚を疑わずそのコミュニティにいることをしている中で、むしろひとりとしていることにギリアムは価値を見ているでしょ。そのあたりが好きなのだとも思う。
60年代人種的対抗文化的な基本姿勢(本作を締めくくる“無”への跳躍とかも含めて)のしぶとい保ち方、でもヴァーチャル・デートの相手ベインズリーに一緒に行こうといわれた時、飛び出せない、変われない、どこかでそれを肯定もしている――ギリアムの作家としての自伝性が案外そういう所にもあったりするかもしれず、そこが面白いとも思いますね。

A:ギリアムらしいディストピアに立ち戻っての一作としてどうしても『未来世紀ブラジル』と比較したくなりますが、あそこから変わった? 変われない? そこが映画監督、あるいはアーティスト(ヴィジュアリスト)ギリアムの面白さなのか、限界か? この点に関してはどうですか?

T:『未来世紀ブラジル』と比べれば変われてはいないと思います。そうしたギリアムの世界観が好きかどうかで単なる二番煎じと取るか、ギリアムらしさの復活と見るかが変わってくると思います。ギリアムのディストピアの特徴はコマーシャル(集団の幻想的欲望を喚起させるもの)の扱い方と、音楽も含めたノスタルジックさかなと、私は感じます。『ブラジル』のタイプライター音でのサントラのスタートとかセントラルサービスのコマーシャルとか昔のラジオのコマーシャル的ですよね。今回ではパラダイスへの旅行だったり、金儲けへの誘惑だったり、ピザ屋だったりヴァーチャルなセーフセックスだったり(笑)欲望さえもコントロールされている世界ですね。

K:先に言いましたが、『未来世紀ブラジル』と同じ印象です。ただ『ブラジル』の方が、作品のスケール感や意外性は高かったと思いますが、見たのが相当昔で、詳細は覚えていないので、細かく比較することは出来ません。結局彼のその世界観やセンスに共感出来るかどうかですよね(他の監督も同様ですが)。
共感出来る人には、見所満載で、楽しめる作品だと思いますよ。

N:「統制(マネージメント)された世界からの解放」という意味では、もしかするとテリー・ギリアムの描きたいテーマは「変わらない」のかもしれません。巨大な権力からいかに自由になるかっていうのはずっとありますよね。訴えたい事は変わらないような気がします。小道具や美術など、ちょっと曲がった解釈のレトロフューチャーな近未来像はまさにテリー・ギリアムでとても素晴らしいです。ただし、今回は『未来世紀ブラジル』(1985年)の時点では想像もできなかったであろう、リアルとヴァーチャルの設定や描き方については、『攻殻機動隊』のような日本のアニメ作品の方が1日の長があると思いました。電脳的な世界をテリー・ギリアム流レトロ・フューチャーで表現すると「なるほどそうなるか。。」とも思いましたが、残念ながら自分にはフィットしませんでした。

A:結局、変わらないでいることが作家の面白さなのかなあと思います。どんどん豹変していく類の作り手にも惹かれる場合もありますが、結局、戻っていくのは変われない人の世界のように思う。

K:今回のあれは住みにくい世界なんですかね。

N:みんなはハッピーなんですよ。自分だけ「電話」を待ってるから不幸なんで、「We」っていって、いっしょなんだって、ひとりじゃないんだっていってるんだけど彼だけが不幸だって話。現代の人たちのつながりたい症候群みたいなものを描きたかったのかなあという部分はある。

T:少年との関係とか上司との関係がだんだん変わっていくじゃない。結局、関わりの中にしか変わっていくものはないんだってことかなあ、と。

A:ディストピアと質問したし、この作品を『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』と共にディストピア3部作とする紹介も目につく、私も見終わった時はそう感じたんですが、いくつかのインタビューを読むとギリアム自身はそのつもりはないと、むしろここにあるのはユートピア的でみんながハッピーな世界で、衣裳もそれに合わせてカラフルにと指示したみたいにいってます。不幸なのは主人公のQ=コーエンだけで、彼の灰色の世界は彼を取り巻くユートピアの影の中にいるよう――と。
もちろん、これは鵜呑みにしてもいけない発言なんですよね、きっと。その企業仕掛けのコマーシャルな“ユートピア” をギリアムとしては肯定していない、それこそがディストピア、頽廃した悪夢的世界なんでしょう。
『未来世紀ブラジル』の時以上に現在を描いている、現実への批判をのみこんだ一作だとは感じます。、大企業(MAN COM)の仕掛ける定理の中で幸せに動いている人とコマーシャリズムから身を引き離して、そこで与えられたアルゴリズム解読作業に邁進しつつも、“教会”の中にこもる=大きなマスの幸福の幻想から孤立する存在、孤独ではあっても、人といっしょでなくてもいいのだと。そこまで自分で強く自分を肯定できない存在ではあっても、そうしようとしているひとりがいることの大事さみたいなものを描く所、そんなギリアムの変われなさを面白いと私は思うんですね。

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A:英国的なもの、たとえば笑い(はにかみと裏返しの過剰さみたいなセンスとか)、管理社会を見る眼と未来社会への悲観的視点、映画に限らず「1984年」「すばらしき世界」といった文学や音楽、PVも含めてありますが、そのあたりはどう見ますか?

N:勝手な思い込みですが、さっき言ったようにテリー・ギリアムが魅力的に感じる題材のひとつに「統制されすぎた世界からの解放」というものがあるように思われます。彼が英国やモンティパイソンに惹かれる理由も、権力や階級、王室までも笑い飛ばすパロディ精神がシニカルそうな彼自身の心の解放につながるのかもしれません。

K:ジョージ・オーウェルの「1984年」との関連性みたいな部分は、すごく感じました。BIG BROTHER=マネージメントという構図は、容易に想像つきますよね。
英国的な笑いっていうと、ギリアムが携わっていた『モンティパイソン』も、割と苦手なんですよ。スノッブでしょ。あれを面白がれないのは、自分がダメなのかなとも思うのですが、自信を持って面白いとは言えない自分がいます。

K:ビートルズの『マジカル・ミステリー・ツアー』も、本質的な部分では、今ひとつ楽しめませんでした。

でもこの『ゼロの未来』は、すごく英国的な笑いというわけでもないような気がしました。
むしろタランティーノや、一世風靡したミラマックスで撮ってるアメリカンインディーズの監督に近い笑いのツボを感じました。

T:デイヴィッド・ボウイではないけれど、1984的な‘big brother is watching you’といった監視され、コントロールされ、知らず知らず自分がツールになっている世界観は未来社会を思い描くとき、常にありますよね。冷戦時代にはイデオロギーの対立がその底流だったろうけれど、現在はヴァーチャルなSNSのあり方への危惧があるように思います。
川野君がいっているマジカルミステリーツアーからジョージともつながりの深いモンティパイソンといったはにかみと裏腹の過剰さといった感覚は英国には確かにありますね。マジカルミステリーの中でビートルズが白い燕尾服着て慇懃な会釈を繰り返している感じを思い浮かべます。シニカルであり、恥じらいもあり、それを大げさに演じる感じですか。私は嫌いではありません。

A:米国人ギリアムが英国にひかれ、でも距離を持ち、今またこういうもの撮っている点も私は面白いと思うんですね。アメリカ人としてアメリカの夢に絶望したこと、自分はアメリカのまっすぐな道より英国的ワインディングロードが性に合っていると昔、『未来世紀ブラジル』での来日時に取材した時、語っていて印象的だった。今回の映画はそんな彼の根底にある感性を感じさせる。イギリスに来てパイソンの中にいても、英国人になれたのではなく、むしろ異国の米国人としてここでもまた違和感を感じざるを得ないという、まあアウトサイダーとしての生き方が映画を支えているのだと、いまさらながらに思います。
反骨の人なのだが、脳天気なくらいに自分への確信をもっているようで実は、米国時代にはコマーシャル・アートに身をおいて、譲歩を知らないわけではきっとない、そういう背景ゆえに、バトル・オブ・ブラジルの折の爆発みたいに管理統制されることへの反発もあるのかしらと、質問とはちょっとずれますが興味深いところです。

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A:建築や家具、街の整備の仕方等々も含め“レトロ・フューチャー”とか一時、はやりましたがリドリー・スコット『ブレードランナー』との差異は何でしょう?

N:『ブレードランナー』の美術監督は製作途中からインダストリアル・デザイナーの巨匠シド・ミードなので、リドリー・スコットというよりは、シド・ミードのカラーが色濃く出ていると思います。特にマシーンや小道具などシド・ミードは超リアリズム主義なので、テリー・ギリアムの遊び心あふれるレトロフューチャーなデザインとは対極かもしれません。そんなシド・ミードの世界観に、雨や夜の設定とネオン管やスモークなどを駆使したリドリー・スコットの幻想的な演出が交わって『ブレードランナー』では見事な化学反応を起こしています。今回の『ゼロの未来』での街のPOPで猥雑なシーンは、色味は違いますが『ブレードランナー』の街と通ずるところはありました。個人的にはこのPOPな街のシーンが一番ワクワクしました。

K:世間的に評価が高いのに、個人的に苦手な作品の代表が、『未来世紀ブラジル』と『ブレードランナー』です。
SF好きじゃないという本質もあります。大概のSFには、何故かハマれないって感じなんですよね。

T:『ブレードランナー』は私にとってはやはり統合前の香港みたいなアジア的猥雑さを感じたけれど、ギリアムは秋葉原を今回のゼロではインスピレーションにしているといっていますね。ディストピアの持つ文明の果ての感じや強さなくして生き抜けない感じは、西洋の文明とは違うアジア的な混沌みたいな要素としてレトロフューチャーの中にみいだせますね。『ブレードランナー』の世界観の方がよりハードボイルドだしクールな感じが私はします。ギリアムの方がpopだろうがアメリカ的なpopとは一線を画しているのがギリアムの立ち位置と重なる気がします。キッチュぽさを感じます。
今回のゼロの主人公が自分の城(西洋文明的な古い教会)から、たくさんの鍵を開け、外界に踏み出す時の一大事感は、安全地帯のホテルからアジアの街(ギリアムにとっては秋葉原)に踏み出す時の感じを思い起こさせますね(笑)

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A:メイキングによると今回、ルーマニアのブカレストでロケし、また50年代から残る撮影スタジオに教会(東方教会のイコンや十字架と英国国教会の祭壇とを合わせたデザインにした)のセットを建てて撮影した、また旧東独出身の現代画家ネオ・ラウチを参照したということで、旧共産圏のリアリズムや威圧的な大きさ(『グランド・ブダペスト・ホテル』にもちょっとありましたが)とミッドセンチュリー的モダンの崩しのようなものとを合わせた懐かしさの処理の仕方に面白さがありますね。

Neo Rauch, Über den Dächern, 2014, oil on canvas, 98 1/2 x 118 1/8 inches (courtesy Galerie EIGEN + ART Leipzig/Berlin and David Zwirner, New York/London)
Neo Rauch, Über den Dächern, 2014, oil on canvas, 98 1/2 x 118 1/8 inches (courtesy Galerie EIGEN + ART Leipzig/Berlin and David Zwirner, New York/London)

あと衣裳では予算節約の意味もありシャワーカーテンや中国市場にあった生地を利用して”未来”のチープな意匠を工夫したという。

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T:マット・デイモン演じるマネージャーのソファにとけこんだスーツとかすごかった。
次に出てくる所ではカーテンと一緒で背景と融け込んでいてね。

N:なんだ、着替えてるじゃないって。

A:ともかく様々な要素のまぜあわせが、ギリアムの基本だと思うのですが、スコットの場合は、名古屋さんも仰るように『ブレードランナー』のハードボイルド探偵世界(これは『12モンキーズ』も書いた脚本のデヴィッド・ピープルズの世界でもあると思うけれど)への嗜好がまずあって、シド・ミードのデザインがあり、それらを実現する上での完璧さの追求が画面を支配する。これに対してギリアムは完璧さを出さない、むしろ粗雑さを芯とするようなヴィジュアル世界をもつ、イラストレーター時代の作品にもある感覚、そこの違いが映画にも出ていて面白いと思います。彼のイラストやアニメーションの独特のテイストは必ずしも好きの範疇ではないのですが。

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A:縞模様の灰色のパジャマがナチ収容所の制服に通じると、意図したわけではないが結果的にそうなったとプレスブックでギリアムは発言していますが、意図してないのかなあ、というのもコーエンという名前のユダヤ性を強調するように名前の言い直しが繰り返され、ビーチのボールをふわふわと突く、それが最後は太陽になるけれど、やはりチャップリン『独裁者』のヒットラーの地球もてあそびが思い出される、暴力的管理社会の寓話的モチーフのひとつとして興味深かった。もちろん、キリストを思わせるボブとマネージャーの父子関係もいっぽうにはあり、カオスにすいこまれる部分なんてふと丹波哲郎みているのだろうかと思わなくもないなんて、そこはいいすぎでしょうか宗教的言及も意外とまじめにやっている。というかひとつのテーマとして無と神といったものもあるのでしょうね。そのあたりがリドリー・スコットのきんとした美学に対して、やはりミネソタ出身の(コーエン兄弟もミネソタですが)洗練され過ぎないものを残している感覚、まじめさ、捨てきれないアメリカ中西部性として見逃せない気もします。

A:ギリアムのものに限らず未来社会を描いた映画で好きなもの、記憶に刻まれているものは?日本、フランスとSFのお国柄に関してはどうでしょう。自分はここに近いというのがありますか?

T:『2001年宇宙の旅』はベタですけれど好きです。

K:先に言ったように、SF自体があまり好きではないんですが、しいて上げるならばという作品になります。
『アルファビル』『華氏451』といった60年代の近未来SFは、面白かったです。モノクロで無機質な『アルファビル』の高速道路は、よく覚えています。

アメリカ映画ですと、やはり初期の『猿の惑星』は衝撃的でしたね。

英国的だと、これもメジャーですが、ニコラス・ローグの『地球に落ちて来た男』ですね。この映画も、実はストーリー自体は大した事ないのですが。テーマははっきりしていますし、ボウイの魅力と合わせてですが、心に刻まれるものは、強いと思います。
最近の作品だと、絶賛は出来ませんが、『クラウドアトラス』で描かれる世界には、時空を超えていると概念も含めて、面白さを感じました。
日本映画だとなかなかしっかりと近未来を描く作品というのには、出会えないですね。すぐに思い当たる作品はありません。日本の場合には、予算の都合もあり、なかなかSFは難しいです
特にアメリカ映画の物量作戦のようなSF映画を見てしまうと、見た目は何も変わっていないゴダールのような近未来SFの方が、面白くて、見応えがあると思います。

A:『地球に落ちて来た男』はボウイの美しいエイリアンぶりにも増して時と記憶、その流れと澱みに翻弄される人という存在の寂しさをめぐるニコラス・ローグの眼差しが好きでした。すっかり忘れていたんですが見直してみるとボウイが隔離される部屋の、森の壁紙に埋もれた扉を開いて――という件りがあって、ひょっとしたらこれはレオス・カラックス自身が登場する『ホーリー・モーターズ』のすべり出しの一景と繋がっていたりもするのではと空想したくなった。そういえば『汚れた血』もハレー彗星の接近で気温が上昇するパリ、愛のないセックスで蔓延する病、その特効薬盗難事件とノワール仕立てにSF風味が染みている。

N:僕は圧倒的に『ブレードランナー』なんです。VIDEOやDVDを含めると50回以上は見ています。様々なシーンが記憶に刻まれています。個人的には『ブレードランナー』はSFというより、ハード・ボイルドのジャンルに入るのですが。。
テリー・ギリアム作品以外で好きな未来社会モノは『時計仕掛けのオレンジ』『THX1138』。

日本で未来社会を描いた映画なら、実写でなく先ほども言ったように『攻殻機動隊』や『AKIRA』などのアニメーション作品を見るべきです。


日本の実写SFがいまいちなのは予算や人材の問題も大きいと思います。『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で同時上映された『巨神兵東京に現る』は、庵野秀明・鈴木敏夫制作、樋口真嗣監督の約10分の短編ですが、実写特撮SF映画としてはアイデアもあって迫力満点でした。
フランスも映画より、漫画の『MOEBIUS』が好みです。あの静寂でいて浮遊感あるイラストは大友克洋にも影響を与えました。そんな点でも漫画やアニメの世界では日本とフランスは共鳴しあっているんでしょう。昔初めてMOEBIUSの画集を見たときは本当にショックでした。
でも、『2001年宇宙の旅』のスタンリー・キューブリックを始めリドリー・スコットもいますし、幼少の頃に影響受けた『サンダーバード』や『謎の円盤UFO』などを作ったジェリー・アンダーソン、SFの父H.G.ウェルズ、やはりSFといえばイギリスの印象が強いです。

K:『ブレードランナー』は『地球に落ちて来た男』と二本立てで見たな、そしたら『地球に落ちて来た男』の方がかっこよくて。。。

N:そうかなあ あれ、ニコラス・ローグの中では一番ダメなんですよ(笑)
『ブレードランナー』はランナーつながりで名画座で『炎のランナー』といっしょにやってて、『炎のランナー』が終わると客が全員いなくなっちゃうの。ターゲットじゃないよって感じで。

T:確かにリドリー・スコットはギリアムとはちょっと違うと思った。ギリアムはストーリー的には自分の話だよね。『ブレードランナー』はやっぱりハードボイルドなんじゃないの? 設定、ストーリーとしてはね。

K:ハリソン・フォードでしょ、あの頃のハリソン・フォードってスティーブ・マックィーンをへたくそにしたみたいでね、超ワンパターン。

N:その棒読みのナレーションとかがブレードランナーは効いてるんですよ。
あれを演技っぽくやっちゃうとすごくクサくてだめな映画になっちゃうんですよ。

A:昔のフィルムノワールもけっこう棒読みっぽい。

N:そうそう。それが雰囲気ばっちりだった。あと音楽バンゲリスだったし(『炎のランナー』との二本立てはバンゲリスつながりだったわけか。。。)。嫌いじゃない要素がいっぱい。

T:川野くんはSF嫌いなの?

K:『2001年宇宙の旅』もだめなんだよ。眠くなっちゃって。キューブリックはあれ、『現金に体を脹れ』は好き、あと最後の『アイズ ワイド シャット』。

N:川野さんはスタイリッシュなところが画面にないとだめなんですよ..
ストーリーや画面にちょっとファッショナブルな所が必要ですね.

T:スタイリッシュにくせがあるから

A:でも『ブレードランナー』も一応スタイリッシュな映画ってなってますよね。

N:でもちょっと違うんですねえ。

K:SFじゃないけどリドリー・スコットでは『悪の法則は面白かった、珍しくね。

T:川野くんがだめってところをもう少し掘り下げてみたいですね(笑)

K:SFの描き方って、フランス映画のように、個々の考える未来を、象徴的に、なおかつ内省的に表現する手法もあれば、ハリウッド的なティピカルな未来イメージで、より多くの方に訴える目的の映画もありますよね。
後者も作品によるんですが、僕はやはり前者の方が好きです。
今回の作品でも、テリー・ギリアムは、アイデアも演出力も素晴らしいと思います。彼の世界観は確立されています。後はそこにジョイン出来るのか出来ないかのかだと思います。
ギリアムは、すごくひねり過ぎちゃっているというか、変化球過ぎてしまい、映画の本質的な部分の強さが、ボケて見えてしまう危惧を、今回は感じました。
逆にそのひねりが面白い方には、とことんハマれる映画なのかもしれません。

『ゼロの未来』配給ショウゲート5月16日よりYEBISU GARDEN CINEMA、新宿武蔵野館他にてロードショー
原題:The Zero Theorem 公式サイト:www.zeronomirai.com

CINEMA DISCUSSION -10 (part1) /”JIMI:栄光への軌跡”~Jimi Hendrix in swinging London

©AIBMS, LLC 2014 ALL RIGHTS RESERVED 
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新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッションも、今回で10回目となりました。
今回は、私たちが紹介していきたいと考えている世界=MUSIC×CINEMA×FASHIONを象徴的に描いた作品が2本相次いで公開されますので、前後半に分けて、2作品を比較しながら、紹介する事にしました。
その2作品は、共に偉大な黒人ミュージシャンを描いたアンソロジードラマ『JIMI:栄光への軌跡』と、『ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男』です。
『JIMI:栄光への軌跡』では、ジミヘンことジミ・ヘンドリックスがスターダムに上っていく1966~67年の姿が描かれ、『ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男』では、JBことジェームス・ブラウンの波瀾万丈な一生が描かれています。
今回はpart1として、公開が早い『JIMI:栄光への軌跡』を、ご紹介します。
ディスカッションメンバーはいつものように、映画評論家川口敦子をナビゲーターに、名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

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川口敦子(以下A):まず見る前に予想したジミヘンとその時代の描き方と違っていましたか?
また違っていたらどのあたりが違っていましたか?
それは肯定できるものでしたか?

川口哲生(以下T):代表的なbiopicはその主人公の成功の頂点に焦点が置かれると思うが『JIMI:栄光への軌跡』ではアメリカのブレイクの前のロンドンでの2年、そしてタイプの違う3人の女性との関係性にフォーカスしている点が逆に潔くて面白かった。その後のモンタレイやウッドストックのジミヘンがより私たちが見聞きしてきたジミヘンだろうから。そういった意味でいわゆる代表曲でないブルースのカバー曲の再演が、そうした時期のジミヘンや無い物ねだりでブルースを求める60年代後半のロンドンを感じさせる方向で機能していたように思います。

名古屋靖(以下N):ジミヘンは容姿だけでなくその仕草も本人のようで、違和感なく物語に入り込めました。実際もこんな感じの若者だったんだろうなあと納得できる雰囲気も感じてよかったです。
パンフレットのピーター・バラカン氏のインタビューやその他資料に間違いがない限り、ほとんどが実際にあった話なようです。白いストラトキャスターをやりとりするエピソードがさすがに全て真実だとは思いませんが、この高潔なラヴ・ストーリーを象徴する重要なシーンですし否定はしません。

川野正雄(以下M):ジミヘンの細かいバイオについては、実はあまりよく知らなかった。
キースの彼女のエピソードとかは新鮮でしたし、英国で先に火がついたというのも、映画を見て、納得出来ました。
描かれているのが2年間限定の話とは知らなかったので、謎の死まで描かれていると思っていました。
僕の中のジミヘンのイメージは、先日川口君がここで紹介したミック・ハガティがアルバムデザインと、ビデオをディレクションしたベスト盤に依る部分が大きいです。

A:JBも合わせて伝記映画として臨みましたが、それぞれ映画としても予想以上に面白かった。裏返すともしかしたらもう少し退屈な、ただスターの軌跡の光と影を追うみたいな、スターへの興味やその人の面白さだけで見せて、映画としての面白さはないがしろになっているようなもの、つまりありがちな“伝記映画”を予期していたといえるかもしれません。
伝記的な事実とフィクションの部分に関しては、どうですか?
周囲の人間の配し方もそれぞれ興味深いですが、現実の関係に忠実とはいえない部分もあるようですが?

N:キース・リチャーズの彼女とジミヘンのプラトニックで高潔な恋愛。 肌の色や階級など超えられない現実に苦しんだ事で濃密にならなかった絶妙の距離感が最後までジミヘンの心を掴み続けていた彼女ですが、はたして現実で彼女はどこまでジミヘンに入れ込んでいたのでしょう?実際は単にプロデュースごっこが楽しかっただけなのかもしれませんね。

M:キースの彼女との関係性はプラトニックなのかとか、真相はよくわからないですよね。
アニマルズとの関係含めて、英国の音楽シーンと、ジミヘンが密接な関係にあったという事が、非常に良くわかりました。
クリームへの乱入シーンは、映画の中でもハイライトですが、実際にあのような事はあったみたいですね。あそこは『マニッシュ・ボーイ』ではなく、ハウリン・ウルフ最高のファンキーブルース『KILLING FLOOR』を、やって欲しかったですが。

N:あの時、クラプトンは実際に途中でステージから降りたみたいですね。後にジェフ・ベックもジミヘンから「あんたのブルースは気持ちわるい」と指摘され、ブルースからクロスオーバーな方向へ転換して行ったという話を聞いたことがあります。

A:いわゆるアーティストの伝記映画の定型をはみ出す語り方、展開の映画だと思います。66,67年にしぼりこんでブレイク前の知られざる物語に光をあてる。この部分に関してはどんなふうに見ましたか?
因に『JIMI:栄光への軌跡』の監督ジョン・リドリーは、米・ウィスコンシン州出身の黒人で『それでも夜は明ける』の脚本や『スリー・キングス』の原案を担当してきました。目下、米社会のマイノリティへの差別問題にまつわる実在の事件を追うテレビ作品を準備中だそうです。

T:ジミヘンはボブ・ディランとか聞きつつ、アメリカではヒットせず、むしろ無いものねだりのイギリスで「ブラックネス」「ワイルドさ」「ブルース」として評価される。監督は私たちの知っているジミヘンの、私たちの知らないイギリスでの人間関係やその時代性にフォーカスしているように思います。もちろんロンドンだって西インド諸島からの移民についての差別や偏見はあっただろうが、音楽的な世界では許容性、がアメリカの白人に比べ格段に広かったのだと思います。映画もジミヘンの欠けている心を満たすピースとしての異なった女性像を描くことで、人間ジミ・ヘンドリックスを描いている。

N:彼を語る上でどうしてもついて回るドラッグとの関係についてはあえて多くは語らずに、伝説のギター・モンスターになる前の内気な青年の物語は逆に新鮮でした。彼が最も人間らしく、がんばって生きた2年を描いてるのは正解だと思います。

M:根底に黒人問題が色濃くあるように感じました。
世界で初めて黒人が白人と混成グループを結成し、白人が聞くロックを演奏する。
そこにジミヘンの先駆性があった訳で、それまでどの黒人ミュージシャンもやれていない事を、彼はなしえた。
そこに至る過程のドラマや彼の天才性を描くことが、デビュー2年間1966~67年という世界的に音楽の過渡期であった時代性を象徴することになるのではないでしょうか。
人種差別の空気が色濃かった60年代の米国より、モッズカルチャーの流れで、ブラックミュージックへのリスペクトが根付いている英国でのデビューを選んだジミヘンの選択は正解だったと思いますし、その部分にフォーカスする事で、映画的な面白さも増したと思います。
モンタレイ・ポップ・フェスティバル直前までを描いている訳ですが、その後ジミヘンは一気にスターダムを駆け上がり、あっという間に消えてしまう。
最近1969年に開催されたウッドストックのギャラリストが公開されたのを見ると、ジミヘンは、フーを抜いてNO1だったので、驚きました。
でもその翌年の1970年には変死して、ロックスター27歳限界説の27club入りをしてしまう訳で、彼の短い人生で一番充実していた日々を描いているのではないかと思います。
ストーンズのマネージャーだったアンドリュー・オールダムが、ジミヘンをスルーしてしまうエピソードなども、すごく面白かったです。
ストーンズとの交流は、渡英後も濃かったようで、この映像にはキースの彼女ぽい女性も登場します。
ポップミュージックの世界で言うと、1966~67年は、音楽が多様化し始めた非常に重要な時期ですね。
ロックで言えばそれまでのR&Rやビート系のシンプルな音から、サイケデリックなサウンドに変わりつつある時代。
演奏の進化と、録音技術などテクノロジーの進歩が合わさり、新たな音が生まれてきた時期だと思います。
ストーンズでいえば『黒く塗れ!』で、大きくサウンドは変化しました。
映画にも登場するアンドリュー・オールダムは、この頃はストーンズよりスモール・フェイセスを、ストーンズも所属していたデッカレーベルから自分が設立したイミディエートレーベルに移籍させる事で忙しかった筈です。
多分新人の黒人ギタリストにかまっている暇は無かったんだろうなと思います。
レーベルを移籍したスモール・フェイセスも、デッカ時代のモッズ路線から一歩進化した『Itchycoo Park』を、やはり1967年にリリースしています。
映画に出てくるアニマルズなんかは、逆に変革がうまくいかず、苦しんでいたグループだと思います。
こういう音楽の流れの中で、ジミヘン独特のセンスや卓越したテクニックは、自然の流れとして、求められたのではないでしょうか。

A:ブレイク前の短い時間に絞り込んで、本人もそうですが周りの人々のそれぞれのスタンスを丁寧に掬っていくところが映画として面白かった。アメリカへの再上陸、空港に降り立ったところ、モンタレイへと向かう、キャリアの幕が上がるところですとんと映画の幕を下ろすという余韻の差し出し方も、いやみじゃなく決まっていたのではないでしょうか。映画そのものがトリップしているみたいな語り口と編集も然りですね。女性たちのそれぞれの(英国的階級社会への目ものみこんだ)性格付けというあたりも興味深かったです。

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A:60年代、公民権運動、ブラックパワー、スウィンギング・ロンドン等々、時代、対抗文化はたまたファッションといった背景への目もアーティストを描くのと同等のポイントになっているように思いますが、時代の描き方はどうでしょう? この時代の面白さに関してはどう見ていますか?

N:60年代ロンドンの古着屋でのシーンはワクワクしますね。 スウィンギング・ロンドンな感じもファッションも楽しめました。 男の子たちのファッションがいまいち地味だったのが残念でしたが、実際はあの程度だったのかもしれませんね。

M:ミケランジェロ・アントニーニの『欲望』と同時代の1966~67年にフォーカスしている為、スウィンギング・ロンドンの演出を随所から感じられました。

ビートニク映画祭の『スウィンギング・ロンドン1&2』には、ジミヘンも登場していましたが、この映画とも重なってきます。
僕も古着の試着のシーンは、すごく好きです。ミック・ジャガーの弟のショップだったなんていうエピソードもありますが。
彼のファッションセンスは独特で、多分他の人が真似ても似合わない。でも彼のある種派手で、ゴージャスに見えるスタイルは、カリスマ的な雰囲気を醸し出していると思います。
マカオのハードロックホテルのカジノに、ジミヘンを象徴するような彼のベストが展示してありました。
そのサイズの小ささにちょっと驚いたのですが、サイケな感じの色使いとか、やはりジミヘン独特のものでした。
ロンドンのクラブマーキーに、ジミヘンとフーなどが出演した貴重な映像があります。
フーの荒々しい演奏もかなりなものですが、ジミヘンの演奏する姿も曲も、すごく格好いいです。
ピーター・バラカン氏が、当時のジミヘンを見たのも、このマーキーでの一連のLIVEだったそうです。

T:リンダなんてまるでデヴィッド・ベーリーの世界感だろうし、タートルネックにジャケット着ているストーンズからブライアン・ジョーンズみたいなファッションの要素の混ざり方になっていく時代だったのでは。サイケデリックがかかってくるころでしょう。フリルとかモールとか、ジミヘンの印象とかぶりますね。
ミリタリーを着ていて迫害されるシーンがありますが、実際にもあったのではないかと思います。

M:この時代アメリカでは、ディランがフォークロック路線を確立し、西海岸ではヒッピーやサイケデリックが登場寸前でした。ジャマイカではスカが生まれ、ラテンではブガルーが誕生するなど、音楽シーン全体が熱く進化していった時期だと思います。
日本ではザ・タイガースが1967年にデビューし、歌謡曲一辺倒だった日本のポップミュージックシーンに、GS=バンドという概念を定着させています。ザ・スパイダースは、ジミヘンのようなミリタリールックを、全員で着たりしていますね。映像を見ると、かまやつひろしさんは、かなりジミヘンを意識している感じで、ジミヘンが最先端のロックを象徴するような存在だったのではないでしょうか。
ブラックミュージックでも、ソウルやR&Bの時代からファンキーソウルに変わっていった時期ですね。次回取り上げるジェームス・ブラウンは、1967年『COLD SWEAT』で、ファンキーな彼独自のリズムを確立しています。
そういった世界的な音楽の新しい潮流が集結していたのが、当時のロンドンなのではないかと思います。
ロンドンという土地と時代が、ジミヘンのようなカリスマの登場を求めていたのではないでしょうか。
映画では描かれていない米国に戻ってからは、サイケデリックなサンフランシスコを中心にしたムーヴメントが起こってきて、彼と共に当時のロックシーンは動いていたような感もあります。

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A:映画内での楽曲は、遺族の許可を得られず本人の曲を使えないという不自由があったようです。それを逆手にとる部分も感じられませんか?

N:音楽家の自伝物で、演奏シーンがこれだけ少ないのにこんなに引き込まれる映画も珍しいですね。その分、クラプトンとの初セッションやビートルズの前での演奏のシーンは見ているこちらも興奮しました。
演奏前、アンプにギターのプラグを挿すところは個人的にとても好きなシーンで、何度見てもドキドキします。このシーンだけでこれが良い音楽映画なことが分かります。
ジミヘンに扮した主人公アンドレ・ベンジャミンの弾く姿もワディ・ワクテルのギター演奏も素晴らしかった。

M:最後もビートルズのカバーで、原曲使えずしまいですが、特に違和感はなかったです。これがモンタレイ以降も描くのなら、ちょっと厳しかったかもしれません。
カバー中心だが、楽曲というより、その演奏力にフォーカスしているので、楽曲の差はあまり気にならない。当然オリジナルのメジャー曲があった方が盛り上がるが、カバー中心の劇中曲の演奏力も高いですし、問題ないですね。
JBに比較すると極端にLIVEシーンは少ないですし、彼が開発した独特の機材を使いこなす奏法~ファズやワウペダル、エフェクターなどに関する描写もないのは、あえてその領域に踏み込まないという演出の判断ではないかと思います。
ただ先ほどのマーキーでの実際の演奏などを見ると、『PURPLE HAZE』が相当格好いいので、もし使っていたら、もっとテンションが上がる映画になっていたかもしれません。

A:ガールフレンドへの暴力の部分が存命の彼女から事実と違うと抗議されているようですが、伝記的な整合性に執着せず、また知られざる存在だったジミヘンを不在の中心みたいに置いてむしろ往時の紫の煙の中にいるような経験を押し出しているのが面白いですね。

T:音楽的に言えば、アメリカで売れるためにはスライ&ザ・ファミリー・ストーンやプリンスみたいに黒人でもロック的なアプローチが必要なのかもしれない。映画で描かれているジミヘンを見出したリンダは彼のブルースの演奏が好きで、売れ線の音楽はやめてブルースを、みたいなスタンスだったそうです。一方ジミヘンはロンドンを経てモンタレイ、ウッドストックでアメリカでは評価される。でも逆にハウリン・ウルフとかが「白人と組んで金儲けしている」と批判したようにアメリカでは白人向けロックスターで裏切り者という評価もあるから皮肉ですね。

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A:有名なエピソードが幾つも描かれていますが、知っていたエピソードはありますか?
また主演のアンドレ・ベンジャミンのイメージは、ジミヘンのイメージと重なっていましたか?

N:知っているエピソード、結構ありました。昔ピーター・バラカン氏がどこかの雑誌のインタビューで、彼が18歳の頃にロンドンのライヴハウスで売り出し中のジミヘンを初めて観たのを読んで、なぜアメリカ人の彼がロンドンで売り出したのか?それをきっかけに書籍やWebで色々調べた事があったので、ほとんどのエピソードは聞いたことがありました。

M:クリームへの乱入は、聞いた事があります。
ギターに火をつけるパフォーマンスは、映画的にはやって欲しかったですね。
サイケデリックのレジェンドになった、小柄で左利きの天才ギタリストとして、主演のアンドレ・ベンジャミンは、イメージ通りでした。

N:アンドレ・ベンジャミンは違和感無かったですね。ラストの空港をメンバーと歩く後ろ姿なんて、まるで本人のようです。

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A:ジミヘンは、どのようなものを音楽シーンに刻んだと思いますか?

N:ジミヘンは肌の色やジャンルなど関係なく、エレクトリック・ギターの可能性を最大限引き出したギタリストです。極論を言えば彼以降は、世のギタリスト全て彼の真似をし続けていると言っても過言ではありません。言いかえれば、彼がいなければロックは無かったか、もしくはもっと違った物になっていたかもしれません。 いい音楽はジャンルを越える事を教えてくれたのもジミヘンです。

T:ジミヘンはジャンルを超えたということでしょうか。ブルース系譜のクラプトンだけでなくクロスオーバーっぽいジェフべックとかにも影響あったんじゃないかな。エレクトリック・マイルス(ディヴィス)にだって。

M:サイケデリックロック。ブラックロック。ギターロック。
それら全てのファンデーション。

A:この作品の一番の見所は、どの辺になりますか?

M:ブラックロックが生まれる瞬間。
1966~67年のロンドンの熱気。

N:キースの彼女との恋愛物語。

T:音楽Xファッションでの当時のロンドンの熱気みたいなところ。そして前にも言ったけれどタイプが違うジミヘンの周りの女性たちとの関係性からの新たなジミヘン像。

A:大西洋の両岸を結ぶ横へのつながり、50年代のビート、60年代ディランらのフォークといった縦の(時代的)つながり――と、去年このディスカッションでとりあげた映画とももう一度、比べたくなる赤い糸(笑)の面白さもありますよね。

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A:このようなバイオ映画として、取り上げて欲しいアーティストはいますか?

N:ルー・リードとかですかね。晩年のパートナーがローリー・アンダーソンだったり、アンディ・ウォーホルやニコも出てくる。

T:マーク・ボラン。

A:イギー・ポップとかパティ・スミス。パティ・スミスは、確かテレヴィジョンのトム・ヴァーレーンの元恋人でしょ。サム・シェパードとの再会がぐっとくるドキュメンタリーばなれしたドキュメンタリー『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』も最高でしたが、シャルロット・ゲンスブール主演の伝記映画っていうの撮ってほしいなあ。

M:生きている人は、遠慮が出てしまうと、難しそうですね。
ジョニー・サンダースや、マルコム・マクラーレン。
色々伝説があるし、マルコムならファッション含めてとか。
それとザ・フーのドラムだったキース・ムーンとかかな。

N:キース・ムーンは、プレイもプライベートも目茶苦茶な人だったから、面白いかもしれませんね。

『JIMI:栄光への軌跡』
4月11日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷、有楽町スバル座、
新宿武蔵野館(レイトショー)ほか全国公開中。

5月になりましたら、CINEMA DISCUSSION 10 PART2として、『ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男』を取り上げる予定です。