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『逃げた女』ホン・サンスのミステリアスな新作/Cinema Review-6

© 2019 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

Cinema Review第6回は、韓国の鬼才ホン・サンス監督の『逃げた女』です。
ホン・サンスについては、シネマ・ディスカッションで2018年特集上映を取り上げています。
今回上映される『逃げた女』は、昨年のベルリン映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞した注目作品です。
主演は公私ともパートナーと言われるキム・ミニ。
今までのホン・サンス作品よりも、力強いタッチで、女性心理を描いた傑作です。

レビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄の2名です。

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■配給:ミモザフィルムズ

★川野 正雄
韓国で一番ヨーロッパの香りがする監督が、ホン・サンスである。
2018年『クレアのカメラ』『それから』などの特集上映を見て、すっかりファンになってしまったが、この新作『逃げた女』も、期待通りの作品であった。
お馴染みの俳優達、長回し、食事や飲みの場面、短めの本編など、ホン・サンスならではの要素が、ここでも満載である。
1年に何本も量産するホン・サンスは、何とこれが24本目である。
ゴダールのような即興演出ぽく見える作品もあれば、韓国のウッディ・アレンと言われるような日常の切り取りで構成されている作品もある。
今回の『逃げた女』は、かなり脚本がしっかり練られ、忠実に演出されているように見える。
前半は監督のパートナーでもあるキム・ミニ演じる主人公が、久々に友人を訪問するという日常の切り取りでスタートする。
それぞれの事情は描かれるが、特別不穏な空気は感じられない。
しかし途中からいつもと違う雰囲気が出てくる。
会話のみでほぼドラマは成立しているが、ちょっとしたきっかけや、仕掛けが会話の中には込められている事に気がつくのは、映画の終盤になってからだ。
これはラブ・サスペンス、或いはミステリーなのかと気づくと同時に、映画は一気に終焉に向かい、自分は疑問を消化できないまま、映画は終了してしまった。
果たして、自分の思っている結論でよかったのか、誰かと語り合いたくなる。
ホン・サンス作品には、いつも不思議な余韻がつきまとう。
その余韻は心地よいもので、映画を見たという満足感が湧いてくるものである。
『逃げた女』の余韻は、今まで私が見たホン・サンス作品の余韻とは少し違うものだった。
全作品を見ているわけではないが、不倫や三角関係は、よく描かれるテーマである。
キャストもテーマもシークエンスも、従来のホン・サンス作品から逸脱したものではない。
ただこの『逃げた女』は、少しだけ今までよりも骨太に思える。
ちょっとフワッとした感覚がこれまではあったが、今回は違う。
思いつく理由は、一つだけ。
これまで垣間見た即興性が無くなり、念密に計算された脚本に基づいて撮影されたように感じたのだ。
観客をあっという間に巻き込んでいく、素晴らしいミステリー映画になった。
是非この機会に、ホン・サンスの世界を体験して頂きたい。

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★川口敦子

多作の人ホン・サンス。2月のベルリンで『Introduction』が銀熊賞(脚本)に輝いたと思ったらすでに26本目の最新作『In Front of Your Face』が7月、カンヌの映画祭でのお披露目を待っているという。「描き続けることが健やかさの秘訣」と『Introduction』にも売れっ子のアーティスト役で登場する公私共にのパートナー キム・ミニがそんな台詞を口にするそうだが、そっくりそのまま多作の理由を監督が自ら説明しているようにも響く。
ちなみに『Introduction』の上映時間は66分だそうで、作品の長大化が進む昨今の映画界の流れに掉さす短かさ、シンプルさへの道を果敢に歩み続けているようなホンにはその点だけでもつい好感を抱いてしまう。映画は3つのパートからなる3つのハグの挿話――と紹介されていて、となると本邦公開中の前作『逃げた女』の77分、3つのパート3つの再会のエピソードという形がゆるやかに反復されているのかしらと注目したくなる。個々の映画の中で”反復とずれ″を徴としてきたホンは、そのフィルモグラフィ上にも無視し難い繰り返しと差異を刻み付けているようで興味深い。
実際、改めて見渡すと”逃げた女″というのもホンのフィルモグラフィのあちこちで反復されたモチーフに他ならない。長編処女作『豚が井戸に落ちた日』に登場した夫の下を逃げ出して作家と関係する人妻。イザベル・ユペールがパリから逃げ出してきた3人の女を3つのパートで演じ分けた『3人のアンヌ』の場合は、そのプロットを書いている脚本家志望の女の子が、追われる身として母ともども都会を逃げ出し海岸の宿に潜伏中なのだった。『自由が丘で』には駆け落ちなのか、家出なのか、ともかく逃げ出して父に連れ戻される娘がいた。そんな傍らの挿話を後目に再会を願って丘の街の裏道をさすらう主人公を翻弄したのも、どういう事情か定かではないが彼の下から一度は逃げた女ではなかったか。

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ミューズ、キム・ミニを得て以降の近作でも”逃げた女″をみつけるのはそれほど難しいことではない。キムと初めて組んだ『正しい日間違えた日』でまさに反復とずれを射抜くふたつの挿話にいたヒロインはモデルの仕事、虚業の空しさから逃げ出して絵を書く道を、心地よく生きることを選んでいた。これもまた逃げた女と呼べなくはない。『夜の浜辺でひとり』のヒロインは妻子ある監督とのスキャンダルを逃れてハンブルグへと飛んだ女優だった。『川沿いのホテル』のふたりの女も傷心を癒すため何かの只中を逃げ出してきた誰かたちと見えた。面白いのは『逃げた女』でキムが訪ねる3人の旧友が、『夜の浜辺でひとり』や『それから』での係わりを踏襲していなくもないようなこと。最初のパートのメガネの先輩(を演じた女優)は『夜の~』のハンブルグで、第二のパートで詩人にストーカーされてる先輩(を演じた女優)も『夜の~』の後半、帰国後の宴会の場や海沿いのホテルで((『川沿いのホテル』のホテルでも)ヒロイン(キム)とそれぞれに和みの時間を共有していた。第3のパート、文化センターで遭遇するひとり(を演じた女優)は『それから』の出版社の社長兼評論家の愛人だった。やっかいな関係から逃げ出した彼女に代わって社に入ったヒロイン(キム)は社長の妻に人違いされて理不尽な糾弾と暴力を被った。と、そんなことの次第を思い出すと文化センターで再会するふたりの女、その過去にあったらしい因縁も、ひと悶着も、一人の男(『それから』の社長を演じた俳優)をめぐっての三角関係のそれでなく、人違いのそれだったのか――などと別の見方に向けて映画が開かれていく。反復とずれとはそういうことでもあるだろう。そんなふうに映画と映画の記憶で結ばれたホンの映画、そこにふんわりと漂って同じひとつの台詞を反復しているヒロインとはいったい何者なのだろうと、ことさらなドラマを避けて展開される映画の底に奇妙なドラマが見え隠れする。そうしてエンディング。シネマに再び身を置いたヒロインは銀幕の中、寄せては返す海をみつめている。その彼女をもう一度、新しい目で見直してみる。と、その海は、その波は『夜の~』の浜辺でひとり、黒い塊然と横たわっていた女優/逃げた女の目に映っていた光景ではなかったか――。ならば、いまその海を銀幕のこちらで眺めているのは、あの時、あそこで海をみていたヒロイン(キム)、映画から逃げ出した女だったりもするのでは――。彼女を欠いて抜け殻になったそこ(銀幕?映画?世界?)でもしかし海は寄せては返す波を反復し続けている。それを美しさと見惚れるのか、残酷さとしてそれでもまた見蕩れるのか。穏やかに見える一作とヒロインが孕んだじわじわとくる危なさを嚙みしめてみたい。

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『逃げた女』

監督・脚本・編集・音楽:ホン・サンス
出演:キム・ミニ、ソ・ヨンファ、ソン・ソンミ、キム・セビョク、イ・ユンミ、クォン・ヘヒョ、シン・ソクホ、ハ・ソングク
2020年/韓国/韓国語/77分/カラー/ビスタ/5.1CH
原題:도망친 여자 英題:THE WOMAN WHO RAN 字幕:根本理恵
配給:ミモザフィルムズ
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■6/11(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開中

■「作家主義 ホン・サンス」6月12日より、渋谷ユーロスペースにて、旧作特集上映中

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『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』ゴスペルの神が降臨/Cinema Review-5

Cinema Review第5回は、『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』です。
2018年8月16日、惜しくもこの世をさってしまった「ソウルの女王」アレサ・フランクリンの1972年に教会で行われた幻のコンサート・フィルムが、49年と時を経てついに日本公開されました。1972年1月13日、14日、ロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブを収録したライブ・アルバム「AMAZING GRACE」は、300万枚以上の販売を記録し大ヒットしています。
監督(撮影表記)は、『追憶』の名匠シドニー・ポラック。
撮影時のミスで、永らくオクラ入りになっていましたが、テクノロジーの進化により作品が蘇りました。
レビューは、映画評論家川口敦子、川口哲生、川野正雄の3名です。

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川口哲生

アレサ・フランクリンの1972年1月13日及び14日、ロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブを収録したドキュメンタリー映画。
アレサは1967年にキャロル・キングの「ナチュラル・ウーマン」1968年にバート・バカラックの「セイ・ア・リトル・プレイヤー」でヒットを放っているけれど、これらもアレサ流に十分ソウルフルではあるけれど、やはり白人層にも受ける、ラジオでもオンエアされる選曲だったのではないだろうか?それに対して、この映画が捉えている音楽はまさにsounds of blacknessという感がする。コール&レスポンスと後乗りの独特のハンドクラッピング、同年リリースのダニー・ハサウェイのライブアルバムでも感じた観客との一体感やサクラなのと思うぐらいの合いの手のかっこよさ。これは彼女が映画にも登場する宣教師の父の元、子供の頃から馴染んできたゴスペル、自分たちの魂の音楽を誰にも遠慮せずに歌う姿だと感じる。
クアイヤ・スタイルのゴスペルを確立したジェームス・クリーブランドのしゃべりや演奏、毛皮やスーツで熱い中でも登場するあの感じ、宣教師の父親のスピーチの独特の抑揚と間、ワッツ・タックスのコンサート映画でも観る今のブラックスタイルとは違うあの頃のキメキメなブラックスタイル、そしてダンス。全てがblack peopleによるblack peopleのための場だ。
それをアポロシアターでジェームス・ブラウン観ていたように、観に来ているミック・ジャガーには脱帽。監督は何故に、シドニー・ポラックなのか?
チャック・レイニーとバーナード・パーディのフンキーリズム隊も渋い。1日目はキャッチーな馴染みのある選曲、2日目はよりディープなゴスペル。どちらも若いアレサ・フランクリンのエネルギーが満ちていて必見!

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川野 正雄
ライブ・ドキュメンタリー映画は世の中に数多くある。
好きなアーチストのライブには気持ちが高揚し、知らないアーチストを体験し、発見の喜びを感じる事もある。
同日に公開されたデヴィッド・バーンのライブ・ドキュメンタリー映画『アメリカン・ユートピア』も、感動的な作品である。
監督はスパイク・リー。ここでの感動は、表現者としてのデヴィッド・バーンの完成度の高さであり、そのメッセージに込められた意味合いに起因するものである。
映画の中で観客の存在感は薄い。それは際立っているステージパフォーマンスに、観客の視線を集中させる為なのかもしれない。
『アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン』から得られる感動は違う種類である。これまであまり感じたことのない強い共感性である。
演者と観客と会場が一体化することによって、大きなバイブスが生まれ、それが観る者の心を揺さぶる共感性に昇華しているのである。
アレサ・フランクリンを知らなくても、70年代のブラックミュージックを知らなくても、この映画のバイブスは、誰もが感じる筈だ。

僕自身は、もちろんアレサの事は知っているが、アルバムを多く持っているわけではない。
ライブ映像を見るのも、今回が初めてであり、このライブを収録したライブアルバムも聴いてはいなかった。
アレサファンというよりも、彼女が活躍した時代、60〜70年代のブラックミュージックファンであり、彼女の所属していたアトランティック・レコードのファンである。
とはいえ、『Think』『Chain of fools』『Respect』など好きな曲は多く、いずれも1960年代にリリースされており、一番好きな『Rock Steady』は、このライブの前年1971年にリリースされている。
アレサ・フランクリン正に全盛期の、教会という小箱のライブである。
監督はシドニー・ポラック。
シドニー・ポラックは、同じ時期に代表作『追憶』を撮っている。
改めて『追憶』を見直したが、完璧な演出のラブストーリーで、ここにも観客の心を揺さぶるバイブスが流れていた。
白人の人気シンガー、バーブラ・ストライサンドを、シドニー・ポラックは見事に使いこなしている。
全盛期同士のカップリング、最強のはずであった。
ワーナーが撮影するというアナウンスが流れるが、音声と映像のシンクロを失敗してしまう。
ライブ盤はコンプリートな物もリリースされているので、アフレコ的に作業を重ねれば当時の技術でも何とかなったように思うが、作品は長年オクラ入りであった。
アレサ自身は完成を望まなかったという話もあるが、現代のテクノロジーで、幻の作品は蘇った。

オープニングに登場したアレサの表情は、緊張しているようだった。
そして1曲目のパフォーマンスは今ひとつしっくりいないように見えた。
いつもと違う教会でのライブ。
しかし2曲目からアクセルが高回転になっていく。
教会でも構わず、どんどんグルーヴも増していく。
そしてアレサの汗もどんどん増えていく。
狭い教会での観客との一体感がすごい。
この時代のソウルミュージックのライブは、こんなにもエモーショナルなのか。
観客のダンスも、バッチリキメたスタイルも、完璧だ。
客席にはミック・ジャガーとチャーリー・ワッツの姿も。
1972年ローリング・ストーンズは、『メインストリートのならず者』をリリースし、ツアーを敢行。更にジャマイカに渡り、『山羊の頭のスープ』のレコーディングに入る。
そんな多忙な1年の初頭に、ミック達はこの場を訪れているのだ。
途中アレサの父親も登場し、このライブの意味合いを誰もが共有する。
益々パワーアップするアレサのパフォーマンス。
狭い教会の中で、アレサの歌は、天使にも神にも聴こえてくる。
アレサの歌に涙ぐむサポートメンバー達。
思い思いの態度で、エモーショナルに感情を表現するメンバー達。
今の時代では体験できない素晴らしい瞬間である。
音楽って素晴らしい。
改めて感じた。
ライブがなかなか体験できない今の時期、ライブの素晴らしさを改めて痛感した。

2018©Amazing Grace Movie LLC

★川口敦子

「この映画を見ることはスピリチュアルな、宗教的な体験だ」(nonfiction.com12/8/2018)――1972年に撮影されてから2018年、オスカーレースをにらんでのNY限定公開、そして翌年4月の米一般公開までほぼ半世紀近くもお蔵入りとなっていた『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』、その内輪向けの試写でホストを務めたスパイク・リーの発言にまさに! と、映画を見ながら味わった興奮を重ねていた。同時にリーが監督作『アメリカン・ユートピア』のコーダとしてデトロイトの高校の聖歌隊の面々の喜々とした歌声をフィーチャーしていたことも思い出され、ゴスペル(福音)のルーツに立ち戻ったアレサ・フランクリンの教会でのコンサートに満ちていく高揚感との共振を改めて嚙みしめてみたくもなった。嚙みしめながらこの圧倒的な快作が日の目をみずに葬られかけたこと、なぜ、どうして? と、その経緯と背景への興味もむくむくと頭をもたげてきたのだった。

まずは時代のこと。72年1月に2晩にわたって行われたコンサート、その会場となったニューテンプル・ミッショナリー・バプティスト教会がLAのワッツ地区にあったという点にはやはり注目してみたい。なにしろそこは65年、白人ハイウェイ・パトロールが黒人青年とその親族を不当に乱暴に扱い逮捕して勃発した一週間に及ぶ暴動の舞台に他ならず、それを端緒として差別に対する火の手が全米に広がることにもなった、要は公民権運動の熱い盛り上がりをリマインドさせずにはいない場所なのだから。暴動の記憶がまだまだ生々しく燻っていたはずの72年、その時空を思ってみるとフランクリンの、聖歌隊の、熱唱に息づく祈りの心が空気を染め上げていく様にいっそう胸打たれる。
いっぽうで、そんな霊的、宗教的イベントにも音楽、映画業界それぞれのコマーシャルな欲望が食い込んでもいたこと、それもまたいつの時代にも共通する苦い現実として見逃すわけにはいかない。ソウルの女王フランクリン絶頂期のコンサートをライブアルバムにするいっぽうで『モンタレー・ポップ』『ウッドストック』と往時、大ヒットを飛ばし、文化的現象ともなっていたコンサートの記録映画、そのアレサ・フランクリン版でまたヒットを、との思惑がハリウッドに渦巻いていたのもまた事実だろう。

フランクリンが移籍していたアトランティック・レーベルを傘下に収めたワーナーの重役テッド・アシュリーが製作を務め、ピンク・フロイドのドキュメンタリーを手掛けたジョー・ボイドが実作面の協力者として名を連ねて始動したフランクリンの映画プロジェクト、その監督として当初、ボイドは二本立上映を予定していた『スーパーフライ』(こちらも当時のトレンドのひとつだったブラック旋風映画の代表格)の撮影監督ジェームズ・シニョレッリ(「サタデー・ナイト・ライブ」に参画、ときくとベル―シ+エイクロイドの『ブルース・ブラザース』のこと、そこにフランクリンも登場していたなあなどとつい、脱線したくなるのだが)に白羽の矢を立てていたという。ところがボス、アシュリーは『ひとりぼっちの青春』でオスカー候補となり、レッドフォード主演の『大いなる勇者』を次回作に控える注目の監督シドニー・ポラックの起用を決めてしまう。『追憶』『コンドル』と続くレッドフォードとのコンビ作、あるいは『ボビー・ディアフィールド』と、ポラック監督作の面白さは今、もっと見直されてもいいと常々思っているのだが、72年の時点でその”話題の人″ぶりに目を奪われたスタジオの製作の判断は些か問題だったかもしれない。
ドキュメンタリーの経験のないポラックの下、集められた4,5人の撮影スタッフは16ミリフィルムを思う存分回し続け、臨場感あふれる映像を掬い取った。が、ロールごとに音声とのシンクロのためのカチンコの目印を入れるのを怠るという致命的ミスを冒してしまった。それでも時間が十分にあれば手作業でシンクロ作業を続けることも不可能ではないはずと、知人の記録映画制作会社元スタッフは語ってくれもしたのだが、それをするより『大いなる勇者』のお披露目上映のためカンヌに行くことをとったポラックにはその後も新作が続き、ボイドとの連絡が途絶え、フランクリンのコンサートを収めたフッテージはスタジオの倉庫で眠り続けることになったのだった。ポラックを責めるつもりはないけれど、俳優修業から監督に進出した彼にはドラマへの興味、その分野の演出力はあっても『ウッドストック』で製作助手のみならず編集も務めたスコセッシの場合のように音楽、そしてコンサート・フィルムに対する意欲や技術を存分に持ち合わせてはいなかった、といった事情もなくはなかったかもしれない。

その後の紆余曲折をかいつまむと、アトランティックでフランクリンのプロデューサーを務めたジェリー・ウェクスラー、彼の下で働いていた青年アラン・エリオットが90年前後、お蔵入りとなった映画のことを聞いて以来、発掘、復活に向け繰り返し私財を抵当に入れての努力を続けた結果、『アメイジング・グレイス』の感動が世界に解き放たれることになる。
その途中で他ならぬフランクリン自身による上映阻止の訴訟が一度ならず起こされもした。それは映画界でもスターにというソウルの女王の夢を打ち砕くことになった撮影後の顛末にフランクリンが深く傷つき怒ったからだろうと、エリオットはコメントしている。いっぽうでがんで逝去する間際、ポラックとコンタクトを取ったエリオットは彼が映画の完成に心を砕き、スタジオと交渉もしてくれた、共に完成に向けてアイディアを練り、女王と聖歌隊をあのワッツ地区の教会に再び招いて映画のエンディングにするといった案も飛び出していたのだと明かしている。極言すれば一度はキャリアのために完成を待たず放り出したプロジェクトへの後悔か、罪の意識か、監督ポラックのクレジットを同作から取り去るようにと逝去後、家族を通じてエリオットに要請されたという。また一時はドキュメンタリー『ブロックパーティ』(スタンダップ・コメディアン デイブ・シャペル発案のブルックリンでのライブ・イベントを記録)の腕を買われた監督ミシェル・ゴンドリーが協力、スケジュールの都合で離れた彼の推薦で編集のジェフ・ブキャナンが完成をめざしての作業で尽力したともエリオットは述懐している。

大急ぎで振り返ってみると映画の復活に向けてのドラマで新たな映画ができそうだが、そんな背景を知るにつけ歳月を経て届けられた映画、銀幕に刻まれたフランクリンの熱唱にいっそう深く神の恩寵とも呼びたいようなものを感じたくもなってしまう。

撮影:シドニー・ポラック『愛と哀しみの果て』 映画化プロデューサー:アラン・エリオット
出演:アレサ・フランクリン、ジェームズ・クリーブランド、コーネル・デュプリー(ギター)、チャック・レイニー(ベース)、ケニー・ルーパー(オルガン)、パンチョ・モラレス(パーカッション)、バーナード・パーディー(ドラム)、アレキサンダー・ハミルトン(聖歌隊指揮)他
原題:Amazing Grace/2018/アメリカ/英語/カラー/90分/字幕翻訳:風間綾平 /
2018©Amazing Grace Movie LLC 配給:ギャガ GAGA★ 公式サイト
5月28日より、全国順次公開中です。