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Cinema Discussion-20/ROCK AND POEM by JARMUSCH

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

新作映画を複数の視点からとらえ、映画評論の新しい手法を考えようとしてスタートしたセルクル・ルージュのシネマ・ディスカッション第20回は、ジム・ジャームッシュ監督の新作2本です。
ジム・ジャームッシュ監督の前作『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を、シネマ・ディスカッション第3回で取り上げていますので、2回目の紹介になります。
今回ご紹介する2作品『パターソン』と、イギー・ポップのドキュメンタリー『ギミー・デンジャー』は、ジャームッシュの文学的な一面と、ロックな一面という対照的な表情の作品となっていますので、是非両作品を見比べていただきたいと思っています。
メンバーは映画評論家の川口敦子をナビゲーターに、いつものように名古屋靖、川口哲生、川野正雄の4名です。

★『パターソン』は『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』から4年目のジム・ジャームッシュの新作ですが、前作と比較しつつまずはどんな感想を?

名古屋靖(以下N):見終わった後の余韻が何とも魅力で好きな映画です。 前回と比較すると、今回のあまり起伏のない反復の映像は初期のジャームッシュらしい作品になっていて個人的には「ありがとう。」という感じです。

川野正雄(以下M):非常に淡々としている描写で、ヴァンパイヤを扱った前作とは全く違う印象でした。
ジャームッシュの作品としては、かつてない位に静かで、大きな事件は起きない作品ですね。日常を切り取るという意味では『コーヒー&シガレッツ』がありますが、あのようなオフビート感覚もない。
ジャームッシュとしてはかなりの静の映画で、少し新たな領域に入ってきた感があります。

川口哲生(以下T):『パターソン』は前作のティルダ・スウィントンや初期のジョン・ルーリーやトム・ウェイツみたいに主演に、こちらサイド(自分の範疇)を匂わせる人もいず、それだけで観てみたいと思わせる映画ではないですね。また前作のヴァンパイア、モロッコというドラマチックなセッティングもない、アメリカの一都市での淡々とした生活を描いています。
それでも、オープニングの主人公の朝のルーティン、朝食のシーンから、カップやスタンドの傘に描かれたサークルとか、いかにもジャームッシュ的な「わかるかな?」がちりばめられていてニヤリとしました。

川口敦子(以下A):前作がヴァンパイアものだからまあ当然といえば当然だけど、夜の映画として記憶に残っているのに対し、『パターソン』は昼の、彼が運転する循環バスの車窓を通過していく景色と音、それが昼にみた夢みたいに全篇に響いていくような部分がとりわけ印象に残っています。もちろん一週間の毎日を列ねていく、そのルーティンと変奏の面白さもあり、さらにはパターソンという町にまつわる記事を集めた”名声の壁”のあるバーに集う面々との夜ごとの密やかな“ドラマ(になら成りきれないそれ)”も面白いけれど、前作との比較でいうと昼の映画というのかな、そこにある夢の感触にとても惹かれました。

★巡回バスの運転手として日々働きながら詩を書く主人公パターソンは、アマチュア(愛のために何かをする人)、ディレッタント(楽しみのために何かをする人)という、普通はネガティブに使われる言葉をいらない価値に惑わされない創作の要とするジャームッシュならではのキャラクターですが、この主人公についてはどう見ましたか?

T:セルクルルージュ的ですね。笑
大きな資本の原理(利潤や効率)とは違うヴァンパイア的生き残り方ですね。笑

M:バス運転手をしながら詩人という彼の生き方は、ある意味ロックミュージシャンぽいなと感じました。パターソンという人間の深い内面性までは描いていないようにも思えるのですが、アダム・ドライバーのキャラと相まって、なかなか魅力的なキャラクターに造形されたと思います。
バスのトラブル時の彼の処理、バーのトラブル時の対応など、ちょっと骨っぽい部分があるというのも、うまく見せていたと思います。単なるへなちょこなポエム野郎ではないぞという感じです。

A:骨っぽさといえば、海兵隊時代の写真がちらりと背景に切り取られたりして、バーでの”事件”におおっと機敏に対応する、というか身体が動いてしまうという部分がさらりと描かれていて興味深かったですね。ジャームッシュは演じるアダム・ドライバー自身が9.11の後、海兵隊に入り、負傷して退役しジュリアードで演劇を学び、軍人向けに公演する劇団を運営したという経歴をもっている点、いわば文武両道な過去にすごく興味をもったようで、それをふまえた静かな人パターソンの内面、もしかしたら戦場体験を経たこととか――を、あの小さいけれど大いに気になる場面に託したりしているんじゃないかなあ。戦争によるトラウマなんて所まではあざとく描いたりはしていませんが、何かあったのかなと感じようと思えば感じられる挿話になっていて、それが日々を淡々と送り、詩を書く静かな暮らしの裡に蠢く何かだったりするのかなあと。
もちろん、ジャームッシュ自身のアマチュア、ディレッタントへの共感がパターソンを魅力的にしている。ジャームッシュ自身が詩人をめざしていたこともあって、とりわけ愛着のある人物として描かれていますね。私はこの映画をみて彼の長編デビュー作『パーマネント・ヴァケーション』をすごく懐かしく想起し、見直したくなりました。あの映画の主人公のニューヨークのストリートを漂流している詩青年。仕事もなく日々を漂うようにやり過ごすかっこつけた若者のパーマネントなバケーションとしての生き方、あの船出のラストの後に来たものをパターソンはちょっと思わせたりもして。さっきもいったバスを運転しながらの夢想空間というのかな、あの時空、つまりは詩の時空を確保、そこで漂流者でいるために、彼は規則正しく日常の日々を繰り返し、定職を勤め上げる。大人になったジャームッシュ映画なんていってしまうと興ざめですが、そういう逆転、アウトサイダーであるためのインサイダーとしての毎日、ストレンジャーで居続けるための定住・定職みたいなことを考えさせられました。

N:アメリカ人のごく一般層のちょっとだけ下の方で、何かが少しだけ足りてないけど、寡黙に与えられた仕事を楽しみ、アマチュアだけど詩人であることに喜びを感じ、大好きな妻だからたまに我慢もするけれどそれは苦痛じゃない。そんな毎日を幸せに生きている。日常生活では口下手でも、美しいフレーズにときめきながら密かに詩を綴る主人公は純粋でとても魅力的に見えます。

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★彼の住む町パターソンについては?
N:ニュージャージー州北部に実在するパターソンは、映画にも登場する滝「グレートフォールズ」の水力発電の恩恵で19世紀から産業が栄えたものの、のちに現代アメリカの問題地帯「ラストベルト」の一端となっている町ですね。 ジャームッシュは前作のデトロイトもそうですが、「終わってる町」を愛情込めて魅力的に撮ってくれます。普通のアメリカ人の普通の日常を身近に感じるにはこんな舞台がリアルで理想的です。 まあでも、実際のパターソンはそんなに治安も良くないと思うので、特別な用事がなければ行きたくはない町ですけど。。。

M:前作がモロッコのマラケシュなどが出て、華やかでしたので、強いインパクトはありませんし、まずパターソンについての予備知識が自分は皆無です。ジャームッシュ作品では、『ブロークン・フラワーズ』で切り取られたような、アメリカのすごく個性的ではないある町という印象です。
この町の持つ時間の流れの緩さが、詩ともつながってくるようなのでパターソンも住んでいるのかと思いました。

T:ニュージャージーのパターソンは、あたりまえにHIP HOP以降のアフロアメリカンの影響化の要素を含みつつ、ダウンタウンの町並みや滝とか、どこかアメリカっぽくないところを感じました。バスの運転手として聞く、乗客の会話に、例えばワーキングクラスの人種を超えた話やら、イタリア系の学生のこの街唯一のコミュニスト気取りみたいな話はステレオタイプだけれど、そんないろいろな混ざり具合を感じさせていますね。

A:ちなみにあのバスでイタリア国王ウンベルト1世を暗殺したパターソン出身のアナーキスト ガエタノ・ブルーシの話をしている少年少女はウェス・アンダーソン監督作『ムーンライズ・キングダム』の主演のふたりなんですね。ジャームッシュはインタビューの中でどんどん無邪気に子供っぽくなっていくアンダーソンの映画が好きと語っています。そういう小さな好きを集めた所もこの映画の妙味だと思いますね。ジャームッシュがアンダーソンを好きというのもうれしいし。
パターソンという町は人種が多様な移民の町で、ローラもそうだけど、中東系移民も多く、そのことでトランプが9.11の後にこの町を名指しで問題発言したのだとか。
もちろん映画の中でも触れられている医者で詩人のウィリアム・カーロス・ウィリアムズの長詩「パターソン」が背後にはあるわけで、にわか勉強したところ、ウィリアムズは自叙伝(思潮社)の中でこんなふうにいってます。
「単に鳥や花を謳うのではなく、もっと大きい詩を書いていきたいなら、僕のまわりの身近な人たちのことを書かなければと思っていた。細部にわたり精細に知りたかった――人々の目の白いところ、まさに体臭にいたるまで。
それこそが詩人の仕事である。漠然としたカテゴリーで語るのでなく、個物を書いていくこと、ちょうど医者が患者に、眼前の対象に働きかけて、個物の中に普遍を発見していくように。(中略) ぼくはこの都市を僕の追究すべき「症例」として、まさに丹念にそれを仕上げていくために取り上げた」「都市であり人であるパターソンが発見される」
「事物をよそに観念は存在しない」No ideas but in thingsということもすごく強調されていて、ジャームッシュの映画はそんなウィリアムズの詩への思いを誠実に尊重して映画化しているとも思いました。

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★毎晩通うバーにたむろする面々、愛犬マーヴィン、バス会社の愚痴の覆い同僚等々、周囲のキャラクターで印象に残ったものは? ラッパーに少女に日本から来たウィリアム・カーロス・ウィリアムズのファンと詩人もたくさん登場しますが?

M:愛犬のマーヴィンは素晴らしいですが、授賞式前に亡くなったのは残念です。一般的に理解度が低いと言われる短頭系のブルドッグで、あれだけ表情のある演技が出来るのが素晴らしいです。
出番は少なくても、バーに現れるカップルや、バス会社の同僚などは、ジャームッシュらしいスパイスの効いたキャラクターですね。息抜きというか、映画のオフビートな部分を象徴していると感じました。
永瀬正敏君については、唐突感もありますが、重要な役どころで、この作品で彼を起用したジャームッシュの想いみたいな部分を感じました。当て書きであったというジャームッシュのインタビューを読み、納得するものがありましたし、素敵なシーンだったと思います。
A:「コーヒー&シガレッツ」によく出てると思いますが人と人とのやりとりのスケッチ的なおかしさ、おもむき、間・・・といったものを活かすのがジャームッシュはうまいし、好きなんでしょうね。
バスの乗客たち、バーの常連たち、そこに一緒にいてくすっと笑っているような気になりますね。あとちょっと違いますが双子たちも妙で面白かった。

N:ジム・ジャームッシュ新喜劇って感じ。(笑) さっきも言いましたが、お金とか、温もりとか、賢さとか、何かが少しだけ足りてないけど魅力的なキャラクターたちが満載ですよね。またそれが主人公のシンプルさを際立たせています。
愛犬のマーヴィンもそうですが、登場人物は全て「いい人」か「憎めない人」ばかり。そのおかげで主人公は日常のあらゆるモノからインスピレーションを受けていて、それが「詩」の源泉になっている。彼らのおかげで毎日幸せそうです。
印象に残ったのは、フラれて傷心のエヴェレット。いちいち言うセリフはかっこいいんだけど、やること全てカッコ悪い。(笑)
あとやはり永瀬正敏は良かったです。大阪から来た日本人の日本語英語と最初は最低限しか喋らない主人公の会話が少しずつリズムを持ち出す。「Uh-huh」の意味は結局僕にはわかりませんでしたが、この出会いは主人公に大きな変化をもたらしました。
最後の「詩」で思った僕の勝手な解釈ですが、マーヴィンのエピソードを経たのち、とある詩人と出会えたことで、主人公は「詩」との向き合い方にさらに深みを求めるようになり、だから最後の「詩」はそれまでの彼のものとはまた別のレベルに辿り着いたのだと思いました。
最後の「詩」を綴る場面で、昼間にいつものBARが閉まっている前を主人公が歩くシーンは象徴的で、過去の作品との静かなる決別宣言にも見えました。もっと穿った言い方をすれば、主人公の将来は、地元で有名なウイリアム・C・ウイリアムズを超える偉大な詩人になるかもしれないですよ。とそっと耳打ちされた感じです。

T:淡々とし主人公のパターソンと対極的なバーのマスターのドクや眼鏡の未練がましい男エヴァレットとかの絡みは単調さのなかでアクセントになっていました。イギィーの話も織り交ぜてね。
永瀬演じる詩人とのシーンは「新たな可能性」「再生」への大事なシーンですね。日本人としてはちょっと永瀬にたいしてのイメージが邪魔になっていると感じている自分もいましたが。

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★日常の坦々とした反復の中に浮かぶ詩をすくう姿勢が主人公にも、彼をみつめる映画にも見て取れますが、このスタイルに関しては?

M:文学者のエッセイ風な日常にも見えました。
日記というか、日常を描く散文的なエッセイです。

T:私はこの映画を見ながら「habit(習慣)」という言葉が頭の中をぐるぐるしていました。何か昔読んだ言葉だったなあと、気になった言葉を書き抜いているノート(poem bookではないよ笑)を繰っていたら哲学者ジャック・マリタンの『芸術の習慣(ハビット)』というのが出てきました。
「科学者でも農夫でも職人でも、あるいは小説家でも、意識的にであれ、無意識にであれ、その職業の積み重ねによって、生き方の習慣を与えられる。それが彼のその人らしさを作り、また越えがたい困難を、彼に乗り越えさせる力ともなる。キリスト教信者ならば恩寵と呼ぶのではないかと思える仕方で。」
反復のなかにすくい上げる詩人や映画のスタイルにそんなことを想い重ねました。

A:ポール・オースターを原作にしたウェイン・ワン監督の『スモーク』でタバコ屋の店主が毎日、同じ時間に同じ街角で撮る写真。同じに見える写真の一葉一葉に異なる物語がある、ゆっくり見ないとそれが見えてこないといったこととも通じるような。毎日、出かける時にはまっすぐなのに、帰宅する時には傾いている郵便受けの柱、それを毎日、まっすぐに直すパターソン、そこに抱えられた物語とか――。起承転結に追いまくられたドラマと異なる些事/things/具体への目がこの映画の強さだと思います。

★ジャームッシュの映画の系譜の中にある淡々とした日常と人の描写は好き嫌いが分かれるところだとも思いますが、いかがですか? 下手をすると『かもめ食堂』みたいなほっこり感とすれすれの部分もありますが? そうならない違いはどのあたりにあると?

T:結局土台としているもの、生きてきたなかでの好きなこと、音楽等々のベースに流れるダウンビート感でしょうか?

A:私は妻ローラの突飛さの連発ぶりに、ちょっとだけ結果としての表現型は違うけれど、根底にあるものとしてはほっこり系に通じるものを感じて、やや引いてしまいそうになったのですが、それは自分の居場所にあまりに迷いなくほんわかとしていたり、エキセントリックでいたりできる部分への、その迷いなさへの抵抗感かなあと思います。パターソンの淡々、ジャームッシュの映画のそれとの違いはそのあたりにあるのかも。うまく言葉にできないし、ローラもジャームッシュ映画のひとりではあるのですが。

N:同じ一週間の物語でも、コーエン兄弟の『インサイド・ルーイン・デービス』より必然性を感じます。規則的な繰り返しに加え、乗用車より遅い市営バスの速度に合わせたような、ちょっとゆったりめなテンポも心地よかったです。また、そっけないエンディングは秀逸で感動的ですらありました。
物語の中心に「詩」があるのは当然ですが、何かが少しだけ足りてない人々のちょっと変な描写やその場の間や空気感が、彼の映画を観る楽しみの一つでもあり特徴でもあると勝手に思っています。
僕はレイモンド・カーヴァーの短編が好きなんですが、カーヴァーの描くアメリカとジャームッシュの描くそれには共通点があるような気がしてなりません。ごく日常の中に潜む「幽かな歪み」や「ちょっとだけ異様」な人物や事柄を、ギリギリの表現ですが愛情を持って魅力的に観せてくれるところはアーティストとして同じ方向性を感じます。

M:ほっこり感はないですよね。ジャームッシュの映画は、淡々としても低温ではないので、単調にはならないと思います。随所に彼なり仕掛けを施しているように感じています。
そこにリズム感もあるのが、彼らしいと感じています。
荻上直子監督の映画は、やはり女性らしいほっこり感だと思います。新作の『彼らが本気で編むときは、』はちょっと違い、マイノリティやセクシャリティへの視線などは、逆にジャームッシュ的だと思いました。
ほっこり感というのは、自分的には退屈と紙一重と思っています。

★手書きの詩がスクリーン上に書きつけられたり、詩を読む声が重ねられたり、映画で詩を表現する上でのジャームッシュの方法はいかがですか?
N:英語の聞き取りが苦手は自分にはとても助かりました。(笑)
「詩」はその姿も大事ですので、スクリーン上の書きつけは効果的でした。

T:私にはすごくパターソンの心情の表現として有効でした。主張しない、内向的な彼と表現する時の彼の、声のトーンの違いや味のある文字はパターソンの「表現者として生きている時間」を感じさせました。

M:これは大河ドラマ的だなと(笑)。『清盛』とかですと、西行や鳥羽上皇の詠む詩が、書き文字で画面に表れてきました。漢字を見るとより理解しやすいので、いい演出と思ってました。
ジャームッシュが『清盛』見ているとは思いませんが、詩の表現手段として、とても伝わりやすいですね。英語でも改めて文字で見る事で、伝わってくる部分がありました。

A:ベルトルッチの『魅せられて』の時にスクリーン上の手書きの文字の表現力が詩的にせまってきた。それに通じる清新さを感じます。声があって詩があるってところはビートへと通じていく部分でもありそうですね。

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★今回自らも参加してアンビエントな音楽をつかっていますがそれについては?

M:特に強い印象はありませんが、今回はこっちの方向なんだなと理解しました。
サウンドの深みみたいな部分は、映像の中からでも強く感じました。

T:パターソンの心象の表現とはマッチしていたと思うけれど、他の選曲された曲の方が印象が強かった様にも思います。奥さんのローラの不思議なキャラと絡まったちょっとアラブっぽい曲調やお得意のバーとかでの選曲です。

A:違うとは思うのですがここでもジョン・ルーリーと共に自ら音楽を手がけた『パーマネント・バケーション』の時の、スティール・ドラムを使った音楽、というかその使い方を思い出しました。

N:監督本来の趣味とは少し違うとは思いますが、最近アメリカで支持を得ている音楽に、新しいスタイルのフォーク・ミュージックがあります。代表的なバンドとしては、「FLEET FOXES」や「BON IVER」など。ただしフォークと言ってもアコギ一本で歌い上げるのではなく、そのサウンドプロダクションについては多重録音はもちろん、時にはシンセなども使いながらアンビエント的になったりします。この辺を聴き慣れると、このごく日常の映像にアンビエント風な音は違和感ありません。日中のシーンで使われる曲など一聴すると典型的なアンビエントですが、よく聞くと生楽器を多用したインストで「BON IVER」のLIVEを連想させます。ジャームッシュは音楽についてもかなり詳しい人なので、この辺の雰囲気も敏感に察知しているのかもしれません。

★前作につづくカップルのラブストーリーの部分もあると思いますが、このヒロインに関してはいかがですか?

N:彼のように優しくないので僕は無理。(笑)
主人公にとって最も大切な存在なのは彼の表情からすごく伝わってきます。

M:彼女のキャラクターは、少しとらえどころが無かったです。いい意味でパターソンのよきパートナーであるなとは思いました。パターソンが彼女と付き合う理由というのは、垣間見れました。正反対なキャラクターのカップルというのが、長続きする秘訣みたいな。お弁当のエピソードとかは、いいですね。

T:パターソンの淡々さとローラのエキセントリックさ(オレンジやパンケーキ?)は際立っていますね。どこに接点があるんだろうと心配になるくらい。笑
ジャームッシュ自体こういう女性像に引かれるのでは。描かれる女性もいつも強くない?

A:先ほどもいったように、ローラ、可愛いけどこのマイペースぶりにはややついていけないものがあります。スーパー・クールなティルダの超越ぶりの方が好きだなあ・・・。カップルの映画といえば9月末に公開される『ポルト』という映画の製作総指揮をジャームッシュは買って出ているんですね。これがすごくいいです。さっきいった『パーマネント・バケーション』とジャームッシュもお気に入りといってる『ママと娼婦』を合わせたようなって、わかりにくいたとえになりますが、70年代後半のNYインディの映画とポスト・ヌーヴェルヴァーグの映画、どっちにもいたわがままでめんどくさくて切なくクールなヒロインが素敵なの。強引ですがちょっと紹介しておきたかった 笑

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★カップルの配役については? パターソン役のアダム・ドライバーはメジャーからインディまで網羅して活躍中の俳優ですが、彼については? ジャームッシュ映画の俳優たちの流れを振返ってみてどうでしょう?

M:アダム・ドライバーを初めて見たのは『フランシス・ハ』で、『インサイド・ルーウィン・ディヴィス』にも出ていたので、セルクルルージュではおなじみの俳優ですね。スコセッシの『沈黙』や、ノア・アームバックの『ヤング・アダルト・ニューヨーク』など、最近の売れっ子ぶりはすごいですよね。
『沈黙』では、それまで演じて来た比較的彼のキャラクターを生かすような役どころではなく、完全に役を作り込んで演じなくてはならなかったのですが、しっかりとした演技力を兼ね備えている一面を、強く見せてくれたと思います。
ゴルジフテ・ファラハニは『エデン』にも出ていましたが、アダム・ドライバーのパートナーとしては、『フランシス・ハ』の主人公の奔放さと似たようなイメージを持ちました。
アダム・ドライバーの持つ少し低いテンションは、ジョン・ルーリーとも相通じる部分があるように思います。

T:ローラ役のゴルシフテ・ファラニは『エデン』にもでていたんだって?

A:そうなんだ、確認してみます! アダム・ドライバーの受けの芝居のよさが、この役を活かしていますね。芽キャベツのパイへのリアクションとか、絶妙です。滝の前での大阪から来た日本の詩人との場面も然り。沈黙にものいわせますね。演技そのものはそれほど変えていないように見えるのに『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のちゃっかり新人監督の憎み切れない小憎らしさとかも、いかにもで、売れっ子なのもわかる才能ですね。声もいい。

★80年代半ばから、一貫した所にいるジャームッシュとその映画について改めてどんなふうに?

T:ディレタントですね!
個人的には大資本のmassive  bloodyで暴力に満ちていたり、過剰なsexだったり、スペクタクルが満ち満ちている中で、「身の回りになる物事や、日常におけるディテールから出発し、それらに美しさと奥深さを見つける」姿勢は好ましいです。

A:頑固に同じひとつの道をいっていて、それでも新作ごとに見たいと思わせるのはやはりすごいと思います。水の上に書く――って台詞が出てきますがそういう気持ちの潔さが相変わらず映画に響いていて好きです。

M:ジャームッシュのスタイルは、例えば同じ時期に人気の出たスパイク・リーなどに比べると、首尾一貫したぶれないものだと思います。
彼のセンスと、根底に流れる少しダークというか暗い部分、そこにある種のアヴァンギャルドさがうまくリンクした時に、いい作品が生まれていると思います。
インディペンデントな存在ですが、観客を楽しませるという基本的な精神も、兼ね備えています。一時期は低調に思えましたが、ここにきて、また彼本来のスタイルがうまく表現されており、復活感があります。この『パターソン』は、彼のキャリアの中でも上位にくる作品になったと思います。
ジャームッシュって、自分では数少ない全ての作品を見ている監督です。すごく彼のファンというわけではないのですが、彼の作る物は、常に気になるんですね。多分少なからず感性の面で刺激を受けることがあるのだと思いますが、個人的には必見の監督です。

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『パターソン』
ヒューマントラストシネマ有楽町/ヒューマントラストシネマ渋谷/新宿武蔵野館 ほか全国順次公開中

配給:ロングライド
監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
出演:アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ、永瀬正敏、他

LOS ANGELES – MAY 23: Iggy the Stooges (L-R Dave Alexander, Iggy Pop in front, Scott Asheton in back and Ron Asheton) pose for a portrait at Elektra Sound Recorders while making their second album ‘Fun House’ on May 23, 1970 in Los Angeles, California. (Photo by Ed Caraeff/Getty Images)
(c)2016 Low Mind Films Inc

『ギミー・デンジャー』
★これはドキュメンタリーというより、エッセー、バンドに宛てたラヴレターとジャームッシュは語っていますが、ご覧になっていかがですか?

N:僕はストゥージズも、イギー・ポップも、正直そんなに好きではありません。 この映画は呑み屋でジム・ジャームッシュに「ストゥージズはこんなにかっこいいんだぜ!」と熱弁振るわれている感じ。(笑)
その熱意が伝わってくるので「そうかー、ストゥージズは偉大だったんだなー」とつい思ってしまいますが、さて改めてライブラリーからアナログを引っ張り出して聴いたものの最後まで聴けたもんじゃない。(笑)そのくらいストゥージーズを魅力的に見せてくれる映画です。まさにラヴレターですね。好きでたまらないのが画面から伝わってきます。

T:私はイギーは日本公演を見に行くぐらい好きだったけれど、自分の中ではやはり“IDIOT”や”LUST FOR LIFE”のボウイとの蜜月時代のもので、ストゥージズはpunk時代にネタ元として聞いてた感じかな。
その意味で、本当のストゥージズの細かいことは知らなかったし、この映画で確認したという感じですね。

A:私もイギ―・ポップ単独の活動や、ジャームッシュ映画の”珍優”としての彼に興味があったけれど、ジム・オスターバーグ、そしてストゥージズの部分に光をあてる覚悟が一貫しているんですね。

M:ジャームッシュの音楽ドキュメンタリーというと、ニール・ヤングのツアーに密着した『イヤー・オブ・ザ・ホース』ですが、その時とはまた違うアーチストへの思い入れを感じました。
個人的にはイギ―の初来日を、川口君や敦子さんと一緒に日本青年館で見ているし、常に動向が気になるアーチストでした。
しかし持っているアルバムは、ストゥージスのベスト盤に『IDIOT』と、初来日した時のソロなど数枚で、そんなに詳しく知っている訳ではなかった。川口君の言うように、ボウイとの交遊とか、パンクの元ネタみたいな聞き方をしていたので、改めてイギ―・ポップという人を見つめる良い機会になりました。

Gimme Danger (c) Danny FieldsGillian McCain

★Music is Life, Life is not buisinessとイギ―・ポップが発するコメントがジャームッシュ、はたまた『パターソン』との結び目とも思えますが、そのあたりがこの一作に反映されていると感じましたか?

T:よく言えばディレタント?悪く言えばstooge(バカ)?
M:『パターソン』のバーのシーンでもイギ―の話が出てきますが、ジャームッシュはイギ―のロックミュージシャンとしての生き方そのものを、すごくリスペクトしているのではないかと思いました。
割とイギ―が不遇だった時期に『デッドマン』に使ったりして、彼の再評価につなげていったり、ジャームッシュのイギ―に対する視線は常に暖かいと思います。

A:まさにそこなんだと思いますが、ジャームッシュのアメリカ国内での居場所と比べるとイギ―・ポップはもう少しビジネスな感じもしなくはない?
ユル・ブリンナーの『十戒』のファラオが好きで上半身裸のパフォーマンスになったとかって笑えますが。

★ジャームッシュもオハイオ州アクロン出身でそこからNYCに出て行った、米中西部的なものをルーツにしていますが、モータウン、デトロイトのそばだが学生の町だったりと微妙な違いがあるらしいミシガン州アナーバーが、イギ―・ポップとストゥージズの芯とする視点に関してはどう感じましたか?

A:中西部的なもの、アクロンのおじさんたちはボーリング場にたむろして、ゴルフパンツに白いベルトなんかしめてて――とかって取材した時、回想モードの愛をこめつつジャームッシュは毒づいていましたがDEVOとかクリッシー・ハインドとか同じく荒廃したインダストリアル・タウンが生んだ面々にもふれつつ、ニューヨークに出て行った自分がストレンジャーとして得た自由を語る彼の感じは、勝手な思い込みでいえば都下に生まれた私のコンプレックスともちょっと通じるなあと思ったりもしました。
そのあたりの同郷感もこの映画の核心としてあるのでしょうが、いっぽうでアナーバーという町の、ミシガン大学のお膝下で、不遇時代のアルトマンに学生ワークショップで映画を教えつつ撮らせたりしているリベラルな部分、『ギミー・デンジャー』でも学生運動の時代のこととかでてきますが、そのあたりがイギ―・ポップに中西部的なものに加えてどう作用したのか興味深いです。

N:アメリカ中西部出身は、栄えている西海岸や東海岸に対して、確かなコンプレックスを持っています。それが創造のエネルギーとなり、同じ境遇を共有する者同士で仲間意識が生まれやすいのかもしれません。

T:中西部のいかにもアメリカ的価値観に支配された所から、ここまでその価値観からかけ離れた人間がでてくる所に、驚きと肝の据わり方へのリスペクトと、そして純粋に生抜くことの大変さいうことを感じます。高校ぐらいまでの髪分けていたバンド時代からの飛び抜け方。ジャックホワイトとかもいじめられてたらしいよね。

M:その点に関しては、ミシガンやオハイオのイメージが湧かないこともあり、コメントは難しいです。
アクロンというと、DEVOもいたりしますが、東部の田舎のちょっとインテリでアーチスティックな人たちという印象はあります。ブラックミュージック程、値域に対して土着的なルーツ感もないですし、音楽そのものよりも表現方法に入り込んで行くのかなという認識は持ちました。

Gimme Danger (c) Low Mind Films

★60年代を封殺したとかいっているイギ―・ポップについて、これまで、そしてこの映画をみて感じ方は変わりましたか?

N:個人的にイギー・ポップのことは、頭の回転は速いけど「口だけ番長」的な、疑いの目で見てしまっているので、映画を観ても正直全て本心とは思えてないです。でも映画を観続けていると、そんなところも含めて彼の人間臭さが魅力的に見えてきて以前より好感が持てました。
この映画を観終わって思ったのは、イギー・ポップと画家のダリは似ているなあと。一言で言えばフェイクっぽさなんですが、そのフェイクぶりに一本芯が通っているので二人とも本物になれたのかなとも。

M:彼自身の言葉で語られているので、いい面悪い面あると思いますが、ともかく初めて知る事が多かったです。
それと常に正当に評価されない、際モノ扱いみたいな部分は、やはり昔からあったのだなと感じました。逆にサウンド的には非常に進んでいたことも再認識しました。
ストゥージスの曲をこの映画で久々に聞きましたが、パンクの連中のカバー曲より、ソリッドかつへヴィで、すごくいいなと思いました。
MC5との評価の差みたいなエピソードも映画の中にもありましたが、常にイギ―は異端児であったり、B級扱いされる事と、常に戦っていたのではないでしょうか。
初来日の時に、同じ時期に来日していたP.I.Lよりもホテルのグレードが低かった事に嘆いていたというエピソードも昔聞きましたが、彼を再評価する事に、最も役立つのが、この作品のようにも思います。
彼にとっては、過小評価されている意識がずっと付きまとっていたのではないでしょうか。
偉大なるB級みたいな存在で、それが名古屋君のいうフェイク感でもあると思います。
『ベルベット・ゴールドマイン』や『トレインスポッティング』という映画で評価されたことは、彼にとってはすごく嬉しかったのではないでしょうか。
彼のパフォーマンスを初来日ではすごく間近で見ましたが、キレているようで、実はすごく冷静で、計算してパフォーマンスをしている事がわかりました。
クリーンな日本でのステージだからかも知れませんが、彼のクレバーな部分を、リアルに感じた瞬間でした。
今回のインタビュー見ていると、その辺のクレバーな部分を強く感じましたし、まだまだ語り足りないような空気も感じました。過小評価を覆すぞみたいな空気も合わせてですが。

A:作られたラヴ&ピースの60年代に対する70年代と図式化できなかったらしいボウイのマネージャーとの確執、本当はどうだったのか気になります。その意味で、次の質問の答えにもなりますが、ボウイが亡くなる前にコメント提供を申し出たのにテーマの絞り込みのためにことわったというのは美しい挿話ですが、志をちょっと曲げて参加してもらいたかったなあ・・・。

★ソロ活動の部分は捨ててストゥージズの部分にしぼっている点に関しては? コメントもメンバー以外の証言的なものは殆んど除外していますが?

T:ボウイと一緒にヨーロッパに、といったところは描かれているけれど、マネージメントとのトラブル話に終止していますね。ボウイが死んだ時に“David’s friendship was the light of my life. I never met such a brilliant person.He was the best there is”と言っているイギーなのに。逆に言えばジャームッシュのイギーはストゥージズなんだろうね。

M:そこがジャームッシュの拘りなんではないでしょうか。メンバー間にコメント絞ったのも、余計な情報を入れずに、当事者のみの証言でまとめたかったのでないかと思います。
ドキュメンタリー映画として見ると、すごくテンポが良くて、『パターソン』とは違った意味で職人芸でしたね。

N:ジャームッシュはストゥージズのポンコツでパンクなところが、本気でカッコイイ!と思っているのでしょうね。また音楽史的功績という点でも、やはりイギー・ポップよりストゥージズでしょう。
メンバー以外のコメントといえば、ジョーイ・ラモーンくらい。取り上げたエピソードが「クラスでストゥージーズのファンは俺だけだった。」「ライヴ行ったのに俺の好きな1stの曲を一曲もやらなかった、ファック!」最高です。

『ギミー・デンジャー』
新宿シネマカリテほか全国順次公開中
コピーライト: © 2016 Low Mind Films Inc
配給: ロングライド
監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
出演:イギー・ポップ、ロン・アシュトン、スコット・アシュトン、ジェームズ・ウィリアムスンほか

Gimme Danger (c) Joel Brodsky

ローラ・アルバート~『作家、本当のJ.T.リロイ』に訊く

Copyright © 2016 A&E Television Networks and RatPac Documentary Films, LLC. All Rights Reserved.

ガス・ヴァン・サントがカンヌで大賞に輝いた『エレファント』(03年)。その脚本に協力したということでJ.T.リロイという早熟の作家の名を知った。調べると幼児期に誘拐、虐待をかいくぐり11歳で女装の男娼に、18歳で自らの経験を綴った自伝的小説「サラ、神に背いた少年」を発表し時代の寵児となった――と、米各誌が報じるプロフィールを難なく入手できて、注目度の高さを思い知らされた。続いて“彼の”次作「サラ、いつわりの祈り」はアーシア・アルジェントの監督・主演で映画化され05年、映画の公開に合わせてプラチナブロンドの長髪と顔の半分を覆うようなサングラスがトレードマークの美少年J.T.も来日、話題を集めていた。同年秋、ニューヨーク・マガジンがそんな“彼”をめぐる疑惑を報じ、翌年にはニューヨーク・タイムズにJ.T.リロイの小説を書いたのはサンフランシスコ在住の女性ローラ・アルバート40歳との暴露記事が掲載される。数々のセレブリティを魅了した寵児は一転、“捏造された作家”という醜聞の只中に投げ込まれた――。

フィクション/小説を書いた作家が作品以上に注目を集め、世間の目から隠れるために創出した“アバター”がひとり歩きを始めた末に巻き起こったスキャンダル。その先にぽっかりと浮上したひとり、ローラ・アルバート。ドキュメンタリー映画『作家、本当のJ.T.リロイ』は渦中の人ローラが残していた留守電のテープや手書きの草稿等々、膨大な記録の山に分け入って狂気と創作(才能)の交わる所を吟味する。映画は同時にその数奇な生の軌跡を自ら遡り、語りつくして有無を言わせぬストーリーテラーぶりを披露するローラという在り方を凝視してもみせる。キャメラに向かって語るうちに陶然と虚実の境界を無化していく存在の、奇妙に透明な熱さは、パンク大好き少女の頃を凍結したような出で立ちで敢然とこちらを睨み語り続ける目の前のローラとの取材の時間にもひたひたと染み渉っていった。

撮影荒牧耕司

――ル・セルクル・ルージュという私たちのサイトの名前はジャン・ピエール・メルヴィルの『仁義』の原題にちなんでいるんです。

ローラ・アルバート(以下RA)ああ、メルヴィルといえば、彼は稼ぎがないなら旅行作家に戻ればいいと周囲にいわれた時、自分のやり方以外では書けないといったのよね。私がJ.T.として書いた時に感じたこととも通じてる。人が何といおうと別のやり方でするって私にはできなかった。

――あ、作家のメルヴィルですね。「白鯨」の。サイトの名前は映画作家の方のメルヴィルなんですが、彼も自分のやり方でノワールの形を究めた、そこが好きなんです。

RA あ、映画作家のね。そうか、そうなのね(笑)

――『作家、本当のJ.T.リロイ』をとても興味深く見ましたが、あなたについて撮りたいという監督は山といたと思う、その中でなぜジェフ・フォイヤージークのオファーを受けようと思ったのでしょう?

RA セレブリティ信仰とかセンセーショナリズムに惑わされない人が私には必要だったのね。もっと深い物語を語れる人が。躁うつ病を抱えたミューシャン、ダニエル・ジョンストンをめぐる彼のドキュメンタリー『悪魔とダニエル・ジョンストン』を見て、ジェフの興味は狂気と何かを創り出す力、アートの交差する所にあるんだと確信した。誰かが頭の中で別の在り方をするようにアートが舵をとってくれるのではという、そういう部分に関心をもっているんだと。だから彼に託そうと思ったわけ。

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――あなた自身も裡にある一種の狂気を創作上の糧にしている?

RA うん、そうね。つい最近、ドキュメンタリー映画『Crazywise』を見たんだけど、チベットからアフリカまで土着の文化を持つ様々な国を旅した写真家が撮ったものなのね。で、私たちの西洋文明の中では精神病というとまずは専門の施設に収容させるでしょ。投薬されて治療される。だけどそうでない多くの文化圏もあってそこにはシャーマンがいてある種の狂気を活かすことを許されている。私たちの文化の中では多重人格だとか狂ってるとか言われるかもしれないけれど、例えばチベットで聖なる存在はいたこ状態になって降りてくる人の声を語ったりする、別の人格にチャネリングできる、そういう力があるのよね。でも私たちがアーティストとしてそれをしようとするとアメリカの、あるいは西洋の文化は許さないのよ。シャーマンのように狂気を活かすことを許そうとしないの。

――その意味で『悪魔とダニエル・ジョンストン』でも『作家、本当のJ.Y.リロイ』にしても監督はアメリカや西洋文明に蔓延る良識、シャーマンを締め出すような窮屈さを突こうとしている部分もありそうですね。ダニエル・ジョンストンの場合には両親が原理主義的クリスチャンですよね。その規範が息子のアート/狂気を抑えつけ結果として助長したように見えます。あなたの場合はどうでしょう?

RA 私がラッキーだったのは母が彼女自身も劇作家だったから、アーティストとしてむしろノーマルでない部分を伸ばすようにしてくれたってこと。確かに彼女が家に連れてきたボーイフレンドたちが私に対してしたこと(性的な虐待)からは守ってくれなかった。でも私の中にある何かが私の身体を通して語ろうとしているって点に関しては心の底から信じてくれた。私がそういう特別な存在であるということを信じてくれていた。霊的な存在の訪れを感じていたってこと。今、そのことを回想録に書いているんだけど、この世界になすべき重大な使命をもって存在していると明確なメッセージを受け取っていたのよ。自分の中に別の声を聴く、別の人格が訪れているということをうまく説明できないって恐怖はすごく大きなものだったけど。 興味深いのはジェフの2本の映画に対するアメリカの観客の反応の違い。ダニエルはマネージャーを殺そうとした、パイプで頭を殴りつけたり、飛行機を墜落させようとした。それって犯罪じゃないの――って危険なこともしている彼に観客は何の文句もいわなかった。なのにそういうことは一切していない私に対しては刑務所へ行けと罪人扱い。これっておかしくない!?

――なぜでしょう?

RA 私が思うのには私が女で、しかもあまりにも大きな情熱を抱いているからなのよ。情熱は感情的なもの、感情は否定されるべきものなの。女があまりに感情的に表現すると恐怖の対象とされてしまう。大人しく受け止めていいたくてもいわないでいることが求められる。だけど私という人間はそうじゃない、だから怖がられる(笑)ありゃ完璧に狂ってる、ビョーキだと、そんなふうにこの映画の私や映画自体を歪曲して見る人がいるのはとても辛いことだけれど、でも理解してくれる人もいる、十分にいると思う。時がたてばさらに理解されるだろうとも思ってる。

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――女だから理不尽に受け取られるって、それはどんな時に感じますか?

RA いつでもよ。だって私は実際、子供のときからずっと男の子になりたいと思っていたわけだから。男の子に許されることが女の子には許されてない。振る舞い一つにしてもね。あるいは虐待にしたってそうでしょ、男の子が犠牲になればより悲劇的なこととして受け止められる。アメリカでは女の子が性的に虐待を受けることはいっそ想定内のこと、殆んどあってしかるべき、驚くに値しないなんてひどい受け止め方さえもまかり通ってる。そのくせ男の子がそういう目に遭うとみんなが激怒する。

――この世界に積み重なってきた女性に対する差別が男の子のアバターをあなたの中に導き出したと?

RA 1970年代、性的虐待に人はまだまだ口をつぐんでいた。当時、漸くPBSの「アフタースクール・スペシャル」といったテレビ番組が作られるようになって問題を語る糸口ができた。とはいえそこでも問題に遭遇するのは金髪碧眼の少年だった。女の子の問題はほったらかし、あるいは描いたとしても見栄えのいい子たちの問題で、可愛くない女の子が性的に虐待されていたって問題にされなかった。キュートな少年の方が悲劇的に映るから。私自身の体験をいえば、私が辛い目に遭った時、それを口に出して言おうとしたけれど、でも私なんか誰も気にしてはくれないとまず思ったのね。でも、男の子の話にしたら、金髪で青い目のキュートな男の子として語ったら救いの手が差し伸べられるだろうと、そう思えた。うまく説明できないけど、そんな気持ちが私の中にJTという男の子が出てきたことと関係してると思う。

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――映画の中でも、書くことがあなたにとってある種のセラピーだったという件りがありますが、今回、映画の中でご自分のことをああいうふうに語ったこともさらなるセラピーになったと思われますか?

RA キャメラに向かって語る部分は8日間かけて撮ったけど、まさにそう。いえ映画の全プロセスがそうだった。監督のジェフが私の怒りを解き放つように背中を押してくれたのね。あの時、だれも私になぜということを訊かないまま”捏造”問題として突然、みんなが私を糾弾し始めた。責任をとれと。映画を見た一部の人はなんで彼女が”ストーリー”を語っているんだと、主観的な語りの手法を映画がとっている部分を突いてきた。だけど私がJ.T.を作り出した張本人なんだから私に語らせない手はないと思う。信じないならそれでもいい、とにかく私が点と点を自分で繋いでいく。それが合理的なんで他人がそれをしたのでは理屈が通らないのよ。

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――映画を見ているとあなた自身が話の流れに乗って活き活きとしてくる。ストーリー=嘘っぱちって意味ではなく、でも根っからのストーリーテラーぶりが面白かった。

RA そうね、そうだと思う。父も母もお話するのが上手だった。私の祖父母は辛い人生を送って、だからストーリーテラーだった。ユダヤ人でワルシャワから難を逃れて脱出してきた人たちだったから。彼らにはアーティストになる贅沢が許されなかったのでストーリーテラーとなったのね、その血は私に与えられたギフト、贈りものであり才能なんだと思う。物語を語りアーティストとなり得ること。物語を語るために生かされているんだと思うの

――ユダヤ人の家庭、食卓でのストーリーテリングの大切さをハーベイ・カイテルに取材した時に語ってくれたのを思い出しました。物語りすることがサバイバルの術だったと。

RA ほんとほんとにそうよ。ユダヤ人は最も古い部族として身に降りかかったすべての苦難に対処するためのしぶとい伝統を必要とした、それがストーリーテリングということでユーモアとパッションを備えた物語を語り継ぐ、同時に使命の意識をもち、それをも語り継ぐ、そのための物語の技をもつのだという自覚が育まれた。この世に在るのは世界を癒すためって自覚が私たちユダヤ人にはあるの。世界を癒すということ。私自身、この世の中にあるものすごく多くの見過ごしにされている犠牲、許されるなら自分の経験を物語ることでそうしたことに少しでも働きかけ、ヒントを与えられたらと思ってる。

――”捏造”騒動から10年を経て例えばガス・ヴァン・サントとは今、どんな関係なんでしょう? 彼が「エレファント」で来日した04年にJTのことを訊くと微笑むだけであまり話してくれなかったんですが。

RA そうなんだ なんて訊いたの?

――JTはどのくらいこの作品に関わったの?――とか

RA どのくらいも何もすべてによ。映画の実現のため力を尽くしたし、私がいなかったら映画にはなってなかったと思う。私の書いた脚本をすべて使ったわけではないけれど、ガスの望むようにしていいと、全部を脚本通りにしないでいいって許諾を与えることもした。背後ではあったけど精力的にあちこちに働きかけた。肩書きだけでなく本当にプロデュースしたと思う。まあ複雑ではあるからね。ガスとJTの関係は(アバター、あるいは影武者だったサバンナ・クヌープ/ローラの元夫の妹の存在がある)。私にしたって私じゃなかったりする。ああ、会ったよといっても、会ったのはローラじゃなくてJTのマネージャー、スピーディとしての私だったりもするわけでしょ。だから説明が難しくなるんだけどね。トム・クルーズと彼の演じた役とを監督が混同するなんてないと思うけど私に関してはそう簡単にはいかないわけよ。

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――05年『サラ、いつわりの祈り』の公開に合わせてJTとしてのサバンナが来日した時も、ずっと側にいらしたんですよね。どんな気持ちでそこに?

RA とても寂しかった。孤独だった。もちろんサバンナは私の経験をしてはいなかったから、単にイメージを反射、反映するしかなかった。庭師がひょんなことから名士になっていくピーター・セラーズの『チャンス』って映画知ってるでしょ。まさにあれ。彼/彼女が何かを口にするとまわりの人々が勝手に深遠な意味を見出していくの。今はあのことをきちんと説明する必要を感じてる。あの関係は単に偽とか本物とかっていうんじゃない、虚実に関わるメタな入れ子構造、ある意味でアートワークともいえるようなものがある。そのことを日本人は他のどの国より理解する素養があるみたい。創るために自分から逃げるって心理もアバターに関してもジャッジしないで受容してくれる。白黒つけるのでなくグレーの部分、余地を残すことができるのね。

――それは多分、私というものを確立させない、みんなと一緒が大事な日本人という点とも関わっているかもしれませんね。曖昧な自分でいる方が生き易いというような。

RA アメリカはミーイズム、まず確かな私が先にくる。そこでは正常じゃないから、ビョーキだから、いくつもの人格をもつみたいにいわれる。理解できないことなのね。自分の中にまた別の自分が現われるのを一歩引いて観察するって感覚。日本人はこの感覚を自動的に理解できるみたいで、驚いてる。

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――映画でも紹介されるようにあなた自身に関する膨大な記録を残していますが、自分の足跡を残したいという欲求があったのですか? それと最後に女の子の映像が出てくるホームムービーもあなた自身を写したものですか?

RA そう、あれは母が撮ったもの。すべては意識的に残したものだった。必要だったの。記録することが。健常な部分にすがるっていうのかな。子供には性の、肉体の、魂の聖域がある。そこを侵す大人たちがいると子供たちに備わっているコンパスのようなもの、どこまでがオーケーなのかその境界を自然に指し示す指針のようなものが働いて、だれにいわれなくてもここまでは大丈夫、でもここからは大丈夫じゃないという境界を感知している。子供時代に聖域を侵される中で、自然に働く危機感を抱えながら何がリアルで何が違うのか、何が現実に起こっているのかそれを記録しておかないと周りの大人が勝手に捻じ曲げてしまうと警戒していた。同時に自分の中のおかしな部分と正常な部分、そのどちら側にも足をかけた自分をみつめるためにも記録が必要だった。ワニみたいに水面にいて水上も水中も眺めている、そんな感じ。狂ってる、でも同時に狂ってない。その両方が自分にあるとわかっていた。自分の中に現れるJTはリアルだと思った、同時にそうじゃないってこともわかっていた。ただ自分の中で起きてること、それがどのくらいリアルに感じられるか、それをそのまま人にはいえなかった。いったらクレイジーだってことになるから。だから記録した。怖かった。自分が狂っているってことが。ノーマルな部分とリアルだけど狂ってる部分、ノーマルでなければと修正しようとする部分、自分の中の中のそのまた中――

――合わせ鏡の中の像のように互いを映してどこまでも連なっていく。

RA それそれその喩え、映画でも使ったけどまさにそれよ。

――自分を客観的に見る目もあるのは狂いっぱなしより辛いでしょうね。

RA そのことをみんなは私への反論として使った。今回の映画を見て私を完璧なクレイジーだといった人もいたけれど、もしその通りだったらあの騒ぎの時にもっと寛大に扱ってもらえたと思う。でも現実には私に説明する能力もあったから、そのことが私を”容疑者”としたのね。何かを操っているかのようにいわれた。クレア・デーンズが実在する自閉症の動物学者を演じた『テンプル・グランディン自閉症とともに』って映画、知ってる? テンプルはひどい自閉症だったけど彼女はそれを説明できた。で、自閉症であることについての本を書き、だけどだからといって自閉症でなくはなれなかった。私の状態も同様といえるわ。精神的な問題を抱えていると説明できる、でも判ってるなら打ち勝てばいいっていうように簡単なものじゃない。ともかくサングラスしたJTはこの世から姿を消したけれど、生き続けてはいる。びくともしない作品として。それを流行りものとして今の旬みたいに味わってさっっさと捨てるのでなく吟味してほしい。その意味でも「サラ、神に背いた少年」も「サラ、いつわりの祈り」も日本で再版されることを祈ってる。

作家、本当のJ.T.リロイ』
新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか公開中
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