「Cinema discussion」カテゴリーアーカイブ

『ハウス・イン・ザ・フィールズ』 アトラス山脈に棲む妖精/ Cinema Review-4

HOUSE IN THE FIELDS

Cinema Review第4回は、モロッコのアトラス山脈に住アマズィーグ人の姉妹を描いたドキュメンタリー『ハウス・イン・ザ・フィールズ』です。
写真家でもあるタラ・ハディド監督が、モロッコ現地で7年間密着して撮影した作品で、アトラス山脈の自然と、私たちが知らなかった数百年続いてきたアマズィーグ人の生活を描いた美しい作品です。
今回のレビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄の2名で行いました。

★川野正雄

2017年モロッコを訪問し、車でフェズからマラケシュまで移動をし、アトラス山脈を通過した。その道中では、多くの山の麓で生活する人々の姿を見かけた。
3日もかかる移動で、車中から眺めるだけで、直接接する機会はほとんど無かったが、羊たちの群れの移動や、タジン鍋を焼いている家族など、日本とは別世界の場面に遭遇し、もっと深く知りたいと思っていた。
『ハウス・イン・ザ・フィールド』は、そんな私の願望を少し満たしてくれる映画であった。
数百年間変わらない生活をしているアマズィーグ人(ベルベル人とガイドブックなどには記載されているが、これはあまりよくない呼称のようだ)の家族を描いたドキュメンタリーである。
監督はタラ・ハディド。新国立競技場のデザインを当初担当した建築家ザハ・ハディドの姪であり、写真家でもある。
血筋が関係しているのかどうかは不明だが、この作品の映像は非常に美しい。宣材として提供されたスティール写真も、どれも絵葉書のような美しさを持っている。
7年間アマズィーグ人の生活に密着し、アトラス山脚の四季を描きながら撮影された記録映画である。主人公は結婚を控えた姉と、裁判官を夢見る妹の姉妹である。
彼女たちの父親は過去にフランスに出稼ぎに行き、過酷な経験をして、モロッコに戻っている。そのエピソードだけでも、彼らの置かれている立場が想像できる。
動物や自然と共生しながら、自給自足で生活を営む家族。私がモロッコに行った際も、街中でも働くロバを見かけ、人間と動物の距離感が日本とは全く違うと感じた。

車道を横断する羊達
犬が隊列を誘導している

反面サハラ砂漠に入ってもWi-Fiが使えるなど、デジタルの国家的な整備もされている。
モロッコという国は、マラケシュタンジェなどの都市部と、サハラ砂漠やアトラス山脈では、同じ国とは思えない位に大きな違いがある。
この姉妹は正に民俗的な生活様式と、DXに向かう国家の狭間で生きている。特に姉はカサブランカに住む見知らぬ男性との結婚に期待と不安を抱いている。姉ファテマが抱く大都市カサブランカでの生活の不安。短期間ではあったが、都市部と山間部を通過し、そのギャップはリアリティを持って感じる事ができた。

ファテマは思い切り盛大な結婚式で送り出される。しかしそこには新郎の姿はない。
タンジェで偶然結婚式のパレードに出会った。その景色は、ファテマの為に開催されるセレモニーと同じように盛大で、日本では考えられない大人数が市中をパレードしていた。

街中を練り歩く結婚式のパレード

モロッコの街中には、幾つもカフェがある。しかしそこにいるのは男性ばかりである。女性は外でお茶を飲む習慣がない、家事に専念していて、外出出来ないのだと聞いた。
会った事のない男性に未だ嫁ぐ習慣含めて、モロッコでは未だに男女格差が存在しているようだ。そういった習慣へのアンチテーゼとしても、『ハウス・イン・ザ・フィールズ』の存在価値はある。
この映画には手のアップが度々登場する。描かれる手は揺れ動く感情を表現している時もあれば、働く為の肉体的なギアとしての手の表情も描かれる。
この手の表情と、随所に流れるアーシーなモロッコの楽器の音色、そして動物や自然と共生するアマズィーグ人の生活に是非目を向けて欲しい。
モロッコにはファテマの手と呼ばれるお守りがある。よく家の前に取り付けられている。
私もお守りとして、キーホルダーを買ってきた。
姉のファテマと彼女の手のアップ。ここには幸運を呼びたいというタラ・ハディドの祈りが込められているのかもしれない。
そして今の日本人が忘れてしまっている人間本来の姿、生きる為にはどうすべきか、自然とどう付き合っていくのか、今の時代だからこそ考えるべきテーマが内包されているのだ。

ファテマの手

★川口敦子

「こんなにも異なる世界とその仕組み、にもかかわらずあまりに遠く思えたものが自分といかにも近しく、じつは同じなんだと感じてほしい」
 ベルリン国際映画祭フォーラム部門で上映された『ハウス・イン・ザ・フィールズ』をめぐるインタビューで、観客のどんな反応を望むかとの問いに監督タラ・ハディドはそんなふうに答えている。確かに――と、数年遅れで映画に触れた観客のひとりとして大きくうなずきたくなった。
実際、モロッコはアトラス山脈の奥地で豊かな自然とやっかいだけれど捨て難い伝統、慣習、暮らしの重みに包まれながら、軽やかに夢見ることも忘れていないハディーシャ、うっすらと薔薇色の頬にいつも陽炎みたいな憂いを浮かべている瓜実顔のアマズィーグの少女の”物語″を、ハディッドの映画はその遠さを捻じ曲げることなくしかし、いかにも他人事でない思春期の不安や憧れや退屈、いらいら、微笑ましさと共にそっと手渡してくれる。めぐる四季、移ろう自然の中で営まれる家族の、コミュニティの日々。外界と隔絶されたかに見える毎日には世界の今も確かに息づいている。伝統の衣装を身につけた女たちの傍らにナイキやプーマやアディダスのジャージを纏った男たちがいる。

春になると色を取り戻す自然の中、友達とふたり無心に木の実を口に運ぶ少女はのびやかに大地に寝そべって、進学し弁護士になるのだと夢を語る。ほっそりとして幼く見える彼女のイスラムのベールの下に豊かに波打つ黒髪が隠されていて、そのなまめきがドキリを目を打ち胸に刺さる。姉は学校をやめて夏の終わりに会ったこともない相手との婚礼をあげることになっている。定められた未来に抗えないひとりと自由に夢見るもうひとり。寝床をならべた姉妹の語らいはもう一度、世界の遠さと近さのことを思わせずにはいない。
いかめしそうな眼差しをキャメラに向ける老人。「キャメラを見るな」と呟きならみごとにキャメラ目線になっている面々。その照れ隠しめいたやわらかな笑顔がいかめしさを駆逐する。唐突に出稼ぎの日々を語る初老の男。茶をすする老夫婦。ポートレートのように人をきりとり、その語りを掬いとる映画は5年とも、7年とも伝えられる時間をかけて監督がそこに赴き、そこで暮らし、そこで遭遇した”物語″を記録する。ドキュメンタリーは強かに現実の人々の物語りに支えられている。現実(ノンフィクション)を物語(フィクション)にする山の人々とその暮らし、その世界と映画の共闘が静かなスリルを紡ぎだす。

ロンドンに生まれアメリカで映画を学んだモロッコとイラクの血を引く監督ハディド(幻の新国立競技場案でも話題を呼んだ建築家、故ザハ・ハディドの姪にあたるという)。彼女の虚実の境界への働きかけはいってしまえばもはやニュースでもなんでもない映画界の当り前の営為に他ならない。が、この映画を見た直後にやっとアメリカから届いたクロエ・ジャオの長編監督デビュー作『The Songs My Brother Taught Me』のDVDを目にしてみると、虚実の境界に挑むふたりの監督の奇妙な近さが見逃し難く迫ってくる。
ハディドがアマズィーグの村でしたように、ジャオはサウスダコタ州パインリッジの米先住民居留地に赴き、そこに暮らす人々と時間をかけて交わって、タテマエだけでない話を聞きだし、そうして彼らの物語りを彼らが演じる/生きる映画が差し出された。9人の妻と25人の子をなした居留地のロデオ・ライダーを父にもつ少年が恋人と共にLAに向かうことを夢見ながら、結局は妹と母との暮らしに踵を返すーー。そんな展開は、居留地という遠い世界の現実を射抜きつつ、飛び立つことを願う少年の夢と、それに勝る何かのために諦めを超えて生きる思春期の”物語″、その他人事でない近しさをも思わせて、ハディドの映画の”遠くて近い″感触と興味深く響きあっていく。かたやフィクション、かたやドキュメンタリーと分類されてはいるものの、どちらもその境い目のつけ難さの上で創る覚悟を感じさせる。

 そういえばジャオのNY大学院映画科時代の短編のひとつは奇しくも『The Atlas Mountains』と銘打たれ、幸うすい主婦がクリスマスの夜にPC修理にやってきた移民と孤独を分かち合うーーと粗筋が紹介されている。となると移民というのはアトラスの山の村から来ているのでは、ひょっとしてハディダの映画で出稼ぎ時代の挿話を披露していた老人がモデルだったりはしないだろうかと、勝手に妄想を膨らませてみたくなる。まあまあそんな偶然の一致はまさに物語の上でしかあり得ないのだろう。が、面白いのは素晴らしく刺激的な映画をものしたふたりの監督が、ともにサンダンスのラボで企画を耕し、ジャオはフォレスト・ウィテカー、ハディドはダニー・グローバーの支援をとりつけていることで、そこには実際的な映画界のサバイバル術、そのトレンドが垣間見えたりもしそうで、蛇足と言えば蛇足だがちょっと気にしてみてもいいかもしれない。

(モロッコ、カタール/2017 年/86 分/HD/1:1.85/アマズィーグ語/原題:TIGMI N IGREN)
監督・撮影:タラ・ハディド
出演:ハディージャ・エルグナド、ファーティマ・エルグナドほか
配給・宣伝:アップリンク
■公式サイト
■予告編
アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開中

Cinema Review-3/ 広大なアメリカを描くアジアの新たな才能の発見『ノマドランド』

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

Cinema Review第3回は、ゴールデン・グローブ賞作品賞、監督賞を有色女性監督作品として、初めて受賞したクロエ・ジャオ監督の『ノマドランド』です。
既にアカデミー賞の候補にもなっており、ベネチア映画祭の金獅子賞も受賞している話題の作品です。
主演はコーエン兄弟の『ファーゴ』などに出演し、オスカーを2回受賞しているフランシス・マグドーマンド。彼女はプロデューサーも兼ねた存在です。
今回のレビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄、名古屋靖の3名で行いました。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

★名古屋靖
日本からアメリカに行き、好きなバンドのツアーを一つでも多く追いかけたい時、夜12時前にショウが終了、そのままクルマに乗り込んで次のライヴ会場の町まで何時間も徹夜でドライブしなければならない事がある。出来れば夜間移動は緊張するし退屈なんだけれど、移動中に迎える日の出の時間ほど感動的なご褒美はない。アメリカでしか味わえない見渡す限りの大空と大地が少しずつ赤く染まっていくその真っ直中にいると「ずいぶん遠くまで来たもんだ。今日も楽しい一日が始まる、アメリカすごいよ!」と、期待感と高揚感が最高潮にまで高まる。『ノマドランド』はそんな感動を追体験できる映画だ。とにかく映画館の大スクリーンに自分を埋没させることをお勧めしたい。

アメリカ人は意外と海外旅行経験者が少ない。「海外に出なくても国内でまだ見た事がない憧れの地がいっぱいあるから」だそうだ。僕らの海外旅行は、彼らにとっての遠方への国内旅行と同じスケール感だったりする。自分の言語とテリトリーである程度安心して冒険ができるアメリカは本当にでかくて羨ましい。劇中「あなたはどこへでも移動できるノマドね」という台詞のように、ノマドたちにとって部屋はクルマだけど庭はアメリカ全土という贅沢。そんなポジティブシンキングもアメリカ的で好感が持てる。以前アメリカの友人に「もう一度行くとしたらどこ行きたい?」と聞いたとき「アラスカ!」と即答だった。映画でもノマドたち憧れの地としてアラスカやハワイが出て来たのには笑った。

ただ、主人公ファーンがノマド生活を始めたきっかけは決して前向きな理由ではない。アメリカには民間企業1社だけで成り立つ町が数多く存在するが、そこが不採算事業に転じた瞬間から町自体が消滅する現実がある。長く暮らしていたホームタウンが消える不幸。自宅を始め友人・知人はもちろん、生活必需品や、電気・ガス・水道などのインフラ事業も撤退してしまう。日本ではちょっと考えづらい事だけれど、経済優先の資本主義アメリカではよくある事だそうだ。
そんな、夫とホームタウンを失った初老のファーンが、ノマドの先輩たちから様々なノウハウを享受され、慎ましくもたくましく成長していく姿は愛おしくとても美しい。そんな先輩の多くがリアルなノマド達だという事が最初は信じられなかった。素人とは思えないあまりにも自然な演技でその表情や発する言葉も滞りなく明快で分かりやすい。パンフレットのインタビューを読んでなるほどと思った。「私たちは他の人々の生活の中にただ存在していただけで、彼らの人生を混乱させようとはしていません。彼らの真の生活に入り込もうと努力しました。」この映画はフィクションとノンフィクションの境界を取っ払い、リアリティのその先へ新たなジャンルを確立している。

また自分の話になってしまうのだが、「じゃあ、またね。」とアメリカ人は別れ際に”さようなら”を言わない。絶対また再会できるのを信じているかのように。そしてこんなに広い国でこんなにたくさん人がいるのに、偶然にも再会出来た時には「また会えたね。」と言いハグをする。友情とか人とかが最も尊い財産だと実感できる瞬間だ。劇中でも何度かある再会シーンは静かだけれど好きだ。特にタバコをあげた若いヒッピーとのエピソードは自分にも似たような経験があって強く印象に残っている。ボブ・ウェルズの「この生き方が好きなのは、最後の”さようなら”がないんだ」という台詞にアメリカの魅力が詰まっているような気がする。この映画は一見すると社会問題を題材にした深刻なものに見えるかもしれないが、それを乗り越えた先にある自由や希望を描いたスケールの大きい作品になっている。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

★川野正雄

90年代クエンティン・タランティーノの排出をきっかけに、アメリカの若いフィルムメーカーのFrom Sundance to Cannes というシンデレラストーリーが生まれた。ロバート・レッドフォードが主宰するサンダンス映画祭で注目されたインディペンデントの監督が、カンヌ映画祭にピックアップされ、世界的な評価を得るという流れである。
今や王道とも言えるそのシンデレラストーリーから生まれた新しい才能が、『ノマドランド』の監督クロエ・ジャオである。
既にアカデミー賞候補、アジア系女性監督として初めてのゴールデングローブ賞監督賞受賞、ベネチア映画祭金獅子賞、トロント映画祭観客賞など、多くの栄誉を獲得しているが、久々にすごい監督に出会えたというのが、率直な感想である。
あまりに『ノマドランド』が素晴らしいので、前作の『ザ・ライダー』を、早速アマゾンプライムで鑑賞した(すぐ見れる便利な時代である)。
川口敦子さんのレビューに詳しいが、実際のロデオライダーを役者として起用した見事なカウボーイ映画であり、『ノマドランド』に勝るとも劣らない傑作だった。
何より驚いたのは、サム・ペキンパーの『ジュニアボナー』で描かれているような男の中の男の世界のロデオライダーを、中国系女性監督が見事に描き切っている事である。
この作品はいかにもロバート・レッドフォードが好みそうな現代の西部劇であり、クロエ・ジャオはサンダンス映画祭での上映で注目を集め、カンヌを始めとする各国の映画祭で上映された。
そして本作品の主演兼プロデューサーであるフランシス・マクドーマンドと、トロント映画祭で出会い、本作品は生まれるきっかけが出来たのである。
前置きが長くなったが、本題である『ノマドランド』について。
作品には『ザ・ライダー』のロデオライダーと同様に多くの実際のノマドが登場する。
先日ご紹介したロシア映画『DAU ナターシャ』でも同様の手法が取られていたが、プロの役者ではなく、実際の体現者が演じる事で、映画のリアリティは格段に増し、一つ一つの言葉の重みも違ってくる。

ノマドという言葉には、二つの意味があると思う。一つは劇中でマグドーマンド演じるファーンの台詞にもあるハウスレス。車上生活者として移動をしながら暮らすノマドライフ。
もう一つは非正規雇用者として、定職がなく、スポット的な業務を渡り歩くノマドワーク。
どちらがきっかけなのか、ノマドになる理由として、それぞれが心の奥底に過去の何らかの重い感情を抱えていることは、想像にかたくない。
やむおえずノマドになった人もいれば、ノマドを自らの意志で選択をしている人もいるだろう。

映画の冒頭は、クリスマス需要などで繁忙期のAmazonの倉庫シーンが描かれる。
日本でもAmazonの倉庫業務はハードと言われているが、原作でも過酷な職場として描かれているという。
しかしクロエ・ジャオは、Amazonを貴重な安定した仕事の場として描いている。
定住地を持たないノマドが、Amazonのサービスを利用する事はほとんど無いだろう。
しかし彼らにとって、繁忙期のAmazonのスポット的な労働は、貴重な仕事の場である。
この相反する関係性が、現代のノマドの社会的な位置付けを象徴しているように思った。

移住者生活をする事で、多くの出会い、別れ、そして再会が、映画では描かれる。
ファーンも60歳の設定であり、登場人物の多くが高齢者であり、自分ないしは近しい人との死とも対峙している。
出会いと別れを繰り返しながら、ファーンや多くのノマドが目指す終着点はどこなのか?
ファーンが大事にしたいものは、何なのか?
些細な出来事が、ファーンの心を細かく切り刻んでいきながら、この終わりのない旅は続いていく。
観客は自らの人生観との相対をしながら、ファーンと共に旅を続けていく。

出会いと別れは、シンプルだが、人生の根底に流れるテーマである。
『ノマドランド』は、ノマドのリアルな視点を通じて、このテーマが語られる。
その語り口は、散文的であり、文学的でもある。
あたかも文学作品を読んだような感触で、この映画は観客の心を揺さぶっていく。
中国生まれのクロエ・ジャオが、何故ここまで深くノマドやカウボーイを描けるのか。
ハリウッドのエンターティメントな演出ではなく、フランス映画のような芸術性を目指す演出でもない。
客観的な事実や、日常の風景を積み重ねる事で、観客の心の奥底にテーマを伝える演出は、並大抵な才能では到達できない領域である。
もしかしたら、彼女は現代最高の女性映画監督ではないのか。
プロフィールやインタビューを読んだだけでは、その謎は解決しないので、是非一度川口敦子さんにインタビューして欲しいと思う。
また今回この映画をオンライン試写で見たのだが、アメリカの厳しく美しい風土を感じる為に、再度映画館で見てみたいと思っている。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

★川口敦子

クロエ・ジャオ。長編監督第三作『ノマドランド』で詩とリアルとをひらりと両立させる時空を切り取ったそのやわらかで強かな才能を前に、じっくりと追いかけてみたいと心底、思った。

この春、ゴールデン・グローブ作品賞と監督賞に輝きオスカー最有力候補と注目を浴びる中、”アジア系“”中国出身”“女性監督″と、おなじみのおせっかいなレッテル付けとも無縁ではいられないジャオはしかし、マイノリティであることを成功への切り札のように利用するつもりはない、でももう手遅れかな?――などと、不自由を軽やかにジョークで躱す知的スタンスもあっけらかんと身につけていて、そんな気鋭の軌跡、輝く今への道のりもまた、もっと知りたいとさらなる興味を掻き立てられる。

1982年3月31日北京生まれのジャオは、改革開放期、中国最大規模の鉄鋼会社の重役を経て不動産開発、投資に携わった実業家の父と病院勤務の母の離婚を中学生の頃に体験。父の再婚で「コスビー・ショー」を翻案したような中国初のTVホームコメディ・シリーズや映画『四十不惑』『LOVERS』でも知られる女優ソン・タンタンが新たな母となった。
放任主義の両親の下、学校の成績はもひとつのままマンガ(『ノマドランド』の折、リサーチのため愛用したヴァンはAKIRAと命名)や物語を書くことに熱中、マイケル・ジャクソン、そしてウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』にも心奪われた。スタイリッシュなウォンの映画の底に震えている途上の時を生きる人の覚束なさ、それでも微かに浮上する希望の欠片、世界の果てを睨みながらきっとまたどこかで会えると信じる路上の魂に満ちていく仄明るさ、その愛おしさを思えば『ノマドランド』とのこれみよがしではないけれど見過ごし難い結び目を思わずにはいられなくなる。中国本土への帰還を前にトランジットの感触に裏打ちされた20世紀末香港の今を鮮やかに感覚させもするウォンの快作はまた、08年リーマン・ショック以来の貧困、分断に苛まれるアメリカの今を新種のノマドを通して掬うジャオの映画をしぶとく貫く歴史的現在への眼、思いとも確かに共振してみせる。

いっぽうで90年代、北京で西側、なかでもアメリカのポップカルチャーを享受して成長したという新世代ジャオには、同じ頃、同じ北京で映画を学んでいたはずの中国映画第六世代の雄ジャ・ジャンク―の作品を見たことがあるかとぜひ訊いてみたい(ついでにいえば公開待たれるロウ・イエのノワール『シャドウプレイ』のバブル期の都市の家族の姿を見ると、その闇と結びつけるつもりはないけれど、ロウの映画は見ている?とさらなる好奇心も募る)。『山河ノスタルジア』『帰れない二人』と20世紀末中国のバブル前後の人と国の歩みに向けたジャの真摯な眼差しを少し遅れて生まれたジャオがどう受け止めるかを知りたいから。それにも増して監督ジャが虚実の狭間に果敢に挑む時空を耕し、市井の人とプロフェッショナルな俳優とを分け隔てなくそこで息づかせてみせたこと――ネオレアリズモもブレッソンもキアロスタミもペドロ・コスタも同様の作法を究め,21世紀の映画の世界のそこここで無視し難く同様の試みが試みられているとはいうものの、同じ中国を出自とし(とレッテルづけしてしまうのだが)世界の映画の今を牽引しつつある先達の作法をジャオがどう見るのかはいかにもスリリングな問いとして迫ってくるように思えるから。
ついつい比較に走る悪い癖を反省しつつもこの際だからジャオの映画、とりわけ『ノマドランド』に射し込む先達の影をもう少しだけ追ってみたい。となるとまずはマジックアワーの文字通り魔法のような光の情感、暮れなずむ空に映える詩情で結ばれたテレンス・マリックのことが想起される。とりわけマリック最初期の『地獄の逃避行』は原題“Badlands”からしてジャオの映画が切り取る西部の荒野、そこに美しく浮上するロマンチシズムと静かに響きあう。あるいは移動する季節労働者を物語の核心に置いた『天国の日々』にしても、ヴァンを駆る移動的季節労働者として21世紀を生き延びる新たな種族を追うジャオの映画に遠いこだまを響かせる。ちなみにヨルゴス・ランティモス、カルロス・レイガダス、ミランダ・ジュライにココナダとクセ者アーティストをクライアントとして多く抱えるイレーネ・フェルドマンを共にマネージャーとしていることもあり、ジャオは『ノマドランド』に関する意見のメモをもらったりと謎に満ちた隠者的存在として知られる先達マリックとカジュアルに(?)コンタクトがとれているらしい。
もっとも映画狂的目配せの部分に関しては、ニューヨーク大学院映画科(教授のひとりがスパイク・リーだった)で知り合った英国出身の撮影監督(にして年下の恋人でもある)ジョシュア・ジェームズ・リチャーズの選択に依る部分が大ともいえそうだ。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

いくつかのインタビューでリチャーズは、家/定住の地に背を向けて遠ざかる男を扉のこちら側/家/定住の地からとらえたジョン・フォード『捜索者』の名高いエンディングを『ノマドランド』の終幕で引いたと明かしている。ジャオの長編第二作『ザ・ライダー』のヴァラエティ紙による上映会後のQA(2018年4月)で、自分にはあまりなじみのなかったジャンル、西部劇を参照するようにとリチャーズに勧められたとジャオが首をすくめつつ告白する様が動画サイトで確認できる。あるいは21世紀のノマド・コミュニティを精神的に束ねるボブ・ウェルズの集会(RTR)に立ち寄ったファーン/フランセス・マクド―マンドの逍遥のペースに関してはハル・アシュビー監督、ハスケル・ウェクスラー撮影『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』を参考にした、マクドーマンドの刈り込まれた短髪はカール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』へのオマージュともリチャーズは述懐している。『アンモナイトの目覚め』の監督フランシス・リーの長編デビュー作『ゴッズ・オウン・カントリー』の撮影も務めた彼はジャオのデビュー長編から『ノマドランド』までの3作すべてで撮影監督を務め、のみならずプロダクション・デザイナーとしても腕を振るっている。公私共にのパートナー、ジャオの世界へのリチャーズの貢献度はクレジットされた役割にとどまらぬものがあるとみていいだろう。無論、彼の最大の貢献は映像そのものの力に他ならない。地平線、沈む夕陽、上る朝陽、薔薇色に染まる雲、砂漠にぽっかりと立つ恐竜、青く澄んだ夜、荒海、雨、風、そしてまた荒野を切り裂き続く道。掬い取られた圧倒的に美しいアメリカの景観、それが絵葉書みたいなきれいさに堕すことなく迫ってくるのは、人の心、その感情の真実がぬかりなく景観を裏打ちしているから、息をのませる映像と厳然と拮抗してそこにあるからだ。そうしてみると撮影監督リチャーズと監督ジャオの共闘、その結晶ともいうべきふたりの映画を輝かせる無二の磁力の核心もまた人と世界の真実への旺盛な興味なのだと改めて気づく。

ジャオの軌跡に戻ってみよう。14歳。世界は嘘に満ちている、この欺瞞でいっぱいの閉ざされた場所から絶対に脱出できないのではーーと、不安を胸に囲っていたとフィルムメイカー誌とのインタビュー(2013年8月14日)でジャオは振り返っている。両親にも体制にも反抗の心を尖らせていた少女は英語もできないままに英国の寄宿学校行きのチャンスに飛びついた。さらに憧れのアメリカへ。LAでハイスクールを終えた彼女は夢見ていた世界とアメリカの現実とのギャップをかみしめ、政治を学ぼうとマサチューセッツ州にある女子大マウント・ホーリーオーク・カレッジへと進む。が、そこでの4年を過ごすうちに政治にも、それを学ぶことにも倦みはてて、バーテンダーをはじめとするいくつもの仕事に就いて、「様々な人々と出会い、それぞれの歴史を知り。映画でならそうした出会いや経験、みつけた興味をひとつにできるのでは」とニューヨーク大学院映画科入りを決めた。

在学中にものした最初期の短編をめぐる資料(IMDb Pro)をみると様々な人との出会いをベースにしたジャオの映画の作法の基本がすでにそこに見て取れる。報われない結婚生活を送る主婦が一人過ごすクリスマスの夜にPC修理にやってきた移民の労働者とそれぞれの孤独を分かち合う『The Atlas Mountains』(09)、中国近郊都市に暮らす14歳の少女が見合い結婚を強いられて自由への危険な道を選ぶ『Daughters』(10)、春節の日にセネガル人の恋人を同伴した中国人一家の息子が家族に波紋を投げかける『Benachin』(11)――。いずれも『ノマドランド』とも通じるマージナルな環境に置かれた人への眼差を感知させて面白い。とりわけ中国に帰って撮ったという『Daughters』についてジャオは、チャン・イーモウ『紅夢』を大いに模倣したと率直に明かしつつ、映画科の制作課題は俳優と仕事することだったが、舞踊学校に通う少女をみつけ、そこから映画を紡いだ、すでに少女がいる世界にフォーカスしていくこと、非俳優と組むことをして自身の映画作りの術を見出したと、ヴァルチャー誌で述懐している。「暗い部屋にこもって自分ひとりで登場人物を生み出す、創造する、そういうタイプの監督でも脚本家でもないんだと気づいたの」
NYU卒業制作として撮られた長編デビュー作『Songs My Brothers Taught Me』(15)、続く『ザ・ライダー』(17)と、ノース・ダコタのラコタ族パインリッジ先住民居留地で出会った人々と時間をかけ、その世界に入り込むことで手にした物語を、当の人々が生きるーーそんな作法を徹底させ、磨きをかけてジャオの映画はサンダンス、カンヌと世界に羽ばたいていく。とりわけ『ザ・ライダー』! 頭部の負傷でロデオを諦めざるを得なくなるカウボーイの挫折と再生という、いってしまえばありふれた物語の型をとりながら、映画はそこに息づく真正の怒り、悲しみ、慈しみ、繰り返せば人の心の真実を切り取る。主人公の青年の知的障害をもつ妹、彼の親友で事故で四肢麻痺の障害を背負ったロデオ界のヒーローと、ともすれば偽善的描写に陥りがちな”素材″と向き合い、あるがままの在り方をあるがままに掬い上げて対峙する。そんな快作の公正で清潔な眼差し(またまた比較の悪癖を持ち出せばガス・ヴァン・サント『ドント・ウォーリー』とも通じるそれ)にもう一度深く、肯かずにはいられなくなる。
現実に向けた真にフェアな眼と耳、まっすぐに見る力、聴く力。ジャオという監督を、その映画『ノマドランド』をとびきり忘れ難くするのも実はそうしたシンプルな(だから得難い)力ではないか。ジェシカ・ブルーダーのルポルタージュをもとに、映画は独自の物語を抽出する。(フランシス・マクドーマンド)/ファーンを見る人、聴く人として、原作/現実にいる人々の物語を辿りながら、彼女自身の一年の旅、奪われるままに移動生活へと乗り出したひとりが、家もなく法もなく、けれども何物にも縛られない自由と自分を見出して新たに旅立つまでを親密な息づかいと共に見つめ切る。彼女の旅が円を描き振り出しからまた新たに始まる。”セルクル・ルージュ″赤い環の中で、人はどこかでまためぐりあうーー臆面もなくそんな手前味噌な感懐を呟かせるほどに、冴えたジャオの物語りの力に見惚れながら映画の、人の、世界のその先を懐かしく想った。

(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.

『ノマドランド』
2021年3月26日(金)より 全国公開中
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン